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片岡 義男 著 『くわえ煙草とカレーライス』

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 片岡義男さんの本は先日読んだエッセイがはじめてで、今回はじめて小説を読んでみた。
 私が本屋で働いていた70年代片岡さんの文庫はよく売れた。あの文庫本たちはちょっとおしゃれで、ファッショナブルな装丁であった。表紙によく南洋の海岸風景の写真がよく使われていた。いかにも若い男女が手にしそうで、書名もそれなりに若者受けするものであった。私はこういうのは駄目で、売ってはいたけれど、読む気はなかった。だからこの歳になって片岡義男さんの本を読むとはちょっと不思議な気分である。
 巻末にある片岡さんの年譜を見ると1939年生まれとなっているから、今年79歳となるはずだ。だからかここにある短編集は、それこそ「オーソン・ウェルズが日本のウィスキーのCMに出演していた」四十年前から何十年ぶりに、「私鉄の沿線の商店街で男と女がばったり会って」、昔どこでもあった喫茶店で、“あの時”“あの頃”を語る場面が多い。
 たぶんこれまで生きてきた年数が残されている年数より圧倒的に多いためそうなるのだろう。このあたりは自分もきっと同じような会話をしてしまうだろうなとは思う。なぜなら自分も同じように歳をとっているから。
 ストーリーでの出会い方が余りにも場当たり的な感じが拭えなかった。いかに出会いというものが突発的で偶然なものであるとしても、それを前提で話が組み立てられているのは鼻白む。話される内容も特段何があるわけじゃない。ただの思い出話だ。こういうのってその雰囲気を味わえばいいのだろうか?私はどう読んでいいのか、戸惑いながら読み終えることになってしまった。
 ただまったくここにある短編の雰囲気について行けないわけではない。ひとつ懐かしいな、と思えるのは、昔どこの街にもあった喫茶店で出されるカレーライスである。あるいはピラフ、ナポリタンやミートソースなど、腹持ちする食べ物が懐かしい。それは思い出でコーティングされてしまったところがあるにしても美味しかった。それぞれ独特の味があったと思う。
 今でも珈琲館ではサンドイッチ以外にカレーなど食べられるけれど、それほど美味しいと思えないのは何故だろう。妙に味が洗練されしまっている。多分どこの珈琲館でも同じ味のカレーが出て来るのだろうと思える。店独自のオリジナリティー(悪く言えば泥臭さ)がそこにはない。店独特の味つけがあった。ライスにしても妙に硬かったり、パスタが茹でられて時間が経ったのだろう、ふにゃけた感じも今となれば懐かしい。
 そんな懐かしい軽食を出してくれた、思い出の喫茶店を書き出してみたいと思ったりして、ふとそんな喫茶店を頭のなか思い出し、数えてみたりした。
 今回は話の内容にこれといって心に残るものがなかったので、本の内容とはそれほど関係ないことを書いてしまった。

片岡 義男 著 『くわえ煙草とカレーライス』河出書房新社(2018/06発売)


by office_kmoto | 2018-11-16 06:14 | 本を思う | Comments(0)

サマンサ・ワインバーグ 著 /戸根 由紀恵 訳『 「四億年の目撃者」シーラカンスを追って』

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 1938年クリスマスまであと3日という時に、南アフリカイースト・ロンドン博物館の女性学芸員であるマージョリー・コートネイ・ラティマーはトロール船の船長ヘンドリック・グーセン船長から電話をもらう。
 マージョリーは博物館の標本に使える魚をヘンドリック・グーセン船長から貰い受けていたが、この時は標本に使える魚はなさそうと思った時、

 「ぬるぬるした魚の山をくずしていくと、見たこともないようなきれいな青い魚があらわれました。体長は一・五メートル。少し藤色がかった青い表皮には淡い白の斑点があって、全体が玉虫色にきらめいていました。硬いウロコに覆われていて、足のようなヒレが四枚、小さな尾はまるで子犬のしっぽのような奇妙な形をしていました。ともかくきれいな魚で、魚というよりは中国の大きな磁器とでもいうのかしら。でもいったい何という魚なのかわかりませんでした」
 「な?変わった魚だろう?」と老水夫が声をかけてきた。「トロール船には三十年以上乗っているが、こんなのは見たことがないね。網にかかっているのを船長が見つけたときには指にかみつこうとしたんだ。きっと、あんたが気に入るだろうと思ってね」

 この魚が捕れたのはカルムナ川河口の水深四十尋(約七十メートル)の場所だったという。とにかくマージョリーはその魚を博物館に持っていく。魚は硬いウロコを持った硬鱗類のはずだが、硬鱗類の魚はとうの昔に絶滅していて、化石でしか見られない。それが目の前に実物がある。大切な魚に違いない。
 マージョリーは師事しているジェームズ・ブリアリー・スミス博士に連絡を取るがなかなか連絡がつかない。仕方なしにマージョリーは内臓を棄ててその魚を剥製にする。
 一方スミス博士はマージョリーの手紙にあるスケッチを見て驚く。その著書『生きた化石 シーラカンス発見物語(Old Fourlegs) 』につぎのように書いている。ちなみにこの『生きた化石』は後々シーラカンス発見に魅せられた人物たちに読まれ、シーラカンス捕獲に走らせるほど影響を与えた。

 「目をこらしてそれを見た時、頭をガーンとなぐられたような感じがした。そのスケッチの魚はそれまで見たこともないような異様な魚で、それはむしろトカゲに似ていた。そのとき私の頭のなかで爆弾がさく裂した。そのスケッチと手紙を見ているうちに、まるでスクリーンに映されるようにある種の魚が視野に入ってきた。その魚ははるか古代に生存していたもので、今日はすでに絶滅し、わずかに岩石の間に断片的な化石となって残っているものである」

 スミス博士はマージョリーに魚の内臓を保存しておくように返信するが、魚は剥製にするために内臓は棄てられてしまっていた。
 スミス博士はマージョリーの手紙とスケッチを見て、いろいろな本で調べ、その魚が四億年前に生存していたシーラカンスである確信する。そのシーラカンスはスミス博士によって「ラティメリア・カルムナエ・JLBスミス」と学名が付けられた。
 以後物語はスミス博士のシーラカンスに捕獲の物語と変わっていく。スミス博士はどうしても自分の目で生のシーラカンスを見てみたい。内臓をしっかり備えたシーラカンスを分析したい。だから2匹目のシーラカンスを探し求めた。シーラカンスを捕獲の為に賞金を掛けた。しかし2匹目のシーラカンスはその間第二次世界大戦があり、アフリカでの政情不安定などあってなかなか見つからなかった。

 一九五二年、第二のシーラカンス捕獲を心に誓ってから十四年が経過した今、(スミス)夫妻は再び東海岸のシーラカンス捜しに乗り出した。どうしても二匹目が見つからないことにふたりは焦燥感をつのらせていた。

 そしてついに知り合いの冒険家エリック・アーネスト・ハントが5フィート大のシーラカンスを手に入れた。コモロ諸島のアンジュアン島の南東沖ドモニという町に近いところで漁師に釣られた。スミスは南アフリカの首相にかけ合って、政府専用機でシーラカンスを運んだ。
 当時コモロ諸島はフランス領であった。だからそこで獲られたシーラカンスはフランスのものであった。それをスミス博士は知事の言質を取って南アフリカに持ち込んだが、シーラカンスが世界的に話題なってからはフランス政府は黙ってはいられなくなっていく。そして、

 「今後、本年末まで、モザンビークとマダガスカル間のインド洋海域にあるフランス領コモロ諸島でシーラカンスを採取するのはフランス人科学者に限るものとする。フランス人以外の科学者が探検することは全面的に禁止する旨を――同地フランス当局はすでに発表している」
 シーラカンスはフランスの魚になっていた。

 以後シーラカンスはフランス人科学者によって解明されていく。締め出された恰好になったスミス博士は自らの知力の衰えを感じつつあった。(もともと虚弱体質であった)1968年、70歳のスミス博士は致死量のシアン化物を飲んで自殺している。
 シーラカンスが他の地域にも生息している可能性があった。中米における先スペイン時代の古代文明圏の神への奉納品としてシーラカンスとみられる置物が見つかっている。

 地元で――ということは、おそらく中米沖で、シーラカンスが獲れたのだ。遠く沖に出ていけば、コモロ諸島と同じ条件の海域、つまり岩が多く、火山性の洞窟があり、水深の深い海域はいくらでもある。世界中のこうした深海のどこかにもシーラカンスが暮らしていて、ただし今までは適切な捕獲方法を知らなかっただけだ――こう考えて何の無理があるだろうか。
 ハンス・フリッケは、この可能性を否定しない。「コモロだけがシーラカンスの生息地だとは考えられない。誰にもみつからないといいのだが」

 そしてインドネシアのやはり市場でシーラカンスが見つかるのである。
 さて、シーラカンスの発見は何が貴重なのであろうか。たぶん四億年前に絶滅したと思われているものが、ほとんど進化もせずに生存している事実であろう。この本ではこのことには触れていない。
 それよりもシーラカンスを研究することが「失われた鎖の輪(ミッシング・リング)」の解明に役立つと考えられたのだ。
 チャールズ・ダーウィンは人間の祖先はサルであり、その祖先は爬虫類であり、さらにその祖先は魚類にさかのぼるというのであった。ダーウィンやウォレスといった19世紀の博物学者に率いられた科学者は、陸生生物の真の元祖には、呼吸する能力と、陸を歩く足が不可欠だと確信していた。

 科学者はジグソーパズルの細片を集めるように徐々に証拠をそろえはじめ、絶滅した動物の化石を利用することで進化論の正しさを証明していった。欠落部分である「失われた鎖の輪」のなかでも特に大きく欠けていたのは、海中の魚が陸に上がって暮らしはじめたメカニズム――文字通り、進化の歴史での「最初の一歩」のメカニズム――だった。海の生物と陸の生物をつなぐ証拠が見つかれば、進化論の正しさは一気に強化され、世界は神が創造されたとする「特殊創造説(クリエーショニズム)」を打破することができるはずだった。

 シーラカンスの発見はその「最初の一歩」を見いだせるものかもしれない、という期待があったのだ。そういう意味では生きた化石であるシーラカンスは貴重であったのだ。シーラカンスを細かく分析していくと、進化の過程に見られる兆候があったが、結局、

 最初の「歩く魚」決定選手権のチャンピオンの座はまだ空席のままだ。

 最後にシーラカンス争奪戦にあたり日本が度々出て来る。しかしそこには札束で頬を叩くかのように、金にものを言わせてシーラカンスを捕獲しようとする日本の水族館や企業が嫌らしく書かれる。
 さらに、

 ある気がかりな噂が流れはじめたのが、ちょうどこのころだった。シーラカンスのことが中国にまで伝わっていて、金目当ての漢方医が、この魚の脊索に入っている体液を一滴飲めば不老不死が約束されると言いはじめていたのだ。こうしてシーラカンスは日本人を仲介にして闇市場で取り引きされ、買い取った中国の開業医は、体液一滴につき千ドルという途方もない値段で客に売りつけているというのだ。シーラカンス一匹の脊索には透明で琥珀色したこの体液が三リットルほど入っていることから、魚の価値はおそろしいほど跳ね上がった。

 という記述もあった。ふと、高校時代の世界史の先生が言った冗談を思い出してしまった。あの時は北京原人だったが。シーラカンスは北京原人よりはるかに古い。その効能は北京原人の比じゃない。
 とにかく何に使うにせよ、金に目がくらむ人間たちの乱獲を恐れてしまう。今は厳しい規制がかかっているようだ。

サマンサ・ワインバーグ 著 /戸根 由紀恵 訳『 「四億年の目撃者」シーラカンスを追って』 文藝春秋(2001/07発売) 文春文庫


by office_kmoto | 2018-11-13 05:57 | 本を思う | Comments(0)

鈴木 伸子 著 『大人の東京散歩 「昭和」を探して』

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 こういう本は面白くて好きだ。“散歩本”なのだけれど、自分が歩いたり、関係したことがある町々のちょっとした歴史、あるいは雑学的な話はついつい引き込まれる。逆にまったく行ったことのない町などは簡単にスルーしてしまうけれど。
 まずは、日本橋、京橋、銀座、有楽町である。ここは昔よく行ったし、歩いた。でも47~8年前だから、あの頃の行った店や建物は今はほとんどなくなっていることだろう。いろいろ思い出すことがあるが、個人的なことなので省く。
 この本で知ったこと。
 日本橋はあの悪名高い高速道路が橋の上に覆うように架かっているが、その工事は大変だったらしい。

 川の上に高速道路をつくると言っても、水中に橋脚を建てる工事は技術的にたいへんむずかしいものだった。加えて川の下には地下鉄が走っているため橋脚を細くする必要があり、有機物の多い都心の河川の水質によって鋼材の腐食のおそれもあった。そして、昭和三十年代においても、付近は、都内屈指の交通量だったので、巨大な資材を搬入しながらの工事を行うことは困難。資材は道路ではなく水路で運搬された。

 ちなみに日本橋にある三井住友銀行、中央三井信託銀行にある米国製モスラー社製の巨大金庫の五十トンに及ぶ扉も日本橋の重量制限に引っかかり、橋を渡ることが出来ず、水路で運ばれたという。

 今は竹橋にある国立近代美術館は、以前は京橋にあった。

 有楽町駅界隈もだいぶ変わった。イトシアなんて商業施設が出来た。ここにあるドーナツ屋が一時話題になったけれど、あれまだあるのかな?ドーナツ屋は不振と聞いていたが……。
 そんな中、交通会館は健在だ。在職中よくここで事務用品・器機の展示会に行った。 屋上にあるスカイラウンジで食事をしたこともある。あの回るやつ。昼間だったから、どうってことなかったけどね。なんかお上りさんみたいだったな。今にして思えば、つまらないものだけど、それでもこうした回転式の展望台は日本全国で作られたらしい。

 このような回転式の展望台は、東京オリンピック前後の時期、最新スポットとして日本全国のあちこちに造られ、東京ではホテルニューオオタニと交通会館が、その二大名所となっていた。展望台の回転する仕組みは、かつての軍需産業における戦艦の砲台の技術を応用したもので、この銀座スカイラウンジの仕事は三菱重工によるもの。

 この話、どこかで読んだ気がする。
 そういえば、ここにはそごうがあった。あの三角形のデパート。今はビックカメラになっているはすだ。そごうも駄目になっちゃった。ここにユースホステルの会員登録所があって、その登録のため、高校時代はじめてここに来た。映画も有楽町で見たことがある。もうマリオンになってからだったかもしれないが……。
 朝日、読売、毎日の新聞社もかたまってあった。面白い話が書かれている。

 読売のベテラン記者の人に聞いた話だが、有楽町時代にあって今はなくなったのが「たれ込み」というもの。人が常に行き来する街中では、新聞社の受付にふらりと立ち寄って情報を流していくような行為が成立したが、今のように、オフィス街の新聞社の警備員のいる受付に、わざわざたれ込みにやってくる人はいなくなった。

 そうだろうな。今は時代がそういう時代だから、警備、セキュリティが厳しいのも仕方がない。受付を通し、パスカード首に提げないと入れないところばかりだから、ちょっと寄ってなんて出来なくなったのだろう。

 新橋の話も通り過ぎることはできない。
 私が本屋ではじめてアルバイトしたのが、新橋にある本屋であった。ここに2年働いた。その本屋は新橋の烏森口を出てちょっと歩いたところにあった。朝夕烏森口を通ったから、朝には昨夜の喧噪の残骸、夕方には店の人間の呼び込み、換気口から流れる煙など、目にして来た。

 戦時中、東京の主な鉄道駅前は空襲に遭っても燃え広がらないように、強制疎開地として建物を壊し、空き地となった。終戦後、そこに多くの闇市が発生。なかでも新橋は貨物と旅客駅のある交通の要衝でもあったため、東京最大と言われるほどの規模の闇市が発展した。

 ニュー新橋ビルの中はその闇市の露天を整理したものらしい。なるほど中はそんな雰囲気を今も色濃く残している。バイト時代よくビルの中を見て歩いた。
 サラリーマン時代も、今かかりつけの歯医者はちょっと前まで新橋から10分ほど歩く、内幸町で開業していたので年に何回か新橋へ通った。診察が終わり、新橋駅に戻るとトイレに行きたくなる。そこで用を足すのだが、ここのトイレ、使用料とは違いチップ制になっている。
 時たま新橋駅前で古本祭りをやっていて、何度か覗いたけど、場所が場所だからか、おじさん御用達の戦記物が多かった。

 中野の話もスルーできない。

 こちらは(中野ブロードウェイ)は昭和三十六年にできて、すでに五十年近くを迎えている。できた当初は、ショッピングセンターの上のブロードウェイマンションには、沢田研二をはじめ芸能人が住むなど、相当にカッコイイ場所だったらしい。今でも昭和三十年代の香り漂わせているため、二十代、三十代のお金持ちディレッタントたちには、わざわざこのヴィンテージ・マンションに引っ越してくる人もいる。屋上にはプールがあったり、廊下も絨毯敷きなど、内部は今時なかなかないつくりなのだとか。

 私は高校時代、このブロードウェイの地下にあった果物屋で数カ月アルバイトをしたことがある。
 で、上のマンションの住人から、みかん一箱の配達を頼まれた。そのとき店の先輩からこのマンションには沢田研二が住んでいると聞いた。みかん箱を抱えエレベーターで上がると、確かに廊下は絨毯敷きであった。
 ブロードウェイの3階には当時明屋書店があって、バイトで得た給料で、五木寛之さんの全集を買った。全集を買ったのはこれがはじめてであった。
 柳橋はそこが柳橋と知ったのは、会社のメイン銀行が店舗改装のため、一時的にこちらに移ったため、自転車で月に何度か行くことになってからである。(基本出入金の管理、振り込みはネットで行っていたので、それで済んだが、両替は銀行へ直接行くしかなかった)
 私ははじめてところに行くとついつい歩き回りたくなる。用が済んで自転車で走っているとここが柳橋であることを知った。そしてこの近くは問屋街でもあり、つい最近この付近に旧吉原があったことも知る。
 東日本大震災の時はこの近くある両国橋を歩いて渡った。

 両国の話も面白い。両国と言えば相撲。相撲と言えばちゃんこ鍋。ちゃんこ鍋といえば鶏肉(二本足の鶏を食べていれば手を付いて土をつけることもないという験担ぎ)。その鶏肉の話。

 両国駅は、昭和四十七年に総武線快速が東京駅に乗り入れるまでは、東京から房総方面に行く列車の乗り換え駅だった。そして、貨物輸送においても、大きな拠点であった。そのため、両国は千葉産の食肉用ニワトリが大量に入ってくる中継地でもあり、界隈には鶏問屋や鶏肉を使った料理屋が昔から多かった。

 そう私が子供の頃は千葉に海水浴へ行くとなると、両国駅から電車に乗った。この時のホームはまだ健在のようで、この前東京江戸博物館からの帰りに電車からホームを見ると、自転車を乗せることができる電車がここから出ているようだった。

 上野はやはり聚楽というレトロな建物であろう。たしかここも取り壊されてと聞く。私がここの1階にあった古本屋で文庫本を1冊買った時は、もうビル全体にネットが掛けられていた。ここは子供の頃から記憶にある。
 美術館へ行くために上野は何度も行っている。この時もその帰りに西郷さんの銅像があるところまで歩いて、その下に出たのであろう。
 面白いことが書かれている。

 以前に都立上野高校出身の天才写真家・アラーキーこと荒木経惟氏に聞いた話によると、昭和三十年代、上野高校の男子生徒の間では公園内の東京国立博物館前の通りを真夜中に一人で歩くという肝だめしが伝統的に行われていたとか。この道は、夜になると人通りの少ない博物館の塀沿いで、周辺はおかまの発展場。真夜中の年頃の男の子の一人歩きはひじょうに危険であるゆえの通過儀礼的な行事だったとか。
 もうひとつ、東京都の公園課の人に聞いた話だと、公園内の東京文化会館裏の古墳遺蹟「摺鉢山」には、その気がない殿方は不用意に近寄らないほうがよい。ここも、ある日のある時刻になると、突如男性同性愛者の社交場と化すのだとか。

 確かにあの暗がり、真夜中になると怖いわなあ。

 湯島の記述で思い出したことがある。

 昼間に来ると妙に目立つが、この湯島界隈はラブホテル街として有名なところ。しかし、その多くは昭和な感じの古びた建物で、今はなんと老人施設に転用されているところもある。

 本屋で働いていた頃、湯島まで本の配達をしていたことがある。配達先を探して道に迷った。その時ラブホテル街に出てしまった。ちょうど男女がホテルに入ろうとするところ目撃した。ここがラブホテルとわかって、へえ~真っ昼間から、と思ったものだ。
 ラブホテルが老人施設に転用されていると書かれているが、ラブホテルの成れの果てが老人施設というのは、どこか生々しい。

 こうして自分の思い出と照らし合わせて書いていくと切りがない。まだまだ書きたいところだが、このあたりで止めておく。

鈴木 伸子 著 『大人の東京散歩 「昭和」を探して』 河出書房新社(2009/10発売)河出文庫


by office_kmoto | 2018-11-10 06:51 | 本を思う | Comments(0)

木内 宏 著『礼文島、北深く』

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 古い本である。33年前に買ってからずっと本棚に読まずに収まっていた。ただ棚を見る度に気にはなっていた本でもある。
 今この本を読んでも、当時とはだいぶ状況が変わっているかもしれないし、あるいは今も変わらず同じ時間が流れているかもしれないが、そのあたりはわからない。
 でも北限の島の厳しい自然の中で生きている島の人々は読んでいて、J.M.シングが描く『アラン島』を彷彿させる。あの本も北の寒さが厳しい島民の生活の悲喜こもごもが描かれていて、ふと懐かしくもなってきた。
 さて、礼文島である。日本最北端の島で、樺太を間近に望む国境に島だ。

 ……俺は、あのとき、わかっていながら領海内へ入って行った。いったい、あれはなぜだったろう。粕谷船頭は短くなった煙草を、小さな舵のわきに置いた灰皿に無造作にひねった。
 ……密漁してやれというはっきりした目的意識があったわけではない。たいいち満船だった。それ以上無理して釣る必要などなかったのだ。それなのに、俺は、ちょっとだけでいい、ほんのちょっとだけでいいから、いっかい樺太の海に縄を流してみたい、そう思ったに違いないのだ。それは、なにもあの日に限ったことではなかった。樺太の島肌がはっきり見えてくる領海ラインに近づくと、なぜかいつも、もっと近くへ寄ってみたいという甘い誘惑にかられるのだ。島が手招きしているみたいな気がするのだ。あの島で生まれたわけでもないし、身寄りがいるでもない俺が、どうしてそうなるのか、まったく不思議な話だ……。

 それは、

 そのおばさんは樺太からの引き揚げ者だった。昭和二十年九月、磯舟に毛が生えたような粗末な木造船に何十人も鈴なりになって、命からがら逃げ帰った。
 島には彼女のような樺太からの引き揚げ者が少なくなかった。なかには礼文とはもともと無縁だったが、ここが樺太に近い土地だというだけの理由で定着した人もいた。私はそれら何人かの人たちに会ったが、すでに老境に達した彼らの話に共通するのは、サハリンという異郷の地になった樺太が未だに外国であるという実感を持てず、ふつふつとした望郷の思いを抱きつづけていることだった。朝起きると、まず窓を開け、あるいは高みに登って北の空を見る、と何人もの人から聞かされた。

 どこで暮らそうと同じことといいながらも、意識の根っ子は海の向こうにつながっているのだ。これを望郷の念と片づけてしまうのは簡単だが、それだけではないように思う。日露戦争から昭和二十年までは樺太が日本で一番北の島であり国境の島だった。敗戦で礼文がまた国境の島になった。ここから先へは行けませんというどんづまりになった。もはや進むべき先のない断崖絶壁に立たされた人々の意識のなかには、なんとかして出口を見つけたい、何かを突き破りたいという切なる願望があるのではないか。それは引き揚げ者の抱く気持ばかりではなく、この島自体が放つ、緊張感をはらんだひとつの雰囲気のようなものにさえなっている気がした。

 毎朝窓を開ければ樺太が間近に望むことができる島だ。かつてそこで暮らしていた島が見える。毎日そこにある。だからこそ、この島の漁師はそこへ引き込まれるが如く、領海を越えたくなるのかもしれない。
 いずれにせよ、礼文島は今国境の島となった。島が持つこれ以上先には行けない、出口のない閉塞感は島人をしてその脱出口を模索しているのではないかと著者は推察する。
 この島は鰊が来ていた頃は多くの人がこの島に来た。けれどその鰊が来なくなってから、島での生活が厳しくなっていく。だから漁のできない冬には出稼ぎに出る人が多くなっていった。

 「三十年前までだら、この島は内地から雇人が来た土地だよ。それが今はどうだ。出稼ぎ、出稼ぎで冬は寂しいものさ」
 「そうですね。確かに人の姿が少ないですものね。玄関が板で打ちつけられている家をずいぶん見ましたよ」
 「島じゅうだら、三、四百人も行ってるんでねべか」
 「漁師の三人に一人の割合ですかね」

 北海道庁の資料「季節労働者の推移と現況」を見ると、礼文島は函館周辺の渡島半島や積丹半島、留萌地方などと並び、北海道で最も出稼ぎの労働者の多い地域のひとつであることがわかる。しかも、その九割以上が零細な沿岸漁民である点で、北海道全体のなかでも際立った特色を示している。町役場の推計だと約三百五十人、漁師二・六人に一人が出稼ぎに行っている勘定になる。

 著者は出稼ぎはしなければしない方がいいに決まっている。しかし島に留まって生活を続けていくのとどちらが楽であろうか。著者は言う。

 だが、そんなふうに思うそばから、待てよ、出稼ぎが辛く、島にとどまるほうが楽だと単純にいえるだろうか、とも考えてみた。いや、どちらが楽というものではない。この島に生の根をおろすかぎり、一時的に出稼ぎに行こうが、島にへばりついて暮らそうが、人間の払う苦しみの代価に差はないのではないか……。

 厳しい自然。苦しい生活。どんづまりの国境の島。著者が島を歩いて、そこにあるゴロタ石だけを置いただけの墓や墓を作らず、寺の納骨堂に骨を預ける人が多くなっている現状を見て、島民たちはいつかこの島から出ていくことを前提にしているように思えてくる。島に永住しようとする気持が人々に稀薄だと思えてくる。島での生活は、仮の宿ではないかと著者は思うのであった。

 にもかかわらず、仮の宿という言葉が頭を去らない。
 島の人々の多くは、心のどこか片隅に、そう思えてならないのだ。その思いはゴロタの浜の墓地を歩いたときから、私は胸の底に澱のようにこびりついている。

 人々にはある時期を境に自然石を置いただけの質素な墓を作らなくなった。寺の納骨堂にただ預けておくようになった。それは自動車が急速に普及しはじめ、スーパーに冷凍食品が並べられるようになり、プラスチック製の高速ボートがはばを利かすようになった時期と一致していた。
 島の生活がいっけん便利になり、日常生活の質が都会に近づけば近づくほど、人々の脱出願望はふくらみ、百年の間、内に潜在しつづけてきた仮の宿の意識が、はっきり自覚されるようになった、ということだろうか。

 「島を捨てることは、だれもが考えてきました。建前はみな地域振興が大切だといいます。私だってそう思います。しかし、島でかせいだ金は、極論すれば、札幌に出した子弟への仕送りに使われているんです。まったく地域に還元されていない。札幌の人口が京都を抜いて百五十万人になった、大都会だと自慢していますが、札幌の力だけでなったのではない、その陰に離島や山村の血の滲むような犠牲があるんです。鰊時代も現代もこれは変わらない。歴史的宿命みたいな気がします。そういう私も、一時期仕送りが三人重なったことがあって苦しかった。いくら働いても底のないバケツでしたよ」

 この島民の言葉は考えさせられる。島で稼いだお金が島に還元されず、島を出て都会に行く子供たちのために使われる。大都会はそうした犠牲の上に成り立っているんだな、と思わされる。
 一方島でもインフラが整備され生活はしやすくなってはいく。時代がそうさせる。島民の生活スタイルも便利になってはいく。しかし人は一度その便利さや豊かさ(形ばかりのものかもしれないが)に触れてしまうと、より良い生活を求めてしまう。さらにより良い生活を求めてその代償の支払いに追いまくられる。こうして人々は島から出ていく。

 ちょっと時化ただけで木の葉のように揺れた二百トン級の連絡船に替わり、千トン級のフェリーボードが就航したのが九年前。同じ年に電話がダイヤル式になり、それから三年後に礼文空港が完成し、稚内から一日一便、十九人乗りのツインオッター機が飛んでくるようになった。
 そのころから島の生活は目に見えて変わりはじめた。ひと口でいえば、ゆったりした時間の流れが、いたるところで破壊されていったのである。それはいわば形だけの都市化だから肉眼でよく見えた。その破壊された時間が、冬になると時々昔に還るのではないかと錯覚することがある。フェリーが欠航した島が孤立する数日間だ。そんなとき人々は、ただじっと水平線に目を凝らし、「ひっでえ時化」と誰にいうともなく呟いては、ストーブの薪をかき回す。そんな瞬間の人々には、二十年前と同じ穏やかな表情が戻ってくる、と彼はいつも不思議に思う。
 マイカーがあたりまえになり、フェリーが大型化し、ダイヤル通話になり、空港が開設され、と確かに離島の抱える不便さは一面では解消された。だがはたしてそれで人々の暮らしの質が豊かになっただろうか。

 都市化の波は確かに多くの恩恵を島にもたらしはした。しかし、ゆっくりした時間の流れが奪われたことで日常がせわしくなり、生活の質自体は脆くなった。「ひっでえ時化だ」と呟いて沖を見つめ、薪ストーブをかき回す瞬間の人々の表情が不思議な安らぎたたえるのは、古い時代の自分たちの時間をとりもどしたいという意識が、彼らの内に潜んでいるからではないだろうか……。

 電気がきたので、八軒の漁家は競ってテレビを買い、洗濯機を求め、冷蔵庫をそろえた。陸の孤島が一気に文明がもたされた。ところが皮肉なことに、電化生活が可能になったら、とたんに人々は冬の宇遠内を棄てた。これは北部の鮑古丹の浜でも同じように見られた現象で、離島における経済発展のひとつの法則とでも思いたくなるほどだが、とにかく便利さを手に入れた人は、さらにその先にあるより大きな便利さを追求し、あるいはその代償の支払いに追いまくられるかのように、冬がくる前に東海岸や船泊湾に面した村落へと移動するようになった。その結果、宇遠内は夏だけの漁業生産基地に変じたのである。

 北海道や東北の人間が、よりよい生活を求めて東京に動くという図式とそれはなんら異なるものではない。根っ子にあるのは、人間だれでもついて回る快楽を求める本能である。

木内 宏 著『礼文島、北深く』 新潮社(1985/01発売)


by office_kmoto | 2018-11-07 12:53 | 本を思う | Comments(0)

山口 瞳 著 『温泉に行こう』

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 山口さんの紀行文をまた読みたくなった。山口さんはゴシップ好きである。芸能界から当時巷で話題になった人物たちのゴシップを散りばめ、たとえに使ったりする。読んでいて俗っぽいのだが、それが笑ってしまう。
 山口さんには新潮社の編集者が歴代付いている。それぞれニックネームが付いて、フミヤ、都鳥、パラオ、スバル、臥煙と称される。このお伴の編集者がいい味を出す。
 今回もと旅行会社に勤めていたスバル君が山口さんの温泉旅行に付き添う。
 ただ山口さんにつき合うのは結構大変のようだ。旅の途中入れ歯が壊れたり、感冒性腸炎になったり、その都度スバル君が駆けまわる。

 「旅の者が難儀しております」
 
 とその町の医者に駆け込む。でもそんなドタバタ旅行でも、行きつけの店や旅館に行って、さりげなく旅や人生を語る。

 函館に行ったら銀花へ寄ろうと思い詰めていた。そこへ行ったらママさんが僕のことを覚えていてくれた。それだけのことである。他に何もない。あまり意味がない。しかし、これが人生だという感情はどこからか湧いてくるのだろう。そうして、僕は、この世に生きるということは、こういうことであるに過ぎないという思いが、なおも激しく去来するのである。

 旅は、それがどんな旅であっても、常に冒険旅行であることを免れない。

 そして、

 温泉旅行というのは、家に帰って、自分の家の風呂に入って疲れを癒やしたときに終るのだとも思っている。

 とこの本は締めくくる。いずれもさりげなく、しかしまったくその通りだと思わせるところは、山口さんのうまいところだ。

山口 瞳 著 『温泉に行こう』 新潮社(1985/12発売)新潮文庫


by office_kmoto | 2018-11-04 05:48 | 本を思う | Comments(0)

ダン・ブラウン 著 / 越前 敏弥 訳『インフェルノ』

d0331556_08495898.jpg ラングトンシリーズは前後する。この本はファンとしてはもちろん読んでいる。当時Kindleが日本で発売され、私もそれを買ったのでKindleで読んだ。ただ私は電子書籍というのはやっぱりだめで、読んでもちっとも頭に残らない。だからこの本の内容はほとんど記憶にない。それで今回単行本で読んでみることにしたのである。
 こうして本を手にして思うのは、本はやっぱりいいなあ、と思う。このように口絵に写真があることで話の中にある描写に色を添える。それにおまけとして画家サンドロ・ボッティチェルリのダンテの肖像画、下巻には「春」の絵はがきがついている。こんなものを見ると、電子書籍って味気ないもんだ。

 さて、話である。
 ロバート・ラングトンがフィレンツェの病院で目が覚める。銃で撃たれ、銃弾が頭をかすめたといわれる。しかし頭に強い衝撃を受けたため、なぜフィレンツェにいて、銃で撃たれる羽目になったのか、断片的な記憶しかなかった。
 慌てたラングトンは女医であるシエナに、どうしてフィレンツェの病院にいるのかを聞く。その直後、「大機構」から派遣された暗殺者に襲われ、ラングドンはシエナとそこから逃げる。
 ラングドンが来ていた上着のポケットには金属製の円筒が入っており、それはレーザーポンター式プロジェクターであった。映し出されたにはサンドロ・ボッティチェルリの<地獄の見取り図>であった。


 実のところ、ボッティチェルリの<地獄の見取り図>は、いまや歴史上最も有名な文学作品と言って差し支えない十四世紀の著作へのオマージュとして創作された。その作品で描かれた地獄像の生々しさはよく知られ、今日まで多くのものに影響を及ぼしている。
 ダンテの<地獄篇(インフェルノ)>だ。



 しかしこの<地獄の見取り図>はデジタル加工されており、ある文字が書き込まれていた。
 ここからがダン・ブラウンの真骨頂であろう。さまざまなラングドンに歴史的遺物を訪ねさせ、その秘密を探っていく。一方でいつも彼には何らかの危機がつきまとい、それから逃れつつ、真相に迫っていく、いつものパターンである。
 加工されたボッティチェルリの<地獄の見取り図>から読み取れるメッセージから、追っ手から逃げつつ、ヴェッキオ宮殿にたどり着く。ここにはダンテのデスマスクが展示されている。しかしその展示会場へ行ってみると、ダンテのデスマスクがなくなっていた。
 そこにある監視カメラの映像には、昨晩ラングドンとフィレンツェの文化界で名士であり、大聖堂付美術館の館長を長年勤めたイニャツィオ・ブゾーニの二人が映っていた。そのためラングドンはデスマスクを盗んだことで追われることになる。ラングドンには昨晩の記憶がない。デスマスクをラングドンといっしょに盗み出したブゾーニが何か知っているはずである。しかしブゾーニは心臓発作で死んでいた。ただ最後にラングドン宛てにメッセージを留守番メッセージを残していた。


 「ロバート、よく聞いてくれ。きみの探しているものは安全な場所に隠した。門は開かれているが、急いだほうがいい。天国の二十五だ」


 とにかくダンテのデスマスクを探し出さなければならない。ブゾーニのメッセージを頼りにデスマスクを追っ手を撒きながら探しに出る。「天国の二十五」とはダンテの神曲、天国篇の第二十五歌」で、その中にデスマスクの隠し場所が暗示されているはずで、それを頼りにサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂にたどり着く。その正面入口の向かいにあるサン・ジョヴァンニ洗礼堂の洗礼盤の水の中にダンテのデスマスクは隠されていた。上巻はここで終わる。


 ところでラングドンたちを追っていたのは「大機構」と呼ばれる組織とWHOの事務局長エリザベス・シンスキーであった。まず「大機構」という組織は“総監”と呼ばれる人物を頭にして、特殊なサービスを提供していた。
 一方WHOの事務局長エリザベス・シンスキーはある危険人物を探していた。その人物とはベルトラン・ゾブリストであった。ゾブリストは人類が人口の急激な増加のせいで滅亡する。人類が生きのびる為には人口を減らさなければならない。ゾブリストは巨万の富を持ち、ダンテのデスマスクの所有者でもあった。
 ゾブリストは生化学者であり、人口増加食い止めるために遺伝子操作によって現代医学では治療できない病気を作りだしたと思われる。しかしゾブリストは投身自殺しており、シンスキーはゾブリストが残したと思われるウイルスを探し出そうとして、ラングドンの援助を依頼していたのであった。
 一方ゾブリストは「大機構」の依頼人でもあった。大機構の総監はゾブリストが医療技術の研究を秘密裏に進めたいのだろうと想像していた。そのために徹底的に外部から切り離された状況で研究させてきた。大機構はゾブリストとの契約を果たし、いっさい穿鑿せず、この科学者を見つけだそうとするシンスキーの試みを拒み続けた。しかしシンスキーはゾブリストの居場所を特定しそこへ踏み込んだ。追いつめられたゾブリストは自殺した。大機構はゾブリストの保護に失敗したのであった。

d0331556_08510324.jpg 下巻では、まず見つけだしたダンテのデスマスクの裏に残されたゾブリストの文をラングドンたちは見つける。


 おお、健やかなる知性を持つ者よ
 あいまいな詩句の覆いの下に
 隠された教えを見抜け。
 馬の首を断ち
 盲人の骨を奪った
 不実なヴェネツィアの総督を探せ。
 黄金色をした聖なるムセイオンのなかでひざまずき
 地に汝の耳をあて
 流れる水の音を聞け
 深みへとたどり、沈んだ宮殿に至れば……
 かの地の闇に地底世界の怪物が待ち
 それを浸す池の水は血に赤く染まるが、
 そこは水面に映ることはない……星々が。



 ラングドンたちは今度はヴェネツィアへ向かうことになる。馬の首を断った不実なヴェネツィアの総督を探すために。
 一方大機構の総監は不安を感じていた。ゾブリストはメモリースティックに残した動画を指定した日に公開して欲しいとも依頼していた。総監はその不吉な動画を部下から見て欲しいと相談してきたのを拒否していたが、気になり見ることにする。


 画面が暗くなり、ひたひたという水音が部屋を満たした。カメラは地下洞窟の赤みがかった霞のなかを進んでいく。総監はなんの反応も示さなかったが、驚くとともに動揺しているのがノールトンには感じとれた。
 カメラは進むのをやめて下の水面を向き、そのまま水中に突入して数フィート潜ると、洞窟の底に固定されている光沢のあるチタンのプレートを映した。

 この場所で、この日に、
 世界は永遠に変わった。

 総監はほんのわずかに身をすくめた。「あすだな」日付を認識してささやく。「“この場所”がどこなのか、見当はついているのか」
 ノールトンは首を横に振った。
 カメラはつぎに水中で左へパンして、ゼリー状の黄褐色の液体がはいったビニール袋を映し出した。「なんだあれは!」総監は椅子を引き寄せて腰をおろし、波打つ球体が、つながれた風船のように水中を浮遊する姿を見つめた。


 その後画像は不吉な内容を説明する。


 嘴の鼻を持つ影はその後数分にわたって語りつづけた。疫病や、人口を減らす必要性や、未来におけるみずからの輝かしい役割について。それを阻止しようとする無知な者たちとの戦いや、この惑星を救うには抜本的措置をとるほかないと気づいた少数の同志たちについて。


 総監は大機構は誤った側に与していると感じ始める。コードネームFS-2080と接触を図ろうとする。ゾブリストを大機構に紹介したのがこのコードネームFS-2080であった。
 そして大機構はWHOのシンスキーとも接触を図る。大機構とWHOはゾブリストが残した動画にあるゼリー状の黄褐色の液体がはいったビニール袋の中には人類に甚大な影響をもたらすものが入っていると認識し、そのビニール袋を探すため協力しあう。
 一方ラングドンとシエナはヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂へ向かい、「馬の首を断ち/盲人の骨を奪った/不実なヴェネツィアの総督」を探した。馬は<サン・マルコの馬>のことを言っていた。この四頭の青銅製の馬はもともとコンスタンティノープルにあったもので、第四回十字軍でヴェネツィアに運ばれ、サン・マルコ大聖堂のファーサードに設置された。ヴェネツィアに運ばれる時輸送を容易にするために頭部が切断され、それを隠すために飾り首輪が掛けられた。その第四回十字軍の参加を説いた総督がエリンコ・ダンドロであった。ラングドンたちはエリンコ・ダンドロの墓がこのサン・マルコ大聖堂にあるものと思っていたが見当たらない。ラングドンはこの時代の有力な言語がラテン語であることに気がつき、エリンコ・ダンドロのラテン語読みがヘンリクス・ダンドロであることを思い出す。ヘンリクス・ダンドロの墓はここにはない。墓はイスタンブールアヤソフィアにある、と気づいたとき、ラングドンは追っ手に捕まってしまう。シエナは何とか逃げのびた。
 捉えられたラングドンは総督とシンスキーからこれまでラングドンに起こった事実の真相を聞かされる。
 真相はこうである。
 もともと大機構はゾブリストの依頼であのプロジェクターをシンスキーに届ける予定であったがそれを先にシンスキーが手に入れてしまったため、それを取り戻そうとした。 シンスキーは手に入れたプロジェクターに映し出されたボッティチェルリの<地獄の見取り図>の意味を解明するためにラングドンをフィレンツェに呼んだ。
 大機構もラングドンを使ってプロジェクターを見つけるため、大芝居を打つ。薬で記憶を失わせ、銃で撃たれたかのように銃創を作り出し、急ごしらえ病室のセットに寝かせた。この時シエナも大機構に協力していたのだ。ラングドンは銃で撃たれていなかった。大機構の芝居に騙されていたのであった。以来ラングドンはシエナと逃走劇を演じるが、シンスキーにはラングドンが失踪したと思えたので、欧州疾病予防管理センターの傘下にある監視・対応支援チーム(SRS)のブリューダーを使ってラングドンを探した。これがラングドンが追われていると思わせてしまった。ところがここで大機構とシエナが協力し合うことで、ラングドンに事の真相を伝えることとなった。
 そしてシエナ・ブルックスの正体も明かされることとなった。
 シエナ・ブルックスは大機構にゾブリストを紹介したFS-2080であり、ゾブリストの恋人であった。シエナはゾブリストの思想に感化されており、ゾブリストの自殺の後、ラングドンと一緒に逃走劇を続けているうちに事の真相に近づくことが出来た。そしてゾブリストがしようとしていることを続けようとしていたのではないか。
 シエナにあのゼリー状の黄褐色の液体がはいったビニール袋を奪われてはならない。しかしシエナはラングトンと一緒に真相を解明していたので、ヘンリクス・ダンドロの墓がイスタンブールアヤソフィアにあることを知っている。
 ラングドンと大機構の総督、WHOの事務局長エリザベス・シンスキーはシエナより先にイスタンブールへ向かい、あのビニール袋を回収しなければならない。
 ラングドンたちはアヤソフィアにある床に埋め込まれたヘンリクス・ダンドロの墓碑に耳を当てる。水の流れる音がする。この水は貯水池に流れ込む。そこは広大な地下空間で何本もの柱立っている。昔はその貯水池が給水源であったが、今は使われておらず、単に水が溜まっている観光名所となっている。その地下空間で匿名の慈善家による無料コンサートが開かれていた。その貯水池へSRSのブリューダーが潜った。しかしビニール袋は破れていた。袋はある程度時間が経つと溶ける水溶性のものであった。ゾブリストが作った病原体は拡散し、コンサートに来ていた人びとに感染した。匿名の慈善家とは巨万の富を持つゾブリストであった。ゾブリストはここに多くの人が来るように無料コンサートを催したのであった。
 ブリューダーが貯水池に潜っているとき、ラングドンはシエナの姿を見かけ追いかけ、ラングトンにすべてを打ち明ける。
 ラングドンはシエナがブリューダーより先に貯水池に潜ってあのビニール袋を破り病原体を拡散したものと思っていた。しかしシエナが貯水池に潜ったときはすでに袋は溶けていた。ラングトンシエナの言うことが信じられなかった。シエナは無料コンサートのパンフレットをラングドンに見せ、ゾブリストが指定した日はコンサートの最終日であり、ウィルスは一週間前に解き放れていたことを知る。ゾブリストが指定した日はウィルスが世界に行き渡る日であった。


 「ウィルスが貯水池に解き放たれとたんに、連鎖反応がはじまったの。あの洞窟へおりていって呼吸したすべての人が感染した。みなウィルスの宿主となり……本人の知らないうちに共犯者となって他人にへウィルスを運び、爆発的に蔓延させる火種を蒔いた。もう、山火事のように地球上を駆け抜けたあとでしょうね。いまごろは、世界じゅうの人びとがそのウィルスに感染している。あなたもわたしも含めて……すべての人が」


 「そのウイルスは人体から奪ってしまうの……生殖機能を」落ち着きなく身じろぎする。「ベルトランは生殖を不能にするウィルスを作り出したのよ」


 「ベルトランはよく、そういうウィルスについての理論を立てていた」シエナは静かに言った。「だけど、まさか実際にそれを作り出そうとするなんて夢にも思わなかった。……ましてや成功するなんて。手紙をもらってベルトランが何をやりとげたのかを知ったときは、卒倒しそうだった。だから、破棄するように頼もうと思って、がんばって居所を探したのよ。でも間に合わなかった」
 「待ってくれ」ようやく口がきけるようになって、ラングドンはさえぎった。「そのウィルスが地球上のすべての人の生殖機能を失わせるなら、つぎの世代はもう生まれてこないし、人類は絶滅に向かうだろう……あっという間に」
 「そのとおりよ」シエナは消え入るような声で答えた。「でも、絶滅させることはベルトランの目標ではなかった――というより、正反対よ。ベルトランは無作為に活性化するウィルスを作り出したの。“インフェルノ”と名づけられたそのウィルスは、すでに全人類のDNAに根づいて、今後すべての世代に受け継がれていくけど、それが活性化するのは一定の割合の人々だけ。言い換えれば、いま地球上のすべての人がそのウィルスの保有者になっているけど、生殖不能になるのは無作為に選ばれた一部の人たちだけなのよ」」
 「一部というのは……どのくらい?」ついそう口にしたが、自分がそんな質問をしていることさえ信じられない思いだった。
 「知ってのとおり、ベルトランは黒死病に――ヨーロッパの人口が三分の一を無差別に死滅させたあの疫病に――強く執着していた。自然はみずからを間引く方法を心得ていると考えていた。生殖不能を引き起こす率を算定するあたって、三分の一というあの疫病の死亡率が、人口を適度に保つのにもちょうどよい値らしいとわかったとき、ベルトランはわが意を得た思いだった」


 ベルトラン・ゾブリストの作ったウィルスは人の生殖機能を不能にさせるものだった。ただしそのウィルスは全ての人類に活性化するわけではなく、無作為に三分の一だけが活性化する。そして今後も劣性遺伝のごとく引き継がれるものであった。そうすることで「ヒトという種がただ多産すぎる現実を正すこと」ができるというものであった。シエナはこのウィルスは黒死病がもたらした生き地獄に比べれば、病院に瀕死の患者が溢れることもなく、路上に死体が腐ってころがることもない。愛する人を失った哀しみにくれることもない。ただ赤ん坊が生まれる割合が減るだけ、という。そういう意味では思いやりがあるとも言う。むしろゾブリストは「人間を深く愛していて、人類を救いたい気持が強いばかりに、極端な手段に出ることをも正当化した」と言う。
 ラングドンはシエナがラングドンから去ろうとするのを引き留める。このウィルスの拡散を阻止しようとしたシエナなら、このウィルスのことをよく知っている。だからシンスキーと今後協力すべきと言う。そしてラングドンはシエナとシンスキーとの仲を取り持って、この物語は終わる。まあ終わり方はちょっと甘い感じがしないでもない。若干話の進め方が強引な感じはしないでもなかったが、全体としては面白かった。


ダン・ブラウン 著 / 越前 敏弥 訳『インフェルノ』〈上〉 KADOKAWA(2013/11発売)

ダン・ブラウン 著 /越前 敏弥 訳『インフェルノ』〈下〉 KADOKAWA(2013/11発売)

by office_kmoto | 2018-10-31 08:55 | 本を思う | Comments(0)

池波 正太郎 著 『鬼平梅安 江戸暮らし』

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 この本もこれまで書かれた池波さんのエッセイのアンソロジーである。読んでいて懐かしい。
 高丘卓さんの編者解題がいい。

 歴史の記憶を奪われ、痕跡を掻き消され、東京は、都市も人も、記憶喪失にさせられてしまった。池波氏のこの絞りだすような呟きは、東京を愛してやまなかった、最後の東京人の永訣の言葉であろう。町は人がつくり、その営みが文化を生む。またその文化が町と人びとの繋がりを育み成熟させていく。美も、学問も、芸能も、料理も、酒も、歴史の積み重ねによって伝統が生まれる。そこに人生の喜びを見出すのが、人間というものであろう。しかし、記憶喪失の都市に住む現代の東京人は、作家・池波正太郎の言葉の重さを、理解する方便さえない。いったい、こんな文明国家があるだろうか。山口瞳は、小説『原っぱ』の主人公に仮託した池波正太郎の言葉を引用して、弔辞をこう締めくくる。
 「『仕方がない、旅をしているつもりで暮らそう』と思うようになります。どこかわからない町に住んでいて、たまたま東京に立ち寄ったという心持ちで暮らそうと心に決めるのです。(略)戦国時代にも旅をしたことがありましたし、むろん、御自分の町である江戸には長逗留しました。大正や昭和の東京の町も歩きました。戦後の東京だって、結構面白がって旅をしていたと私は思っています。
 いま、池波さんは、私たちの誰もが知らない、住み心地のいい懐かしい感じのする町に旅しているのだと思っています。池波さん、ゆっくりと楽しい旅を続けてください。」……

 そして、

 しかし山口氏がいうように、現在の東京人が、旅人であることはたしかである。都市自身が、日々、違う町に生まれ変わってしまうからだ。わたしたち東京人は、この都市に、永遠のトランジットとして生きる存在なのである。二年後は、二度目の東京オリンピックだそうである……。

 と締めくくる。この人がオリンピックでまた大きく変わろうとしているのをうんざりしながら眺めているのがよくわかる。
 私は2020年の東京オリンピック開催に基本的に反対である。オリンピックの為に東京は一回目のオリンピックの時と同様に東京は大きく変わろうとしている。そのためにそれまであった建物を壊し、そのことで町の雰囲気まで変えてしまおうとしているからである。
 そもそもこの日本でこんな時に何故オリンピックをしなければならないのかわからない。東日本大震災からの復興、元気を取り戻すため、一つの活力となればという“復興五輪”なんていうけど、それならなんで東北でやらない。東京でやる意味などどこにもないし、そんなお金があるなら被害にあった東北にお金を使えばいい。ましてオリンピック競技という限られたスポーツ競技や選手の為に何億、何十億、何百億のお金を掛けるなんておかしいと思わないのか。
 そのスポーツ選手だって、団体内で醜い権力争いをし、スポーツ界特有のパワハラに揺れている。女子プロレスしかり、ボクシング、他にもあったよなあ、忘れたけれど。
 団体の幹部がヤクザまがいの恰好をして幅を利かせ、好き勝手に金、選手を自分の都合の良いように使っている始末である。さらのその胴元である文科省の幹部が自分の馬鹿息子を医学部に裏口入学させようと、口利きをしたりしている。そんな腐った奴等の団体が仕切るスポーツ競技ってやる意味があるのかと言いたくなってしまう。
 オリンピックのため日本を訪れてくれる外国人を“おもてなし”するため、新たな施設を作ったり、観光スポットを一所懸命探し、アピールに忙しいけど、それって2020年のオリンピックの時だけのことでしょう。その後も持続性のあるものじゃないでしょう。そもそも外国人おもてなしのため日本人が暮らしにくくなる方が本末転倒である。今まで住んでいた自分の町を壊してまでやることじゃない。オリンピックって。そう思う。
 スクラップアンドビルドも結構だけれど、建物ではそれが可能だとしても、人の繋がりは一度壊されてしまえばなかなか新しいものが構築されない。そのことを第一回のオリンピックを東京でやってみて、その後遺症として残っているのにまた同じことを、一時のお祭りのためにやろうとしているとしか思えないのである。

池波 正太郎 著 『鬼平梅安 江戸暮らし』 集英社(2018/06発売) 集英社文庫


by office_kmoto | 2018-10-26 05:57 | 本を思う | Comments(0)

片岡 義男 著 『万年筆インク紙』

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 昔本屋で働いていた頃、片岡義男さんの赤い背表紙で、カバーの表紙には南国のリゾート風景の写真をあしらった角川文庫がよく売れた。その文庫自体、持っているとファッショナブルで、当時若い人に受けていた。しかし私はそういうのが苦手で敬遠していたので、片岡さんの本を読むのは初めてである。
 もともとこの本を読みたいと思ったのはやはり万年筆について書かれているからだ。
 読んでみるとこの人の万年筆に関するこだわりはこんなに万年筆を持ってどうするんだ、というくらいすごい。万年筆だけではない。そのインクの色のこだわりも並大抵じゃない。ただ本人もその辺りは自覚しているようで、最後は実際に使う本数を絞っている。

 普段使う筆記用具はもっとストレスのかからない筆記用具でありたいものだ。たとえば、著者は鉛筆で言う。

 鉛筆は早い時期にHBからBへと持ちかえ、Bはさらに2Bへと移行し、かなり長いあいだ鉛筆は2Bだった。年を重ねるにつれ3Bそして4Bと上がっていき、最後は5Bになった。

 これよくわかる。私は鉛筆を削るのが面倒なので、シャープペンを使ってきた。今は0.9の2Bを使っている。本当は4Bくらいの濃さと柔らかさの芯が欲しいのだが、0.9の4Bという替え芯は見たことがない。
 とにかく0.9の2Bを使うのはその方が0.5より書きやすく、ストレスを感じないし、腕や指に負担をかけないからである。それはジェル式ボールペンに至っても同様である。
 最近はこのジェル式ボールペン、ZEBRAのSARSAを愛用している。しかも0.7~1ミリの太い奴である。これは私の筆記用具では必須アイテムである。ただ難点はインクの減りが早いことで、だから替え芯も数本用意している。
 いずれもメモ書きとか、自分の頭の中にあるぼんやりしたことを書き出す時に使う。
 これまで万年筆に関しては私にはこだわりがあって、何度かここに書いてきた。もともとこの本を読んだのもその万年筆に関して著者が何をどう考えているのか、いわばそのこだわりを知りたかったからだ。まずは知り得たことを書く。

 ブルーブラックという名のついたインクの入ったガラス瓶も父は見せてくれた。書いた当座は深みのあるブルーだが、紙の上で酸化されることによって、その色は黒へ近づいていくことからブルーブラックと呼ばれている、ということだった。

 携帯用はあったとしても、ペンとインク壺は別々に存在した。そのインクがペンに軸のなかに入ったのだ。これは画期的な出来事だった。インクを自らの軸なかに、汲めども尽きない泉のように持つペンの登場だ。Fountain pen という言う言葉にはそれは充分に値した。

 ファウンテンという一語について考えた。つきることなく出て来るインクの泉は、左から右に向けて書いていく文章の、途切れることのないつながりへの期待なのではないか。瞬間的な短い切れ間あるけれど、基本的にはすべての思考は書かれる文字として左から右へとつらなるのであり、インクがそのことを支えるのであれば、ペンポイントとその切り割りもまた、左から右へのためのものではないか。

 輸入したのは丸善で、ウォーターマン、ペリカン、オノト、スワン、パーカーなど次々に輸入し、日本に万年筆を定着させるための、ひとつの重要な窓口の役を果たした。ウォーターマンは一八九五年(明治二十八年)、オノトh一九〇七年(明治四十年)に、丸善によって輸入されている。『學鐙』というPR誌を丸善が定期的に刊行したのは、輸入した万年筆を効果的に宣伝する媒体として利用するためだったということだ。

 確か吉村さんのエッセイに、内田魯庵がいつまでもインクがでるものという意から、そのペンを直訳して泉筆と称したと書いてあった。この本によると内田魯庵は丸善の社員だったという。なるほどね。
 
 私が持っている万年筆はモンブランのモンブランマイスターシュテュック 149 とプラチナプレジデントの2本である。最初はモンブランだけであった。太字のペン先でいわば見栄みたいな感じで持っていて、それほど使うことはなかった。だからかいつまで経ってもなじまず、どちらかと言えば使いづらかった。そこで普段使う万年筆としてプラチナの万年筆を買ったのであった。
 今度は使う万年筆として持つことにしたので、丸善へわざわざ行って、仰々しい店員の前で何度も試し書きして購入したのであった。その時インクの色はブルーブラックと決めていた。そしてこのインクの色が気に入り、モンブランの万年筆もこのインクに入れ替えた。
 最初何も知らないものだから、モンブランの万年筆にはモンブランのインクしか駄目だと思いこんでいた。インクのメーカーを替えて使うなんて考えてもいなかった。それは片岡さんも同じだったようだ。

 万年筆がモンブランだからインクもモンブランにするといいのではないか、なんの根拠もなく思った僕が購入したのは、半透明なプラスティックの容器に入った、58ミリ・リットルのモンブランのインクだった。

 私が持っていたモンブランのインクは靴型のインク瓶に入っていた。

 58ミリ・リットル入りの、モンブランのインク瓶だ。愛好者たちのあいだでは、靴型、と呼ばれているそうだ。確かに、靴を思わせるかたちをしている。デザインも製造も日本国内でおこなわれ、従って流通したのも日本だけだったという話は、本当だろうか。インクはドイツから大きなタンクで届き、日本国内の工場でこのガラス瓶に小分けされたという。

 これを読んで、へえ~、そうなんだ。確かにあの靴型のインク瓶は重量もあって魅力的だった。でも万年筆のインクの色を変えた時、もうこの色は使わないだろうと思って捨ててしまった。何故ならこのインク瓶に入ったインクを購入してからだいぶ経っていたからだ。
 この本で片岡さんは製造中止になったパーカーのウォッシャブル・ブルーのインクを探しているのだが、その在庫を丸善の店員に問い合わせた時、店員は「見つかってもお使いにならないほうがよろしいかもしれません。インクは生ものですから」と言ったという。

 万年筆用のインクは時間の経過とともに化学変化を起こす。少なくとも色は明らかに変化する。濃くなる方向への変化は、僕もすでに何度となく経験している。

 確かにあのモンブランのインクは長いこと使っていると、インク詰まりした感じで、なんかドロッとした感じであった。考えてみれば長い年月が経てば、インク水分は瓶の中で蒸発して、インク自体濃くなる。そして化学変化もする。だから使わないなら捨ててしまって良かったわけだ。でもインク瓶は貴重なものだったようで、いま思えば、瓶だけは残しておいてもよかったかもしれない、とちょっと後悔している。片岡さんのように文鎮代わりに使ってもお洒落でよかったかもしれない。
 モンブランは黒のインクを入れていた。しかしこの黒色というのはどこか威圧感がある。片岡さんも言う。

 まっ黒いインクで文字を書いているとき、あるいは、書き終えた文字がまっ黒くそこにあるとき、その黒さには、行き止まり感、とも言うべきものを、僕は強く感じる。

 書式に記入する内容は具体的にはさまざまだが、基本となるところを抽象化すると、現実の事実としてはこれだけしかない、ということだ。これらのさまざまに現実的な断片を、「黒いインクのボールペンではっきり」と書式に書かなくてはいけない。これ以外にはあり得ない、と他に対して宣言しているのが、黒インクという色だ。

 「黒いインクのボールペンではっきり書け」という命令は、書かれたものを限りなく活字に近づけたい、という願望のあらわれではないか。活字とは、書かれたものは確定されきっているがゆえに、もはやどのようにも動かしがたい現実の一部分であるという、もっとも硬い枠のことだ。その枠に入らないもの、つまり不明確なもの、不定型なもの、不確実なものなどは、排除された結果として、存在すらしていないものとして扱われる。

 こう書かれると、確かに黒は決定的という感じを与える硬さがある。そもそも万年筆で書いたもの自体そういうところがある。

 原稿用紙に万年筆で手書きしていくと、書いた文章がそのまま決定的になっていく度合いが高いかな、ということも僕は思う。頭から出てきた言葉や文章が、自分の手に持った万年筆で、原稿用紙の升目に書かれていく。自分の手で原稿用紙に書いたぶんだけ、その人にとっては、決定感が強いのではないか。直すにあたっては、その決定感を自ら取り消さなくてはいけない。一本の縦線を引いてその部分は取り消しにして、新たな文章を続きとして書いていけばそれでいいのだが、引いた線の下に自分の書いた文章は見えている。手書きは、それをする人にとって、心理的な拘束力を持つのではないか。

 ワープロはその名のとおり、ワードをプロセスする装置だ。処理機だ。プロセスしていくだけなのだから、使う人は基本的にたいそう気楽だ。気に入らなければすぐ消すことが出来る。消せばなくなり、見えなくなる。紙の上にいったんは自分の手で固定した言葉の書き手自身に対する拘束力はほとんどない。

 そこに黒という色はそれを助長すると思う。私はプラチナの万年筆を使うようになって、インクの色をブルーブラックを使うようにしたが、その色が気にいった。だからモンブランの万年筆もこのインクに入れ替えた。これがなかなかいい感じである。

 ブルーブラックという色は、ひとりの人が考えたことを、その人の手で仮に文字として書いたもの、という価値をそのままあらわにしている色だ、と僕は思う。

 ブルーブラックにはそういう優しさがある。この本はそんなブルーブラックで印刷されている。
 最後になるほど、と思ったのは次の文章だ。

 それが本来は持っている機能を、じつはまったく発揮することのない運命を担うものとして、人からもらった万年筆はその筆頭にあげていい。世のなかでおよそ値打ちのないもの、それは人からもらった万年筆ではないか。

 万年筆は使い込めば使い込むほどなじむ厄介な筆記用具である。しかも使い方に個人差がある。だから万年筆を贈って、使ってもらおうとしても、その人の愛用の筆記用具になるとは限らないのである。

片岡 義男 著 『万年筆インク紙』 晶文社(2016/11発売)


by office_kmoto | 2018-10-24 05:59 | 本を思う | Comments(2)

内田 洋子 著 『モンテレッジォ小さな村の旅する本屋の物語』

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 著者が通うヴェネツィアの本屋の父親が言う。

 「いいえ、私の祖父が創業しましたので、息子はまだたったの四代目です。それに父の家系はヴェネツィアではなく、トスカーナ州の出処でしてね」
 トスカーナ州ですって?フィレンツェ?
 いいえ、と頭を振ってから、晴れ晴れと誇らしげな顔で言った。
 「モンテレッジォです」

 「男手を必要とする農地へ、出稼ぎに行ったのですよ。景気が悪くなると、他所にも働き口はなくなった。村には特に売る産物もありませんでした。それで本を売ったのです」

 「モンテレッジォの収穫祭は、だから本なんです」

 「いや、ただの古本です」

 「父もそのまた父も、私たちの先祖は皆、古本を売りに歩いて生計を立てたのです」

 著者はヴェネツィアの本屋の創業者の先祖が本の行商人であったことに興味を持つ。しかもその出身がモンテレッジォであることに、何故そこで本の行商人が生まれたのか不思議であった。というのも、

 モンテレッジォは、北緯四十四度十七分四十六秒、東経九度五十分三十六秒、標高六百五十一メートルに位置する。イタリア半島北部の内陸の山岳地帯にあるが、南西に五十キロメートルほど下ると、海だ。

 現在のモンテレッジォの人口は、三十二人である。男性十四人、女性十八人。そのうちの四人が九十歳代だ。就学児童も六人いるものの、村には幼稚園や小・中学校はない。
 食料品や日用雑貨を扱う店もない。薬局や診療所もない。銀行もない。郵便局は、三十年ほど前に閉鎖されてしまった。鉄道は通っていない。バスもない。
 村は老いて、枯れている。
 (こういう村から、なぜ本が?)

 「それまでモンテレッジォの経済は、この一帯に依存していました」

 ただここは交通の要所であった。

 フランチジェーナ街道が、この近くの山を通っていたのか……。
 中世に遡ると、ローマとサンティアゴ・デ・コンポステーラとエルサレムは、キリスト教の三代巡礼地だった。その中で、カンタベリーからローマへと巡礼者が旅するさまざまな道を総じて、<フランク王国に発する道>(フランチジェーナ)と呼ぶようになった。ローマを参拝し終えた巡礼者の中には、引き続きエルサレムを目指して南下していく者も多かったという。
 中世にヨーロッパの気候は、かなり温暖化している。結果、農業生産高は上がり、生きやすくなったのだろう。各地で人口は急増した。大規模な教会や広場が次々と建設され、それでも足りず、さらに未開の地に向かって人々が移住し開墾したり旧市街地が拡大されたりした。フランチジェーナ街道はまた、ヨーロッパの北と南を最短に結ぶ道程でもあった。信仰の道は欧州全域に及んで人の流れ作り、人の流れは各地に新しい商いを生んだ。各地に光と潤いを運んだ道だったわけである。

d0331556_06491922.jpg フランチジェーナ街道というのは知らなかった。注があり次のように書かれる。

 イギリスのカンタベリーからフランク王国、スイスを経由し、イタリアのローマまで結ぶ、一千六百キロメートルに及ぶ道程。本来は七十九の要所を通った。一日一区間、79日で踏破した。一日二十キロメートルの行程だった。

 モンテレッジォは、

 海がなく、平地もなく、大理石の採石もできない。つまり、海産物も農作物も畜産品も天然資源も採れない村だったが、それらが豊富な土地に行くための<通過地点>という重要な役割があった。

 毎年春になると唯一の産物である石と栗を集め、背負って山を越え谷を越えフランスやスペインまで足を延ばした。往路の荷である石を売りきると、空っぽの籠のまま帰るのはもったいない、と道中で本を預かり受けて籠に詰めなおし、売りながら帰路を辿ったという。

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 ではなぜ地の果ての山奥から、本が各地に運ばれていったのだろうか?それがこの本に詳しく書かれている。
 モンテレッジォはほとんど近隣の地域の生産物に依存していた。だからその地域が気候変動などにによって農作物の生産が出来なくなると農作物も手に入らなくなってしまうし、出稼ぎ先としての働き口も失う。

 「<夏のない年>一八一六年、北ヨーロッパ、アメリカ合衆国北東部およびカナダ東部の各地で、五月の霜に続き六月の吹雪や深い積雪、七月八月には河川や湖の凍結、三十度を超える気温が数時間のうちに零下まで激変するなどしたため、農作物がほぼ全滅する事態となった。この異常気象は一八一五年までの数年間にカリブ海やインドネシア、鹿児島、フィリピンで火山が次々と噴火し、大量の火山灰により太陽光が遮断されたために起こったとされている。
 北イタリアでは、麦と桑が全滅した。つまり、主食と産業の要だった絹が忽然と消滅してしまったのである。
 「それまでモンテレッジォが頼りにしてきた農地では、働き口どころか農業そのものがなくなってしまったのです」
 夏がなかった年は、その後の秋も冬も雨が降り続いた。中国やインドでは、大雨で洪水が起こりコレラが蔓延した。疫病、飢餓、鬱屈。人々は怯えていた。
 「でもモンテレッジォの人々は、もともと糊口を凌ぐのには慣れていましたからね」
 <何かを売りに行かなければ>
 まず村人たちが籠に入れて担いだのは、聖人の祈禱入りの絵札と生活暦だった。カレンダーのようなものだが、月齢や日食、占い、季節ごとの行事など、暮らしに役立つ情報が書き込まれてあった。天変地異に慄き飢餓に苦しむ人々にモンテレッジォの行商人たちは、神からの加護と、大地と天に暮らしの拠り所を再び見出して、との励ましを届けたのである。中世、人々が世の中の好転を感謝し聖地巡礼に歩いたのと同じ道を伝って。

 この時代、読み書きが出来る人はどれだけいただろうか?おそらく限られた者だけだったろうと思われる。ということは本の行商が職業として成り立つほどに、本は売れていたのだろうか?実は、

 モンテレッジォの行商人が売り歩いたのは、本ではなかった、聖なる御札だった。小さな紙片で、お守りのようなものだ。買っても、聖人の絵の下に書かれた祈禱文を読めない人がほとんどだった。御札や暦売りがやってくる来ると人々は広場に集まり、行商人が御札に書かれたことを説明したという。しかし、行商人にも文字の読めない人はいた。御札を預かり受けとるとき神父から説法を聞いて覚え、まるで自分が読んでいるかのように熱心に説明したのだろう。

 そこにローマ教皇ニコラス五世の登位が重要な転機となる。教皇は大理石の採石地のカッラーラと隣接するザルザーナという町に生まれた。
 教皇ニコラス五世は、教皇に登位するとローマの復興事業に取り掛かる。まずはサン・ピエトロ大聖堂の再築構想を掲げ、教皇の地元カッラーラから莫大な量の大理石をローマに運んだ。
 さらにニコラス五世はバチカン図書館を創設する。代々の教皇から引き継がれた本の上にキリスト教関連の本なら、金に糸目を付けず買い上げた。

 石が本を呼び、抱えて守る。

 さらに1816年の異常気象が北部イタリアの農業を襲い、壊滅的な被害に遭う。モンテレッジォにも大きな変化が訪れる。

 どん底で、村人たちは籠を担いだ。売れるものは何でも売ろう。買ってくれる人が見つかるまで、進もう。売り切れたら仕入れて、もっと前に行こう。
 山に入って拾い集めた野生の栗。干し茸。わずかなに採れる栗の蜂蜜。枯れ枝をまとめた束。栗を燻して挽いた粉。教会から集めた聖人の御札や暦……。

 1800年代の記録を見ると村の人々はベルギーの鉱山で働いた者も大勢いた。鉱石を採掘する際に出る石の中には砥石の原石があった。モンテレッジォの出身者たちは拾い集めた石を売り歩いた。
 行商人たちに発行された通行許可証の職業欄を見ると、1810年代には<石、及び雑貨の小売り>、1830年代には<砥石と聖者の御札売り>と変わり、1854年発行のパルマ国内の通行・滞在許可証には、<農業、歯科医および石売り。そして本も売る>と記されている。行商の荷が石から本に代わり新しい時代が始まる、と読める。

 ここでやっと御札、暦から本に行商の荷物が変わっている。それでもまだ読み書きが出来る人は多くなかったに違いない。では本を誰が、何を読んだのだろうか?そして行商人たちはどのように本を探し当て、仕入れ、売り先を見つけ出したのだろうか?
 1800年代にヨーロッパで吹き荒れたのは天災だけではなかった。もう一つあった。それがナポレオン・ボナパルトである。ナポレオンはフランス革命の精神をヨーロッパに浸透させた。イタリアも例外でなく、強い民族意識が再興させることとなった。イタリア統一運動の始まりである。そのためには世の中で起きていることの情報が必要となる。ただ本はまだ経済的余裕のある人間でもなかなか買えるものではなかった。そこで本も売るモンテレッジォの行商人たちの出番になる。

 ナポレオンの勢力圏にあったときもオーストリアの統治下にあったときも、時の支配者たちは、イタリア半島に興りつつあった独立を求める民衆の決起を怖れ、高まる民族主義を鎮圧しようと必死だった。もし独立運動たちの書いたものが頒布されれば、火に油を注ぐようなものだ。一触即発の状況の中イタリア半島の小国家では、公安が出版社や書店、キオスクの検閲を頻繁に行っては、相応しくない書物を没収していた。
 「あらかじめ決まった旅程もなく、露店で本を広げてはまた移動。居どころ不定。連絡は付かない。通行証には<石売り>とある。臨機応変で迅速な行動。口は固い。蛇の道にまで精通している。そういうモンテレッジォの行商人たちは、禁書を運ぶのに適任だったのです」
 文化の密売人、か。

 それに対してモンテレッジォの行商人たちは、

 (モンテレッジォの)村人たちは底辺の行商人だった。青天井で売る。町中の書店で売る本とは違っていた。価格も、格も、読者も。
 当時の出版社の多くは小規模で、印刷も行っていた。編んで、少部数を刷り、売る。在庫を抱えている余裕はない。モンテレッジォの人たちは、そういう版元から売れ残りや訳ありといった本を丹念に集めて、代わりに売りに歩きはじめたのである。鉱山で掘り出されたまま放置されていた石や岩を拾い集めて売ったように。
 それまでの本を読む人たちとは異なる種類の人たちが、各地で行商人たちが運んでくる本を心待ちにした。書店では高価で難解な専門書ばかり扱っていて、敷居が高い。気軽に手に取り、好きなだけページを繰ってみたい。露店なら、いくらでも本に触れることができる。冒険や恋愛など、身近な内容の雑誌もある。気に入れば、自分たちにも買える本がある。何より、店主である行商人たちは丁寧に相手になってくれるのだった。各地を歩いて本を売っている村人たちの話には、臨場感があった。遠くまで行けなくても、行商人たちと本を通じて旅の道連れになった気分だった。皆、行商人たちの口上に夢中になった。野菜とパンを買ったら、本の話を聞きに行く。書かれていないことも伝えてくれる。ページの余白や行間を読むように。
 青天井で本を売り重ねるうちに、行商人たちは庶民の好奇心と懐事情に精通した。客一人ひとりに合った本を見繕って届けるようになっていく。客たちにとって、行商人が持ってくる本は未来の友人だった。

 当然多くの一般書店からは、本はもっと教養のある人たちのものなのにとか、あるいは低価格で売られたため敵視された。しかし出版社はモンテレッジォの行商人たちを大変重宝した。既成の書店からは聞き得ない新興読者の関心事や意見を行商人たちのお陰で詳細に把握出来たからである。

 行商を終えて皆が帰郷する冬になると、ミラノやトリノ、ボローニャ、フィレンツェからモンテレッジォに時の出版人たちが次々に訪れ、食卓を囲んだりダンスを踊ったりした。村を挙げて歓待し、その場で翌年の商談をまとめたり、イタリア各地の客たちの反応を聞き新刊の企画の参考にしたりしたのである。
 本を手に取っただけで、「これはあまり売れないでしょう」「すばらしい出来です」「ヒット間違いなし」と、読まずに次々と言い当ててみせる行商人もいた。まるで本の行く末占いで、どうしたら売れるのか、秘訣を請いに出版人たちが引きも切らずに詰めかけた。「売れる本というのは、ページに触れるときの指先の感触や文字組み、インクの色、表紙の装丁の趣味といった要素が安定しているものです。<あの出版社の本なら>と、ひと目でお客に品格をわかってもらうことが肝心ではないでしょうか」

 モンテレッジォの本の行商人たちにも、自分たちの存在価値を自ら自覚し始め、

 自分たちの強みは、毛細血管のようにイタリアの隅々まで本を届けに行く胆力と脚力である。本は、世の中の酸素だ。皆で手分けして、もれなく本を売り歩こう。それには、まず人材だ。

 というわけで村の行商人たちは、子供たちに本売りの魂を教えた。子供たちは箱や籠を渡され、担ぎ方や歩き方、売り方のいろはを習った。

 「モンテレッジォ人がしないで、誰がする。文化は重たいものなのです」

 とにかく本の行商人というのが、とても興味深かった。本を運び、露店で売る人がいたということに驚きであった。そしてその時代そういう商人たちいたということは、商人を頼りにする人々がそこにいたということで、この本は商人たちが何故本を売りに歩いたのか。そしてその商売が成り立った時代背景の考察が面白かった。
 そしてこの商人たちの本に対する深い洞察力、そして何よりも本を求める人たちの顔を浮かべながら仕入をすることなど、各所に今の本屋の店員が喜びそうな言葉が沢山散りばめられている。きっと本屋の原点なんて言ったりするんだろうな、と想像しちゃう。だからか、この本は本屋大賞の「ノンフィクション本大賞」にノミネートされている。さもありなん、と思った訳だ。

内田 洋子 著 『モンテレッジォ小さな村の旅する本屋の物語』 方丈社(2018/04発売)


by office_kmoto | 2018-10-21 06:20 | 本を思う | Comments(0)

笹本 稜平 著 『春を背負って』

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 たまたまブックオフで棚を眺めていたら、この本が目にとまる。手に取り帯を読んでみると、「疲れた心を慰める感動の山岳小説。奥秩父には人生の避難小屋があるんだ」とある。それに惹かれた。こういうのに弱いのだ。本の表紙のカバーも淡い緑色の山々が描いてあり、これは読んでもいいかな、と思った。
 これまで笹本さんの作品は「越境捜査」シリーズを読んできた。その時笹本さんが山岳小説も書かれることを知った。

 長峰亨は父親がやっていた山小屋を引き継いだ。サラリーマン時代は自己実現を求めて半導体という無機物との格闘にエネルギーを注いだ。気がつけば人生に意味を見失い、「まるで魂が酸欠状態にでも陥ったように、心は痩せ細り、世界は色を失っていた」。山小屋引き継いだ時、本来生きるべき場所と人を優しく包みこむ大自然を感じたのであった。
 そこに父親の大学時代のワンゲル部の後輩である多田吾郎がいた。通称ゴロさん。
 ゴロさんは住宅リフォーム会社を立ち上げ、一時は景気も良かったが、バブル崩壊後丸裸になり、その後亨の父親と出会い、この小屋の手伝いをするようになった。山小屋が開いているときは、父親の山小屋を手伝い、冬場はホームレスをやっている。ホームレスは自分の性にあっている。また生きることがギリギリのホームレス生活は、山での生活に充分耐えうると考えていた。
 そんなゴロさんが口にする言葉がこの作品に味を出す。

 「だけどね。その落とし前を他人につけてもらおうなんて一度も思ったことはない。自分の人生が不幸だとも思わない。雨が降ろうが風が吹こうが、自分にあてがわれた人生を死ぬまで生きてみるしかない。人間なんてしょせんそんなもんだろう」

 「どうせ拾い物の人生だからね。取り繕ったってしようがない。死なない程度に衣食住足りてりゃ、それ以上の金は要らないし、他人から尊敬されたところで腹の足しにもなりゃしない。欲はかかない、頑張らない。それが人生を重荷しないコツかもしれないね」

 「しかし人間ってのはなにが起きるかわからないからね。おれみたいな出がらし人生を送っている者にとっちゃ、いずれこの世におさらばするのは頭のなかに織り込み済みで、違いは早いか遅いかだけだけど、この人がまだ希望や夢がある年頃で死んだとしたら、さぞかし無念だったろうと思うんだよ」

 「それがおれという人間の原点でね。人間だれでも素っ裸で生まれてきて、あの世へだって手ぶらでいくしかない。それが本来自然の姿で、金やら物やら名声やらを溜め込めば、それだけ人生が重荷になっていく」

 「その点じゃ、おれなんか甘い人生を送ってきているよ。自分ひとりの始末さえつきゃそれでいいんだから。しかしね、あの人にすりゃ、奥さんと真奈美さんは損得抜きで背負う価値のある大事な荷物なんだろうね」

 「自分にあてがわれた人生を死ぬまで生きてみるしかない」とか、「他人から尊敬されたところで腹の足しにもなりゃしない。欲はかかない、頑張らない。それが人生を重荷しないコツかもしれないね」とか、「おれみたいな出がらし人生を送っている者にとっちゃ」とか、「金やら物やら名声やらを溜め込めば、それだけ人生が重荷になっていく」とか、「損得抜きで背負う価値のある大事な荷物」とか言う文句はやむにやまれぬ人生の大半を過ごしてきた者の達観と諦観がそこにはあり、心に沁みる。
 本を読んでいてこういう文句に出会えるのはうれしい。なんか今の自分も同じような気持ちになるところがあって、すごく感じ入る。むしろそんなことを言う人物たちを自分は求めている感じだ。自分もそう思っているというのをどこか同調して欲しいから、こんな本を読みたくなるのかもしれない。

笹本 稜平 著 『春を背負って』文藝春秋(2011/05発売)


by office_kmoto | 2018-10-16 05:47 | 本を思う | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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