2018年 05月 28日 ( 1 )

柏原 成光 著 『人間 吉村昭』

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 先行する吉村昭論として、まとまったものが二つある。一つは川西政明の『吉村昭』(河出書房新社)、もう一つは笹沢信の『評伝吉村昭』(白水社)、それにもう一つ加えるなら川西政明の『道づれの旅の記憶』(岩波書店)である。それぞれ労作であるが、読んだ私には吉村昭の肉声が聞こえてこない、という感想が残った。それぞれの著作がそれを目的としていないのだから、ないものねだりと言うことになるかもしれない。しかし私にはもっと皮膚感覚的に吉村昭を感じられるものを読みたいという欲求が起こってきた。(はじめに)

 それで編集者として関わった著者が皮膚感覚的に吉村昭の肉声を書こうとしたのがこの本である。その手法は、

 普通は、対象の相手が書いたものを、できるだけ読み込んで自分の文章にして叙述するのが当たり前のことだが、私の場合はできるだけ引用を多用して吉村昭の生の声を伝えたいと考えた。幸いなことに吉村昭には数多くの身辺を語ったエッセイが残されている。それを整理するという方法で、吉村昭の生の姿に少しでも近づけたら、と思う。

 吉村さんは自らのエッセイには事実しか書いていない、と断言している。しかもエッセイは多い。だから吉村さんのエッセイを読み込んで、時系列で拾って行けば、吉村さんのことは書ける。けれど……。私はこの手法にはあまり感心しない。なぜなら極端なことを言えば吉村さんのエッセイを読み込める人であれば、だれでも出来る仕事である。著者が吉村さんの肉声を届けることが出来たはずの編集者として接してきたことは著者しか知り得ない吉村昭があったはずだ。そこにこそ価値があったのではないか、と思う。そういう意味では吉村昭の肉声を聞くという手法が間違っていたとは言わないけれど、もったいないな、と思った。
 ただ、私も本になった吉村さんのエッセイは殆ど読んできたから、ここで引用される吉村さんの文章は懐かしくはあったけれど……。また読んできたといっても結構おざなりに読んできたので、そんなことが書かれていたか、と驚いたりもした。(多分読み飛ばしたか、忘れてしまったのだろう)
 さて、そんな中、興味深かったことを書き出してみる。

 「その頃のことですがね、私たちは、吉村昭はこれで終わりだね、消えるよ、と言っていたんです」

 これは吉村さんが四回も芥川賞の候補者にあげられながら、受賞できなかったため囁かれたことだった。吉村さんもだんだん追いつめられて行ったようで、奥さまの津村節子さんが先に芥川賞を受賞してからさらに追いつめられた。

 それを読んだ私は、急に気持が動くのを感じた。唯一の頼りにしていた「文學界」に短篇が掲載されたのは一年半前で、私は忘れられた元芥川賞候補作家とされている。文壇に指の一本でもかかったかな、と感じたこともあったが、激しい干き潮に自分がひきもどされるように文壇から遠くはなれ、今では、それに近づく手がかりもない。

 「それを読んだ」とは太宰賞の作品募集の記事である。「文學界」に出した「星への旅」がボツとなったので、それを推敲し郵送した。

 「しかし、郵便局から家への帰途、私は、早くも作品を送ったことを悔いていた。/(略)/文芸雑誌に新人賞がもうけられていて、受賞者の中には文壇に華々しく登場していった人もいる。が、私は、これまでそのような賞に作品を応募したことはなく、それは、自分から積極的に自作を読むよう提示することは文学の本質にもとる、という意識があったからである。作品は、相手の求めに応じて提出するものであり、自ら差し出すものではない。/そのように長い間、自らを律してきた戒律を、懸賞小説への応募によって破ったことは恥ずかしかった。「展望」の応募規定を読んで、私は平静さを失い、作品を応募したのだが、その根底には作家としてこのまま消えたくないという焦りの感情があり、それによって思わぬ行為をおかしたことが情けなかった」

 この吉村さんの記述に対し、著者は付け加える。

 彼が焦りの感情を持った原因のひとつには、前年に妻の津村節子が芥川賞を取ったこともあったかもしれない。さらに、彼が強い自己嫌悪に陥った原因には、彼が太宰賞に応募するとき、本名ではなく、新しく作った筆名を使ったことにあるのではないか。彼が新しい筆名を使ったのは、『文学者』の同人仲間の一人が、それまで長く使っていた本名を止めて、新しい筆名を使って、いわばまったくの新人を装って応募して、ある雑誌の新人賞を取ったばかりか、芥川賞までとったという例が身近にあったからである。そうした下心を持ったことこそが、文学に対する自尊心の強い彼が自己嫌悪を感じずにいられなかった大きな原因ではなかったか、と私は推測する。

 同人誌で作品を発表していた人たちの下積み時代の苦労は、大変だったようで、開高健さんにもその自伝などに苦労が書かれている。まして彼らは文学に使命感を持っていたし、それに命を捧げるくらいな生き様をしていた。そこまで文学に力があるのか私には疑問を感じないわけでもないが、書くことと生きることが一致しているというのはこういうことなのだろう。

 作家として独り立ちすべき難しい時期を、こうして吉村はくぐりぬけて、ひたすら書き続けた。それが、三九歳の本格的デビューという作家としては比較的遅いスタートにも関わらず、結果として数多くの作品を残していくことになったのであろう。

 彼が生涯書き残した著書は、長編、短編、エッセイの単行本を合計すると、本の見なし方にもよるが、一五〇冊を超える多数にのぼる。今、吉村の著作年譜をたどってみると、昭和四一年に太宰治賞受賞作を中心に集めた記念碑的短編集『星への旅』を筑摩書房から出版して以来、(それ以前にも三冊の単行本があるが)、平成一八年に亡くなるまでの四一年間単行本が出なかった年はないのである。しかも毎年二冊から五冊の複数冊出ている年が多く、最も多い年の昭和四六年には八冊にも及んでいる。そして、驚くことに、そのほとんどが文庫化されている。それどころか、亡くなってからも一〇年近くにわたって、単なる文庫化ではない、それまで書き溜められていたものが、新しい単行本として出版され続けたのである。

 こんなに書かれていたんだと思う一方、私の本棚に吉村さんの本が増えていった理由もここにある、とあらためて認識する。

 つまり、その長編を敢えて書いた動機は、私の人間として生存の問題であり、それが文学に対する私の考え方をおさえこんでしまったとでもいったものであった。
 言い換えれば、戦争を肯定しながら生きた自分がいる、しかし戦後の自分ははっきりとその戦争を否定している、このねじれを凝視することからしか彼の戦争への反省は始まらなかったのである。しかしこの苦闘を通ることによって、吉村の文学世界は疑いもなく広がっていったと言ってよいだろう。それはまず戦史小説という形をとったが、それに続く歴史小説もまた、その根源においては彼なりの戦争へのこだわりから生まれているのである。もっと分かりやすい例で言えば、彼は明治維新に連なる桜田門外の変は、太平洋戦争に連なる二・二六事件と時代の流れとしてアナロジーである、というとらえ方をしている。そういう問題意識からはずれた題材を、彼は自分の小説の題材として採用しない。だから、多くの人から忠臣蔵を書くことを勧められたが、それは単なる私闘に過ぎないと彼はとらえ、取り上げなかったのである。

 なるほど、これは面白い。
 この長編とは『戦艦武蔵』である。吉村さんは純文学からスタートしている。その純文学を置いて、戦史文学に向かわせたのは、戦争体験が抜き差しならないものであるからだろう。戦前、戦中、知識人や新聞などは戦争を讃美し、支持してきた。それが戦後一転して転向する姿勢を示す。戦争を賛美、支持して来た彼らは、悪いのは軍部であり、自分たちは軍部にそそのかされていて、最初から戦争は否定していたというのである。その身代わりの早さに驚くと共に呆れる吉村さんであったが、よくよく考えれば吉村さんも戦中は戦争を賛美し、戦後は戦争を否定するのは同じであった。この姿勢を反省するとともにこの転向に苦悩した。それが吉村さんのその後の文学の再出発となった。それが戦史文学に向かうことなった。
 吉村さんは単に資料に頼るだけでなく、実際に関わった人たちに聞き歩く。しかしそうした彼らも一人ひとり亡くなってくことで、話を聞けなくなってくる。そこで戦史文学を諦め、歴史小説へ進む。それでもその題材としたものは太平洋戦争に関わっていくものに限った。そこに太平洋戦争につながる事実を見ようとしたのであった。この姿勢は司馬遼太郎さんとよく似ている。

 最後にちょっと驚いたことを。

 それは後年、吉村が数多くの媒酌人を引き受けていることである。実に六〇回に及んだという。

 これはすごい。

柏原 成光 著 『人間 吉村昭』 風涛社(2017/12発売)


by office_kmoto | 2018-05-28 06:04 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

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