2015年 10月 22日 ( 1 )

荻原 魚雷 著 『書生の処世』

d0331556_675615.jpg スポーツ選手が「勝利依存症」あるいは「競争中毒」という症状に陥って、時に疲労骨折するまで努力してしまうのは、ある種の病気だと指摘している本を読んで著者は自分に置き換える。


 おそらく「活字字中毒」といえる状態の人も、おもいあたる節があるかもしれない。アスリートの反復運動のごとく、何かにとりつかれたように、次から次へと本を読んでしまう。「何のために」という愚問は、活字依存症の人の耳には届かない。
 わたしも好奇心や向学心があるから毎日新刊書店や古本屋に通っているわけではないと自信をもっていえる。ただ、そうしないといられないからそうしているだけなのである。
 目で文字を追っているあいだは、余計なことを考えなくてもすむ。本を読みたいという欲求によって、かろうじて生きているのではないかと思える時期があった。


 私もある意味同じである。しかしこの意見に全面的に賛成はしない。確かに本を読んでいればその世界に没頭できるから余計なことを考えなくていいところはある。けれど現実はどんな時でも、どんなところでもつきまとってくる。それは動かしがたい事実だ。だから本に没頭したって、その意識はいつもつきまとうものだろう。ただ本を読んでいれば楽しいしからそうしているわけで、それ以上でもそれ以下でもない。
 「依存症」なんて大袈裟なことを言うからややこしくなる。そういうことを言うから、本をよく読む人は現実逃避だと言われてしまう。たとえ一時でもそうであるとしても、現実からは絶対に逃げられない。逃避なんてできないのだ。これだけは事実だろう。だから著者のこの本にはいつも「不安」の影がつきまとっているのだ。現実がそこにあるから今の生活に怯えを感じているのだ。
 この本は2011年から2014年までの読書日記なのだが、読んだ本だけの感想だけになっていない。そこに日々の現実がつきまとっている。その中でもっともだなあ、と思ったことがあった。
 2011年と言えば東日本大震災があったわけだが、震災後味わった敗北感を語る場面がある。


 たぶん日本は震災の前から賭に負け続けていた。それでも「まだいける、まだ大丈夫。いつでも取り返せる」と膨大な借金を重ねる道楽息子のような状態になっていたのではないか。遠回りだけど、地道に身の丈に合った暮らしを模索するしかないような気がする。


 これは正しい意見のような気がする。そして著者の言うようにこの震災を何度も振り返る度に「大きな賭に負けた」ことだけは忘れないようにしたい、という意見はまさしくその通りだと思う。最近の日本の政治を見ていると、懲りずにまた賭を始めている気がするのは私だけであろうか。どこか違うような気がしてならない。

 この本の全体に漂うのは「日々の漠然とした不安」である。著者の生活の不安定さがそうさせるのだろうが、思うに不安はいつどこでも生まれる。たった一人の現場責任者がいい加減だったために、住んでいるマンショが傾いて、今度は自分の住んでいるところは大丈夫だろうかと心配しなければならない時代なのだ。
 4年前に起こった地震だって、誰があれほどの甚大な被害を出すなんて思ったか?この著者は東日本大震災以後、自分の生活の不安の上にさらに自然の驚異に対する不安が個人の上にのしかかってきて、さらに不安を増長させているのが感じ取れる。

 こんな文章もあった。


 今の時代の「生きづらさ」は、豊かさや健康志向の裏返しであり、世の中をよくしたいという「おせっかい」が行きすぎている。


 食える食えないよりも、齢を重ねるにつれ、いやでも体力その他の衰えや伸びしろのなさを痛感したり、これまで夢中だったことに飽きたりする。


 無理、と言って降りちゃうこともさせてくれないし、降りれば降りたで、賭に負けたと思われる。
 無理をするなというのではない。無理も必要だ。けれど所詮無理は無理だ。長いこと続くものじゃない。それを強要して長く続かせようととするところに問題がある。自然の摂理に逆らって若さを求めたり、長生きすることを是とする風潮が当たり前になったり、一億総括役社会といって全員に何らかの形で強引に社会に参加させようとするところに問題があり、それが生きづらくさせている。そう思えてならない。人それぞれ生き方の「形」があるはずだ。そう思う。まして老いや体力減退は避けられないし、だったらそれなりの生き方があってしかるべきで、いつまでも大きな花火に付き合えるものでもない。
 さて、著者の古本に関しての記述が面白かった。


 たとえば、あるひとりの作家の本を揃えたいとおもう。一冊一冊、地道に集めるか、一括でまとめ買いするか。当然一冊一冊、買いそろえたほうが楽しい。快楽と労力は比例するものだ。


 適度に入手難の作品を追いかけているうちは、古本屋通いも楽しい。好きな作家の未読の本を次々と読破しているあいだは至福といっていい。
 そうした時間は長く続かない。入手しやすい本は半ば揃い、そのうちほしい本はきわめて遭遇率の低い本や手を出しづらい高値の本ばかりなって、そのうち店の本棚を見ても、気持が高ぶらなくなる。


 これもよくわかる。私もある作家のシリーズ本を古本屋を歩いていて、一冊一冊見かけたら値段と相談の上、買い集めたことが何度もある。最初は何もないわけだから、面白いように集まってくる。しかし巻数が揃い出すと、欠けている巻数がなかなか見つからなくなる。貴重な全集などでどうしても古本で見つからない巻数を古本用語で「キキメ」と言ったと思うが、私の探している本は貴重なものではないが、「キキメ」に似た状況に何度かなった。
 こんな時でも昔は根気よく探すしかなかった。時には「日本古書通信」という古本の新聞に古本屋さんが広告出していて、そこに探している本がないか細かく見ていたこともある。当時は購入意思の葉書を出しても、その数が多ければ抽選といった感じであったと思う。古本を一冊買うにも手間と時間がかかった。それでもそうしたシステムで何冊か古本を買った。
 今はインターネットがあるので、探している巻数が簡単に見つかる。特に最近は根気よく本を探すという気力が衰えてきたので、古本屋を歩いて見つからなければ、Amazonのマーケティングプレイスをすぐ使っちゃう。
 そうすれば簡単にシリーズ本がワンクリックで揃う。揃えばその時はうれしいのだけれど、今度は古本屋を歩く楽しみがなくなってしまう。このことに最近気づいて、少々寂しい気持ちでいるのが今なのである。


荻原 魚雷 著 『書生の処世』 本の雑誌社(2015/06発売)
by office_kmoto | 2015-10-22 06:09 | 本を思う | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


by office_kmoto
プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る