大久保 元春 著 『神田川河畔物語―今昔縁探しの旅』

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 神田川はご存じの通り井の頭公園の池から隅田川へ注ぐ、都心を流れる川である。それを思うと、私はこの川のことを知っているのは御茶ノ水からで、川の一部しか知らないことになる。
 この川が気になりだしたのは、私が高校時代から御茶ノ水に本を買うために出かけたときから、大学、社会人と御茶ノ水、あるいはその界隈にいたからである。必ず近くにこの川があったのだ。ある意味地元にある新中川より身近にあったかもしれない。だからこの川について書かれてきた本はこれまでいくつか読んできている。そして今回も図書館でこの本を棚から見つけ手にした。
 はじめにには次のようにある。

 そこで神田川河畔を辿り、川の流れに沿ってどんな縁があったのか、探すことで少なくとも神田川河畔の特長とそこで繰り広げられた中身を明かすことが主なねらいである。
 そのために本書は、できるだけ神田川及びそれと関係の深い川を取り上げることで、その縁の関係の深さをエピソードや史実を交えながら紹介、本文とは別に「縁話」として百話にまとめている。

 というわけで、この本では神田川の歴史を辿ることと、神田川が著者の人生に如何に関わっていたか、その人間関係を「縁」として振り返る。
 そもそも神田川は、天正18(1950)年に江戸入りした徳川家康が家臣の大久保藤五郎(忠行)に命じ、井の頭の名水を江戸に引いた神田上水を始めとする。著者の祖先はその大久保忠行を傍系とするらしく、話はそこから神田川の「縁」を語る。以来生まれた場所、大学、さらに会社といずれも神田川に縁があったと、多少強引に結びつけているところはなきにしもあらずだが、読んでいると神田川に関する歴史等より、そちらに重点が置かれている、しかもその「縁」どう見ても個人的な関わり合いでしかなく、なんか個人出版の本を読んでいるのか、と思ってしまう。
 それにこの本の最大の欠点は地図や写真が一枚もないことである。神田川をここまで詳しく歩き、多くの橋を渡り、周辺の神社仏閣の名前を列挙するのはいいのだが、それがただ文章だけだと、どうもよくわからなくなる。まして私みたいに中途半端にしか神田川を知らない人間だと、地図は最低限欲しい。だから知らない場所は単に文字を追うだけになってしまった。
 そんな風に文字を追っていると、あれ?おかしいな、と思える箇所がいくつも見つかる。面白いもので私のようにおかしいと思った箇所を以前にこの本を借りた人も鉛筆でチェックを入れている。図書館で本を借りて読んでいると、こういう訂正を書き込んだものをいくつか見かけることがある。
 しかしこの本、おかしいところが多すぎる。たとえば、

 中野駅近くの日本閣……(p76)

 日本ペンクラブ理事でもある阿藤田高氏……(p92)

 西神田を過ぎると東西線神保町駅も近い。(P226)

 江戸時代に徘徊師宝井其角(一六六一~一七〇七)や……(p346)

 神田川水源となった井之頭公園……(P368)

 いくつかはワープロの変換ミスなのかもしれない。ちなみに日本閣は最寄りの駅は東中野ではなかったか。阿藤田高ではなく阿刀田高である。それに東西線に神保町駅はない。井の頭公園はそれまで井の頭公園としていたものがこのページだけ井之頭公園となり、統一感がない。俳諧師を徘徊師としちゃあ、其角は怒りそう。
 私は興味のないところはざっーと読んでいたので、この調子だと、もしかしたら他にもおかしなところがあったのかもしれない。
 いずれにせよちょっとひどすぎる。校正をちゃんとやっていない。この出版社の編集者はよくもこんな雑な仕事をしているもんだ。
 だからここにある知らない地名や人名など、もしかしたら間違ったまま読まされている可能性もありそうだ。やっぱりこの本は個人出版レベルなのかもしれない。
 本として公に出版される以上、だから図書館に置かれるわけだが、信用性の問題はできる限り担保してほしいものだ。この点いい加減は許されないと思う。
 そんな中これは大丈夫かなと思え、しかも気になった文章を書き出しておく。

 昭和四八(一九七三)年、フォークソングのグループ、南こうせつとかぐや姫が歌った「神田川」は、今では誰でも知っている曲である。最初はLPのB面で出したが、シングル盤がオリコン週間シングルチャート連続七週間第一位となり、約百六十万枚の大ヒット(に)なった。おまけに翌年映画化された。
 この歌の作曲は南こうせつ、作詞は喜多條忠であった。二人がコンビを組んだのは昭和四六(一九七一)年で、既に二曲出していた。そして翌年のある日、南は三曲目の作詞を喜多條に依頼した。「いつまでに」ではなく、「今日中に」と迫られ、「いくら何でもそれは無理だ、できない」と断ってタクシーに乗った。喜多條、二十五歳の時であった。神田川のほとりで降り、川面を見つめた時ふと早稲田大学時代、神田川の下流で同棲していた人のことを思い出す。
 彼女が「この川、神田川と言うのよ。神田でもないのに」とつぶやいたことが頭をよぎった。その瞬間、歌のタイトルを「神田川」に決めた。その五年前、早稲田大学の学生だった彼は、神田川のほとりに建つ木造二階建の下宿の三畳間に同級生の彼女と暮らしたことがありありと思い出され、一気に歌詞を書き上げるとすぐ南こうせつに電話した。
 電話口に出た南は、急いで手元にあったスーパーの折り込み広告の裏に喜多條が読み上げる歌詞を書き留めて行く。最初はなんだ、神田川かと思ったが、受話器の向こうで歌詞を伝える喜多條に、いつしか南も書き取っている間に口ずさんでいた。そして書き終えた頃には曲ができていた。電話を切った五分後、かけ直し電話口でギターを弾きながら南は歌っていた。
 出来上がった歌詞を見ると「窓の下には神田川、三畳一間の小さな下宿」と、そこには喜多條が彼女と一緒に暮らした下宿が描かれている。実際、その場所は高田馬場に近い神田川の戸田平橋と源水橋の間の南岸にあった。その下宿も一番で詠った銭湯の安兵衛湯も今はないが、彼が銭湯に行く途中立ち寄った古書店街に残映を留めるだけだ。
 当時、喜多條忠が書き上げた「神田川」の歌詞は女性の言葉で書かれていたので、当初は軟弱な、あるいは叙情的な四畳半フォークと冷たい反応や揶揄があったが、喜多條の意図や気持ちは違っていた。自分の気持ち抑え、抑制した調子で詠うことで、隠し味が効くように人の心を打つ歌詞となった。実は、六〇年安保の時から学生運動は激しく、その後も時の権力体制に抵抗、喜多條を含め、多くの学生が学園紛争に巻き込まれ、苦闘していた。
 数年にわたって展開された流れの渦中に好むと好まざるに関わらず押し込まれていた。若者は勉学どころか次第に大きな力に押し潰され、無力感、脱力感に襲われ時代に直面していた。こうした当時の背景を理解しないと、たかがフォーク、歌じゃないかと思ってしまうかもしれない。

 明治二(一八六九)年、昌平黌の跡を大学校としたが、明治五(一八七二)年に我が国最初の師範学校が設立された。その後、明治三五(一九〇二)年には東京高等師範学校となった。明治三六(一九〇三)年、東京高等師範学校は大塚に移転し、跡地には現在の東京医科歯科大学が設立されている。
 また、明治四一(一九〇八)年、東京女子高等師範学校が新設され、戦後お茶の水女子大学になる。お茶の水女子大はその後、大塚に移り、その跡地に今の順天堂大学が建っている。

 そして万世橋の次は神田ふれあい橋である。あまり聴き馴れない橋の名だが、もともと東北新幹線の工事用歩道橋であったのをそのまま橋として残したものである。ただ、ここからの方が柳森神社が近い。

 そうなんだ。今の医科歯科大のところに江戸時代の昌平黌があったのか。そして順天堂の前にはお茶の水女子大があったとは、初めて知った。
 神田ふれあい橋は、秋葉原の駅を出てからだと、ちょっと見えない。高架橋(ワシントンホテルの手前にある)を越えてすぐのビルの間を入ると、この橋がある。この橋、言われてみれば工事用の歩道橋だ。

大久保 元春 著 『神田川河畔物語―今昔縁探しの旅』 菁柿堂(2011/10発売)


by office_kmoto | 2019-02-27 05:56 | Comments(0)

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