2018年 09月 18日 ( 1 )

小沢 健志 編 『写真で見る関東大震災』

d0331556_05225822.jpg 関東大震災に関する本は数冊読んできたが、その震災の被害模様を写真で見てみたいとかねがね見たいと思っていた。この本はそんな被害模様を写真で見ることが出来た。ただ残念なことに文庫本なので、写真が小さい。文庫本オリジナルなようで、親本はないみたいだ。


 関東大震災は大正12年(1923年)9月1日午前11時58分44秒に発生した。マグニチュード7.9。震源地は相模湾底。激しい揺れは相模湾沿岸の各市町村から、横浜、東京、房総の関東、さらに東北方面まで及んだ。
 地震直後、各地で火災が発生、発火の諸条件に加えてちょうど昼食どきと重なったこともあり、東京市内で約80ヵ所から火の手があがった。のちの調査資料によると、東京(当時人口約400万人)だけで、
 家屋全壊 約13万戸
 家屋半壊 約13万戸
 家屋焼失 約45万戸
 死者   約10万人
 行方不明 約4万5千人
 という想像を絶する大災害であった。
 また沿岸の津波被害も甚大であった。一例として三崎で約6メートル、洲崎で約8メートル、他沿岸全域が大きな被害を受けた。例を見ない災害はとうきょうを中心に一府6県に及んだことで、広く「関東大震災」と呼ばれるゆえんである。失われた総財費は約55億円(当時)といわれる(当時の国家予算約15億円と比べると異常な大災害であったことがわかる)。
 東京は3日間燃え続け、上野池ノ端付近で焼け止まった。

 (略)

 とくに被害が激しかったのは、隅田川の東側、深川区、本所区(現・江東区、墨田区)であった。密集した家屋の倒壊、道路不通に加えて、情報伝達の機能の崩壊と、誤った誘導があった。
 午後3時すぎには火の海となり、逃げ道を失った下町の住民は誘導に従って、本所被服廠跡の約2万坪の空地へ逃げ込んだ。背負っているふとん、家財に周囲からの飛び火がついて燃えあがり、この地で大震災による死者の3分の1にあたる約3万8千人が焼死した大惨事となったのである。
 一瞬のことを感じることなく、語り合う若い娘たちの写真は、見るのも痛々しく、またあのさなかよく撮影したとおもうし、よく残ったものと思う。生き残った老婦人からの直接の聞きとりであるが、猛火の旋風が吹き来ると着ていたゆかたがあっという間に火がついて上空に巻き上げられ、丸裸にされたまま必死に逃げたという。
 被服廠跡に重なり合った焼死体の悲惨な写真と、また逃げ場を失って隅田川に飛び込んで焼死・溺死した数千人が浮かぶ死体の写真は現代でも直視できない。この写真集にも一部掲載したが、当時販売した絵ハガキがあった。まりの悲惨さに発売後、当然ながら直ちに発禁になった。ただし焼死体写真は無残な現実を撮影し得たことで、そのあまりの悲惨さを現代に伝えることができたのである。



 震災当時は本所区横網町1丁目と呼ばれ、そこには陸軍被服廠のおよそ2万坪に及ぶ広大な跡地が広がっていた。その半分は、すでに東京市が公園建設を決定していた土地である。地震のふた月前には工事も始まっていた。人口密集地である本所区の被災者がそこを避難場所に求めたのは当然であった。


 関東大震災の被服廠跡では、地震の翌日より死骸の処理を始めたが、火災がなかなか収まらず、火葬に着手したのは9月5日からであった。それから15日までの11日間約3万8千体が露天で焼かれ、雨ざらしのまま築かれた白骨の山は3メートルを超えた。その惨状を見兼ねた篤志家より大瓶70個が寄贈され、遺骨はそこに移されたものの納まり切らず、なお木箱十数個を要した。


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 最初の写真は「上野駅前 浅草・神田方面からの避難者たち」と説明が付いている。


 被服廠跡に非難した人たちの写真ではないが、たぶんこんな状況だったのではないか。ここに火の粉が舞い落ちれば、荷台に積んだ蒲団や家財に燃え移っても不思議ではない。ましてこの状況では身動きなどできないだろう。被害が拡大したのもうなずける。


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 西郷さんの銅像に貼られているのは行方不明者を尋ねる張り紙だろうか?
 被服廠跡の写真はやはり悲惨だ。


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 2枚とも「被服廠に並べられた死亡者。衣服は気流にのった強い炎にあおられるように焼けてしまい、裸体になってしまったという」キャプションが付いている。
 次の写真は「本所被服廠跡死者の骨の山」というキャプション。

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 そこにあった数多くの花束の写真。キャプションには「納骨堂ができる前に作られたお堂。前に積まれているのは花束の山」とある。さらに集められた遺骨は地域ごとに大きな壺に収められているが、山のようになっている。


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 ここにも浅草凌雲閣の写真もあったので、掲載しておく。


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 しかし震災後、その被害状況を写した写真が絵はがきとして売られていたというのは驚く。もっとも東日本大震災のときも、緊急出版として震災の被害状況を写した写真集を発売しているから、人はそれを見たくなるのだろう。実際被災地の書店ではそんな写真集がよく売れたと書いてある本を読んだ。写真は「大正大震災写真帖表紙」を飾る凌雲閣である。


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 その他興味深い写真はまず御茶ノ水の写真。


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 さらに三越正面の写真。あのライオン像が見える。


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 洲崎遊郭の全壊の写真もある。


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 当然報道機関も機能しなくなった。


 わずかに焼け残ったのは、内幸町にあった「都新聞」(東京新聞の前身)と有楽町の「東京日日新聞}(現・毎日新聞)、「報知新聞」(読売新聞との合併前)の3紙だけである。しかし3紙とも、社内の活字は散乱し、電気も止まり、輪転機は動かない。そのうえ通信は完全に麻痺してしまった。ただ、幹部の「新聞は休まない」との号令で、発行に全力を挙げることになる。
 大地震発生直後「号外」を出したのは「東京日日」と「報知」だけである。床に散る活字を活版係が拾い、タブロイド判大で数百枚を手刷りし、市内各所に張り出した。



 「東京朝日」や「東京日日」は、「大坂朝日」「大坂毎日」の傘下にあったため東京ででの新聞発行再開より、大震災の様子をいち早く大阪本社へ伝えることが最優先で、60時間かけて大坂へ記者は向かったと言う。

 吉原でも娼妓たちも数多くの犠牲者を出した。


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 東京・新吉原は娼妓の数が3千500人という廓でも全国きって歓楽地帯である。この地震が起きたのは、すでに昼近く、大方の客も帰ったあとで、妓たちは一息ついたころであった。いきなり激震を伴う大音響とともに身体が板の間に叩きつけられた。突然のことで、慌てふためき外へ飛びでた途端に豪華な建物がいきなりメリメリッと崩れ落ちた。表では江戸町の「美華登楼」が最初に火を吹くと、南風の烈風によって燃え上がり、数楼に飛び火していた。逃げ惑う女たちの前には、早くも炎が轟音を立て火の粉を散らしながら降り注ぐ。
 逃げ道といっても、遊郭の一帯は逃亡防止のため、川や塀をめぐらしてあり、残るは遊郭の敷地内にある小さな「弁天池」だけだった。追いつめられた状況のさなか、避難場所がこの池に集中したのも無理はない。だが吉原を襲った未曾有の火熱ですでに池の水は熱湯になっていた。
 人々は追いかけてくる火勢に耐え切れず、我先にと池に飛び込んだ。ここの溜池の底は泥沼化しており、飛び込んだ者は足を取られて、もがいている。ではあるが、次々に飛び込む者は絶えない。なかには溺れる寸前の女から髪の毛を掴まれ命綱にされ、喘ぎながら一緒に泥中に沈んだという哀れな話もある。
 楼内のみならず近隣からも弁天池に非難したため、犠牲者は700人に達したという。
 この災害を逃れた娼妓たちは「人身売買禁止令」に基づき、借金返済不要で自由の身になったというが、行く先も金もなく、再建した娼家にまた居座ったという話を聞く。



小沢 健志 編 『写真で見る関東大震災』 筑摩書房(2003/07発売)ちくま文庫

by office_kmoto | 2018-09-18 05:53 | 本を思う | Comments(0)

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