2018年 06月 06日 ( 1 )

伊集院 静 著 『乳房』

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 この文庫は「くらげ」「乳房」「残塁」「桃の宵橋」「クレープ」と五編の短編が収録されている。何と言っても「乳房」が良かった。
 妻の里子は癌で半年入院している。憲も仕事を辞め、看病に専念していた。
 仕事仲間であった栗崎三郎が里子の見舞に来た時、憲に言う。

 「憲さん」
 三郎は急に低い声で言った。

 「怒らないでくれよ」

 「憲さんさ、少し善人過ぎるんじゃないか」

 「善人過ぎとまずいかな」

 「やっぱりまずいよ」

 「まずいか、やっぱり」

 「急に善人なんかになっちゃうと、上手く行くものも上手く行かなくなるんでないの」

 「だって、もうサッちゃんが入院してから半年以上になるんじゃないの。憲さんが仕事をやめてつきっきりになるのはわかるけれど、それは少し違っているんじゃないの」

 「あんな、どんぶりを持って歩いている憲さんを見ていると、危ない気がするんだよ」
 
 三郎は憲が善人のフリしていると言っているのではない。無理をして妻の看病をしていると感じていたのだ。

 「ねえパパ」
 「何だ」
 「どうしてるの、身体の方は?」
 「身体って?」


 「私が抱っこしてあげられないから……」

 「ねえ大丈夫なのかしら」

 「大丈夫だよ。適当にやっているから」

 「ごめんね」
 「退院したら半年分つとめてもらうさ」
 「うん、ちゃんとするよ」 
 「ちゃんとか」
 「うん」


 「でもね、我慢できなかったら、遊んで来ていいんだよ」

 ベッドに戻って来ると、妻はパジャマのボタンを外して、自分の乳房を出して眺めていた。
 「何してんだ、風邪を引くぞ」
 「ちいちゃくなったな」

 その時私は妻の髪にリボンがついているのに気付いた。
 「おしゃれをしているんだね」
 「暇だったから」


 「このパジャマ着換えようかな」

 「少し汗をかいたみたい。熱帯夜が十六日も続いてるんだって」
 私はナースセンターへ蒸しタオルもらいに行った。タオルを受け取り洗面所で水道の蛇口をひねると、ふいに涙があふれて来た。タライを持った手が震え出し、奥歯を噛みしめても身体が震えた。自分に対する憤りと、見えない何者かへのどうしようもない怒りがこみ上げて、拳を握り続けた。水音だけが洗面所に響いた。
 顔を上げると鼻汁をこぼした醜い自分の顔が鏡の中にあった。
 私は深呼吸をして、顔を洗った。
 病室に戻って、妻の身体をふいた。
 私を待ち続けたちいさな背中が月明かりに子鹿の背のような影をつくっていた。背後からパジャマを着させると、妻は私の手を両手で掴んで、その手を自分の乳房にあてた。細い指が私の手を乳房におしつけるようにした。掌の中に、妻のたしかな重味があった。

伊集院 静 著 『乳房』 講談社(1993/09発売) 講談社文庫


by office_kmoto | 2018-06-06 06:05 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

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