椎名 誠 著 『本の雑誌血風録』『新宿熱風どかどか団』

椎名 誠 著 『本の雑誌血風録』『新宿熱風どかどか団』_d0331556_07392646.jpg手にした本をどこで買ったか、案外よく覚えているものである。今回椎名誠さんの昔の本を読んだのだが、この本は木場のブックオフで買った。もちろんわざわざ木場のブックオフへ行ったわけじゃない。4年前失業給付を受けるために、ハローワークへ月一回通っていた。
 失業給付は保険料を払っている者の既得権だが、どうも働かないでお金をもらうというのに後ろめたさが伴う。認定を受けた後、気分が滅入っていて、気晴らしに木場周辺を歩いていたら、ブックオフを見つけた。以来ハローワークへ行った時は、帰りに必ずここに寄った。
 何回か通っているうちにこのお店は近々閉店となることを知った。その在庫整理のため大幅値下げを行っていて、その時椎名さんのこの本を買った。
 しかし買ったのはいいけれど、今頃椎名誠かよ、という気分になり、今日まで読まずにいたのだが、読んでみると面白いし、懐かしいことが沢山書かれている。

 この本は「本の雑誌」がどのように生まれたのか、その変遷をあの椎名節で書かれている。
 「本の雑誌」は椎名さんの友人であった、目黒考二さんが自分の読んだ本についての感想を椎名さん達に「読書感想手紙」として書いていたものがそもそもの始まりであった。その感想手紙が面白く、それを読みたいとという人が一人二人と増えていき、それが少々体裁を整え「目黒ジャーナル」となる。しかしこれはあくまでもそれを読みたいという希望者に目黒さんが郵送していたものであった。当然そんな人たちが増えれば、コピー代や郵送費がかかる。それで年間千円をもらうこととなった。それが直販雑誌の「本の雑誌」となっていく。
 椎名さんは当時「ストアーズレポート」という会社にいた。本の雑誌を本格的に立ち上げることによって、二足のわらじを履くことになったが、段々「本の雑誌」の方が面白くなっていく。会社方は副業をしていても本業をしっかりやっていればよかった。もともと「ストアーズレポート」を立ち上げたのは椎名さんなのでその実績で、社内でかなりの自由が利いていたようだ。
 一方目黒さんは印刷した「本の雑誌」を特定の個人だけに読んでもらうだけでなく、もっと多くの読者を獲得するためには、書店に置いてもらう必要があった。そのため「本の雑誌」を置いてくれる書店を探し回っていた。
 最初に「本の雑誌」を置いてもらったのが、お茶の水の茗渓堂であった。さらに流通拡大のために、偶然足を運んだのが地方小出版流通センターと取引をし始める。いわゆるここは地方にある小さな出版物を取り扱う問屋で、小売りもしていた。店売は神保町のすずらん通りにあった。「書肆アクセス」である。

 ここで話は個人的な話になる。
 私が「本の雑誌」を初めて買ったのがこの茗渓堂であった。そしてここではバックナンバーも揃っていて、創刊号はなかったけれど、最初の頃の号はここで買って、以来新しい号が出るとここで買った。確か20号から30号ぐらいまで手元にあったと思う。
 「本の雑誌」がちょっと話題になってくると、勤めていた店でも出版関係の会社、広告関係の会社から定期購読を申し込まれるようになった。この頃はまだ「本の雑誌」は日販から仕入れることが出来なかったので、神田村の仕入の時に「書肆アクセス」に寄ってを仕入ていた。
 今はこの茗溪堂も書肆アクセスもない(茗渓堂は今は同社のビルの上に店舗らしきものがある)ので、この名前が出てくると、思わず「懐かしい!」と思ってしまう。

 本屋時代、自分たちが作った雑誌を持ちこむ人は結構いた。私はこういう人たちが好きであったので、そうした直販雑誌を受けいれていた。
 この本では目黒さんが茗渓堂で雑誌を置くだけで、茗渓堂の人(たぶん坂本さんだろう)に納品書を切ってよ、と言われたことが書かれているが、私の時もただ雑誌を置くだけで、納品書を切らない、あるいは受け取りをもらわない人がいた。中にはいつまで経っても精算に来なくて、いつの間にかストッカーの奥にしまい込まれてしまうこともあった。きっと次号が出なかったのだろう。

 さて、「本の雑誌」は人気が出て来ると、もう少し娯楽性の高いものにしたらどうか、という編集方針が変わっていく。しかしこれは目黒さんからすれば受けいれられないものであった。もともと「本の雑誌」は目黒さんの個人の読書感想手紙から始まったものであった。それは純文学や評論も含めた硬軟取り混ぜた総合書評誌を目指すものであったからだ。しかし編集会議では娯楽路線でいくことになった。目黒さんはもう編集にタッチしないと言い、椎名さんはだったら自分がやると、二人に一時確執が生まれたようだ。
 椎名さんに目黒さんを茶化した本がある。『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』というやつだ。活字中毒者の目黒さんを味噌蔵に閉じ込め、何カ月も文字を読ませず、ついに活字中毒禁断症にしてしまう、という話だ。これは椎名さんが目黒さんとこの路線変更によるわだかまりから生まれたものらしい。

 また私の話をする。私が「本の雑誌」の購読を止めたのは、何か椎名節の模倣が鼻につき始めたのである。
 椎名さんはストアーズレポートで台湾に行った時、「○○的○○的○○的」と中国的看板の林立に強烈なものを感じ、以来その呪縛から抜けられなくなり、それが自らの文体に強引に影響してきたと言う。


 「だからそのときなのだ。おれは発作的圧倒的徹底的にラーメンを食ったのだ」


 といった感じだ。さらにこの「なのだ」というのは天才バカボンの親父の言い方に椎名さんはひどく感動して、多用したという。
 確かに○○的○○的と重ねると何故か言葉が過激になる。これが面白かった。けれどこれは椎名さんが使ったから面白かった。ある意味これは椎名さんの持ち味だった。だけど「本の雑誌」の取り巻き達がそれを模倣し、掲載されている文章にさえ、それを使うのが当たり前みたいなことになっていく。その得意気な感じが鼻につき始めた。ただ真似しているだけじゃないか、と思っていた。今もそう思っている。
 だから私は「本の雑誌」を30号ぐらいから購入していない。そして結婚する前、それまで持っていた多くの本を新居に持っていくことが出来ないので処分したときに、それまで持っていた「本の雑誌」も最後に処分した。確かブックオフで処分したと思うが、創刊から全部ではなかったけれど、ある程度通巻として揃っていたが、値段が付かないと言われたのを覚えている。仕方がないのでそのまま処分してくれと頼んだ。もしそれをそのまま持っていたら、今ならいい値段が付いたかもしれない。

 「本の雑誌」の取引が増え、印刷部数も増え、かかわる人間が増えてくると、事務所が必要になってきた。事務所を構えれば当然事務員が必要になる。椎名さんはたまたまストアーズレポートに来た求職者で、その志望動機欄に「いつも『本の雑誌』を読んでいるから」と書いてあった履歴書を見た。その履歴書を書いた女性が木原ひろみさんであった。後の群ようこさんである。彼女は月収3万円で本の雑誌初の社員となった。
 そういえば、持っていた「本の雑誌」の編集後記に(木原)と最後に書いてあったのを思い出した。
 ちなみに群とは目黒さんが持っていた10個のペンネームの一つを譲り受けたもので、ウィキペディアによれば、ようこは目黒さんの初恋の女性の名前だそうだ。

 椎名さんを有名にしたのはやはり情報センター出版局から出た『さらば国分寺書店のオババ』であろう。その本の経緯が書かれている。局長の星山佳須也さんが椎名さんに接触し、椎名さんに、


 「どうですか!なんかひとつ、どーんとした本書きませんか。どーんといったりましょうよ!」


 「どーん話法」で叫ぶ面白キャラが描かれる。
 この本を読んでいると、情報センター出版局は関西の求人広告を出している会社だったらしく、東京に進出してきて、出版の編集を任されたのが星山さんだったらしい。

 またまた私の個人的な話になる。
 本屋時代、この情報センター出版局の営業の田中という人物と親しくなった。椎名さんの新刊が出ると、必ずやってきて、注文を取り、しかも既刊本の椎名誠フェアーをやりましょうよ、と言って、店の平台を占拠させた。見本で持って来た、まだ発売前の新刊をもらったこともある。月に一度は店を訪れ、隣にあった喫茶店に私を誘う。当時出版社の仲のいい営業マンが来ると必ずこの喫茶店で出版社持ちのコーヒーを飲んだ。時には一日二度も続けてコーヒーを飲むこともあり、もうコーヒーはいいやという、ときに田中は来た。来て大した話をするわけでもなく、馬鹿話をして別れたはずだ。
 私の結婚式の時、式が終わり、夜ホテルでくつろいでいたとき、外線が入っているとフロントから電話があり、出てみると田中であった。お祝いが言いたいとかけてきた。まあこのように常識外れの男であったが(でもいい男で、面白い男であった)、どうもそれは彼がいたこの出版社の体質を引きずっていたのかも知れない、とこの本を読んで思った。
 その後彼は、自分で出版社を立ち上げたいという夢のため、資金集めに遠洋漁業へ出て金を稼ぐと言っていたが、どうやらその夢は破れたようで、しばらくして証券会社に勤めたとは聞いていたが、その後はわからない。
 さらにウィキペディアで調べていたら、星山さんは独立して三五館の社長になったと書いてあった。そういえば、当時出ていた椎名さんの“スーパーエッセイ”が原色のカバーで復刊されているのを見たことがある。その出版社が三五館となっていて、この出版社は何なんだろうと思っていたのだが、星山さんの会社だったのだ。
 もう一つ懐かしい名前があった。椎名さんが目黒さんや木村晋介弁護士と会うために利用した銀座四丁目のオリエントという喫茶店が出てくる。
 だいぶ前に銀座行った時この喫茶店を探したが見つからなかった。ネットで調べてみてもなにもわからなかったからたぶんもうなくなっているのだろう。
 結婚する前、妻と日本橋で待ち合わせ、銀座まで歩いて、ここで休憩したり、日比谷で映画を見てから銀座に戻って来て、やはりここでお茶をよく飲んだものだ。薄暗い店内であったが、落ち着いた店だったと思う。もう三十数年前の話だ。

 とにかくこの本は私にとって懐かしいことばかり思い出させる。
 椎名さんが活躍し始めた頃の出版界というのはまだ活気があって、しかも雑誌の創刊ラッシュの時代であった。多くの雑誌が創刊される中、それらの雑誌にも椎名さんのキャラクターがもてはやされ、それこそ様々な企画に引く手あまただった。何でもやらせてもらえる時代だった。それが面白くないわけがない。当然自分が今所属しているストアーズレポートでの仕事が面白くなくなっていく。また社外で椎名さんの活躍が目立ち始めると、当然社内でも嫌な雰囲気が流れてくる。椎名さんはストアーズレポートの退職を決意して、『本の雑誌血風録』は終わる。

椎名 誠 著 『本の雑誌血風録』『新宿熱風どかどか団』_d0331556_07400440.jpg 『新宿熱風どかどか団』では椎名さんはストアーズレポートを退職してフリーランスとなったその後が描かれる。


 サラリーマンをやめて自由にしているのはこの上なく気持ちが解放されて嬉しかったが、同時にしかしなんとはなしの宙ぶらりんの不安感のようなものがあった。
 ひとことでいうとどこかに帰属していたい、という予想外の不思議な感覚である。まあ「本の雑誌社」というホームカンパニーがあったけれど、自分でどうにでもできてしまう分どうもここは本質的にたよりない気がする。サラリーマンを十五年もやってくると、どこかにきっちり身柄を縛ってもらいたい、もっと強くぎりぎり縛って!といういままで自分でも気がつかなかった欲望がむらむらともたげてくるのだった(アレ?なんかヘンな表現だな)。



 これは会社から離れてみるとよくわかる。特に勤続年数が長ければ長いほど何かに帰属したいという本能は強いかもしれない。
 でも椎名さんには雑誌、週刊誌、ラジオ等から話が持ちこまれ、その企画に興味を持ち、それに参加し、書き、話していた。椎名さん周辺でやたら物事が動いていた。

 椎名さんが書いていたこの当時スーパーエッセイはほとんど読んでいた。だからその書名がここに出てくると懐かしい。
 確かにこの当時椎名さんの本は面白かった。でもこの本を読んでいると、それは椎名さんの才能だけでなく、当時の世相が椎名誠を面白くさせていたところがあったんじゃないか、と思う。時代には活気があり、多くの雑誌が創刊される出版界にも元気があった。そこに面白いものがたくさんあった。面白い人物がたくさん出て来た。そんな面白い事象、人物に毒され、椎名さんの文章は面白味を増すこととなったのではないか。「本の雑誌」が人気が出たのも、椎名さんが活躍できたのも、その時がいい時代であったことがあげられそうである。

 しかしいつまにか、私はその面白味を感じられなくなっていた。読む自分が少しずつ歳をとっていって、同じパターンで書かれる文章が鼻につくようになっていったし、そんなつまらぬことで目くじら立てるなよ、と思うようになってしまっていた。


椎名 誠 著 『本の雑誌血風録』 朝日新聞出版(1997/06発売)

椎名 誠 著 『新宿熱風どかどか団』 朝日新聞出版(1998/10発売)

by office_kmoto | 2018-01-16 07:45 | Comments(0)

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