南木 佳士 著 『生きてるかい?』

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 毎度のことながら南木さんのエッセイや小説を読んでいると、言葉が心に染み入る。書かれている当時の南木さんの心境がちょうど自分と同じ歳のころに思われたり、感じたりするのと共鳴する。
 南木さんは病気で最前線の立場を離れなければならなかった。そして私にも強制終了させられた人生がある。それでもその後生きていかなければならないことは同じで、その中で今まで感じもしなかったことを感じ、考えるのはよくわかるのだ。そうなってみて初めてわかったことだけに、驚きでもあり、諦めでもあり、悟りでもある。
 人生をとうに折り返していて、残りの人生と、それまでの人生をまるで振り子のように右に揺れたり、左に揺れたりする中、再読するたびに、感じ入る言葉がある。たぶん南木さんの本を読む度に同じことを言っていると思う。

 ふだん、「わたし」の内で時は流れておらず、「わたし」が時とともに変容しているだけだから、時間の経過に関して格別な感慨を抱くことはないのだが、ある瞬間、時はこんなふうにふいに、間欠泉のごとく一気に、激しく噴出する。内部から身を破裂させてしまいそうなその圧力に抗しているのはけっこう体力を消耗する緊急事態であり、「わたし」はかろうじてその場に立っていられるだけのひからびた老人になり果ててる。(いきてるかい?)

 集合したものはおのずと分散するのが自然の理だ。(紙の一里塚)

 ひとは時と場所で他から要請された者になってゆくのであって、過去の出自にばかりこだわっていると心身が型枠にはまったごとくにこわばり、なによりも大事なはずの可塑性が失われてしまうだろう。(センター試験以前)

 そして、還暦目前まで生きのびて、成らなかったことは縁がなかったのだとあっさりあきらめる図太さだけが身についた。(センター試験以前)

 「わたし」は不特定多数から認証されるのではなく、目の前の、呼びかかければ答える「あなた」がいるからかろうじてその存在を実感できるだけのはかないものなのだと明確に自覚できる歳になった。(ぬる燗)

 過去にすごした場所は過去そのものを担保しない。過去は想い出すそのときの状況に合わせて改編され、上書きされてゆくだけのものなのだ。(高尾山へ)

 でも、人生とはすなわち過去の出来事の集積であり、過去とはすでに起こってしまって取り返しのつかないことなのだから、「わたし」はこのようにしか生きられなかった。(辞めどきの春)

 持たなくてもよいものを持つと余計なことをしてしまう。(手紙の音)

 このように感じ、思ったのは、いずれもそうならざるを得なかった、ということだ。これがよくわかるんだなあ。
 図書館で借りて読んでから、手元に置きたいと思った南木さんの本が、また本棚に収まった。

南木 佳士 著 『生きてるかい?』 文藝春秋(2011/06発売)


by office_kmoto | 2018-01-31 05:35 | 本を思う | Comments(0)

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