山口 瞳 著 『青雲の志について - 鳥井信治郎伝』山口 瞳/開高 健 著 『やってみなはれみとくんなはれ』

d0331556_06223293.jpg 山口さんと開高さんの共著である『やってみなはれみとくんなはれ』はサントリーの70年史に収録されたものであるらしい。いわゆる社史であるが、直木賞作家と芥川賞作家の二人を擁するサントリーだからこんな豪華な社史が出来る。山口さんがサントリーの戦前、開高さんが戦後を担当している。
 まずは山口さんの集英社文庫『青雲の志について - 鳥井信治郎伝』は、開高さんと共著である『やってみなはれみとくんなはれ』の戦前史と重複する。ただ新潮文庫版の『やってみなはれみとくんなはれ』には柳原良平さんのイラストがあって楽しい。
 今回は山口さんの『青雲の志について - 鳥井信治郎伝』を中心に書くことにする。副題に鳥井信治郎伝とあることについて山口さんは次のように書く。


 寿屋の社史を書くということは、とくに戦前のそれを書くことは、鳥井信治郎の伝記を書くというのと等しいのである。


 ところで以前鳥井信治郎のことを書いた伊集院静さんの『琥珀の夢―小説 鳥井信治郎』を読んだ。同じ鳥井信治郎のことを書いたものであっても、伊集院さんのこの本と山口さんの本との違いは、寿屋に籍を置いたことのある人間かどうかでだいぶ変わってくる。寿屋の実際いた人間が書く社史の方がサントリーの体質を直に感じ、受け継いできただけにその重みが違うように思える。


 この「変わっている」ということは、私にとってはいいことなのである。「変わっている」ことを愛しているといったほうがいいかもしれない。


 山口さんはサントリーに在籍して他の会社と比べ変わっていることに重点を置く。そしてそのことが鳥井信治郎の人間性から発していることを書く。
 ここで一つ鳥井信治郎が書いた思い出話を紹介する。これは伊集院さんの本にもあった。信治郎が子供の頃、母に連れられて天満の天神さんへ参った。当時そこには多くの乞食が物乞いをしていた。信治郎は施しをした。乞食は大きなジェスチャーでお礼をするが、それが面白くて、ついついそれを見てしまう。その時母親は信治郎を叱り、施しをした後、振り向いてはいけないと強く信治郎の手を引いて先に進むのであった。
 この時信治郎は子供であったから、乞食のお礼の仕方が面白かっただけなのだが、後年母親の行動を思うとき、「陰徳にはお礼はいらない」を教えたものではなかったのだろうかと考えるのである。


 後を振り返って見ようとする心はそのお礼を待つ心であり、物を恵んだのだからお礼をするのが当たり前だとする心で、陰徳を施そうする無私の心持とはおよそ反対の心である。


 そして信治郎は次のように考えるようになる。


 善因の中で陰徳にまさる大きな善果はないといわれる。まことにその通りで極めて小さな心理でもそれを身を以て体現してゆくところに思いもかけぬ大きな真理に到達するものである。


 ここから山口さんは次のように書く。


 私はこの「陰徳あれば陽報あり」も信治郎の人間性、および寿屋の成立と発展を見るとき欠くことのできないものだと思う。


 さらに母親の振り向くな、という教えも信治郎の心の中にどっかり根を下ろしたのではないか、とも書く。それがサントリーという会社の経営資質となったのではないかとも山口さんは書く。


 「後をふりむくな!」
 「前へ前へ進め!」
 そういう具合になっていったのではないか。
 そうでなかったら、寿屋という会社の実態が私には理解できない。寿屋は、いつでも突進するのである。あるときは猪突猛進するのである。あるときは、ドン・キホーテであった。バカバカしいような失敗もあった。何度も倒産寸前に追いこまれた。それでも前を見ていた。後を振りむかなかった。道を拓いていった。それが寿屋の一貫した経営姿勢である。



 山口さんは信治郎のことを追い続けるうちに自分の父親の体温を感じてしまう。信治郎や山口さんの父親にあるその突進力を明治にあって昭和にない「星雲の志」と名付ける。
 サントリーにある突進力は社内にある熱気を生む。それは「変わっている」と同様サントリーに在籍した者しかわからないものだろう。

d0331556_06241449.jpg さて、サントリーと言えば、あるいは開高さんや山口さんといえばやはり広告であろう。その広告について開高さんは次のように書いているのは興味深い。


 政治宣伝にくらべればコマーシャル宣伝などモノの数ではない。その執拗、深刻、苛烈、また人をのっぴきならぬところへ追いつめ追いこみ、殺しあいを煽りたて、そそのかし、しかも責任のありかたがまったく不明だという点で政治宣伝ほど恐しいものはないのである。ヨーロッパは政治宣伝の修羅場であったし、いまもそうであるが、日本には“天皇陛下のために”という唯一最大のキャッチフレーズがあるきりで、それでいっさいがはこばれたから、政治宣伝らしい政治宣伝はなかったのだといってもよい。だからその威力の底知れなさが骨身に沁みてないところがある。今後そうではすまされないのかもしれぬ。沁みたときはいつでも手遅れで、どうにもならなくなっているときであるが……


 最後に『青雲の志について - 鳥井信治郎伝』の巻末にある矢口純、柳原良平、山口瞳の鼎談解説がある。そこで矢口さんがサントリーの大阪プラントに鳥井信治郎の銅像の除幕式で松下幸之助も出席し、信治郎との思い出話が語られた。そこでは幸之助が奉公していた自転車屋での話が紹介されている。修理した自転車を鳥井商店に持って行ったとき、信治郎に「がんばれよ」と言って頭を撫でられた話である。これが伊集院さんの本の冒頭にあるシーンだったのだな、と知る。


山口 瞳 著 『青雲の志について - 鳥井信治郎伝』 集英社(1981/08発売)集英社文庫

山口 瞳/開高 健 著 『やってみなはれみとくんなはれ』 新潮社(2003/09発売)新潮文庫

# by office_kmoto | 2019-01-20 06:29 | 本を思う | Comments(0)

三上 延 著 『ビブリア古書堂の事件手帖―扉子と不思議な客人たち』

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 久しぶりにこのシリーズの新作を読む。で、扉子って誰?と思っていたら篠川栞と五浦大輔の子供だと知って驚く。二人はいつの間にか結婚して子供が生まれていたのであった。2018年の秋、栞子と大輔が結婚して7年経つという。そして扉子という女の子が二人の間にいる。そうすると彼女は小学生1年くらいか。なんでも栞子に似て友達と外やゲームで遊ぶより一人で本を読むのが好きという。
 話は大輔から本を忘れたままだから探してくれと頼まれるところから始まる。栞子は記憶をたどって本の在りかを見当を付けるが、扉子も一緒に付いて来て本を探そうとする。出来れば扉子には大輔の本を見て欲しくない。そこで扉子の気を逸らそうとして書庫にある本で扉子が興味を持った本の話、その本にまつわる出来事などを栞子が話をするという展開。
 ところがそれらの本はどう考えても小学生には難しい話である。いくらわかりやすく説明しても、このあたりはどうも無理があるように思えた。
 新しい『ビブリア古書堂の事件手帖』は今後こんな感じで扉子に本について話してあげるという展開で続くのであろうか?古本にまつわる話は面白いが、扉子に話してあげるというストーリーだと、ちょっとなあ、と思う。今後このシリーズにつき合うか、考えてしまう。

三上 延 著 『ビブリア古書堂の事件手帖―扉子と不思議な客人たち』 KADOKAWA(2018/09発売) メディアワークス文庫


# by office_kmoto | 2019-01-18 05:44 | 本を思う | Comments(0)

マイ・シューヴァル/トーマス・ロス 著 /木村 由利子 訳 『グレタ・ガルボに似た女』

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 マイ・シューヴァルはマルティン・ベックシリーズの著者である。夫のペール・ヴァールーと一緒に書いてきた。しかしペール・ヴァールーは亡くなってしまった。
 マイ・シューヴァルがこの本を出す経緯は訳者のあとがきにあるので書き出してみる。

 本作『グレタ・ガルボに似た女』は一九九〇年の出版である。マルティン・ベックシリーズ最終巻『テロリスト』出版と夫であり共同執筆者であったペール・ヴァールーの死が、共に一九七五年のことだから、マイ・シューヴァルにとってなんと十五年ぶりのカムバックだ。一時は「本を何冊か出したからおいって、なにも一生作家である必要はない」とまで考えたシューヴァルだったが、あるオランダ人作家と知り合い、励まされて、再び筆を取ることになった。そのオランダ人が新たな共作者トーマス・ロスというわけだ。

 訳者はこのコンビでの次の作品が発表される可能性があると書いているが、どうやらこの後はなかったようだ。いずれにせよマルティン・ベックシリーズのファンとしてはこの本は見過ごすことはできない。
 さて、話である。
 ストックホルムを訪問中のオランダ外務省の要人がグレダ・ガルボに似た女からインタビューを受けていた。
 その時もう一件インタビューに来た記者がいると連絡があり、ダブルブッキングの様相を呈してしまう。要人付の報道官が様子を見にホテルの部屋を出た途端、グレだ・ガルボに似た女は写真とビデオでその要人を強請り、300万クローナをせしめ、逃走した。
 フリーライターのペーター・ヒルは元警官で友人オットー・ブロムから法務大臣のスヴェン・オルソンがこのオランダ外務省の要人と親友であり、要人の性的逸脱写真とビデオをネタに強請った女を公安のボー・ウェスターを使い追わせているという情報を得る。
 車のディーラーであるオランダ人のアルベルト・クローネンはフランクフルトのホテルで偶然目にしたスエーデン製のポルノビデオに家出した娘の姿を認め、慌ててストックホルムまで飛んで来た。
 クローネンは娘と一緒に暮らしていたという女を突き止め話を聞きに行ったが、その時グレダ・ガルボに似た女を追っていたペーター・ヒルとかち合う。グレダ・ガルボ似に女はクローネンの娘クリスチーネであった。クリスチーネは恋人のマッツ・ベルイグレンと一緒に逃亡しているようであった。ヒルとクローネンは共同してクリスチーネの行方を追うことになるが、同様に公安のウェスターも彼女を追っていた。
 マッツ・ベルイグレンは父親が自殺することの原因となった三人の共同経営者のうち二人を殺していた。マッツは父親の復讐をしていたのであった。
 とまあ、話はこんなところなのだが、どうも話がちぐはぐである。クリスチーネがオランダ外務省の要人を強請ることと、マッツの復讐劇とクリスチーネがオランダの要人を強請るのと繋がりがうまく見いだせない。要するに話の中に事件が二つあることの意味がわからないのである。その点がしっくりこなかった。
 多分この作品は失敗作なんだろうな、と思った。だから続編は出なかったと見ていいんじゃないだろうか。マルティン・ベックシリーズの完成度が高かったので、ちょっと残念である。

マイ・シューヴァル/トーマス・ロス 著 /木村 由利子 訳 『グレタ・ガルボに似た女』 角川書店(1993/11発売) 角川文庫


# by office_kmoto | 2019-01-16 05:45 | 本を思う | Comments(0)

1月12日 土曜日

 曇り。

 今日東京で、今年初めて雪が降った。降ったと言ってもちょっと舞った程度。
 たまたま買い物から帰って来てテレビを付けたら大学ラグビー選手権の決勝戦をやっている。明治対天理で22-17と明治が優勝した。実は明治がここまで勝ち残っているとは知らなかった。
 大学ラグビーが気になるようになったのは明治に入る以前であった。
 高校を卒業して、推薦枠でもらった大学に入ったのはいいのだが、すぐ辞めてしまった。もともと大学に行きたいという強い意識があったわけじゃなく、高校時代に大学の推薦をもらったため、受験勉強をしなくて済むという安易な気持ちで入った大学だったため、入学してみて、何か違うという思いが強くなり、そのうち大学に行かなくなり、辞めた。ただその後何をしていいかなんて考えていなかったため、翌年今度は自分の意思で再度大学受験をしたが、世の中そんなに甘くない。受験に失敗する。
 とにかく大学にもう一度入ろうと早稲田にある予備校に翌春から通い始めたが、如何せん一度途切れた緊張は復活することなく、なかなか勉強に身に入らない。本ばかり読んでいた。予備校に通うものの、当時予備校の近くの本屋の上にあった喫茶店に入りびたっていた。さすがに正月明けになると焦り始め、その喫茶店で参考書を広げ勉強していたとき、テレビに映し出されたのが、ラグビーの大学選手権決勝であった。1月15日は成人式の日であった。映像には観客席に晴れ着姿の女性たちが映し出されていた。当時成人式は1月15日と決め打ちで、ラグビーの大学選手権決勝もその日と決まっていた。同じ二十歳でも、喫茶店に入って参考書を広げている自分とあまりの違いに、我ながら呆れていた。
 試合は早稲田の華麗なパスワークで勝利した。あの当時の早稲田のパスワークは本当にきれいで、そのままゴールになだれ込む。一方明治は愚直なまで正面突破の試合展開であった。もっともそれが明治のラグビー精神で、今日の試合でもボールを持った選手がひたすら前に突進するのを見て、まだこの精神は生きているんだ、と感じたが、なんか懐かしかった。
 春に大学に入ってからは、当然明治を応援することとなり、早明戦はいつもテレビで見ていたが、いつの間にか見ることもなくなった。そのうち明治は決勝戦に名を連ねることもなくなり、それが22年間そうであったことを今日知った。
 母校が優勝するのは喜ばしいが、私にとってラグビーの大学選手権決勝はそんな苦い思い出と共にある。


# by office_kmoto | 2019-01-13 06:47 | 日々を思う | Comments(0)

稲垣 えみ子 著 『震災の朝から始まった』

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 これまで稲垣さんの本は2冊読んできた。いずれも東日本大震災をきっかけに脱原発に思い至り、電気のない生活の実践が可能かどうか、実際それをやってみる。稲垣さんが他の口先だけで脱原発を叫ぶ人たちと違うのは、自らそれを実践してみせるところであろう。そうして生活をしてみると、生き方、見方、考え方も変わり、一体これまでのことは何だったのだろうと思われる。一方今の便利で効率的な生活はそうしたエネルギーの無駄遣いがそうさせてくれていることを教えてくれてもいた。
 その原点の東日本大震災に関しての取材記事がこの本だと思っていたのだが、大きな勘違いであった。この本は阪神淡路大震災で被災した人たちがその時どうしていたか、そしてその後どう人生が変わったかのインタビュー記事であった。そうだった稲垣さんはこの時朝日新聞大阪本社デスクにおられたんだ。
 考えてみると私たちは東日本大震災があったことで阪神淡路大震災のことを忘れていなかったか。確かに規模として東日本大震災の方が阪神淡路大震災より大きかった。けれど多くの人々が亡くなり、被災した事実は同じであり、もっと言えば個人レベルでは規模の大小には関係なく、被災したことで苦労されただろうことはみな同じではないかと思う。ついつい忘れてしまっているけれど、阪神淡路大震災が起こったときは、こんなことになるなんてと、間違いなく驚いたものだ。
 この本を読んで、自然災害に遭遇してしまった人々の苦労やその後の人生観の変化をこうした本を読むことで、少しでも共有し、知るべきだと思った。

稲垣 えみ子 著 『震災の朝から始まった』 朝日新聞出版(1999/06発売)


# by office_kmoto | 2019-01-12 05:33 | 本を思う | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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