伊集院 静 著 『ねむりねこ』

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 この本はブックオフの低価格コーナーで見つけた。表紙をめくると、伊集院さんのサインがある。どうやらこの本は献呈本であったようだ。
 ブックオフではそれがサイン本であっても、その本が出版されて時間が経ったものは安くなる。付加価値は認めない。だから低価格コーナーで著者のサインがある本をよく見かける。私も数冊ブックオフでサイン本を買っている。
 さて、

 春先、この原っぱで、ナズナを見つけた家人が、実の柄を茎から少し剥がし、耳元で振って笑っていた。子供の頃、姉や妹たちが同じ仕種をして遊んでいた。私も家人の手からナズナを貰って振ってみた。懐かしい音色だった。目を閉じると、四十数年前の記憶があらわれる。音の記憶はたいしたものである。(野の花の強さ)

 これ、みんなやるのだろうか?私も孫と近くの親水公園を散歩したときぺんぺん草を見つけ、同じように実を柄から少し剥がし、それを耳元で振ってみた。孫は微かな音が不思議なのか、しばらくぺんぺん草の柄を指でつまみ回していた。

 人間もそうだが、純粋種は危ない。傲慢が見え隠れする。(野の花の強さ)

 生きることにも、丁寧が大切だとわかるには時間がかかるのが、私たちの一生である。(パリの煙)

 本当に世話になった人にはお礼を返すことができないようにできているのが、この世の中ではないかと思う。いい例が自分たちの親だ。大半の人は、親に世話になりっぱなしで死別してしまう。大半の子供が、それを悔んだまま、大人の顔をして生きている。そうであるなら、悔みがあることが、人生なのではないか。“悔み”の周辺に生の肝心があるような気がする。何もかも上手くいった人、何もかも与えられ、手にした人は、結局、生きる上で肝心に触れてはいないということではないか。(ハズレてばかりだね……)

 社会は安定すると必ず偏向する。それが人間というものの弱点であり、歪むことを平気ですることも人間の本質である。私たちが流されたり、愚行をしないためにも見定めることしかあるまい。(風を見る)

 生きることは実践である。懸命に生きようといい加減に生きようと、その生き方で得たものしか人には身に付かない。いかに良い教育を受けようとも人は学んできたものが正しいと実感できなければそれらのものは何も活用できない。己を知る鏡は他人の中にある。人との出逢いは実践の中で最大の出来事だ。(松井秀喜の軌跡)

 これらは伊集院さんがよく口にすることである。伊集院さんが若い頃の苦い経験から出ているのだろう。ただこれらの言葉群は確かにその通りだと思うが、いささか鼻についてきたところがある。外連味はないにしても、こうストレートに言われてしまうと反論の余地がない分、逃げ道がない。ここが山口瞳さんとの違いだと思う。
 山口さんが亡くなって、サントリーの広告文を伊集院さんが引き継いでいるが、山口さんには「遊び」がある。伊集院さんの文章にはそれがない分、きつい。

伊集院 静 著 『ねむりねこ』 講談社(2003/10発売)


by office_kmoto | 2018-07-30 05:23 | 本を思う | Comments(0)

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