内田 洋子 著 『対岸のヴェネツィア』

d0331556_05525141.jpg
 この先で、ヴェネツィアが待っている。しばらくぶりに会う、大切な人のようだ。(雨に降られて、美術館)

 著者はヴェネツィアに憧れていた。

 ミラノからヴェネツィアに移住したいと思い、住む家を探すが、なかなか快適までは行かなくても住みやすい場所が見つからなかった。
 いわゆる観光でヴェネツィアに来ているのと違い、実際に暮らすとなれば、海風、冠水、それにより建物は黒カビが生え、劣化している。運河、数多くの橋、迷路のような狭い路地、車はない。そんなところで暮らすとなれば、憧れだけでは暮らせない現実を知ることになる。

 ヴェネツィアは手強いですね。(雨に降られて、美術館)

 この本は我々が一種の憧れで見ているヴェネツィアとは違う、そのありのままの現在、人の姿、そしてその歴史を実際に暮らしてみて、わかったことを教えてくれる。その描写を順番に書き出してみる。

 ヴェネツィアのことを〈海の都〉と呼ぶ人がいるけれど、そうだろうか。
 漁師や船乗りたちが下船するとき、「揺るがぬ地(Terra ferma)に着いた」と言う。揺るがぬ地である大陸と、いつ沈むかもしれない干潟のあいだに揺蕩うのは、<動かぬ海>だ。外海から内海に流れ込み、そこに滞る水に、ヴェネツィアは囲まれている。それは海の端というか、海の成れの果てというか。もはや飛沫を立てず、流れと渦を失い、潮騒を忘れ、ひたりと空を見あげている。ここは世界の東と西が寄って離れ、入り混じり、新しい時代が生まれては消滅し、いくつもの過ぎた時が沈殿していった。海は不要になったものを外へ連れ出し濾過していくのに、ヴェネツィアでは淀み、澱となる。そして何かの拍子に浮き上がってきては、いま陸にいる人をどきりとさせたり懐かしがらせたりする。(所詮、ジュデッカ)

 ヴェネツィアは、歩けば教会である。神頼みを重ねてきたこの町の歴史を思う。
 ここで暮らす者にとって旅立つことは日常であり、航海から戻ってくるときには新しいものを持ち帰る。新奇な物資や人材、情報、接点を提供して、生きる糧を得てきた。しかし外から連れ込むものが、いつも好機に繋がるとは限らない。病気に狼藉者、猛獣や害虫、人を惑わし唆す媚薬や麻薬、悪習だったりすることもあっただろう。あるいは、幸運が道を開き、富を築き。繁栄をもたらす。しかしまた、富裕になればなるほど所有欲は煽られ、足ることを知らず、争っては奪い、妬んで誹る。(エデンの園)

 「ヴェネツィアは、物や人の出入りをさせて商売の場を提供し、財をなしてきた。狭い島なので、なるべく嵩張らない商材を扱った。胡椒や宝石や情報をね」
 ヴェネツィアが栄えたのは自らが直接に関わる売買の利益もさることながら、入ってくる商材にまず関税を課し、次に島内で商売させて売高に課税し、また国別に商人たちが囲い込んで滞在させ賃料を取り、納税後には飲む打つ買うで楽しませて搾り上げ、教会で懺悔と加護を提供して、成しえたのだった。(紙の海)

 「ヴェネツィアには、書棚を並べると七十キロメートルにも及ぶほどの公文書がありまして。共和国時代に遡る、千年を超える町の記録ですから」(紙の海)

 この町の水上運搬の職には、世襲制のようなものが多い。数世紀前から縁故関係で成り立つ世界は、私利の守られた特権集団だ。ほとんどが男性。そういう排他的な世界では、仲間内だけで通じる隠語、あるいは目配せや合図を知ることが処世術となる。
 「生まれたときから将来が決まっているのだ。読み書きなど、何の役に立つ?」
 さまざまな事情から口の重い妻たちは、そのまま母親となる。豊かな言葉が世界を広げるのなら、貧しい言葉は囲いを築く。(読むために生まれてきた)

 暮らし始めると、幻都ヴェネツィアですら日常になる。駅、友人との待ち合わせに喫茶店、キオスクで新聞を買い、青果店にパン屋、映画館や書店、毎日の公園に薬局もときどき。大都市と違うのは、なんでも数が限られているということ。町の存在自体が非日常の中で<普通>を探して毎日の生活を組み立てる。慣れないうちはハレなヴェネツィアばかりに目が眩んでしまい、ケがどこにあるのか見つからない。
 評判の高い店があると聞いても、すぐに行ってみよう、とはならない。家を出て、水上バスで本島に渡り、歩きに歩き、橋を越え、曲がり、ああまた橋か……。やれやれ冠水やれ強風、と道を変更しているうちに迷う。結局たどり着けずに帰宅する。無事到着できても、食材店や書店、嵩張る品物を扱う店であれば、たとえ気に入ったものが見つかってもおいそれとは買えない。今手ぶらで来たあの道を、荷物を提げて戻れるのか。橋はいくつあったっけ。狭い路地の幅を思い浮かべる。ポツリ。雨も。見聞に止めて、そのまま引き返す。
 かつて暮らしたどんな寒村よりも、ここは辺鄙だ。
 楽に暮らすには、近所の店で事足りるように自分の暮らしを合わせればいい。デザインが野暮ったかろうが気に食わない色だろうが、しかたがない。(揺れる眼差し)

 町のありようは、そのまま人間の本能の一覧だ。
 干潟へ上陸してくる商人たちの儲けをまず関税で徴収し、碇泊料を課し、飲む打つ買うで楽しませて骨抜きにし、不足すれば高利で金を貸し利息を得て、より長く滞在させて賃料を稼ぎ……。集まる金を目掛けて、混在する異文化から斬新な情報と人材が流れ込み、新たな世の動きが創られていく。
 ヴェネツィアの女たちは、海の男たちの扱い方を心得ている。それは吹き荒れる風や潮の満ち引きを処し、退屈な凪をやりすごして、日々うまく折り合いを付けて暮らすのに慣れているからだ。(女であるということ)

 いろいろ不便はある場所だけど、著者の友人が言うように「何でも処し方次第よ」となる。逆にいえば、生活するには、あるいは働くには、かなり不便な町だけど、それでもこの町はそれ以上の魅力がこの町にはあるということなんだろう。
 私は単に憧れでこの町に魅力を感じるから、内田さんの著作を読んでいる。そもそも私はローマを含むイタリアの歴史が好きなのだ。

内田 洋子 著 『対岸のヴェネツィア』 集英社(2017/11発売)


by office_kmoto | 2019-06-05 05:55 | 本を思う | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


by office_kmoto
プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る