〇桜庭 一樹 著 『東京ディストピア日記』

〇桜庭 一樹 著 『東京ディストピア日記』_d0331556_05492863.jpg この著者の本は初めて読む。たまたま図書館の棚を眺めていたらこの書名に引っかかり、手に取り表紙の絵を眺めると妙に惹かれるものがあった。
 ページをめくると、どうやら2020年1月から21年1月までの、いわゆる初めて日本でコロナ感染者が見つかり、それ以後どんどん感染者が増え、緊急事態宣言は発令され、初めて日本がコロナに振り回された年の日記だとわかる。これは読んでみたくなり、借りてくる。
 私は著者がどういう人なのか一切知らないけれど、それだからこそ予断なく書かれていることに興味を持てた。
 とにかく当時ニュースで流れたことが一つ一つ詳しく書かれていて、わずか二年前のことなのに、そういえばそうだったな、と思い出すことがあった。それに伴い、著者の身の回りで起こっている日常が書かれてあって、リアルにコロナ禍での不安を感じることができる。
 この2020年に始まったコロナ禍だが、当時の状況は今に比べれば可愛いものである。当時はこの未知のウィルスに対して日本国民は恐れおののいて、過剰に反応してした。それに伴い政府もドタバタしていた。そして今もそうだけれど、政府は中途半端な感染対策しか採れないくせに、コロナで弱った経済をなんとかしたいという思いがいつも最優先にある。だからちょっと感染が弱まる傾向が見えれば、すぐ経済、と言い出す。第一波から七波までその繰り返しであった。


 国家たち、つまりジャイアン(ドラえもんに出てくる悪ガキ)たちにとっては、国際政治で優位に立つこと、経済力を保つことが、もっとも優先すべきことであり、それに比べれば、人命なんて、所詮、何万、何十万という数字にすぎないいんじゃないか?今も、「一人でも多くの国民の命を助ける」のではなく、たとえば「十万人は死ぬが経済は回復する」ほうの道を、常に選んでいるのではないか?


 そうしてコロナ感染はある程度やむなしというのを国民の間に滲透させていく。“withコロナ”とはうまく言ったものである。
 経済も大切だが、それを今の状況で、どこまで容認できるのか国民はわからない。だから国民はいつも不安なのである。そこに政府と国民の間に「分断」を生んでいる。
 そして人びとの間に、


 世界全体が、“自分と身内さえよければ他の人のことはどうでもいい”という考えの人と、“いや皆のこと考えよう。社会正義が大切だ”と信じ続ける人に、ますます二分されていっているように思った。


 もともと感染を広げないために、密にならないことを言われてきた。当然人との関係も前より稀薄になりつつあるのだから、こういう分断が生じてしまう。


 「これってさ、元の世の中には戻ることはないから、変化にゆるやかに対応して生きていかなくちゃってことだよね」


 そして第一波、二波と繰り返していく内に、もう慣れが出てくる。


 私は、今年の春ごろとちがって、もう、自分たちは未知の危機のただ中にいるわけじゃなく、「知っている危機がまたきた」と感じているような気がする。


 これが今の私たちの中にもあるコロナに対する意識だろう。ということはこの2020年に初めてコロナ危機を経験し、以後良くも悪くもそれを経験したことで、未知の危機が、知っている危機に変わっただけだ。コロナの恐さは何も変わっちゃいない。

 とにかくこの年にコロナの感染が広がり、マスクがなくなり、そのうちマスクを売っているのがおかしい店でも高い金額でマスクが売り出される。それをナゾマスクと称しているのは、アベノマスクと同じくらい言い得て妙だ。


 商店街の雑貨屋の軒先に、すっかり安くなったナゾマスクがずらりと並んでいる。その隣にエタノール九十九%の消毒液をみつけた。「えっ、九十九%・・・・・・?それもう火炎瓶じゃね?」と一瞬思った。

 マスクだけでなく、消毒液も得たいのしれないのもあったのだろう。「火炎瓶」には笑った。

 ところでこの本の表紙の絵だが、中を読んで2020年の著者と思われる女性が外出時はこうだったのだろうと思わせる。自粛生活の中、せめて部屋に飾ろうと花を買ってきた姿をうまく表現している。万全のコロナ対策と花の対比はインパクトがある。


桜庭 一樹 著 『東京ディストピア日記』河出書房新社(2021/04発売)

by office_kmoto | 2022-11-17 05:51 | Comments(0)

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