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城東電気軌道 7

エピローグ

 大分長くなってしまったが、これで城東電気軌道のことを書き終えたと思う。一之江駅の手前まで調べることができた。これより先今井まで城東電車は走っていたが、その痕跡を見つけることは難しいだろうと思い、ここで止めた。
 ふと新中川はどう越えたのだろうと思う。城東電気軌道は最初から資金難で、荒川を越えることが出来なかったくらいだから、新中川も越えられなかっただろうと想像はできる。しかしこれは問題なかった。
 いわゆる新中川が中川放水路と呼ばれていたが、これは人の手で掘られた川であった。調べてみると掘削が始まったのが、昭和14年からで、城東電車は大正14年12月31日に江戸川線が開通している。つまりこの当時中川放水路はなかったことになる。新中川を越える問題は存在しなかったことになる。

 城東電気軌道のことを調べてみようと思ったのは、最初にも書いた通り、境川のときからあったレールのモニュメントが何の電車のレールなんだろう、と子供頃から疑問に思っていたことを解決することであった。
 調べてみると、これが面白い。いろいろなことがわかってくる。そしてその痕跡が人知れず、今も残されていることに驚いた。それが面白くて、コツコツと調べ、歩いた。ただ続けて調べた訳でなく、片手間で調べ、歩いたため、2年くらい掛かっている。
 今は昔と違い、本や資料だけで調べるだけでなく、インターネットというツールがあるから、それをフルに活用した。まずはインターネットで検索し、調べて、次に本や資料を図書館で漁った。痕跡を歩くにしても、ネットで調べてから歩くことが出来たので、効率良く歩くことができた。これは昔にはなかった、できなかったことだったので、何か新しい方法で調べているという妙な興奮があって面白かった。きっと今の大学生はこんな方法で卒論や論文など書いているんだろうな、と思った。
 本や資料を探すのに図書館に通ったが、昔、こんなことをやったなあと懐かしくもあった。ちょっと勉強したな、という気分も味わえ、楽しかった。もちろん勉強などという大袈裟なものではなく、単に興味本位で調べたことなので、正確性に欠けるところがあるだろう。でもこれはあくまでも個人的な事情から発したことなので、これでいいと思っている。


by office_kmoto | 2018-09-11 05:48 | 余滴 | Comments(0)

城東電気軌道 6

第5章 城東電気軌道の面影を歩いてみる


 山田 俊明 著 『東京の鉄道遺産 百四十年をあるく』〈下〉発展期篇には次のように城東電気軌道の面影を見ることができる場所を説明してくれる。ただここではどちらかというと都電が走っていた場所として都電のレールや車輪などのモニュメントやオブジェとして残されている場所を紹介している。しかしここは都電の前は城東電気軌道が走っていた場所でもあるので、一緒に見てればいいかもしれない。長くなるが書き出してみる。


 江東区は、営団地下鉄東西線が開業するまで、亀戸駅周辺を除けば、高速電車の便はなく、住民の足としては都電が主役を務めていた。この地域の都電のルーツは、城東電気軌道という私鉄である。一九一七(大正六)年一二月に錦糸町~小松川間を開業し、その後、荒川左岸(東荒川~今井間)や洲崎方面に路線をのばしていった。同社は、一九三七(昭和一二)年三月、東京乗合自動車(青バス)に合併され、その東京乗合自動車が東京地下鉄鉄道に合併(一九三八年四月)されたため、東京地下鉄道の軌道線となった。さらに、一九四二(昭和一七)年二月一日、戦時体制下の交通調整(統合)の一環として東京市に買収され、都電の一員となったのである。都電生え抜きの路線ではなかった故に、専用軌道の部分がかなりあり、遊歩道として整備された箇所を中心に、かつての路線跡を比較的容易にたどることができる。
 亀戸駅前の京葉通りを少し東へ進むと水神森という所がある。そこから南へ入っていく亀戸緑道公園という桜並木の遊歩道があるが、そこが都電29、38系統の跡である。29系統は須田町と葛西橋を結び、38系統は錦糸堀車庫前を起点に江東区南部を一周し日本橋に至る系統で、ここから明治通りに出るまでの一キロほどの間が専用軌道になっていた。


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 両系統とも一九七二年一月一一日限りで廃止されたが、その後に植えられた桜の木が大きく育って、今では江東区の花の名所になっている。三〇〇メートルほど進むと、太鼓橋のように湾曲した都電の専用橋で有名だった竪川の橋梁がある。現在は人道橋となっているが、下部は都電時代のままで、銘板も付いている。著者もこの区間を乗車した記憶がある。当時、問題視されていた「地盤沈下」や「江東ゼロメートル地帯」を実感させられた場所の一つである。今や竪川は暗渠となり、まわりの景観はずいぶん変わったが、江東区の都電風景を象徴するような橋がしっかり保存されていることはうれしい限りである。現在の竪川人道橋の欄干には都電の浮き彫りがあり、橋上にはレールが埋め込まれ、亀戸側の橋のたもとには、車輪(レプリカ)も置かれている。車止めも都電のビューゲル(集電装置)を模したものという凝りようである。往時の都電風景を忍んでノスタルジックな気分に浸りたい人や、下町の都電の風情を追体験したい人にはおすすめの場所であろう。
 竪川人道橋から先は、大島緑道公園と名前が変わるが、相変わらず美しく整備された遊歩道が続く。新大橋通りと交わる所が、大島三丁目の停車所跡で、ホームが残っているわけではないが、なんとなく往時の雰囲気が感じられる。新大橋通りを横断すると、遊歩道は右にゆるやかにカーブしていく。このあたりは、いかにも廃線跡といった感じで、少しばかりわびしさも漂っている。明治通りに出た所で専用軌道区間は終わる。
 明治通りを南下し、29系統は境川から東へ折れて葛西橋へ。38系統はさらに南下し、南砂町三丁目から専用軌道に入り、汽車会社の工場の二辺を回り、永代橋へ抜けていた。その先は永代橋を西進し、永代橋を渡り日本橋に至っていたのである。
 汽車会社(現在は東京都住宅供給公社南砂住宅という団地になっている)を回る専用軌道部分は、南砂緑道公園として整備されている。多種類の樹木を配した植栽がすばらしく、緑の乏しいこの地区にあって、ほっと一息つける貴重な空間となっている。ちなみに鉄道車両メーカーの老舗であった汽車会社(汽車製造株式会社)は、都電廃止と同じの一九七二年川崎重工業に吸収合併され、この工場も閉鎖された。
 緑道に入って間もなく、越中島貨物線のガードをくぐる。複線仕様のプレートガーターの片側のみを使用しているという面白いスタイルである。銘板には「大正十五年 鉄道省」の文字が読める。このガードをくぐるとすぐ左手に、枕木とレール、その上にギア付きの車輪を配したモニュメントは置かれている。
 説明板には、「城東電車は大正6年から設置され、この緑道公園の区間は昭和2年にしかれましたが、昭和47年11月に廃止されるまでチンチン電車の愛称で親しまれていました」と書かれており、都電もみならずその前身の城東電気軌道にも言及している。廃線跡は各地にあるが、このように緑道公園として美しく整備した上に、モニュメントや説明板をしっかり設置しているところは少なく、実に好ましい印象を受ける。緑道が終わりに近づいた頃、左手の道端に目をやると、大砲のレプリカが置かれていて驚かされる。説明板には「長州藩大砲鋳造所跡」とある。都電とはまったく関係ないが、思わぬ発見でうれしくなる。
 日比谷公園を起点とし、須田町からは29系統と同じルートを走るものの、水神森から専用軌道に入らず、京葉道路をそのまま東進する25系統もあった。この系統は京葉道路上の亀戸九丁目を過ぎると、専用軌道となり、旧中川も専用の橋梁で渡り、江戸川区に入り、荒川放水路の手前の西荒川に至るルートであった。残念ながら、その専用軌道跡は道路用地に転用され、都電の橋梁も新しい道路橋に架け替えられてしまい、往時を偲ぶことは難しい。旧中川を渡った江戸川区側も区画整理や再開発が進行しており、都電の痕跡を見つけることは困難だ。しかし、まったく都電の記憶が失われてしまったのかといえばそうではない。
 旧中川の新しい道路橋(亀小橋)のたもとの歩道上には、都電をあしらったタイルがはめ込まれている。橋のどちら側を通ってもそれが目に付くようになっており、この地に都電が存在したことを、後世に伝えたいという意欲が感じられる。旧中川の西側(江東区側)には、浅間前という停車場があった。浅間神社の前という意味だが、その浅間神社は本殿の位置が少し変わったといわれるものの現存しており、その境内に都電のレールが数本保存されている。注目すべきは、左端の路面電車専用溝付レールであろう。横腹には「BV JVST 1930T T100 lbs」という刻印(ロールマーク)があり、イギリスのボルコ・ボーン社の1930年製レールのようだ。1930年とは昭和五年である。説明板の「大正時代に作られたイギリス製のレールです」という記述と一致しない。城東軌道のこのあたりの区間は「大正六年」に開業しているので、開業後だいぶ経ってから製造されたレールということになる。


 この本を参考に実際歩いてみてみた。まずは砂町・洲崎線の跡を歩いて見る。この本にあるように亀戸水神森から南下してみると、今は亀戸緑道公園といって遊歩道が整備されている。そこを少し歩いていくと、都電の29系統、38系統というプレートが貼っているものが立っている。奥には車輪がある。これは都電の車輪のレプリカらしい。歩道の足もとをみてみると、レールがそのまま埋め込まれている。「橋の記憶」という説明板がある。なるほどここに城東電気軌道、都電が走っていたわけだ。


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 さらに南下を続けると新大橋通を越えた先が大島緑道公園に変わる。さらに南下し続けると明治通りとぶつかる。ここで専用軌道は終わったようだ。
そのまま明治通りを南下し、南砂町三丁目交差点を少し越えて右に入ると南砂緑道公園となる。ここも専用軌道だったようだ。南砂緑道公園は大きく西に向かいながら蛇行し永代橋通りにでる。永代橋通りを出て更に西に向かえば洲崎にでる。
 その南砂緑道公園にもモニュメントがある。越中島貨物線の下をちょっと先に進んだ場所だ。やはり都電の車輪がある。その先に説明板もある。


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 そしてその越中島貨物線のガード下には何と「城東電軌こ線」というプレートがある。


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 こ線とは「跨線」と書く。鉄道線路をまたぐ路線のことである。要するにここは越中島貨物線が城東電車砂町・洲崎線をまたいでいたところなのだ。
 ちなみに越中島貨物線とはウィキペディアの概要に次のようにある。


 1929年(昭和4年)に小名木川の水運との物流連絡のため、亀戸駅から小名木川駅まで開業し、その後越中島駅(現越中島貨物駅)まで延伸された。また、1989年(平成元年)までは東京都港湾局所有の専用線により豊洲や晴海までつながっていた。この専用線は鉄道による貨物需要が低下したため廃線になった。1972年(昭和47年)まで沿線(江東区南砂)に汽車製造東京製作所が存在し、製造された車両は専用線を経由して小名木川駅より各社へ向けて輸送されていた。


 余談だが、この越中島貨物線をはじめて見たとき、なんか不思議な感じがした。こんなところに列車(貨車)が走っているんだ、とちょっとびっくりした。それもそこはレールが伸びているだけなのだ。ネットで調べてみると、一日一往復しかしていないらしい。そのための路線なのだ。

 次に小松川線の跡を歩いて見た。城東電車は亀戸9丁目までは京葉道路を走っていた。そこから東南方向へ逸れていたらしい。ここに浅間神社がある。結構大きな神社だ。「浅間神社」というバス停から団地を越えていくとある。その神社の柵のギリギリに城東電気軌道のレールが残されている。いかにも邪魔ななんだけど、といった感じで隅っこに追いやられている。ネットで城東電気軌道のレールがあると知って行ってみたとき、どこにあるのかすぐわからなかったくらいだ。


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 さてここからは江戸川区で走っていた城東電車のことになる。もともと城東電気軌道に興味を持ったのは最初に書いた地元にあったモニュメントからである。
 城東電気軌道を調べるにつれ区内だけではそれでは追いつかず、江東区内を歩いたし、その歴史も詳しく調べることになってしまったが、最大の関心事は城東電車が区内でどこをどう走っていたのか、それを知りたかったのだ。
 城東電車を調べていたとき、たまたま偶然この春、区の中央図書館のイベントコーナーで「江戸川遺産」というミニ開催されていた。その「江戸川遺産」の有形遺産として「城東電車編」が設けられ、区内を走っていた城東電気軌道が現在どこを走っていたか、写真が展示され、そのMAPが無料で配布されていた。これはものすごく参考になるので、これを元に城東電車跡を歩いて見た。


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 江戸川線は東荒川-中ノ庭-松江-一之江-瑞江-今井橋を走っていた。今回は東荒川-中ノ庭-松江-一之江の跡を追ってみた。
 まず東荒川である。東荒川は現在の小野原稲荷神社あたりのようだ。


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 この辺りをちょっと先を歩いてみると、城東電車が走っていたであろう路線が今の道路を通してわかる。


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 そして首都高速7号小松川線の下を渡る。


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 次の停留所「中ノ庭」はいま東小松川二丁目児童遊園になっているところにあったようだ。公園の前の道も城東電車が走っていたように見える。


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 そしてここで気づいた。このままずっと先に進めば、あの境川親水公園にある城東電気軌道のモニュメントに真っ直ぐつながるじゃないかと。この時はわくわくした。
 「松江」界隈を走っていたであろう道は真っ直ぐ延びている。


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 そして高圧線の鉄塔が見えてくる。


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 この鉄塔、『東京市電・都電―宮松金次郎・鐵道趣味社写真集』にも見ることが出来る。


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 城東電車のことを調べ始めたすぐの頃は、電車は今井通りを走っていたものと思っていたが、そうではなくすぐ側を通っていたことは後で知った。その路線図を見てみるとやはり真っ直ぐな路線となっている。そして城東電車が通っていたであろうその道もここまで、そして環七にぶつかるまでほぼ真っ直ぐ延びている。


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 ブラタモリでタモリさんが言っていたのを思い出す。番組でかつて走っていただろう電車跡を歩いていたが、そのときタモリさんは電車が走る場合、出来るだけ真っ直ぐな方が良いと言っていた。それに従うと、この道は確かに真っ直ぐであり、城東電車が走っていただろうと思わせる。
 この道は今井通りの裏道として昔から認識していたが、まさかここに電車が走っていたとは思わなかった。しかもこの道、子供のころから通っていて、今も図書館へ行くとき、また反対側の都営新宿線の一之江駅へ行くときなどよく通っているのである。いつも通っている裏道が城東電車が走っていた路線であったのではないかと気づいたとき、本当に驚き、ものすごい発見をしたように思えた。
 電車が通っていた道は環七にぶつかるが、その前で行き止まりとなる。環七が通ったことでこの裏道は寸断され、そのまま通れなくなった。


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by office_kmoto | 2018-09-09 21:53 | 余滴 | Comments(0)

城東電気軌道 5

第4章 区史などにみる城東電気軌道

 城東電車は当然江東区史、江戸川区史にその歴史を残している。今回はそれを拾って見てみたい。
 まずは江東区史(『江東区史 中巻』 江東区編 1997年発行 )から城東電車を見てみたい。

 亀戸町を中心とした城東地区は明治末年頃より大工場が立ち並び、大正期には工業地帯化し、そこに働く労働者も多くなり、人口も急激に増加してきた。
 ところが、鉄道・軌道の類は地域の北端を東西に走る総武線と亀戸より北へ向かう東武鉄道亀戸線があるだけで、駅は亀戸駅が一つあるのみであった。また、市電は城東地区まで路線を延長していなかったため、大島町と砂町には大正に入っても鉄道も軌道もなかった。


 先に見た『城東電気軌道百年史』には明治43年(1910)5月6日本多貞治郎他23名より軌道敷設が出願され、翌年3月7日に特許状が下りたと書かれていた。その出願者は亀戸町他沿線の資産家がほとんどであった。この願書を東京府が内務省へ進達した文書には次のよう書かれていた。


 「本軌道ハ東京鉄道株式会社特許線終点本所錦糸堀停車場附近ニ起リ亀戸町ヲ通過シ千葉県下行徳手前江戸川渡船場附近ニ至ルモノニシテ沿線中小松川及亀戸町ノ如キハ近来諸工場之続々設立ヲ見ルニ至リ人口著シク増加シ将来益発展シツゝアル状況ニ有シ該区間ニ於ケル交通機関ノ施設ハ一般ニ渇望スル処ニシテ之カ軌道完成ノ暁ニ於テハ沿道部落ハ勿論千葉方面ト東京市トノ連絡ヲ告ケ運輸交通ニ多大之便益ヲ与フルノミナラス地方産業ノ発達一般商業ノ振興ニ資スル処亦鮮ナカラソト信ス」


 また南葛飾郡長より東京府への文書には、


 「軌道敷設ニ関係アル亀戸町外四ケ町村ノ利害関係ニ付各意見ヲ求メタルニ何レモ町村発展上有益ナル事業トシテ歓迎シ且速ニ布設ノ実現ヲ期待シ居ル状態」


 とあり、軌道敷設は東京府や関係町村から期待されていた。
 ここには城東電気軌道の各路線を次のように紹介されている。


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 ここの年月日は開通した年月日で、「区内を通過せず」はこれが江東区史なので、江東区を通過しないという意味である。


 小松川線は総武線錦糸町駅・市電錦糸堀終点と連絡する錦糸町を起点として、総武線の南側を東進し、亀戸を通り浅間前より中川を渡り小松川町に入り西荒川に至る路線である。この線は本線とも呼ばれた。
 砂町洲崎線は小松川線の水神森より分岐して南下し、竪川を越え大島町の中央を南北に貫通し、小名木川を越え砂町の仙気稲荷で西に曲がり、深川区に入り洲崎に至る路線である。洲崎では市電と連絡していた。
 江戸川線は東荒川より江戸川西岸の今井までを結ぶ路線であった。南葛飾郡は荒川放水路の開削以後、明確に放水路の西部と東部で性格を分けた。西部が工業地帯化・都市化を急速に進めたのに対し、東部は農村地帯のまま置かれた。そのため城東電車の路線の中で江戸川線のみは農村部を走ることになった。


 乗車賃は小松川線開通時(大正六年)には全六区で一区一銭であった。大正七年には料金改訂と普通定期乗車券・学生定期乗車券の発行を行っている。車両は四〇人乗りの四輪車を二両連結で運転していたが、大正一四年度よりは、八四人乗りのボギー車を導入している。乗車人員は大正七年に年間二一四万人であったが順当に増加していき、一二年には七六二万人余、関東大震災以後急増して一三年には一一一三万人余となった。その後、不況が慢性的に続く中で、工業地帯の中を走る城東電車は不景気の影響を強く受け、乗客が一時減少する。しかし他に軌道のない、城東区唯一の足(城東区成立の昭和七年には同区域に一八の停留所あった)であり、工業の発展・人口の増加と共に乗客数も回復していった。昭和一四年(一九三九)の年間乗客数一三八九万人を超えている。


 それでは城東電気軌道が走っていた江戸川区ではその区史(江戸川区史 第3巻』 江戸川区編 1976年発行)にどのように書かれているだろうか。


 大正六年十二月三十日、まず第一期として錦糸堀-小松川間三・三八九キロメートルの小松川線が開通し、ついで同十年一月一日、水神森-大島間一・〇キロメートルが開通した。この線は全部工業地帯を通っているので、都心と郊外を結ぶ近郊電車というより工場関係通勤者の市内電車と同一に見るべきものであった。当時の乗客数を『小松川町誌』は次のように記している。

 大正十年  七〇九万八二八六名
 大正十三年 一一一三万四四一八名
 大正十四年 一〇六四万〇七六一名

 大正十四年十二月三十一日、東荒川-今井橋間の江戸川線が開通、三・一七八キロメートルの間に、東荒川、中ノ庭、松江、一之江、瑞江、今井の停留所が設けられた。翌十五年三月一日小松川線が二〇〇メートル延長されて西荒川までくるようになると、東荒川と西荒川を結んで同社の連絡バスが走ることとなり、乗り継ぎ、乗り換えの不便はあるものの都心から今井までの交通はぐっと楽になった。沿線の村々からはバスよりはるかに多くの利用者があり、春には篠崎堤の桜を見る人々でマッチ箱のような電車は満員となり、また瑞江あたりからは手拭を下げて乗り、松江あるいは東小松川で下りて銭湯に行くという姿も見受けられた。
昭和八年における本区内一日平均乗降者数が、京成電車が約三〇〇名なのに比較して、城東電車が約二三〇〇名と記録されていることからも、この城東電車の好評ぶりがうかがわれる。


 以上が江東区史、江戸川区史に記載されている城東電気軌道の様子である。
 江戸川線が農村部を走っていたという記述を裏づける写真が『宮松金次郎・鉄道趣味社 写真集 東京市電・都電』にある。それを見るとまさにそんな感じであった。


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(注12)


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(注17)


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(注18)


 ところでこの(注18)の写真である。これを見たときこれは一之江境川親水公園にあるレールのモニュメントあるところの写真とよく似ている。

 江戸川区史に瑞江あたりから松江に銭湯に入るために手ぬぐいを下げて乗っている乗客がいたというのは面白い。私が記憶している松江に二つほど銭湯があった。うち一つは今も残っている。この銭湯に浸かったのだろうか。

 城東電気軌道は他の本にもその記載がある。探し出した本は3冊ある。何と言っても、これまで城東電車の写真を示してきた写真集である。
d0331556_07085644.jpg 井口 悦男 監修 /萩原 誠法/宮崎 繁幹/宮松 慶夫 編 /永森 譲 協力 『東京市電・都電―宮松金次郎・鐵道趣味社写真集』 ネコ・パブリッシング(2015/12発売)だ。
 この写真集には城東電気軌道電車の写真がたくさん掲載されていて、なるほどこんな電車が走っていたんだと思いつつページをめくった。
 さらに当時の模様が文章で書かれていて、これも貴重である。いくつか書きだしておく。


 錦糸町を起点に水神森を経て西荒川に至る線が小松川本線です。距離にして3.6K.M.片道運転所要時間は15分、運転間隔約5分です。更に荒川方水路(放水路)を越えて東荒川から今井に至る間、江戸川線です。距離は3.1K.M.片道運転所要時間は13分、此の線は単線ですから運転間隔も13分になつて居て、松江~一之江間には待避線の設けがありますので此の間隔で双方から発車致します。
 元に戻つて水神森から南へ分岐して洲崎に至る線、之は砂町洲崎線と呼びます。此の間4.6K.M.で運転時間は15分です。錦糸町からですと水神森迄4分かゝる訳です。
 そして本線と洲崎線の発車間隔は各々5分毎に相互に発車します。次は賃金です。此の3月1日(昭和七年)から改正されて、1区3銭、2区5銭、3区7銭、4区9銭、5区11銭、6区13銭、7区15銭となって居まして、その区界は錦糸町-水神森間、五ノ橋通-モスリン裏間、モスリン裏-西荒川間、五ノ橋通-小名木川間、小名木川-稲荷前間、稲荷前-洲崎間、それから東荒川-一之江間、松江-今井間では各1区の扱いをします。之で線路と賃金と時間が分かりましたから今度は車両です。
 当社の車両は次の様に大体に於いて三通りに分類する事が出来ます。

 A. 木造四輪単車
 B.木造ボギー車
 C.半鋼製ボギー車


 ちなみにボギー車って何かとウィキペディアで調べてみると以下の通り。


 ボギー台車(ボギーだいしゃ)とは、車体に対して水平方向に回転可能な装置をもつ台車の総称である。またボギー台車を装備した車両をボギー車と呼ぶ。


 ここに電車の写真がいくつもあるが、車体の種類、材質どうなのか、素人にはよくわからない。私には写真に添えられているキャプションをたよりするしかない。


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(注19)


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(注20)


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(注24)


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(注25)


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(注26)


 写真を見てみると、なるほど車体は木製みたいだとわかる。車体が木製だから戦禍を免れなかったのかもしれない。今現在城東電車は残っていないようだ。もし残っているなら見てみたいものだ。


 扠て電車は「小名木川」から右折に線路に水がたまつて居る、見るからに汚たならしい工場、小家屋の一群へ突進します。「大島」「竪川通」を経て「水神森」で本線に合し再びコンクリート道路上を総武線と若干並行して「錦糸町」に至ります。錦糸町駅は白木屋支点の1階の一部フオームが構へられて居ます。


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(注27)


 「水神森」で洲崎線を右に尚もコンクリート道路を「モスリン裏」迄伝つて行きます。此の「モスリン裏」と云ふのは東陽モスリン会社の工場裏と云ふ訳で此の外に何々通り、何々裏、何々前と云つた様な軌道線特有の、親しみのある停留所の呼称が沢山あります。


 「モスリン裏」から稍々斜に右に折れて「浅間前」に至ります。併用道路は此所の亘り線の終りです。此の区間は線路に敷石もない原始的な昔の京浜電車の蒲田町附近の様な路線です。全線中割合に数多い橋梁の内で一寸渡り答へのある橋を渡りますと間もなく「小松川」、左手に車庫と変電所があります。それから一足で西荒川終点、四園の風趣はお世辞のないところ誠に汚ならしいドブと工場ばかり。


 電車を下りると、イアーこれは、電車に比較して又いとも華麗な車絡バスが待つて居りました。之に乗つて堤を上つて長い長い百足のような荒川放水路の木橋をずつと遠くの常磐線の鉄橋を眺めつゝ暫時、木橋を渡り終へて少時、いと古めかし東荒川駅です。駅と云つては趣が出て来ません。電車発着所です。これらの車輌は皆ポールを1本こつきり持つて居りません。電車も古めかしい、線路も古めかしい、唯、線路の傍に連続する鉄柱だけが若干の近代味を見せるだけ、乗客も殆ど質朴な人達ばかり、響の交錯する市中を僅30分たらずの所で、こんな風景を見る事が出来やうとは?


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(注28)


 此の辺りは水地が多いので住宅地には不向きですからいたる所釣堀が沢山あります。車中に釣竿を肩にした人々を多く見受けられるるのは之の故です。「一之江」-「松江」間が複線になって居まして双方から出る電車は此の区間で待避します。「一之江」には、名ある宗教家田中智学氏の昭和3年4月創設した妙宗大霊廟あり、其の周囲を繞る申孝園の堂閣崇大、麗塔巍然、諸の亭園樹林、泉石池丘の配置整然たる、春は幾百株の老桜、夏は郡中第一の瀧、四季をりをりの花等の人工と自然を調節美化した信仰的芸術の所産たる一境地があります。之は恐らく名所葛飾の勝を活かしたものと云へませう。

*ここに再掲する記事は、鈴木金次郎氏(その後、宮松姓)が、戦前に模型鉄道社が発行していた雑誌「鐵道」(昭和7年4、5月「鐵道」第36、37号)に掲載したもの。


 荒川放水路を挟んだ東側にも城東電軌は路線を持っており、西側とは小松川橋を連絡バスで渡り、結ばれていた。この線は後に、市電となっても他線との連絡がなく、離れ小島の存在である。最終的に都電26系統を名乗るも、系統板も掲げずに運行されていた。城東時代から廃線時までオープンデッキの単車しか走っていない。市電となってからは400形が4輌で運行されたが、路線の中間部である一之江~松江のみ複線となっていて、そこですれ違い、両端部は単線と云う形態が最後まで続いた。
 昭和27年5月20日にトロリーバスに代替される形で廃線となった。一挙に近代化された形だが、同時にトロリーバスは、荒川放水路の橋を渡って運行され、電車時代は叶わなかった直通運転が実現された。そのトロリーバスも昭和43年9月28日には廃止となり、電車時代より運行期間が短かったのは、何とも皮肉である。


 ところで「城東電気軌道1」であげた城東電車の路線案内の面白い説明がここに書かれている。拡大してみよう。


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 多数の縦の黒線と白も米粒のような描画は、煙と煙突。荒川西部は、当時既に工業地帯である。洲崎~仙気稲荷は、「工事中不開通」のスタンプが押してある。


 よく見てみると確かに「米粒のような」ものがある。これは煙突から出る煙だったのだ。そういえば永井荷風の『日和下駄―一名東京散策記』 (講談社1999/10発売 講談社文芸文庫)にも次のような文章があった。


 尤も深川小名木川から猿江あたりの工場町は、工場の建築と無数の煙筒から吐く煤烟と絶間なき機械の震動とによりて、稍西洋なる余裕なき悲惨な光景を呈して来た。(第五 寺)


 そして仙気稲荷~洲崎の間には、「工事中不開通」のスタンプが押してあったのだ。


d0331556_06442366.jpg もう一冊は、原口隆行著『日本の路面電車<2> 廃止路線・東日本編-思い出に生きる軌道線』JTBパブリッシング(2000/04 発売)JTBキャンブックスである。
 この本はシリーズものになっていて、いわゆる日本全国の廃止路線のことを書いた本である。その中に城東電気軌道のことが書かれている。内容は基本的には城東電気軌道の歴史をコンパクトにまとめたものだ。
 ただ城東軌道の敷設が何故許可に関して『城東電気軌道百年史』にはなかったことが書かれている。


 大正6年といえば、都心部で激しい競争を繰り広げていた東京電車鉄道、東京市街鉄道、東京電気鉄道が合併して誕生した東京鉄道が東京市電電気局が司るという合意が暗黙の了解として成立していたはずである。
 なぜ、このような時にこの城東電気軌道が新たに私鉄として設立されたかは定かではないが、おそらくこの地帯が低湿地帯で雨が降るとすぐ浸水するといった地理的条件が災いしたのであろう。


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 言っていることがよくわからない文章である。ここがよく浸水する地域だから、許可が下ろされたみたいな書き方だ。浸水することが「災いした」と書くことは、城東電気軌道にババを引かせたみたいだ。
 確かにこの地域は今でもゼロメートル地帯として有名だ。歩いているとわかるが、たとえば橋を渡るっていると道路が川より低い位置にあることが実感出来る。
 当時は排水設備が不十分だったろうから、大雨が降れば簡単に浸水しただろうな、と推察できる。当然城東電気軌道も浸水に苦労しただろう。そのことを書いた文章があったのはこの本だけであった。


 こうして半端な状態であったがともかく路線網を完成させた城東電気軌道では、その後も次第に乗客も増えてきたことから車両の更新をはかり、木造ながらボギー車を投入、次いで半鋼製車もつぎ込んだが、相変わらず水害には悩まされ続けた。雨が長引いたり、大雨になるとたちまち路線が水浸しになって運行ができなくなるほどだ。
 同社にとって水の問題は深刻であった。昭和13年(1938)9月1日の台風では大きな被害を被り、車両の手当てがつかなくなり、東京市電局から数両借り入れて対応しなくてはならなかった。


d0331556_06512694.jpg 最後の1冊は山田 俊明 著 『東京の鉄道遺産 百四十年をあるく』〈下〉発展期篇 けやき出版(立川)(2010/03発売)である。この本はいわゆる城東電気軌道の面影を現在探ることが出来る場所を教えてくれている。次の章でこの本を元にして城東電気軌道が走っていたところにその面影を見ることが出来る場所を訪ねてみたのでそれを書いてみたい。


(注12~28)
 井口 悦男 監修 /萩原 誠法/宮崎 繁幹/宮松 慶夫 編 /永森 譲 協力 『東京市電・都電―宮松金次郎・鐵道趣味社写真集』 ネコ・パブリッシング(2015/12発売)より


by office_kmoto | 2018-09-06 04:26 | 余滴 | Comments(0)

城東電気軌道 4

第三章 城東電気軌道の終焉

 昭和初期に鉄道業界を襲った深刻な不況は経済恐慌がもたらしたものだが、一方鉄道業界には構造的な変化がさらに深刻な影響をもたらしつつあった。それは自動車の進出であった。


 城東電気軌道においても、復興事業によって沿線の道路整備が進んだ。1930年代以降タクシー「侵入」が目立ち始め、競争を激化させた。さらに自動車の増加はもう一つの大きな問題を招くこととなった。城東電気軌道城東電気軌道小松川線は錦糸町から亀戸九丁目までの大部分が京葉道路との併用軌道だったため、幅の狭い道路に電車と自動車と歩行者が無秩序に集中していた。道路上の混雑は電車の遅延を招くばかりか、自動車に対する競争力を強化するためにスピードアップを図ろうにも到底できない状況になりつつあったのである。


 この時代から自動車との競争に城東電気軌道も巻き込まれていく。
 このため経営悪化は避けられず、当時の雑誌に「砂町線の如き、軌道に雑草が生え茂り、見るからに粗放な経営を思わせるに充分である」と書かれる始末。この軌道は汚く乗り心地が悪い上に運賃が高いからますます敬遠されていく。
 それでも手をこまねいてばかりではいられない。城東電気軌道も対策を打ち出す。たとえば、当時砂町線の近くに海水浴場が開業したこともあって客誘致のため割引往復券を発券したりした。
 また1929(昭和4)年10月、千葉街道の拡幅工事に伴う本社及び錦糸町停留所の改築を決定し、翌1930(昭和5)年3月20日に竣工した。
 そして4階建ての1階部分を城東電気軌道の停留所、2階から4階の大部分を白木屋呉服店に賃貸し、一部を本社事務所や運輸事務所として使用した。


 白木屋は創業250年以上の歴史を持つ老舗呉服店であり、20世紀に入って百貨店へと転換した。1928(昭和3)年、池上電気鉄道五反田駅に白木屋五反田分店を出店して成功を収める。これが関東初のターミナルデパートと言われており、錦糸町分店は五反田分店の成功を受けて進出した「2号店」である。


 城東電気軌道は白木屋に年間約4万2千円で賃貸しており、毎年1万4千円以上の利益を出していた。これは乗合自動車事業が生み出す利益の3倍近い数字で、城東電気軌道の最も苦しい時期をささえた「兼業」であった。


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(注10)


 この写真は『東京市電・都電―宮松金次郎・鐵道趣味社写真集』からのものだが、ここには当時の白木屋が入っていたビルの模様を次のように描いている。


 市電を錦糸町終点で捨てますと立派な十字路が完成されて居ます。西と南には市電が延び東と北には坦々としたコンクリート18間道路が続いて居ます交差点に立つて東の道路を望みますと、その右角に4層の黒く隅取られたクリーム色の此の辺りでは一寸眼に着く相当大きな建物があります。「白木屋」と大きな看板が出て居ます。城東電車は此の第1階にフォームを構えて出入りして居るのです。白木屋の可成派手な看板に比して城東電車の目標は余りにも地味過ぎます。東武鉄道のあの如何にも色気のない毒々しい広告よりもどの位良いかもしれませんがもっと目に付く様に看板を掛けたら思います。写真をご覧下さい。白木屋の看板の「木」の字の下に四文字「城東電車」それからその右端に唯四文字、目標となるのはわずか之のみです。会社の人々も、しばらく此の方面へ来なかつた人達が「オヤ!城東電車が何処かへ行つちまつた」と云う言葉を良く耳にする所だそうです。筆者も始めて新しい城東電車を見に来て以来の光景を思い浮かべて居た頭にさう感じました。


 このビルに白木屋が入っていた時の光景は、いかにも城東電気軌道の終焉が近いことを示すようだ。ちなみにウィキペディアで調べてみると以下の通りある。


 本所区(現・墨田区)江東橋4-26-5 1930年(昭和5年)4月開店。1937年(昭和12年)に大規模な増改築工事を行って増床した。JR錦糸町駅前の城東電気軌道錦糸堀停留所に開設した店舗を借りて出店していたため、店舗の1階に電車が発着していた。戦後も戦災で焼けた状態のまま補修工事がほとんど行われぬまま1階のみが使用される状況が続いたが、改修されて墨田区内で当時唯一の大型店であった江東デパートとなった。解体後、現・東京トラフィック錦糸町ビル(東京都交通局のビル)。(東京都交通局のビル)。


 現在の東京トラフィック錦糸町ビルが建っているところが、私が子供の頃には江東デパートがあった。それは記憶にある。ただそこに白木屋が入っていたとはつい最近にまで知らなかった。それを知ったのも確か川本三郎さんのエッセイだったと思う。

 城東電気軌道は荒川放水路の鉄道道路併用橋の建設、東荒川・西荒川間の延長線上今井・下今井の特許、大島第一支線・大島第二支線・砂町第二支線の取り消し、特許失効とした。そして城東電気軌道が経営の重点を電車からバスにシフトしていく。時代はもう軌道電車の時代ではなくなっていたのである。


 1926(大正15)年に小松川線西荒川・江戸川線東荒川間の連絡バス運行を目的として乗合自動車事業を開始するが、その後路線線を拡張することはなかった。


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(注11)


 城東電気軌道は1931(昭和6)年の6月までに葛飾乗合自動車を傘下に収めている。


 葛飾乗合自動車は小松川を起点に江戸川区、千葉県東葛飾郡に路線を伸ばしていたので、城東電気軌道が錦糸町・小松川間の免許を新たに取得し、同社が合併すれば錦糸町から千葉までの路線を運行することができる。1912(明治45)年の大城東電気軌道構想が形を変えて実現する。


 城東電気軌道は乗合自動車を営業し、まるで軌道から解き放たれ、全てをやり直すかのようであった。
 そしてついに城東電気軌道は1936(昭和11)年4月30日、東京乗合自動車と合併契約を締結し、翌1937(昭和12)年3月25日に合併する。城東電気軌道は1913年8月20日以来にわたる歴史を終えることなった。
 さらに城東電気軌道と合併した東京乗合自動車は1年後の1938(昭和13)年4月25日に東京地下鉄道(東京メトロの前身)と合併した。
 この時期、都市部の交通事業者に大きな転換を迎える。
 事業者の乱立、恐慌による運輸送需要の落ち込み、事業者を疲弊させる過剰な競争などは都市交通を破たんさせるものであった。そこで「交通調整」を目的とした事業者の合同が進むことになった。1940(昭和15)年末の「小合同・地域別調整案」が答申された。


 同案は都市部の地下整備を最優先課題とし、旧市域内は軌道やバスなど路面交通を東京市、地下鉄建設を交通営団に統合、旧市域以外は4つのブロックに分け東急・西武・東武・京成がそれぞれ中心となって交通調整を進める内容であった。
 この結果、地下鉄とバス、路面電車を建設・運営していた東京地下鉄道は事業ごとに分割される。すなわち、地下鉄事業は新設する帝都高速度交通営団の母体となり、東京乗合自動車から引き継いだバス事業は東京市営バスに、旧城東電気軌道線は東京市営電車に、葛飾乗合自動車のバス路線一部を除き京成電気軌道のバス事業に統合されることが決定した。


 この答申に基づき、1941(昭和16)年7月に帝都高速度交通営団が設立され、1942(昭和17)年2月1日に旧城東電気軌道線、乗合自動車路線が東京市に、葛飾乗合自動車が京成電気軌道に譲渡された。


 千葉の交通網を支える京成のバスが何故江戸川区で走っているのか、かねがね不思議に思っていた。その理由がここの書かれており、なるほどそういうことだったのかとわかる。この時の交通調整の名残である。

 ここまで『城東電気軌道百年史』を元に城東電気軌道の歴史をたどってきた。目的は大半は達したので、これ以後はざっくりとその後を書く。

 江戸川線は交通混雑緩和のため路面交通のバス事業の拡充を図ったが、ガソリンの輸入事情など課題が多く、電気を動力とするトロリーバスが脚光を浴びる。その後都電に変わる。
 しかし道路を占有する都電も道路の混雑事情を招いていた。そのため都電も廃止されていく。
 ちなみにトロリーバスは1968(昭和43)年9月29日21時45分の最終バスをもって16年間の短い営業運転を終了する。
 都電は1967(昭和42)年から1970(昭和45)年にかけて撤去が行われ、荒川線を残して全区間が廃止されることとなった。


(注10、11)
 井口 悦男 監修 /萩原 誠法/宮崎 繁幹/宮松 慶夫 編 /永森 譲 協力 『東京市電・都電―宮松金次郎・鐵道趣味社写真集』 ネコ・パブリッシング(2015/12発売)より


by office_kmoto | 2018-09-02 06:42 | 余滴 | Comments(0)

城東電気軌道 3

第二章 城東電気軌道開業

 1917(大正6)年12月ついに第一期工事が竣工する。同24日に運輸開始を申請、同30日から営業が許可された。


 出願から7年9か月を経てついに城東電気軌道は錦糸町・小松川間の営業を迎えることとなった。


 どうにか錦糸町・小松川間の開業にこぎ着けたものの、残りの小松川・上今井間、さらに上今井・浦安間の着工の目途が立たない。
 このまま会社は順次路線を延長していかなければ成長できない。しかし荒川放水路の横断問題が解決しないと開業している錦糸町・小松川間との路線がつながらない。社長の尾高は路線敷設の優先順位の見直しを図りつつ、旧計画の整理を乗り出した。
 まずは浦安延長線の特許を返上する。さらに砂町支線の敷設を計画する。これは錦糸町・小松川間の路線で亀戸町水神でTの字のように分岐し大島四丁目間を結ぶものである。1919(大正8)年10月13日に工事施工認可が下りると、翌1920(大正9)年1月13日に着工し、同年12月28日に砂村支線の営業を開始した。
 続いて1919(大正8)年11月25日亀戸と寺島村(現在の東向島)付近を結ぶ寺島支線を出願した。
 この頃の城東電気軌道の輸送人員は、第一次世界大戦の反動不況、1920(大正9)年の関東大震災の影響により1923(大正12)年下期で落ち込みが見られるものそれ以降は開業以来一貫して増加傾向にあった。
 1921(大正10)年2月28日には砂町支線を洲崎まで延伸を出願し、同年12月24日に特許を得た。
 さらに城東電気軌道は砂町支線から東西に延びる路線を4つ敷設することを申請するが、これは関東大震災復興を進める東京市とぶつかり、難色を示される。この東京市との衝突は城東電気軌道の限界を暗示し、ある意味運命を決定することとなる。


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(注8)


 大島・砂町4支線をめぐる東京市との論叢は城東電気軌道の限界と終局を暗示していたと言えよう。千葉進出を断念して城東に生きることを選択した城東電気軌道は東京市街地が関東大震災後急速に城東地域を飲み込みつつある中で、東京市に打ち勝つか、軍門に下るか、いずれかの未来しかないという現実を突き付けられたのである。
 しかしながら、城東地域における拡張政策を封じられた城東電気軌道に、残された手は多くなかった。


 さて、城東電気軌道は第一特許線の残りの小松川・瑞江間は工事竣工期日延長を3回行っていたが、江戸川線は東荒川・今井間は1925(大正14)年12月31日に開業した。


 江戸川線は全区間単線であったが、中間地点にあたる一之江附近の橋梁を複線構造とし、列車の交換を可能にしていた。
 荒川放水路への橋梁は断念することとなり、1926(大正15)年3月1日の小松川線・西荒川間開業にあわせて、西荒川・東荒川間に直営連絡バスの運行を開始した。



 しかしながら江戸川線は城東電気軌道の経営を好転させることはできなかった。というのも、江戸川線開業より5年前の1920(大正9)年5月に設立された葛飾乗合自動車株式会社が、小松川と行徳・八幡・浦安間を結ぶ路線バスの既に始めていたからだ。


 城東電気軌道の江戸川線と葛飾乗合自動車とは運行状況、運賃は大差がないが、浦安・行徳方面に直接行くには、葛飾乗合自動車の方が便利であった。
 いずれにせよ、最初に私が城東電車に興味を持ち、それを調べていた頃、今の荒川をどう越えたんだろう、という一番の疑問は解決した。要するに城東電車は荒川を越えなかったのだ。超えることができなかったというべきか。


 城東電気軌道は江戸川線に次いで洲崎線に着工し、1927(昭和2)年3月に稲荷前・東陽公園間、翌年1928(昭和3)6月に東陽公園・洲崎仮停留所を開業させた。
 しかし、恐慌が沿線工業地帯に深刻な不振をもたらしたこと、軌道の収容空間となる復興道路が完成する1930(昭和5)年まで市電の洲崎電停と連絡できなかったこと、同年に平行する四ッ目通りに市電が開業したことから、期待されたほどの成果はあげられなかった。
 なお、東陽公園前・洲崎間は市電と路線を共有することとなり、両社局で協定が締結されている。

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(注9)


 城東電気軌道は洲崎まで延びたが、一方寺島までの延長を計画していたのも驚きであった。いずれも洲崎、玉の井と遊郭につながるのである。その客を見込んだのであろうか。今の東武亀戸線は寺島線と同じ路線を走っていることになるのではないだろうか。
 このように城東電気軌道は電車事業で苦境に立たされたが、経営面でも苦境に喘いでいた。
 大正期に開業した電鉄会社、特に軌道会社は利益の半分以上は電灯事業などの兼業で生み出していた。しかし城東電気軌道は先に見た会社の歴史で、自前の電燈会社を持っていなかったため、ある意味異質であったと言える。
 ちなみに東京近郊で明治末期に電灯事業を兼営していた。代表的な事業者として、京浜電気鉄道(現京急電鉄)、多摩川電気鉄道(現東急世田谷線)、京王電気軌道(現京王電鉄)、王子電気軌道(現都電荒川線)などが挙げられる。


(注8)
 Rail to Utopia(https://rail-to-utopia.net/2018/03/218/)から参照。

(注9)
 井口 悦男 監修 /萩原 誠法/宮崎 繁幹/宮松 慶夫 編 /永森 譲 協力 『東京市電・都電―宮松金次郎・鐵道趣味社写真集』 ネコ・パブリッシング(2015/12発売)より

by office_kmoto | 2018-08-30 06:21 | 余滴 | Comments(0)

城東電気軌道 2

第一章 城東電気軌道前史


 ところで城東電気軌道という軌道ってなんだろう?一般社団法人日本民営鉄道協会のホームページ(http://www.mintetsu.or.jp/knowledge/term/82.htm)によると、


 レールの上を車両が走るという点では鉄道と変わりませんが、原則として道路に設けられ、道路交通を補助することを目的としており、大正10年以来軌道法によって監督を受けています。鉄道が道路ではなく専用のレールを使って高速で車両を走らせ、人または貨物を運ぶのとは性格が違います。


 つまり電車と言っても、いわゆるJRなどの電車ではない。道路を走る市電やかつての都電をイメージしてもらえればいいかもしれない。
d0331556_06255227.jpg では城東電気軌道とはどういう歴史をたどったのであろうか。その歴史をたどるにあたり恰好の本が出版されている。枝久保達也著『城東電気軌道百年史』(HappinessFactory)である。(注5)以下この本を元に城東電気軌道を振り返ってみたい。

 明治、大正と東京の交通事情を知るには、その前の江戸時代の道路事情を知っておく必要がある。
 江戸時代の物流は水運が中心であった。そのため道路整備は限定的であり、市街の発展に伴い自然発生的に形成されていた。江戸の道路は狭く、もっぱら歩行者専用として作られており、馬車や人力車の通行をまったく想定していなかった。
 さらに幕府の軍事的要請もあり、道は狭く曲がりくねっており、意図的に通りにくい構造をしていた。
 そうした江戸時代に形成された道路は明治になり道路整備に迫られていく。ただ都市部では道路や鉄道の整備が進むが、江東地区はその整備がなかなか進まなかった。というのも幕藩体制の終焉により江戸詰の武士が各藩に帰藩し、明治初期の東京の人口は江戸時代と比べ半減していて、深川地区は都市計画の優先度が下げられてしまう。もともとこの地域は都市整備計画が遅れても水運が交通体系として確立されており、計画の優先度が遅れても問題がなかったし、そのために道路整備が遅れたともいえる。
 そのためこの地域における都市交通網の整備は路面電車の登場を待たなければならなかった。


 1910(明治43)年5月6日、実業家の本多貞治郎を総代とする計24名が発起人になり、軌道条例に基づく電気軌道の敷設を出願した。


 資本金30万円の城東電気軌道株式会社を新たに創立し、東京市本所柳原町2丁目から亀戸町、小松川村、松江村を経由し、瑞穂村(現瑞江)に至る延長5マイル(約8㎞)の軌道を新設する計画であった。


 城東地区は江戸時代から深川を中心に木材業、米穀肥料業、倉庫業などが繁栄していた。明治初期になると、味噌や足袋、煙草入など製造する家内工業が興りはじめ、一部ではマニュファクチャーへの発展が見られるようになっていった。
 さらに工業化の波はさらにこの地域に押し寄せており、人口増加の期待が寄せられた。しかし交通網の整備は遅れており、ここに鉄道が不可欠な状況であった。
 そのため城東電気軌道の計画は外部資本家の主導ではなく、地元の要望に根ざしたものであり、それを東京府も積極的に後押した。
 ところで城東電気軌道の総代となった本多貞治郎の存在が大きな意味を持つ。本多貞治郎は、鉄道史における京成電気軌道(現京成電鉄)の創業者として知られる人物なのである。


 1906(明治39)年、本多貞治郎、利光鶴松、井上敬次郎ら東京市鉄道系グループは、東京市本所区押上から柴又・八幡・中山・船橋・佐倉を経て成田に向かう電気軌道の敷設を出願した。他に郷誠之助・川崎八右衛門らの一派、貴衆両院議員200名からなる一派が同様の区間について出願しており、三派合同の上、1907(明治40)年に特許を得ることになった。これが現在の京成電鉄の起源である。


 ここに「特許を得る」とある。これはどういうことかの説明があるので付け加えておく。


 鉄道を開始するためには、法律に定められた許認可が必要となる。これを鉄道の場合は「免許」、軌道の場合は「特許」という。


 話を元に戻せば、本多貞治郎が城東電気軌道の敷設の出願を申請する総代となったのには本多の裏の考えが見え隠れするということである。
 すなわち城東電気軌道の出願は本丸の京成電鉄の会社設立、工事の準備に目途がついた後になされている。だから本多は自身が描く軌道ネットワーク計画の一環として城東電気軌道の総代になったと見ることが出来そうである。
 それが証拠に、城東電気軌道の創立事務所は京成電気軌道本社内に設けられた。軌道敷設の特許を得るためには専門的な知識を持った者、技術者・事務員が必要であるからである。
 本多は城東電気軌道だけでなく自らの構想実現のため周辺の鉄道計画に積極的に関わっていく。城東電気軌道の創立の後本多は江東電気軌道の出願に関わっていく。


 本多が企画した大資本と共に計画を進めた京成電気軌道が第一にあり、次いで地元主導の城東電気軌道計画に参画したことで事業エリアが面的に広がった。そこで両路線をネットワーク化するために本多が主導的に企画したのが江東電気軌道だったのではないだろうか。


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(注6)


 しかし江東電気軌道の出願は1916(大正5)年12月8日却下されてしまう。
 城東電気軌道株式会社はその創立に向けて動き出し、1912(大正元)年に発起人総会が開かれたが、そこには本多貞治郎の姿はなかった。
 本多に代わって計画の主導的立場になったのは、廣澤金次郎、千葉胤義、橋本梅太郎であった。
 そこで計画に大きな変更がなされた。すなわち路線起点は本所柳原町から変わらないものの、終点は松戸に変更され、路線長も当初の3倍近くなっている。それに伴い資本金も30万円から100万円に増加した。
 城東電気軌道はこれ以外にも延長計画を発表している。

 第一延長出願線(1912年725日)上今井・浦安町間
 第二延長出願線(1912年7月28日)浦安・小松川間及び南行徳・松戸間
 第三延長出願線(1913年9月13日)上今井・下今井間


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(注7)


 本多が失脚し、千葉胤義らが擡頭してきたのは、城東電気軌の経営方針を巡る対立があったことは想像に難くない。
 ではこの千葉胤義という人物は如何なる人物であるのか。千葉は国内外各地に主に電気・ガスの事業に携わっていた。ここが肝である。


 城東電気軌道の新たな主導者として名前が挙げられた千葉胤義と橋本梅太郎が平行して進めていたのが「江戸川電気株式会社」という電燈会社である。


 江戸川電気は1911(明治44)年9月21日に出願された。資本金8万円の小規模な電燈会社である。発起人の半数以上が後に城東電気軌道発起人に参加している。
 ここから千葉らが城東電気軌道に参画したのは軌道のためではなく、自らの事業であった電気事業の拡大のためではなかったのか、と疑われる。これは本多と同様である。
 では千葉が電力会社の拡大のため、なぜ城東電気軌道に関わったのか?そこに当時の電力事情が見え隠れする。
 電気は貯めることが出来ない。そのため地域ごとに発電所を作り、地産地消していた。1万人規模の都市であれば事業として十分成立するがそれ以下の小さな町村では投資に見合った利益が見込めない。
 さらにこの頃日本の電気事業に大きな変化が訪れつつあった。長距離送電技術が確立したことで、山奥の大規模な水力発電からから需要地に送電することが可能になった。このため効率の悪い自社発電所を廃止し、水力発電事業者からの買電に切り替える事業者が増えていく。これは江戸川電気も大きな影響をもたらした。小規模発電所で近隣の電灯を供給するだけでは遅かれ早かれ行き詰まることが、開業を前にして明らかになった。江戸川電気も大規模な水力発電所から電気の供給を受けることとなるが、そうなると周辺家屋の電灯需要以外に電力の供給先を確保しないとならなくなった。そこで目を付けたのが城東電気軌道であった。ここで大きな電気が消費が見込まれるからである。さらに千葉らが軌道の延長計画を持ちこんだのも、さらに電力の消費を見込んだのである。
 ところが城東電気軌道は資金不足、荒川放水路の建設、第一次世界大戦による物価高騰により、八方塞がりとなっていく。株主も経営陣も意欲を失いつつあった。千葉胤義は更迭され、社長の廣澤金次郎も辞任。大塚喜一郎が就任するが、すぐに辞任。尾高次郎が社長に就任し、再スタート進めることとなった。尾高はさっそく事業の整理を取り掛かることとなった。

 ここまで読んでくると、城東電気軌道はそれに参画する主たる者たちにいいように利用されたことがわかる。彼らの醜い思惑が城東電気軌道があったことが開業前にあった。そのために軌道が作られる前から、延長線が計画されもした。
 計画線とはいえ、地元を走っていた城東電車が、もしかしたら松戸までつながったかもしれないと思うと、その裏にある思惑とは別に大きな驚きであった。


(注5)
 この本、江戸川区の図書館には蔵書していない。一方江東区の図書館ではほとんどの図書館に置いてある。区分として「江東区関係」と分けられている。郷土史としてこの本はきちんと置かれるべき本として認識している。
 城東電車は江戸川区も走っていたのだから、この本は江戸川区の図書館にも置かれるべき本だと思う。
 ときどき思うのだが、江東区の図書館はきちんと置くべき本が置かれていると思う。私が読みたいと思う本が江戸川区の図書館になくて、江東区の図書館にあるというのがよくあるのだ。別に私が読みたい本が特殊というわけではない。最近出版された本でも江戸川区の図書館になくて、江東区の図書館にはあるというのを何度か経験している。
 江戸川区に住んで、区の図書館をよく利用させてもらっているし、有り難い存在とも思っている。ただせっかくならきちんと本を管理された図書館であって欲しい。だから本の選定、管理は江東区を見習って欲しいと思っている。

(注6)
 Rail to Utopia(https://rail-to-utopia.net/2018/03/209/)から参照。

(注7)
 Rail to Utopia(http://rail-to-utopia.net/2018/03/611/)から参照。


by office_kmoto | 2018-08-27 10:49 | 余滴 | Comments(0)

城東電気軌道 1

<プロローグ>


 昔から気になっていることがある。一之江境川親水公園にあるレールのモニュメントである。これはここが親水公園になる前からあった。


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 最初このレールのモニュメントを見たときは、これは何だろう、と思った。レールの前には説明板がある。そこにはつぎのように書かれている。


 城東電車は大正2年に創立し、江戸川線は大正14年東荒川~今井間で開通しました。車両が一両で「マッチ箱電車」と呼ばれ、昭和27年まで運行していました。
 城東電車廃止の翌日より、無軌道電車(トロリーバス)が走り、昭和43年までの約17年間運行されていました。トロリーバスはレールのない電車で、屋根について集電装置で架線から得て走っていました。


 このレールはかつてここを走っていた城東電気軌道電車のレールであった。もちろん私はこの電車のことは知らない。ただその後に走っていたトロリーバスには何度か乗ったことがある。特に記憶に残っているのは、小学校の一年生の時だったと思うが、遠足の時にトロリーバスを貸し切って、上野公園へ行ったことだ。

 そしてわりと最近できた松江七丁目第三児童遊園にも城東電気軌道電車のモニュメントがあった。(注1)


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 たまたま川本三郎さんのエッセイ『東京抒情』 (春秋社 2015/12発売)を読んでいて、城東電気軌道電車のことが書かれていて、その実体を知ることとなった。


 城東電車、正式には城東軌道株式会社は大正六年(一九一七)に開業した私鉄。当時は城東はまだ市外だから郊外電車といっていいだろう。
 路線は当初ふたつあった(のちに三つ)。ひとつは、市電の錦糸堀(日比谷など市中から来る市電の終点)に接続する形でそこを起点とし、総武線に沿って東に向かい、中川を渡って荒川放水路の手前、江戸川区の小松川町(停留所は西荒川)まで行く小松川線。これが前述したように大正六年に開業している。
 もうひとつは大正九年に開通した線で、やはり錦糸堀を起点とするが、水神森(亀戸駅近く)で小松川線と分岐して南に下り、竪川を渡って小名木川に至る線。これは昭和二年には東陽町を経て洲崎にまで延長され、ここで市中に通じる市電と連絡した。(砂町線)
 昭和十七年(一九四二)には戦時体制の市電の公営化によって東京市の市電に吸収される。


 大正十四年(一九二五)に開通した城東電車の三つ目の路線(一之江線)のことで、放水路沿いの東荒川と江戸川沿いの今井まで結んだ。現在の江戸川区のほぼ真中を東西に走っていた。(残影をさがして)


 現在、亀戸駅の南口側に亀戸緑道公園があるが、ここは昔、城東電車(戦後は29系統、38系統の都電)が走っていたところ。電車のレールと車輪がモニュメントとして残っている。
 その少し先に竪川があり、そこに橋が架かっている。現在は人道橋だが案内表示によれば城東電車の専用橋だったという。(残影をさがして)


 これを読んでもっともっと城東電気軌道電車(以下城東電車とする)を知りたくなり、調べてみようと思い始めた。
 調べてみると、この城東電車、錦糸町を起点に、亀戸、小松川を通って、今井まで走っていた。要するに今の京葉道路を、あるいはそれに沿って走っていて、さらに荒川を挟んで今度は今井街道に沿って走っていたのである。さらに城東電車は今の亀戸水神森で分岐し、大島から洲崎まで電車が走っていた。

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(注2)


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(注3)


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(注4)


 ネットで調べてみると、かつての城東電車の遺構がひっそりと残されていたり、その路線にその面影を見ることも出来るようであった。
 そして何よりもこの城東電車が私が生まれ育った場所の近くを走っていたこと。さらにこれまで歩いて来た道がかつて電車が走っていただろうと思われることなど、自身に身近な場所が関係していたことなどわかってくる。

 これは面白い。

 もっともっと知りたくなった。ネットを駆使し情報を探し、地元の図書館、隣の区の図書館でも資料を探し出した。そしてかつて城東電車が走っていた場所を昨年から時間があるとき歩いてみた。以下調べてわかったことを書きつづる。

(注1)
 ここの公園にあるレールのモニュメントは境川親水公園と比べ、レールの幅狭い。どうやらここのレールのモニュメントは単に置いただけのようである。レールの横にあるのはその当時の枕木であろうか。ちょっとした足場として使っている。
 ただのちに城東電車が走っていた場所を推察したとき、実際この公園のところを走っていたとするには無理がある。位置的にずれている。何故ならこのまま進むと国柱会にぶつかってしまうからだ。

(注2)
 城東電氣軌道株式會社/編「沿線案内 城東電車」(江戸川区中央図書館収蔵)
 サイズ 16×44cm
 地図1枚 色刷
 裏面:城東電車線路案内、古蹟名所案内、普通賃金表
 出版注記 出版年不明

(注3)
江戸川フォトライブラリー http://edogawa-photo.net/

 「江戸川区の歴史」の「昭和のはじめまで江戸川区内を走っていた城東電車(マッチ箱都電)」より昭和7年の地図

(注4)
江戸川フォトライブラリー http://edogawa-photo.net/

 「江戸川区の歴史」の「昭和のはじめまで江戸川区内を走っていた城東電車(マッチ箱都電)」より平成29年の地図




by office_kmoto | 2018-08-25 19:13 | 余滴 | Comments(0)

すくすくハウス

 孫が夏休みで昼間一日中、我が家にいる。我が家ではすくすくスクールならぬ“すくすくハウス”と称している。
 午前中はプールがあるので、そのため学校まで付き添い、一時間後迎えに行く。世の中物騒なのでそうしている。
 昼食後、夏休みの宿題を見てやる。
 読書感想文というのがある。夏休み本を読みましょう、という、あれだ。孫はまだ小学一年生なので、感想文ではなく、読んだ本の書名、簡単な感想をカードに書き込むだけだが、学校ではこの休みに最低でも5冊は読みましょう、と言われているらしい。そのため、3時のおやつ前に1時間ほど本を一緒に読む。
 まったく強制的に本を読めなんて言うから、本が嫌いになるのである。本なんか読みたいと思った時に、好きなものを読めばいいと思っているが、小学生にはそういう習慣を付けさせるため、強制も必要と言うことなのだろう。
 実は私が小学校の頃、この読書感想文が大嫌いだった。それが今や本がない生活など考えられないようになっている。だから本を読むことを強制しなくても、読みたいと思えばいつだって本を読むようになると思うのだが……。
 幸い孫は本を読むことが好きなようで、それはそれで微笑ましく思っている。それでその1時間私も自分が読んでいる本を読んでいる。
 孫は自分が読んでいる本が面白いから読んで見ろというには閉口するが、まあ、どんな本を面白と思っているのか知るのもいいかもしれない、と思いつつ、孫が勧める本を2冊ほど読んでみた。
 孫はあんびるやすこさんの『なんでも魔女商会』というシリーズにはまっている。話は、可愛い魔女が営むリフォーム店に他の魔女が洋服のリフォームを依頼しに来たり、何か曰くがありそうな魔女が相談を持ちかけてきたり、時には探偵まがいのことがあったりする。
 私が読まされた2冊の本では、そうした訪問者がだいたいわがままで、自分勝手なのだが、それをおさいほう魔女でなんでも魔女商会の店主であるシルクとその友達のナナ、そして召使い猫のコットンがそれを戒め、改心させるという話であった。そこにはいわゆるわがままじゃだめだよ、非常識ではだめだよ、という道徳的倫理をきちんと書き込んで終わらせている。
d0331556_15461133.jpg ところで私が今読んでいる本は川上弘美さんの『東京日記1+2 卵一個ぶんのお祝い。/ほかに踊りを知らない。』である。この本は川上さんのエッセイ『東京日記』のシリーズ2巻分でお得な文庫なのだが、ここには孫が読む本のような諭すようなことなど何もない。
 孫は私が読んでいる本がどんな内容の本か知りたがるので、内容を話してやる。電車内で大福を6個食べるおじさんの話や、風邪をひいたので病院に行くのだが、その時よそゆきのブラジャーとパンツをはいていく話や、やたら筍が送られてくる話などすると不可解な顔をする。なんて馬鹿な本を読んでいるんだといった感じでいる。
 確かにこの本は道徳的倫理などまったくない。どうでもいい話の連続で、馬鹿馬鹿しい世の中をおもしろおかしく書いてあるだけである。だけどどこかそれらはもの悲しいのだが、それを孫にうまく説明してやれない。面倒臭いので一緒におやつとして食べている“ガツン、とみかん”をかじりながら、「いつも難しい本ばかり読んでいると疲れちゃうだろう。だから気休めにこうした本を読んでいるんだよ」と言うことになってしまう。(確かにそれは事実なのだが)川上さんのエッセイを読んでいてこんな言い訳がましいことを言わなければならないのか、情けなくなる。なんかこれ自体川上さんの東京日記の世界だな、と思ったりする。
 気を取り直して、多少涼しくなった夕方(それでもかなり暑いのだが)、自転車の練習につき合う。自転車を買ってやって2日で乗れるようになったのを驚いている。まだぐらつきがあるけれど、自転車に乗るのが楽しくなっているらしく、まだ暑さが残る夕方でも外に出たがる。こちらは濡れたタオルを首に巻いて一緒に外に出る。


 小学校低学年ではアサガオの種を蒔いて育てる。夏休み中その鉢を家に持って来ている。その観察絵日記を付けるのも宿題の一つとなっている。
 そのアサガオが種を付け、採種した。孫は自分が一所懸命育てて来たアサガオが種を付けたのがうれしいらしい。今日はその種を採って、一つの袋に5つ入っていたと大喜びである。
 ところで我が家の入谷の朝顔市由来の朝顔(孫が育てていたのは西洋アサガオなのでわざわざカタカナを使っている)は今年は花が小さい。記録的な暑さ、命に関わる危険な暑さ、と連日叫ばれているため、朝顔もこの暑さにまいってしまっている感じだ。やっと今朝、鉢にいくつか花を咲かせてたけれど、今ひとつである。


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 今日で水泳教室の前半は終わり、最後に検定があったらしい。孫は11級から10級になった。校門の前で孫が帰ってくるのを待っていた時、孫がVサインをして出てきた。
 昨日、イメージトレーニングみたいに、私のベッドの上で、高校時代水泳部であった妻から指導を受けて、バタ足を練習していた。一所懸命、足を曲げないで上下に振っていた。家に帰っても今度はスイミングスクールに長く通って、一通りなんでも泳げる娘からも指導を受けたらしい。
 少なくともまったく泳げない私からすれば、孫はもう私を超えたことになる。何でも孫は娘同様これからスイミングスクールへ通うらしい。


 夏休みの宿題に自由研究というのがある。要するに何でもいいからやりなさい、というやつだ。この何でもいいというのが厄介である。一つ課題なり、テーマ、あるいは絵を描けとか、工作をしろとか、具体的に言ってくれた方が有り難い。
 で、孫がしようとしているのが工作である。学校の図書室から『森の工作図鑑』なるものを借りてきて、森に落ちているものを使って工作する。
 で、毎夕、親水公園で自転車の練習をしているので、ついでにその工作の材料となる素材を拾ってきている。拾ってきているというか、取って来ているという感じだが、まあ、収穫はこんな感じである。これに昨年取って来て家にあるどんぐりを加えるそうだ。


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 ひとつ拾ってきては孫は妻や仕事から帰ってきた娘に見せて、説明している。ひとつひとつが珍しいらしい。私は汗だくになったからだを拭いてから、“ガツン、とみかん”をかじっている。これでどんなものが出来るのか、来週は水泳教室もお盆休みでないので、孫と二人でじっくり考えようと思う。


 今日は娘が休みなので、孫を預からずに済む。何でも通っていた保育園に卒園生として招待されているいるので、そちらへ行くらしい。先生や友達に会えるのを楽しみと言っていた。こちらは“ガツン、とみかん”を一人でかじりながら、昨日夜やっていた「dele」の2回目を見る。
 来週過ぎれば娘も長いお盆休みに入る。孫を預かる、“すくすくハウス”も休みとなるので一息つけそうだ。

by office_kmoto | 2018-08-04 15:54 | 余滴 | Comments(0)

30年ほど前の本のこと

 この頃昔出版された本を読むことがほとんどだ。そうした本を読んでいるとき、何でこれまでこの本を読んでこなかったのだろう、と思うことがある。気がつくと夢中で読んでいる。妙に感動しているのだ。
 一方で仮に若い頃この本を読んでも今みたいに感動できただろうか、と思う。おそらく今みたいに行間から醸し出される雰囲気を感じ取ることはできなかったかもしれない。今だからわかるというのがある。歳もとってきたし、それなりに人生の酸いも甘いも味わってきたからこそ、ここに書かれていることが心地良いのではないか、と思ったりする。
 幸い本という媒体は、30年以上も前に出版されても、図書館の通常の棚に並べられなくなって、「集密」というラベルを貼られ、バックヤードにある書庫にしまい込まれても、係の人に言えば取り出してきてくれる。
 出された本はかなりくたびれていて、スピンが短くなり栞の役目をしなくなっていても、読むことが出来る。それが出来るのが本の有り難さだと思う。今になってそうした本が読めるだけでも幸せだと思う。さらにこうして感動した本を手もとに置いておきたくなり、それを古本屋で探してみたい、と思う。そういう楽しみを生んでくれる。

by office_kmoto | 2017-09-14 17:59 | 余滴 | Comments(0)

閉館の時間

 夜8時頃図書館に本を返しに行く。こんな時間に図書館に行くことはなかったから、朝や昼とは違う光景を見ることができた。
 朝に行けば、新聞雑誌コーナーは年寄りに占領されているし、昼間も多くの人が雑誌や新聞を読んでいる。しかし今はがらがら。席も多く空いている。今日発売のスポーツ新聞が書見台にあるのだが、昼間など見ることが出来ない。それが各紙自由に見ることが出来る。もちろん普通紙も同じ。雑誌も読みたいものを手にすることが出来る。
 席が空いているので、バッグに入っている文庫を読むことにした。閉館まで1時間ちょっとある。でも本を読むより、このコーナーにいる人たちが気になる。週刊誌を椅子に置いて柱に寄りかかって寝てしまっているくたびれた老人。若い夫婦がベビーカーをそばに置いて、それぞれ好きな雑誌を読んでいるみたいだ。子供は寝ているのだろう。
 シックな服装の女性がファッション雑誌を複数抱えて歩いていた。歩いていった先は雑誌のバックナンバーを置いてある棚だった。ファッションの勉強でもしているのかもしれないと思わせるほど、落ち着いた雰囲気の女性であった。
 昨日までの新聞が束になったものをテーブルに広げ、せわしくめくる男性。
 奥の飲食コーナーから中学生らしい男の子が数人集まって、声を出しているのが聞こえる。ゲームをしているようである。おそらく昼間なら注意されるのだろうが、時間が時間だけに、館員も少ないし、利用者も少ないから、彼らに気に掛けないかもしれない。
 それぞれがそれぞれの夜の一部の時間をここで過ごしている。人数が少ない分見渡せるのでそれを感じることが出来る。
 こういう図書館っていいなあ、と思う。妙に落ち着いた時間が流れている。またこの時間に来たくなった。
 9時15分になると、館内に音楽が流れ始める。閉館を知らせるアナウンスが入る。それでも人は帰り支度をする人は少ない。

 いいいのかな。


 のんびりしているもんだ。


 そして5分前になると「蛍の光」が流れ、やっとあちこちで立ちあがる音が聞こえてくる。
 自分も文庫をバッグに入れ、階段を降りる。

 閉館の時間。閉店の時間。最終電車が出て駅のシャッターが降りる時間。客が利用者が帰るのを待つ館員、店員、駅員。これまで過ごしてきた時間は同じ雰囲気が漂う。いったんは終わり、すぐ朝になれば開く。それの繰り返しが毎日だ。繰り返されていれば毎日は間違いなく連続する。繰り返されなくなった時間も何度も経験してきただけに、その連続が確約されている安心感がそこにはあった。

 首が痛くなってきた。ずっと整形外科に通っていて、痛み止めの薬を朝晩飲んでいる。それを夕食後飲むのを忘れた。薬が効いているのか効かないのかよくわからずにずっと飲んでいたが、こうなると多少効いていたんだな、とわかった。


by office_kmoto | 2017-09-05 05:50 | 余滴 | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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