沢木 耕太郎 著 『銀河を渡る 全エッセイ』
2018年 12月 21日
まあ、どこの出版社から出てもいいのだが、出来れば同じ「全エッセイ」なら同じ装丁でシリーズみたいになっているからそろえてくれれば見栄えもいいのにと思ったのだ。
いくつか気になる文章があったので書き出してみる。
沢木さんといえばやはり旅について書かれた文章が気にかかる。
心に残る、という言葉がある。それとよく似た言葉に、心を残す、というのもある。心に残るという言葉が、あるものが自分の心に棲んでしまうことだとすると、心を残すというのは、自分の心をある場所に残し、棲まわせてしまうことだと言えるかもしれない。(心を残して、モロッコ)
しかし、遅かったかな、と思わざるをえなかった。来るのが遅かったかな、と。少なくとも、私が二十代のときに訪れていたら、まったく異なるマラケシュに遭遇できていたにちがいなかった。
――遅れてしまったか……。
だが、あらゆる旅人は常に間に合わない存在なのだ。たとえ、二十代のときに訪れていたとしても、たぶん「遅かった」と思っただろう。旅人は宿命的に遅れてきた存在にならざるをえないのだ。(心を残して、モロッコ)
彼らが感動するのは、すでに、中国や香港だけでなく、台湾にもタイにもマレーシアにもシンガポールにも高層建築群は存在しており、高速鉄道がある国も珍しくなくなっている。彼らはそういうものではなく、日本人にとってはなんでもないこと、つまり、清潔なこと、親切なこと、おいしいことといったようなものに心を奪われているらしいのだ。
かつて私はこう書いたことがある。
旅には「夢みた旅」と「余儀ない旅」との二つがある。人は「余儀ない旅」を続けながら、時に「夢みた旅」をするのだ、と。
しかし、近年は、その「夢みた旅」も大きく二つに分かれるのかもしれないと思うようになった。
ひとつは自分が自分の足跡を残す旅であり、もうひとつは誰かが踏み残した足跡を辿る旅である。(足跡――残す旅と辿る旅)
大きな旅の多くが誰かの足跡を追う旅、辿る旅になってしまっている。(足跡――残す旅と辿る旅)
沢木さんのする旅とはいわゆるツーリストとしての旅ではなく、ジャーナリストとしてあるいはノンフィクション作家として、誰かを足跡を辿る旅が多くなっていることだろう。それが職業柄多くなってしまったことに、少々無念さがあるのだろうか。
だからか、次のように書く。
もしかしたら足跡を残す旅と足跡を辿る旅とのあいだには、あまり差がないのかもしれない。まっさらと思えている前途にも、見えない点線がついていて、それを無意識に辿っているだけかもしれないからだ。(足跡――残す旅と辿る旅)
言い訳がましいく聞こえるけれど、これはその通りではないかと思う。まっさらな旅などあり得ないのは真実であって、どこかで誰かの影響を受けてその旅が始まるのはやむを得ないのではないか。
次に本に関する文章。
あるとき、年長の作家にこんなことを訊ねられた。
「もし家に本があふれて困ってしまい処分せざるを得ないことになったとしたら、すでに読んでしまった本と、いつか読もうと思って買ったままになっている本と、どちらを残す?」
当時、まだかなり若かった私は、質問の意味がよくわからないまま、考えるまでもないという調子で答えた。
「当然、まだ読んだことのない本だと思いますけど」
すると、その作家は言った。
「それはまだ君が若いからだと思う。僕くらいになってくると、読んだことのない本は必要なくなってくるんだ」
そして、こう付け加えた。
「でも、君たちにとっても、実は大事なのは読んだ本なんだと思うよ」
「そういうもんでしょうか」
私はそう応じながら、内心、自分は読んでもいない本を処分ることなど絶対にできないと思っていた。
だが、齢をとるに従って、あの年長の作家の言っていたことがよくわかるようになってきた。そうなのだ、大事なのは読んだことのない本ではなく、読んだ本なのだ、と。
文書を書いていて、あの一節をここに引用してみたらどうだろうと思いついたりするのは、当然ながらかつて読んだものの中にしかないということもある。読んだことのない本から引用することはできない。しかしそうした実際的な理由ばかりでなく、暇な時間に、ふと読みたくなるのが、新しい本より、かつて親しんだ作家の何度も読んだことのある本だということが多くなってくるのだ。(キャラバンは進む)
これは年長の作家の言い分に分があると思う。それは歳をとればとるほどそう思う。実際自分の本棚でも、棚に残してあるのは読んだ本たちだ。
まだ読んでいない本でも、それを読み終えてまた本棚に戻すかどうかの基準は読んで何らか気にかかる文章がある本たちであり、少なからず感動なり、感心した本たちである。なんでも本棚に戻すわけにはいかない。そんなキャパシティがない。
ただ残念なことにまだ読んでいない本が多く棚にある。
私には本に関して強迫観念がある。これを今読まなくてもいつか読みたい。けれどその時この本が手には入るとは限らない、ということを知っている。
本屋に勤めていた頃、本がすぐ品切れ、重版未定、ちょっと古い本だと絶版という状態になるのを、短冊(注文票)にベッタとその旨のゴム印が押されて帰って来るのを見ていたからである。そしていったん新刊書店で手に入れそこなった本を古本で探すのは、今みたいにインターネットが普及していない時代だったから、古本屋を歩いて探すしかなかった。その苦労(それはそれで楽しかったけれど)を実感しているので、本を見たらまず手に入れてしまうことだと思い続けた結果、読んでいない本が本棚に溜まってしまった。これでもだいぶ処分したのだけれど、まだそれなりにある。それを一所懸命読んでいる。だからどうしてもこのブログに載せる本は古くなるのだ。
あと沢木さんが言うように私も最近はとみに新しい作家の本を読むより「かつて親しんだ作家の何度も読んだことのある本だということが多くなってくる」傾向があり、改めて昔読んだ本を読み返すことが多くなった。
どうしておまえたちはすべてのものに教訓を求めるのか。ひとつの話を聞く。どうしてそこに教訓があるなどと考えるのか。教訓を引き出すということは、そこですべてを終わりにして安心するということだ。あるいは、ひとつの事件が起きる。すると、その出来事の一端が露わになっただけで、すぐわかったような顔をして、たんなる思いつきをしゃべりはじめる人がいる。そして、その事件から教訓なるものを引き出し、ひとりよがりの説教をして幕を下ろそうとする。物事によっては教訓などないものもありうるのだ。あるがままの話。あるがままの出来事を、ただ受け入れるより仕方がないものもあるのだ。もしかしたら、教訓など引き出せない方が普通だとさえいえるかもしれないではないか……。(教訓は何もない)
私はこのエッセイ集のなかで「この季節の小さな楽しみ」、「ありきたりのひとこと」がちょっとしたコラムのようで、しかもほっこりさせる文章だと思っていて気に入っている。
「この季節の小さな楽しみ」では、沢木さんが仕事場へ通う途中に今川焼きの店が出ていて、駅前より住宅街のここの方が個数が売れることや、母親と娘は沢木さんの本を読んでいることなど話す。母親がカタカナが多くて苦戦していたようだけれど、聞けば、後半は山の名前と人名の区別がつくようになったようです、と聞いて大笑いし、その晩はとても幸せな気分になったことが書かれる。
時たま売り切れているときもあって、売り切れて良かったなあと思う一方で今川焼きを食べたかったなあ、と思うのであった。
「ありきたりのひとこと」では、仕事場に向かうエレベーターに宅配便の若者と一緒になる。一日の配達数など聞いて「たいへんだね」、「頑張って」と声を掛けると、その若者は帽子をとって軽く会釈しながら「ありがとうございます」と言った。たったそれだけのことなのだが、その若者の返事がとてもいい気分にさせてくれたことを書く。
沢木さんの父親が亡くなったとき、幼い男の子と母親が焼香に来てくれた。その時母親が、沢木さんの父親がエレベーターで男の子と一緒になるとよく声を掛けてくれ、それがその子にはとても嬉しかったようだったことを聞く。
これも先の宅配便の若者同様ありきたりの言葉が声を掛けた方、掛けられた方とも一瞬の温もりをもたらすことを感じることが出来る。ちょっとした短編風で良かった。
それで思い出すことがある。
娘は昼間は仕事に出ているのでインターネットで注文した荷物を直に受けとることが出来ない。そのためその荷物の受けとり場所が我が家になっている。娘は頻繁にネットで注文するから、宅配便の業者が一日に何度も来る。そのため荷物を受け取るとき業者と少し話をすることが多くなった。彼らとの話はちょっとしたことだなのだけれど、心に残る。たとえば要らないレコードを運んでもらったとき、業者は「高く売れるといいですね」と言ってくれたり、荷物を受け取るとき「またお願いします」とその業者に直接注文した訳でもないのにそう言ってくれる。それだけのやりとりなのだが、沢木さんの言うようにいい気持になれる。
だが、「お・も・て・な・し」が気恥ずかしかったのはそれだけが理由ではなかった。「もてなし」に「お」がつけられている。なんだか、そのことによって、彼女のスピーチが、味より外見や雰囲気で会食の店を選んでしまう、社用の接待係の台詞のように聞こえてしまったのだ。
たぶん真の「もてなし」の精神とは、「おもてなし」をしているなどということをあからさまに示さないところにあるのだろう。社用の接待係のように、いかにも「接待している」ということを相手に伝えなければならないというのではないかぎり、「もてなし」は、しているかしていないかわからないくらいのさりげなさをよしとするはずだ。
異邦の人を迎えるのに必要なのは、過剰な「おもてなし」ではなく、「お」のない、ごく普通の「もてなし」であるだろう。そして、その「もてなし」は、偶然の出会いによる親切心から出たものであっても、また、計算に裏打ちされた商売心から発したものであっても、「相手の身になる」ということが基本であってほしい。(「お」のない「もてなし」)
「もてなし」に「お」を付けるのはそれを言っているのが女性だからとも言えるし、敬語的意味合いも含めそう言ったのだろうとも考えられる。ただどうであれ、あのプレゼンが胡散臭いのはオリンピック招致が商売がらみの匂いがてしまうし、下心丸出し感がぷんぷんする。
「もてなし」に「お」を付けるのもそういうことなんじゃないかと思う。もっとも東京オリンピックに疑問を持っているものだからそう感じるのかもしれないが……。
沢木 耕太郎 著 『銀河を渡る 全エッセイ』 新潮社(2018/09発売)