今谷 明 著 『ビザンツ歴史紀行』

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 この本は図書館でヨーロッパの歴史というジャンル別で分けられた棚で見つけた。もともとビザンツの歴史には興味があったので、これは面白そうだなと思い、ついでに借りた。
 読んでみて楽しかった。ビザンツの歴史はあまり知られることがないが、意外に面白かった。
 だいたいこういう紀行文は専門外の人が書くと、一所懸命仕入れた知識を披露するあまり、かえってわかりづらくなってしまうことが多い。(清水義範さんの紀行文がその傾向がある)むしろここでそれを言わなければいいのにとさえ思うときもある。
 一方専門家の紀行文はその専門的知識が文章を難しくする。その点著者は日本中世史家なので、専門的なヨーロッパ史家とは違う。そのため歴史家というスタンスは持ちつつも、専門外であることが、ここで披露される情報は適度専門的であることが良かった。妙に専門家ぶったところがなくて、素人でもわかりやすく説明してくれている。地図や写真、図版が多いのもうれしい。
 最初はなんで日本中世史家がビザンツなのかと思うところがあったが、何でもビザンツの封建制度と日本の封建制度の成り立ちや、その姿が類似しているところがあるらしく、その比較でビザンツなんだそうだ。その類似性をあちこちでこの紀行文で紹介している。
 むかしギボンの『ローマ帝国衰亡史』を苦労して読んだが、その『ローマ帝国衰亡史』が読みたかったのもローマ続きでビザンツに興味があったからだ。ちなみにその関係で現在のトルコにも興味がある。
 『ローマ帝国衰亡史』はそのほとんどがビザンツ史になっていた。衰亡史だから当然そうならざるを得なかったのだろうが、この本によると、ギボンはイスタンブールを訪れていなかったらしい。
 この本はビザンツ帝国が最盛期の頃のイタリアもその勢力下に置いていたので、イタリアのラヴェンナとヴェネツィアから旅が始まる。そしてギリシアのアトス山を訪問している。そして本丸のコンスタンティノープルに移る。
 まずはなんといってもヴェネツィアに興味がある。その成り立ちを次のように記述している。

 北伊の地に最初の蛮族が襲来したのは、五世紀初めの西ゴート族、次いで四五二年のフン族アッチラ王の軍隊、次いで四九九年の東ゴート族、次いで六世紀半ばのランゴバルト族、次いでフランク族のピピンの侵略、十に入って世紀マジャール族の侵寇と、ひっきりなしに来襲がくり返された。
 この地は南にポー川、アルプスから南下するアディジュ川、ピアヴェ川等、諸河川のデルタ地帯で、芦狄の茂る汽水域(干潟)が漂渺と広がっていた。蛮族の侵入の度ごとに付近住民はこの干潟へ逃亡し、ほとぼりが冷めると自分のらの住居へ戻っていったらしいが、五世紀中頃には干潟に定住する人びとも出て来たらしい。要するに北伊海岸住民の駆け込み寺であったこの干潟が、五世紀のある段階で、水上都市への形成へと乗り出したのである。

 ゲルマン民族らがイタリアを目指したのはローマの存在であったと昔習ったことがあるが、そうした蛮族の襲来がヴェネツィアを生んだらしい。そしてカール大帝のときヴェネツィアはビザンツ領と定められた。以来ヴェネツィアはビザンツを宗主として建ててきたが、第四回十字軍でヴェネツィアはコンスタンティノープルを陥落させるのは皮肉な話であった。
 干潟であった軟弱な土地にあのサンマルコ大聖堂を建てているのである。その地盤強化に興味がある。それをここで紹介しているので書き出してみる。

 基礎工事は、とり立てていうほど特殊な技術でも何でもない。かつては日本でも、戦前まで行われていたという、木の杭を大量に地中に打ち込むというあれである。

 (略)

 その打ち込まれた杭の数が半端ではない。林達夫は聖デラ=サルーテ寺に十七万本、鐘楼には十万本、リアルト橋には一万二千本、魚市場には一万八千本と書いているが、さきほど私が見た看板の断面図を見ると、そんなに多いようにも見えないのだが。
 ともあれ、この杭が数百年、千年の間にどうなるかという変化を、別の本では次のように解説している。
 打ち込まれた水底の杭は、酸素がないので腐らず、塩水と木に含まれるタンニンが反応して石化し、家の重みをしっかりと支える。
 (『週刊ユネスコ世界遺産 第二号 ヴェネツィアとその潟』講談社 二〇〇四年七月)
 杭による基盤が如何に強靱であるかは、一九〇二年サンマルコ広場の鐘楼が崩落したとき、土台はビクともせず残っていたことからも裏付けられるという。

 軟弱な地盤強化のため木の杭が打ち込まれるというのは丸の内界隈でも明治時代おこなわれて、その杭が残されているはずだ。
 いずれにせよ、大量の木材が消費され、そのため切り出された山は禿げ山になっただろうと著者は推測している。その大量の杭をヴェネツィアは魚と塩で利益を出し、手に入れた。
 コンスタンティノープルでは著者は短期間に二十三の教会や聖堂を訪れている。その姿が写真に掲載されているが、いずれも重厚な煉瓦造りで、これ本物を見たら圧巻だろうなと思うと同時に、実際に目に出来て羨ましくもあった。
 いわゆるイスタンブールにある教会はトルコによってイスラム教寺院などに改修されていることは有名な話なのだが、それが丁寧な扱いを受けたため、今でもビザンツ建築を見ることができるようだ。

 とにかく、第一印象は、イスタンブルに「依然としてビザンツ教会健在なり」ということだ。もう一つの感想は、トルコ人がギリシア正教会の建物を丁寧に取り扱ったということである。聖像を漆喰で塗り隠し、ミナレットを一本建てるくらいで、あとは丸柱をピアに変えるくらいのことしかしていない。

 それでも、ハギア=ソフィア大聖堂と地下宮殿を除いて、これだけ多くのビザンツ遺跡が、五〇〇年余のトルコ支配を経てなお存在していることは意外であった。とくにビザンツ聖堂・教会については、モスクに転用されたことによって現在まで伝えられてきた、という面が強いのではないだろうか。総じて、イスラーム教は、ビザンツ聖堂をきわめて丁寧に取り扱った、ということは少なくとも言えそうである。オスマン帝国が、ビザンツ帝国の継承国家であることを深く認識していたことと関係があるように思われる。イスラーム教徒はメッカへ向かって礼拝する。ビザンツ教会の方向性とはまったくことなるイスラーム教会に転用して、教会建築自体に大きな改変を加えなかった事実は、彼らがビザンツ聖堂様式にいかに親近性を覚えていたかを何よりも示すものといえよう。

 ビザンツ様式の建築物が現在まで残っているのは、それらがイスラム教寺院などに改修されたからこそだったのだ、と知った。
 ここに書かれている地下宮殿について触れる。ダン・ブラウンの『インフェルノ』の舞台になったハギア=ソフィア地下宮殿だ。
 コンスタンティノープルには大規模な地下貯水池が各所にあるらしい。

 以上のような大規模な地下貯水池によって、中世のコンスタンティノープルは、何年もの包囲攻撃に耐え抜く籠城が可能になった訳で、三重城壁とあわせ「難攻不落の堅塁」と称される根拠の一つであった。

 この紀行文は時たま文語体で書かれるところがあり、披露された著者の日記は文語体なんで、この人歳いっている人かなと思ったら昭和十七年生まれの人だった。しかも京都出身だから、さもありなんと思った。そんな人が昼食や休憩に地元の店に入るよりマクドナルドへよく行かれるのはおかしかった。マックは世界のどこへ行っても値段が安いし、何よりも支払い金額を日本円で想像できるから、心配しないで済む。だから重宝なのだろう。

今谷 明 著 『ビザンツ歴史紀行』 書籍工房早山(2006/10発売)


by office_kmoto | 2019-01-26 06:48 | 本を思う | Comments(0)

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