司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと』〈9〉

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 この巻で面白かったのは二つ。一つは西郷隆盛のこと。そしてもう一つが砂鉄に関して書かれたものである。

 まずは西郷隆盛について。

 幕末の西郷の人格的風韻は、若い英国外交官のアーネスト・サトウをさえとらえて話さなかった。サトウの友人の医者で、当初は英国公使館の医官をつとめ、維新後は鹿児島医学校を興したウィリアム・ウィリスのような人でも、西南戦争がおこると薩軍に従軍したいといったほどに西郷に魅了されたひとりである。サトウなどは、その回想録をみると、幕末においても西南戦争の段階でも、西郷好きということは一貫していた。しかしかれらは、西郷が政治家としてどのような抱負をもち、どのようにすぐれていたかについては、関心を示していないようである。(南方古俗と西郷の乱)

 好悪の情がつよすぎるサトウが、大久保をはげしくきらい、ひいては太政官を嫌悪し、晩年はこの嫌悪感がひろがって日本のすべてを思い出したくないほどの気分になったのは、感情家のサトウの性格を思えばその原イメージの何割かは大久保の個性に帰せられねばならない。(南方古俗と西郷の乱)

 大久保利通という人物は本当に嫌われていた。その使命感がそうさせたのかもしれないが、それにしてもひどいものだ。

 西郷は、無能者である自分を知っていたし、生涯で何度か深刻にそれを感じ、思った。言いかえれば西郷を成立させた人格の秘密は自分は能なしであると思いさだめていたことであったかと思えるほどである。

 もう一つが「鉄器がつくった歴史の性格」である。
 鉄が人類の歴史に大きな変化を与えることになったことがここに書かれている。要するに人類の征服欲を刺激した触媒となったのが鉄であったことを司馬さんは書く。

 鉄器という高能率の道具で土を掘りかえしてゆく場合、他人の田畑まで奪いたくなるような欲望がおこり、その欲望が社会化し、歴史をゆりうごかしてゆくのですが、木の棒で土を掘っているぶんには、一定の面積をそのようにするともうへとへとでひとの土地まで自分のものにして掘りかえしてやろうという欲望がおこりません。

 その鉄を作り出すにはものすごい火力が必要となる。

 砂鉄を熔かすのは、木炭なのです。すさまじい量の木炭が要ります。
 砂鉄十五トン熔かすのに木炭十五トンを灰にするのです。これだけつかってわずか三トンしか鉧(鋼以前の粗製物)がとれません。言いかえるとわずか三トンの鉧をとるのに十五トンの木炭が必要なわけで、十五トンの木炭というのは千俵(一俵十五キロとして)という大変なものです。千俵の木炭をとるのに、山一つが裸になるというものでありましょう。

 すなわち「鉄は樹木からとる」である。しかしその樹木だが一回伐採されると、それが成長するには長い年月が必要とする。日本の気候風土のように森が早めに再生すればいい。しかし中国や朝鮮は一度木が伐採されしまうと、もう裸のままになるしかない土地柄では、その木がなくなれば木を探しに移動しなければならなくなる。

 この鉄の原料は、砂鉄だったと思います。
 ひと山を裸にするほどに木を伐り、木炭をつくり、それを燃料として砂鉄を熔かして鉧をつくり、ついで鉄を得るわけでありますから、古代産業として製鉄が想像を絶するほどの自然破壊を生んだことは、国々の社会の歴史を見る場合、主要視点の一つとして重視せねばなりません。朝鮮の山は木が根付きにくく、降雨量もすくなく、木々が自然に復元するということは、まず困難であります。タタラとよばれている製鉄集団は、古代産業としても比類なく多人数を必要とするもので、一つのタタラに五百人から千人という人数を想定する計算法あります。木を伐る者、炭にする者、タタラを中心に直接に鉄をつくる者といったように考えますと、家族をふくめればゆうに千人は越えるでありましょう。
 かんじんなことは、砂鉄など、どこにでもあるというものなのです。いまの朝鮮でも迎日湾の沿岸に良質の砂鉄が出ます。日本の出雲でもおなじです。古代にとりつくしたわけではないのです。とりつくしたのは、山の木であります。
 はだかになってしまった山々を見て古代朝鮮のタタラたちは、木を求めて海のむこうの日本―たとえば出雲―に移動せざるをえなかったでしょう。かれらは、山に木が無くなれば千人が千人ごと食えなくなるのです。技術のみがあって、耕地をもっていませんから、山から山へじつによく移動する。どの山も裸で移動が不可能になり、ついに日本にきてしまったということが十分想像できます。その大挙渡海が五世紀であったか、六世紀であったか、ともかくも出雲や吉備といった中国山脈の中に入りこみ、さかんに伐採し、さかんに炭を焼き、わずかずつ鉄をつくりはじめ、農耕家族に提供し、その代価として米を得てゆく、そういう形態が、畿内では近江などにおいてもはじまりました。

 これが古代朝鮮のタタラたちが日本、出雲にやって来た理由であった。司馬さんの『街道をゆく』ではこうして朝鮮からやって来たタタラたちの足跡を訪ねていた。
 一方砂鉄を溶かす火力がなくなれば、中国では鉄の生産力が落ちていく。社会そのもの活力がなくなっていく。社会が好奇心をなくし、停滞していった。

 中国は、春秋時代から漢までが、旺盛な時代でした。人の心が好奇心をもって沸騰して、その後の歴史的中国の停滞ぶりからくらべると同民族かと思われるほどのちがいがあります。すくなくとも後漢の滅亡以後の中国は、好奇心のなさというものが民族病というべきものでしょう。儒教が王朝によって採用され、皇帝が教主のようになり、大小の官僚が宣教者のようになり、ついには中国の王朝と社会の成立の原理となり、ひとびとの思考法や暮らしのすみずみまで覆うのは、大停滞の出発からです。

 (略)

 儒教があって中国が停滞し停頓したわけではなく、停滞し停頓したから儒教がひろがったのでしょう。なぜ沸騰し、なぜ停頓したかということは樹木によると私は思います。ある時期まで華北、華中で豊富だった森林が濫伐で消滅し、復元しないままに一望の中原の野が平べったい黄土の野になりはて、鉄器の生産が思わしくなくなったためだと思うのです。

 社会が沸騰した好奇心をうしなうとき、好奇心は悪であり、善は古にかえることだという儒教が国教化されてゆき、停滞こそ社会の安定であり、ひらきなおって善であるということになり、その状態が大原理で是認されるにいたります。朝鮮にいたってはあの悪しき日韓合併の当時でさえ、商品経済が存在せず、農村では物々交換がおこなわれていました。かつての栄光の古朝鮮はなく、教条的な儒教官僚と悠々たる太古そのままの古朴な農民という二つの要素で永い歴史的時間が流れました。朝鮮人のよさもここにあり、朝鮮の国家運営のむずかしさもこのながい歴史と多少のかかわりがあります。また新中国が、地球上でもっともモダンな国でありながら、そのなかになお古代が居すわっていることも、中国の政治現象を見るときに好意を感じることがなければ、単に不可解な権力闘争や政治現象としか見えなくなってしまいます。

 司馬さんは慢性的な鉄器の不足が社会の停滞を招き、その社会の停滞をそれでいいのだ、と肯定する儒教が国家の思想に取り入れられ、そのまま近代まで続いてきたと考えたのである。

 要するに、中国大陸という諸民族のるつぼは人間の生産と暮らしに必要な多くのものを発明して、われわれ周辺の民族に益してくれたが、しかし私が見た東北地方のその時期の農家の農具のぐあいはそのようであった。(昔のままということ)このことは巨大な停頓がこの大陸にすわりこんできたということを私に想像させた。その大停頓の理由が漢の滅亡以後、ごく近代までこの大陸で鉄器が慢性的に不足してきたことと重要なかかわりあいがあると思うようになったのは、私にとってここ十年来ことである。(数千年の重み)

 儒教は国家の発展を嫌う。そんな儒教思想を抱えたままでは国家の発展はない。だから「批林批孔」というスローガンを掲げることによって、中国は近代化を図ることになったのであろう。

 最後に気になったものを書き足しておく。それは司馬さんによる文章の書き方である。

 文章を書こうとする若い人たちに、「センテンスは荷車のようなものです」と助言することがあります。「一台の荷車には一個だけの荷物を積むようにしなさい。一個ずつ荷物を積んだ荷車を連ねてゆけばそれでいいわけで、欲ばってたくさんの荷物を一台に積んではいけません」といったりするのです。読み手は、一つのセンテンスを読むのに一つの意味しか理解――もしくは感ずること――ができないものだと思うべきです。入学試験に出題される現代文のなかで、一つセンテンスに複数の意味を載せている文章がよくありますが、ああいうものは悪文だと思い定めるげきです。さらにいえばこのことを訓練することによって関係代名詞を持たない日本語の不自由さをどこかで解決する道がひらけるように思います。(一台の荷車には一個だけ荷物を)

 ここに書かれている一台の荷車に一個の荷物を載せるが如く書きなさい。一つの文章にあれもこれも載せるのを悪文です。というのはなるほど、と思うし、自分もそうした文章を書きたいと思っているので、これは肝に銘ずることだと思った。

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと〈9〉エッセイ1976.9~1979.4 新潮社(2002/06発売)


by office_kmoto | 2018-05-10 06:59 | 本を思う | Comments(0)

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