城東電気軌道 5

第4章 区史などにみる城東電気軌道

 城東電車は当然江東区史、江戸川区史にその歴史を残している。今回はそれを拾って見てみたい。
 まずは江東区史(『江東区史 中巻』 江東区編 1997年発行 )から城東電車を見てみたい。

 亀戸町を中心とした城東地区は明治末年頃より大工場が立ち並び、大正期には工業地帯化し、そこに働く労働者も多くなり、人口も急激に増加してきた。
 ところが、鉄道・軌道の類は地域の北端を東西に走る総武線と亀戸より北へ向かう東武鉄道亀戸線があるだけで、駅は亀戸駅が一つあるのみであった。また、市電は城東地区まで路線を延長していなかったため、大島町と砂町には大正に入っても鉄道も軌道もなかった。


 先に見た『城東電気軌道百年史』には明治43年(1910)5月6日本多貞治郎他23名より軌道敷設が出願され、翌年3月7日に特許状が下りたと書かれていた。その出願者は亀戸町他沿線の資産家がほとんどであった。この願書を東京府が内務省へ進達した文書には次のよう書かれていた。


 「本軌道ハ東京鉄道株式会社特許線終点本所錦糸堀停車場附近ニ起リ亀戸町ヲ通過シ千葉県下行徳手前江戸川渡船場附近ニ至ルモノニシテ沿線中小松川及亀戸町ノ如キハ近来諸工場之続々設立ヲ見ルニ至リ人口著シク増加シ将来益発展シツゝアル状況ニ有シ該区間ニ於ケル交通機関ノ施設ハ一般ニ渇望スル処ニシテ之カ軌道完成ノ暁ニ於テハ沿道部落ハ勿論千葉方面ト東京市トノ連絡ヲ告ケ運輸交通ニ多大之便益ヲ与フルノミナラス地方産業ノ発達一般商業ノ振興ニ資スル処亦鮮ナカラソト信ス」


 また南葛飾郡長より東京府への文書には、


 「軌道敷設ニ関係アル亀戸町外四ケ町村ノ利害関係ニ付各意見ヲ求メタルニ何レモ町村発展上有益ナル事業トシテ歓迎シ且速ニ布設ノ実現ヲ期待シ居ル状態」


 とあり、軌道敷設は東京府や関係町村から期待されていた。
 ここには城東電気軌道の各路線を次のように紹介されている。


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 ここの年月日は開通した年月日で、「区内を通過せず」はこれが江東区史なので、江東区を通過しないという意味である。


 小松川線は総武線錦糸町駅・市電錦糸堀終点と連絡する錦糸町を起点として、総武線の南側を東進し、亀戸を通り浅間前より中川を渡り小松川町に入り西荒川に至る路線である。この線は本線とも呼ばれた。
 砂町洲崎線は小松川線の水神森より分岐して南下し、竪川を越え大島町の中央を南北に貫通し、小名木川を越え砂町の仙気稲荷で西に曲がり、深川区に入り洲崎に至る路線である。洲崎では市電と連絡していた。
 江戸川線は東荒川より江戸川西岸の今井までを結ぶ路線であった。南葛飾郡は荒川放水路の開削以後、明確に放水路の西部と東部で性格を分けた。西部が工業地帯化・都市化を急速に進めたのに対し、東部は農村地帯のまま置かれた。そのため城東電車の路線の中で江戸川線のみは農村部を走ることになった。


 乗車賃は小松川線開通時(大正六年)には全六区で一区一銭であった。大正七年には料金改訂と普通定期乗車券・学生定期乗車券の発行を行っている。車両は四〇人乗りの四輪車を二両連結で運転していたが、大正一四年度よりは、八四人乗りのボギー車を導入している。乗車人員は大正七年に年間二一四万人であったが順当に増加していき、一二年には七六二万人余、関東大震災以後急増して一三年には一一一三万人余となった。その後、不況が慢性的に続く中で、工業地帯の中を走る城東電車は不景気の影響を強く受け、乗客が一時減少する。しかし他に軌道のない、城東区唯一の足(城東区成立の昭和七年には同区域に一八の停留所あった)であり、工業の発展・人口の増加と共に乗客数も回復していった。昭和一四年(一九三九)の年間乗客数一三八九万人を超えている。


 それでは城東電気軌道が走っていた江戸川区ではその区史(江戸川区史 第3巻』 江戸川区編 1976年発行)にどのように書かれているだろうか。


 大正六年十二月三十日、まず第一期として錦糸堀-小松川間三・三八九キロメートルの小松川線が開通し、ついで同十年一月一日、水神森-大島間一・〇キロメートルが開通した。この線は全部工業地帯を通っているので、都心と郊外を結ぶ近郊電車というより工場関係通勤者の市内電車と同一に見るべきものであった。当時の乗客数を『小松川町誌』は次のように記している。

 大正十年  七〇九万八二八六名
 大正十三年 一一一三万四四一八名
 大正十四年 一〇六四万〇七六一名

 大正十四年十二月三十一日、東荒川-今井橋間の江戸川線が開通、三・一七八キロメートルの間に、東荒川、中ノ庭、松江、一之江、瑞江、今井の停留所が設けられた。翌十五年三月一日小松川線が二〇〇メートル延長されて西荒川までくるようになると、東荒川と西荒川を結んで同社の連絡バスが走ることとなり、乗り継ぎ、乗り換えの不便はあるものの都心から今井までの交通はぐっと楽になった。沿線の村々からはバスよりはるかに多くの利用者があり、春には篠崎堤の桜を見る人々でマッチ箱のような電車は満員となり、また瑞江あたりからは手拭を下げて乗り、松江あるいは東小松川で下りて銭湯に行くという姿も見受けられた。
昭和八年における本区内一日平均乗降者数が、京成電車が約三〇〇名なのに比較して、城東電車が約二三〇〇名と記録されていることからも、この城東電車の好評ぶりがうかがわれる。


 以上が江東区史、江戸川区史に記載されている城東電気軌道の様子である。
 江戸川線が農村部を走っていたという記述を裏づける写真が『宮松金次郎・鉄道趣味社 写真集 東京市電・都電』にある。それを見るとまさにそんな感じであった。


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(注12)


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(注13)


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(注14)


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(注15)


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(注16)


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(注17)


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(注18)


 ところでこの(注18)の写真である。これを見たときこれは一之江境川親水公園にあるレールのモニュメントあるところの写真とよく似ている。

 江戸川区史に瑞江あたりから松江に銭湯に入るために手ぬぐいを下げて乗っている乗客がいたというのは面白い。私が記憶している松江に二つほど銭湯があった。うち一つは今も残っている。この銭湯に浸かったのだろうか。

 城東電気軌道は他の本にもその記載がある。探し出した本は3冊ある。何と言っても、これまで城東電車の写真を示してきた写真集である。
城東電気軌道 5_d0331556_07085644.jpg 井口 悦男 監修 /萩原 誠法/宮崎 繁幹/宮松 慶夫 編 /永森 譲 協力 『東京市電・都電―宮松金次郎・鐵道趣味社写真集』 ネコ・パブリッシング(2015/12発売)だ。
 この写真集には城東電気軌道電車の写真がたくさん掲載されていて、なるほどこんな電車が走っていたんだと思いつつページをめくった。
 さらに当時の模様が文章で書かれていて、これも貴重である。いくつか書きだしておく。


 錦糸町を起点に水神森を経て西荒川に至る線が小松川本線です。距離にして3.6K.M.片道運転所要時間は15分、運転間隔約5分です。更に荒川方水路(放水路)を越えて東荒川から今井に至る間、江戸川線です。距離は3.1K.M.片道運転所要時間は13分、此の線は単線ですから運転間隔も13分になつて居て、松江~一之江間には待避線の設けがありますので此の間隔で双方から発車致します。
 元に戻つて水神森から南へ分岐して洲崎に至る線、之は砂町洲崎線と呼びます。此の間4.6K.M.で運転時間は15分です。錦糸町からですと水神森迄4分かゝる訳です。
 そして本線と洲崎線の発車間隔は各々5分毎に相互に発車します。次は賃金です。此の3月1日(昭和七年)から改正されて、1区3銭、2区5銭、3区7銭、4区9銭、5区11銭、6区13銭、7区15銭となって居まして、その区界は錦糸町-水神森間、五ノ橋通-モスリン裏間、モスリン裏-西荒川間、五ノ橋通-小名木川間、小名木川-稲荷前間、稲荷前-洲崎間、それから東荒川-一之江間、松江-今井間では各1区の扱いをします。之で線路と賃金と時間が分かりましたから今度は車両です。
 当社の車両は次の様に大体に於いて三通りに分類する事が出来ます。

 A. 木造四輪単車
 B.木造ボギー車
 C.半鋼製ボギー車


 ちなみにボギー車って何かとウィキペディアで調べてみると以下の通り。


 ボギー台車(ボギーだいしゃ)とは、車体に対して水平方向に回転可能な装置をもつ台車の総称である。またボギー台車を装備した車両をボギー車と呼ぶ。


 ここに電車の写真がいくつもあるが、車体の種類、材質どうなのか、素人にはよくわからない。私には写真に添えられているキャプションをたよりするしかない。


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(注19)


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(注20)


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(注21)


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(注22)


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(注23)


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(注24)


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(注25)


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(注26)


 写真を見てみると、なるほど車体は木製みたいだとわかる。車体が木製だから戦禍を免れなかったのかもしれない。今現在城東電車は残っていないようだ。もし残っているなら見てみたいものだ。


 扠て電車は「小名木川」から右折に線路に水がたまつて居る、見るからに汚たならしい工場、小家屋の一群へ突進します。「大島」「竪川通」を経て「水神森」で本線に合し再びコンクリート道路上を総武線と若干並行して「錦糸町」に至ります。錦糸町駅は白木屋支点の1階の一部フオームが構へられて居ます。


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(注27)


 「水神森」で洲崎線を右に尚もコンクリート道路を「モスリン裏」迄伝つて行きます。此の「モスリン裏」と云ふのは東陽モスリン会社の工場裏と云ふ訳で此の外に何々通り、何々裏、何々前と云つた様な軌道線特有の、親しみのある停留所の呼称が沢山あります。


 「モスリン裏」から稍々斜に右に折れて「浅間前」に至ります。併用道路は此所の亘り線の終りです。此の区間は線路に敷石もない原始的な昔の京浜電車の蒲田町附近の様な路線です。全線中割合に数多い橋梁の内で一寸渡り答へのある橋を渡りますと間もなく「小松川」、左手に車庫と変電所があります。それから一足で西荒川終点、四園の風趣はお世辞のないところ誠に汚ならしいドブと工場ばかり。


 電車を下りると、イアーこれは、電車に比較して又いとも華麗な車絡バスが待つて居りました。之に乗つて堤を上つて長い長い百足のような荒川放水路の木橋をずつと遠くの常磐線の鉄橋を眺めつゝ暫時、木橋を渡り終へて少時、いと古めかし東荒川駅です。駅と云つては趣が出て来ません。電車発着所です。これらの車輌は皆ポールを1本こつきり持つて居りません。電車も古めかしい、線路も古めかしい、唯、線路の傍に連続する鉄柱だけが若干の近代味を見せるだけ、乗客も殆ど質朴な人達ばかり、響の交錯する市中を僅30分たらずの所で、こんな風景を見る事が出来やうとは?


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(注28)


 此の辺りは水地が多いので住宅地には不向きですからいたる所釣堀が沢山あります。車中に釣竿を肩にした人々を多く見受けられるるのは之の故です。「一之江」-「松江」間が複線になって居まして双方から出る電車は此の区間で待避します。「一之江」には、名ある宗教家田中智学氏の昭和3年4月創設した妙宗大霊廟あり、其の周囲を繞る申孝園の堂閣崇大、麗塔巍然、諸の亭園樹林、泉石池丘の配置整然たる、春は幾百株の老桜、夏は郡中第一の瀧、四季をりをりの花等の人工と自然を調節美化した信仰的芸術の所産たる一境地があります。之は恐らく名所葛飾の勝を活かしたものと云へませう。

*ここに再掲する記事は、鈴木金次郎氏(その後、宮松姓)が、戦前に模型鉄道社が発行していた雑誌「鐵道」(昭和7年4、5月「鐵道」第36、37号)に掲載したもの。


 荒川放水路を挟んだ東側にも城東電軌は路線を持っており、西側とは小松川橋を連絡バスで渡り、結ばれていた。この線は後に、市電となっても他線との連絡がなく、離れ小島の存在である。最終的に都電26系統を名乗るも、系統板も掲げずに運行されていた。城東時代から廃線時までオープンデッキの単車しか走っていない。市電となってからは400形が4輌で運行されたが、路線の中間部である一之江~松江のみ複線となっていて、そこですれ違い、両端部は単線と云う形態が最後まで続いた。
 昭和27年5月20日にトロリーバスに代替される形で廃線となった。一挙に近代化された形だが、同時にトロリーバスは、荒川放水路の橋を渡って運行され、電車時代は叶わなかった直通運転が実現された。そのトロリーバスも昭和43年9月28日には廃止となり、電車時代より運行期間が短かったのは、何とも皮肉である。


 ところで「城東電気軌道1」であげた城東電車の路線案内の面白い説明がここに書かれている。拡大してみよう。


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 多数の縦の黒線と白も米粒のような描画は、煙と煙突。荒川西部は、当時既に工業地帯である。洲崎~仙気稲荷は、「工事中不開通」のスタンプが押してある。


 よく見てみると確かに「米粒のような」ものがある。これは煙突から出る煙だったのだ。そういえば永井荷風の『日和下駄―一名東京散策記』 (講談社1999/10発売 講談社文芸文庫)にも次のような文章があった。


 尤も深川小名木川から猿江あたりの工場町は、工場の建築と無数の煙筒から吐く煤烟と絶間なき機械の震動とによりて、稍西洋なる余裕なき悲惨な光景を呈して来た。(第五 寺)


 そして仙気稲荷~洲崎の間には、「工事中不開通」のスタンプが押してあったのだ。


城東電気軌道 5_d0331556_06442366.jpg もう一冊は、原口隆行著『日本の路面電車<2> 廃止路線・東日本編-思い出に生きる軌道線』JTBパブリッシング(2000/04 発売)JTBキャンブックスである。
 この本はシリーズものになっていて、いわゆる日本全国の廃止路線のことを書いた本である。その中に城東電気軌道のことが書かれている。内容は基本的には城東電気軌道の歴史をコンパクトにまとめたものだ。
 ただ城東軌道の敷設が何故許可に関して『城東電気軌道百年史』にはなかったことが書かれている。


 大正6年といえば、都心部で激しい競争を繰り広げていた東京電車鉄道、東京市街鉄道、東京電気鉄道が合併して誕生した東京鉄道が東京市電電気局が司るという合意が暗黙の了解として成立していたはずである。
 なぜ、このような時にこの城東電気軌道が新たに私鉄として設立されたかは定かではないが、おそらくこの地帯が低湿地帯で雨が降るとすぐ浸水するといった地理的条件が災いしたのであろう。


城東電気軌道 5_d0331556_06501051.jpg


 言っていることがよくわからない文章である。ここがよく浸水する地域だから、許可が下ろされたみたいな書き方だ。浸水することが「災いした」と書くことは、城東電気軌道にババを引かせたみたいだ。
 確かにこの地域は今でもゼロメートル地帯として有名だ。歩いているとわかるが、たとえば橋を渡るっていると道路が川より低い位置にあることが実感出来る。
 当時は排水設備が不十分だったろうから、大雨が降れば簡単に浸水しただろうな、と推察できる。当然城東電気軌道も浸水に苦労しただろう。そのことを書いた文章があったのはこの本だけであった。


 こうして半端な状態であったがともかく路線網を完成させた城東電気軌道では、その後も次第に乗客も増えてきたことから車両の更新をはかり、木造ながらボギー車を投入、次いで半鋼製車もつぎ込んだが、相変わらず水害には悩まされ続けた。雨が長引いたり、大雨になるとたちまち路線が水浸しになって運行ができなくなるほどだ。
 同社にとって水の問題は深刻であった。昭和13年(1938)9月1日の台風では大きな被害を被り、車両の手当てがつかなくなり、東京市電局から数両借り入れて対応しなくてはならなかった。


城東電気軌道 5_d0331556_06512694.jpg 最後の1冊は山田 俊明 著 『東京の鉄道遺産 百四十年をあるく』〈下〉発展期篇 けやき出版(立川)(2010/03発売)である。この本はいわゆる城東電気軌道の面影を現在探ることが出来る場所を教えてくれている。次の章でこの本を元にして城東電気軌道が走っていたところにその面影を見ることが出来る場所を訪ねてみたのでそれを書いてみたい。


(注12~28)
 井口 悦男 監修 /萩原 誠法/宮崎 繁幹/宮松 慶夫 編 /永森 譲 協力 『東京市電・都電―宮松金次郎・鐵道趣味社写真集』 ネコ・パブリッシング(2015/12発売)より


by office_kmoto | 2018-09-06 04:26 | Comments(0)

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