2018年 06月 20日 ( 1 )

南木 佳士 著 『医者という仕事』

d0331556_06223649.jpg 南木さんの本は何度読んでもそこに書かれている言葉が、文章が、心に響く。この本の解説を書いている秋山ちえ子さんは、「地味なものだが、静に人間の生と死の意味を記す文章は私の心を落ちつかせてくれる」と書くが、まさにその通りだと思う。
 前回読んだ時は、視線を低く持つことが生きる意味で大切であり、やさしくなれることをここで感じたのだが、今回も改めてそうだよな、と思った。


 病んだ者の視線は例外なく低くなる。人間として持つべき大事なものは頭の切れの鋭さでも、まして学歴とか富ではなく、ただひたすらやさしくあることなのだというようなあたりまえのことが、低くなった視野に見えてくる。(厄年を過ぎて)


 小説に限らず、物事を表現しようとする場合は常に自分の視線を低くしておく必要がある。高い位置から見おろすような視線では人間や風景の陰も裏側も見えてはこない。そんな作品が他人の共感など呼ぶはずがないのである。(原点としての嬬恋)


 昨年の暮れ、元同僚である友人とあって、話を聞いたのだが、彼は自分が厄年なので、体調も、また精神的にも不調を訴えるのかな、と漏らしていたことを思い出した。


 厄年は医学的にも、体が老年期に入る入口に来て様々な異常が表に出てくる年として注目されている。私の場合も、男の更年期障害であったのだと思えば納得がいく。
 神社に行くかどうかは個人の自由だが、厄年を迎えた男たちは、しばらく立ち止まって、走り続けてきた自分の往路を振り返り、今後の復路の走り方を考える余裕くらいは持つべきであろう。もしかしたら、厄年とは各自の人生に与えられた大いなる休暇なのかも知れないのだから。(厄年を過ぎて)



 私は厄年だからお祓いをしてもらわねば、なんて考えない人間である。あれは神社の金儲けの手段で人を不安がらせている、と思っていると彼には言った。たぶんこれまで多くの人が不調を訴えてきた年齢を厄年と言っているだけであって、“昔からよく言われている”というのと同じだと思っている。だからお祓いをとかいうよりも、まさに南木さんが言うように、ちょっと立ち止まって、これまでの人生を振り返ればいいだけのことではないか、と思う。
 不調な時に立ち止まらせてくれない社会が現代の社会であるから、ちょっとお祓いをして誤魔化しているだけではないか。
 そうではなく、その時立ち止まって、これからの人生、生き方を考えさせてくれようとしているのだ、と思うべきだと思っている。


 四十歳を過ぎ、先にかすかに見える「死」というゴールを意識しながら、往路で身につけた余計なものを少しずつ脱ぎ捨てつつ復路を走り、生まれたときと同じ裸になってゴールインしたいものである。
 どこまでも真っ直ぐ走って行って、倒れた所がゴールという生き方もいい。そんな生き方に憧れた時代もあった。しかし、往路で見えなかった人や風景の影の部分をじっくり見ながら、のんびりと復路を走る生き方が自分には適しているようだ。
 見るべきほどのことは見た。最後はそう言って静かに笑えるように、目だけは今年もしっかり開いておくつもりである。(年始の生死観)



 私はこのような生き方に大賛成で、実際うまくは行かないけれど、実戦している。だから南木さんの言葉に共感する。
 最後に医者の経験則の話が書いてあったことを書く。


 私は五年生存率が平均して十人に一人か二人と言われて久しい、癌の中でも特にいやらしい肺癌患者ばかり診てきたので、積極的な治療に関してはあきらめの早い医者になってしまった。限られた予後を抗癌剤治療の副作用で苦しめるよりは、できるだけ楽な余生を過ごしてもらおうと考えるようになった。
 癌の診断技術だけは確実に進歩しているから、進行度は正確に判断できるようになった。進行度が分かれば予後も知れる。あと六カ月、とか一年とか、悲しいことに経験を積めば積むほど医者の予後推定は当たるようになっていく。
 死にゆく人たちとの対話というのは頭で考えるほど易しいものではない。自分もいずれは死ぬべき定めの人間なのです、と自覚した上でないと対話は成立しない。(医者という仕事)



 これは昨年経験した。専門医の言うことは間違いなかった。
 死病の予後をどう生きるかを、医者としてどう対処すべきか、また変わっていったかをこの本の最後に掲載されている長いエッセイのような掌篇・短篇小説集の「上田医師の青き時代」に描かれている。これなかなかいい小説であったことを今回思った。

 ここまでは文庫本で再読して書いた。
d0331556_06230978.jpg 単行本を新たに手に入れたので、再再度読み直してみると、「上田医師の青き時代」はいい。
 上田医師に結婚の話が進んでいた。その時上田のところには、身のまわりの世話をしてくれる同じ病院の看護婦が通ってきていた。上田はその看護婦に自分の結婚話を伝えることがなかなか出来なかった。
 病院から患者の急変を伝える電話がある。看護婦もその患者を知っている。元気だったその患者が亡くなったことを知って泣き出しそうであった。


 患者が死んで、二人で泣き合う夫婦なんてまっぴらだ。泣くなよ、と看護婦の肩を叩きながら、上田は自分の結婚相手に関するしたたかな判断を下していた。


 「今夜、婚約者が結婚式の打ち合わせにくるんだ」
 上田は下を向いた。
 看護婦は二、三度呼吸を整えてから、
 「そうですか」
 と、言い、立った。
 そして、テレビの上に置かれたウィスキーの空き瓶から水仙を抜き取ると、上田の目の前でその茎を折り、ゴミ箱に捨てて部屋を出て行った。それだけのことだった。最後に上田を見つめた看護婦の目は、深い水色をしていた。



 上田は結婚式の前日、アクアマリンのネクタイピンを看護婦に贈った。看護婦たちの多くは頭に被るナースキャップをとめるためにネクタイピンを使ってとめていることを上田は知っていた。その看護婦にネクタイピンを渡す。彼女がそれを受け取ってくれたことで上田はほっとする。


 寝た女よりも寝なかった女の方が別れがつらい。上田はまたひとつ人生の重い教訓を学んだ。


 上田は17年勤めた病院を辞める。


 胡蝶蘭の花束を抱いた中年の看護婦が入ってきた。
 「おつかれさまでした」
 独身のまま、今では外科病棟の婦長になっている彼女は、十七年前とおなじ静かな微笑を上田に向けた。
 「お互い、年をとったよな」
 看護婦の目尻の皺が、十七年という年月の長さを教えていた。
 「私、送別会には出られませんので、これを」
 花束を上田の机に置いて、看護婦はドアを閉めた。
 彼女のナースキャップのうしろには、アクアマリンのネクタイピンが吸い込まれるような深い水色を保ったままとめられていた。


 最後に思い出しておかしかったことを書く。


 大きな医学会は東京と地方の主要都市で一年交代で開かれることが多い。学会の予告を載せた雑誌が届くと、「なんだ、今度はまた東京か」とか、「おっ、福岡だぞ。ふぐだぞ」などといった会話が病院の医局で交わされるようになる。要するに、演者にならない大多数の医師たちにとって、学会とは絶好の息ぬきの場所なのである。
 「佐藤先生は福岡にふぐを食いに行くため休診です」と書いてしまうと、非難が集中するのは目に見えているが、「学会で出張します」と書けば誰も文句は言わない。毎日お婆さんの便秘の話やお爺さんのボケた話ばかり聴かされてうんざりしている平均的な医者たちにとって学会はオアシスなのである。
 私もその一人である。専門が肺癌なので、日本肺癌学会総会というのに出かける。今年も肺癌の治療で目立った進歩のないことを雑誌を読んで知っているので、二、三演題を聴くとすぐに学会場から出て、知らない街を勝手に散策する。(医者と学会)



 これがなぜおかしかったのかというと、自分が勤めていた会社の経営者も地方で開かれる薬剤師会の学会に毎度出かけて行ったからである。経営者は薬剤師であったが、薬剤師としては日々現場に出ているわけではなく、薬剤師が不在のとき、単に薬剤師の免許を持っているからというだけで薬局に出ていただけであった。だからはっきり言って現役ではない。
 そんな経営者が学会出席のため高い交通費と宿泊費を会社に請求する。経理を預かっている者として、経営者が学会に自身のレベルアップするため参加しているとは思えなかったので、その学会って何なのか、親しくしていた薬局長に訊いたことがある。彼は親睦会、同窓会、あるいは観光旅行と言ったか、とにかく学会そのものは彼に言わせるとどうってことないと聞いて、なるほどと納得したのを思いだしたのである。どうりで経営者は学会が近づくと浮き浮きしていたわけだ。自分の金を一銭も出さなくて観光旅行が出来るなら浮かれるはずだ。


南木 佳士 著 『医者という仕事』 朝日新聞出版(1997/07発売) 朝日文芸文庫

南木 佳士 著 『医者という仕事』 朝日新聞出版(1995/05発売)

by office_kmoto | 2018-06-20 06:27 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

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