城東電気軌道 2

第一章 城東電気軌道前史


 ところで城東電気軌道という軌道ってなんだろう?一般社団法人日本民営鉄道協会のホームページ(http://www.mintetsu.or.jp/knowledge/term/82.htm)によると、


 レールの上を車両が走るという点では鉄道と変わりませんが、原則として道路に設けられ、道路交通を補助することを目的としており、大正10年以来軌道法によって監督を受けています。鉄道が道路ではなく専用のレールを使って高速で車両を走らせ、人または貨物を運ぶのとは性格が違います。


 つまり電車と言っても、いわゆるJRなどの電車ではない。道路を走る市電やかつての都電をイメージしてもらえればいいかもしれない。
城東電気軌道 2_d0331556_06255227.jpg では城東電気軌道とはどういう歴史をたどったのであろうか。その歴史をたどるにあたり恰好の本が出版されている。枝久保達也著『城東電気軌道百年史』(HappinessFactory)である。(注5)以下この本を元に城東電気軌道を振り返ってみたい。

 明治、大正と東京の交通事情を知るには、その前の江戸時代の道路事情を知っておく必要がある。
 江戸時代の物流は水運が中心であった。そのため道路整備は限定的であり、市街の発展に伴い自然発生的に形成されていた。江戸の道路は狭く、もっぱら歩行者専用として作られており、馬車や人力車の通行をまったく想定していなかった。
 さらに幕府の軍事的要請もあり、道は狭く曲がりくねっており、意図的に通りにくい構造をしていた。
 そうした江戸時代に形成された道路は明治になり道路整備に迫られていく。ただ都市部では道路や鉄道の整備が進むが、江東地区はその整備がなかなか進まなかった。というのも幕藩体制の終焉により江戸詰の武士が各藩に帰藩し、明治初期の東京の人口は江戸時代と比べ半減していて、深川地区は都市計画の優先度が下げられてしまう。もともとこの地域は都市整備計画が遅れても水運が交通体系として確立されており、計画の優先度が遅れても問題がなかったし、そのために道路整備が遅れたともいえる。
 そのためこの地域における都市交通網の整備は路面電車の登場を待たなければならなかった。


 1910(明治43)年5月6日、実業家の本多貞治郎を総代とする計24名が発起人になり、軌道条例に基づく電気軌道の敷設を出願した。


 資本金30万円の城東電気軌道株式会社を新たに創立し、東京市本所柳原町2丁目から亀戸町、小松川村、松江村を経由し、瑞穂村(現瑞江)に至る延長5マイル(約8㎞)の軌道を新設する計画であった。


 城東地区は江戸時代から深川を中心に木材業、米穀肥料業、倉庫業などが繁栄していた。明治初期になると、味噌や足袋、煙草入など製造する家内工業が興りはじめ、一部ではマニュファクチャーへの発展が見られるようになっていった。
 さらに工業化の波はさらにこの地域に押し寄せており、人口増加の期待が寄せられた。しかし交通網の整備は遅れており、ここに鉄道が不可欠な状況であった。
 そのため城東電気軌道の計画は外部資本家の主導ではなく、地元の要望に根ざしたものであり、それを東京府も積極的に後押した。
 ところで城東電気軌道の総代となった本多貞治郎の存在が大きな意味を持つ。本多貞治郎は、鉄道史における京成電気軌道(現京成電鉄)の創業者として知られる人物なのである。


 1906(明治39)年、本多貞治郎、利光鶴松、井上敬次郎ら東京市鉄道系グループは、東京市本所区押上から柴又・八幡・中山・船橋・佐倉を経て成田に向かう電気軌道の敷設を出願した。他に郷誠之助・川崎八右衛門らの一派、貴衆両院議員200名からなる一派が同様の区間について出願しており、三派合同の上、1907(明治40)年に特許を得ることになった。これが現在の京成電鉄の起源である。


 ここに「特許を得る」とある。これはどういうことかの説明があるので付け加えておく。


 鉄道を開始するためには、法律に定められた許認可が必要となる。これを鉄道の場合は「免許」、軌道の場合は「特許」という。


 話を元に戻せば、本多貞治郎が城東電気軌道の敷設の出願を申請する総代となったのには本多の裏の考えが見え隠れするということである。
 すなわち城東電気軌道の出願は本丸の京成電鉄の会社設立、工事の準備に目途がついた後になされている。だから本多は自身が描く軌道ネットワーク計画の一環として城東電気軌道の総代になったと見ることが出来そうである。
 それが証拠に、城東電気軌道の創立事務所は京成電気軌道本社内に設けられた。軌道敷設の特許を得るためには専門的な知識を持った者、技術者・事務員が必要であるからである。
 本多は城東電気軌道だけでなく自らの構想実現のため周辺の鉄道計画に積極的に関わっていく。城東電気軌道の創立の後本多は江東電気軌道の出願に関わっていく。


 本多が企画した大資本と共に計画を進めた京成電気軌道が第一にあり、次いで地元主導の城東電気軌道計画に参画したことで事業エリアが面的に広がった。そこで両路線をネットワーク化するために本多が主導的に企画したのが江東電気軌道だったのではないだろうか。


城東電気軌道 2_d0331556_06280059.jpg
(注6)


 しかし江東電気軌道の出願は1916(大正5)年12月8日却下されてしまう。
 城東電気軌道株式会社はその創立に向けて動き出し、1912(大正元)年に発起人総会が開かれたが、そこには本多貞治郎の姿はなかった。
 本多に代わって計画の主導的立場になったのは、廣澤金次郎、千葉胤義、橋本梅太郎であった。
 そこで計画に大きな変更がなされた。すなわち路線起点は本所柳原町から変わらないものの、終点は松戸に変更され、路線長も当初の3倍近くなっている。それに伴い資本金も30万円から100万円に増加した。
 城東電気軌道はこれ以外にも延長計画を発表している。

 第一延長出願線(1912年725日)上今井・浦安町間
 第二延長出願線(1912年7月28日)浦安・小松川間及び南行徳・松戸間
 第三延長出願線(1913年9月13日)上今井・下今井間


城東電気軌道 2_d0331556_10251248.png
(注7)


 本多が失脚し、千葉胤義らが擡頭してきたのは、城東電気軌の経営方針を巡る対立があったことは想像に難くない。
 ではこの千葉胤義という人物は如何なる人物であるのか。千葉は国内外各地に主に電気・ガスの事業に携わっていた。ここが肝である。


 城東電気軌道の新たな主導者として名前が挙げられた千葉胤義と橋本梅太郎が平行して進めていたのが「江戸川電気株式会社」という電燈会社である。


 江戸川電気は1911(明治44)年9月21日に出願された。資本金8万円の小規模な電燈会社である。発起人の半数以上が後に城東電気軌道発起人に参加している。
 ここから千葉らが城東電気軌道に参画したのは軌道のためではなく、自らの事業であった電気事業の拡大のためではなかったのか、と疑われる。これは本多と同様である。
 では千葉が電力会社の拡大のため、なぜ城東電気軌道に関わったのか?そこに当時の電力事情が見え隠れする。
 電気は貯めることが出来ない。そのため地域ごとに発電所を作り、地産地消していた。1万人規模の都市であれば事業として十分成立するがそれ以下の小さな町村では投資に見合った利益が見込めない。
 さらにこの頃日本の電気事業に大きな変化が訪れつつあった。長距離送電技術が確立したことで、山奥の大規模な水力発電からから需要地に送電することが可能になった。このため効率の悪い自社発電所を廃止し、水力発電事業者からの買電に切り替える事業者が増えていく。これは江戸川電気も大きな影響をもたらした。小規模発電所で近隣の電灯を供給するだけでは遅かれ早かれ行き詰まることが、開業を前にして明らかになった。江戸川電気も大規模な水力発電所から電気の供給を受けることとなるが、そうなると周辺家屋の電灯需要以外に電力の供給先を確保しないとならなくなった。そこで目を付けたのが城東電気軌道であった。ここで大きな電気が消費が見込まれるからである。さらに千葉らが軌道の延長計画を持ちこんだのも、さらに電力の消費を見込んだのである。
 ところが城東電気軌道は資金不足、荒川放水路の建設、第一次世界大戦による物価高騰により、八方塞がりとなっていく。株主も経営陣も意欲を失いつつあった。千葉胤義は更迭され、社長の廣澤金次郎も辞任。大塚喜一郎が就任するが、すぐに辞任。尾高次郎が社長に就任し、再スタート進めることとなった。尾高はさっそく事業の整理を取り掛かることとなった。

 ここまで読んでくると、城東電気軌道はそれに参画する主たる者たちにいいように利用されたことがわかる。彼らの醜い思惑が城東電気軌道があったことが開業前にあった。そのために軌道が作られる前から、延長線が計画されもした。
 計画線とはいえ、地元を走っていた城東電車が、もしかしたら松戸までつながったかもしれないと思うと、その裏にある思惑とは別に大きな驚きであった。


(注5)
 この本、江戸川区の図書館には蔵書していない。一方江東区の図書館ではほとんどの図書館に置いてある。区分として「江東区関係」と分けられている。郷土史としてこの本はきちんと置かれるべき本として認識している。
 城東電車は江戸川区も走っていたのだから、この本は江戸川区の図書館にも置かれるべき本だと思う。
 ときどき思うのだが、江東区の図書館はきちんと置くべき本が置かれていると思う。私が読みたいと思う本が江戸川区の図書館になくて、江東区の図書館にあるというのがよくあるのだ。別に私が読みたい本が特殊というわけではない。最近出版された本でも江戸川区の図書館になくて、江東区の図書館にはあるというのを何度か経験している。
 江戸川区に住んで、区の図書館をよく利用させてもらっているし、有り難い存在とも思っている。ただせっかくならきちんと本を管理された図書館であって欲しい。だから本の選定、管理は江東区を見習って欲しいと思っている。

(注6)
 Rail to Utopia(https://rail-to-utopia.net/2018/03/209/)から参照。

(注7)
 Rail to Utopia(http://rail-to-utopia.net/2018/03/611/)から参照。


by office_kmoto | 2018-08-27 10:49 | Comments(0)

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