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竹鶴政孝という人

 ニッカの創業者竹鶴政孝とはNHKの朝の連続ドラマ「マッサン」である。竹鶴政孝の自伝『ウイスキーと私』によれば、


d0331556_06463162.jpg 明治二十七年(一八九四)年六月二十日、私は広島県竹原町(現在竹原市)のつくり酒屋の三男として生まれた。
 家業を継ぐため大阪高等工業(現在の大阪大学)の醸造科に入り、ウイスキーに興味をもってから、ただ一筋にウイスキーづくりだけに生きてきた。
 その意味では一行の履歴でかたづく男である。(ウイスキーと私)



 竹鶴という名は珍しい。同じ本によれば、


 “竹鶴”は私の姓であるとともに“竹鶴”という名の酒を私の家から出していた。酒の名前とその蔵元の名前が同じというのは、数多い全国の酒屋の中で“竹鶴”ただ一つであった。祖母の話によると、明治維新で姓を受けるとき役場が酒の名に気づかないで本名にしてしまったからだそうである。(ウイスキーと私)


 竹鶴政孝は明治27年に生まれた。大阪高等工業学校(後の旧制大阪工業大学、現在の大阪大学工学部)の醸造科にて学び、卒業を間近に控えた時、摂津酒精醸造所の常務岩井喜一郎を頼り、社長の阿部喜兵衛と会い、洋酒造りの道に進みたい旨を伝える。政孝は卒業を待たずに摂津酒精醸造所に入社する。


 卒業前のことだから今でいう青田買いであるが、私のは“押しかけ青田売り”であった。(ウイスキーと私)


 その後政孝の仕事ぶりが認められ、社長の阿部から本場のウイスキー造りを学んでこいと、スコットランドに渡ることになる。留学費は会社が出してくれた。当時日本の景気がよかった。


 当時の好況ぶりは、世界大戦のおかげで大変なもので、輸出はどんどんふえ、輸入は殆どふえなかったから、日本のもうけはすばらしかった。歩が金になるいわゆる、“成り金時代”であった。
 そのため洋酒はよく売れた。特に大正七(一九一八)年から九(一九二〇)年にかけては、摂津酒造の黄金時代であった。スコットランドでの私の留学費と、日本に残った永井君たちの賞与の額が、ほぼ同じになったほどの好景気で、今の人には信じられない時代であった。(ウイスキーと私)



 しかし当時日本では本場の洋酒は高級品で、輸入量は微々たるものだった。しかし国産洋酒がすぐ登場するが、それは「模造洋酒」で中性アルコールに砂糖と香料を混ぜたものであった。すなわち“まがい物”、イミテーションであった。阿部は“まがい物”でない、本物のウイスキーを日本で作りたい、そのために勉強してこい、というのであった。
 1918年(大正7年)阿部社長、岩井常務以下摂津酒精醸造所の全社員、政孝の両親、寿屋の鳥井信治郎、山為硝子の山本為三郎(実業家。現アサヒビール社長)に見送られ、スコットランドへ赴いた。
 スコットランドではウイスキーの蒸留所の見学、実習とウイスキー造りの研究の邁進した。スコットランド滞在中には、 ジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と1920年結婚する。同年11月リタを連れて帰国。
 政孝は当然摂津酒精醸造所でウイスキー造りをするつもりでいたが、数カ月、半年過ぎても、社長の阿部は本格的なウイスキー造りが出来なかった。第一次世界大戦後の不況が長引きウイスキー造りをする資金的余裕が会社にはなかった。しかも不況は長引く。


 第一次大戦の軍需景気で未曾有の好況とアルコール・ブームを迎えた酒造業界に大正十(一九二一)年から十二(一九二三)年にかけて大きな反動が押し寄せ、同業者の倒産が続出する有様であった。(ウイスキーと私)


 政孝は相変わらず模造ウイスキー造りに明け暮れていた。


 重役会議でも阿部社長は
 「竹鶴君が苦労して勉強してきたのだから、なんとかやらせてみたい」
 と助け船だされたが、ウイスキーのような貯蔵に年数がかかり、そのうえ、ものになるかどうかもわからない道楽事業は、会社の財政面からも、すべきではないと全重役から反対されてしまった。(ウイスキーと私)



 政孝はこれ以上模造ウイスキーを調合するのに堪えきれず、摂津酒精醸造所を退職する。
 そんな時寿屋の鳥井信治郎は、赤玉ポートワインの売上が好調で次の一手を本格的なウイスキーの製造と販売を考え始めていて、竹鶴政孝を招き入れる。


 私が寿屋に入る条件として、ウイスキーづくりを全部まかせる、必要な金は用意する、十年間働く、年俸四千円という約束が二人の間にできた。(ウイスキーと私)


 政孝はウイスキー製造工場をその製造に適した地として、京都の郊外である山崎に作る。しかし巨費の設備投資をしても、ウイスキーは蒸留してもすぐ商品にならない。“寝かせ”なければならない。工場を建てて四年、鳥井はさすがに製品を待てなくなった。資金繰り的にも苦しくなってきている。これ以上待つことが出来ないと言われ、出来た原酒とアルコールブレンドして<白札サントリー>として発売する。しかしこれは売れなかった。鳥井はウイスキー事業を維持するためにビール製造に手を出し、政孝にビール工場長を兼任させる。しかしビールもうまく行かなかった。政孝は本社から指示を受け、横浜にある工場の拡張工事の陣頭指揮を執った。すべてウイスキー製造のためと思いつつ。しかしその工場は売却された。それが会社の戦略とはいえ、工場長の政孝に相談もなく売り払われたことが淋しかった。
 信治郎はやはり経営者であり、政孝は職人だった。自分が一介の技術者にすぎないことを感じ、独立を考え、1934年(昭和9年)寿屋を退社する。
 そしてついに政孝は北海道余市郡余市町でウイスキー製造を開始する。資本を集め、大日本果汁株式会社を設立した。ウイスキーが出来上がるには年数がかかる。その間、リンゴジュースを作ってしのごうとしたが、政孝の本物にこだわる職人肌が禍し、混濁が見られ売れず、返品の山となっていく。一方ウイスキーは蒸留していくが、そこに寝かせが入るので、すぐ商品とならない。会社は瞬く間に資金難になる。


d0331556_06473542.jpg こうしてのんびり釣糸を垂れ、リタの朗らかな声を聴いていると、工場経営の苦労も忘れてしまいそうだ。摂津酒造時代の自分だったら、こんな情況でとてものんびり釣などしていられなかっただろう。
 -俺も変わったな。
 竹鶴は奔流に揺れる浮きをみつめながら思った。焦っても仕方がないことだ。ウイスキー原酒が樽のなかで、四年、五年の歳月を眠ってようやく一人前になることを思えば、一年や二年の歳月で一喜一憂しても始まらない。
 なによりも、これから造ろうとしているのは、自分のウイスキーなのだ。独立したいからこそ、青年時代から追い求めてきた理想のウイスキーを造り上げる機会を掴んだ。この喜びにくらべれば、工場経営の苦労など・・・・・・。(ヒゲのウヰスキー誕生す)



 工場の貯蔵庫では原酒が四年目に入った。出来は悪くはないが、もう少し寝かせたい。しかし第二次世界大戦が拡大するのは必至の状況になっていた。価格統制と配給の時代を迎え、今ウイスキーを発売しないと永久に機会を逸してしまう。


 迷い抜いた末、竹鶴は発売に踏み切ることを決意した。
 若い原酒群であったが、竹鶴は慎重に混合を繰り返し、アルコールとブレンドした。ピートの香りをきかせた原酒をたっぷり使い、スコッチと同様、重厚な気品をたたえたウイスキーに仕上げたのである。
 初めて世に送り出す製品を竹鶴は「大日本果汁」を略して「日果」、すなわち<ニッカウヰスキー>と命名した。ラベル文字は<Rare Old NIKKA WHISKY>。(ヒゲのウヰスキー誕生す)



 戦後五年を迎えた昭和二四年、終戦直の混乱を覆った物資不足もインフレもようやく沈静の兆しが見え始めた。


 当時、ウイスキー市場の八割近くは三級ウイスキーで占められていた。現在の二級に相当する三級ウイスキーは、税法上<原酒が五パーセント以下、0パーセントまで入っているもの>と規定されていた。0パーセント、つまりウイスキーの原酒が一滴も入っていなくとも、税金さえ納めればウイスキーとして堂々と適用した。
 経済の復興期とはいえ、ウイスキーはまだ高嶺の花である。現在の特級に当る一級ウイスキーなど、一般庶民の手に届くものではなかった。戦中戦後、軍納や配給ウイスキーでその味に親しんだ者も少なくなかったが、ウイスキーの魅力自体もまだ薄い。自由競争になって、三級ウイスキーは市場を席巻したものも、安い酒であったからにほかならない。じじつ大部分の三級ウイスキーは、アルコールに色と香りをつけたただの粗悪な模造ウイスキーにすぎなかった。
 自由競争の時代に入っても、大日本果汁は以前と変わらぬ一級ウイスキー<ニッカウヰスキー>しか発売していなかった。価格は一本千三百五十円。三級ウイスキーが三百円の時代であった。(ヒゲのウヰスキー誕生す)


 これでは赤字が続くわけである。経営悪化をたどる大日本果汁は、三級ウイスキーを出すしかなくなっていく。資本を出してくれている加賀正太郎は経営を一切政孝に任せていたが、さすがに口を出さずにいられなくなる。政孝はウイスキー職人としてアルコールで薄める模造品を出すには良心が許さなかったが、これ以上どうしようもない。規定いっぱいの五パーセントまで原酒入れて三級ウイスキーを出す。


 全従業員を工場に集めて、いままで本格ウイスキーに命をかけた自分がブレンダーとしての良心に反して、三級ウイスキーをつくらざるをえなくなった苦哀をぶちまけたのは昭和二十五(一九五〇)年の春であった。(ウイスキーと私)


 昭和二十八年、酒税法が改正され、従来の一級から三級までの級分けは、特級、第一級、第二級と呼称が改まったが、第二級が市場の九割近くを占め、第二級の原酒混和率は相変わらず<五パーセント以下、〇パーセントまで>であった。
 社名をニッカウヰスキー株式会社と改めても、先行投資が増えつづけ赤字経営であった。加賀は株主を代表して経営に口を出し、もっと値を下げろと言う。
 そのうち大株主の加賀は、朝日麦酒社長山本為三郎に後事を託し株を売却してしまう。
 昭和三十年代の洋酒ブームも三十四、五年になると陰りが見え、ブームを支えていた二級ウイスキーの伸び悩みが激しかった。消費者は生活に余裕が出来はじめる頃で、高品質のものを求めるようになっていたのである。そこで業界は原酒混和率の引き上げ要望し認められた酒税法が改正された。
 山本は政孝に一つの提案をする。それはニッカでグレイン・ウイスキーの製造をしろというものだった。


 ウイスキーがスコットランドの地酒から世界に通用する酒となったのは、ブレンディド・ウイスキーの誕生を待ってからである。スコットランドでは、大麦を単式蒸留器で蒸留した個性豊かなモルト・ウイスキーと、穀類を連続式蒸留機で蒸留したグレイン・ウイスキーとをブレンドする。ところが日本では、モルト・ウイスキーに薯や糖蜜を精製した中性アルコールをブレンドしているのが現状であった。
 ブレンディド・ウイスキーの香りや味を造るのはモルト・ウイスキーである。が、その個性を生かし、飲みやすくしたのはグレイン・ウイスキーだ。もし、日本でも中性アルコールに代って、スコットランド同様に穀類から蒸留するグレイン・ウイスキーを使えるようになれば・・・・・。(ヒゲのウヰスキー誕生す)



 設備には莫大なお金がかかる。しかし山本はやってみろというのであった。


 兵庫県西宮に念願のグレイン・ウイスキー工場を建設し、カフェ式連続蒸留機のバルブをみずからの手で開けた瞬間、竹鶴の脳裡をかすめたは遠い半世紀の昔、スコットランドの工場で深夜、蒸留主任の老人から手ずから教わった記憶であった。よもやあの老人は生きてはいまい。スコットランドへ遣ってくれた摂津酒造の阿部喜兵衛、山崎工場を任せてくれた寿屋の鳥井信治郎、余市に初めて竹鶴の城を築かせてくれた加賀正太郎、数億円の出資でカフェ式連続蒸留機導入を実現してくれた山本為三郎・・・・・。恩人はみな世を去っている。こうして先人を思い出すたびに、竹鶴はウイスキー一筋に生き、グレイン・ウイスキーまで造れるようになった僥倖を痛いほど感じるのだった。それにくらべたら、企業間の争いなど、所詮コップの中の嵐のようなものではないか
 生きることは、なんと愉しいことだろう。(ヒゲのウヰスキー誕生す)



 私はこれまでサントリーの創業者や佐治啓治の評伝などいくつか読んできた。開高健や山口瞳が書いた社史なども読んできた。しかし、竹鶴政孝と鳥井信治郎の関係がいずれも書かれていなかったと思う。あるいは書かれていたのかもしれないが、詳しく竹鶴政孝に言及した文章は記憶に残っていない。それで川又一英さんの『ヒゲのウヰスキー誕生す』を読み、竹鶴政孝自身が書いた自伝『ウイスキーと私』を読んでみた。これら二冊の本を読んでサントリーとニッカとの関係がよくわかった。


川又 一英 著 『ヒゲのウヰスキー誕生す』新潮社(1982/11発売)

竹鶴 政孝 著 『ウイスキーと私』 NHK出版(2014/08発売)

by office_kmoto | 2017-04-05 06:52 | 人を思う | Trackback | Comments(0)

ラフカディオ・ハーン その2

 さて、前回はハーンの出自から、ハーンの考え方がどうハーンの作品にどう影響してきたかをみてきた。ここからはハーンが松江に赴任してからを考えてみる。


 ハーンは出雲に来て変わった。それまでは野望に満ちたさすらいの記者だったが、来日して松江に居住し、日本文化の神髄を知るに至り、日本定住を決意した。弱い人間の魂を救済する仏教、大自然と共生する神道、この神仏共存の世界が、以後ハーンの作家生活のバックボーンとなった。(芦原 伸 著『へるん先生の汽車旅行―小泉八雲、旅に暮らす』)


 『怪談』の誕生は、この松江時代の採話活動なしには考えられないと思います。(100分de名著「日本の面影」)


 私はやはり、日本体験の原点である松江と出雲の存在が大きかったと考えています。古代の神々たちの聖地であり、人々の暮らしの隅々にまで信仰が生きていた出雲は、「ゴーストリーなもの」と交信する八雲にとって、理想的な土地でした。また、彼が日本的な美しいものや日本人の誠実な心といった、美質に触れることができたのも、松江でした。(100分de名著「日本の面影」)


 ハーンは言う。


 神道の神髄は、書物の中にあるのでもなければ、儀式や戒律の中にあるものでもない。むしろ国民の心の中に生きているのであり、未来永劫滅びることも、古びることもない、最高の信仰心の表れなのである。
 風変わりな迷信や、素朴な神話や、奇怪な呪術のずっと根底に、民族の魂ともいえる強力な精神がこんこんと脈打っているのである。日本人の本能も活力も直感も、それと共にあるのである。(『新編 日本の面影』杵築-日本最古の神社)


 なしにろ日本人の美意識も、芸術の才も、剛勇の熱さも、忠誠の厚さも、信仰の感情も、すべてがその魂の中に代々受け継がれ、はてには無意識の本能の域にまで至っているのである。(『新編 日本の面影』杵築-日本最古の神社)


 ここには日本人のDNAに刻み込まれている遺伝子的記憶として連綿として伝わってきたものを記述している。

 ハーンは日本語の会話は片言しか出来ず、きちんとした読み書きは終生できなかった。しかし彼の周りには研究を手伝ってくれる人がいた。たとえば横浜で出会った青年僧の真鍋晃がそうで、ハーンに横浜・鎌倉から松江まで道中付き添った。真鍋はハーンのために英語の資料を収集し、行く先々で通訳を務めた。
 そして松江ではハーンの妻となった小泉節子が協力者となった。
 ここでハーンの妻となった小泉節子のことに触れる。
 ハーンは異常なほど寒がりで、松江の冬はかなり辛かった。病気でもするとますます心細くなる。しかも男一人では家事もままならない。そこで出て来るのが小泉節子である。
 節子は1868年(慶応4年)2月の松江藩の上級武士の家に生まれた。この年は激動の年でこの9月に年号も明治と改められる。松江は徳川家にゆかりが深く、新政府にひたすら恭順の意を示すことで急場をしのいだものの、新政府が次々と繰り出す政策は武士階級にとって、苛酷なものとなった。藩主はいったん知事となったが、士族はどんどん没落していく。
節子は親戚筋あたる稲垣家養女となったが、小泉家も稲垣家も没落の憂き目にあう。
 節子、18歳の時稲垣家は婿養子を迎えた。これは節子にとって結婚であるが、10歳年上の婿は稲垣家が自分の稼ぎを当てにしている状況に厭気が差し、1年も経たずに姿をくらましてしまう。
 22歳のとき節子は婿縁組を解消し、さらに稲垣家を離れて小泉家に復籍する。これも家族を救済する手段だったのだろう。そんな経済的に厳しいとき、ハーンのところに行ってみないか、という話が舞い込んでくる。報酬は悪くない。しかし20代の女が男一人暮らす家に住み込みで入るということ、しかも相手は日本人ではない。覚悟のいることだった。それでも切羽詰まった生活には変えられない。
 そして節子とハーンの同居が始まった。ハーンは優しく忠実に仕えてくれる節子をすばらしい人と思いはじめ、結婚に到る。
d0331556_06022627.jpg  ハーンとの思い出を綴った小泉節子の『思ひ出の記』がある。そこにはハーンとの日常が語られる。


 学校から帰ると直に日本服に着換へ、座蒲団に坐りて煙草を吸ひました。食事は日本料理で、日本人のやうに箸で喰べて居ました。何事も日本風を好みまして、萬事日本風に日本風にと近づいて参りました。西洋風は嫌ひでした。西洋風となるとさも賤しんだやうに「日本に、こんなに美しい心があります、なぜ、西洋の真似をしますか」と云ふ調子でした。これは面白い、美しいとなると、もう夢中になるのでございます。


 自分があの通り眼が悪かつたものですから、眼は大層大切に致しまして、長男の生まれる時でも「よい眼をもつてこの世に来て下さい」と云つて大心配でした。眼の悪い人にひどく同情致しました。宅の書生さんが書物や新聞を下に置いて俯して読んで居ましても、直ぐ「手に持つて御読みなさい」と申しました。


 ヘルンは一国(片意地気性)な気性で困った事がございました。


 <伯耆下市の盆踊りが警察から差し止められたのを聞いたとき>「駄目の警察です、日本の古い、面白い習慣をこわします。皆ヤソのためです。日本のものこわして西洋のもの、真似するばかりです」と云って大不平でした。


 ヘルンの好きなものをくりかへして、列べて申しますと、西、夕焼、夏、海、游泳、芭蕉、杉、淋しい墓地、蟲、怪談、浦島、蓬莱などでございました。場所では、マルティニークと松江、美保の関、日御崎、それから焼津、喰物や嗜好品ではビフテキとプラムプーデン、と煙草。嫌ひなものは、うそつき、弱いもの苛め、フロックコートや白いシヤツ、ニユヨーク、その外色々ありました。先づ書斎で浴衣を着て、静かに蟬の声を聞いて居ることなど、楽しみの一つでございました。


 節子はハーンの著述の協力者であったと書いた。節子はハーンに日本の昔話を聞かせる時の話しが面白い。


 私が昔話をヘルンに致します時には、いつも始めにその話しの筋をザツト申します。面白いとなると、その筋を書いて置きます。それから委しく話せと申します。それから幾度となく話させます。私が本を見ながら話しますと「本を見る、いけません。たゞあなたの話し、あなたの言葉、あなたの考えでなければ、いけません」と申します故、自分のものにして仕舞って居なければなりませんから、夢にまで見るやうになつて参りました。


 ハーンは話をあくまでも語る人その人から、その人の言葉、その人の考えから聞いた。それはたぶん話が伝わることを大事にしたのではないか。昔話というのはそうして残ったものだからだろう。そしてハーンはそんな残された話を再生していった。


 妻に繰り返し語ってもらった原話からインスピレーションを得て、物語を再創造・再構成する八雲。八雲の再話文学は、八雲の幻想的な想像力と節子の語り部としても巧みさの結晶として誕生したものといえるでしょう。(100分de名著「日本の面影」)


 八雲は、日本の古ぼけて埋もれてしまった滑稽無稽な伝説や仏教説話からうずたかいほこりを丁寧に払いおとし、その原石ともいうべき鉱脈を探り当て、磨きあげ、そこに新たな言葉の生命を吹き込みました。八雲は語り部としての才能は、この再話文学というジャンルでいかんなく発揮されたといえます。(100分de名著「日本の面影」)


 再話とは、すでに存在している古典の原典を元にしつつ、自分なりの文体で語り直した文芸作品のことをいいます。(100分de名著)


 「どう言ったらよいのかしら。表現の方法は、優秀なジャーナリストの出身だけあって、簡潔で、合理的で、リアリズムだったと思うんです。でも、心はロマンチックなものに憧れていたわ。幻想とか、耽美とか、想像の世界とか、そういうものが好きだったから」(阿刀田高著『怪談』)


 最後に芦原伸さんの『へるん先生の汽車旅行―小泉八雲、旅に暮らす』から知ったことを書き足す。

 占領統治したGHQのマッカーサーは側近ボナー・フェラーズ准将に天皇が真珠湾攻撃などの命令を直接下したかどうか、調査させた。フェラーズは限られた10日間で重要人物の調査したが、その証言は得られなかった。フェラーズは「天皇に関する覚書」を作成し、天皇を戦犯として東京裁判にかけるべきだとする国際世論に反対し、天皇を象徴天皇として置き、戦後の復旧に活用すべきだと主張する。マッカーサーはフェラーズの意見を受け入れ、天皇と面会する。マッカーサーと天皇が並ぶ写真が有名だが、その時の写真だそうだ。
 フェラーズは親日家で、ハーンの作品を耽読し、戦前小泉セツにも面会しているし、長男一雄の誕生日には万年筆を贈るほど二人と親しい付き合いがあった。
 フェラーズはハーンの書いた「神日本-解明への一試論」読み、日本人にとって天皇の存在の特殊性を理解していた。だから大袈裟に言えば、ハーンの言葉が天皇救い、戦後の日本の発展に力を貸したことになると、著者は書いている。
 さらに著者はハーンは元祖バックパッカーではなかったか。バックパッカーだからこそ、異文化に関してえつらん闖入者でなく、生活者として日本文化に接し、分け隔てなく素直に身を投じることができた。もしハーンは“お雇い外国人”として来日していれば、日本人に心を開くこともなく、日本人の心の機微を知りこともなく、数々の名作は生まれなかっただろうとも書いている。


阿刀田 高 著 『怪談』 幻冬舎(1998/11発売)


芦原 伸 著 『へるん先生の汽車旅行―小泉八雲、旅に暮らす』 集英社インターナショナル(2014/02発売)


「100分de名著 小泉八雲日本の面影 池田雅之」 日本放送協会/NHK出版 (2015/06発売)NHKテレビテキスト〈2015年7月〉


ラフカディオ・ハーン 著 /池田 雅之 訳 『新編 日本の面影』 角川学芸出版(2000/09発売)角川ソフィア文庫


ラフカディオ・ハーン 著 /池田 雅之 訳 『新編 日本の面影〈2〉』 KADOKAWA(2015/06発売)角川ソフィア文庫


小泉 節子 著 / 一条 裕子 絵 『思ひ出の記』 ヒヨコ舎(2003/10発売)


ラフカディオ・ハーン 著 / 池田 雅之 編訳 『新編 日本の怪談』 角川学芸出版(2005/07発売) 角川ソフィア文庫


ラフカディオ・ハーン 著 /田代 三千稔 訳 『怪談・奇談』 角川書店(1993/06発売) 角川文庫


by office_kmoto | 2016-11-23 06:09 | 人を思う | Trackback | Comments(0)

ラフカディオ・ハーン その1

d0331556_06134703.jpg 阿刀田高さんの『怪談』を読んでいると、とうもしっくりこないところがあった。
 もともと阿刀田さんが描く男と女の関係はうまいと感じることが少なく、堅苦しく、不自然さを感じていた。今回も同様であった。その上に朝倉恒一と日枝洋子が小泉八雲の足跡を巡るうちに自分たちの祖先を感じるという話が素直に入ってこなかった。
 ところが今回ハーンの『怪談・奇談』と『新編日本の怪談』を読んで、改めてこの本を読み返してみると、これはハーンの作品の“匂い”を感じさせるものがあることがわかる。出だしなどまるでハーンが語る物語のようだ。そこからかなりハーンの作品を意識されて書かれているのではないかと思うようになった。
 今までハーンの作品を読まずに阿刀田さんの本だけを読んでいたので、その奥にあるものがわからなかったのだ。やはり関係する本を読んでおけば、その内容の奥底までわかってくるものである。それに恒一と洋子の会話の中で出て来るハーンの作品が、「ああ、あれか」とすぐわかり、二人が言いたいこともよくわかった。


 『怪談』に収められた作品には、人間の恐怖心をたんに煽るものではなく、何か人間の根源にある存在の悲しみや孤独感、畏怖心や愛しさの情感に訴えかけるところがあります。(100分de名著「日本の面影」)


 確かに『怪談』は怖いというよりは愛情を感じる。復讐はその愛情に対しての裏切りから始まるのだ。

 小泉八雲ことラフカディオ・ハーンのことに知りたいと思っていた。それに出雲は昔から興味があった。これから書くことは、そんな興味から読んだ本で、知り得たこと書きたい。
 まずはハーンはどういう人だったのか。
 ハーンは、1850年、アイルランドの陸軍軍医、チャールズ・ブッシュ・ハーンを父に、ギリシア人の母ローザ・カシマチの間にギリシアのレフカス島で生まれた。島の名前にちなんで、パトリキオ・レフカディオス・ハーンと命名された。
 その後父チャールズはカリブ海のインド諸島に赴任し、ハーンは母ローザと共にアイルランドのダブリンに移る。ハーン3歳の時父親は帰還するが、その時には父チャールズの妻に対する愛情は冷めていた。母ローザもギリシアとは言葉も宗教も気候もまるで違う北国のアイルランドの生活習慣に馴染めず、ハーンをダブリンに置いたままギリシアに帰ってしまう。以後ハーンは二度と母親と会わなかった。
 父チャールズは昔の恋人と再婚し、ハーンをダブリンに残してインドへ赴任し、そこで病死する。こうしてハーンは幼年期から天涯孤独の人生を歩むこととなる。
 ハーンはダブリン住む大叔母サラ・ブレナンに引き取られ、1863年、13歳でカトリック神学校、ウショー・カレッジに入学。
 16歳の時、ウショー・カレッジのプレイグランドでジャイアント・ストライド(回旋塔)という遊具の綱で左眼を強打し、失明する。
 ちなみに現存するハーンのポートレートのほとんどが右半分しか写っていないのが多いのも、この時の失明が影響しているようである。
 19歳の時、大叔母サラ・ブレナンは遺産をだまし取られ破産したため、職を求めて単身アメリカへ渡る。アメリカでは様々な職業に就いたが、新聞記者で生計を立てられるようになる。
 日本行きのきっかけになったのは、1885年、ハーン35歳の時ニューオリンズ万国産業綿花百年記念博覧会の会場で日本政府派遣の事務官、服部一三と親交を結んだことと、イギリスの言語学者バジル・ホール・チェンバレンが英訳した『古事記』に感銘を受けたことによる。


d0331556_06282966.jpg ここに一枚の絵がある。
 1990年(明治23年)4月4日、ハーン40歳の時、横浜港に降り立つ。同行者は画家のC・D・ウェルドン。ニューヨークに拠点を持つ<ハーパー・マンスリー>誌の記者として日本についての見聞を記し、ウェルドンがそれに絵を添えて送ることになっていた。
 この後ろ姿の男がハーンである。同行者のウェルドンが描いた。どこか不安を感じさせる後ろ姿であるが、実はわくわくしていた。ハーンの『日本の面影』の「東洋の第一日目」に次のようにある。


 まるでなにもかも、小さな妖精の国のようだ。人も物もみんな小さく、風変わりで神秘的である。


 横浜に着いた翌日には帝国大学で教鞭を執っていたチェンバレンに日本での仕事の斡旋をしてもらうため手紙を書いている。
 一緒に同行したウェルドンより自分の契約条件が悪いことを不満に思って、ハーパー・アンド・ブラザーズ社の雑誌の特派員の契約を解除してしまったのだ。
 そしてチェンバレンの仲介で、島根県尋常中学校、同師範学校(現在の島根県立松江北高等学校、島根大学教育学部)の英語教師として赴任する。
 そして松江を1891年11月に離れ、熊本、神戸、と移り、最後は帝国大学の講師の職を得て東京に落ち着く。1904年9月に亡くなるまで14年間、ハーンは日本を離れなかった。

 ここからいろいろなことがわかってくる。
 まずはハーンの出自である。アイルランドとギリシアの血を引くハーンは、子供の頃に乳母からアイルランドの民話や民謡を聞かされたり、生き別れた母とつながるギリシア文明に強い憧れを抱いたりした。
 アイルランドもギリシアも古くは多神教の世界で、ハーンは、あらゆる自然に神々が宿る日本の神道に、抵抗なく共鳴できる素地があった。
 阿刀田高さんの『怪談』でも恒一と洋子は、ハーンの生い立ちにある「母から聞いた物語」、「ケルトの民話」、「ギリシア神話」、「カトリックの中にあるまがまがしい邪悪な悪魔の物語」は後のハーンの作品に大きな影響を残していたと想像する。
 さらにハーンの怪談にある「むじな」の<のっぺらぼう>には、「存在すべきものがそこにない」というハーンの内なる不安、つまり母が傍にいないという、<対象喪失>のトラウマを象徴しているものと考えられるという。


d0331556_06153602.jpg 「あるべきもの(目や鼻や口)が顔にない、いるべき人(母)が傍にいない」という喪失感と恐怖が、彼の文学の根底に流れているのです。(100分de名著「日本の面影」)


 「雪女」や「青柳ものがたり」も同じで、


 思いを寄せる美しい女性(実は精霊)が突如消失するという恐怖感は、生母の突如の失踪という、八雲の痛ましい幼年期の体験とからみあい、彼の作品で反復される基調となっている。八雲の文学は対象喪失の文学といわれるゆえんです。(100分de名著「日本の面影」)


 さらに左眼を失明したこと(右眼も強度の近視)により、音に対する敏感さをハーンは持った。実際『日本の面影』を読んでいると、生活の中に起こる音の記述が多いことに気づく。


 八雲の作品には「耳の文芸」といわれるほど聴覚でとらえたものの記述が多く、『日本の面影』においてもその特徴は顕著です。(100分de名著「日本の面影」)


 100分de名著には面白い考え方が書かれている。
 「見る」という行為は、自分を主体とするが、「聞く」という行為は、自分以外の人や物が主体となり、彼らが声や音を発する環境に自分の身を添わせ、そこに没入するということになる。だからこそ、ハーンは日本から感じ取れたことが他の西洋人と違いがたくさんあったというのである。
 なるほどそうかもしれない。

 とにかくハーンは日本に来た。ハーンの著作に、1890年4月の来日から教師生活を送った松江を1891年11月に松江を離れるまでの1年7か月にわたる濃密な日本体験が綴られている『日本の面影』がある。


d0331556_06170127.jpg


d0331556_06222027.jpg ただハーンは明治政府のお抱え外国人ではなかった。芦原伸さんの『へるん先生の汽車旅行―小泉八雲、旅に暮らす』に次のようにある。


 このとき、ラフカディオ・ハーンは四〇歳の一介のルポライターにすぎない。
 ハーンといえば松江の英語教師で、明治新政府の“お雇い外国人”というのが今でも一般的な理解だろう。しかし、ハーンは政府から招聘された正式の“お雇い外国人”ではなかった。日本の珍聞奇談を原稿にして売ろうとしてやってきた。“押しかけ外人”であり、むしろ“経済難民”に近い立場だった。


 彼の来日目的は、記事を書いてアメリカの出版社に売ること。“賞金稼ぎ”ならぬ“原稿稼ぎ”であった。


 池田雅之さん編訳の『新編 日本の怪談』のあとがきには次のようにある。


 少し極端にいいますと、ハーンの一生は怪談話を拾い集めるハンティングと記録(創作)の旅だったといってもよいかと思います。


 「根っからのボヘミアンだったでしょ。一つのところに長くいられないわ」


 これは阿刀田さんの『怪談』で日枝洋子が言った言葉であるが、この間のハーンの経歴を見ていると、そうとも言える。ただこの間にハーンに起こったが、彼が書いた日本の出来事、採取した話に大きな影響を与える。
 『日本の面影』にあるのは、日本の本当の良さというものは庶民の中にあり、当時西洋化を急いだ明治政府に対し、キリスト教と西洋文明批判をする。そのハーンの姿勢は、幼い頃厳格なカトリック神学校での生活に疑問を持っていたことから始まる。
 世界は唯一絶対神だけではないことは、父の出生がアイルランド、母がギリシアという多神教の世界が何らかの形でハーンに影響を及ぼしていると考えられる。だから八百万神がいる日本はハーンにとって魅力的な国に映った違いない。


 日本人の生活の類いまれなる魅力は、世界のほかの国では見られないものであり、また日本の西洋化された知識階級の中に見つけられるものでもない。どこの国でもそうであるように、その国の美徳を代表している庶民の中にこそ、その魅力は存在するのである。その魅力は、喜ばしい昔ながらの慣習、絵のようなあでやかな着物、仏壇や神棚、さらには美しく心温まる先祖崇拝を今もなお守っている大衆の中にこそ、見出すことができる。 (『新編 日本の面影』はじめに)


 『日本の面影』には、ここ百二十年ほどで日本が失ってきたものが克明に書き留められています。それは、近代化の波に飲み込まれる直前の、慎ましくも誠実な生活ぶり、美しい自然、暮らしの中に生きる信仰心などです。(100分de名著「日本の面影」)


 さまざまな文化を経験してきた八雲は、異文化に対してやわらかく相対的な、独特の視線を持っていました。「上から目線」ではなく、むしろローアングルの視点で、いろいろなものを丹念に見、聞き、それらに共鳴したのです。(100分de名著「日本の面影」)


 ハーンの記述した風景を書き出してみる。


 旧暦の七月十三、十四、十五日にあたるお盆の三日間は、いつでもこのように海が荒れると言われる。そして、十六日に精霊舟を流してしまうと、もう誰も海には入らないのだ。舟を雇うこともできず、漁師はみな家にいる。というのも十六日の海は、死者が海を越えて黄泉の国へと帰ってゆく、その道と化すからだ。そのため、その日の海は「仏海」と呼ばれている。それに七月十六日の夜は、海が静かだろうと荒れていようと、広い海へ滑り出ていく死者のほのかな光で、海面がちらちらきらめくという。また、遠い都会の喧噪のような聴きわけがたい死者のつぶやく声が聞こえてくるという。(『新編 日本の面影』日本海に沿って)


 今日は過去のどれだけの代償の上にあるのか、それを示す不吉な証人であるこの無数の墓石の群れは、何百年もの長きにわたってそこに立っているため、浜から吹き上げる砂で元の形もわからなくなるほどすり減り、刻まれた文字もすっかり消えてしまっている。こうして今私たちが通り抜けている所は、大地が誕生したときから、この風の吹きすさぶ浜に暮らしてきた人々が、ことごとく埋葬されている墓地の中にあるかのようだ。(『新編 日本の面影』日本海に沿って)


 ねんごろな母親の祈りの姿を見ているうちに、私は私自身の生命の神秘のうちにひそむ、何かおぼろげな蠢くものを感じた。それは、遠い先祖の記憶、二千年も昔に忘れられていたような感動が甦ったかのように、曖昧だが名伏しがたい親しみのある何かであった。その感情は、太古の世界について私の茫漠とした知識と妙に混ざり合っているように思われたが、私の家の神々もまた、愛する死者たちであった。古代ローマの家庭の守護神、ラレースが投げかけた影のように、この家の仏間には、霊妙な美しさが漂っていた。(『新編 日本の面影〈2〉盆市)


 日本人の生活には、いかなるプライバシーも存在していない。西洋的な意味におけるプライバシーは、日本人の間にはないのである。他人と自分との生活を分かつものがあるとすれば、紙一枚の壁があるだけである。扉の代わりに左右に開く襖があるだけで、人々は日中は鍵も錠もかけたりしない。
 天気はよければ、家の正面も側面も開け放たれており、家の内部は広く外気や光線や人の眼にさらされている。金持ちさえ、日中は家の表門を閉ざしたりしない。一般の民家でも、部屋に入る前にノックする者などいない。障子や襖しかないのだから、ノックのしようもない。ノックをしようとすれば、たちまち襖の紙は破けてしまうだろう。
 この紙の壁と陽の光の世界では、仲間のうち男女はお互い気を使ったり、恥かしがったりすることもない。どんなささいな行いでも、一応は公のものとされてしまう。個人的な習慣や性癖(もしあるとするならの話だが)、欠点や好悪や愛情などは、たちまちみんなの知るところとなる。個人の悪徳も美徳も、隠しようがない。そういったものを隠すべき場所は、絶対にないのである。
 日本ではこうした状況が、大昔から今日に至るまで連綿と続いてきたのである。少なくとも何百万人もの人々は、人に見られないで生活するなんて考えられないことであった。日本人の生活が快適に楽しく続けられているのは、生活に関わるあらゆる事柄が、地域社会の人々の眼に開かれているからである。ということは、日本には西洋にはありえないような、例外的な道徳的条件が備っていることを意味する。
 日本人の性格に潜んでいる驚くべき魅力とは、庶民の無垢な善良さ、生まれながらの礼儀正しさである。こうした日本人の特性は、批判や嘲笑、皮肉や当てこすりとは無縁なものであることを経験上知っている人たちだけが、この事実をよく理解している。
 ここでは、仲間を貶めておいて、自分の立場をよくしようとする魂胆をもった輩はいない。自分自身を実際より偉く見せようとする者もいない。そんなことをしたところで、日本の地域社会ではまったく無駄なことになるだけだ。ここでは、誰しも隠しだてしたり、自分をごまかしたりすることはできない。またわざとらしく気取って振る舞ってみたところで、ちょっと頭がおかしくなったのではないか、訝しがられるだけである。(『新編 日本の面影〈2〉伯耆から隠岐へ)


 1890年8月28日、松江に赴任する道中、ハーンは鳥取県の上市(うわいち)に投宿する。そしてその夜盆踊りを見学し、惹きつけられた。


 では、盆踊りの何がそれほど八雲を惹きつけたのでしょうか。盆踊りとは、亡くなった人の霊を呼び、その霊とともに踊り手が踊るものです。そうすることで死者と生者が交わり、交流する。あるいは、死者と生者のあいだに何か霊的な照応が起こるといってよいでしょう。八雲は盆踊りを見ているうちに、それを体験したわけです。(100分de名著「日本の面影」)


 ハーンは言う。


 そもそも、人間の感情とはいったい何であろうか。それは私にもわからないが、それが、私の人生よりもずっと古い何かであることは感じる。感情とは、どこかの場所や時を特定するものではなく、この宇宙の太陽の下で、生きとし生けるもの万物の喜びや悲しみに共振するものではないだろうか。(『新編 日本の面影』盆踊り)


 人間の感情とは場所や時に関係なく、そして日本人でなくても、あるものを見たとき万物に共振するものではないか。ハーンは日本を旅しながら、日本人の中に深く入って、その魂の示すものを感じていく。


 八雲は生者と死者との霊的な交流である盆踊りに強く感情を動かされました。そこで、私は、この生者と死者のあいだにあるもの、「霊的なもの(ゴーストリー)」とは何かを理解することが、彼の文学を読み解く一つの鍵になると考えています。(100分de名著「日本の面影」)


 八雲の文学は、彼の魂とあらゆる存在物(超自然的なもの、自然や動植物、人間など)の内に宿る「霊的なもの」との響き合い、その照応によって生まれたものといえるでしょう。(100分de名著「日本の面影」)


 それはDNAに刻まれた遺伝的記憶として連綿として伝わってきたもので、自分の記憶の中に、自分が体験したはずのないことが含まれている。たとえば二歳までしかいなかったギリシアの島々の風景など鮮やかに脳裡に浮かぶ。
 精神世界の出来事までも形質の遺伝と同じように、記憶も遺伝する。親から子へ、子から孫へと遺伝する。ハーンはハーバード・スペンサーの影響を受け、先祖のおびただしい経験が記憶となって個人の中に再現される、と考えていた。
 この考えが阿刀田高さんの『怪談』にも使われている。恒一と洋子がハーンを巡る旅をしているうちに、自分たちの祖先を巡る旅でもあったのではないかと思い始めたことは、決して無理のないことだったんだということである。それはハーンが旅を続け、日本人の魂(100分de名著の解説者はそれをゴーストリーと言う)に触れ、そこに自身にも共振するものを感じたものと同じである。それは庶民の生活の中で培われてきたものであり、それが遺伝子的記憶として我々の心の奥底に残されていったものである。ハーンの残した作品にはそうした遺伝子的記憶が書き残されているため、ハーンを巡る旅をした恒一と洋子は、それらを感じることで自分たちの祖先の心にもさかのぼっていったのである。


 この一年間、多くの時間を費やして小泉八雲の生涯をたどり続けてきた。この数日は日枝洋子の出自にたっぷりと思いを馳せた。小泉八雲は霊魂の存在を信じ、先祖のおびただしい経験が記憶となって個人の中に再現されると、考える人であった。洋子もまた同じように思案して自分の中に語り部の記憶を感ずる人であったらしい。(阿刀田高著『怪談』)


 -血の中の記憶-
 それがつきづきしい。
 父の記憶。ここで暮らした先祖の記憶。それが恒一の中に伝承されているのではないのか。洋子と一緒に小泉八雲を捜した一年は、自分の中に流れる記憶を知る旅路であったのかもしれない。(阿刀田高著『怪談』)


(書誌に関しては次回に掲載)


by office_kmoto | 2016-11-21 11:22 | 人を思う | Trackback | Comments(0)

田辺 茂一 という人

 もう少し田辺茂一という人のことを知りたくなった。それで田辺さんの書いた本、『わが町新宿』と立川談志さんの書いた『酔人・田辺茂一伝』という本を選んで読んでみた。
 いずれも退屈な本で、なかなかページが進まなかった。しかも思っていたより田辺茂一という人物像が読みとれなかった。そういう意味ではセレクトに失敗したかもしれない。
d0331556_5354934.jpg まず田辺さんが書いた、『わが町新宿』から書いてみたい。
 この本はサンケイ新聞に連載されたものを1冊の本にしたもので、その後旺文社文庫に収録され、今回読んだ本として紀伊國屋書店で出版されている。(紀伊國屋書店版には附録として「紀伊國屋書店と私」として、田辺さんや紀伊國屋に関わりのある著名人の思い出話も掲載されているが、これがさらに退屈であった)だから“お行儀がいい”本となってしまっている。新聞に連載され、学習参考書を出している出版社から文庫として出て、さらに自分のところの出版社からまた復刊されるとなれば、そうそう悪行は書けまい。
 田辺さんは紀伊國屋書店の社長でありながら、自称「夜の市長」と言うくらい、昼と夜の顔がまるっきり違う人であることは有名である。私はどちらかと言えば、その夜の顔の一端を見てみたかったのだが、それは見ることが出来なかった。強いて興味があったのは、田辺さんが生まれた明治の終わりから大正時代の新宿の風景であった。


 新宿停車場は、明治十八年の創設だが、最初は野州(栃木県)の薪炭を集散するための貨物駅として発足したためもあって、雨に日などは、乗降客が一日一人という日もあったと伝えられている。
 停車場付近の沿線沿いに、私の生家と同様の薪炭を商う問屋が、二十数軒あったが、今日では、みな姿を消している。
 新宿の中心は、むかしは四谷寄りの甲州・青梅の街道の岐れる追分付近であったが、その追分から、大木戸(現在の新宿御苑前)まで、通りの両側に、宿場新宿の名残りとどめて層楼のお女郎屋が並んでいた。



 大正の初めには、


 そのころの新宿を諷した狂歌には、女郎と馬糞で、新宿を象徴しているものが多い。その馬糞のはなしだが、朝未明、甲州・青梅の街道筋の百姓さんたちは、神田の青物市場まで行くのであろう、野菜を一杯籠につめて、車を引っぱって通る。
 そして、帰りには、その朝の野菜の同じ籠に、通りの端の馬糞を拾っていくのである。同じ車に、野菜と肥桶と一緒のときも、しばしばである。肥桶からは、汁もたれているのである。子供心に私は、不衛生もいいところだと思った。
 親類筋が荻窪の大宮前にあったが、私の家の汲取代のお礼に、歳末には、百姓さんのほうから、沢山の餅や野菜を貰ったものであった。
 汲取代が、今日とは逆さになっていたのである。
 とりわけ新宿には馬糞が多かったのは、停車場付近に、薪炭問屋が沢山あり、荷馬車が多かったせいである。


 この紀伊國屋版にはサンケイ出版版と旺文社文庫版の田辺さんによるあとがきが掲載されている。
 その旺文社文庫版のあとがきの最後に次のようにある。


 最近の私は、病気、人生の頓挫が思わぬ儲けものとなり、かなり落ちついた生活に這入った。散らかっていたものも、整理できるようになった。自分だけの生活、人間嫌いの一時期のあるのは、本当の生活だと思うようになった。もう二、三年で、八十だが、これからが面白いのだ、という予感が、私にはある。

 立川談志さんの本を読んでいると、田辺さんの交友の広さを知ることができる。この人、人を拒まない(あるいは拒むことが出来なかった)人生を過ごしてきたんだなあと感じてしまう。きっとそれはやはり大変だったのだろうと思う。だからこんな文章を書いたのではないか。そう思ってしまう。
 この『わが町新宿』にも、軽荷主義と称して、「万端簡素に、よけいな莢雑をとり除いて生きて生きたい。それを念願としている」と書いている。やはり行き着くところこれが本音だったのではないか。
 あとがきは「東京のさる病院の一室にて 田辺茂一」と記して終えている。坪内祐三さんの解説によると、この二ヶ月後田辺さんは亡くなれたそうだ。

d0331556_537818.jpg 立川談志さんの『酔人・田辺茂一伝』は読みづらい本であった。これは田辺さんのことを書いた本なのだろうか、と思えるほどだ。もちろん田辺茂一という人のことを書いてはいるけれど、この本は立川談志さんが自分の交遊録を「整理」するための本であり、その中心に田辺茂一がいるということだとわかってくる。


 ここに書いてこととて、その通り。処理の一つなのである。人生、この節、すべからく処理ではないかと思い始めた。仕事を処理して、子供を処理して、自分を処理して、それでお終いか。
(略)
 田辺先生を片付け、友人を片付け、友人達を順に片付けるという名目で、それらを文章にし、ヤクザの友人も書いた。


 それでも立川談志さんが田辺さんのことを書いているのだから、田辺さんの夜の顔が見ることが出来るかと思っていたが、確かに夜の豪遊は書かれているものの、その遊びの裏にある田辺さんの悲しみを感じさせるものが書かれていた。


 世間でいわれている如く、まったく昼と夜の顔の違う人物で、何で、あんなに変えるのか。物事何でも理由のある事だからナニかがあるのだろうし、“ナニかがあった”ことは確かなのだが、そのナニかがナニか、判らナイ。先生の昼間のあの顔を称して仏頂面という。


 一度社長室に何気なく寄った時に寝てござった。
 「何だァ、昼間寝ているから夜元気なんだ」
 「いろいろ秘密はある」とサ。



 「俺がだらしない、と思っているから社員が一生懸命やるンだ」とは本音とは思われないが、そう思わせる部分があったから、この行為は成功していたとするか・・・・・。


 照れでもなかろう、いつもの通りに振るまっていた、というのかしら。あの“ガァーッ”と駄洒落で己自身をカバーしていたのか。ガードしていたのか・・・・・。


 作家にもなりたかったろうが、田辺茂一を理解し、作家として理解した奴は居なかった。で、仕方なく先生、金があったから、とりあえず彼等のスポンサー、とこうなったのではないかしら・・・・・・と私は読んでいる。


 作家に憧れながら、文士達はそれを認めてくれなかったし。そこで、己を認めさせるのは、事業の成功であり、名門紀伊國屋・田辺茂一であったろうが、それは“相手は認めたくないし”ということは当然判っているし。ならつき合わなければいいのに、そうもいかないし。つまり、不愉快。
 不愉快となりゃ、人間、色と酒。行くところは決まっている。昼の顔が成功すればするほど、文学を趣味に集まる連中と合わなくなる。せいぜい合わせられるのは、お旦那としての顔だけであろう。
 そのお旦那としてバカにしている人に、スポンサーになって貰おうと行く文士どもの非道さも、田辺先生は十二分に知り尽くしていた。



 立川談志さんによれば、田辺さんの夜の顔の裏にある悲しみはこういうことであった。田辺さんが作家に憧れていたのかどうか知らないが、自分の好きな「本屋という景色」を維持するために、田辺さんは沢山の作家のパトロン的存在となっていったし、その場提供してきた。交友もそのためにあったのではないか。「夜の市長」とか言われても、そうでいなければならなかったところがあったのかもしれない。
 立川談志さんは「まぁ、いい人とは己にとって都合のいい人のことをいう」と作家梶山季之さんが言ったこと書いているが、田辺さんの周りにいた人はこういうことであったろうし、田辺さんも自分のために誰にでもいい人でなければならなかったのではないか。そんな気がしてしまう。
 そして談志さんは「“いい人は早く死ぬ”、当たり前だ、自分のことより相手の気持になって行動してくれるもん、身体がいくつあっても保つもんか。何せ、あの交際範囲だ。厳しくいっちまえば、それをしないと当人も不安なのだろう・・・・・」と書く。


田辺 茂一 著 『わが町新宿』 紀伊国屋書店(2014/11発売)


立川 談志 著 『酔人・田辺茂一伝』 講談社(1994/07発売)
by office_kmoto | 2016-07-06 05:41 | 人を思う | Trackback | Comments(0)

日付を忘れた写真2

 写真は趣味であった。だから写真は撮りまくっていた。
 もともとアルバムには写りの良いものだけを貼っているものだから、ボツになった写真が写真屋でもらったポケットサイズのアルバムに数多く残っている。
 子供たちがまだ幼い頃、私は大手町の当時第三合同庁舎といっていた地下売店にある10坪ほどの本屋にいた。その売店は役人の福利厚生のために、様々な業種のお店が入っており、私がいた本屋も役人のための本屋であった。正面には写真屋さんがあり、休日撮った写真をそこに出して、現像してもらった。お店同士のやりとりだから、安い値段で現像できたのも、写真の枚数を増やした。
 当時写真はフィルムをを現像してもらい、そこに写っているすべてが写真として現像された。だから写りのいいものもあれば、悪いものもある。そこからお気に入りの写真だけをアルバムに貼っていた。どちらかと言えばそうした写真は少ないかもしれない。だからアルバムに貼れない写真が数多く残っていく。
 厄介なことに写真というのはどんな写真でも一度現像された写真は簡単に捨てることが出来ないものである。ダンボールに入っている私が撮った写真はそうした当時処分できなかった写真ばかりであった。
 ただアルバムに貼られなかった写真は当時としてはボツになった写真であるが、今になるとよほど写りがひどい写真でなければ、なんでこれがボツになったんだろうと思える写真が数多くある。まあすべてをアルバムになっていたら、それこそアルバムが膨大な数になってしまうので、そうするしかなかったのだろうが。
 そこに他の父兄から子供たちが写っている写真を数多くもらっている。今のように写真をファイルとして携帯やパソコンで簡単に送れる時代ではなかった。すべて写真という形で残され、渡された。
 思えば当時の親たちは律儀で、お互い撮った子供たちの写真をそれぞれ焼き増して、封筒に入れて渡していたものだ。その形跡が、封筒に書かれた子供たちの名前にあり、そこに娘や息子の写真が数枚入ったままで残されている。
 
 写真の整理はまず当時ボツとなった私が撮った写真をポケットアルバムから取りだし、他の親からもらった写真を封筒から取り出していった。ポケットアルバムは手軽で便利なのだが、このように長い年月が経ってしまうと、写真にセロファンが貼り付いてしまい、取り出せなくなるし、取り出してもセロファンがひっついてしまい、写真がひどい状態になってしまうことがわかった。だからきちんと取り出して、保存した方がいいようである。
 ネガも同様にたくさん出てくる。これはもう処分することにした。いまさら焼き増しすることはないだろう、と思ったからだ。焼き増ししたければ、写真をスキャナーで読み込んで、プリンターで印刷できるからだ。それとどうしようもないピンぼけ写真などは裁断する。
 さらにそこに学校での行事で撮った集合写真も数多く残されており、それも個々に振り分けていく。
 問題は写真が撮られた日付である。私のカメラは日付がプリントされない。ただ他の父兄からもらった写真には多くが日付が入っている。日付がなくても封筒に入った写真には、丁寧に日付など書かれているものもある。集合写真にも日付が入っているので、これを目安にして整理していく。それらをベースにして振り分けた写真を年代別、学年別、あるいは学校別に分けていけそうである。それでもいつ頃の写真かわからないものも出てくる。それらはおおよその感じでこの時だろう、と推定していった。

 こうしてまとめられた写真をアルバムに貼っていくのだが、いくら絞り込んでもかなりの枚数がある。これらをすべてアルバムに貼ることはできない。集合写真以外はセレクトして枚数を絞る。問題は最初からボツにされた写真と、今回はじき出された写真である。これをどうするか。
 ネットで私みたいに写真の整理に困っている人がいて、その人のブログを読んでいたら、アルバムに貼れない写真は、カテゴリー別に分けて、それを箱に入れてまとめておくことが書かれていた。
 これはいいや、と思い採用する。ただ、箱入れてしまったら今までと同じことになってしまうので、100円ショップでプラスチックケースの小さいものを買ってきて、そこに入れておくことにした。ケースには見出しを貼り付けておく。引き出し式なのですぐ取り出せるから、しまい込むよりはいい。これならいつでも簡単に見ることができる。

 こうして時間が止まってしまったままでいた子供たちのアルバムに、また時計の針を動かすことになった。

 長男の写真が幼稚園の頃からほとんど貼られていなかった。ひどいものである。だからこの三日間かかりっきりで、アルバムの時計の針を進めた。500枚くらいの写真をアルバムに貼っていった。
 出来上がった長男のアルバムを眺めていると、涙が出てくる。なんできちんとアルバムを作ってあげなかったのか、申し訳ない気持ちになってきた。アルバムを眺めているうちに茫然としている自分がそこにあった。ここにも取り戻せない時間を実感する。
 折り返しをとうに過ぎた私の人生は、こうしておろそかにしてきた時間をどうやって修復するか、そればかりを考えてしまう。いったい自分の生き方を押し通したきたことで犠牲にしてきた時間を、どうすればいいんだろうか。
 どうにもならないのかもしれない、と思いながらアルバムを閉じた。

 続いて長女のアルバムの時計を進める。長男ほどの枚数ではないけれど、それも200枚くらいはアルバムに貼っていた。
by office_kmoto | 2015-06-29 18:07 | 人を思う | Trackback | Comments(0)

日付を忘れた写真

 仕事を辞めてからやらなければならないと気にしていたことがある。それはいくつかあって、やったものもあるし、手をつけずに尻込みしているものもある。
 そのひとつが子供たちの幼い頃の写真整理だ。

 長女や長男が生まれてしばらくの間はこまめに写真を撮り、それをアルバムに貼っていたが、いつの頃からやらなくなってしまった。それは子供たちが写真を撮られることを嫌がる年齢の頃からではないかと思う。多分その頃に写真を撮ることをやめたはずだ。だからアルバムにきちんと整理されている子供たちの写真は、長女が小学生高学年になるまでしかない。
 以後時たま撮った写真や、他の父兄からもらった写真と、学校での行事の写真、あるいは集合写真がたくさんダンボールに詰め込まれたままになっていた。
 子供たちの写真を撮らなくなった理由は子供たちが写真を撮られることを嫌がったからだけではない。私にも事情がある。仕事に追いまくられ、家族サービスを放棄してしまった頃がちょうど子供たちが写真を撮られることを嫌がった頃と重なる。この頃、私の中で仕事がすべてになってしまったのだ。以後会社を辞めるまでそれが続いた。
 そうしているうちに子供たちは成人となり、長女は結婚し、子供が生まれる。私にとって孫が生まれた。子供たちの写真を撮ることが出来なくなっていた。
 それでも会社で仕事をしていれば、それが言い訳にもなって済んでいたが、自分の全人生かけてきた会社を放り出されれば、言い訳も出来なくなってしまった。それにそうした自分のこれまでの生き方を全否定される自体になってしまえば、逆にこれまでの生活態度に疑問を持つことになってしまった。
 この一年半、自分の人生の半分以上使ってしまった私の会社人生は、結果として不毛に終わり、取りかえしのつかないものであったことを実感してきた。仕事を理由に家のこと、家族のことを何もしてこなかったことを改めて気づかされた。だからこの間、できる限り家のことを関わるようにした。元々不器用なので、それがすんなりと出来たとは思わないが、出来る範囲内でやって来たつもりである。ただ子供たちの写真に関しては、アルバムが途中で止まっていることが、ストレートに家族のことを何もしてこなかったということに繋がってしまい、手が付けられなかった。
 でも気になってはいた。いつかちゃんと整理しなければいけない。私は親として子供たちに何もしてやれなかったことを直視する責任がある。私には家族を蔑ろにしてきたという意味でもっともっと苦しまなければならない罪がある。
 たかが写真の整理じゃないか。そんな大袈裟なことではない、と思われるかもしれないが、私には自分が何もしてこなかったことの一端を突きつけられているのと同じことなのである。それを再度自覚するためにも、子供たちの写真の整理をしなければならないのだ。それは贖罪とかいうことではない。それは今の私にとってしなければならないことの一つなのである。
by office_kmoto | 2015-06-28 06:22 | 人を思う | Trackback | Comments(0)

意味のない職歴書2

 在職中、会社を辞めた元同僚が私のいる事務所に訪ねてくれることは少なかった。もっとも私の元同僚の大半は私同様会社を辞めさせられていった人たちだったので、会社に良い感じを持っていなかっただろう。ちょっと近くに来たから訪ねてみようなんて気持ちなど起こらなかったに違いない。でも本当に稀に元同僚が訪ねてくれることがあって、その時はうれしかったものである。だから彼らのことを思うと、どんなに会社が小さくなっても存続していたい、と思ったものであった。その思いは経営者以上持っていた。そのための仕事なら何でもしたいとさえ思っていた。会社に愛着があるんじゃない。辞めていった彼らの存在意味を少しでも残してやりたかったのである。それが生き残った者の仕事だと思っていた。いい意味でも悪い意味でも、彼らに「ここにいたんだよな」という存在証明みたいなものを確保しておくべきだと思っていた。
 ところが経営者は違った。自分の身の保全ばかり考える人間で、従業員のことなどどうでもいい、と思う人間であった。だから会社の存続のために切られていった同僚たちの口惜しい思いなど考えもしなかった。そもそも会社の存続のためではなく、自分のお金が減っていくことが耐えられなかったから、人を切ってきた人間であった。もともと経営者の器でなかったのである。
 このスタンスの違いが私と経営者の確執になっていき、最後は自分が切られた。ある意味当然である。

 できれば秋葉原にはよく行くので、差し入れを持って訪ねていけるような退職でありたかった、と思う。そこにかつて自分がいた会社があったという“より所”として、あって欲しかった。だって30年以上もそこにいたんだから、そう思っても仕方がないじゃないか。
 でも訪ねることはできなかった。だからときたまかつての同僚が管理しているホームページを眺めたりしていた。ところがこのホームページがアクセスできなくなった。
 もともとこのホームページは同僚が個人で管理してしたものである。だからここにアクセスできなくなったということは、同僚がここから離れた可能性がある。
 そして買収した側の会社のホームページにアクセスすると、支店として名前が出ている。つまり自分がいた会社が完全に吸収されてしまったのだろう。
 会社を買った社長さんは経営者にかなりぼったくられたと嘆いていたが、その支払いが終わったため、会社が自分のものになったので、晴れてここに名前を載せたのだろうか。
 いずれにしても私がこだわってきた“より所”が完全に消えたことになる。しかしいつまでも“より所”の存在であってほしいと願う方が馬鹿なのであり、むしろこれでいいのかもしれない、と思う。さっさと忘れちゃえばいいのだけれど、意味のない職歴書を書いていたものだから、そんなことを思ったのだ。
by office_kmoto | 2015-06-27 10:26 | 人を思う | Trackback | Comments(0)

意味のない職歴書

 南木佳士さんの『臆病な医者』に次のような文章がある。


 私が病院で相手にしているのはほとんどが老人患者さんたちである。老いることによって、金を稼ぐだとか、他人より地位が上であるといった世俗的価値観から自由にならざるを得なくなった人たちである。
 もちろん、なかには以前身に付けていた価値の衣装をうまく脱げないまま老いてしまった人もいて、なんとなく気の毒になる。こういう人たちが若い者に意見したがる。やれ、昔の若者はもっとしっかりしていた、だの、嫁たるものが夫の両親の面倒をみるのはあたりまえだ、などと。(信州における定点観測)


 ここにある「以前身に付けていた価値の衣装をうまく脱げないまま老いてしまった人」というのは、自分自身に感じたことがあった。それは職歴書を書いていてたときに感じたのである。
 話はちょっと変わるが、以前ちょっとかじったことがある雇用保険法に、失業の定義が書かれている。そこには、「離職し、労働の意思及び能力を有するにもかかわらず、職業に就くことができない状態にあることをいう」となっている。つまり働く意志があることが最前提で、その間働けなかったら、失業給付を支給しましょう、というのが法律の主旨だ。だから去年の私みたいに、失業給付だけをもらって、働かないというのはルール違反となる。そういう私みたいな人間がいるので、失業の認定をもらうとき、就活を二度以上していることを確認される。
 その際の就職活動とは実際に履歴書など持って会社に行くことはもちろん、そのための準備として、カウンセリングやセミナーを受けることも就活をしたことにカウントされる。そこで私は逃げ道として、それらを受け、就活を二度したことに利用した。
 そのセミナーとは、履歴書の書き方、職歴書の書き方、面接の受け方などで、もちろん私はまともに聞いていない。ただ出席しただけであるが、それでもそこにいれば嫌でも耳に入ってくる。
 だいたい履歴書など人のを見ることはあっても自分のは30年以上も書いたことがない。ましてや職歴書は、履歴書を書いた当時仕事をしていなかったし、以後同じ会社にずっといたのだから一度も書いたことがない。
 で、耳に入ってきた言葉が「自分の棚卸し」というものであった。つまりそれまでしてきた自分の仕事、その内容をこと細かに書きだしてみるということである。それが「自分の棚卸し」と言うのである。うまいことを言うもんだとその時思ったものだから記憶に残っていた。
 話はさらに脱線するが、この就活セミナーの変わったところがある。携帯電話である。セミナー中はマナーモードにしておくことはもちろんだが、普通のセミナーと違うところは、電話の呼び出しがあったら、たとえセミナー中でも席を立って電話に出て構わない、と最初にことわりがある。つまりここに出席している人間は就活中なので、その電話が求人している会社からの電話かもしれないからだ。
 それとシニアの履歴書の書き方で、必ず書き入れることは、健康状態のことである。「健康状態は良好」だけでなく、どのように健康に気を使っているか、たとえば「毎日一万歩歩いている」といった具体性を持って書きなさいというのだ。歳を取ったシニアを雇い入れる場合、その人の健康状態が気になるからだという。ヨレヨレを雇っても困るからだ。
 さて、職歴書の話である。まともにセミナーを聴講していなかったが、テキストがあるので、それを参考にして書いてみた。
 書いてみたが、そのうちこれは一体何なのだろう、と思うようになった。偉そうなことを細かく書き込んだことは、在職中では当たり前のことである。小さな会社だから何でもやって来なければならなかった。
 その自慢でもなんでもないことが、職歴書に書いていると、まるで自分が特別なことをやって来たように見えてしまう。これは「以前身に付けていた価値の衣装をうまく脱げないまま老いてしまった人」である。こんなもの読まされて、雇い入れる側はうんざりするのではないか、と思えてならなかった。
 そもそも自分が長いこと勤めてきた会社人生に疑問を持ってしまっているので、正直なところこんな職歴など役に立たないと思っているのである。
 自分のこれまでの職歴を自信一杯に誇れるほど、価値のあるものとは思っていない。なぜなら歳をとって会社を放り出された人間の職歴など何の意味もないではないからである。だからできればこんなものを抱えたまま、これから先、生きていきたくないと思っている。
by office_kmoto | 2015-06-26 06:30 | 人を思う | Trackback | Comments(0)

開高健の「勉強部屋」とその死

 南木さんの小説で、主人公は小説やエッセイを執筆する部屋を書斎と言わず「勉強部屋」と記す。その理由を、開高さんを真似たという。


 医学生のころから購読していた文芸誌でよく読み、完成度の高さと語彙の豊富さに酔っていた開高健の作品群のなかに「勉強部屋」が多出する。みずから体験した戦中戦後の貧困や飢餓の様子を執拗に描いた作家が、そういう事柄を書くための部屋を中産階級の所有物とみなされやすい書斎と記すのをためらったらしい鬱屈が好ましかったゆえ、たんにそれを真似たのだ。


 その「勉強部屋」を見ることができる。開高健さんが暮らしていた茅ヶ崎にある家が今は開高健記念館になっていて、開高さんの書斎を見ることができるのである。私も一度行ったことがある。


 いまは記念館になっている開高健の茅ヶ崎の家を見に行ったのは数年前だが、母屋とは別棟の勉強部屋は外からの見学が許されていた。西側の障子窓に向かって坐り机が置かれたスペースは決して広くはなく、簡素なキッチンも備わっており、ここを書斎と記さなかった彼の思慮深さをあらためて思い知るとともに、深夜、ウォッカやストレートウィスキーを酔わない程度にすすりつつ、一字たりとも書き直しのない精緻な文を原稿用紙の上に愛用のモンブランの万年筆で紡いでいた本物の作家の苦しげな気づかいの残響が聴こえる部屋を覗き見てしまったことにやりきれない罪悪感を覚えたものだった。
 紙に呼び水となる一言半句を置き、身の内の奥の奥から背丈にあった世界を構築するための言葉を汲み揚げる座業にからだ全体を使って精をだし、根気よく務める部屋だから、いかにもそれらしい人物がきどって書き物や読書するイメージを喚起しがちな書斎よりも、勉強部屋のほうがふさわしい。(白い花の木の下 南木 佳士 著『先生のあさがお』に収録)


 展示してあるからだろうが、きれいに片づいている「勉強部屋」であったし、何よりも驚いたのがそこある本が少ない、ということであった。たぶん別に蔵書があるのだろう。開高さんは他の作家書いた本に毒されることを嫌った人だから、手元には最低必要限の本しか置かなかったのかもしれない。
 ここを訪れた人たちが開高さんを偲んで書き込んである寄せ書き帖があるが、これをパラパラとめくってみると、開高さんのことを「大兄」と呼んで、それぞれの開高さんの思い出が書いてある。
 私はこの「大兄」という言い方が大嫌いでった。そのなれなれしさが鼻持ちならなかった。
 「大兄」は多分週刊プレイボーイに青くさい若者の人生相談から始まったものと思っているが、こんな若者たちがが開高さんのことを「大兄」と呼べる訳もないだろう。使い方が違う。


 以前、湘南の海を見に行ったついでに開高健記念館に入ったときもそうだったが、作家が生きた場所に立つと、その作品の精度が高ければ高いほど、過敏な心身ゆえに生きにくかったはずの生身の作者を想像し、たまらないほど寂寞感を覚えてしまう。(おのぼりさん 南木 佳士 著『生きのびるからだ』 に収録))


 確かに開高さんの小説を読んでいると、開高さんは自分の心身をもてあまして生きにくかっただろうな、と思うことがたびたびあった。だから開高さんは「大兄」なんて安易に呼びかけられても、本心ではそれどころじゃなかったのではないか、そんなふうに思うのである。
 寄せ書き帖はこの「大兄」のオンパレードであったので、うんざりしてすぐ閉じた。


 二年後神経衰弱に陥って鮎釣りどころではなくなり、かろうじて生きのびてふと気がつけば、今年で開高健の享年と同じ歳になる。(白い花の木の下)


 この文章を読んで南木さんが開高さんの愛読者であったのだ、と知った。そして『急な青空』にある「骨を拾う」に開高さんの思い入れと、その死で新しい作品が読めなくなることを残念に思う。「珠玉」を読んで泣きじゃくった。


 休日の郊外の古書店に行った。全国チェーンの店で、どんな有名作家の本であれ、古ければ安く、新しいものは高く売るという商法で急速に業績を伸ばしているらしい。以前入ったときも、数年前から気になっていたが買わずにきた本が並んでおり、定価の半値以下で手に入れた。
 今回、百円均一コーナーを眺めていたら、なんと開高健の『輝ける闇』の箱入り本があった。手にとってみるとそれほど汚れてもいない。昭和四十三年発行のものとしては保存状態はよい。
 「あの開高健の本が百円・・・・・・」
 胸の内でつぶやきながらしばし茫然となった。
 豊富な語彙を駆使して遠心力で書かれた開高健の小説、エッセイ、ルポルタージュは活力に満ちていて、身辺雑記のような私小説ばかり載る文芸誌のなかでは格別に光っていた。新しい本が出ると必ず買って読むという意味では、私は医学生のころから開高健の大ファンだった。
 だから平成元年十二月十日の新聞で開高健が食道癌で亡くなったとの訃報を目にしたとき、腰のあたりから力が抜けてしまう実感があった。
 近くの温泉旅館で泊まり込みの忘年会があり、二日酔いのまま家にたどり着いたら妻と子供たちはまだ寝ていた。私は新聞を読んでから、出版社より送られたまま封を切らずにいた雑誌入りの封筒を開けた。
 その月の「文學界」に開高健の最新作が載っていた。「珠玉」と題された、どこか枯れた趣をたたえながらも、相変わらず完成度の高い小説を読み進めて行ったら、もう、此を書いた開高健はこの世にいないのだとの想いが胸の底から込み上げてきて、私は貧寒たる病院住宅の居間の炬燵にあたりながら、泣きじゃくりつつページをめくった。
 そんな開高健の代表作で、毎日出版文化賞を受賞している『輝ける闇』が百円!私は尊敬する作家の遺骨を拾うつもりでこの本を買った。そして、家に帰って読んだ。いつか、どこかで必ず読了していたはずなのだが、あらためて読み返して脱帽した。優れた作家の作品は時流の淘汰なんてものともしないのだと教えられた。(骨を拾う 南木 佳士 著 『急な青空』に収録)


 私の好きな作家の作品が、私が働いていた本屋の店頭に並ぶとき、そのうれしさはたまらなかった。うれしくてうれしくて仕方がなかったことを思い出す。早くその作品を読みたい、と思いつつ、店頭の平台に並べていた。
 そして好きな作家が亡くなって、追悼関係の本や単行本未収録などと称して、次から次へと発売されると、本当にこの人の新しい作品は読めないんだ、と思ったものであった。そんな作家が私の中の幾人かいる。

 私の手元には週刊新潮に連載された山口瞳さんの「男性自身」の切り抜きがある。いずれも開高さんの死を書いたものである。これらはたぶんこのシリーズのどこかでこれらの文章は掲載されているのだろうが、山口さんは開高さんの後を継いで「洋酒天国」の編集に携わった人だから、開高さんに対しての思い入れは人並み以上だろうと思っている。だから開高さんの死を眼の前にして、あるいはその死をどう捉えたか知りたかったので、この切り抜きを残しておいたのである。その切り抜きから書き出してみる。平成元年の12月21号、日付が11月28日火曜日となっている。


 家を出る前に、開高健病状悪化の報に接する。ごく親しい人だけに知らせるという連絡だが、容易ならぬ状況だ。
 中央線で四谷駅まで行き、福田家まで歩くのだが、俄に涙が溢れてきてどうにもならない。すでにしてあたりが暗くなっているからいいようなものの、泣きながら歩いている老人というのは異様なだろう。開高健が僕の運命を変えた。命の恩人の一人だと言ってもいい。初めて会ったのは昭和三十二年だと記憶するが、その頃の開高は、触れたら感電するんじゃないかと思われるくらいビリビリしていた。驚いたことに早川書房のミステリーを全部読んでいた。僕の周囲の文学青年とは違っていた。後に開高は高校時代は鉄棒を得意とする体操の選手だったと聞くのだが、狼のような感じのする青年だった。開高は多くの女を愛し、酒を飲み、美味いものを食べ、世界中を飛び廻り、よく勉強し、よく仕事をして、要するに激しく生きたのだから、以て瞑すべしとは思うのだが、そんなことでは収まらない感情の昂ぶりがあって涙がとまらない。こんな顔をでは宴会に出られないと思い、ホテルニューオータニまで歩いていって洗面所で顔を洗った。そうして、つくづく思うのは、カナダでサーモンを釣っている開高の姿は目に浮かぶが、江戸川でヘラ鮒を釣っている老人としての開高の後姿は見えてこないということだった。

 この週の題名が「上の空」であった。この一週間もこの後も、山口さんは何をするにしてもいつも開高健さんのことが頭によぎるのであった。
 開高さんの死でもう新しい作品を読むことが出来ないと泣きじゃくりつつページをめくった人もいれば、もう開高さんが危ないと思うと街を歩きながら涙する人の姿がここにある。
 12/28号の「男性自身」でも山口さんは、「開高健がいなかったら、僕が小説を書くという事態にならなかったと思う」と書いている。
 そして翌週の年が変わった1月4日号で開高健さんの「珠玉」について書かれている。この文章がいい。


 『文學界』新年号、開高健「珠玉」を読む。
 これは正に文字通り渾身の力作というべきものだ。三章に分れるが、第二章を大手術を行った病院で書き、第三章を退院後から再入院の九月一杯に書いたと聞いた。病気と戦いながら、よくこんな力作を書けたものだと思うが、実状は、この小説のことがあったからまだ生きのびている(もはや意識がないそうだ)のだと僕は思った。
 この小説はウィスキイをストレイトで飲む男が書いた小説である。自分のことを引きあいにだすのはどうかと思われるが、昭和四十年代の初めに僕は糖尿病を宣告され、禁酒禁煙を言い渡されたとき、もう駄目だと思った。僕の最初の小説はウィスキイのストレイトを浴びるように飲みながら書いた。だから間違いが多く、いま考えると背筋が寒くなるようなシロモノだが、勢いはあったと思っている。僕のような学問も教養もない男から勢いを奪ったら何が残るだろうか。
 開高は自分の病気にどの程度自覚があったのか知らないが、ウィスキのストレイトを飲み続けた。酒場で大酒を飲むより、書斎で毎夜チビチビとストレイトを飲むほうが体に悪いのである。しかし、「珠玉」はそうやって情念を培養しなければ書けない小説である。
 次に、これは言葉で書かれた小説である。
 誰だって言葉を使って書くわけだが、とりわけ、この小説は言葉をもって導かれているナという思いが濃い。それが“清玩”であり、京都の人が使う“はんなり”であり、“ざっかけな”である(僕等東京者は“ざっかけない”という使い方をするが)。おそらく開高は、そういう言葉を発見するたびに身が揮えるような喜びを味わったはずである。そうして、結果的に、よく醸成された、まったりとした味わいのある小説に仕上った。
 第三に、若い時からミステリー好きと芸術至上主義(完全主義と言ってもよい)が」うまく溶けあっているように思われた。僕には良い小説はミステリーに似てくるという持論があるのだが、その意味でも「珠玉」は僕を充分に満足させてくれた。
 いや、理屈なんかどうでもいいのだ。久しぶりにいい小説を読んだ。いい時間を与えてくれた友人開高健に感謝している。


 私はこの「珠玉」は雑誌も持っているし、本として出版されたものを二冊持っている。私はこの作品は開高さんの小説の中でもすばらしい小説だと思っている。山口さんがここでいうように、この小説の雰囲気は確かにウィスキーをストレートで飲む男の世界だと思える。
 そして、


 十二月九日(土)晴


 午後十一時五十七分、開高健死去。五十八歳。柳原良平さんから「開高君、やっぱり駄目だったなあ」という電話が掛かってくる。いままでの至近弾が遂に僕等に命中してしまったという思いがする。


 十二月十一日(月)晴

 通夜の席でホッとウィスキイ、山崎邸でビール、列車のなかでポケットウィスキイ、家に帰って日本酒で完全にダウン。開高の密葬に行かれなかった。今日侘助一輪咲く。


 これでこの週が終わる。
by office_kmoto | 2015-04-11 06:34 | 人を思う | Trackback | Comments(0)

震災からもうすぐ3年

d0331556_6502010.jpg 伊坂幸太郎さんの『仙台ぐらし』というエッセイを読んでいたら、次のような文章があった。


 先行き分からない上に、原発事故なる問題もあるのだから、絶望的になるなというほうが無理がある。これから状況が落ち着いてくれば、また別の種
類の不快な悩みが出てくる可能性がある。心無い人が現われ、被災地の人が苦しめられるような予感もある。


 伊坂さんは仙台で暮らしている。だから東日本大震災を直に体験している。この文章は震災1ヶ月後に書かれた文章だ。“嫌な予感”は予想通りあったことを、私は他の本で知った。知ったと言うより、「やはり」という気持ちの方が強い。それは震災直後の混乱の中で行われた行為、復興という美談に隠れた、いや公にされない陰の部分。それは美談一色で塗りつぶされた報道にはない、“嫌な部分”である。




 d0331556_6514779.jpg本は石井光太さんの『津波の墓標』という本である。


 窮した者たちの一部はやむを得ず、コンビニエンスストアの窓ガラスを割って陳列された食べ物を取ることがあった。飲み水がない場合は、自動販売機を壊して缶ジュースを持ち出したし、コートや長靴がなく外を出歩けない場合は、アウトドアショップやアパレル店が狙われた。


 とはいえ、現地ではこうした盗難は「現状ではやむを得ないこと」として目をつぶろうとする空気があった。店から商品を盗み出すことは違法だが、津波の被害を受けた町では寒さをしのぎ、食べ物が行き渡ることが最優先されなければならない。そのため、暴力的な略奪でない限りは、地元の警察も消防団なども必要以上に追求しようとはしなかったし、またそこに人員を投入する余裕もなかった。
 だが、被災地で起きていた略奪はそのように割り切れるものだけではない。食糧以外のもの、たとえば高級ブランドを売る店のドアがこじ開けられ、有名海外ブランドのバッグが奪われたり、銀行や郵便局のATMから現金が奪い取られたりしたこともあったのだ。警察庁の発表では、震災発生から六月末までの約3ヶ月半、岩手、宮城、福島で起きたATM強盗の現金被害額は約六億八千万円に達している。


 「一日歩いていれば、あんなガキはいくらでも見ることができるよ。あくまでも噂だけど、遺体についているダイヤの指輪を盗むやつとか、郵便局から札束をごっそり盗むやつとかもいるらしい。盗みだけならまだしも、若い女の子を襲っているという話さえある。津波で家も家族も失った女の子がレイプでもされようものなら、二度と立ち上がれなくなっちまう」
 死体から所持品を盗む人がいるという噂は頻繁に囁かれていた。大半は噂の域を出ないものだと思うが、それが当然のように語られるほど窃盗は多発していたのである。


 彼ら(野次馬)は恋人をともなったり、友達とともに一台の車に便乗してやってくると、窓からカメラを出してシャッターを押しつづける。そして車を降りると、勝手に半壊した民家に入って行き、「すげー」とか「絶対、死体あるぞ」などと言いながら遺された家具を漁るのだ。


 当初、避難所では全員が団結して助け合って生活をしていた。だが、そこでの暮らしが長引くにつれ、子供たちの間ではたまった鬱憤を晴らすように、いじめが横行するようになった。


 「今は、親たちも自分の子供のいじめに注意を払っている余裕がありません。市の関係者は避難所の運営や遺体捜索に忙殺されていますし、避難所に残っている人たちもその手伝いなどで忙しく働いています。震災の日から十日間一度も休んでいないという人だって大勢いるのです。残念ながら、子供は放置されており、それがいじめに拍車をかけることになっているのです」震災から二、三週間経つと、被災地では自分で撮った津波の映像をCD一枚数百円から千円ぐらいで売り歩く人間が現れていた。


 今回の震災でマスコミはボランティアと地元住民の関係を美談としてばかり語っていたが、そのボランティアにしても半ば興味本位で参加した者もある。


 現実的には、ボランティアの数が増えれば増えるだけ、地元の人との衝突も多くなっていった。 
 地元住民がよく怒りをあらわにしていたのが、ボランティアが物珍しそうに被災地の写真を撮ることことだった。携帯電話のカメラやコンパクトカメラで瓦礫を撮影するだけならともかく、記念写真のように集まってVサインをしたり、「すげー、すげー」と言って通りがかる人までビデオカメラで撮影したりしていたことが許せなかった。


 ボランティアにきた人たちだけではない。被災者がボランティアび来た人たちに対して礼儀を欠くということもあった。


 「避難所で暮らす男性に何度も性的嫌がらせを受けたんです。働き方が悪いと難癖をつけられては体を触ってきたり、みんなの前で突然いやらしいことを言ってからかってきたり・・・・」

 「そのことは避難所の管理をしている人に言ったんですか」と私は訊ねた。

 「もちろんです。そしたら、『避難所の人たちは家を失ってつらい思いをしているから仕方がない』って言われて片づけられました。他の被災者に相談しても、あっちは地元の結束があるから助けようとはしてくれません」


 マスメディアは震災以来、被災者を悲劇の主人公として扱ってきた。それはそれで間違いではない。だが、それがあまりに過剰になりすぎたために、彼らは何をしても許されるという事態が一部で起きているのではないか。


 伊坂さんは次のようにも言っている。


 理不尽な出来事に巻きこまれた人には、その当事者とならなければ分からないことがたくさんあるに違いない。「想像力」ととても大事なことだけれど、それは安易に使ってはいけない言葉のように、感じてきた。僕には、大きな被害に遭った人たちの大変さは、ずっとわからないままだと思う。

 もうすぐ震災から3年になる。


伊坂 幸太郎 著 『仙台ぐらし』 荒蝦夷(2012/02/18発売)

石井 光太 著 『津波の墓標』 徳間書店(2013/01発売)
by office_kmoto | 2014-03-09 06:57 | 人を思う | Trackback | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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