養老 孟司 著 『身体巡礼―ドイツ・オーストリア・チェコ編』
2019年 08月 08日
埋葬は典型的な文化的習慣、日本風にいうなら「世間とはそういうもの」なのである。
そこでまず取り上げるのがハプスブルク家の遺体の埋葬の仕方である。
ハプスブルク家の一員が亡くなると、心臓を特別に取り出して、銀の心臓容れに納め、ウィーンのアウグスティーン教会のロレット礼拝堂に納める。肺、肝臓、胃腸など心臓以外の臓器は銅の容器に容れ、シュテファン大聖堂の地下に置く。残りの遺体は青銅や錫の棺に容れ、フランシスコ派の一つ、カプチン教会お地下にある皇帝廟に置く。つまり遺体は三箇所に埋葬される。どちらも歩けば十分以内の距離だ。
死んだ人の体をわざわざ三分して埋葬するのは、身体の各部が「それなりに意味を持つ」からに違いない。
そこで次に養老さんは「死」の人称について述べる。
まず第一に、一人称の死体は存在しない。自分の死体というのは「ない」。自分の死体が生じたときは、それを見る自分がいない。
(略)
次に、二人称はなかなか死体にならない。その人だとわかる部分が残存する限り、それはその人そのものなのである。自分の親の死体を指して「死体」と表現する人はいない。さらにいえば、それこそサルだって、自分の子どもの死体をしばらく抱き歩いたりする。
(略)
とにかく親しかった人にとって、死者は年月を経ていわばゆっくり死んでいく。そう考えれば、いわゆる「死体」は三人称、つまり赤の他人でしかありえないのである。
死体が人称変化するということは、死体は「客観的事実」などではなく、人そのものだということである。
その上で、
われわれ赤の他人が、その立場でハプスブルク家の埋葬を日常的に考える限り、つまり三人称の死体として考える限り、ヘンなことをすると思うだけだが、王家の二人称として考えると、かならずしも不思議ではない。
共同体の構成員どうしは、二人称が本来である。その意味で共同体内部での死者は「生きている」というしかない。むろん実際には死んでいるのだから、そこには無理がある。だから死者をいわば「生かしておく」ために、他の文化から見れば、いろいろ奇妙なことをする。
遺体は家の血縁共同体として「その人がそこにいるものとして」保存されているのである。
では何故心臓が特別なのか。
心臓信仰はおそらくもっと世間的な、つまり俗なもので、「なんといっても心臓が中心なんだからなあ」という抜きがたい感覚に基づくのではないかと思う。
と養老さんは言っている。
遺体が三分割になったのは、心臓を取り出した上で、残りの臓器を他の容れ物に入れた。体はまた別に埋葬するためにそうなっただけのことであった。
いずれにせよ家の血縁共同体を維持するためにであった。そこでこれを踏まえて、日本の血縁共同体はどうなっているのかを検討する。特に現代日本の状況を見ることになる。
戦後の日本のいわゆる核家族化は、血縁共同体の継続に関する日常の常識をごく薄めてしまった。いわば人生の底が浅くなったわけで、それがとくに時間の扱いに表れている。現代人がただいま現在しか考えなくなったのは、核家族化と共同体の喪失に大きな原因があると思う。3・11の後に「絆」という言葉が流行した。これも、考えようによっては、日ごろ感じられていたことが、地震で表面化しただけかもしれないのである。時間の中での縦のつながりが薄れたことを、横のつながりで回復しようという思いがあろう。中国人の華僑会、シチリアのマフィアなど、もともとは似たような人々の要望に基づいているのではなかろうか。血縁共同体に代わるものとして、そうした集団が機能しているのである。戦後の日本では、会社がしばしばその代理を務めようとしたと思う。
そして血縁共同体を離れた個人が頼りするのは、社会保障である。つまり保険だ。それを持続的に可能にするためには、たえず経済が成長していなければならない。そして経済成長はエネルギーの消費を求める。エネルギーの消費と経済成長と密接な関係があり、エネルギーが増えなければ、経済成長はない。経済成長が鈍れば、社会保障も成り立たなくなっていく。養老さんは今日本で社会保障が選挙の度に声高に言われるのは、日本には国の経済成長を支えるエネルギーがないことを無意識に見ているからではないかと言う。
もしかしたら近現代の日本は余りにも個人を重視するために血縁共同体を軽く見るところが出てきているのかも知れない。そこで養老さんは日本で稀薄になっていく血縁共同体の代替え品となっているのが天皇制と会社だというのは面白い。
だからこそ明治は江戸を消せたし、戦後は戦前を消すことができた。それほど世俗的であろう。それさえあれば、自分の先祖なぞ、わざわざ保存する必要はない。ましてユダヤ人のように全員を保存しておく必要など毛頭ない。天皇は日本の家元で、これを皇統連綿といい、万世一系といい、国体という。国体の護持こそ世間の変わり身を保証してきた。ただしそこはほぼ無意識であろう。
ユダヤ人のことについてはこの後記す。
さらにこの本で驚きなのが、ヨーロッパにおける人骨の扱い方である。養老さんはセドレツ納骨堂を訪れる。この納骨堂、堂内の装飾がすべて人骨で施されているのだ。この納骨堂を管理しているシュヴァルツェンベルク家の紋章まで人骨で表現されている。
では何故こうも人骨が集められるのか。それは、
骨の保存に関して、日本と欧州で事情が違ってくる理由の一つは、欧州には石灰岩の地域が多いことである。パリが典型で、パリ市の地下には鍾乳洞があるくらいである。石灰岩はアルカリ性で、アルカリ性の土地では、骨が溶けにくい。だからパリ近郊からは化石も出て、ジュルジュ・キュヴィエにより古生物学がはじまる。逆にたとえば関東ローム層は酸性土壌で、百年もすれば骨が溶けてしまう。石器は出土しているのに、旧石器時代の人骨が日本で見つかりにくかったのは、そのせいもある。火葬が例外であるヨーロッパでは、墓地にどうしても骨が溜まってしまう。パリ市の場合には、だから墓に溜まった人骨をときどき市がまとめて掘り出し、地下の石切り場に入れて整理した。それをカタコンベと称しているのである。
つまりローマ時代のキリスト教の墓地の名称で呼ばれるようになったのである。
私はカタコンベというのはローマ時代のものだとずっと思っていたが、そうではないことを知る。
墓が満杯になり、人骨が掘り起こされ、一ヶ所にまとめられる。そこまではなんとか理解できる。けれど集められた人骨を装飾材料としてしまう意識はちょっと理解できない部分がある。「メメントモリ」という言葉がある。それをリアルに意識させるためのものなのか。
こういうものは日本では忌避されそうだが、実は日本にも「死」をリアルに見せるものがあることを知った。それは「九相詩絵巻」というものである。
ウィキペディアに次のようにある。
九相図(くそうず、九想図)とは、屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた仏教絵画である。
その段階を次のように言う。
1..脹相(ちょうそう) - 死体が腐敗によるガスの発生で内部から膨張する。
2..壊相(えそう) - 死体の腐乱が進み皮膚が破れ壊れはじめる。
3.血塗相(けちずそう) - 死体の腐敗による損壊がさらに進み、溶解した脂肪・血液・体液が体外に滲みだす。
4.膿爛相(のうらんそう) - 死体自体が腐敗により溶解する。
5.青瘀相(しょうおそう) - 死体が青黒くなる。
6.噉相(たんそう) - 死体に虫がわき、鳥獣に食い荒らされる。
7.散相(さんそう) - 以上の結果、死体の部位が散乱する。
8.骨相(こつそう) - 血肉や皮脂がなくなり骨だけになる。
9.焼相(しょうそう) - 骨が焼かれ灰だけになる。
挙げた絵を見ると確かにリアルで恐ろしい。日本にもこういうものがあったのだ。ちなみにこの女性小野小町をモデルにしているらしい。世界三大美女の一人のなれの果てをこのように示す。
こうして墓を壊す面もあれば一度墓を建てたら決して壊してはならないものとして旧ユダヤ人墓地がある。養老さんはプラハの旧ユダヤ人墓地を訪ねる。
地表に出ている墓はその下にある墓の上にある。つまり重層的になっているらしい。どうしてこうなっているのか。
さらにユダヤ教はキリストを救世主として認めない。それならすべての人は、死者を含めて、まだ救世主待ちだといえる。ということは、救世主がこれから出現するまで、死者を含めて、すべての人は待たなければならない。そう思えば、ユダヤ人墓地は順番待ちの席取りみたいなのかもしれない。その墓を壊すと、待ちの順番がわからなくなってしまうではないか。
だからこの旧ユダヤ人墓地は、
ここでハプスブルク家の心臓埋葬と、ユダヤ人の墓が連結する。ハプスブルクは一族が時を越えた共同体を作る。ユダヤ人は全体がまとめてハプスブルクみたいなものである。
養老 孟司 著 『身体巡礼―ドイツ・オーストリア・チェコ編』 新潮社(2014/05発売)