森 まゆみ 著 『子規の音』

森 まゆみ 著 『子規の音』 _d0331556_18195870.jpg 久しぶりに森さん本を読む。森さんが住んでいる谷根千に多くの文豪たちが暮らした。その中で森さんはこれまで森鴎外(『鴎外の坂』)、夏目漱石(『千駄木の漱石』)について書いてきた。そして今回正岡子規となる。
 「はじめに」次のようにある。


 私はこれまでも、自分の生まれ育った、谷中、根津、千駄木、本郷、上野、その土地にまつわる明治の文豪ついて書いてきた。最後に子規を書きたいと思ったのは、この人に一番、親愛と共感が深いからである。自分に似た人のようにも感じている。


 あとがきにも次のようにある。


 本書では子規を、暮らしの中で等身大で感じることを心がけた。また私のよく知っている土地、根岸、上野、谷中、根津、本郷、神田、王子、三ノ輪など風景と日常の中で生まれた句や歌を楽しむことにした。


 確かに鴎外や漱石は真面目すぎる。その点子規は人間的に面白味がある。
 私は俳句のことはよくわからないので、正直なところ敬遠していた。あの短い語数に多くの、そして深い意味あいがうまく読み取れない。それにどこでどう区切って読めばいいのかわからないときがある。声に出して読んでみて初めて、なるほど、とやっとわかる。
 今回森さんはこの本で子規の詩歌、句をわかりやすくしてくれているので、その感じ、言いたいことなどがわかって有難かった。そして森さんがあげる子規の句には滑稽と諧謔味があるのもよくわかった。そのため俳句は堅苦しいものと思っていたものが、こんな風に面白味のあるものなんだ、ということが初めてわかった次第である。
 子規はご存じの通り結核から脊椎カリエスとなり、晩年は寝たきりであった。私の中で、『病牀六尺』にあるように「病牀六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には広すぎる。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、布団の外へ迄足を延ばして体をくつろぐ事もできない」とあり、根岸の自宅の家、庭が子規の世界であった。だからそこから見えるものを俳句として詠んだ。そのイメージが強い。もちろん元気な時は旅もし、病気であっても関心はあちこちに持っていて、病を押して出かけてもいる。
 いずれにしても見たものを、句として詠んでいたと思っていたが、この本を読んで、子規はよく「音」聞いていた。子規が見るものは限りがあるため、聞こえてくる「音」から想像をふくらませ句を詠んでいた。それは町の音であったり、近所の人の声であった。寝付けない夜など、電車の音など聞こえてきてそれを聞いていた。そして最後には枕元の時計の音だけになった。

 そして子規はその性格から多くの友人、弟子を持っていた。その交友も興味深い。それも含め、気になった文章を書き出してみる。


 明治二十一年(1888)年正月、子規は第一高等中学校の予科生で神田の寄宿舎にいた。学校秀才ではない。子規のように夢中になったらずっと一つのことをしていたい人間に、数学、英語、国語、地理、物理と一時間ごとに変わる授業は酷である。嫌な学科の勉強も試験も苦痛だ。夏目漱石には、授業や試験と自分したいこととの折り合いをつける能力があった。子規と同じく、宇宙の造理から道を渡る蟻まで、考えだすと熱中する南方熊楠もまた、学校システムにはなじめずに退学している。


 漱石自身、出世や地位と本来の生き方の狭間で悩んだ人であった。小市民的社会を抜け出そうともがいて抜け出せなかった。その逡巡が、なかなか公務員や会社員をやめたくてもやめられない読者を引きつけるのだろうが、それだけに彼の小説はどんどん暗くなっていく。初期の俗世間を笑い飛ばす『吾輩は猫である』や「ヤメテヤル」小説『坊ちゃん』はあれほど痛快なのにどうしたことだろう。家産を食いつぶしながら仕事をしない高等遊民を多く描いたが、ゆるやかな倦怠感が漂い、爽やかとは言いがたい。


 行春や鶯下手に鳴きさがり

 春告鳥と言われる鶯は春の一時期ホーホケキョと鳴くが、その繁殖期を過ぎると、チャッチャッチャという地鳴きに変わることを言ったものだろうか。



 鶯が繁殖期を過ぎると鳴き声が変わることは知らなかった。そういえば毎年我が家の近くで聞こえる鶯の鳴き声が今年は聞かなかった。


 故吉村昭さんに「子規のいた根岸は僕の生まれた町日暮里にすぐ近いから、子規を書かないかという話は来たことがあるけど、調べてみてやめました。あまりにも妹に対してひどいんでね」とうかがったことがある。


 子規は妹律には厳しかった。森さんは次のように書いている。


 (子規は)漱石への手紙では律のことを「癇癪持ちの冷淡なやつ」と書いている。「僕の死後人にいやがられるだろうと思うと、涙」とも。あれほど世話をしてこんないわれようでは律もたまらない。彼女は兄の文学や内面世界には入り込まず淡々と世話をしたのであろうし、だからこそ長い介護が可能になったのだ。


森 まゆみ 著 『子規の音』 _d0331556_18202051.gif この本にある写真を見ると、元大関の若島津と結婚した高田みづえ似である。でも吉村さんの子規を読みたかった。


 銅像に集まる人や花の山

 これは明治三十一(1898)年に薩摩人吉井友実(歌人吉井勇の祖父)らの肝煎りで建立された西郷隆盛の銅像の人気で、いつもより上野の桜見物が増えただろう。香取秀真から鋳造の技法を聞いた子規は大きな銅像の完成に興味をもった。原型は高村光雲(光太郎の父)、犬は後藤貞行、鋳造は岡崎雪声だった。
 軍服姿でなく、犬を連れてうさぎ狩りをする姿になったのは、逆賊という汚名は返上されたものの、官位を示す正装はさせられなかったという事情がある。除幕式の当日、妻糸子が不満を漏らしたというのは、顔は似ていないという説や、正装していないことへの落胆があるといわれる。逆に、上野彰義隊を攻めた総大将の銅像が上野の山に建つことに、旧幕側の不満もあったろうと思われる。



 西郷の妻が出来た銅像に不満を持っていたことは他の本で読んで知っていた。


 根岸に住む画家浅井忠がいよいよパリに留学というので、陸羯南、内藤鳴雪、中村不折、五百木飄亭などが送別会に子規の家に集まった。浅井は子規より一回り年上で、フォンタネージに師事した旧派(脂派)と呼ばれる西洋画家であるが、そのころは根岸にいて、東京美術学校の教授であった。安井曾太郎や梅原龍三郎の師でもあるが、子規にも西洋画の手ほどきをしている。


 この文章を引いたのは、フォンタネージという名前である。山下りんが学んだ西洋画の師もフォンタネージであったはずだ。


 (明治35年9月19日)夜中、うなっていた子規が静かになったので、母八重が手を取ると冷たい。「のぼさん、のぼさん」と呼ぶ。事切れていた。八重は涙を落としながら、「サァ、もう一遍痛いというてお見」という。発語せず、動かなくなった息子に。律は裸足で陸邸に駆けて行き、医師に電話を入れる。虚子は鼠骨と碧梧桐を迎えに行く。月がこうこうと輝いていた。友人弟子ら、葬儀と墓所の準備にかかる。


 「日本」新聞の同僚古島一雄は、「骨盤は減ってほとんどなくなっている。脊髄はグチャグチャに壊れて居る、ソシテ片っ方の肺は無くなり、片っ方は七分通り腐っている。八年間ももったということは実に不思議だ実に豪傑だね」と言った。


森 まゆみ 著 『子規の音』 新潮社(2017/04発売)

by office_kmoto | 2017-09-27 18:25 | Comments(0)

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