佐藤 優 著 『十五の夏』〈下〉

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 下巻は全編ソ連の旅である。東ヨーロッパからキエフに入り、その後モスクワに出た。

 「赤の広場」の「赤」は、共産主義を意味するものではない。帝政ロシア時代から「赤の広場」と呼ばれていた。ロシア語の古語では、「赤い」と「美しい」は同じ形容詞を使っていたという。「赤い広場」とは色を意味するものではなく「美しい広場」という意味だ。

 その後ソ連領の中央アジアのブハラへ出て、ウズベキスタンの首都タシケントへ向かい、さらに飛行機でハバロフスクに出て、夜行列車でナホトカに出る。そして船で横浜に帰ってくるルートである。
 これを読んでいると当時(今もそうなのかわからないが)ソ連内を旅する場合インツーリストという旅行会社にホテルから飛行機、汽車をすべて先に日本で予約していないとビザが下りなかったようで、これがあればすべてが優先的にされるようだ。しかもべったりとガイドが何もかも取り仕切ってくれる。ときに鬱陶しい感じがするが、一人旅をするには便利なようだ。
 ガイドブックなどにはロシア人は不親切であるし、食事もまずいと書かれているようだが、実際旅をしているとそうではなく、親切だし、食事も美味しいと書く。こういうのって主観だから、人それぞれなんだろうし、たまたまそんな場面の遭遇してしまった可能性だってある。だから下手に鵜呑みにできないことを何度も書いている。

 さて、彼は日本にいる時に「日ソ友の会」で仲間から紹介されたモスクワ放送局の日本課長を訪ねる。
 彼のこの旅プラン自体高校生離れしているが、旅をする前に充分な資料を、それこそ高校生とは思えない程、ソ連に関して集めていたし、それに接する機会を求めていた。 高校生がソ連に関係する団体に入りこんで、データを収集するとは驚きである。
 そんな日本でのソ連との関係を友好にしたいという仲間たちと食事をしている時、北方領土問題で早稲田の学生と初老の男性が口論となった。
 今日本とロシアとの間で最大の問題は北方領土帰属問題であろう。日本は北方領土は日本の領土だから帰せと主張する。ロシアはそれは出来ないと言い張り、戦争が終わっても今日まで両国間で平和条約が締結出来ないでいる。そのためプーチン大統領はこの問題を棚上げして平和条約を結ぼうじゃないかと提案したくらいだ。
 私もロシア(当時はソ連)が終戦間際、いきなり入り込んできて、それこそ火事場の泥棒みたいに北方領土を取っていったと思っていた。しかしここは江戸時代に領土の線引きが行われていて、日本人が住んでいた島だ。だから北方領土は日本の国土じゃないかと思っていた。
 戦争で勝った負けたで国土が増えたり、なくなったりするのは歴史的に当然のようにある。勝った側は莫大な費用と犠牲をかけて勝利したわけだから、そのご褒美を当然要求する。ロシアだけじゃない。日本だってかつてそうであった。日露戦争の時など、対費用効果に見合わないといって、小村寿太郎が結んだポーツマス条約に納得できないといって暴動が起こったくらいだ。
 問題はサンフランシスコ条約を締結するときに、日本が北方領土をどこまでソ連に引き渡すか、そこを曖昧なまま条約を締結してしまったことが、今日まで問題を複雑化してしまったようだ。

 「日本政府の北方領土返還要求は、支離滅裂で、到底、国際社会からの批判に堪えることができません。まず、日本は1951年のサンフランシスコ平和条約2条C項で南樺太と千島列島を放棄しています。この放棄した千島列島に、国後島、択捉島も含まれています」

 「そんなことはない。日本はウルップ島からシュムシュ島までの千島列島は放棄したが、歯舞諸島、色丹島、国後島、択捉島の北方四島は放棄していない。少なくとも日本政府はそう言っている」
 「それは、日本政府の反ソ・反共政策に基づくプロパガンダです。サンフランシスコ平和条約締結時点では、日本は国後島と択捉島を放棄していました。1950年代半ばに日ソ国交交渉が始まったときに立場を変えたのです」

 どちらの言っていることが正しいのだろうか。実証的には、早大生の言っていることの方が正しい。

 この後著者はこの紀行記の付属する話として(かつて外務省で担当した立場からだろう)、詳しく北方領土問題の歴史、日本政府のぐらつく姿勢を自らその事情を書きつづる。

 1951年9月8日に署名されたサンフランシスコ平和条約で、日本は国際社会に復帰した。この条約の2条C項に、「日本国は、千島列島並びに日本国が一千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」とある。日本は、歴史的には日本領土である南樺太と千島列島を放棄した。

 国会においても、政府はサンフランシスコ平和条約2条C項で放棄した千島列島に国後島と択捉島が入っていることを明確にしている。

 ここではサンフランシスコ条約で放棄した千島列島のうち、国後島と択捉島が千島列島に含むか含まないかが問題になっている。サンフランシスコ条約では千島列島に国後島と択捉島が含まれている。それをいやそんなことは言っていない。国後島と択捉島は千島列島に含まないと日本は後で言いだしたのだ。サンフランシスコ平和条約で放棄してしまった国後島と択捉島は、「あのときああ言ったけれど、やっぱり無理」と言っているのと同じことなのである。
 いずれにせよ、サンフランシスコ条約で国後島と択捉島は含む、含まないがはっきりしないまま条約に日本はサインしてしまった。その後そうじゃないといっても、これは問題の種になる。さらにここでは触れていない歯舞、色丹島の帰属問題はどうなるんだろう。どういう扱いになっているのかわからない。
 北方領土四島返還がロシアとの間でいつも大きな問題になるが、我々がこの四島が単に日本の領土だから帰せと言ってはいないか。それらがソ連に渡った詳しい経緯を知らずに言ってはいないだろうか。これはちょっと調べてみる必要がある。特に歯舞、色丹島の扱いが私にはわからない。

 さて、

 ハバロフスクからナホトカへ向かう汽車のコンパートメントには3人の日本人男性がいた。一人はヨーロッパ放浪中フィンランドで現地の女性と恋に落ちて結婚し、日本に連れて行く途中という二十代青年。もう二人が四十代くらいの都立高校の教師で毎年海外旅行を二人でしているという。
 彼が毎年海外旅行をするのは出費が大変じゃないですか、と訊けば、「そうでもないよ。本を買えば、かなり相殺できる」という。この人は洋書をかなり読む。日本で洋書を買えばかなり高い。けれど西ヨーロッパで学術書を20冊くらい買えば、ナホトカ経由でヨーロッパを往復する交通費は補填されるというのだ。これは面白かった。
 またフィンランドで恋に落ちた二十代の男性は、高校時代に五木寛之の『霧のカレリア』を読んで憧れたという。
 この本には五木寛之さんの『青年は荒野をめざす』とか『さらばモスクワ愚連隊』など初期の小説がよく出てくる。私も高校時代五木さんの東ヨーロッパやロシアを舞台にした小説をよく読んだんで、思わず懐かしくなったが、この旅行をしている彼にしても、またこの二十代の男性にも影響を与えるほど魅力的な小説だったんだなあ、と今になって思ったりする。
 考えてみればあの頃は五木寛之さんが舞台にする東ヨーロッパやロシアは何故か切なく魅力的に映った。今でもその影響が私にはあって、ヨーロッパの雨に濡れた細く曲がった石畳に、特に夜など憧れたりするのは、元をたどれば五木さんの小説のどこかにあったのではないかと思ったりする。
 今でも北欧にも魅力を感じているが、それだって五木さんの白夜小説を読んだところが影響しているのかもしれない。だから彼らの言うことがわかる。

佐藤 優 著 『十五の夏』〈下〉幻冬舎(2018/03発売)


# by office_kmoto | 2018-09-23 07:15 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

佐藤 優 著 『十五の夏』〈上〉

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 『国家の罠』でこの人が東京地検の検事とやり合う場面を読んで、この人はかなり肝っ玉が据わっている人だと感じたことを覚えている。
 その著者が15歳の時、高校一年生の時に、一人で東欧からソ連へ一人旅に出かけたときの話がこの作品である。15歳の少年が一人で東欧へ旅しようなんて普通思わない。それをやったわけだから、なるほどあの時感じた肝っ玉が据わっていると感じたのも当然なわけだ。
 話は1975年の高校一年の夏休みに東欧と、当時まだソ連と呼んでいたロシアへ旅行したときの話である。東欧はまだこの時、ソ連の影響がかなり濃厚に残っていたはずだ。国家が国民に大きくのしかかった時代である。国が国民を監視し、そのことを気にしないとならない国々であった。
 旅をするにもいろいろな制約があり、細かい手続きをしないとプラン通りの旅が出来ない国々でもあった。
 そこへ行きたいと思う高校生はすごい。両親も高校入学のご褒美として資金援助する。また高校の先生も日本と社会体制が違う国を見ておくことはいいことだとして応援してくれた。
 旅行の準備のため相談に行った旅行会社の女性社員も社員の立場を超えて、あれこれ旅の裏技を伝授してくれる。それでも旅は出来る限り自分ですることを彼に言う。
 彼にはハンガリーに文通している友人がいるのでその友人をハンガリーに訪ねていくことになる。そこからソ連に入るプランだ。
 お金を節約するために運賃の安いエジプト航空でエジプトに入り、そこからスイス、西ドイツ、チェコスロバキアとポーランドを経由してハンガリーに入っていく。飛行機の中で会社の社長はエジプト航空を利用したことを褒め、この旅が彼の人生にいい影響を与えるはずだと言う。旅の途中彼に親切にしてくれた人々も、彼が高校生の一人旅であることを聞き、驚くが、この旅が彼の人生に良い影響を与えるはずだと同じように言ってくれる。
 日本の東欧のガイドブックでは、旅がしづらいことが書かれていた。確かに旅のしにくい国もあったが、実際そこを旅してみると人々はやさしく、親切であった。
 そんな人々の温かさを感じつつ旅をしていると、日本人の団体旅行の添乗員の意地悪さが際立ってしまう。
 ブダペストのホテルで日本人団体旅行の中にいた大学教授夫妻と親密になる。その時、

 僕たちが話をしているところに日本人の添乗員が近寄ってきた。
 「あなたは個人旅行ですよね」と僕に尋ねた。
 当たり前のことをどうして訊くのかと不思議に思ったが、僕は「はい」と答えた。
 「実は、ここは団体席で、食事は人数分しか準備していないので、あなたは別の場所に行ってほしいんだけど」と添乗員が言った。
 福井先生の奥さんの顔色が変わって、「1人くらい増えても問題ないじゃないですか。追加料金は払います」と言った。添乗員が返事をする前に、僕は「わかりました。それじゃ失礼します」と言って、テーブルを離れた。福井先生夫妻が申し訳なさそうな顔をしている。添乗員は、僕が団体に紛れ込んで、ただ食いでもすると思ったのだろうか。腹が立ってきた。こんな奴がいるところで、食事をしたくない。

 訪ねていく国々の人々が一人旅で苦労している彼をあれこれ助けてくれているのに、同胞の日本人の大人の態度がこれである。読んでいて嫌になってしまう。
 それでもハンガリーでは文通をしていたフィフィと親交を温める。彼は観光名所を訪ねるより人々の生活模様を見たいと、人々の中に入ろうとする。人々の中に入ってみて、なまの生活ぶりを実感していく。このあたりは、たとえば清水義範さん夫婦のパッケージツアーとは違うところだし、最近清水さんの旅行シリーズが面白味に欠けるのもこのあたりに限界があるのかもしれない、と思ったりした。そういう意味で、この旅行記は時代を経ているけれど面白い。
 フィフィから書店に日本語を話す店員がいることを聞き彼は会いにいく。その時の彼が感じたことは重要なことだと思った。ここまで感じられる旅が出来るのもすごい。

 「第二次世界大戦まで、ハンガリー人は生活していくためにドイツ語の知識が不可欠でした。戦前に教育を受けた人はハンガリー語とドイツ語のバイリンガルです。戦後、ドイツ語は必要なくなりました。ドイツ語の代わりにロシア語が必修科目になった。小学生からロシア語を勉強します。しかし、日常生活で用いる機会がないので、かつてのドイツ語のようには定着していない。1956年にソ連が入ってくるまで、ソ連を嫌う人とソ連に好感を抱く国民の比率は半々でした。しかし、ハンガリー動乱で国民の圧倒的多数がソ連を嫌いになった。そうなると知識人は、ロシア語やソ連事情について一生懸命に勉強するようになりました」
 「どうしてですか」
 「ハンガリーが生き残るために、ソ連との関係が死活的に重要だからです」
 生き残るために外国語の勉強をしなくてならない状況があるということだ。好奇心でしか外国語の勉強について考えていなかった僕には、書店員の話がとても衝撃的だった。

 フィフィと別れ、彼はルーマニアに入る。あのチャウシェスク時代のルーマニアである。国民も節約を求められていたこの国は観光客には旅をしにくい国であった。
 その後ソ連のキエフに入り、モスクワに入ったところで上巻は終わる。
 この紀行記は著者が15歳の時旅したときのことを思い出して、あるいはメモや記録をもとに書かれたのだろうと思われる。出来るだけ15歳に近い時期に書かれたものとして書きたかったのだろう。当時の「僕」が近々の「僕」に感じられるよう苦労されている。ただ国や人々の分析や、歴史などどうしても今の自分が出て来てしまい、惜しいなあ、と思った。もちろんそうした大人の分析は貴重であるし、考えさせられるのだが。でもそれは仕方がない。上手くバランスがとれていればいい。
 下巻が楽しみである。

佐藤 優 著 『十五の夏』〈上〉 幻冬舎(2018/03発売)


# by office_kmoto | 2018-09-20 06:57 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

小沢 健志 編 『写真で見る関東大震災』

d0331556_05225822.jpg 関東大震災に関する本は数冊読んできたが、その震災の被害模様を写真で見てみたいとかねがね見たいと思っていた。この本はそんな被害模様を写真で見ることが出来た。ただ残念なことに文庫本なので、写真が小さい。文庫本オリジナルなようで、親本はないみたいだ。


 関東大震災は大正12年(1923年)9月1日午前11時58分44秒に発生した。マグニチュード7.9。震源地は相模湾底。激しい揺れは相模湾沿岸の各市町村から、横浜、東京、房総の関東、さらに東北方面まで及んだ。
 地震直後、各地で火災が発生、発火の諸条件に加えてちょうど昼食どきと重なったこともあり、東京市内で約80ヵ所から火の手があがった。のちの調査資料によると、東京(当時人口約400万人)だけで、
 家屋全壊 約13万戸
 家屋半壊 約13万戸
 家屋焼失 約45万戸
 死者   約10万人
 行方不明 約4万5千人
 という想像を絶する大災害であった。
 また沿岸の津波被害も甚大であった。一例として三崎で約6メートル、洲崎で約8メートル、他沿岸全域が大きな被害を受けた。例を見ない災害はとうきょうを中心に一府6県に及んだことで、広く「関東大震災」と呼ばれるゆえんである。失われた総財費は約55億円(当時)といわれる(当時の国家予算約15億円と比べると異常な大災害であったことがわかる)。
 東京は3日間燃え続け、上野池ノ端付近で焼け止まった。

 (略)

 とくに被害が激しかったのは、隅田川の東側、深川区、本所区(現・江東区、墨田区)であった。密集した家屋の倒壊、道路不通に加えて、情報伝達の機能の崩壊と、誤った誘導があった。
 午後3時すぎには火の海となり、逃げ道を失った下町の住民は誘導に従って、本所被服廠跡の約2万坪の空地へ逃げ込んだ。背負っているふとん、家財に周囲からの飛び火がついて燃えあがり、この地で大震災による死者の3分の1にあたる約3万8千人が焼死した大惨事となったのである。
 一瞬のことを感じることなく、語り合う若い娘たちの写真は、見るのも痛々しく、またあのさなかよく撮影したとおもうし、よく残ったものと思う。生き残った老婦人からの直接の聞きとりであるが、猛火の旋風が吹き来ると着ていたゆかたがあっという間に火がついて上空に巻き上げられ、丸裸にされたまま必死に逃げたという。
 被服廠跡に重なり合った焼死体の悲惨な写真と、また逃げ場を失って隅田川に飛び込んで焼死・溺死した数千人が浮かぶ死体の写真は現代でも直視できない。この写真集にも一部掲載したが、当時販売した絵ハガキがあった。まりの悲惨さに発売後、当然ながら直ちに発禁になった。ただし焼死体写真は無残な現実を撮影し得たことで、そのあまりの悲惨さを現代に伝えることができたのである。



 震災当時は本所区横網町1丁目と呼ばれ、そこには陸軍被服廠のおよそ2万坪に及ぶ広大な跡地が広がっていた。その半分は、すでに東京市が公園建設を決定していた土地である。地震のふた月前には工事も始まっていた。人口密集地である本所区の被災者がそこを避難場所に求めたのは当然であった。


 関東大震災の被服廠跡では、地震の翌日より死骸の処理を始めたが、火災がなかなか収まらず、火葬に着手したのは9月5日からであった。それから15日までの11日間約3万8千体が露天で焼かれ、雨ざらしのまま築かれた白骨の山は3メートルを超えた。その惨状を見兼ねた篤志家より大瓶70個が寄贈され、遺骨はそこに移されたものの納まり切らず、なお木箱十数個を要した。


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 最初の写真は「上野駅前 浅草・神田方面からの避難者たち」と説明が付いている。


 被服廠跡に非難した人たちの写真ではないが、たぶんこんな状況だったのではないか。ここに火の粉が舞い落ちれば、荷台に積んだ蒲団や家財に燃え移っても不思議ではない。ましてこの状況では身動きなどできないだろう。被害が拡大したのもうなずける。


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 西郷さんの銅像に貼られているのは行方不明者を尋ねる張り紙だろうか?
 被服廠跡の写真はやはり悲惨だ。


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 2枚とも「被服廠に並べられた死亡者。衣服は気流にのった強い炎にあおられるように焼けてしまい、裸体になってしまったという」キャプションが付いている。
 次の写真は「本所被服廠跡死者の骨の山」というキャプション。

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 そこにあった数多くの花束の写真。キャプションには「納骨堂ができる前に作られたお堂。前に積まれているのは花束の山」とある。さらに集められた遺骨は地域ごとに大きな壺に収められているが、山のようになっている。


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 ここにも浅草凌雲閣の写真もあったので、掲載しておく。


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 しかし震災後、その被害状況を写した写真が絵はがきとして売られていたというのは驚く。もっとも東日本大震災のときも、緊急出版として震災の被害状況を写した写真集を発売しているから、人はそれを見たくなるのだろう。実際被災地の書店ではそんな写真集がよく売れたと書いてある本を読んだ。写真は「大正大震災写真帖表紙」を飾る凌雲閣である。


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 その他興味深い写真はまず御茶ノ水の写真。


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 さらに三越正面の写真。あのライオン像が見える。


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 洲崎遊郭の全壊の写真もある。


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 当然報道機関も機能しなくなった。


 わずかに焼け残ったのは、内幸町にあった「都新聞」(東京新聞の前身)と有楽町の「東京日日新聞}(現・毎日新聞)、「報知新聞」(読売新聞との合併前)の3紙だけである。しかし3紙とも、社内の活字は散乱し、電気も止まり、輪転機は動かない。そのうえ通信は完全に麻痺してしまった。ただ、幹部の「新聞は休まない」との号令で、発行に全力を挙げることになる。
 大地震発生直後「号外」を出したのは「東京日日」と「報知」だけである。床に散る活字を活版係が拾い、タブロイド判大で数百枚を手刷りし、市内各所に張り出した。



 「東京朝日」や「東京日日」は、「大坂朝日」「大坂毎日」の傘下にあったため東京ででの新聞発行再開より、大震災の様子をいち早く大阪本社へ伝えることが最優先で、60時間かけて大坂へ記者は向かったと言う。

 吉原でも娼妓たちも数多くの犠牲者を出した。


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 東京・新吉原は娼妓の数が3千500人という廓でも全国きって歓楽地帯である。この地震が起きたのは、すでに昼近く、大方の客も帰ったあとで、妓たちは一息ついたころであった。いきなり激震を伴う大音響とともに身体が板の間に叩きつけられた。突然のことで、慌てふためき外へ飛びでた途端に豪華な建物がいきなりメリメリッと崩れ落ちた。表では江戸町の「美華登楼」が最初に火を吹くと、南風の烈風によって燃え上がり、数楼に飛び火していた。逃げ惑う女たちの前には、早くも炎が轟音を立て火の粉を散らしながら降り注ぐ。
 逃げ道といっても、遊郭の一帯は逃亡防止のため、川や塀をめぐらしてあり、残るは遊郭の敷地内にある小さな「弁天池」だけだった。追いつめられた状況のさなか、避難場所がこの池に集中したのも無理はない。だが吉原を襲った未曾有の火熱ですでに池の水は熱湯になっていた。
 人々は追いかけてくる火勢に耐え切れず、我先にと池に飛び込んだ。ここの溜池の底は泥沼化しており、飛び込んだ者は足を取られて、もがいている。ではあるが、次々に飛び込む者は絶えない。なかには溺れる寸前の女から髪の毛を掴まれ命綱にされ、喘ぎながら一緒に泥中に沈んだという哀れな話もある。
 楼内のみならず近隣からも弁天池に非難したため、犠牲者は700人に達したという。
 この災害を逃れた娼妓たちは「人身売買禁止令」に基づき、借金返済不要で自由の身になったというが、行く先も金もなく、再建した娼家にまた居座ったという話を聞く。



小沢 健志 編 『写真で見る関東大震災』 筑摩書房(2003/07発売)ちくま文庫

# by office_kmoto | 2018-09-18 05:53 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

嵐山 光三郎 著 『「下り坂」繁盛記』

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 この本も「週刊朝日」に連載されていたコラムを集めたものだ。こういうコラムは面白いものもあれば、どうでもいいようなものも多々ある。この本をどちらかと言えば、つまらないものだった。ただ人生においての「下り坂」の肯定文章は納得できたし、良かった。

 「時流から取り残される」とは、なんと素晴らしいことだろうか。取り残されてこそ自分があって、生きてきた甲斐があった。いまの時代は時流がいっぱいあって、中高年世代には取り残される条件がそろっている。それなのに、インターネットにはまりこんで時流にとりこまれるのは、とんでもないことである。(序章 「下り坂」の極意)

 登り坂は苦しいだけで、周囲が見えず、余裕が生まれない。どうにか坂を登りきると、つぎは下り坂になる。風が顔にあたり、樹々や草や土の香りがふんわりと飛んできて気持ちがいい。ペダルをこがないから気分爽快だ。そのとき、
 「楽しみは下り坂にあり」
 と気がついた。光や音や温度を直接肌に感じた。鼻歌が出る。なだらかな下り坂をゆっくりとカーブしながら進む快感があった。
 しばらく走ると小さな坂に出る。坂を下ったスピードを殺さず、一気に登っていく。登りつつ「つぎは下り坂だ」とはげましている自分に気がついた。下り坂を楽しむためには登るのである。
 人は、年をとると「まだまだこれからだ」とか「第二の人生」とか「若い者には負けない」という気になりがちだ。そういった発想そのものが老化現象であるのに、それに気がつかない。下り坂を否定するのではなく、下り坂をそのまま受け入れて享受していけばいいのだ。(序章 「下り坂」の極意)

 自転車で旅をすると、上り坂がつらかった。若いころなら登ることができた坂道なのに、途中でへばって自転車から降りて、押しながら登った。
 そのかわり、下り坂は気持ちがよかった。ペダルを漕がなくてもスイスイと進む。
 なだらかな山道を、口笛を吹きながら下って、「人生も下り坂がいい」と気がついた。そうとわかると、還暦後のコツはこれでいこうと決めて、下り坂を楽しんだ。下り坂ほど気分のいいものはない。下り坂の極意を感得すると繁盛した。(「下り坂」繁盛のコツ「平気で生きて居る事」)

 人生を坂道に喩えることはよくある。確かに自転車で坂道を上るときはきつい。しかし坂を登り切って下っていくときの気持ちよさ、ペダルを漕がなくてもスピードが出て気持ちがいい。
 昔、本屋で配達を手伝っていたとき、湯島から本郷へ向かった時のことを思い出す。湯島から本郷のダラダラ坂を上っていくときのきつさは、坂道を上る前にそれなりの覚悟をもって、一気に登っていく。荷台には配達の本が詰まっているからなおさらきつい。
 その時の体調如何で上手く上り切れる時もあれば、途中でバテてしまい止まってしまうこともある。
 配達を終えて店に帰る時は、荷台も軽くなっているし、上り坂が逆に下り坂になるから、一気に降りてくる。この時出来るだけブレーキを掛けないのがいい。これがあるから帰りは楽しかった。天気のいい日は最高であった。
 そんなことを思い出したので、なるほど下り坂はいいはずだ。ところがそれがそう思えないところが人生のむずかしいところだ。相変わらず厄介事を抱え、それが屈託となり、あれこれ考え、悩み、不安になる。なかなか嵐山さんが言うように、「人生も下り坂がいい」とはなれないものだ。

嵐山 光三郎 著 『「下り坂」繁盛記』 新講社(2009/09発売)


# by office_kmoto | 2018-09-14 06:00 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

9月10日 月曜日

曇りのち雨。

 年金事務所に年金請求書を提出に行く。ついに私も年金受給者となるわけだ。年金請求書は7月に届いていて、8月に必要な書類を区役所から取り寄せたり、いろんな書類をコピーして添付したり、銀行へ行って印を押してもらったり、結構手間がかかった。
 でも昔会社でこういう書類作成はやってきたので、こういう提出書類の作成は嫌いではない。
 いくつか記入漏れはあったが、何とか提出が終わり、12月から年金が支給されることになる。
 帰りに年金事務所の近くにあるコーナンへより、毎年植えているチューリップの球根と水仙の球根を買う。今月末あたりに植えようと思う。
 帰りに図書館にも寄って予約していた本を借りる。これは孫と一緒に作る工作本だ。そして2週間に1回行く整形で首の牽引をやってもらい、痛み止めなどの薬をもらう。その後スーパーで買い物をして帰る。

 佐伯一麦さんの『遠き山に日は落ちて』を読む。何となく読みたくなったのだ。この本は佐伯さんの本の中で好きな本で、何度も読みたくなる。特に心が疲れた感じがする時に読むと、安らぐ。
 斎木と奈緖が蔵王山麓の長いこと住まなくなっている家を借りて、そこで生活を始める。家や庭は荒れ放題になっているが、それを片付け、生活しやすいようにしていく。庭を掃除すると、かつてここに住んでいた老人が植えた草木が芽を出し花を咲かせる。庭には大きな丹波栗の木があり、屋根に「ゴツッ」と硬い音が響く。毬栗が屋根に落ちた音だ。ここが好きだ。ここには自然に生命合わせて生きている村人の姿があり、じつにいい小説だと思う。そこにある村人の姿はしみじみと感じ入る。主人公たちや村人たちの生活にはそれぞれの屈託が淡々と描かれる。それなりに生きてくれば、さまざまなことをかかえこむことにもなるが、それでも生きていかなければならない。「そういうもんだよなあ」と思わせる。それがいいのだ。
 またあの大作『鉄塔家族』をまた読みたくなる。


# by office_kmoto | 2018-09-12 06:26 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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