城東電気軌道 3

第二章 城東電気軌道開業

 1917(大正6)年12月ついに第一期工事が竣工する。同24日に運輸開始を申請、同30日から営業が許可された。


 出願から7年9か月を経てついに城東電気軌道は錦糸町・小松川間の営業を迎えることとなった。


 どうにか錦糸町・小松川間の開業にこぎ着けたものの、残りの小松川・上今井間、さらに上今井・浦安間の着工の目途が立たない。
 このまま会社は順次路線を延長していかなければ成長できない。しかし荒川放水路の横断問題が解決しないと開業している錦糸町・小松川間との路線がつながらない。社長の尾高は路線敷設の優先順位の見直しを図りつつ、旧計画の整理を乗り出した。
 まずは浦安延長線の特許を返上する。さらに砂町支線の敷設を計画する。これは錦糸町・小松川間の路線で亀戸町水神でTの字のように分岐し大島四丁目間を結ぶものである。1919(大正8)年10月13日に工事施工認可が下りると、翌1920(大正9)年1月13日に着工し、同年12月28日に砂村支線の営業を開始した。
 続いて1919(大正8)年11月25日亀戸と寺島村(現在の東向島)付近を結ぶ寺島支線を出願した。
 この頃の城東電気軌道の輸送人員は、第一次世界大戦の反動不況、1920(大正9)年の関東大震災の影響により1923(大正12)年下期で落ち込みが見られるものそれ以降は開業以来一貫して増加傾向にあった。
 1921(大正10)年2月28日には砂町支線を洲崎まで延伸を出願し、同年12月24日に特許を得た。
 さらに城東電気軌道は砂町支線から東西に延びる路線を4つ敷設することを申請するが、これは関東大震災復興を進める東京市とぶつかり、難色を示される。この東京市との衝突は城東電気軌道の限界を暗示し、ある意味運命を決定することとなる。


城東電気軌道 3_d0331556_06011311.png
(注8)


 大島・砂町4支線をめぐる東京市との論叢は城東電気軌道の限界と終局を暗示していたと言えよう。千葉進出を断念して城東に生きることを選択した城東電気軌道は東京市街地が関東大震災後急速に城東地域を飲み込みつつある中で、東京市に打ち勝つか、軍門に下るか、いずれかの未来しかないという現実を突き付けられたのである。
 しかしながら、城東地域における拡張政策を封じられた城東電気軌道に、残された手は多くなかった。


 さて、城東電気軌道は第一特許線の残りの小松川・瑞江間は工事竣工期日延長を3回行っていたが、江戸川線は東荒川・今井間は1925(大正14)年12月31日に開業した。


 江戸川線は全区間単線であったが、中間地点にあたる一之江附近の橋梁を複線構造とし、列車の交換を可能にしていた。
 荒川放水路への橋梁は断念することとなり、1926(大正15)年3月1日の小松川線・西荒川間開業にあわせて、西荒川・東荒川間に直営連絡バスの運行を開始した。



 しかしながら江戸川線は城東電気軌道の経営を好転させることはできなかった。というのも、江戸川線開業より5年前の1920(大正9)年5月に設立された葛飾乗合自動車株式会社が、小松川と行徳・八幡・浦安間を結ぶ路線バスの既に始めていたからだ。


 城東電気軌道の江戸川線と葛飾乗合自動車とは運行状況、運賃は大差がないが、浦安・行徳方面に直接行くには、葛飾乗合自動車の方が便利であった。
 いずれにせよ、最初に私が城東電車に興味を持ち、それを調べていた頃、今の荒川をどう越えたんだろう、という一番の疑問は解決した。要するに城東電車は荒川を越えなかったのだ。超えることができなかったというべきか。


 城東電気軌道は江戸川線に次いで洲崎線に着工し、1927(昭和2)年3月に稲荷前・東陽公園間、翌年1928(昭和3)6月に東陽公園・洲崎仮停留所を開業させた。
 しかし、恐慌が沿線工業地帯に深刻な不振をもたらしたこと、軌道の収容空間となる復興道路が完成する1930(昭和5)年まで市電の洲崎電停と連絡できなかったこと、同年に平行する四ッ目通りに市電が開業したことから、期待されたほどの成果はあげられなかった。
 なお、東陽公園前・洲崎間は市電と路線を共有することとなり、両社局で協定が締結されている。

城東電気軌道 3_d0331556_05520318.jpg
(注9)


 城東電気軌道は洲崎まで延びたが、一方寺島までの延長を計画していたのも驚きであった。いずれも洲崎、玉の井と遊郭につながるのである。その客を見込んだのであろうか。今の東武亀戸線は寺島線と同じ路線を走っていることになるのではないだろうか。
 このように城東電気軌道は電車事業で苦境に立たされたが、経営面でも苦境に喘いでいた。
 大正期に開業した電鉄会社、特に軌道会社は利益の半分以上は電灯事業などの兼業で生み出していた。しかし城東電気軌道は先に見た会社の歴史で、自前の電燈会社を持っていなかったため、ある意味異質であったと言える。
 ちなみに東京近郊で明治末期に電灯事業を兼営していた。代表的な事業者として、京浜電気鉄道(現京急電鉄)、多摩川電気鉄道(現東急世田谷線)、京王電気軌道(現京王電鉄)、王子電気軌道(現都電荒川線)などが挙げられる。


(注8)
 Rail to Utopia(https://rail-to-utopia.net/2018/03/218/)から参照。

(注9)
 井口 悦男 監修 /萩原 誠法/宮崎 繁幹/宮松 慶夫 編 /永森 譲 協力 『東京市電・都電―宮松金次郎・鐵道趣味社写真集』 ネコ・パブリッシング(2015/12発売)より

by office_kmoto | 2018-08-30 06:21 | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


by office_kmoto