司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと』〈3〉

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 前巻のときに書かなかったことを、この巻と一緒に書きたい。
 2巻に次のようにあった。

 普通、ナマの人間ほど、人間らしくないものはないと私は思っている。かれらはただ騒がしいだけで、人間のにおいが案外稀薄なものだ。ところが、史書という紙の上にだけ存在している人間のほうが、はるかに人間くさいのである。かれらは、史書という、凝固された人生のなかで生きている。それだけにかれらがひとたび哄笑すると、歴史の舞台の上ですさまじく反響するほどの笑いになるし、ひとたび残虐を思いたつととめどもない。(あとがき『一夜官女』)

 その上で「私の小説作法」が面白かった。そこに司馬さんが歴史小説をなぜ書くのか、がわかる。

 ビルから、下をながめている。平素、住みなれた町でもまるでちがった地理風景にみえ、そのなかを小さな車が、小さな人が通ってゆく。
 そんな視点の物理的高さを、私はこのんでいる。つまり、一人の人間をみるとき、私は階段をのぼって行って屋上へ出、その上からあらためてのぞきこんでその人を見る。おなじ水平面上でその人を見るより、別なおもしろさがある。
 もったいぶったいい方をしているようだが、要するに「完結した人生」をみることがおもしろいということだ。

 ビルの屋上から見おろすと、その人間がタバコ屋の角をまがって都電通りに出、横断してさてどこへゆくかということまで、わかる。つまりその人間がどこへ行くか、ということが。

 さらにわれわれは、かれ自身の予期しなかったこともわかる。むこう側から自動車が突進してくるのである。かれが立ちすくんだために、自動車は運転をあやまり、急ブレーキがおよばずはねられてしまう。

 この「屋上の作業」をすることで、このような人間話をふんだんに見ることが出来る。
 しかしただ見ているだけでは感動はない。司馬さんが歴史小説を書く場合、歴史が緊張して、はじけそうになることが必要であるという。この場合、たとえが不謹慎であるが、自動車であろう。急に車が出てきて、ブレーキが踏まれ、跳ねられたことである。車に跳ねられて、そこで何が起こりうるのか、起こったのか。それを知った上で考えるのが楽しみである、と言っているのである。
 これを3巻ではよりわかりやすく書いている。

 某という人物その人生というものは、その某の人生が完結したあと、時間がたてばたつほど、私にとって好材料になるようである。時間が経たねば、俯瞰ができない。俯瞰、上から見おろす。そういう角度が、私という作家には適してる。(歴史小説を書くこと-なぜ私は歴史小説を書くか)

 歴史小説は、そういう視点に立っている。そういう視点でものを見ることの好きな、もしくは得手なひとが、歴史小説を書くのだろう。私もそのひとりである。(歴史小説を書くこと-なぜ私は歴史小説を書くか)

 人間にとって、その人生は作品である。この立場で、私は小説をかいている。裏返せば、私と同時代の人間を(もしくは私自身を)書く興味をもっていない。理由は、最初にいったように「現代」では人生が完結していないからである。(歴史小説を書くこと-なぜ私は歴史小説を書くか)

 その上で、

 変動期が必要なんです。すくなくとも私にとっては変動期を舞台に人間のことを考えたり見たりすることに適している。自然、書くことが歴史小説になるのでしょう。(歴史小説を書くこと-なぜ私は歴史小説を書くか)

 司馬さんが必要という変動期こそ、先ほど俯瞰した時の交通事故のことで、ここまで来て、最後に司馬さんは言う。

 ある人間が死ぬ。時間がたつ。時間がたてばたつほど、高い視点からその人物とその人生を鳥瞰することができる。いわゆる歴史小説を書くおもしろさはそこにある。(私の小説作法)

 さて、この3巻で興味深かったことを書き出してみる。
 「竜馬の死」から。坂本龍馬をもってして司馬さんは次のように書く。

 この無位無冠の青年は、自分の海好きの志望を遂げるために国家まで改変してしまったといえる。

 「竜馬の死」にはさらに三菱の成り立ちが書かれている。

 維新政府の樹立から廃藩置県令で藩が廃止されるまでの間、土佐藩の財政はすでに赤字というようなものではなく、破れきっていた。外国商館に対するおもな負債だけでも三十数万両あり、とうてい返済できる見込みはない。
 そこで後藤象二郎は窮したあまり、土佐藩の船、大坂藩邸、長崎土佐商会などを岩崎弥太郎に無償であたえ、そのかわりに藩の負債もぜんぶ岩崎個人にひっかぶせてしまい、それをもって整理した。後藤らしい大ざっぱなやりかたといっていい。
 岩崎がひきついだ土佐藩の船は、汽船が六隻、曳船二隻、庫船、帆船、脚船各一隻で、計十一隻であった。
 岩崎弥太郎はこの船をもって竜馬がやろうとしていた事業を、かれなりに相続しようとした。資金はある。竜馬が紀州藩からぶんどった七万両の金である。その一部を大洲藩に返還したとはいえ、ざっと三万両は残っている。その金を、後藤との契約うえで新事業の資金とし、大坂の西長堀旧土佐藩邸の九十九商会という名の海運・貿易商社をたて、ほどなく借金からのがれるために名称を三ツ川商会、さらに三転して「三菱商会」とあらためた。その後三菱商会は発展した。その種子は竜馬の海援隊から出たものといっていい。

 「軽薄へのエネルギー」では日本人の性格である軽薄が日本の歴史の転換をスムースにしたことを書かれている。

 日本人がもつ、どうにもならぬ特性のひとつは時流に対する過敏さということであるらしい。過敏なだけではない。それが時流だと感ずるや、なにが正義か、なにが美かなどの思考はすべて停止し、ひとのゆく方角にむかってなりふりかまわず駆けだしてしまう。この軽薄な、というより軽薄へのすさまじいエネルギーが日本の歴史をつくり、こんにちをうごかしていると考えられなくはない。

 日本人のおもしろさはここであろう。このため日本歴史はいかなる変革期にも片づきが早かった。敵方のひとりひとりをローラーにかけすりつぶしてゆかなければならぬような手間ひまはまずまず要らなかった。この特性のおかげで日本人は早くから統一社会を構成することができたし、社会がこわれればすぐ建てなおすことができ、文化や文明をつくるエネルギーも組みあげた社会から出してきた。こうおもえば軽薄も偉大な美質ということになる。日本人が明治以後文明社会のなかに入って一ツ社会を組みあげてきた能力の原質の一つはこのあたりにあるのであろう。歴史はくさしもできないし、ほめもできない。

 戦国には日本人はまだ形而上的なものに精神を托するということがなかった。人間がなまで、人間を昂奮させ、それを目標へ駆りたてるエネルギーは形而下的なものであり、たとえば物欲、名誉欲であった。
 江戸時代も降るにしたがって日本人はすこしずつ変わってゆく。武士階級は読書階級になり、形而上的思考法が発達し、ついに幕末になると、形而上的昂奮をともなわなければかれらは動かなくなる。言葉をかえていえば、江戸三百年という教養時代が、幕末にいたってそれなりに完成し、そのなかから出てくる人物たちは、それぞれ形がかわっても、いずれも形而上的思考法が肉体化しているという点では共通している。志士といわれる多くのひとびともそうであり、賢侯といわれる有志大名たちもそうであった。かれらには戦国人のような私的な野心というものが、まったくといっていいほどすくない。(河井継之助-「峠」を終えて)

 幕府側、討幕派とも、それぞれの思想にある形而上のものは、もともとは同じものであり、いずれも江戸時代から生まれたものであることを言っている。こう書かれるとなるほど、そう言えるんだな、と思う。

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと』 〈3エッセイ1964.10~1968.8〉 新潮社(2001/12発売)


by office_kmoto | 2018-03-05 07:50 | 本を思う | Comments(0)

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