司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと』 〈5〉

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 今回は日露戦争、そしてその後と儒教が大きなテーマになっていると思う。たぶんこの時期司馬さんは『坂の上の雲』を執筆中だったのだろう。だからどうしても日露戦争の意味を考えざるを得なかったのではないか。特に日露戦争以後日本人の意識を異常な状態にまで導いてしまったこと。それが司馬さんの言う昭和の「奇胎の時代」を生んでしまったことを考えている。

 そういう「異なった文明体系に転換した」というこの民族が、実際には民族の内面の問題までは転換していない。二十世紀後半の多くの新興国家でさえそうであるように、国家能力といった面のみをとりあえず転換したわけであり、その国家能力というのは、この明治期という十九世紀末、二十世紀初頭にあっては各国とも濃厚に軍事のことを指す。不幸なほどに、軍事がその国家や民族の能力または意志を表現する最大の課題になっている。日本人は、転換後、三十余年をへてロシアという世界的な帝国と軍事の強弱をあらそわねばならなくなった。
 ロシアにとっては単なる侵略政策の延長線上におこった事変であるという面が濃いが、日本にとっては弱小であるがゆえに存亡を賭けた国民戦争たらざるをえなかった。元老たちは戦争を回避しようとした。いずれにせよ日本は、別な文明体系へ転換してから三十余年後にその能力を世界史の上でテストせざるをえなくなった。それが、日露戦争である。(あとがき『坂の上の雲 四』)

 「戦史は負けた側のを読め」
 とよくいわれます。そのとおりで、勝った側には失敗についての反省などはなく、反省をしていてはどうにもならない。みなさん功績を顕示することで大いそがしで、戦史執筆者もそういう連中を傷つけたりすると大変です。歴史は百年たつとひからびて丁度いい。戦後すぐ戦史編纂をすると、どうしてもなまがわきで、歴史にはならないのです。(「旅順」から考える)

 日露戦争の勝利の報告の仕方というか、オーナーである国民への陸軍の報告の仕方が、じつにケレンに満ちたものでした。もっとも重要なことは隠し、「結局日本人は固有に強いから勝った」というふしぎな神秘史観を諸戦史の上でつくりあげ、その例として「旅順」を典型にしたのです。敵の火力に対してただ盲目的突撃をし、屍の山をきずき、なお命令は神聖であるとしてつぎつぎと突撃し、一回の攻撃でバラバラと一万数千の生命を消してしまいながらついに敵を屈服させたというこの神聖民族のようなものを、専門家である軍人でさえ信じたところに次の時代へのおそるべき陥穽があります。
 旧日本陸軍は当時の世界のいわゆる強国の陸軍装備の水準からいえば日露戦争のときがもっとも高く、その後どんどん下降して、大正、昭和は二流陸軍になっており、しかも軍人や国民は日露戦争の美しい神話を事実と思い、世界無比の絶対的自信をいよいよつよめてゆくのは、近代世界史の最大の滑稽事だと思います。(「旅順」から考える)

 儒教については、以前この巻について書いたものがあるので、今回もそれを修正して使うことにする。

 儒教的専制国家は、中国が卸し元である。漢時代にこの体制がうまれ、宋におよんで大完成し、清朝までつづき、清朝が消滅してもなおその基本的な政治習風は蒋介石中国におよんでなおなお臭気が抜けなかったほど、その体制的体質というのはしぶといものであった。
 儒教というのは生活習慣まで至るもので、そうしないと儒教は完結しない。長幼の序とか、親類とのつきあい方、親類の範囲、結婚の仕方、葬式の出し方、こういうものが儒教であって、「子曰ク」だけが儒教ではない。儒教というのは社会体制そのものであり、生活規範であり、極端にいえば人間を飼い慣らす原理であり、システムである。
 ただ世界中のたいていの民族は絶対的原理を一つ持っていて、その絶対的原理で人間をつくり変えてしまう。そうでなければ人間は猛獣で手に負えない動物だと思っているらしい。中国では儒教でもって人間を飼い慣らしているし、ヨーロッパはキリスト教でそうしている。回教圏もむろんそのことが強烈におこなわれてきた。

 そして儒教体制が確立してからの中国では新しい技術を開発していくという競争がなくなって、古い時代の中国でいろいろなものが発明されたというのは既に伝説的な話になってしまった。
 司馬さんはこうして競争の原理のない儒教的な中国体制というのは人間が考えた政権永続の最良の方法である、と言っているし、これまで二千年間、儒教という原理で社会的存在として人間の猛獣性、つまり無用の競争の毒牙を抜いてきたとも言っている。
 だから競争の原理を内部にもたない当時の中国・朝鮮式体制(これについてはこの後触れる)にあっては、その体制の外観は堂々とはしているものの、それがいかに腐敗して朽木同然になっても、みずからの内部勢力によって倒れることがない。

 朝鮮は高麗朝でもそうであったが、李氏朝鮮でも儒教的専制国家の模範生的な国家であった。昔から朝鮮は中国をもって宗主国としていた。これはよくいわれているような属国ではない。属国というのはヨーロッパ的な考え方で、アジアでは中国が中心だと中国人は考えていた。アジアだけでなく全世界の中心だと考えていた。ただそれは地理的に可視範囲がヨーロッパまで及んでいないから、そのあたり一帯、つまり天が覆い地が続くかぎり自分たちの皇帝がその地上の皇帝であると思っていたのである。だから中国人は自分たちの体制が及んでいない所を蛮地とみる。野蛮人はしょうがないと思っている。
 このため朝鮮も、属国ということではなく、中国のそばにある小さな国だし、垣根の国、衛星国だから、長幼の序の礼儀として、蛮国ではなく蕃国として自分を位置づけていた。ただし蛮国、野蛮人ではないということで、一所懸命その中国体制、つまり仁義礼智信を原理としている儒教体制を取り入れて、それそのもので国家体制を作って「東方礼儀の国」と中国人にいってもらい、それをもって自分たちは文明国としてきたのである。こうして「アジア的専制国家」群が生まれたいった。これが中国や朝鮮にあって二十世紀初めまで続き、結局アジア的停滞という弾力性のない民族社会をつくっていったのである。

 ヨーロッパに産業革命が起こり、それがインドをへて帝国主義の形をとり、中国に接近し、その力をもって侵入してくるようになると、中国はこれに対抗できず、踏みにじられるままでしかなかった。中国人の国家観がヘンテコだったから、ヨーロッパ人たちに、ここは取り得な大地であるという観念を持たせた。ヨーロッパ列強のアジア進出はこうして生まれたのである。
 悲惨な歴史を踏んで、これではまずいと自覚し始め、本当に新しい中国をつくるためには、それまであった中国的なあらゆるものを吹きとばす原理を持ち込まないとダメなんじゃないかと考えた。
 司馬さんが言う「体制としての儒教は悪いものですよ」を蹴っ飛ばすには、別の強烈な原理を持ってこなければならない。しかも短期間で新しい原理でやらなきゃならない。そこでマルクスの原理がいいというので、そのシステムでやってみると悪習がサーッ消えたので、毛沢東もホー・チミンもそれを仕入れてやってきたのだろうと言うのである。それが中国におけるコミュニズムの出現である。中国人民は集団発狂したような勢いでそれを繰り返しやってきた。列強に対抗してきた。それが新しい中国の歴史であった。列強が好き勝手に中国に進出し、ここは取り得な大地であるという観念を持たせないために、新中国になって国境意識が前代未聞なほど厳格になってきたのである。
 では東アジアの一員である日本はどうなのであろう。日本も8世紀のはじめその統治システムの模範を最初中国に求めた。それを推進したのは藤原氏であった(大化の改新)。日本がこの制度導入した理由は、藤原氏が他の土着勢力をつぶし、天皇の帝権を絶対的なものにするためであった。(中国がマルキシズムをを持ち込んで、既存の制度を払拭したのと似ている)
 しかし藤原氏は権力の機能を分けあった。実際の政権は藤原氏が握ったため、律令制度の基本である帝権の絶対化を藤原氏自身曖昧にしてしまったのである。日本は律令時代といえども、儒教とそれにともなう官僚制度とを、滑稽なほど粗雑さでとり入れただけであった。そういう意味では日本は8世紀初頭にそれをまねたが、早々から落第生であった。
 さらに平安末期になると関東で武家集団が結束し、律令制の一大批判勢力となっていく。この後後醍醐天皇が中国の皇帝のような専制制を確立しようとしたが、結局足利尊氏に倒され、再び日本は二重構造となっていく。
 時代は更に戦国時代から、徳川幕府に進むが、徳川幕府でさえ、明快に二極化している。徳川幕府の権力内容は、譜代と准譜代(外様大名であるが、半与党的存在の大名で、関ヶ原以後家康についた豊臣側の大名のこと)である与党と、たとえば薩摩、長州などの外様の野党の存在を肯定していた。
 何故なら家康は「日本の歴史においてさまざまな政権がさまざまなテストをうけてきたあとに成立しあたために、『どういう権力が日本的現実になかでより自然であるか』ということを知りぬいていた」からだと司馬さんは指摘する。要するに日本の歴史を見ると、競争の原理が、日本の下層ではつねに作動しつづけていて、いかに中国・朝鮮式の専制を輸入してもその原理を圧殺することができなかったのである。
 日本史をひもといてみれば、日本はどう考えても競争の原理ででき上がっている。あちこちに極がたくさんある。豪族間の競争とか、細かいところまで行けば、農民は農民で昔から競争している。こんな狭い国で競争の原理で競ってきた。それが外に押し出されたとき、倭寇になり、秀吉の朝鮮出兵になり、日中事変となり、破れかぶれとなると太平洋戦争となる。日本の競争原理がそのままナマで外に出た形である。国内の競争原理のエネルギーのまま、その形で行ったわけである。
 日本は専制国家を生まない体質であり、いつもある競争という意識が、国家システムとして二重構造のシステムが絶えず存在させてきた。明治維新だって、偉かったからではなく、ずうっとあった歴史の原理とか状態とか、一種の日本人的な社会の摂理とか、あるいは機能とかが、作動していって、徳川幕府の反体制であった薩長があったから明治維新が成立し、その後もうまくいったのである。

 あと面白かったことを二つ書く。明智光秀が織田信長を討った理由を光秀の精神上から求めているが、なるほど、と思った。

 「丹波、丹後を攻めよ」
 という命令を織田信長がくだしたのは、天正三年であった。平定までほぼ六年かかっている。
 攻略の担当者は、織田家の五人の軍団長の一人明智光秀で、その属僚として細川藤孝(幽斎)とその子忠興がつけられた。平定後は、この当時のしきたりとしてその司令官がその国をもらう。つまり請負であり、成功後は光秀が丹波の国主となり、幽斎が丹後の国主になるのだが、土地の連中としてはいい面の皮であろう。
 なにしろ、山が錯綜している地形であるために屈強の山にはみな山寨があり、無数の地侍が割拠していて、それらが連盟して織田軍をむかえ撃った。キコリまでが武装して山々を駈けるという状態だったから、当然ながらゲリラ戦になり、侵入軍である光秀も幽斎も苦しみぬいた。光秀の神経が大いに衰弱してこの平定後、本能寺ノ変という、およそ政略的に好結果を生むはずのない行動へ飛躍してしまったのは、どう考えても政治的には理由の説明がつきにくい。政治よりもむしろ精神医学でこの前後の光秀を考える以外にないようにおもわれる。
 というほど戦況がすすまぬところへ、信長からはやかましく督励してくる。これが光秀にとって脅迫となり、過労の上に焦燥がかさなって、このため、かれの攻略法も手段をえらばなくなり、やり方が汚くなってきた。謀殺に次ぐ謀殺をもってした。本来、光秀も幽斎も、粗野な織田家の諸将のなかでは例外的な教養人であり、とくに幽斎などは歌学では日本随一であったであろう。そういうかれらが、自分の攻略法のきたなさに、自分自身が傷つかなかったはずがない。とくに光秀という人の性格から察して、そうであろう。(謀殺)

 大阪城の持った歴史的意味も面白い。

 秀吉のつくったこの城(大阪城)が、二代目の秀頼になると、重荷になってくるのですね。二代目になると、この日本最大級の城塞の中にいるということで、世間から、秀頼は微禄したとはいえ、あの城にいる限りは軍事的に天下無敵である、というふうにみられてしまう。さらに、大阪城には金銀がうなっているから、その金銀でもって牢人衆を集めれば、大坂は再び徳川の手から天下を奪えるだろうという妄想を世間に持たせてしまったわけです。たしかにあの城を見ているとそんな錯覚をおこさせるものがある。
 この城の権力的な魔術性は秀吉一代で尽きてしまったのですけれど、妙なことに秀頼と淀どのが濃厚に魔術にかかりつづけていた。そのあたりを調べていくと、淀どのという人物はこの城の暗示にかかりっぱなしのつまらない女だったということになる。

(略)

 能力があったかといえば、そんなことはないですね。まったく無知で、普通の子煩悩なカカアであって、自己愛だけが非常に強い。

(略)

 ところが調べてみると、淀どののつまらなさがどうしようもなくて、さらに秀頼という人物もどうにもならない。一度も個性を発揮していなくて、淀どのの無形の王冠程度にしか過ぎなくて、このおよそ凡庸な、世間に対して嬰児のように無知な二人が、あれだけ世間を動かすことができたのですから、見方を変えれば彼や彼女が主人公ではなかったということになる。大阪城という建造物が主人公で歴史を動かしたとみるべきでしょう。(大阪城の時代)

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと〈5〉エッセイ1970.2~1972.4』 新潮社(2002/02発売)


by office_kmoto | 2018-03-24 06:13 | 本を思う | Comments(0)

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