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伊集院 静 著 『いねむり先生』

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 いねむり先生とは阿佐田哲也こと色川武大さんのことだ。ことサブロー(伊集院さん)たちは色川さんを先生と呼び、慕ってきた。
 サブローが色川さんと関わる頃、奥さんを亡くし、小説も書けない状態で、酒におぼれ、すさんだ生活をしていた。そんなときKさんから色川さんを紹介される。以来サブローは色川さんと旅に出て博奕をやってきた。そういう中で色川さんの人間性に触れ、立ち直っていくきっかけをつかんでいく。大雑把に言ってしまえばそういうストーリーである。
 その色川さんがものすごく魅力的に書かれている。色川さんの波瀾万丈に人生で得た人間性が、旅で出会う人たちに歓迎され、迎えられる。すごいのが色川さんの知識の豊富さとその人間関係の広さだ。どこに行っても「先生、先生」と競馬場や競輪場、あるいは賭場にいる胡散臭い人たちに、喜ばれるのだ。そして先生は誰でも分け隔てなく、その人たちと付き合っていく。Kさんから先生を紹介されたサブローは次のように言う。


 「謝ることはないよ。で先生はどうだった?」

 「あっ、とてもいい人でした」

 「いい人か・・・・・」

 「あっ、チャーミングな人でした」

 「そうそう、それだよ。君ならわかると思ったんだ。チャーミングだろう」

 「はい。とても、チャーミングでした」


 この「チャーミング」という表現が先生にぴったりであった。先生はナルコプレシーという病気で、突然眠ってしまうのだ。博奕をやっている時でも、飲んでいる時でも、突然に寝てしまう。だから「いねむり先生」なのだ。
 サブローが先生と松山の競輪場の帰りに、映画を見ていこうと言う。


 封切り館ではなく、名画座のようだった。
 「一本くらい観ていこうか?」
 「いいですね。どんな映画を・・・・」
 ボクは返答してから、そこで言葉を止めた。映画のポスターははっきり見えた。
 先生も一瞬、立ち止まった。
 ポスターの中で笑っていたのは、二年前に亡くなったボクの妻だった。
 ボクはそこに立ったままだった。
 先生もボクもポスターの前にじっと立ったまま動かずにいた。
 「サブロー君・・・・」
 「チェッ」
 先生がボクを呼ぶのと、ボクが舌打ちしたのはほとんど同時だった。

 「サブロー君、行きましょう」
 「は、はい」

 ボクは動揺していた。
 この二年、つとめて忘れようとしてきて、ようやく平静になったと思い込んでいたものが、突然、目の前にあらわれ、しかも先生と一緒の時に、そうなったことがよけいにボクの感情を揺さぶった。

 「悪かったね。おかしなところに行ってしまって・・・・」
 先生がぽつりと言った。
 「そんなことはありません。ボクの方こそすみません。先生にどう言ったらいいのかわからないんですが、普段は大丈夫なんですが、さっきは驚いてしまって・・・・・。それで少し動揺して・・・・」

 「先生、すみません。迷惑をかけました」
 ボクは頭を下げた。
 「ちっとも迷惑なんかじゃありません」
 「・・・・・・」
 ボクはやり切れなくなった。
 「とてもいい人だったそうですね。私もとても好きでした」
 ボクは、ありがとうございます、が言えず、頭だけを下げた。
 「ボクは彼女の仕事のことはほとんど知らないんです。ただ家族だったというだけで、しかも余計者でしたから、本当に悪いことをしたって今も思ってるんです」
 ボクは自分で話をしていて興奮していくのがわかった。
 「す、すみません。何か変なことばかりを口にしてしまって・・・・」
 「変じゃありません。それに、サブロー君は悪いことなんかしてません。私にはわかります」
 「・・・・・・」
 「サブロー君、人は病気や事故で亡くなるんじゃないそうです。人は寿命で亡くなるそうです」
 「・・・・・・」
 ボクは先生の言葉の意味がよくわからなかった。


 サブローは亡くなった自分の妻の話題が出ると、反射的に怒りが込み上げるようになっていた。その感情で、ひどいアルコール依存症となり、幻聴、幻覚に悩まされ、挙げ句の果て暴力をふるうようになっていた。この時も酔いつぶれ、やっと宿に帰ってきた。部屋には置き手紙があった。


 サブロー君、帰ったら一度部屋に来てもらえますか。


 先生の部屋に行くと、「サブロー君、大丈夫かね?」


 先生は旅先でも仕事を持ち込んで、夜仕事をする。それでもサブローに気を使い、もう少しで仕事が終わるから、そうしたらまた競輪場へ行こうと誘う。翌日先生はサブローを気遣う。その接し方が、下手な慰めじゃないのだ。「お腹が空いたね」と言って食事に誘い、サブローの昨夜の話を聞く。その中で自分も公園で寝た昔の話を自然に話すのであった。
 サブローが嫌な夢を見たことを先生に話せば、やはり自分も同じ夢に悩まされた経験を話す。そう話を聞く上で、さらに自分のことも話しながら、サブローの気持を落ち着かせる。

 弥彦に旅打ちに出て先生は昔の知人に競輪場で会う。ホンと先生は日本各地の競輪場、賭場などに知人が多いのだ。この時もあの発作がサブローに起こる。先生はサブローの手をゆっくりつかみ、


 「大丈夫だ」

 「大丈夫だよ。連中は去って行ったよ」

 ボクは何も言うことができず、ただ何度もうなずいていた。
 そしてボクは意識を失った。


 弥彦で出会った男は、半年前にタンクローリーが正面衝突してきて、妻と子供二人を失っていた。男は先生とサブローと三人で酒を飲んでいる時、急に黙り込み、「チキショー」と大声を上げ、目の前の水田に入っていった。


 そこで肌着も脱ぎ捨て、しゃがみ込んだかと思うと両手一杯に田圃の泥を鷲づかんで頭の上に持ち上げ、何事かを叫んで、それを水田に打ち捨てた。

 やがて叫ぶ声が泣き声のように聞こえはじめた時、男は、ウォッウゥー、ウォーッと獣のような呻き声を上げたかと思うと、いきなり両手で自分の首を締め上げた。
 ボクは先生を観た。先生は素早く上着を脱ぎ、上半身素裸になって巨体を揺らしながら水田に入ると、男を背後から抱きかかえた。 男のむせび声に、先生の声が重なった。それは声というより、先刻の笑い声に似ていた。
 先刻の、あの明るい男にかえそうとしているのだと思った。
 先生の手を振りほどこうとする男に先生は必死でとりすがっていた。熊が交尾をしているような奇妙な姿態だった。男が身体を反転させた。二人が抱き合う恰好になると、先生の声も男の声も泣いているように聞こえはじめた。


 人には抱えきれないほどの大きな哀しみを背負ってしまっている場合がある。それがひょんなことで顔を上げ、苦しめる。先生はそれが痛いほどわかっているので、少しでもその哀しみから癒してやろうという、姿勢がいつもある人だった。それが男を抱きかかえる姿であり、「大丈夫だ」という言葉に、自然となる人だった。
 よく人が苦しんでいる時に、ありきたりの言葉を簡単にかける輩がいる。本当に人に寄り添える人とは、自らが慟哭し、苦しみもがきした経験から、むやみやたらに言葉などかけられないことを知っている。だから言葉でなく、単に寄り添うだけをする。それでもそうして寄り添ってくれた人には、オーラーのようなやさしさがにじみ出ているのではないか、と思う。そばにいてくれるだけで、救われるのだ。そんなことを感じさせる人が先生であった。


 二度の“旅打ち”で、ボクは先生の魅力というか、限りなくやさしい先生の懐にふれ、自分が救われた気がしていた。だがそんな面に実際ふれてみると、それは先生の一面だけでしかないのではと思えてきた。ボクにとってそうであっても、先生を慕う他の人にはもっと違った魅力があり、先生を慕う他の人はもっと違った魅力があり、先生はその人たちすべてを受け入れている気がした。


 「ボクもひさしぶりに先生と旅に行こうかな・・・」

 「そうなさるといいですよ。ボクは正直何か救われた気持になりましたから」

 「救われたか・・・。わかるな。それはあるよね。不思議だよね。あれって何だろうね。何を訊いても答えてくれそうな気がするよね。聖書を持って歩いているみたいにね」


 サブローも先生と関係を持った人も、みんんあ先生に「救われる」。先生が「聖書を持って歩いている」人のように思えるというのはすごい。いい人ではなく、チャーミングと感じさせるのも、その人間性のすばらしさに感動する。こんな人がいるのかとさえ、思ってしまう。きっと先生が自らの人生で苦しんできた結果、そのことが先生の人間性を作り上げてきたのだろう。


 ところで先生こと色川武大さんのエッセイのことは以前書いた。その勝負の仕方に、私は生き方そのものを感じたのだが、サブローも先生の勝負の仕方に感心させられている。


 ギャンブルで蔵を建てたものがないのは皆わかっているのに、誰もが次から次に金を引き出し、新手の者が次から次にあらわれては消えていく。強い風が吹けば倒れるとわかっている道理を、先生は風の中にいても勝算があると信じているところがある。それをボクは感心していた。勿論、大向うが目を見張る大勝などではなく、辛勝に近い勝つ方である。いつどこで培ったものかわからないが、針の先ほどの微小なものであれプラスの領域に身を置けると信じて、平然と打ち続けるのだ。


 最後に色川さんの別のペンネームである阿佐田哲也の由来が書いてあった。そうだったのかと、知った次第。


 「*****というペンネームはその人が麻雀ばかりしていて夜が明けた時、“朝だ、徹夜だ”というので*****にしたんじゃ


伊集院 静 著 『いねむり先生』 集英社(2011/04/10 出版)
by office_kmoto | 2013-11-21 10:20 | 本を思う | Comments(0)

開高 健

 大学時代開高健さんの小説、エッセイをかなり読んでいた。ファンだった。しかし開高さんが亡くなられて、新しい作品がもう読めなくなったこと、その後開高健を偲んでいわゆる“追悼”本が、関係者が書き、その量の多さに食傷気味となってしまった。
 それでも最初はこれらの本に付き合って読んできたのだが、はっきり言ってどうでもいい本がほとんどであった。その中で菊谷匡祐さんとこの滝田誠一郎さんの本だけは興味深く読んだ。
 滝田さんの『長靴を履いた開高健』は開高さんの開高さんの釣り紀行に書かれたものであった。しかし開高さんの釣り紀行文はある意味VIP待遇で魚を釣らせてもらったもであることがここに書かれており、いわれてみれば“そうだよな”と思った途端、どこか熱が急に冷めていった。
 「現場主義」を言う開高さんであったが、海外に出かけるにしても、アラスカや南北アメリカ大陸横断においても、みんなスポンサーがついており、企画ものであった。
 それを“男のロマン”といえばかっこよく聞こえるし、大がかりな海外の釣り行脚は夢があって面白いことは面白いのだが、そのほとんどが普通の人ができることではない。そういうVIP待遇の中で、ああでもない、こうでもない、と開高さんは言っていたんだと思ってしまったのである。そん中、開高ファンが開高さんを“大兄”、“巨匠”などと称するのもだんだん鼻持ちならなくなってきて、私もその中に入ってしまうのが嫌になってしまった。
 特に茅ヶ崎にある開高健記念館へ行ったとき、寄せ書きをするノートがあって、その中身をちらっと見たとき、この“大兄”、“巨匠”とか開高さんを呼びかける言葉が踊っており、余計に嫌になってしまった。見なければよかったとさえ思った。
 それ以来ほとんど開高さんの本は読んでいない。もちろん開高さんの本はほとんど読んでしまったので、もう開高さんの本を読むことがなくなってしまったというのもあるが。ただ滝田さんの本を読んでから、読み返すということができなくなった。


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 その滝田さんの新刊『開高健名言辞典 漂えど沈まず―巨匠が愛した名句、警句、冗句200選』を読んでみた。もう開高さんの関係本は読まないつもりでいたが、滝田さん本は別で、今回も読んでみた。
 読んでみると、今まで読んできた開高作品にあった言葉を懐かしかった。そしていくつか自分でも気にっている開高さんの言葉を思い出させてくれた。ここにあげた写真は開高健記念館に行ったとき買った。私が気に入っている開高さんの言葉で、開高さん自身が書いたものをポストカードにしたものである。




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 そしてこの本を読み終えて、あらためて開高さんの言葉に対する姿勢はすごかったし、その深い洞察力は私にとって貴重なものだった。エッセイの中で書かれる私の知らない作家や本の話も、次に読んでみようか、と思って手に取ってきたはずだ。作品は素晴らしいものであった。
 私はつまらぬことにこだわってしまったのでないか、と今思い始めている。釣り紀行が企画ものであっても、それを割り引いて話を読めばいいことであって、面白かったことは事実なのだから、それを楽しめばいいだけのことだ。ちょっと大人げなかった。
 それに一時でも私が夢中になった作家である。それを読み返して悪いはずがない。
 滝田さんのお陰で、開高健さんから離されて、また元に戻っていくことになってしまった。

滝田 誠一郎 著 『開高健名言辞典 漂えど沈まず―巨匠が愛した名句、警句、冗句200選』 小学館(2013/06発売)
by office_kmoto | 2013-11-14 11:41 | 本を思う | Comments(0)

ある一日

 メガネを忘れた。ここのところ休み明けに必ず何かを忘れることが多くなった。連休になると、カバンからいろいろ取り出す。財布、定期、携帯、メガネ、本など。
 今までは2階で生活していたので、必ず目の届く範囲にそれらのものはあった。だからそれをカバンに戻すのも、それほど問題はなかった。しかし1階にそれらをもっていってしまうと、あるものは2階にあり、またあるものは1階にあるということが起こり、しかも1階でもテーブルに置いてあったり、寝室に置いてあったりして、一箇所にまとめていないので、その結果カバンに入れ忘れてしまう。
 始末に負えないは、自分では全部きちんとカバンに入れたと思っていることである。だからカバンを開けてみて、初めて入れ忘れていることに気がつくこととなる。
 結局年齢的な注意力散漫がこういう結果を生むのだ。もちろん物忘れもあるのだが。いずれにせよメガネがないと、仕事はできないし、本も読めない。でも忘れてしまったのだから、何とかメガネなしで一日を過ごさないといけない。仕事ももちろん、読みたい本を持って出てきているのだから、何とか読みたい。ただ今日持ってきた本はよりによって昔の文庫本で、字が小さいのだ。

 最悪!

 なんとか問題なく一日が終わってみると、目が痛い。無理して一日を過ごした結果だ。やっぱり指さし確認ではないが、家を出る前はきちんと持ち物を持ったかどうか、確認しないといけない。それともカバンに入れるもののリストでもどこかに張っておいてそれで確認するか。メガネを忘れたのはこれで二度目だと思う。


 ダン・ブラウンの新刊が今月28日に出る。いつも行っているイオンにある本屋さんでは「予約受付中」の貼り紙が出ていた。まあ予約する程でもないだろうと思っているが、たまたま今日、紀伊國屋書店ウェブストアを見ていたら、これ、電子書籍版もこの日に出ることを知る。しかも本では上下各1,890円のところ電子書籍だと各1,500円となる。つまり電子書籍版だと上下巻で780円もお得となる。しかも28日なると自動配信してくれるから、わざわざ本屋さんに行かなくても済み、その日になれば端末に入っているのである。これはやはり電子書籍で買うべきだ。
 ということで先ほどAmazonで予約する。まさかダン・ブラウンの新刊をKindleで読むとは思わなかった。


 一時は毎日お茶の水へ行っていたのが、それがなくなった。そのため神保町の本屋へ行けなくなったのが、ここのところの不満である。

 買いたい本が結構溜まっている。

 最近はいつも持ち歩いているスケジュール帳に購入予定の書名を書いた付箋を貼り付けている。それがちょっと多くなって来ている。とりあえずこれを何とか処理しなければならない。中をちょっと見てみてこれはいいかな、と思うものは買わないことを決めればいいし、買うなら買ってしまえばいい。
 書評でマルティン・ベックの新訳が出たことを知った。このシリーズ何度も読んでいるので、新訳はどんな感じなんだろうと興味がある。その書評に同じスウェーデンの警察小説であるへニング・マンケルのヴァランダー刑事シリーズがあることを知った。この著者のことは何も知らなかったので、ネットで調べて見ると、何か面白そうだ。シリーズとしては8点、12冊出ている。しかし文庫本なのに単価が高い。これはまずブックオフで探してみるほうがいいようだ。
 で、行ってみると、3点4冊あった。本の厚みも十分で、これはじっくり楽しめそうだな、という予感を感じる。
 そのままJRに乗ってお茶の水へ出る。ここへ来ると、ちょっと前までいたところに、クロサワ楽器が入っていて、そこを外から覗くのが習慣になっている。
 本当は中に入って店舗の造りがどうなっているのかを見たいところなのだが、楽器にまったく縁のない私はこのお店には入れない。だから外から覗くだけである。
 今日は古本は探さない。三省堂本店へ直行である。文庫を探すならここである。スケジュール帳の付箋を見ながら本を探す。手にとって買わないものは買わない、と決め、結局、色川武大さんのエッセイを2冊。マルティン・ベックの新訳も加え、それにへニング・マンケルのヴァランダー刑事シリーズを買う。これは不足分を全部買ってしまってもいいかな、と思ったが、適当なところでおさえた。後は読んでみて買えばいい。
 これで全部かな、とスケジュール帳の付箋を確認したら、北尾トロさんの新刊を見るのを忘れた。例の裁判ものである。店内にある検索機で探してみると、3階の刑法・訴訟法の棚にあるとある。

 えっ?

 トロさんの本がこんな堅苦しい専門書の棚にあるとは、ちょっと笑ってしまった。結局この本も購入することにし、1階のレジへカゴをもって行く。今日はちょっと“大人買い”であった。
 家に帰って、夜遅く一人で買った本をテーブルに並べてみる。どれもこれも面白そうで、すぐ読みたい衝動に駆られる。
 いつもそうであるけれど、本を買ってきて、それを取り出す時が私にとって至福の時だ。一冊、一冊、手に取り、装丁を眺めたり、カバーをとって、本そのものを眺めたり、その手触り、重みを感じる。
 そうこうしているうちに、夜も遅くなってきたので、枕元へそれらの本を持って行き、蒲団に入ってからも、本を手に取っている。
 そういえば孫が寝るときにお気に入りのぬいぐるみを持ってきて、一緒に寝るのを思い出す。まるでそれと一緒だな、と苦笑する。
by office_kmoto | 2013-11-08 15:19 | 日々を思う | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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