〇絹田 幸恵 著『荒川放水路物語』

〇絹田 幸恵 著『荒川放水路物語』_d0331556_16250678.jpg 著者は以前足立区の小学校の教師をしていた。社会の時間に「くらしと水」について学習している時、荒川放水路にことに話が及ぶ。

 「荒川放水路は二十年ぐらいかかって人間が掘った川なのです」と言うと、生徒たちは、うそだ、とかどうやって掘ったのか、なんで川を掘ったんだとかいろいろなことを言いだしたそうだ。それに足して当時の著者はうまく答えられなかったのだろう。


 その時、実は私も荒川放水路について、ほとんど知らなかった。


 と書いている。これがこの本が書かれた動機である。
 私も永井荷風が当時放水路を歩きまわったことに興味を持ってから、この川について何も知らないことに気がついた。それでこの本を手にした。
 私は荒川放水路が掘られた理由は当時の荒川が何度も氾濫を起こし、甚大な被害を周辺に及ぼしたことから、放水路が掘られたことは知っていたが、それ以上は詳しいことは知らなかった。また放水路がどのように掘られたのかは興味があったが知らずにいた。当時のことだから、まだ機械などなかっただろうから、人力で掘ったのだろうと思っていた。
 ところがこの本を読んで、掘削はかなり機械を使い、合理的に掘られていたことを知った。私は江戸時代のころのことを想像していたのだ。
 またこれだけ大きな川を掘ったわけだから、用地買収も大がかりに行われ、対象となった農家などかなり苦労されたことも知った。
 さらに放水路の掘削期間がちょうど第一次世界大戦、関東大震災、そして掘削が終わっても、ここでは第二次世界大戦の敗戦、そして戦後の歴史に大きく関わっていたことも知った。

 著者は次の疑問から荒川放水路について調べていく。


 この川は明治四十四(1911)年から昭和五(1930)年まで、一九年もの歳月をかけて、人の力で作った川である。北区岩淵から海までの約二二キロもの間に、なぜこんな大きな川を掘ったのだろう。一体誰がどのようにして掘ったのだろうか。ここに住んでいた人たちはどこへ行ってしまったのだろうか。


 そもそも荒川放水路をなぜ掘らなくてはならなかったのか。川の名前通り、荒川は荒ぶれる川だった。江戸時代から何度も川が氾濫して、甚大な被害をもたらした。


 荒川流域の農業は小舟をもっていて、台風の季節になると風の吹き方、雨の降り方に気をつけながら暮らしていた。ふだんの年なら黄色くにごった荒川の水が秩父の山やまから肥沃な土を運んでくると、どっぷりと水につかってしまった水田に農家はいそいで舟を漕ぎ出し、舟をゆさぶって稲の細い葉にたまっている細かい土を沈ませる。泥水が引かないうちにこの肥えた土を落さなければ、秋になって稲を刈り取るとき、この肥えた土は灰のような細かいほこりとなって、ひと鎌ごとに百姓を悩ませる。

 特にひどくて、放水路を作るきっかけとなったのが、


 明治四十(1907)年と四十三年の洪水は、関東一円の川の氾濫で、記録にもまた人びとの話にも残る大洪水であった。
 明治四十年は、八月末、二十二日から二十八日まで大雨が降り、関東地方の大小の河川は溢れたり、堤が切れたりした。特に荒川、利根川、多摩川の流域は大洪水となった。



 荒川に放水路を作ることが決定するが、当然そこに人が住んでいる。彼らをまず移転してもらうのだが、用地買収はかなり叩かれたようで、反対者も出たけれど、国のため、氾濫を防ぐため、と用地買収に応じてきた。
 ところが、立ち退きのため土地を提供し、それで受け取ったお金を銀行に預けたが、第一次世界大戦の年だったので、銀行が不景気のため潰れてしまうケースが度々あった。


 「当時の銀行は資本金もわずかではじめるものだから、みんながどっと押し寄せて『金が要るから返してくれ』といったら、昭和二(1927)年、農商銀行も仲居銀行もつぶれた。故意にやったのかと人びとが疑うくらい次つぎにつぶれた。結局、みんな泣き寝入りだった。


 さらに詐欺まがいの投資話に踊らされて、お金を失った者もいた。


 さて、土地買収を終えたところから掘削が始まったのだが、その方法が驚きであった。私は先に書いた通り、掘削はほとんど人力で行われたのだろうと思っていたが、そうではなかった。エキスカという掘削機を使い、さらに機関車でその土砂を運ぶという、よく考えられて掘削されていた。その掘削の仕方も極めて合理的に行われている。ここにその方法が書かれているので長くなるが紹介したい。


 まず、水路を掘るために、放水路の中央部分の一定区間(300メートルほどの間)にレールを四本か六本敷いた。そして掘削機(エキスカ)が、最初の二本のレールの上に乗り、回転するバケットで土を堀ながら移動していく。掘った土は、となりの二本のレールに待っている土運車のトロッコに入れていく。全部のトロッコに土が入ると、待っていた軽便機関車が、そのトロッコの車両を待避線まで引いていく。そして置いてある空のトロッコの車両をエキスカのとなりまで押していく。次にエキスカが土を入れている間に、軽便機関車がもどって来て、待避線に待たせていた土の入ったトロッコを引っ張って土手を築く所に運んでいく。

 (略)

 このようにして、エキスカが移動しながら一定区間を掘り終わると、働いている人たちが集まって線路移動をした。線路移動のときは、エキスカや土運車を待避線に入れておいて、四本の線路と補助レールを五、六メートル後ろに下げて敷く。そして川を掘っていった。
 一定区間と次の一定区間との間には、幅数メートルくらいの土を掘り残した。そのため、水路として掘った細長い大きな池のような形となった。
 エキスカのバケットは、水路を四メートルぐらいの深さに堀り進んでいき、その爪あとは長い大きな縞模様を作っていった。そして、この池には地水が湧いた。水は作業のじゃまになるので、さきに掘った所へ排水機で排水しながら掘っていった。幅、数メートルほどの掘り残しの土は、さきに掘った所との間の壁の役を果たし、さきに掘った所の水が新しく掘っている所に侵入するのを防いだ。

 (略)

 掘り残した所は「アバ」と呼ばれ、人も通ることができた。アバは放水路工事の最後のころ、つまり、全体に水を流すとき、浚渫船が川底の土をさらうとき共に崩した。


 こうして、


 大正十三年、秋の出水をまってそれぞれの水門を閉じ、岩淵水門を調節して洪水量の大部分を放水路に流した。予定通り、隅田川に五分の一、放水路に五分の四の水が流れた。大正十三年九月十八日であった。


 そして、


 建設省では昭和四十(1965)年一月、荒川下流の放水路を「荒川」と呼ぶことにし、それまでの荒川(隅田川)のほうは、岩淵水門から海までを「隅田川」と呼ぶことにした。荒川放水路という言葉をなくし、今は荒川の本流となってしまった。


 こうして荒川放水路は掘削され、出来上がっていく。出来上がった川や河川敷は様々な形で利用されていく。
 当時はまだ川の水がきれいだったので、川の各所に水泳場が出来て、子供たちはここで泳いだ。
 悲惨な歴史も河川敷にはあった。関東大震災で工事中の土手のあちこちに大きな亀裂ができたり、完成したばかりの堀切橋が壊れたりした。
 さらにその後起こった朝鮮人虐殺もここの土手や河川敷で行われた。朝鮮人を川の方に並べさせ、機関銃で撃ち、死体に石油を掛け焼き、その後ここに埋めたのである。
 これは小杉健治さんの『死者の威嚇』の一つのモチーフとなっている。
 さらに太平洋戦争において食糧不足を補うため、野菜を育てる畑に河川敷は利用された。中には堤防に土管を通してしまう猛者もいた。そんなことをすれば土手が崩れてしまいかねないので、当時の内務省はそれを禁じたが、何よりも食糧確保が最優先されてしまう。その結果、戦後キャサリン台風による豪雨で堤防がいくつ決壊してしまったのである。

 ところでこれだけの大きな川である。それが通ったことで分断されてしまったものもいくつかある。


 大正十二年に総武線の鉄橋ができ上り放水路に水が流れると、江戸川の多くの人たちにとっては、小岩駅も遠いが平井駅は放水路を越えた西になり、さらにへだたりを感じるようになった。
 こうして江戸川の多くの人たちは駅から遠く、長いあいだ鉄道の利用には恵まれなかった。放水路の完成も近い昭和三(1928)年、ようやく小岩駅と平井駅の間、放水路の東側に新小岩駅ができたのだった。


 ちなみに総武線の小岩駅と平井駅は明治三十二年できていた。
 さらに、


 放水路は南下して中川の河口に向かう途中、蛇行する中川を斜めに切り、江戸川と小名木川を結ぶ新川(船堀川)を切ってしまった。
 新川や小名木川は、徳川家康が行徳の塩を江戸に運ぶために作らせたというものである。この川は隅田川と中川を連絡し、また江戸川や利根川にも通じる。小さいながらも関東水運の大動脈である。奥州や関東一帯の産物は、これらの川を通って江戸に運びこまれた。
 このあたりは工業も早くからおこり、物資を運ぶ船が多かった。そのため内務省は、小名木川が新荒川右岸で切られる所に、小名木川閘門を設けた。これは大正十二(1923)年に完成した。そして、小名木川と新川を結ぶ舟のために、放水路の中土手に新川水門を作り、これも大正十二年に完成した。
 その後も、小名木川や旧中川付近は、江戸川、利根川沿岸の産業発達にともなって輸送量が増えてきた。
 昭和二年頃、小名木川を一か月に通る船の数は、約二万三千隻、一日平均766隻、一日の最大数は千二百隻もあり、放水路の小名木川閘門の入り口では、放水路へ出る船と小名木川へ入る待ち船で混雑をきわめた。その上、小名木川や旧中川の水も十分に入れ替えができないため、腐敗する心配があった。そのため、小松川閘門を作った。昭和五年に竣工した。
 一方、新川からの船の数も増えて、新川水門だけでは運行が困難になった。そこで、中土手の新川水門の下手で、小名木川閘門に対する位置に、船堀閘門を設けた。常水の時も、また高水時にも、江戸川や利根川と小名木川方面の通船を確保できるように、閘門が作られた。この船堀閘門も昭和五年に竣工した。
 小松川閘門と船堀閘門ができたことによって、放水路を横切る通航が今までより緩和された。


〇絹田 幸恵 著『荒川放水路物語』_d0331556_16253549.jpg



 しかしこれほど盛んだった放水路下流の舟運も鉄道や車の発達により次第に衰えていく。川と舟の時代は終わり、小名木川閘門は閉じられ、小松川閘門も1960年代末に閉じられた。
 小松川閘門は私が中川番所資料館を訪れた時に旧中川河川敷で見つけたように閘室を埋められてまま残されている。


 小松川閘門は、旧中川の閘門の上部だけが残され、草原のとりでのような雄姿で、水の都の昔を語っている。


 ところで、都心側の土手が江戸川沿いより高く作られているという風説があったらしい。


 (記録によると)土手の高さは同じに造られている。けれど土手の幅は都心の方が三.六メートル(二間)分厚い。すると都心側の土手はそれだけ土砂の体積が多くなり、洪水に対して左岸より強いことになる。
 「放水路は、都心堤南地帯を水害から救う(以外の)何者でもない」という言葉や「左岸堤は右岸堤より一メートルぐらい低く造られた」という風説は、全く根拠のない話ではなかった。
 工事の専門家に聞くと、「自然を相手の仕事なので百パーセント完全な工事はできない。万が一、堤が守れない時は被害の少ない方へと考えるしかない」という。



 これは放水路完成当時の話で、今は堤防のかさ上げや護岸工事を行ったりして常に放水路を守っているという。

 いずれにしても、荒川放水路のことがこれだけ知れて、この本は大変為になった。
 

絹田 幸恵 著『荒川放水路物語』ISコム(1990/11発売)

by office_kmoto | 2022-10-15 16:30 | Comments(0)

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