〇沢木 耕太郎 著 『バーボン・ストリート』
2021年 11月 12日
私はこの沢木さんのエッセイはもちろん読んでいて、本棚にあるものと探してみたが、いくら探しても見つからない。あるものと思ってないのは、結構気になる。
私は自分の本を三度古本屋さんに処分しているが、果たしてその時売ってしまったのか。でも沢木さんの本は売るわけないし、とにかくないものは仕方がない。図書館で借りてくる。
気になる文章を書き出してみる。
人はいつ青年でなくなるのか。それは恐らく、年齢でもなくけっこんでもなく、彼が生命保険に加入した時なのではあるまいか。命のカタを誰かに残さなければならない、残したい、と思った時に彼は青年期を終えることになる。たとえその相手が誰であろうとも、生命保険への加入した瞬間、彼は青年の次の時代に入っていく。そんな気がしてならないのだ。
なるほどね。
何かに向かって懸命に走っていた人が、ある日、不意に周囲の風景に眼がいくようになり、見る見るスピードが鈍ってくる。私もそのようなスポーツマンや芸人を何人となく見てきた。鈍るだけでなく、ついに立ち止まってしまう人もいた。
これはゴーマン・美智子がマラソン中に、風景が見えて、懐かしく思ってしまったことで、負けてしまったというエピソードから始まっている。
普通勝負に勝つためには外の風景などに気が奪われていてはならないし、勝つためにはそれが当然である。しかし彼女は外の風景が懐かしく思ってしまった。だから負けた。
ところでこのことは何もマラソン選手だけに言えることではないように思えたのである。
マラソンに限らず、人生において脇目も振らずに走っているときは、その勢いで生きられる。しかしいつまでもそんな調子で走り続けることなど出来ないし、仮に出来たとしても、からだや精神が持たない。いつかブレーキがかかり始める。
気がつけば自分の人生、急かされて生きざるを得なかったと感じる。その時自分の周りが見え始める。たぶんこの時一つの人生が終わるのではないかと思うのである。
円谷は、恐らく風を見たことがなかったにちがいない。見えかかったこともあったはずだが、そちらに眼を向けることができず、一心不乱のまま一生を終えた。彼が前のめりのまま生きなければならなかった原因は、スポーツマンとしてついに自立した存在になれなかったからであろうと思われる。彼は常に家に属し、集団に属し、親に属し、コーチに属した。だから、そのすべてから切り離され、ひとりで困難と闘わなくてはならなくなった時、耐え切れず死んでいかざるをえなかったのだ。
沢木さんには円谷幸吉について書いたノンフィクションがある。そこに円谷の自殺の原因を追及していたかどうか忘れたが、ただいつも思い出すのは円谷が残した遺書にある、「美味しゅうございました」である。あの遺書は本当に悲しい。
沢木 耕太郎 著 『バーボン・ストリート』 新潮社(1989/05発売) 新潮文庫