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乾 浩 著 『斗満(トマム)の河―関寛斎伝』

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 前に高田郁さんの『あい―永遠に在り』を読んだ。この本は関寛斎とあいが北海道へ開拓へ向かう前で話が終わっている。それでどうしても関寛斎が北海道へ入植していった後を知りたかった。それで図書館で関寛斎に関する本を検索していたら、この本がヒットし、読んでみることにした。
 私はどうして寛斎が北海道へ向かわなければならなかったのか。その寛斎の考えを知りたかったのと、なぜ寛斎は自殺したのか、それを知りたかった。
 寛斎は将来を約束された人であった。それをすべて投げ捨てて、もとの徳島で市井の医者に戻って行く人であった。

 これは、四男の又一が希望した道である。そして、寛斎自身も農業への期待と憧憬が芽生えていた。それは、市井の医師として多くの患者に接してみて、食事が満足に得られずに栄養失調によって倒れる人たちをまのあたりしたからである。患者の多くは、食事さえきちんととっていれば病も悪化しないですむ人たちであった。それには、農業によって十分な食料を生産、確保しなければならないと考え始めたからである。

 医食同源を信奉する寛斎は、人間の健康維持には食べ物は欠かせないもので、その食べ物を生産する農業こそ、医の根源だと考えた。
 (北海道はほとんど原生林に被われた未開の大地だ。酷寒の地なので、伐り開いていくことはかなりの困難が予想されるが、北海道を開拓すれば何十万、何百万を救えるかも知れない。また内地の手狭な農地にしがみついている居候の次男、三男たち、さらに、小作たちが彼の地に行けば、広大な農地が伐り開いただけで自分のものになる)

 寛斎の脳裏にそのような考えが芽生え、それが年を追うごとにだんだん膨らんできた。又一も、父親の寛斎からそのような話を聞き、札幌農学校に進むことを決意したのであろう。

 寛斎が自身の考えを実行に移すきっかけはやはり四男又一が札幌農学校で学んだことが大きいかったようだ。しかしいくら農業が医の根源だという信念の持ったとしても、それがすぐ北海道の開拓の先駆けとなるのはすごいとしかいいようがない。しかもあの陸別である。この冬マイナス三十度以上を記録した極寒の地である。この当時の北海道開拓には想像を絶する苦難が襲ったに違いない。しかしただこの本にはそうした苦難は割とさらっと流されている感じだ。

 鹿皮の頭巾を被って出ても、頭が叩かれるような痛みが走る。頬が強張り、睫も凍りつく。

 そんな中、原生林に木を切り倒し、その根を掘り起こす。大地は凍りついているだろうし、原生林も大木だ。切り倒すと言ったって、今みたいチェンソーがあるわけではない。斧で人力で木を倒すのだ。そしてその下には大きな木の根っこがある。深く根がそれこそ、突き刺さるような感じではっているはずだ。しかも大地は凍り付いている。それを取りのぞくには想像を絶するものだったろう。しかも寛斎は北海道に渡ったときは、七十三歳である。朝起きて冷たい川で水浴し、仕事が終わればまたからだを川の冷たい水で洗う。どうしてこんなことが可能なんだろうか?元気と言うより、超人である。
 そんな寛斎だが、一緒に北海道に渡ってきた妻のあいを亡くしたときは悲しみにくれた。それこそ開拓の気力さえ失った。このときあいのことを思うのは、

 「婆は儂より偉かった!ずっと偉かった」
 天井を仰いで溜息をつくとともに、口癖になっている言葉が自然と飛び出た。
 「だからこそ儂にとっては、アイは欠かせない存在になってきたのだ!アイは女学校や専門学校、大学を出ているわけではなかったが、儂より偉かった。ずっと偉かった!そして、だれよりも女としての品性を備えた人間であった!」
 自分にはすぎた妻であったと寛斎は思った。

 そこに息子と孫による土地を巡る争いが寛斎を苛む。
 寛斎は仲間と一緒に大地を伐り開いた土地をその仲間に分け与えることをずっと考えていた。自作農の創出を考えていたのだ。農民が自分の土地を持つことが生きがいにもなり、生産力も上がるはずだと考えていた。ところが四男又一は農業学校で学んだアメリカ式の大規模農業を考えていた。だから土地を分け与えることなどとんでもないという考えであった。この点で寛斎と又一は衝突した。そして北海道の土地と建物すべて又一の名義になっていた。寛斎はそんなことを気にする人間ではないが兄の餘作は納得できない。今度は又一と餘作の争いとなり、それが兄弟間に広がり、さらに長兄の息子大二から斗満における財産分与請求の訴えが起こされた。骨肉の争いが大きくなっていった。
 詳しくは書かれないが、どうやらこの身内の醜い争いを仲裁できないかったことが自殺の原因になったようである。この争いが最愛の妻を失った八十三歳になった寛斎には応えたのだろうか?

 用意していた農薬の小瓶を取り出し、ためらうことなく一気に飲み干した。
 焼けつくような痛みが咽喉から臓腑に伝わり、臓腑が燃えるように熱くなって体中に広がってきた。やがて、全身に痺れを感じ、次第に薄れてゆく意識の中で、母の胸に抱かれたような安らぎの心は芽生えてきた。
 (アイ、儂もおまえのそばに行く。儂は生き方が下手であったが、悔いてはいない。世に受け入れられなかったし、息子たちにも理解して貰えなかったが、理想に向かって懸命に努力した。その情熱だけは誰にも負けぬ。天女のようなおまえに抱かれてゆっくりと眠ろう)

 寛斎は確かに大きな理想をもって生きた人だった。そして信念のひとであった。けれどやはり生き方が下手であった。

乾 浩 著 『斗満(トマム)の河―関寛斎伝』 新人物往来社(2008/08発売)


by office_kmoto | 2019-04-17 05:07 | 本を思う | Comments(0)

阿刀田 高 著 『私が作家になった理由(わけ)』

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 この本は日経新聞の「私の履歴書」に掲載されたものを中心に阿刀田さんがどうして小説家になったのかを書いたものである。
 読んでいると阿刀田さんは小説家になりたくて小説家になったわけではないようだ。むしろ自分には小説家としての才能はないとさえ思っていた。

 私は若いころから小説をよく読んでいたけれど、三十代なかばまで小説を書いたこともなければ、書こうとも思わなかった。理由は簡単。
 ――とても書けない――
 その能力は自分にはない、と考えていたからだ。

 大学を卒業して、結核の病歴があるため、なかなか思うような就職が出来ず、国会図書館の司書となった。ただ給料が安いため、アルバイトして雑文を書いていた。
 それが小説が書けるかもしれない、と思えるようになったのは、ロアルド・ダールを読んだことによる影響が大きいらしい。ロアルド・ダールは開高健さんもよく読んでいたらしく、実際ダールの作品を翻訳している。

 日本の小説に私小説風が多いのに対し欧米の短編には意表をつく作りものがある。
 ――あんな作風を日本の風土の中で、日本人を登場させて書いたら、私の独自性が創れるかもしれない――

 そこでいくつか作品を発表する中で出来たのが『ナポレオン狂』である。これが直木賞受賞作品となった。この作品のモデルとなったのは国会図書館勤務時代に訪ねた、粉川忠という個人コレクションであるゲーテ図書館の館長である。
 そして直木賞受賞後司書を辞め、作家となった。

 そして「知っていますか?」シリーズが生まれた背景が興味深い。

 「小説とはべつに、なにか読み物を連載してみませんか」
 婦人雑誌の編集部から声をかけられ、
 「やさしいギリシャ神話なら書けそうだけど」
 と応じた。


 阿刀田さんの『ギリシャ神話を知っていますか』を書けそうと思ったのは、幼いころ父親が押入に隠していた蔵書『世界裸体美術全集』をたぶん隠れて見ていたからだという。その画集の中の作品はギリシャ・ローマ神話を題材に取っているものが多かったので、親しみがあったのだ。
 ここからいくつかの「知っていますか」シリーズが生まれることとなる。これを契機にして海外取材が多くなったという。そこでおかしいエピソードが紹介される。

 まず死海。イスラエルとヨルダンの国境に位置する湖だ。塩分が濃いから入るとプカプカと浮く。が、バランスを崩すととたんにひっくり返る。眼、口の中、鼻の孔、傷あと……水が触れるとピリッと痛む。尾籠なことながら、水中でおならをしたら、一瞬、鋭い痛みが背筋を走った。

 そして私が阿刀田さんの作品で一番好きな『海の挽歌』の話がある。

 もともとは古代カルタゴの将軍で、ローマと戦い、相当な戦果をあげた。もしハンニバルが勝っていたら、「古代ローマ帝国は存在せず、世界史は大きく変わっていただろう」は、けっして突飛な想像ではあるまい。悲劇の将軍であり、孤軍奮闘、剛にして潔く、日本サムライに似ているみたい。私は憧れを抱き、
 ――小説に書いてみたいな――

 と思ったという。しかし歴史に「イフ」はあり得ない。物語は史実は変わらない。動かしようがないのだという「歴史の意志」を描く。

 一九九二年に発表した中編小説『海の挽歌』は、古代カルタゴの英雄ハンニバルを描きながら現代の日本人の男女の交わりを、恋の名残を……かつて恋しあい、今は男は妻を東京に残し、チュニジアに住む昔の恋人を訪ねてくる、という状況を綴ったものだ。
 ハンニバルがローマを破っていたら世界の歴史は変わっていた……かもしれないが、大きな歴史の意志はたいして変わりもせず、同じ世界史を示した、と、こちらが真実かもしれない。
 同様に、古い恋も、“あのとき一緒になっていたら”というイフがつきまとうけれど、登場人物が少し変わるだけ、似たような現実が流れるだけなのだろう。

 これが『海の挽歌』の内容である。モチーフは変わりようのない歴史の意志が、男の過去の終わった恋と重なるところである。いくらイフを考えても、それはあくまでもイフであって、それが現実になることはない悲しみがうまく描かれていると思っている。

 最後に阿刀田さんの読書について書かれた文章がまさにその通りだと思う。

 さらに言えば、長い年月をへだてて古い愛読書に再会すると、内容だけではなく、そのころの自分が、自分を取り囲む状況が鮮明に蘇ってくる。

 昔、愛読したものを、しばらくぶりに読んでみると新しい発見があって楽しい。昔の自分が蘇って、もう一度、若いころを生き直すようなところがあって、これは他に替えがたい喜びとなる。

 さて、

 たとえば……スマホでも読書はできる。しかし、これで今までのような読書をする人は少ないし、情報を簡単に、広く、安く入手できることは確かであるけれど(その価値はけっして小さくないけれど)古い読書は、苦労して情報を手に入れるぶんだけ優れた情報への敬意を生み、それが示してくれた人への尊敬も培われる。読書にはこの効能が思いのほか大切なのだ。

 と書く。
 私はスマホであれ、電子書籍であれ、そうして読書を楽しめるならそれでいいと思っている。情報を伝える媒体を紙ですることが普及し、それが今日まで続いているが、それが電子媒体に変わりつつあるだけだ。
 ただ私は今もそうだがずっと紙に書かれた文字を読むことが私の中で何の疑問もなく存在する。媒体が紙から電子媒体に変わりつつあっても、そこは変わらない。こればかりは時代の流れとは別に長いことそうであったため、変えようがないのだ。だから本は紙であるのが私の中で当たり前なのだ。
 でも、幼いころから電子媒体に馴染み、そこで本を読むことが当たりとなっていったら、私が本が紙であることに何の疑問がないように、本が電子媒体であることに疑問を挟む余地のない世代がこれから増えていくのかもしれない。
 我々の世代は時に電子媒体に疑問を挟むことがあるが、それは紙での情報を読むことがスマホなどの電子媒体に比べ、手間と時間がかかるため、そこに付加価値を付けているにすぎないのではないか。
 考えてみれば、我々が数多くの本が読めるのは、それ以前と比べ、印刷技術の進歩のお陰で在り、それは電子媒体が安価で簡単に情報を得られるのと同じではないか。
 最近そう思うのである。だから紙か電子媒体かなんて二者選択を迫るような不毛な議論はやめて、好きな方をとればいい。その好みが一方に傾けば、そっちが主流になり、そこに市場原理が働き、いずれ方向性が決まるに違いない。
 それに私も含め紙の本が本としての存在感、あるいは手触り感を実感出来るということはあっても、それは所詮好みの問題だし、それが電子媒体にないのは当たり前だし、そもそもそこを省いたから、電子媒体の存在感があるわけだから、それを議論の的にすべきではない。あくまでも好みの問題、使い勝手で語ればいいじゃないかと思うのだ。

阿刀田 高 著 『私が作家になった理由(わけ)』 日本経済新聞出版社(2019/01発売)


by office_kmoto | 2019-04-12 06:43 | 本を思う | Comments(0)

川本 三郎 著 『ミステリと東京』

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 この本はミステリーから東京の風景を見ることを主題としているが、一方で川本さんお気に入りのミステリー紹介にもなっている。
 普通ミステリーと言えば犯人捜しがメインになるから、そこに描かれている風景に目をあまりやらない。しかし考えてみれば犯人捜しは、町歩きになるから、それが舞台が東京となれば、必然的に東京の風景を描写することになるわけだ。
 また、

 アンダーグラウンドに生きる者こそが、都市をその隅の隅にいたるまでよく知り得る。

 犯人たちの行動を見ることは、その都市の表も裏の顔を見ることになる、と川本さんは言う。こういう川本さん流のミステリーの読み方も楽しいかもしれない。
 川本さんは言う。
 明治以来東京はつねに「普請中」だから、変化が激しく、かつてあった景観がどんどん変わって行く。もちろんこの失われた東京を歴史的背景を使ったミステリーもあるが、耐えず「普請中」だから、そのミステリーが発表された当時は新しくても、時間が経つうちに、期せずして、そこに詳しく書き込まれた風景がノスタルジーを生んでしまうこともある。
 そこで個々に挙げられているミステリーから東京の特性をいくつか書きだしてみる。

 東京はこの二つの災禍(関東大震災と東京大空襲)によって大きく変わった町である。

 都市生活の特色は、誰でも容易に匿名の個人になれることにある。その匿名性は、ムラ社会にはない、個人の自由を与えるが、同時に、個人を犯罪の闇に惹きよせる。

 はなやかな消費都市になっている現代の東京ではつい忘れがちであるが、東京はついこのあいだまで日本最大の工業都市だった。昭和四十三年のデータでは東京の工場数は全国の一三・八パーセント、従業員数一二・九パーセントで、これは大阪を抜いて日本で第一位。つまりこの頃までは東京は「工業都市」だったのである。

 ここに紹介されたミステリーはネタバレを防ぐため、知りたいところで切ってしまうので、ついついその先はどうなの?と気にかかる。そのためまだ読んだことにないミステリーはついつい読みたい気分にさせられる。いくつか近いうちに読んでみようと、書名をメモした。

川本 三郎 著 『ミステリと東京』 平凡社(2007/11発売)


by office_kmoto | 2019-04-09 06:28 | 本を思う | Comments(0)

高田 郁 著 『あい―永遠に在り』

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 関寛斎のことは司馬遼太郎さんの『街道をゆく』に記載がある。また『胡蝶の夢』に寛斎が登場人物としてある。ただこの長篇小説、記憶にあるのは松本良順だけで、これはもう一度読み直してみるかな、と思っている。
 で、『街道をゆく』で寛斎の記述がどこにあるのか、これを探すのに便利な本がある。『「司馬遼太郎・街道をゆく」エッセンス&インデックス』という分厚い本である。いわゆるレファレンスブックである。ここで「関寛斎」を探せば、シリーズの何巻にその記述がわかる。これがないと、シリーズ全43巻、片っ端から探さなければならないので、こういう時便利な本である。ちなみにこの『街道をゆく』のレファレンスブックは実はもう一冊ある。この本は確かまだこのシリーズが途中のときに、発売された本だったと記憶する。だから完全版じゃない。
 で、関寛斎の記述があるのはシリーズ15巻の「北海道の諸道」と32巻の「阿波紀行・紀ノ川流域」である。そこから関寛斎という人物について書き出したい。それで関寛斎の略歴がわかると思う。

 寛斎は、(徳冨)蘆花に自分を紹介したように、「元来、医者」であった。
 
 (略)

 オランダ医学を単に蘭方という。江戸期でも幾節かの発達の痕跡があるが、幕末に熟成した。寛斎はその熟成期の代表者のひとりである。

 (略)

 蘭方家の多くが農民の出か、窮迫した下士層の出であることを思わねばならない。蘭方を習得することによって士分階級に入ることができたし、できるどころか、小大名にひとしい位階をもつ将軍の侍医(奥御医師)になる例もすくなくなかった。
 寛斎も、九十九里にちかい土地の貧農の子としてうまれた。飢餓が、学問習得についての克己心と、身分上昇へのあこがれを持続させたということも、寛斎のある時期、あったかもしれない。
 が、成人後その形跡がみられない。
 かれは、十九歳で佐倉の蘭学塾順天堂に入り、五カ年まなんだ。この間の学資は、かれの故郷で寺子屋をひらいていた養父が出してくれた。
 業をおえて銚子で開業し、やがて土地の富商で先学者でもあった浜口梧陵のすすめをうけ、さらにその援助をもうけて長崎に留学した。
 長崎では、ポンペが開講していた。

(略)

 長崎での業を卒えてから阿波徳島藩(蜂須賀家)にまねかれ、医官の筆頭の座につく。ほどなく戊辰戦争がおこり、新政府に請われて官軍の野戦病院長になり、奥州まで出かける。
 この閲歴の延長線上に、ごく自然なかたちで、軍医総監とか大学総長、あるいは公使、外務大臣という職が待っているはずであった。かれの多くの学友は、そのような明治風の立身出世の道をたどった。
 寛斎は戊辰戦争がおわると、さっさと本藩にもどり、士族の籍まで返還し、一介の開業医としてすごした。

 (略)

 この徳島での開業期間中も、貧民には無料で治療した。なかには関大明神というおふだを神棚にはって毎日おがんでいたひともいたという。
 開業は四十四歳のときで、つねに貧者への種痘は無料でほどこした。たとえば六十三歳ときの一カ月の無料種痘が一千五百人、六十八歳のときのそれが三千人に及んだ。
 六十代半ばになってから、医をすてて北海道の開拓民になりたいとおもう気持がつよくなった。

 開拓すべき場所は、札幌農学校にまなんだ四男が選定した。寛斎が、徳島の屋敷をたたみ、結婚後五十年になる老妻をつれて北海道にわたったのは、明治三十五年、七十三歳のときであった。

 寛斎はこの又一(四男)の精密な調査と論文に従って、陸別(当時は斗満)の地で原生林を伐り、根を掘り起こし、地を平らにし、牧草や野菜の種を蒔く。しかし周りに住むウサギやネズミの小動物が喜んで、野菜が大きくなるのを待ちかねて食べられてしまう。蚊も多く、それまで動物の血を吸っていたのが、人間の血の味をしるようになった。寛斎の顔は南瓜のように腫れ上がり、まぶたが膨らんで目が開けられない日もあった。
 ただ又一の影響で開拓民となった寛斎だが、又一のアメリカ式に儲かる農業で対立する。寛斎は開拓は社会の報謝であり、自ら開拓した土地をどんどん分けてやった。

 寛斎は同志ができると土地をどんどんわけてやる方針をとった。そのことは、徳島にいる長男生三の憤懣のたねとなった。長男は寛斎から土地その他をむしりとるために異常な情熱をもっていた人で、財産相続についての訴えを法廷にまでもちだしたりした。

(略)

 寛斎の最大の打撃は、その妻をうしなったことであった。妻愛子は、札幌の病院で死んだ。遺言は、
 葬儀は、いま行わないでほしい。良人の寛が死んだときに一緒に執行してもらいたい。二人の死体は同穴にうずめ、それによって草木をやしない、牛馬の餌とされることを望む。

 (略)

 寛斎が死ぬと、その遺言どおり、死体にふだん着を着せて、数人の者がかついで、寛斎が最初に鍬をおろしたゆっくえぴら(青竜山)の丘にのぼり、その亡妻の横に塚穴を掘ってうずめた。

(略)

 ゆっくえぴらの墓まで丸太敷きの段々道がのぼっており、両側にエゾマツの老樹は堵列している。のぼりきると、遺言どおり二つの小さな土饅頭がある。それきりである。(『街道をゆく』15巻)

 『街道をゆく』の32巻は、阿波紀行となっており、徳島人となった関寛斎を語る上で寛斎の略歴を語る。重複するが書き出してみる。

 関寛斎(1830~1912)は、ひとことでいえば、幕末・明治の名医である。
 さらにいえば医術によって暖衣飽食しようとしなかった人である。
 もうひとつ言いかさねると、人生に強烈な意味を見出そうとし、その後半生、古代インドの苦行僧のように身をくるしめる人でもあった。

 (略)

 栄爵や栄職をつぎつぎとすてて、後半生、北海道の陸別にほとんど単独で入植し、斧をふるって密林をひらき、みずから、くわをとって畑をつくったひとである。陸別は北海道の内陸で、道内随一といわれるほど寒冷地であり、さらに畑を荒らす小動物の多いところで、寛斎が穀物や野菜を育てるしりから、大よろこびしてそれをたべるという大変な土地だった。
 寛斎について、ふたたびふれたい。
 前半生、寛斎は、必要にせまられて転々とした。
 かれは、農民の出だった。いまの分県でいうと千葉県東金市(上総国山辺郡)が、生地である。
 十九歳のとし、印旛沼の南の佐倉にあった蘭方医佐藤泰然の塾に入り、医術を学んだ。
 二十七歳、下総国(千葉県)銚子で開業した。そのころ、醤油醸造家で紳商として知られた浜口儀兵衛(梧陵)の知遇をうけた。儀兵衛は、寛斎を大器に育てようとした。寛斎は、恩を感じつつも、遠慮した。
 ときにコレラ流行の最中だった。儀兵衛は寛斎を江戸にまねいてその惨状をみせ、長崎で開講中のポンペに就いてあたらしい医学をまなぶべきだとすすめた。

 (略)

 寛斎にはすでに妻子があったが、儀兵衛はその生活費はみてやるといった。さらには長崎への旅費やら同地での滞在費も、儀兵衛は出すといった。
 ついに寛斎はその好意をうけ、足かけ三年、長崎にいた。
 文久三年(1862)、三十三歳のとき銚子に帰ったが、そのとき阿波蜂須賀家からまねかれ、翌年三月、徳島にきた。以降、徳島人となる。
 幕末、藩主に従って京都に滞留したとき、鳥羽・伏見の戦いがおこった。そのあと阿波蜂須賀家が新政府軍(官軍)に属したので、江戸に移った。
 ほどなく上野で彰義隊戦争がおこり、また寛斎は多忙になった。正規の医学を修めた医者は、日本にわずかしかいなかったのである。
 かれは神田の旧講武所に負傷兵を収容し、ここを仮設病院にして治療にあたった。医師はかれひとりしかおらず、他に助手がいたにすぎない。
 戊辰戦争の舞台が奥羽にうつったとき、かれは全軍の軍医部長(当時の呼称は、奥羽出張病院頭取)として従軍した。
 明治二年、戦いがおわって江戸に凱旋したが、かれは宮仕えきらい、そのまま徳島に帰った。
 新政府はかれを招こうとし、東京へよんでしかるべき官職をあたえたがひと月でやめ、この間、山梨県甲府に病院をつくるために行ったものの、それも翌年、約束の期限がきたといって徳島に帰っている。
 かれは徳島がすきだった。明治六年、徳島城外の住吉島村で医院をひらき、ついで城下の士族長屋に移った。四十五歳のときである。
 このとし、士族をすてた。かれは旧藩のころ高禄の士分だったが、新政府による藩の廃止(版籍奉還)とともに士族に禄高相応のものが貰えることになっていたのを、ともにすてて平民籍になったのである。虚なるものを好まなかった。
 この時期、東京に設けられた大学東校から教授になるよう再三言ってきたが、そのつどことわり、また陸軍省からも軍医部の重職につくようにいってきたものの、応じなかった。
 明治三十五年、七十三歳のとき、徳島の医院をたたみ、結婚五十年の老妻をつれて北海道に入植し、明治四十五年、八十三歳のとき、開墾屋敷で死んだ。

 医は仁術などというが、日本の医家の歴史のなかで、寛斎ほどの人は見ない。
 かれは幼時に母をうしなった。生涯孤児の意識がつよく、八十を越えても、生母の夢をみたらしい。そのようななみはずれた感情が、貧者への同情になってあらわれたのかもしれない。さらに少年の日の貧がわすれられなかったということもある。
 ともかくも、徳島ににおいては、かれの患者の六分の五まで貧者で、かれらから一銭の金もとらなかった。
 かれが日本第一流の医家であることは、徳島でも知る人は知っていた。このため、富める者は遠くからもきた。かれらに対しては、十分予告した上で、高い治療費をとり、それらを無料診療にまわした。無料で種痘もした。その人数は五千七百人のぼったという。土地のひとは“関大明神”とよんで、後ろ姿をおがんだりしたというが、いまはほとんど忘れられている。
 かれが住んでいたところは、いまの地名でいうと、徳島市中徳島一丁目で、この通りは戦前までは、
 「関の小路」
 とよばれていたらしい。いまはその通称もわすれられ、碑もない。おそらく徳島大学医学部にも、寛斎の碑はないにちがいない。(『街道をゆく』32巻)

 このように関寛斎に関する司馬さんの文章を書き出してみると、その人物像を医家としてそのさまじい生き様を賞賛し尽くしている。北海道、阿波の二度にわたって寛斎について書いているところからもそれを見ることが出来る。
 そして吉村昭さんの歴史小説『白い航跡』の序盤に寛斎が登場する。
 戊辰戦争で奥羽越列藩同盟と戦う新政府軍とともに高木兼寛は薩摩藩兵と平潟(茨城県北茨木市)に上陸した。この時漢方医から関寛斎のことを聞く。

 「関寛斎殿と言われる名高い蘭方医がおられてな。軍とともに上陸された」

 寛斎は上野に立てこもる彰義隊との戦いで、医家を指揮して手当にあたり、負傷者の治療にあたり、西郷隆盛から感謝され、その後奥羽出張病院頭取に任命され、平潟の赴任せよと命じられてここに来ていた。

 「関殿は、私などの手に負えぬ重傷者の手当など見事にやっておられる」

 兼寛は寛斎が負傷者の体に食い込んだ弾丸を造作なく摘出するのを見て、神業に思えたのであった。

 さて、高田郁さんの『あい―永遠に在り』である。この本は関寛斎の妻であるあいについて書いた物語である。菊池壮一さんの『書店に恋して―リブロ池袋本店とわたし』で知った。高田さんは今人気の歴史小説家で出す本すべてベストセラーとなっているらしい。だから出版社としてはどんどん書いて欲しいのだが、高田さんはこの本を腰を据えて書き、その間他の小説は書かなかったと書かれていた。
 その内容である。あいは房総九十九里浜の中ほどにある前之内村で父親君塚左衛門とコトの三女として生まれた。一方寛斎は幼名を豊太郎というが、左衛門の兄関俊輔の妻年子の妹幸子が豊太郎を残して夭折しため、養子として引き取った。俊輔と年子の二人には子供がいなかったためである。
 俊輔はこの地で私塾を開き、子弟に読み書きを教えていた。年子はその俊輔を支えていた。その年子からあいは機織りを教わっていた。
 豊太郎は関寛斎と改名し、佐倉順天堂へ進学する。ただ順天堂で学ぶには年に六両のお金がかかる。俊輔と年子はぎりぎりの生活をしていたため、その六両が払えないので玄関脇の一室に寝起きし、屋敷内の掃除や家族の世話など一手に引き受けその合間に医学の手ほどきを受けた。そのため「乞食寛斎」と呼ばれた。
 年子はあいを寛斎の嫁と考えていた。

 「あいは寛斎の嫁に。私は、端からそう決めています」

 あいは寛斎が順天堂から帰って来るまで待つこととなる。その寛斎は師の佐藤泰然に認められ、手術の助手を務めるまでなっていた。しかし寛斎はなかなか帰ってこない。しびれを切らした俊輔は早く帰ってこいと手紙を送り、寛斎は養子と俊輔に恩があるため、帰郷する。そしてすぐあいと結婚するのであった。

 新郎 関寛斎 齢二十三。
 新婦 君塚あい 同十八。

 そして郷里前之内村で開院する。しかし村は病気になると薬草を煎じたり、祈禱したり、昔ながら風習に従って病気に対処していたため患者が来なかった。そこへ佐藤泰然から銚子に医師がいないので、ここで開業してくれるよう懇願する手紙が届き、銚子に移る。
 銚子は醤油の町である。ここであいと寛斎はヤマサ醤油の店主七代目濱口儀兵衛、自らは濱口梧陵と知り合いになる。梧陵は寛斎が長崎のポンペの元に行く資金援助を申し出る。
 寛斎は長崎行きに憧れていた。けれどそれを人の世話で行くとなると考えざるを得ない。寛斎はた世話になれば重すぎる恩を感じる人であった。さらに長崎に行けば、年老いた親の扶養、家族の養育費を人の金で賄うことになり、それは寛斎には出来ないことであった。

 こういう風にしか、私は生きられないのだ。

 しかし梧陵の強い勧めもあり、寛斎は梧陵に支援を受けて長崎に向かうことになる。
 梧陵はあいに言う。

 「人たる者の本分は、眼前にあらずして、永遠に在り」

 「目先のことに囚われるのではなく、永遠を見据えることです。関寛斎、という人物は、何時か必ず、彼なりの本分を全うし、永遠の中で生き続ける、と私は信じます」

 その後の寛斎の行動は司馬さんの本から見ることができるので詳しくは書かない。ただ徳島に移ってからも梧陵は醤油や味噌を送り続けた。そんな梧陵が亡くなって、醤油の味が変わったことに気づいた寛斎は梧陵のあと会社経営がうまくいっていないことを知り、その再建を手伝うことにもなる。それもすべて梧陵から受けた恩に報いるためであった。
 そしてついに北海道入植となる。これも先に書き出した司馬さんの文章からその経緯を見ることが出来る。寛斎は最初一人で行くつもりであったが、あいが一緒に行くことを望む。

 百姓の子として生まれ、貧しさのなかで育った。医師を志し、それを存分に叶えた今、また百姓に戻る。土の匂いとともに晩年を過ごすのだ。

 関寛斎、七十三歳
 妻あい、六十三歳。
 徳島で築いた財産全てを整理しての、新たなふたりだけの旅立ちであった。

 しかし北海道での生活は苛酷以上のものであった。あいはなんとかして寛斎が開拓しようと考えている斗満に向かいたかったが、一向に体調が良くならない。倒れてしまう。
 物語はここで終わる。
 思った以上にいい物語であった。また物語以後寛斎を知りたくなった。
 寛斎は北海道で自殺をしてしまうのだが、なぜ自殺をしたのか。それを知りたくなった。

高田 郁 著 『あい―永遠に在り』 角川春樹事務所(2013/01発売)


by office_kmoto | 2019-04-07 06:25 | 本を思う | Comments(0)

菊池 壮一 著 『書店に恋して―リブロ池袋本店とわたし』

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 著者はリブロ池袋本店が閉店になる2015年7月に店長であった人である。その著者がリブロ入社(当時は西武ブックセンター)から退社までの間の経験を語っている。
 全体を読んでみて、リブロが元気だったのは、西武が元気だったから成り立っていたんだな、ということである。だから西武が傾き始めると、リブロもそれに左右されてしまう。バックボーンとしてセゾングループのオーナーである堤清二がいたから、規模的にも個性的な書店としてありえたんだろうなという気がする。だから話題性を帯びたし、もてはやされもした。そういう意味ではリブロ出身者がやたら本屋について書いた本が出ているが、正直なところ、中小書店出身者としては、恵まれていたんだな、といつも思う。今回も同じ気持ちを持った。だからリブロ池袋本店の閉店模様を「プロローグ 最終営業日」を読むと、閉店を多くの人が惜しむ様子は、町の小さな本屋さんではあり得ない。町の本屋はさみしく、ひっそりと店を閉じていく。そんなふうにして町の本屋はなくなっていったはずで、自分がいた本屋もそうしてなくなっていった。
 経営難となって店を閉じなければならないことほど悲惨なものはない。私がいた本屋も資本力に勝る大書店が近所に出来たことで競争に負けた。その勝った大書店も今はもう身売りして、経営者も代わり、以前とは全く様相が違う書店になっている。本屋はどんどんなくなっていくし変わっていく。

 リブロ歴史は面白い。この本によると、リブロのルーツは西武ブックセンターで、池袋西武の書籍売場とする。正式に西武ブックセンターを正式に名乗るのは昭和50(1975)年の池袋西武の第九期改装に伴い、11階に約300坪でオープンしてからである。
 昭和60(1985)年株式会社リブロが創立される。西武百貨店内10店舗を運営するところからスタートして、店名も西武ブックセンターからリブロに変更された。
 その後リブロの親会社は、セゾングループの中で何回か入れ替わる。創業時は西武百貨店、翌年から四年間は西友、その後また西武百貨店で四年、そしてファミリーマートと変わる。平成6(1994)年にはファミリーマートの専務が二代目社長となり、四年後再び西友が親会社となり、西友は翌年パルコにリブロ株を大幅譲渡する。
 そして平成30(2018)年リブロは「万田商事株式会社(オリオン書房)」「株式会社あゆみBooks」と日販傘下で合併し、新たに統合会社「株式会社リブロプラス」設立されて、現在に至っているようだ。
 わが町の駅前にあった本屋が撤退し、その後をほとんど居抜きで入ったのがリブロである。日販が運営しているオンライン書店Honya Clubもいつの間にか「LIBO」と左端にロゴが入っていた。要するに日販と取り引きのあった書店を日販が直接運営すると店名がリブロになるのだろう。
 ちなみにあゆみBooksは隣駅前にあるが、もともとあのコーヒーチェーンのシャノワールが経営していたはずだ。シャノワールはあゆみBooksを切り離したのだろうか?
 シャノワールはカフェ・ベローチェというブランド名でコーヒーチェーンも経営している。私が勤めていた本屋の支店が撤退した後、ベローチェが入った。今はほとんど行かないが、以前何度か店に入ったことがあって、椅子に座って店内を眺めると、ここに棚があったんだな。あそこはレジだった。奥はバックヤードだった、とかつて関係していた店の様子を思い出したりしていた。
 さらにオリオン書房さんの名前は私が勤めていた本屋の社長から何度か聞いたことがある。ちょうど入社したばかりの頃で、うちの本屋とオリオン書房さんを含む書店が数社集まって、「首都圏ブックチェーン」なるものを作って、共同で読者サービスをしていた。本を買うと「首都圏ブックチェーン」で作った栞を挟んで、その栞を30枚だったかな?、とにかくそれを集めると、メダル型の文鎮を差し上げていた。「首都圏ブックチェーン」の会員である社長さんたちが啓蒙活動なのか、それとも慰安旅行なのかわからないが、アメリカの書店を視察に行って、その報告書なるものを読まされたことがある。
 いま私の手元には、その銅製のメダル型文鎮が手元にある。

 さて、本の話である。
 著者はいろんな作家さんとも交友があり、特に池波正太郎、吉村昭・津村節子夫妻、開高健さんらの交友は興味深く読ませてもらった。その中で気になった文章は、

 茅ヶ崎の家は今、開高健記念館になっているが、なかなか運営が苦しいようだ。後継者がいなくなってしまているので色々たいへんなのだろうが、開高文学はもっと光が当たっていいよな、と最近特にそう思う。

 開高さん一家は娘さんの道子さん、妻の牧羊子さんも亡くなって、誰もいない。

 知らないことも書かれている。

 棚不足とは、棚卸しをして確認した実際の在庫金額と、帳簿上の金額との差額のこと。要は、あるはずなのになくなっている本の合計金額のことである。この金額(=棚不足高)と売上の比率(棚不足高÷売上高)を棚不足率といい、書店の場合は一パーセントを切ればマシなほうと言われている。
 一パーセントというとピンと来ないかもしれないが、年商五〇億だとすると五〇〇〇万円。書店の平均経常利益率は一パーセントいかないのだから、いかに大きな金額かおわかりいただけけるだろう。万引きと内引きというのが定説。内引きは従業員がカバンに入れて持ち帰ってしまうケースが多いという。

 棚卸しをして、差益率がいわゆる平均値より低いと、まず万引きを疑った。だから店で出る理論値と実際に出た差益率の差が1%未満なら、それは万引きであろうと考えた。それ以上だと、棚卸しの数値がおかしいとまず疑い、私が経理を担当するようになってからは、棚卸しをやり直させた。お陰で現場では随分恨まれたものだ。それでも差益率が出ないと、今度は従業員の不正を疑うことになる。仲間を疑わなければならないので、気の重い作業であった。何度もアルバイトや従業員を入れ替えているので、どうしてもこういうことが起こる。

 我々はいわゆる「万引き保険」に入っているのだが、犯人を捕まえ、被害届を出し、警察にその受理番号をもらわないと保険申請できない。この受理番号をもらうまでに相当の手間と時間がかかるので面倒になり、保険申請をあきらめる書店も多いと聞く。

 「万引き保険」なるものがあるとは初めて知った。ただ私も万引きを捕まえ、警察に引き渡したことがあり、その日は半日警察にいることになった。

 閉店後何日間かは在庫の引き継ぎ、棚卸し、事務所整理、備品撤去など忙しく過ごしたが、店舗の明け渡しが済むと、とてつもない喪失感に襲われた。私は自分の本はほとんど池袋本店で買っていたし、毎朝昼晩全体を巡回して歩くのが習慣になっていたから、どこに何があるかはほぼ頭に入っている。可愛いペットや家族が突然いなくなってしまったような感覚だった。これからどこで買えばいいのだろう。他の大型店をのぞいてみるのだが、並べ方や分類がなじまない。書名を見ても著者名を見てもまるで響いてこない。「本を買うという行為、読むという行為」がパタッとできなくなってしまった。
 池袋本店の棚作りが他より勝っていたなどと言うつもりはないが、行きつけの本屋を失うということはこれほどショックなのだということを思い知らされた。間違いなく活字中毒者だったのに、全く読みたいと思わないのだ。

 (略)

 書店ゼロ自治体が四二〇になり、全国の書店数は平成一二年(二〇〇〇年)に二万店を超えていたものが、今は一万二〇〇〇店程度。私と同じ思いをした人も少なくないだろう。

 これはよくわかる。これまで自分の会社が本屋をやってたので、社内で本を買うことが多かった。新刊情報も今みたいにネットで得ることがなかった時代だったから、店で本を見て知る。注文も社内でした。実際今自分の本棚にある本はかなりの冊数が自社内買った本だ。そんな店が一店舗、また一店舗なくなって、最後は書店業撤退となったとき、本当にこれからどこで本を買えばいいのか。本の情報をどこで得て、注文すればいいのか、困った。
 私のいた会社のメイン業は薬局であったが、調剤薬局で「かかりつけ薬局」なんてことを言っていた。本も同じで本好きには行きつけのお店があるもので、それがなくなるとどうしていいかわからなくなった。今みたいにネットで本が当たり前に買えるようになっても、行きつけの本屋さんがあればうれしいと思っている。残念ながら今の私にはそんな行きつけの本屋さんがない。

 「第5章 これからの書店人へ」には興味深いことが沢山書かれている。書店がどんどん減っていく中で、新規の書店も減少傾向にある内なる原因のいくつかをあげている。
 まず、「定期建物賃貸契約」についてである。これは今までのような貸主に正当な理由がなければ、借主は立ち退きを拒否できたのが、この契約は期限が来れば貸主は借主を追い出すことが出来るというもの。リブロ池袋本店はこれを盾に追い出された。リブロが西武と蜜月な状態ならそんなことも起こらなかっただろうが、西武が2005年にセブン&アイ・ホールディングスの傘下に入ると、それまでの関係はビジネスライクと変わったようだ。その結果リブロ池袋本店は条件面で折り合わず閉店となる。
 この法律は元々は悪質借家人の居座り防止を意図に出来たものだが、これを盾に商業施設のデベロッパーはさまざまな条件を出し、強気一辺倒となる。
 そのためこうした商業施設に入るテナントはいつ追い出されてもいいような店作りをし、その結果効率ばかりを追求することになり、その苛酷な条件を呑めるテナントばかりになり、どの商業施設も金太郎飴のように似たようなものになっていくという。なるほど、そう言われれば、どこの商業施設も似たような店が入り、同じ匂いがする。
 しかし著者は言う。このようなデベロッパーによるテナントいじめはいずれ自身の首を絞めることになると。実際商業施設の中でシャッターの閉まった店舗が出始め、中にはがら空きという施設も出て来ている。だからそうならないようしてほしいものだ、と提言する。
 さらに小売店いじめに「減損会計」、「資産除去債務」という会計処理を強いられることだ。「減損会計」とは黒字の出ていない店舗は潰れてもいいように引当金を積んでおきなさいというもので、「資産除去債務」も撤退するときの費用も引き当てておけというもので、これは利幅の少ない書店にはかなりきつい。
 さらに経営を圧迫するのが「最低賃金」である。これがどんどん上げって行く。国を挙げて「最低賃金」の額を引きあげているが、労働者にいい顔するためのパフォーマンスがかえって経営を圧迫するから、労働者を雇うどころでないし、利幅の少ない書店が人を雇えなくなっていく。
 さらにPOSレジの存在。今やPOSレジのない店など成り立たなくなっている。ところがこれがレジ会社でさまざまで統一されていない。そこへ単に現金会計だけをするだけでなく、やれクレジットカードだ、プリペイドカードだ、ポイント付与だとか、操作が複雑化している。これを使いこなすのも大変だし、アルバイトに教え込むのもマンツーマンで時間をかけてしなければならない。しかも厄介なことに、一度このシステムを入れればずっと使えるというものではなく、バージョンアップ、入れ替えを何度も強いられる。
 こう厄介なことを列挙されると、これじゃなかなか新しい店を出そうということにはなれないだろうな、と思ってしまう。

 これからの書店はますます少なくなっていくのは間違いない。差別化すること、本腰を入れられることを見つけて複合化すること、自分の店がだめになっても食いつなぐすべを探すこと。多くの人がそれに気づき、すばやく着手すべきなのである。

 本屋大賞についての意見はもっともだと思った。
 今や本屋大賞は、「誰が見ても売れる、売れている本が選ばれる傾向は最近とみに顕著である」と言う。その上で、

 とにかく今のままでは、「昨年のベストヒット賞」になり、どうでもいい賞になってしまうのではないだろうか。「読者が気づいていない名品を発掘して、教えてやろう、売ってやるぞ」の気合を持って欲しい。選考委員はもっと読むべし。売れている本しかわからない人は、投票を辞退すべし。

 と厳しいが、もっともだと思う。この賞は読者のためにあるものではなく、本屋の売上の為にあるものになっている。
 懐かしいことも書かれていた。

 また、担当ジャンルの売上スリップを持ち帰って家で集計するというのも皆がやっていた。これは自己啓発と言えば自己啓発、無償残業と言えばその通りなのだが、商品知識を身につけるには最適だったなと思う。少なくともパソコンのデータを眺めるよりは、一枚一枚確認するという行為のほうがはるかに頭に入る、と今でもそう思う。

 私も売上スリップを家に持ち帰って、せっせと数え、ノートに記録したものだ。当時はまだパソコンもなかったから、すべて手書き。まったくのアナログだ。けれどこうしてやった作業は手を動かした分忘れることはなかったし、今でも思いだせる。手間と時間はかかるけれど、商品知識を得るのはもってこいの作業であった。

 私が書店人生を始めた頃は、トーハン、日販とも本社内に店売があり定期的に商品を抜きに行った。ジャンル別、出版社別にきれいに並べており「はあ、この出版社はこんなものを出しているんだ」という発見があり、知らない本はその場で手にとって内容の確認ができ、商品知識もつく、いい学び場であったと思う。
 
 (略)

 日販といえば、飯田橋と水道橋の中間あたりにミニ店売があり、ここは王子より新刊が入荷するので、度々訪れていた。コミックの人気商品などは「本日○時入荷予定。書店様は一店五冊までお願いすます」とポスターが貼られ、整理券をもらって並んだものだ。

 私も書店員時代にほぼ毎朝、水道橋にある日販の店売へ通った。客注品や補充用の新刊など仕入れてきた。ここに書かれているように店売の棚は本当に本を知ることが出来るいい学び場であった。新しい発見がいつもあった。自分が読みたい本も何度か仕入れてきた。
 毎日通っているものだから、お客から注文があった本で店売の棚で見かけた本は、「それは問屋の店売にありましたから、明日昼には入荷します」と答えることも出来た。
 本日発売のコミックだけでなく、話題の新刊書、ベスセラーで重版が出来上がった売れ行き商品も配布してくれた。私の時は、整理券の発券はなかったが、新刊を配ると言うと順番に並んで待っていた。売れるのが間違いない新刊は配本がないか、少ないので、ここで配ってくれるのは有り難かった。
 店の先輩(私は一緒に仕事をしたことがないが)で、独立して自分の店を持った人も店売に来ていて、新刊コミックなどこちらが必要ないときは、頼まれ並び、商品を受け取って先輩にそのまま渡したものだった。この先輩、自殺して店はなくなった。
 店売のあるビルには店の担当者もいて、どうしても欲しい新刊が手に入らないときは、頼んで、デスクの下に隠してある箱からこっそりと分けてもらったりした。よくしてくれた担当者もいて、一度新小岩のちょっと路地あった行きつけの店に連れていってもらったこともあった。
 
 ここに書かれる著者が書店人生を始めた頃の話は私も経験しているから、気になって略歴を見てみると、1955年生まれとある。私は翌年の生まれだから、同じ頃書店員を始めたことになる。この時は店の大小は関係なく、やって来たことは同じなんだな、と思った。いずれにしても、ここに書かれることは私にとって懐かしいことで、ついつい自分の思い出も書いてしまった。

菊池 壮一 著 『書店に恋して―リブロ池袋本店とわたし』 晶文社(2018/10発売)


by office_kmoto | 2019-03-30 22:21 | 本を思う | Comments(0)

藤沢 周平 著 『周平独言』(新装改版)

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 時代や状況を超えて、人間が人間であるかぎり不変なものが存在する。この不変なものを、時代小説で慣用的にいう人情という言葉で呼んでもいい。
 ただし人情といっても、善人同士のエール交換みたいな、べたべたしたものを想像されるにはおよばない。人情紙のごとしと言われた不人情、人生の酷薄な一面ものこらず内にたくしこんだ、普遍的人間感情の在りようだといえば、人情というものが、今日的状況の中にもちゃんと息づいていることに気づかれると思う。
 現代は、どちらかといえば不人情が目立つ時代だろう。企業が社員を見捨てたり、ささいなことで隣人を訴えたり、親は子を捨て、子は親を捨てる。
 だがそういうことは、いまにはじまったことではないだろう。昔も行われたことが、いまも行われているのである。

 (略)

 私はいま、時代小説というものにひきよせてモノを言っているわけだが、これを歴史という立場から言えば、いまにはじまったことでないという意味は、もっとはっきりするはずである。いったいどういう世の中が来るのかと思うようないまの状況も、歴史にてらしてみれば、こういう価値観の混乱は、戦後の一時期にも現れたし、また明治の初期にも現れたことだと思いあたる。
 まして人間そのものが、どれほど変ったろうかと思う。一見すると時代の流れの中で、人間もどんどん変るかにみえる。たしかに時代は、人間の考え方、生き方に変化を強いる。たとえば企業と社員、嫁と姑、親と子といった関係も、昔のままあり得ない。
 だが人間の内部、本音ということになると、むしろ何も変っていないというのが真相だろう。

 (略)
 
 小説を書くということはこういう人間の根底にあるものに問いかけ、人間とはこういうものかと、仮に答えを出す作業であろう。時代小説で、今日的状況をすべて掬い上げることは無理だが、そういう小説本来のはたらきという点では、現代小説を書く場合と少しも変わるところがない、と私は考えている。
 ただ時代小説には、表現上の一種の約束がある。現代小説とは一線を画す独自のスタイルがある。私は、時代小説を普通思われているように型にはまった狭いものとは考えたことがなく、さきに述べたような理由から、テーマを現代にとったり、手法の上でも現代小説に近い試みをやってみたりする。しかし、そこを譲ってしまうと、時代小説が成り立たなくなるという一線があって、表現の上のその約束は、やはり大事にしたいと思う。
 はじめての方に、時代小説には閉鎖的な一面があるかも知れないと書いたのはそういうことを指すわけで、時代小説に限界があるとすれば、それは中味ではなく、形式の中にひそんでいるはずである。
 しかし、それほど窮屈に考える必要はないので、時代小説であるためにまもるべき一線といっても、それを壁のようにかたいものと考えることはない。のびちぢみもし、押せばへこむ柔軟な線である。そしてその中でどんな試みをしようと自由である。ただ、どんなに新しい衣装を着せようと、時代小説は時代小説で、だから現代小説で書いてもいいということにはならなし、またその必要もないのである。(時代小説の可能性)

 長々と引用した。これはなぜ藤沢さんが書く小説がなぜ現代小説でなく時代小説なのかを説明した文章である。これを読んでいると、小説が人間の根底にあるものを書くものであれば、時代小説であれ、現代小説であれ、それは単に“器”の問題であるというわけだ。たまたま藤沢さんは時代小説という“器”で人間を描いているということである。
 そして時代小説はその時代の有り様、風景に拘束されるけれど、それを窮屈に感じることはないと考えている。守るべき一線さえ守っていれば、そこに様々な手法で物語を構築出来ると言うのだ。
 考えてみると、現代小説があらゆる可能性を実験するのはいいのだが、結局小難しくなってしまい、何を著者が言いたいのか、なかなかつかみにくい部分がある。
 まあ、それはそれで面白いことは事実であるが、そんなに面倒なことをしなくても時代小説という“器”を利用することによって、そこに人の有り様、ここで言う「人情」を落とし込むことによって、むしろわかりやすく人に訴えかけてくる。そこが時代小説の魅力といっていいのではないか。
 もちろん歴史的背景をきちんと把握した上での舞台設定は大変だろうが、我々が知っている舞台背景がそこにあることは安心できる。むしろ現代小説では無茶苦茶な舞台設定を理解することに一苦労させられる。
 今時代小説が受け入れられるのはそういう点にあるのではないかと考えたりする。まして現代がモラルハザードの状態に陥っているところに、時代小説の中で「人情」が、かつてそこにあったんだということを思い出させてくれるから、それは受け入れやすい。

 私には、流行というものが持つそういう一種の熱狂がこわいものに思える。人を押し流すその力の正体が不明だからである。それがダッコちゃんにも結びつくが、戦争にも結びつく性質を持っているからだろう。
 筋道をつければこういうことで、以上は流行というものについての私の基本的な考え方ということになるが、それでは私はいつもその筋道に照らして、流行を白い眼でみているのかというと、そうでもない。なんというか、ほかにもっと理屈抜きの流行嫌いの気持がある。(流行嫌い)

 これは藤沢さんが流行り物が嫌いな訳を書いたものである。このエッセイには幾度も流行り物が嫌いだと書いているが、まあ、理屈はそうであろうとも、要するに偏屈だと自身も認めている。

 彼らはじつにいい顔をしているのだ。高名なお師匠さんとか、政治家などにありがちな構えがひとつもなく、彼らはありのままの顔をさらしている。彼らは語るべきほどのものを持たない。自慢できるのは、せいぜい可愛いい孫ぐらいのものかも知れない。それなのに、ありのままのその顔がすばらしいのは、彼らの顔の背後に、ずしりと重い人生が重なって見えるからだろう。
 人生を肯定的に受け入れ、それと向き合って時に妥協し、時に真向から対決しながら、その厳しさをしのいで来たから、こういういい顔が出来上がったのである。えらいということはこういうことで、そういう人間こそ、人に尊敬される立場にあるのでないか、私は思ったりする。実際人が生きる上で肝要なのは、そういうことなのである。
 こういう質朴で力強い生き方にくらべると、世にえらいと言われる人のえらさには、夾雑物が多すぎるように見える。(えらい人)

 この文章は藤沢さんが小学校での講演を依頼されたときに思ったことだ。そのとき小学生が藤沢さんの話を聞くのは、藤沢さんが“えらい人”と思われているからではないだろうか、と考える。でも本当に“えらい人”とはどういう人をいうのか、それを書いた文章である。

 私は所有する物は少なければ少ないほどいいと考えているのである。物をふやさず、むしろ少しずつ減らし、生きている痕跡をだんだんに消しながら、やがてふっと消えるように生涯を終ることが出来たらしあわせだろうと時どき夢想する。
 だが実際にはそうならず、私がこの世におさらばした後のもやはり若干の物を残るだろう。そのことを私は、ある意味では醜態だと思い、気味悪いことだと思うのである。(書斎のことなど)

 これ、実に私もそう考えている。身内で亡くなった人の持ち物を整理をしていると、本当に人はいろいろな物を残すものだ。当の本人は急に亡くなってしまったから、まさか自分の身のまわりを人に任せるなんて考えてもいなかったろう。もしかしたらそのうちと思っていたかもしれない。そんな身内を見てきているから、元気な内に自分の身のまわりを整理しておくべきと考えてしまう。

 サルスベリは、庭にステッキを突き刺したような恰好でひと冬を越し、生きているのか死んでるのかちっともわからないなどと言っているうちに、五月になると突如として芽を吹き、その芽は枝になり、葉をつけた。((初夏の庭)

 ここのところ日々暖かくなってきているので、木々が芽吹き始めていて、昨日より今日、そして多分明日はもっと、芽吹いた芽が大きくなっていくのを見ることが出来る季節である。ところがサルスベリは相変わらず裸木のままだ。とにかく目覚めるのが遅い。そんなことを知らなかった昔は、枯れちゃったのかな、と私も思ったことがある。

 今回藤沢周平さんのエッセイを2冊続けて読んでみたのだが、実はもう1冊藤沢さんの自伝を図書館で借りてきていた。だが途中で投げだしてしまった。というのも今回読んだ2冊から書き出したところを見てもわかるように、藤沢さんはものすごく丁寧な人である。書いている文章に、その内容に妥協がない。それは小説家として文章を書く人だから当たり前のことかもしれないが、それが馬鹿丁寧と言っていいほど、細かい。特に自伝を読んでいて、関わった恩師や友人のフルネームを書かれても、そこまで詳細に書く必要があるのかな、と思った。そのうちそれが鬱陶しくなって投げだしてしまった。
 また書かれた文章の表現方法でも丁寧だ。例えば「人々」と続ける場合、藤沢さんは「人人」と書く。これ、慣れないとこれ結構戸惑う。


藤沢 周平 著 『周平独言』(新装改版)中央公論新社(2006/10発売)


by office_kmoto | 2019-03-24 07:43 | 本を思う | Comments(0)

藤沢 周平 著 『帰省―未刊行エッセイ集』

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 私は政治というものに、時にかなり懐疑的な感想を抱くことがある。国を治め、天下を平穏に保つのが、政治の目的だろうと思うが、古来政治によって世の中が平和で、万民が幸福だったなどという時代がどれほどあったろうかと考えるのだ。
 飢餓があり、戦争があった。人類の歴史というのは、政治的には失敗の連続ではなかったが。政治というのは、声が高いわりには非力で、人間を本当に幸福にしたことなどなかったのではないか、といった感想である。(雪のある風景)

 と書くが、とはいえより良い政府、より良い政治を期待する気持は人一倍あると言う。

 そういう期待の支えになるのは、歴史の進歩ということである。複雑怪奇な軌道を残しながらも、人間集団は少しずつ進歩してきた。(雪のある風景)

 いわゆる明治の人の気骨というものを、私は封建期の比較的よき遺産に数えられるべき堅固な道徳観と、明治時代という新しい文明を切りひらいた世代の自信の産物ではないかと思っているのだが、そういう一本の太い筋が通っている明治の人の談論風発の前には、懐疑的でやわらかいところを持つ大正人や、わりあい単純でしかも一度手痛いモラルの喪失を味わった昭和世代の弁論はどうも分がないように思われるのである。(明治の人)

 多分こうした明治の人の気骨が魅力となっていて、司馬遼太郎さんはいくつもの人物伝を書いたのだろう。

 寒い間は、梅林のつぼみが少しずつふくらんで行くのを眺めて通るのがたのしみだった。梅には一時的な寒さあたたかさを意に介さず、季節にむかって咲くという強さがあるように思われる。少少の寒さにはへこたれずにつぼみふくらませて行く姿には、どこかひとをはげますところがあった。そして一輪、また一輪と花をふやして行くあたりに梅のいちばんいいところがあらわれ、花が咲きそろってしまうとつまらない気がするのはどうしてだろうか。梅とはそのあたりの感じがいささか異なるようである。さくらは満開がいい。(梅林と鉄塔)

 今我が家にも梅が咲いている。満開だ。その可憐な花が魅力的だと思って手に入れた.
でも最近、咲き誇っている花を見て、「それほどでもないな」と思っていたので、藤沢さんも同じように思っていたのを読んで、やっぱりそんなものなのかな、と思った。

 私は若いとき、結核で骨を五本も切った人間である。病気が癒ったときも、このハンディのために、どのくらい生きられるものか、生きられるだけ儲けものという意識があった。(四十の坂

 藤沢さんも吉村昭さん同様結核の治療で肋骨を切った人だったんだと知った。ただ吉村さんはその手術が局部麻酔のため、想像を絶する痛みに耐えたと何度もエッセイに書いていたが、藤沢さんにはその自伝を読んでもさらりと流している。もしかしたら手術の方法が違うのかもしれない。

 手術は三回、右肺の上葉切除につづいて、手術した側の肋骨を五本切り取る捕捉成形手術が2回である。うまくいけば最初の一回で余裕があったが、三度目の手術を告げられたときは私は疲労の極みに達していて、どうなることかと思った。
 しかし私はどうにか生きのびた。(「死と再生」 『半生の記』文藝春秋 1994/09発売に収録)

藤沢 周平 著 『帰省―未刊行エッセイ集』 文藝春秋(2008/07発売)


by office_kmoto | 2019-03-21 05:21 | 本を思う | Comments(0)

リチャード・ブラント著 / 井口 耕二 訳 『ワンクリック―ジェフ・ベゾス率いるAmazonの隆盛』

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 インターネット通販でAmazonを使ったことがない人は今やほとんどいないんじゃないかと思われる。この本はそのAmazonの創業者ジェフ・ベゾスの生い立ち、Amazonを立ち上げるまでの経緯、そしてAmazonを立ち上げてからのその後を書いている。ただし、この本が書かれたのは2012年なので、Kindleが発売された頃までの記述で終わり、その後の著しい変化は、もしかしたらここに書かれる以上にドラマチックかもしれない。ただ私はどのようしてAmazonが生まれたかを創業者ジェフ・ベゾスと知りたいのでそのことを中心に書き出してみる。

 ジェフ・ベゾスの実父がどういう人物であったかは、ほとんどわかっていない(ベゾス自身も知らない)。ジェフ・ベゾスは1964年1月12日、ジェフリー・プレストン・ヨルゲンセンとしてニューメキシコ州アルバカーキで生まれた。母親のジャクリン(ジャッキー)・ガイス・ヨルゲンセンは当時17歳、ちょっとあごの張った魅力的なブルネットで、地元の銀行で働いていた。この結婚は長続きせず、ジェフが1歳半とまだ赤ん坊のころに離婚。以降、実父の姿はジェフ・ベゾスの人生から消える。

 その後母親はキューバ移民のミゲル・(マイク)・ベゾスと再婚する。マイク・ベゾスは1962年、15歳の時、カトリック福祉局が実施したピーターパン作戦でマイアミに入り、アメリカ入国後、デラウェア州にあるカトリック系の施設に入る。英語もすぐマスターし、高校を卒業後ニューメキシコ州のアルバカーキ大学工学部に入学し、地元の銀行でアルバイトをしている時、ジェフを妊娠中のジャッキーと出会う。ジェフが4歳の頃にジャッキーと結婚し、ジェフを養子として引き取り父親となる。
 ジェフが幼稚園の時ヒューストンに引っ越し、そこの小学校で初めてコンピュータに触れた。
 その後プリストン大学でコンピューターサイエンスを専攻する。ジェフはコンピューターに強く心を惹かれ、プログラミングの大好きなオタクであった。

 「コンピューターは昔から得意でした。必ず上手に使ってきましたし、コンピューターはすごいツールだと思います。コンピューターにはいろいろなことを教えられるし、教えればきちんと処理してくれます。20世紀に人類が生み出したすばらしいツールなのです」

 大学卒業後ジェフは最初アントレプレナー(起業家)になるつもりでいたようだが、それにはまず経験が必要と考え、金融決済システムを手がけるスタートアップ企業ファイテルで、貿易情報のネットワーク構築に従事し、以後ジェフはここを皮切りに金融系企業を渡り歩く。しかしジェフはアントレプレナーの夢があり、1994年ウォールストリートの会社を辞める。インターネットの魅力、その可能性にかけた。
 ここで面白いのはジェフは何かの岐路に立つとき、フローチャートを作成するのである。コンピューターオタクらしい。この時「後悔最小化理論」を思いつく。

 年を取って人生を振り返ったとき、どちらの道を選んだほうが後悔しないのかと考えるのだ。

 インターネットを使って商売するにあたり、何を売るかをまたディールフローチャートを作成し、本を売ることを思いつく。そのチャートでどうして本を売ることになったのか。

 1.よく知られた製品であること

 インターネットで注文するとき、その製品がどういうものか疑わしいものがある。本はそういう心配はない。

 2.市場が大きい

 ベゾスは「製品の豊富さという面で本は圧倒的なトップ」と言う。

 3.競争が激しい

 書店にはバーンズ&ノーブルとボーダーズ・グループという大手チェーンがあり、両方を合わせるとシェアは25%である。あとは無数の独立系書店でそのシェアが21%残りは書店以外のスーパーや雑貨店、会員割引で本が買えるブッククラブ、カタログ通信販売であった。そこには最も優れたシステムを持っていれば、書籍オンライン販売に参入できる余地があった。

 4.仕入が容易

 本は卸してくれるところがあった。

 5.販売書籍のデータベース作成

 ISBN番号で検索する書籍のデータベースが簡単に作れる。

 6.ディスカウントのチャンス

 オンラインショップなら自前で在庫を用意せず取次に直接発注が可能なので、価格面で優位に立てる。

 7.オンラインの可能性

 ソフトウェアを使えばカテゴリー別で書籍の分類・検索・整理ができ、パワーのあるコンピューターさえあれば何百万タイトルの本がデータベースに用意できる。

 以上から電子商取引には書籍販売がダントツで最適だという結果にたどり着く。あとはその準備に入るだけであった。会社設立の第一歩は、優秀な人材を見つけ、シアトル郊外にガレージのある家を借り、スターアップを立ち上げる。
 このガレージで起業するというのは、マイクロソフトのビル・ゲイツやアップルのスチーブ・ジョブスと同じなのが面白い。きっとアメリカでの起業はガレージで始まった会社が多くあるのだろう。
 さて、

 ともかく、会社はカダブラ(魔法の呪文、「アブラカダブラ」をもじった名前)という名で1994年7月に登記された。ベゾス夫婦がシアトルに到着したころのことだった。その7カ月後、ベゾスは社名をアマゾン(Amazon)に変更。Aから始まるのでアルファベット順で最初のほうに並ぶし、アマゾンは世界最大の川で会社の目標を体現する名前でもあったからだ。だれでもスペルがわかるのも大きなポイントだった。
 「オンラインの場合、スペルがわからなければ目的の場所に行けません。これはとても大事な点なのですが、世界ではあまり気にされていません」
 ただし、表記は必ず「アマゾン・ドット・コム」とし、新しいタイプの事業だとわかるようにした。いわゆる「ドット・コム」企業で初めて成功したのがアマゾンである――その後バブルがはじけ、ドット・コムがマイナスのイメージを持つようになってしまったが。

 書籍販売の入門コース、数点分のオンライン買い物体験、コンピューターが1台、エンジニアがふたり、妻、そしてガレージ――これだけを手に、ベゾスはオンライン書店の構築に乗り出す。

 最初はどの企業にもある苦労や苦難、あるいは中傷などがあったが、年々売り上げは上昇していく。しかしベゾスはその上がってきた利益をどんどん設備投資に使って行き赤字体質がしばらく続くことになる。

 シャンプーシェア最初につかんだ者が有利なポールポジションを獲得し、それを抜くのは難しい。だから、「早く大きくなる」が新たな最重要課題となった。

 市場からもアマゾンのこの頃の経営体質を危惧する者もあったが、その後利益追求体質に変更していくことで、ベゾスがかつて金融系企業で働いていたころのノウハウや学んだ考えが生きてくる。以後Amazonは大成長をしていくこととなる。

 ベゾスの仕事はこの現象で大もうけする方法を見つけることで、この点については彼は天才的だった。

 ところで、この本を読んで知った事は他にもあるのでそれを書き出す。

 2010年最終四半期においてアマゾンの収益は35%がマーケットプレイスによるものだった。

 新しいロゴはamazonという社名をシンプルに示す形になった。ただし下側には、aからzへ矢印が引かれている。新しいロゴには、AからZまでどのような名前の製品もアマゾンを利用して買えるという意味が込められている。

 最後にベゾスがインターネットについて語った言葉はうなずける。

 「インターネットでは、皆、自分の意見を発表することができます。しかし、ブログや電子メールの場合、人は無礼になりがちです。礼儀という遺伝子をオフにする力が電子メールにはあるようで……遠慮のないもの言いでサービス改善のフィードバックを返ってきたりします。レストランで料理がまずかったら黙って立ち去るだけです。店の奥に入ってシェフのえり首をつかみ、『料理なんてやめちまえ』と言ったりしません」

 確かにネットは礼儀の遺伝子をオフする。その匿名性が担保されていることをいいことに、言いたい放題、やりたい放題の傾向を生み出す。それはインターネットの最大の問題点であろうが、匿名性の担保は一方で最大の魅力でもあるから、このあたりはインターネットを使う人間の良識がすべての鍵となる。もっともこの良識という曖昧なものほど当てにならないのも事実ではあるが。

リチャード・ブラント著 / 井口 耕二 訳 『ワンクリック―ジェフ・ベゾス率いるAmazonの隆盛』 日経BP社(2012/10発売)


by office_kmoto | 2019-03-17 06:28 | 本を思う | Comments(0)

安藤 祐介 著 『本のエンドロール』

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 本のエンドロールって、何だろうと思っていたら、奥付のことを言っている。なるほど言われてみれば、そうだ。そこには著者、出版社、そして印刷会社、製本会社などがそこに記される。そしてこの物語はこの奥付に記される印刷会社の物語である。そこにはその本に関わった人々の個々の名前はないが、その名の無い人たちが本の企画、印刷に格闘する姿を描く。
 ご存じの通り、出版業界は右肩下がりの状況のなか、印刷業界も当然業績が落ちている。本が読まれていないという現状を、たとえば電車の中で座席に座っている人のほとんどがスマホをいじっていて、本を読んでいる人がほとんどいない、というのを見てもわかる。
 当然物語もこういった出版不況を反映していて、印刷受注の減少のため印刷機械を止めざるを得なくなるのを辛うじてなんとか防いでいるという始末が描かれる。営業がとにかく受注を拾ってくる中、ひたすら理想や夢を語る人間がいる。「印刷会社はメーカーです」と言いきる浦本はとにかく本作りにかける夢を追う。そのため印刷に限らず、本来編集者がすべき企画の段階まで入り込んでいく。一方著者や編集者からの無理難題を受け入れざるを得ず、会社の上司や仲間から非難される。そんな浦本が目標としている先輩である仲井戸にとって浦本は鬱陶しい。

 「理想を語るからです」

 「彼に限らず、理想を語るような人間は信用できません。独りよがりで、自分らしさみたいなものを貫くためには他人の犠牲もいとわない連中ですから」

 「理想を語るような人間の多くは、無責任ばかりです」
 「理想や理念を訴えてはいるが、具体性が無い」

 この本は読んでみると、表に出て来ない本作りの印刷業界の実態を描いてるように見えて、実は、人は何を仕事とするか、何のために働くのかを、登場人物に合わせて語っている。浦本のように仕事の中に夢や理想を追いかけるタイプと、仲井戸や工場の実務を担当する野末のように単に生きるためと割り切って仕事するタイプ。あるいは特色製作職人の吉崎のようなタイプ。いずれにせよ、それぞれの生き方やスタンスがお互い葛藤する。
 ただ個人的に言わせてもらえば、浦本のような理想や夢を追いかける人間には鬱陶しい。私はサラリーマン時代、こうした地に足が付かず、夢や理想を語る経営者に振り回され、苦い汁を飲まされてきたので、浦本のようなタイプは腹が立つ。仲井戸が言う通り、人のことを無視した語り草が気に入らない。
 また毎度のことなのだが、本に関わる人間が本に対する思い入れの強さにうんざりする。ここでもそれがある。

 「印刷会社は本の助産婦みたいな仕事だと思っています。物語は本という身体を得て世に生まれてきます。生まれてくる時のお手伝いをする私たちは、本の助産婦じゃないかと。だから、数え切れないほど多くの出産に立ち会える」

 「物語はソフトで、本はハード。魂と肉体のようなものです。私たちの仕事は、物語という魂に、本という肉体を授ける仕事でもあるのではないかと思い至りました」

 これはDTPオペレーターの福本が言った言葉である。
 確かに本はその内容によって、人の気持ちを動かすものがある。だけどそれは読んだ側の人間の気持ちであり、感想だ。実際本を扱う側の人間は単にそれを提供するだけのことだろう。そこに先回りするかのように、過剰な思い入れをしてしまうのは迷惑千万である。本には力があるとか、平気で物を言う関係者の白々しさが鼻持ちならない。もっと冷静になれないものかといつも思う。こういう人間のそばには近寄りたくないな、と思う。特に書店員の過剰な思い入れが嫌だ。そこに現れる多くのPOPは鬱陶しいし、気味が悪い。ちょっと静かにしろよ、と言いたくなる。
 私は本屋で店の責任者を任されたとき、いつも思ったのは本屋だって商売であり、本は商品以外の何物でもないということであった。
 だからこの物語の理想論を語る浦本みたいな人間に、いつの間にか周りの人間たちが感化され、現実的な人間たちが本を作るということに夢をかけて追いかけることに同調してしまう最後が気に入らなかった。

安藤 祐介 著 『本のエンドロール』 講談社(2018/03発売)


by office_kmoto | 2019-03-14 05:57 | 本を思う | Comments(0)

彩瀬 まる 著 『暗い夜、星を数えて―3・11被災鉄道からの脱出』

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 これは著者が気ままな一人旅をしていたとき、常磐線の電車の中で東日本大震災に被災したときの話から始まる。
 第一章はその時経験したことが書かれている。第二章は震災後被災地を訪ね、ボランティア活動に参加したことが書かれ、第三章は3月11日に避難した時に世話になった人を訪ね、再会したときの話である。なんといっても第一章と二章であろう。まずは3月11日に地震にあったときの状況だ。
 沿線沿いが燃えているという車内放送があり、電車は何度が動いては止まっている。苦笑交じりで隣の女性と顔を合わせた瞬間、車内の乗客の携帯が一斉に鋭いビーブ音を立てる。緊急地震速報である。

 揺れる。すこしずつ、円を描くように揺れはじめる。
 はじめの数秒は、なんとも思わなかった。それなのに次の瞬間、がくん、とまるで後頭部を殴られたような衝撃が全身を貫いた。地面の底から、低いうなり声にも似た重低音が湧き上がってくる。弾む床に足のうらが突き上げられ、横転するかと思うほど激しく車体が傾ぐ。まずい、と腹の底がつめたくなった。大きい。しかも、いつまでたってもおさまらない。それは、私が今まで体験したどんな地震とも違っていた。比べようもなく鋭くて、重さに限りがなかった。振動というより、上下左右からの暴力的な攪拌に近い。

 車内にいる乗客はそれぞれ携帯をいじり、情報収集に努めていて、周囲の会話からつなみという単語が耳に入る。そこは海から500メートルもない場所であった。
 このまま待っても状況は好転しないと思い、電車を降りて、駅舎のあるホームへよじ登った。一緒にいた女性はリカコと名乗った。
 町役場から『津波警報が発令されています。沿岸部にいる方はすみやかに非難してください』という放送が流れた。
 「リカコさんまずい、津波が来ている!」
 役場の職員だろうか、スピーカーで、
 「津波が来ます、高台に避難してください!」
 「津波が来ます、津波が来ます!」
 と叫びながら走って行く車とすれ違う。
 死に物狂いで坂の上にある中学校にたどり着く。リカコさんと一緒に最上階の三階へ向かう。

 この世のものとは思えない光景に、息を呑んだ。
 たった今歩いてきた道が、家が、商店街が、目に入るすべての町並みが濁った水に飲み込まれていた。水の深さは、建物の二階部分にまで達している。

 夜、校庭に出てみると、

 星が恐ろしいほどよく見えた。オリオン座が、図形の内側に含んだ等級の低い星まで見事にくっきりと光っていた。
 繊細な星空に目を奪われた後、なにげなく海の方向を見て、鳥肌がたった。
 なにもない。そこが水なのか地面なのかすら分からない、平坦な闇がどこまでも彼方まで広がっていた。同じ闇でも、例えば夜の海を見たときの感覚とはまったく違う。だって、そこには、住宅地があったのだ。電車が通り、たくさんの車が走って、商店がつらなっていた。そこに広がっていたのは、血の通った人間の町を根こそぎ引き千切った後に残る、目が潰されるような暗闇だった。数秒間、なにも聞こえなかった。なにも感じられなかった。寒くて寒くてたまらなかった。

 11日は著者は避難した学校の教室でショウコさんという人に助けられて、その家へ避難することになる。リカコさんはいったん家に帰ってここに迎えに来るからといって出ていったが戻って来ない。どうすべきか迷ったが、ショウコさんの家で避難することにする。
 翌日12日、ショウコさんの家にいると、

 午後四時前、不思議な防災放送が入った。柔らかい薄曇りの空へ、スピーカーで拡大された女性の声が響く。
 『福島第一原子力発電所で爆発事故が起こりました。住民の皆様は屋内に避難し、窓を閉めて、外出をお控えください』
 大変なことになった、と手分けして窓を閉めて回った。放射能、被曝、白血病など、恐ろしい単語が次々と頭をかすめ、青ざめながらテレビのニュースにかじりつく。

 夜には避難範囲が半径十キロ圏から二十キロ圏に拡大された。ショウコさんの家はまだ五キロほど距離があった。ガソリンの余裕もなかったので、とりあえず避難を見送ることとなった。ただ、

 五キロ。風で拡散する物質に、果たして五キロの距離がどれだけ意味を持つのだろう。

 翌日13日、ショウコさん一家はやはり避難所に避難することになり、著者も一緒に避難する。そして一夜をここで過ごす。次の日、14日、

 またアナウンスが流れた。先ほどよりも、切迫した声だ。
 『繰り返します。福島第一原子力発電所の3号機で爆発事故が発生しました。みなさま建物内に避難して下さい。また、一度建物内に入った方は、ぜったいに外に出ないでください。ここからどこか他の場所へ移動する方、もしくは外から屋内へ避難する方以外、けっして扉を開けないでください。出たら出たまま、入ったら入ったままです。この避難所にはたくさんの方が避難しております。全員の安全を確保するため、以上のことを必ず守ってください』

 パニックはなかった。代わりに、神経を剃刀で削られるような憔悴と恐怖が蔓延していた。だって、こちらに向かってくる煙に一体なにが含まれているのか、誰も分からないのだ。

 なにより、とショウコさんは力強く言葉を足した。
 「私たち、あの津波を生き残ったんだから、ぜったいに運が良いわよ。だいじょうぶ、死なないわ」

 15日、ショウコさんは移動を決意する。福島市の親戚のところへ避難することにしたのだ。それならば著者は市内で車を降ろしてもらい、自宅へ帰ることにする。しかしその日は新幹線に乗れず、駅の待合室で一夜を過ごし、翌朝始発に乗って東京へ発った。
 その後自宅に戻ってからは、被災地とは違う不安に翻弄される人々の姿を見ることになった。

 不安に駆られて買い占める、西日本へ避難する、避難してきた方のもとへ支援物資を持ち寄る。すべて、同じ場所で起こったことだった。関東に帰って目にしたのは、被災地とは全く異なるかたちで不安に翻弄される人々の姿だった。

 第二章では、偶然被災したとはいえ、現地でお世話になった人びとがそこにいる。だから見過ごすわけにはいかない。復興のためのボランティア活動へ参加する。ただまた地震が起こるのではないか、という不安に駆られる。

 人生において、「数分前には想像も出来なかった極めてむごいこと」は、本当に起こる。起こってしまうのだと、もう日本中の誰もが知っている。そのむごいことに殺されるか、逃げ切れるか、それは本当に紙一重でしかない。もしまた同じことが起こっても、逃げ切れるだろうか。大丈夫だろうか。
 息を詰めてそこまで考えて、ようやく私は、こんな不安をとうの昔に腹へ押し込んで、現地の人たちはそこに住んでいるのだと思い至った。

 住民たちが放射能の危険があるにも関わらずなぜ避難しないか、その理由を福島に住む友人のミツコさんから聞かされる。

 「私も大学時代に、ここを離れてようやく実感したものですが、都会にはない田舎の考え方というものがあります。例えばこの辺だと、産まれた家でそのまま成人し、家業を継いで、家族を作り、一生同じ場所に住み続ける人はそう珍しくありません。うちの父もそうです。それはずっと同じ風景を目に映し、ずっと同じご近所さんたちと一緒に何十年も生きてきた、ということです。そういう人たちにとって、まったく知らない土地に移動することは、転勤に慣れていない都会の人には想像しにくいほど大きなストレスになります。ある程度年齢を重ねた世代ならなおさら、『他の土地に行くより、放射能の影響を受けたとしてもここに居たい』と願う人は多いです。もちろん他にも、金銭的だったり仕事面だったり、家庭の事情など、様々な理由があると思います」

 実際ボランティア活動をした時の体験談が書かれる。

 車を降りたときから、私は防塵マスクをつけていた。うすぼんやりと、怖かったのだ。いくら線量が低くても、やろうと自分で決めたことでも、怖かった。二十七キロという数字がただ怖い。根拠のない、だからこそ解消されない不安だ。

 どれだけ心を徹しても、捨てきれないものはあった。そういうものは、それとなくどのメンバーも避ける。後回しにして、それ以外のものを先に片付けていくうちに、自然と溜まって残っていく。

 津波に浸かった家の中の物を全部片づけてくれと言われても、神棚とか仏壇とかガラスケースに入った人形とか、あるいは旅の思い出品など、簡単に片づけられないものがある。そこにある家の記憶が躊躇させる。それが以前この家に入ったボランティアも著者と同じ思いだったのだろう。それらが捨てられず、後回しにされていて、次に来た著者たちボランティアも同じ思いになって、残してしまう。手がつけられないのだ。

 少しずつ床の見えるスペースが増えてきた室内を眺めながら、家というのは記憶の蓄積なのだ、と痛いくらい思った。家族の記憶、自分がいたわられた記憶、人生を肯定する記憶。それを根こそぎ失うことは、どれだけの肌寒さだろう。

 家の人からお礼にと言ってタマネギをもらう。

 「今日はお疲れさま。ありがとうな。お礼にいくらでも持っていってくれ。心配しなくても、出荷制限がかかっていないから安全だよ」

 原発三十キロ圏内のタマネギをくれる依頼主には善意しかなかった。けれどそれを貰う人、貰わない人、半々だった。

 ボランティアセンターへ戻り、解散した後も、私は手にしたタマネギのことで頭がいっぱいだった。正直なところ、原発三十キロ圏内で作業したこと、さらに線量の高いと言われる側溝の掃除を行ったことで、心がすでにすくんでいた。食べるか、食べないか、どうしよう。おそらくこのタマネギ食べたぐらいで私の人生に変化が起こることはない。それでも少し胸が濁る。

 (略)

 出荷制限がかかっていなくても、二十七キロという距離では、ひょっとして見落とされている良くない要素があるのではないかと、根拠のない妄想がふくらんでしまう。善意で野菜をくれた男性の「安全だよ」を信じきることが出来ない。つまり私は「出来る限り福島県の農家の方を支援したい」などと言ってきたにも拘わらず、「原発から五十キロ離れた農家の野菜は食べても、二十七キロの農家の野菜は食べたくない」と根拠のない差別を行っているのだ。

 結局そのタマネギはミツコさんに引き取ってもらうのであった。けれどそれを笑うことは出来ない。私たちだって、震災からしばらく経って、安全基準を満たした福島県産の野菜を敬遠していたし、いまだに、同じ野菜なら福島県産以外の野菜を手にしてしまうところがあるのではないだろうか。
 この本はたまたま偶然気ままな一人旅をしていた著者であったが、実際に被災地で津波と原発事故を体験した。しかも著者は旅人だ。その著者が地元の人に助けられながら避難して行った。同じように被災しているにも拘わらず、しかも一介の旅人である著者を助けてくれたことに感謝する。だから放射能の危険があってもボランティア活動へ出かけて行った。いずれも経験者でなければ語れない貴重な物語である。しかもそこでは人間として素直な不安を隠さず伝えている。それが我々の隠せない気持ちと同じであるだけに、考えさせられる。そしてどこか恥ずかしい気分にもなってしまう。

 もうすぐ東日本大震災から8年を迎えることになる。

彩瀬 まる 著 『暗い夜、星を数えて―3・11被災鉄道からの脱出』 新潮社(2012/02発売)


by office_kmoto | 2019-03-09 06:26 | 本を思う | Comments(0)

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