2018年 08月 13日 ( 1 )

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと』〈13〉

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 このシリーズは前回どこまで読んだのかわからなくなり、最初から読み直す方がいいかな、と思い再読している。
 ただどうも12巻までは読んでいたようで、この13巻から新たに読むことになるようだ。ここでも新たに知ったこと。驚いたこと、気になったことを書き出してみる。

 また文明と文化の違いを言う。これまで文明はどこでも誰でも参加できるものとしてその普遍的な性格を有していることを書いていた。そのため文化は汎用性ないことで、どこか一段低く見えてしまうところがあった。けれどそこに住む人たちにはなくてはならないものであることを書く。それがあるためその人たちの存在できるものなのだ。翻ってそれが集まって国家となるために、圧縮空気となる。

 ここで仮に定義しておこう。文明とは普遍的なもの、たれでも参加できる交通ルールのようなもの、そして文化とは特異なもの、不合理なもの、さらにはそれなしでは人間の心の安定がえられないもの。(バスクへの盡きぬ回想)

 これに対し、文化は特殊なものである。その家の家風、あるいは他民族にはない特異な迷信や風習、慣習をさす。
 「たれでも参加できます」
 というのが文明である以上、文明は高度に合理的である。しかし人間は文明だけでは暮らせない。一方において、
 「お前たち他民族には理解できまい」
 という文化をどの民族でも一枚の紙の表裏のようにして持っている。従って文化は不合理なものといえる。という以上に不合理なものであればあるほど、その文化はその民族の内部では刺激的であるといっていい。(日韓断想)

 しかしひるがえって考えてみると、民族というのは、そこに自然に存在している状態から、国家という形に統合される場合、このようなつよい圧搾空気のような思想や象徴が要るものかと思い、そのことにむしろ人類の厄介さを感じた。(バスクへの盡きぬ回想)

 「明治のころ本願寺に“反省会雑誌”という雑誌があってな、それが“中央公論”になった」(反省会のことなど)

 つまりは、遠来のキリスト教宣教師たちが謹直で実行力に富むのに対して、江戸期以来の日本の僧侶は無為徒食、遊惰の徒であったことをかれらは反省したのである。(反省会のことなど)

 へぇ、雑誌「中央公論」の元は本願寺で発行されていた雑誌だったんだ。
 次の文章は興味深い。

 小説を書き始めたのは、もちろんそればかりではありません。私のこれまでの経験の中でいちばん大きかったことは、やはり戦争末期に兵隊にとられたことです。命あって敗戦を迎え、
 「なぜ、こんなばかばかしい国に生まれたのだろう」
 という思いが強うございました。
 人の国を侵略し、うまくいかなくて敗れた。当然ですね。リアクションは必ず起こります。中国を侵略すれば、世界の列強からリアクションを受ける。中国からも受ける。自分の国を運営するうえで、他の国のことを考えない。浅はかな国でした。他の国の人を死なせ、自分の国の人間を死なせて敗戦になったわけです。そのとき、織田信長だったらそういうことをするだろうかと考えたのです。
 信長が特別偉いというわけではあえいませんよ。尾張から身をおこし、手ずから自分の王国をつくった男ならそんなことをするだろうか。そんなばかなことはしなかったと思うのです。自分の国を大切に思うなら、けっしてしません。私は決めました。日本という国を大切につくりつづけた日本人たちを書きつづることにしたのです。(時代を超えた竜馬の魅力)

 このように自分で国を作り上げた人物は、他国を侵略などしないと書く。このあたりはそうかもしれないと思う一方、自分の国大切にするばかりに、自国のことばかりしか考えられないことになりかねない部分もあるのではないか。少なくとも歴史はそうはならなかったことをたくさん書いている。日本においても明治から昭和はそうはならなかった。なぜそうなったか、司馬さんは次のように書く。それは人間の“質”が変わったことから始まった。

 自国の歴史をみるとき、狡猾という要素を見るほどいやなものはない。江戸期から明治末年までの日本の外交的な体質は、いい表現でいえば、謙虚だった。べつの言い方をすれば、相手の強大さや美質に対して、可憐なほどおびえやすい面であった。
 謙虚というのはいい。内に自己を知り、自己の中のなにがしかのよさに拠りどころをもちつつ、他者のよさや立場を大きく認めるという精神の一表現である。明治期の筋のいいオトナたちのほとんどは、国家を考える上でも、そういう気分をもっていた。このことは、おおざっぱにいえば江戸期からひきつがれた武士気分と無縁ではなかった。
 しかし、おびえというのはよくない。内に恃むものとしてみずからのよさ(文化といってもいい)を自覚せず、自他の関係を力の強弱のみで測ろうとする感覚といっていい。強弱の条件がかわれば倨傲になってしまう。
 日露戦争のあと、他国に対する日本人の感覚に変質がみとめられるようになった。在来保有していたおびえが倨傲にかわった。謙虚も影をひそめた。江戸期以来の精神の系譜に属するひとびとが死んだり、隠退したりして、教育機関と試験制度による人間が、あらゆる分野を占めた。かれらは、かつて培われたものから切り離されたひとびとで、新日本人とでもいうべき類型に属した。
 官僚であれ軍人であれ、このあたらしい人達は、それぞれのヒエラルキーの上層を占めるべく約束されていた。自然、挙措動作、進退、あるいは思慮のすべてが、わが身ひとつの出世ということが軸になっていた。
 かれらは、自分たちが愛国者だと思っていた。さらには、愛国というものは、国家を他国に対して、狡猾に立ちまわらせるものだと信じていた。とくに軍人がそうだった。(あとがき 『ロシアについて』)

 謙虚というのはもしかしたらおびえの裏返しかもしれないと思ったりする。おびえがあったから、謙虚であったかもしれない。いずれにせよ謙虚であることはいい。しかしおびえがいつの間にか強がりと変質していく過程は、やはり明治という新しい国家がヨーロッパの文明の上っ面だけを受け入れたことで大きく変質していったところにある。しかも国家をあげてそれを推奨してきた。
 もともとヨーロッパでは自国を守ることが最優先とするから、どうしたって自分勝手にならざるを得ない。ただお互いギリギリのところで辛うじて均衡を保つことで何とかそれぞれの国家が存続できている。このあたりは一歩間違えれば、簡単にそれが壊れるほど危ういことはヨーロッパ近現代史をみればよくわかる。この危ういバランスを理解しないでヨーロッパの文明の上っ面だけを無条件に受け入れてきた日本は、どうしたっておかしくなる。

 さて、この本でもう一つ興味深かったのは日本の仏教が釈迦が唱えたものとは異質なものになっていることを書いた文章である。それは「浄土」という文章ある。

 ご存じのように、お釈迦さんは、原則として不立文字だったわけです。

 釈迦はキリストのように救済を説かなかったのです。釈迦は解脱を説いたのです。解脱は禅宗の悟りと同じで、それは文字を用いたり、ことばで説明したりすることでは、果たせないのです。釈迦が何を言ったか、釈迦はどういう思想を持っていたのか、よくわからないのです。

 不立文字とは、「大辞林」よると、

 禅宗の基本的立場を示した言葉。悟りは言葉によって書けるものではないから,言葉や文字にとらわれてはいけないということ。教外 (きようげ)別伝と対で用いられることが多い。

 とある。ところが仏教にはさまざまな経典がある。これは宗教において必ず起こることのようだ。釈迦に限らず、キリストなど教主が説いたことが後に弟子などが文章にして、こう言った、ああい言ったと書いたことから、それに接する後世の人々がさらにさまざまな形で受け取り、考えていく。そうすることで説は変質していく。そこに世俗の事情が絡んでくると、ある意味都合よく解釈されていってしまう。
 私は信仰とは本来個人的なものだと思っている。親鸞においても自身の解脱しか考えていなかったという。人のことなど考えていなかった。はっきり言って他人のことなどどうでもいい。しかし教主がそう言ってしまうと、信者はどうしていいかわからなくなってしまう。まして教団として信者の団体が形成されると、親鸞自身が説いた説では都合が悪い。当然教団にとって都合のいい解釈のみが採用されていくし、元々なかった、説かれなかった考えが加えられていく。それこそ他宗教の説も加えられたりする。キリスト教など布教活動において、土俗の宗教を取り込んでいった。宗教とはそういうものに変質していく傾向がどうしても拭えない。
 そんな中でかねてから気になっていたのは僧侶が葬式を取り仕切ることである。単純に考えて信仰(あるいは宗教)と葬式と関係ないものではないかと思う。それを司馬さんは僧侶が葬式を取り仕切るようになっていく過程を言っている。長くなるが引用する。

 いまは、日本語が紊乱しまして、上人と言うと、偉い人のようにきこえますが、上人というのは資格を持たない僧への敬称であって、たとえば空海上人とは言いませんし、最澄上人とも言いません。最澄(七六七~八二二)も空海も有資格者だからで、無資格者に対してはたとえば親鸞上人というふうに敬称します。ただ親鸞の場合は、ときに聖人と書きます。聖と言うのは乞食坊主のことです。
 聖と賎は紙の表裏だと言いますが、聖というのは、普通、中世の言葉では、正規の僧の資格を持たない、乞食坊主のことを言います。だから尊くもありました。

(略)

 そのお葬式屋はお坊さんに対して、形の上では尊敬してしますが、呼びかたが、お上人なのです。私は、東京で普通の町寺のお坊さんを中世の言葉、お上人様と呼んでいる例を知って、びっくりしたことがありました。
 これはどういうことかといいますと、日本の仏教は正規のお坊さんが、葬式の主役であったことは本来ないんです。だいたい仏教に、葬式というものはありません。お釈迦さんが、葬式の世話をしたり、お釈迦さんの偉い弟子たちが、葬式のお経をあげたという話も聞いたことがありません。またずっと下がって日本仏教の、最初の礎であった叡山の僧侶が、関白が死んだからといって、お葬式するために出かけていったこともありません。
 奈良朝におこった宗旨は、いまでもお葬式をしません。たとえば奈良の東大寺の官長が死のうが、僧侶が死のうが、東大寺のなかでお経をあげません。そのためのお坊さんが奈良の下町にいて、それを呼んできて、お経をあげさせる。それはお上人ですから東大寺の仲間には入れてません。
 葬式をするお坊さんというのは、非僧非俗の人、さっきのお上人でした。つまり親鸞のような人です。また叡山を捨てた後の法然も、そういう立場の人だったわけです。非僧非俗、つまりお医者で言えば、無資格で診療しているようなものです。

 (略)

 だから日本仏教には、表通りには正規の僧侶がいて、裏通りには非僧非俗がいて――つまり官立の僧と私立の僧がいて――どっち側が日本仏教かということも、思想史的に重要な問題です。私は鎌倉以後は非僧非俗のほうが日本仏教の正統だったと思います。
 もう少し歴史的な景色を申し上げますと、室町時代ぐらいまで、平安時代を含めますが、京都あたりの鳥辺山とかいろんなところに焼場、葬儀場がありました。そこに墓もあり、葬式の列が行くと、食い詰めた人たちが、非僧非俗のお坊さんの形になって、南無阿弥陀仏の旗を持ち、亡くなった方に供養のお経をあげますよ、と言ってまわるわけです。遺骸をかついでいる遺族たちはかれらをわずかなお鳥目雇い、葬式のお経をあげさせていました。
 戒を受けた立派な僧は、そういうことはしませんでした。
 日本は、室町時代ぐらいから、非僧非俗の人がお葬式という分野に入りこみはじめたのです。それはほとんど時宗という宗旨の徒(時宗)でした。これは僧にあらず俗にあらざる集団でした。
 鎌倉の日本仏教興隆期に法然、つづいて親鸞が出てきますが、同時に南無阿弥陀仏のほうでは一遍(一二三九-八九)がでてきます。

 たぶん人は死後の不安を感じ続けて来たのだろう。自分が死んだ後どうなるのか。出来れば極楽浄土の世界で住み続けたいと思うようになっていく。少なくとも現世で苦しんできた世界をそのまま続けたくはない。ましてその現世で生きるのが苦しければ苦しいほど来世に期待を持ちたい。そうした救いを宗教に求めるようになっていく。それがたとえばキリスト教が普及していった理由の一つではないか、と思っている。キリスト教においては、死後の安寧な生活を保証するために、今現在の生き方まで規定し、影響を及ぼしてしまう。
 仏教においてもたぶん同じだったのではないか。ただどういうわけか日本仏教においては誰でも救われる。現世でどんなにあくどい生き方をしても大丈夫という思想が広まっていく。そのひとつが阿弥陀仏だった。何と言っても阿弥陀仏はお節介と言えるほど、人を救ってくれるから、当然関心を引くわけだ。

 仏教は、発祥地のインドで衰弱していきます。その大きな理由の一つは、平等を説きすぎたからでしょう。釈迦はインド的な差別制度であるカーストをみとめませんでした。そのことがインド人にとって魅力だったという時代がすぎ、カーストを認めないことに、逆にそれじゃ空想じゃないかというとりとめなさを感じさせる時代がはじまったのだと思います。
 仏教は北上します。
 北上していくうちに、かつて西のほうからやってきて定住していたアレクサンドロス大王の兵隊の子孫、いまのアフガニスタン、パキスタンあたりに住んでいた連中と出会います。かれらはヘレニズムをもっていました。特技はヴィーナスを作る能力で、つまりは人間とそっくりの物をつくれる彫刻家をもっていました。そこへ非常に形而上性の高い仏教が北上してきて混じり合ったとき、土地の人が、そんな難しいことを言われてもわれわれにはわからない、その仏教はどういう形だ、教えてくれれば私たちが彫刻や絵画にしてみせる、と言ったであろうことが、仏像のはじまりだと言われています。
 これがガンダーラの発祥で、ギリシャの造形能力とインドの思弁能力や形而上性とが合致したのです。その場所から仏教と仏像が、日本に向かって歩きはじめたわけで、ずいぶん歳月がかかっています。
 日本にむかって歩きはじめた途中、こんにち流行りのシルクロードのあたりで、どうやら阿弥陀信仰やお経ができたようです。ですから、浄土教というのはお釈迦さんとも関係なく、仏教そのものの正統の流れともじかの関係はありません。
 釈迦は、みなさん自分で解脱しろ、と言う。
 ところがそうしなくてもいいと阿弥陀如来は言うのです。つまり阿弥陀如来には固有の本願というものがあって、人を救わざるをえない、人が逃げだしても救ってくださる、そういう救済思想が、仏教の名を冠して登場してきたわけです。
 仏教における救済思想の誕生は、キリスト教と関係があるのか、あるいはペルシャのゾロアスター教の刺激をうけたか、ともかくも救済宗教が既存した土地で阿弥陀仏教が成立したんだと思います。

 私は正統だって日本仏教の知識がないから、どこかごちゃ混ぜになってしまっているところがあるようだ。日本仏教にはさまざまな宗派があるから、それぞれが何を言っているのかわからない。わからないのにわかったような言い方で終わってしまっているのが、どこか自分でももやもやしている。ただそれを明快にするために仏教を学ぶにはあまりにも広大で、どこから手をつければいいのかわからないし、そのための厖大な時間を費やす余裕がないのが残念である。だから思うままに書いてみた。
 いま思うのは、信仰が人の生き方を規定してしまうこと。そしてそれが死後の世界まで及ぶのはどうなんだろう、と思うのだ。どこか人の不安をつけ込んで信仰が入りこんでいるようなところがありはしないか。それだけ人間は弱い生き物だということなのか。
 だからこそ信仰が人々の心の中に存在し、それが文化や文明まで成長し、世界を作っている。たぶんそういうことなんだろう。それに関しては尊厳を持ちたい。

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと〈13〉エッセイ1985.1~1987.5』 新潮社(2002/10発売)


by office_kmoto | 2018-08-13 05:50 | 本を思う | Comments(0)

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