岡崎 柾男 著 『洲崎遊廓物語 (新装版)』

d0331556_06250462.png 昭和31年まであった遊郭に興味があって、数冊その頃の遊郭の話を読んできた。興味があるのはそこのある生臭い人間の匂いとでも言おうか、したたかに生きる男と女が垣間見られるからである。いずれ、これまで読んできたかつての玉の井、鳩の街、そして今回読んでみた洲崎を歩いて見たいな、とも思っている。私が見たいのはかつてあったその片鱗を、残っているなら見てみたい、と思っているのである。その点吉原は今も現役であり、それほど興味はない。
 洲崎は根津遊郭から移ってきた。移ってきた理由は森まゆみさんの本で知った。


 明治十七年に根津遊郭が営業停止の通達が出る。理由は、


 頭ごなしやめろと命令した理由は、廓から見あげる位置に、各地に分散していた東京帝国大学が統合移転するに加えて、第一高等学校も来ることが決定したため、風教上好ましくないと結論が出たことによっている。
 なんのことはない、学生たちの勉強している目の下で、女郎屋の嬌声がしては困るので、どっかへ行けというわけである。そういうご本尊の役人たちが、まっ先かけて女郎買いにうつつをぬかしていたのだから、世話はない。
 遊郭への社会の風あたりはだんだん厳しくなり、行政も歩調を合わせ、翌年三月九日より、遊郭が遊興を勧める目的の広告を出すことも全面的に禁止してしまった。が、根津遊郭の業者たちに対しては、ちゃアんと代替地が与えられた。
 東京府の二ヶ年継続事業として、石川島の監獄の囚人たちを使役して、深川入舟町先の海岸の埋立て工事を十九年六月に取りかかり、二十年五月には大方の完成をみたが、総坪数七万坪(『深川区史』)と称される。ここに移転先に決まった。


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 これが洲崎遊郭となる。ちなみに石川島の監獄はあの鬼平犯科帳の長谷川平蔵が提言して作られた石川島の人足寄場で、明治になって石川島監獄署(所?)となり、のちに巣鴨監獄へとつながっていく。
 森まゆみさんの本では、日本の将来を担う学生が根津遊郭に通っちゃうのはまずいからという理由だと聞いたが、通った奴もいたんだろうし、眼下でうんつくうんつくやっている声が聞こえてきたんじゃ、そりゃあまずいわなあ。面白いのは根津の移転を進めた役人もここに通っていたことがこの文章で知ることが出来る。
 ちなみにここに移ってきたのは、


 根津より移転して当座の妓楼は、八十三軒(百三軒ともいう)。引手茶屋が四十五軒で、盛装した総計九百七十四人の娼妓が、あでやかに見世を張った。飲食店も二十九戸進出し、雑業というのが二十三戸、合計二百三戸であった。


 俗に“吉原大名・洲崎半纏”なる言葉がある。吉原はやはりそれなりにしきたりやお金がかかる遊郭である。それに対して洲崎は職人が客として多かった。


 洲崎では、職人姿が幅をきかせた。かつて洲崎遊郭で遊んだという老人たちに聞くと、口を揃えたように職人の恰好をしていないと場違いな感じがした時期もあった、という。
 「職人が手間をまとめて手にするには、一日と十五日で、この日は、夕方早々と界隈の食堂は、どこを覗いても満員でしたね」と、きわも語っている。
 洲崎の廓の名物のようなのは、もう一つ木場の川並の、いなせな恰好だった。


 戦前までは、原木を扱う材木問屋は、大きな貯木場を近くに持っており、そこへ客を案内するための四、五人乗りの小舟を店の裏に繋いでいた。夕方、仲のいい隣の店の番頭と表で目が合った。
 「おう、涼みィ行こうじゃねえかッ」(既に廓をぶらつくという意味を含んでいる)
 「いいねえ、普通じゃつまンない、うちの舟で、行きましょうやッ」
 「よし来た、棒(棹)持って来い、ばんこ(交代)で漕いでこうや」
 「おい来た!」
 こんな調子で大和橋から、いくつも橋をくぐり、沢梅橋下から洲崎神社を右に見て、弁天橋を過ぎ、西須崎橋下を漕いで海っ側へ出て、岸壁に着ける。
 『ふっふっふ……この途中がたまンないですよ、西須崎橋のちっと手前っから岸壁に行くまでの間がね。左側は、ずらアっお女郎屋が建ってる。河ンとこまで、いっぱいに建ってんですが、どこも裏だから、台所とかね、風呂場ンなってる。うふっ……ちょっとね、まだ遊ぶめ前の、夕方近くンなると、みィんな、ね、あんた、湯にはいる恰好(なり)してたり、裸ンになって化粧したり、ね、してんですよ。ハハハハ……こっちゃこいつがお目当だ。ね、“おゥい”なんて声かけっと、“あらァ、今晩いらっしゃいよう”だ。“ああ、登楼(あがる)よう”なァんて返事しちゃたりね、アッハッハァ、面白かったなあ。河岸っぷちは、ケコロですよ、きどってないんです。そうやって一廻りして帰ってくンですよ』


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 ちなみにケコロとは、


 大見世とは対照的に、大門をまっ直ぐ突き当たった堤防沿いの見世は「けころ」と呼ばれ、最下層の扱いを受けていた。これ、蹴っ転がすの略。つまり、どうしようもない不器量の女とか、顔の皺が目立つ大年増などの溜まり場であった。
 ときには、地方の遊里で心中未遂を引き起こした、生き残りも流れ着いていたそうだ。


 だからだろうか、洲崎は吉原と比べて、華やかさとかきらびやかさはなかったようだ。野口冨士男は作品で次のように書いている。


 『洲崎中でも最大の娼家ではなかったかと思われる、とてつもなく宏壮な妓楼は山間の寺院のようにしいんとしずまりかえっていて、薄暗い電燈の光をにぶく吸っている藤のうすべりを敷いた一間幅の廊下を遣手婆さんにどこまでも案内されていっても、人間の気配はまったく感じられなかった。そして敵娼がくるまで床に入って天井をみあげていると、遠浅の海に寄せては返しているらしいかすかな波音が低くきこえてきて、わずかに泥臭のまじった潮の香がした』


 また木村荘八は、


 『通りの真中に打渡したコンクリートの道幅が大層広くその両側の、娼家の造りをした家並みが、また大層低く比較的暗い、そのくせ惻々として町全体に物憂いやうな、打っちゃりはなしたやうな、無言のエロティシズムが充満してゐる。それが吉原や新宿あたりのやうにぱっとしたものではないだけ――一層空も暗くどんよりとした日の、この町にはそれは誂へ向きのバックだらう――』

『何しろこの遊郭の印象は何処も彼もヘンに森閑として薄暗く陰気でゐて、そのくせぬるい湯がわくやうに、町のシンは沸々と色めいてゐる。――ちょっと東京市内では他に似た感じの求めにくいものである。ぼくの乏しい連想でこれに似た感じのところは、京都の島原。それから強いていへば阿波の徳島の遊郭、三浦三崎の遊郭。さういうものに似てゐる。市街地からエロティシズムだけが隔離して場末の箱に入れた感じだ。色気が八方ふさがりの一画に封じ込まれた為の、町が内訌してゐる塩梅だらう』


 と書いてる。どうやら洲崎は海に近いための寂寥感が町全体に漂い、他の遊郭とはちょっと違う雰囲気のところだったようだ。
 本は、かつてここで働いていた人を訪ね、当時のことを聞いて、そこに歴史的背景を書き加えている。遊女から遣手婆にそして遊郭経営者となった女性の話。ちなみに遣手婆とはもともと遊郭で遊女の指導・手配などをする女性のことで、「いい娘いるわよ」と呼び込みをしている中年女がこれにあたる。


 「おばさんになれる、なれないは、ガンキが使えるか使えないかなのよ。これをね、花魁の、おまんちょの中へいれて、内がどうなってっか分かって始末できなきゃ、役目果たせないのよ」
 娼妓たちの“商売道具”である股間を、おばさんは毎朝、客がいなくなた後、念入りに調べる。これはちょっと揚げた客(性病が)怪しいなと思った時にも行なうが、娼妓に着物をまくらせ、股をいっぱい広げさせてから、膣の中に産婦人科の医師がやるように、まるでアヒルの嘴に似た形をしているガンキという器具を差し込む。
 「出来物はないか、あそこの色合いは変じゃないかって見てね、悪いものがあると、ガリガリガリ洗うのよ。白帯下取ってやったりね。しぼるんだよ」
 ガンキは、週に一度、廓内にある警視庁洲崎病院の性病検査に出かける前にも使った。


 ガンキは病院以外使うなというお達しがあり、使っていたことがばれると取り上げられ、楼の主人が呼び出され、叱られた。
 病院の医師の検査もかなりいい加減であったらしく、煮沸されていない器具を使い回したり、扱いも乱暴であったという。言いたいことを言う医師もいて「おお、ずいぶん稼いだなあ」とぬかす医師もいたらしい。
 洲崎病院では、廓内の娼妓(公娼)のほか警察の取締りの網にかかった私娼の検査も行なった。私娼たちにはかなりひどい状態の女たちがいたが、だからといって公娼の女は安全かといえば、そうでもなく、検査を誤魔化すために、女たちに様々な細工をしていた。検査に引っかかれば彼女たちは商売が出来ないため、売上にも影響するからである。
 娼妓が入院までいかなくても、過労などで自宅療養扱いで接客出来ないのを「床養生」というが、そんなとき馴染み客が来ても、一つ蒲団に寝るものの肉体関係は結ばなかった。中にはこれを粋としたらしいが、遣手婆はそんな男をコケにする。


 「バカだよ、やせ我慢して、チンポコおっ立っちゃてさ、ただ寝でンだよ。昔は手で(欲望の)始末してやるってこともしなかったしね。それでも金は取られるんだよ」


 でもこういう時に娼妓に好きな食べ物など送って点数を稼ぐしたたかな男もいた。


 馴れない妓には、おばさんが性技のテクニックを伝授することがあるが、性病と避妊の予防の仕方だけは、堅気からはいった妓にはかならず教えておく。その方法は、男が射精したら、さとられぬように腰をひねって下半身を下向きにさせ、同時に股を開いて膣の中の物を押し出すように息む。そうすれば精液が流れでるから安心だという原始的なものであった。


 こんなことで避妊が完全にできるとは誰も信じていない。だから一刻も早く階下にある洗浄場へ急ぎたいのだが、すぐ客の元を離れてはつまらないだろうと気立てのやさしい女は妊娠する。

 ここにも戦争が影を落とす。兵士が一夜の夢を買いに出かけてきた。日中戦争が泥沼化していくなか、


 兵隊の姿が目立つのは日曜日である。所属する中隊に外出許可をもらい「登楼届」というのを出し、勇んで廓へやって来る。
 「兵隊、衛生サック持って来ンです。突撃一番っていう、先っちょに乳首のない奴。ほいで、にっこにっこして来ンですわ」
 スキン製造メーカー岡本理研ゴム(株)取締役・穴倉富士雄著『突撃一番(スキンの歴史)』(未来工房)によると、太平洋戦争に先立つ昭和十三年、スキンメーカーは軍需工場の指定を受け、兵隊用スキン増産にせっせと励んだ。陸軍用を「突撃一番」、海軍用を「鉄カブト」と称したが、スキンの特長は「先端に性液だまりのない、私たち言う“ボウズ”というやつだったはず」だそうな。その前は、現在、多数派に愛用されている、こけし型と似ている性液だまりのあるタイプだった。
 “ボウズ”が造られた理由は、穴倉の調べによれば、中国大陸へ侵攻した日本軍の若い兵士の間に猛烈な勢いで梅毒が広がり、これに驚いた軍部が、戦地に軍医を派遣して調べたところ、スキンの使い方に問題があったので、あわててメーカーに改良を命じた。
 二十歳で徴兵された若い兵士には、童貞が多く、またスキンの使用方法もろくに教えられていなかったので、性液だまりを余して男性自身に装着することを知らなかった。それで先端までぴったりと押し込んだために、激しい性交中にスキンが破れ、病気をもっていた娼妓から感染させられてしまったというわけである。以後、軍の上層部の命令で、軍隊に納入するスキンは、ボウズ・タイプと決められた。


 「日曜日は兵隊さんだけで、一般人は登楼できないよ」と言う状態で、日中戦争が起こってからは遊郭までも軍隊が“買い占め”た、暗い日曜日だった、という。それにしても“突撃一番”とはすごい名だ。


岡崎 柾男 著 『洲崎遊廓物語 (新装版)』 青蛙房(2013/10発売) 青蛙選書


by office_kmoto | 2017-11-22 07:29 | 本を思う | Comments(0)

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