吉行 淳之介 著 『原色の街・驟雨 』(改版)

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 娼婦がいる町には物語がある。玉の井には永井荷風の『墨東綺譚』、洲崎には芝木好子の『洲崎パラダイス』、そして鳩の街にはこの吉行淳之介の「原色の街」である。

 この本は「原色の街」「驟雨」「薔薇販売人」「夏の休暇」「漂う部屋」の五篇の短篇が収録されている。そしてここではやはり「原色の街」と「驟雨」を取り上げる。「原色の街」では、女と男が変わっていく街がそこにあった。

 「空襲でみんななくなってしまったの。血縁の人も家も、何もかも。(略)それからは、タイピストもした。女中もした。堅気で食べられると思う仕事は何でもしたわ。だけど、その度ごとに男がからまってくるの。わたし、全部撥ねつけたのよ。これも、ほんとよ。ちょっとした思い出もあったし、それに、きっと気に入った人がいなかったからでしょうね。だけど、私の方で何でもなくても、いい加減の噂が立ったりなんかして結局その場に勤めていられないようになってしまうものだわ」

 「わたしはだんだん疲れて来た。女ひとりで暮らしてゆくことって、容易なことじゃないわ。すっかり疲れてしまったので、キャバレーの女になったのかしら。ほかに食べて行く方法を思いつかなかったし、それにキャバレーの女だって、ちゃんとした職業でしょう。だけど、とうとう我慢できなくなってしまったの。男たちの眼つきが。……この女は、金でなんとかなるかな、いくら位でついて来るかしら、それともタダでうまく浮気できるかな、という、あの舐めまわすような、疑いぶかい湿った眼。わたしの一番嫌いな黄色く光る眼。わたしはその眼にがんじがらめにさらされてしまった。どこに居ても、どこを歩いていても、その眼がチリチリ皮膚に焼きつくのを感じていた。最後に、ひどく疲れた鈍くなっている神経の、底の方でいらいら湧き立っている部分で、決心してしまった。……いつも、そんな眼で見られるくらいなら、いっそ、はっきり、お金で女の買える仕組みになっている街へ入ってしまおう……」

 「それに、わたし、あのこと好きじゃない。快感なんて覚えない」

 「だから、今日までそのままこの街にいて、脱け出さないでいることが出来ているのかもしれない」

 とあけみは自分自身ことを元木英夫に話した。
 気がつくと元木の手があけみに滑り込んでいた。元木のあの眼が見えて、あけみに憎悪を感じたが、憎しみはからだのすべての組織を充血させていった。甘美な波があけみのからだに広がり、いつの間にかあけみは燃え上がっていた。そのとき元木は、

 「僕は、もう寝るよ。おやすみ」

 あけみは置き去りにされた。

 「ひ・ど・い・人」

 あけみの軀はだんだん外側に開いてゆく。すっかり、潤ってしまう。
 あけみは、彼女裏切った軀を、きわめて事務的に処理しようとして、ゆるやかにやがて烈しく身を悶えた。

 この時明美のからだのなかに壊れたものがあった。そして新しく生まれたものもあった。元木が帰ったあと、あけみが男を招き入れたとき、それまで快感など覚えたこともなかった自分のからだが激しく反応したのであった。

 この感覚を惹き起すための、肉体の準備はすでにあけみのうちに整っていた。精神よりその発育がやや遅れていた彼女の軀は、皮肉にも、この街での日々のうちに次第に実っていっていた。そのことに彼女は気付いていない。気付くまいとする気持も、無意識のうちに働いていた。
 彼女に気付かせるためには、ただ、ちょっとしたきっかけが必要だったのである。ある種の化合物の飽和点に達している水溶液に、一片の結晶を投げ込むと、たちまち溶液の中に鋭い針状の結晶があらわれはじめ、やがて溶液全体が結晶に変じてしまう、あの化学現象のように。
 ちょっとしたきっかけとして一片の結晶、それに必要なのは水溶液と同質のものであることだけだ。その一片の結晶の役目をしたのが、計らずも元木英夫だったわけである。

 粘りつく、湿潤な男たちの眼から逃れることばかり考えていたときのあけみは、娼婦の街は乾燥した地帯として映ってきたのだった。しかし、いまのあけみにとって、この街は一層湿潤な場所になってしまったのだ。

 あけみは、こう考える。自分は、男の傍らで快楽に喘ぐ場合も、自分の内側に湧き上がるものを相手に向ってそそごうとはしない。両腕を自分の背後で綯い合せながら、自分一人で快楽のうちに溺れてゆこうとしている。このとき、男は単に軀に刺激を与えるために作られた、精巧な道具に過ぎないではないか。自分は、心を空白にして、暗い海の底でただ触手をひらひらさせているだけなのだ。
 そのように考えることによって、あけみは身のまわりを取囲まれてしまった湿潤さから気持を救おうとしているのだ。またそのことは、この街の外の場所にもこの街にも棲み難くなった彼女が、無意識のうちに、この街で生きつづけて行ける感覚を処理し適合させてゆく方向に進みかけていることを示している。それは、こういう場合、死の方向を選ばなかった以上、人間にとって自然に自己保存の本能的なものとして働く。

 あけみは、男たちの下で痙攣しかすかな声を洩らしはじめて以来、自分の顔つきが徐々に変りはじめて、いまではもうはっきりと「娼婦の顔」になってしまったのではないか、という不安に捉われる。

 元木はあれ以来一度もこの街に姿を現さなかった。あけみは元木の友人に一度来てくれと言うのであった。
 あけみの意識の変化は男を求める自らのからだの変化から波及していた。その意識の変化は嫌悪していたあの絡みつく男の視線も受けいれように変化していた。
 同じ娼婦の蘭子は男と自分たちのからみの写真を撮るためにシャッターを押してくれとあけみに頼む。あけみも写真に撮られないかと誘われたその時はが断る。そしてその写真が客たちに出回っていた。

 あけみは、もうその写真を見ていたのではなかった。その写真にそそがれた男たちの眼、陰湿に光る沢山の眼を見ていたのだ。その沢山な眼は、あけみを追いつめ、この街に追い込んだ眼なのだ。さらに、そんな眼によってこの街に追い込まれてしまったということ、そんな特殊な動機によって動かされる女であったということに、いまあけみはこの街の中で復讐を受けているのだ。

 もう一度蘭子からあの写真を撮ってくれと頼まれ、シャッターを押す内に、

 「わたしも写して頂戴」
 と言いながら、のろのろした動作でワンピースのホックに指をのばしていった。
 あけみは、自分の写真が無数に外の世界へ撒き散らされてゆく光景を思いうかべ、その絵姿がひらひらと舞っている空間に身をすすめて行くことに、ひりひりと皮膚を刺す感触を覚えていた。

 新しい貨物船の進水式のレセプションにあけみのいる娼家の女たちが招かれた。そこには元木英夫もいる。あけみは、

 自分の立っている地点から一瞬の間に消失してしまいたい、という気持が烈しくあけみを捉えた。どういう動作をしようというはっきりした意識はなかったが、彼女の軀は一つの塊となって、正面から元木英夫にぶつかって行った。あけみは、咄嗟の間にふっと男の体臭を感じた。
 不意をつかれた彼の軀は、あけみと縺れ合って、柵の外の空間に投げ出された。

 あけみと元木は海に落ちた。助け出された時、

 あけみは多くの眼が、疑わしげに探るように、自分に集っていることに、まず気付くのだった。あけみは、ふたたびあの街に戻って行こうとしている、自分の心を知った。

 最初にこの街に来た時、快感など感じたことがないから、この街に居られると思っていたのが、今はこの街に居なくてはならなくなってしまった、自分の意識とからだの変化を感じるのである。
 「驟雨」は「原色の街」の男版といっていいかもしれない。今度は街によって変わっていく男がそこにある。

 この町では、女の言葉の裏に隠されている心について、考えをめぐらせなくてはならぬ煩わしさがない。たとえば、「あなたが好き」という女の言葉は、それに続く行為が保証されている以上、そのまま受け取っておけばよいわけだ。
 その彼の心が、眼の前の女の言葉によって動揺させられていることは、彼にとっては甚だ心外な出来事なのであった。

吉行 淳之介 著 『原色の街・驟雨 』(改版) 新潮社(2012/10発売) 新潮文庫


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Commented by 本が好き!運営担当 at 2017-12-07 22:04 x
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by office_kmoto | 2017-12-07 06:22 | 本を思う | Trackback | Comments(1)

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