2018年 08月 15日 ( 1 )

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと』〈14〉

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 この時期になると、司馬さんは文明評論家と化した感がある。これまでと重複するものが多く出てくるが、これは司馬さんの書かれた文章を片っ端から集めたとなれば仕方がない。
 これまでこのシリーズを読んできて気になった文章を掲げてきたが、以下書き出したものは、今まで書き出したものよりいくらかわかりやすいのではないか、と思い、また書き出してみる。

 漱石によって、大工道具でいえば、鋸にも鉋にも鑿にもなる文章ができあがるのです。ということは、たれでも漱石の文章を真似れば、高度な文学論を書くことができるし、また自分のノイローゼ症状についてこまかく語ることができ、さらには女性の魅力やその日常生活をみごとに描写することができます。(文学から見た日本歴史)

 言語の基本(つまり文明と文化の基本。あるいは人間であることの基本)は、外国語ではない。
 母親によって最初に大脳に植えこまれたその国のつまり国語なのである。
 国語(日本語)は、日本文化二千年の所産であるだけでなく、将来、子供たちが生きてゆくための唯一の生活材であり、精神材であり、また人間そのものを伸びさせるための成長材でもある。(なによりも国語)

 今は何かと言えばグローバル化と称し、英語がしゃべれることが重視される。確かにその必要性はわかるが、日本語がきちんと使えることが前提ではないか、と考える。自分たちがしゃべる日本語で自身を、そして自身の文化を考えられることが最前提だと思う。自身や文化を語る、あるいは思考する道具が日本語である以上、そこがしっかりしていないと、自身や自身の文化を語れまい。あるいは自身の考えを伝えることが出来ないのではないか。
 テレビを見ていると、あまりにも馬鹿な言葉遣いをするタレントの多いこと。また本来正しい日本語使わなければならないアナウンサーでさえ、おかしな言いまわしをするのを耳にする。おかしくないかと思うことが度々だ。もちろん私だってちゃんとした日本語使える訳じゃないが、だからこそきれいな日本語喋る人の日本語を聴きたいと思うのである。

 文明と文化の違いはこれまで何度か書き出した。今回も書き出したのはその説明がよりわかりやすかったからだ。

 近代日本が、わずか三十年のあいだに物狂いしたように帝国主義のまねをし、いまなお――どころかずっとのちまで――近隣の国々の猜疑からまぬがれずにいる。この日本のくるしみから察しても、他民族に屈辱をあたえるという国家行為が、国家にとってながい計算からいえば負の行為であることはいうまでもない。(女真人来り去る)

 しかし、文明はかならず衰える。
 いったんうらぶれてしまえば、普遍性をうしない、後退して特異なもの(文化のこと)になってしまう。(文化と文明について)

 人間は、冒頭のたとえのように、文化という(他からみれば不合理な)マユにくるまれて生きている。
 頭上に文明(たとえば交通文明とか、法の文明)があるにせよ、民族や個々の家々では、普遍性に相反する特異さで生き、特異であることを誇りとしている。そういう誇りのなかに人間の安らぎあり、他者からみれば威厳を感じさせる。
 異文化との接触は、人間というこの偉大なものを、他者において感ずる行為といっていい。(文化と文明について)

 文化というものは、魚が魚巣に住むように、サナギがマユにくるまれているように、それにくるまれていると快いというものであります。ときに、習慣と同義語でもあります。習慣は人の心をおちつかせます。さらに、すぐれた芸術は人の心を快くさせます。“くるまれて楽しい”ということが、文化なのです。(すばらしい時間を)

 江戸というのは金を使う場所だったわけです。これがまた江戸の気風を決定しておりました。江戸っ子は宵越しの金はもたないといいますが、これはずいぶん語弊のあることで、日本橋の商家の主人が金をもたないようでは、その商家は維持できません。ですから、これは主として大工、指物屋さん、あるいは他の職人の気風をいったものです。腕を磨けば、おまんまはついてくるんだ、という意味です。
 ともかくも江戸の経済というのは、その大きな消費によって成り立っている。(偉大な江戸時代)

 江戸については、先日NHKの「大江戸」で江戸中期の経済成長率が世界トップクラスだったと最近判明したと言っていた。
 もともと江戸は成立時から消費の町だった。家康が江戸に幕府を開いたとき、家康に従う他の藩は江戸の整備にかり出された。多くの職人たちが全国から集まって来た。彼らは江戸という町を作る一方、消費する側の人間たちであったからだ。また大名の参勤交代で武士たちが集まった。当然彼らも消費するだけの人間の集まりだった。
 しかし江戸中期になると、武士は没落していくと、今度は商人たちが武士に変わって江戸を盛り上げていく。しかし物資を供給する後背地を持たない江戸は、それらの物資を大坂から調達された。それら物資を集め、供給するための海運業が発達していくのである。

 この巻では有名な「二十一世紀に生きる君たちへ」が収録されている。

 私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。
 歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。
 だから、私は少なくとも二千年以上の時間の中を、生きているようなものだと思っている。この楽しさは――もし君たちさえそう望むなら――おすそ分けしてあげたいほどである。
 ただ、さびしく思うこともある。
 私が持っていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。未来というものである。
 私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。
 君たちはちがう。
 二十一世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。
 もし「未来」という町角で、私が君たちに呼びとめることができたら、どんなにいいだろう。
 「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている二十一世紀とは、どんな世の中でしょう」
 そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、ただ残念にも、その「未来」という町角にには、私はもういない。

 私はこの文章を読むと、新聞などの広告に載る作家たちの“エール文章”の中で屈指のものだと思っている。
 司馬さんはやはり二十一世紀を待たず、1996(平成8)年2月12日に亡くなった。

 さて、司馬さんを文明評論家と称したが、一方で人物紹介、あるいは作品紹介文も多くここには掲載されている。司馬さんが薦める人物たちは共通の性質を持っている。すなわち人物に少年の部分を持ち合わせているかである。少年のような純粋で好奇心旺盛で心の持ち主が司馬さんが薦める人物たちなのだ。

 大きな塊というには、その内側に少年を飼っているいないか、ということだと私は考えている。(高貴な少年)

 ついでながら、創造は、人間の中の高度な少年の部分がやるのである。(“モンゴロイド家の人々”、など)

 そんな中、池波正太郎さんに関する文章が興味深かった。まず知って驚いたのが司馬さんと池波さんは同年代で、同じ年に直木賞をもらっているのだ。

 私ども、同年(一九二三年生まれ)である。震災のとしで、池波さんが一月、私は八月うまれだった。(若いころの池波さん)

 池波さんと私は縁がふかくて、同じ年(昭和三十五年――私は三十四年の下期だが、授賞式は翌年だった――)に、直木賞をもらった。(若いころの池波さん)

 それで司馬さんが書く池波さんはなるほどと思った。今までいくつかもの池波正太郎さんに関する文章を読んできたけれど、これほど的確に、しかも大きく肯かせるものはなかったので、最後に書き出しておく。

 私の記憶や知識のなかでは、江戸っ子という精神的類型は、自分自身できまりをつくってそのなかで窮屈そうに生きている人柄のように思えている。
 池波さんも、そうだった。暮の三十一日の日にはたれそれの家に行って近況をうかがい、正月二日にはなにがしの墓に詣で、そのあとどこそこまで足をのばして飯を食うといったふうで、見えない手製の鳥籠のような中に住んでいた。いわば、倫理体系の代用のようなものといっていい。
 この場合、こまるのは、巷の様子が変わることである。夏の盛りの何日という日にゆく店が、ゆくとなくなっていたり、まわりの景色がかわっていたりすると、たとえば鮭の卵をつつんでいる被膜がとれてしまうように当惑する。
 「いやですねえ」
 池波さんは、心が赤剥けにされてゆくような悲鳴をあげていた。
 なにしろ当時、東京オリンピック(昭和三十九年)の準備がすすめられていて、都内は高速道路網の工事やらなにやらで、掘りかえされていた。東京は、べつな都市として変わりつつあったのである。
 池波さんは、適応性にとぼしい小動物のように自分から消えてしまいたいとおもっている様子で、以下は重要なことだが、この人はそのころから変わらざる町としての江戸を書きはじめたのである。
 それはちょうど、ジョルジュ・シムノンが「メグレ警視」でパリを描きつづけたようにして、この人の江戸を書きはじめた。この展開がはじまるのは、昭和四十三年開始の『鬼平犯科帳』からである。
 メグレが吐息をつく街路や、佐伯祐三が描きつづけたパリの壁のように、池波さんは江戸の街路や、裏通りや屋敷町、あるいは、“小体な”料理屋などをすこしずつ再建しはじめただけでなく、小悪党やらはみだし者といった、都市になくてはならない市民を精力的に創りはじめた。昭和四十七年からは、『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』などがはじまる。
 かれらは池波さんが創った不変の文明のなかの市民たちなのだが、たれよりもさきに住んだのは池波さん自身だった。(若いころの池波さん)

司馬 遼太郎 著 『司馬遼太郎が考えたこと〈14〉エッセイ1987.5~1990.10』 新潮社(2002/11発売)


by office_kmoto | 2018-08-15 06:06 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

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