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山口 瞳 著 『還暦老人ボケ日記』

d0331556_552811.jpg この本の最初にわりと緩めの「絶筆宣言」がある。そこには山口さんが50歳で仕事を辞めようと考えていたそれが出来ずに、還暦になった。この当時60歳が定年という時代だったから、山口さんもそれに従うことにし、続けてきた連載以外は仕事をしないということにした。
 続けてきた連載とはこの男性自身シリーズであり、そのシリーズの日記スタイルをまとめた第一弾がこの本である。
 このように仕事をしないという生活を綴ったのがこの日記シリーズなのだが、その生活を楽しみながらも、一所懸命働いている人たちには山口流の気配りもきちんと見せるあたりはさすがだな、と思う。


 水商売の人には水商売の人の顔がある。笑っていても殺気立つような一面がある。娼婦には娼婦の顔がある。行商人には行商人の顔がある。行商人の顔には生涯消すことのできない疲労が刻まれている。


 なんだか様子がいつもと違う。今日が元旦だという気がしない。例年なら、それなりの緊張感とか一種の清々しさといったものがあったのだが・・・・。正月なんか早く終って普段の生活に戻りたいと思うこと頻り。これは、たぶん、還暦を期して連載以外の仕事を断ってしまったせいだと思う。正月の骨休みとかノンビリした感じとかというのは、力一杯ギリギリの仕事をしてきた人に与えられるものだ。


 前回の池波正太郎さんの『池波正太郎の銀座日記』とついつい比べてしまうのだが、池波さんは粋な感じが全面に出ているが、山口さんの場合は、それに加え庶民的であるところが魅力だ。池波さんと違って山口さんは茶目っ気があるので、思わず笑ってしまう場面もいくつかある。それが読んでいて楽しい。


 『マルサの女2』を見るため、妻と吉祥寺東宝へ行く。(略)映画館のテケツの前に立つと、入場料千五百円のところ、六十歳以上千円となっている。
 「あのぅ、あたし還暦なんです。六十歳です。主人は去年還暦で六十一歳なんです」
 こういうとき、女は必死の形相になる。普段は若く見られたい癖に。
 「証明書かなんかありませんか」
 「でも、あたし、六十歳なんです」
 妻は千円札を二枚窓口に出す。
 「・・・・・・・」
 こうなれば仕方がない。妻の背後に立っている僕は、伝家の宝刀を抜くという心持でもって帽子を脱いだ。
 「あ、どうぞ」
 窓口の女性がチラリと見て即座にOKを出した。禿げの一得がこれである。


 池波さんも「人は、年齢を加えるにつれて・・・・・ことに五十をすぎてから、四季の移り変わりに敏感になってゆくようだ」と書いておられたが、山口さんも同じことを書かれている。

 またしても寒い。ポリバケツの水が凍っている。歳を取るということは四季の感覚が身につくことだと思っているが、こんなに寒暖の差が激しい冬を知らない。


 季節に敏感になるというのは、歳を取ったことの証拠なのだろうか。それとも歳を取ったことで余裕が出来、季節の移り変わりを感じ取れるようになるからだろうか。


 乾いた落葉は、掃くとシャーシャーという音がする。裏の家の庭からもシャーシャーという音がして、しばらくして煙が立つ。秋深し隣も庭を掃く人ぞ。ぼんやりと庭を眺める。


 庭での焚き火はこのシリーズでよく出てくるが、のんびりしていいものだ。最近は焚き火さえも出来なくなってしまったけれど。思わず焚き火をやりたいものだ、と思ってしまう。
 煙つながりで一つ深く同感してしまったことを書いて終わりにする。


 蚊取線香というのは凄い発明だ。


 これねぇ、本当にそう思う。庭掃除などする前に虫除けスプレーなど以前噴射させていたけど、最近のヤブ蚊にはきかねえんだ。ところが蚊取線香に火を付け、近くに置いておくだけで、蚊に刺されずに済む。今最も重宝している昔ながらの一品だ。


山口 瞳 著 『還暦老人ボケ日記』 男性自身シリーズ 新潮社(1989/07発売)
by office_kmoto | 2014-06-26 05:54 | 本を思う | Comments(0)

池波 正太郎 著 『池波正太郎の銀座日記(全)』 (改版)

d0331556_4553929.jpg 池波正太郎さんの『池波正太郎銀座日記[全]』を読み終える。この本は銀座の老舗が集まって作ったPR誌「銀座百点」に、池波さんの急逝の2カ月前までの8年にわたる連載をまとめたものである。
 ここでは池波さんが銀座などで映画の試写会に通い、その後行きつけのお店で美味しいものを食べ、デパートなどで買い物をし、小説を書き、その挿画を描く。本を読み、画集を眺め、夢中になり、夜が明けてしまうこともたびたびだ。
 美味しいもの出す名店へ通い、いいものを売っているお店で買い物をするのを読んでいると、大人とはこういう人を言うんだな、と思ってしまう。
 映画でも、食事でもひどいもの、まずいものははっきりとひどい、まずいと言う。S堂とお店をわからないようにしてあるが、多分資生堂パーラーだろうと思われるが、ここは当たりはすれあるようで、はずれた時は天下の資生堂パーラーでもけちょんけちょんである。
 しかしこの人は外でも自宅でも本当によく食べる。私など普段お茶碗一杯食べれば、もう結構となるが、池波さんは食が進むと三杯は軽くいってしまう。年齢から考えればすごい。夜食や朝食(池波さんは「第一食」と書く)にカツ丼を食べるなんて信じられない。これで食が進まないと言うんだから驚くを通り越して、呆れてしまう。余りにも食べ過ぎて胃薬を飲むこともたびたびだ。
 通風に悩まれているようだけれど、これじゃ仕方がない。川口松太郎さんが池波さんの「銀座日記」の愛読者だったようで、「・・・・・銀座日記をとよむと、少し食べすぎ、のみすぎ、見すぎ(映画)という気がする。とにかく大切に・・・・・・」と書くのももっともだ。
 いいことばかりではない。池波さんの年齢になると、日常が描かれる中に知人や映画スターや交友のあった俳優さんの訃報を聞きことが多くなってくる。その度に、故人を偲び、昔のことを思いだし、寝られなくなってしまうのは切実だ。
 池波さんは季節の移り変わりにも敏感な人で、日記では×月×日と月日を特定していなくても、そこに書かれている天気の具合で、もうすぐ春なんだなとか、夏が近づいているんだな。秋がそこまで来ているんだな、冬なんだな、とわかる。もちろん季節を特定する行事もそこにあるのだが、例えば試写会が終わった後、外に出て、天候の具合をよく描かれている。これなどそれまで外と隔離されていた分、その変化が余計にくっきりと感じられるだろう。あるいは体調の具合、出てくる食材でうまく季節感じさせてくれる。
 季節の変わり目には天候が急変し、慌てるのも、ご愛敬である。でもその急変が季節の変わり目を教えてくれる。


 人は、年齢を加えるにつれて・・・・・ことに五十をすぎてから、四季の移り変わりに敏感になってゆくようだ。ことに日本人は、その変化を微妙に、おのれの肉体に感じる。このため、無用の錯覚を起こすことがあるほどだ。


 「現代の激動とスピードは、物事の持続をゆるさぬ」と嘆きながらも、仕事にせよ趣味にせよ、計画的であるのだが、基本はマイペースを守るっている。それでいて独善的でなく、嫌味でもなく、洒落ているので、読んでいて心地よく、ページをめくるのが楽しかった。こういう大人は憧れる。

 このような大人の日記を他にも読みたいな、と思い本棚を探していたら、山口瞳さん男性自身シリーズで日記シリーズがあったことを思いだす。3冊あるこの日記シリーズはやっと集めたものだっただけに、これはいいや、と本棚から取り出し次に読み始める。


池波 正太郎 著 『池波正太郎の銀座日記(全)』 (改版) 新潮社(2008/10発売) 新潮文庫
by office_kmoto | 2014-06-23 04:58 | 本を思う | Comments(0)

川上 未映子 著 『人生が用意するもの』 その2

 前回はおかしい部分だけを引っ張り出して、つまらぬことを書いたので、今回は真面目に考えさせられたことを書く。
 まずこの本に深く影を落とすのは東日本大震災である。著者は東京に住まれているようだから、直接の被災者ではないが、その心的影響を自身の中で考えている。


 ところで、東京で暮らすわたしがこんなことを書くのは少々恥ずかしいという気持を捨てて書いてみると、この1カ月、原因不明の強烈な眩暈に面白いほど襲われるようになり、家のなかでよく転び頭をぶつけるようになった。加齢の問題もあるだろうけど基本的には健康体なので、おかしいな、検査したほうがいいのかな、とうろうろしていると、震災の影響と思われる変調の症状があちこちで報告されているというニュースで言っていたので驚いた。


 わたしの一部分が「変わった」とまでは言えないけれど、しかし確かに「動じている」のは否定しようがない事実である。


 著者にこのように言われてみると、あの震災、原発事故は間違いなく日本人に少なからず何か暗い影を落としただろうとし、大なり小なり爪痕を残していると思われる。価値観を変えてしまうほど変化をもたらしたか、色んな面で動じさせるほど強い衝撃を与えたことは事実だ。
 しかし深層ではそうであったかもしれないけれど、それが時間が経てば経つほど奥底に埋もれていくのも事実だ。


 震災から2カ月以上経ちますが、はっきり言って、なにがなんだかわからない状態になってきた。(略)
 騒いでいた、あるいは騒ぐことができていたリアルタイムなあのときよりも、いまのほうがじつは最悪の展開を迎えているのかも知れないのにな。緊張感の維持は難しいから仕方がないけど、なにかが取りかえしのつかないなにかにゆっくり向かっているような不穏な感じを無意識でとらえているのかなんなのか、妙な気持の日々なのだ。
 あまりにも大きなインパクト、ショッキングな光景、そんな強烈すぎる刺激にたいして発動される「正常性バイアス」-日常性を保とうとして物事に穏やかな判断を下してしまい、逆に慌てなくなってしまう心理状況-に、震災に直面した人々も陥ったのかも知れないけれど、時間が経過してそれが被災地以外の人たちにも文字通り、穏やかにやってきているのかもしれないな。「まあ、なんとかなるんじゃないか」「そうはいってもみんな普通に生活してるし」みたいなうすぼんやりした了解でやり過ごしている実感が少なからずあるので、それが我ながらこわいんだけど、でもどうしてよいのかわからない。脳の抑制機能までどう扱ってよいのかわからないし、なによりも生活はつづいてゆくのだし。


 よく毎月11日になると、「東日本大震災から何年何ヶ月経ちました」とニュースで流れる。ときにそんなに細かく、いつまでカウントするんだと思うこともあるが、こうして冷静に考えてみるとそれは必要なことだ。
 たまにそろそろ忘れることも必要だ、という声も聞くけど、それは「忘れられない」ということの裏返しであって、あのとき感じた震災の怖さ、原発の不安を日常生活の忙しさに埋もれさせてしまわないようにするために必要だ。恐れは備えで和らげることができると思いたい。その備えさえ忘れてしまわないようどこかで掘り起こせるようにしておかないと、また同じことを繰り返し、多くの人が、あるいは自身が犠牲になってしまう。

 もう一つ、言われてみて確かに必要だな、と思ったこと。


 たとえば。ずいぶん久しぶりにお会いした人がいて挨拶するじゃないですか。
 本人には会っているからまあお変わりないのはわかるけれど、その延長でうっかり「娘さんは、お元気ですか。大きくなられたことでしょう」みたいな会話になりがちで、それは普通に考えたら自然の流れではあるのだけれど、わたしにはこれが聞けないところがあって、だってもしかしたら交通事故とか病気やなんかで死んでしまっていまはもういない可能性があるからである。
 これは頻繁に顔をあわせる人には無用の心配であるけれど、長くあっていないとなるとその間になにが起きたのかわからないのであって、その可能性がある限りは、自分からはそういった「命にまつわる近況」というのがどうしても聞けないのだった。


 こういうのを、解消するいい方法がないかなあ、なんてぼんやり思っていたら、やっぱり年賀状、調子が良ければ暑中見舞いなど。控えめな報告、という意味で意義ある習慣なのだと改めて思ったりするのだった。


 確かにそうだ。年々、年賀状の数は減っていくし、まして仕事を辞めてしまったから、来年なんかもっと数が減るだろう。けれどたとえ年賀状だけの付き合いであっても、それが続いているなら、続けていく意味はそこにある気がしてしまった。
by office_kmoto | 2014-06-20 05:33 | 本を思う | Comments(0)

川上 未映子 著 『人生が用意するもの』

d0331556_5315913.jpg 駅でちょうど向かいの階段を年齢は50代半ばぐらいのお上品なご婦人が昇ってきた。その人はベージュのきれいなフレアスカートのスーツ姿で、お揃いの帽子をかぶり、手にはケリーバッグを持っている。「まるでエレガントという言葉が歩いているかのようご婦人だった」と書いてある。
 その時、この駅にいつも吹く風がご婦人のスカートを全部まくり上げた。当然下半身が丸見えになった。著者が見たこのご婦人のパンツが、「てかてかした黒とどぎついショッキングピンクのフリルのついたドン・キホーテの下着売り場で昔みたことがあるような超安い感じの面積の小さな化繊のパンツで(あれは断じてシルクではない!)」あったと、一瞬で見抜いた。その上で「ご婦人があのパンツを穿くに至った経緯、ご趣味、そしてどこから帰宅なのか、これからどこへ行くのか・・・・一瞬のうちにあらゆる妄想を搔き立てられて、お召し物とのギャップ、皺とか肌の感じとかいまもくっきり脳裏に焼きついて、なんかどきどきするんだよね」と書く。
 その手のパンツがドンキで売っているのかまったく知らないが、ただ「安売りの殿堂」とうたっている以上、安手のパンツを主に売っているんだろうし、そうだとすれば若い女性が好む(かどうか知らないが)デザインのものを多く扱っているんだろうな、と想像する。
 私は駅でのこの光景にどぎまぎするのではなく、このご婦人の住まれる近くにきっとドンキがあるんだろうな、と思うわけである。このご婦人はこの日は別にパンツを見せる訳じゃないから、普段好みかどうかわからないが、とにかく近所のドンキで買ったパンツを穿いても問題ない。勝負するわけでもないので、外側だけばっちり決めておけばそれでいい、とパンツはそのままにしたのだろう、とはたまた想像するわけだ。
 そこでさらにつまらぬことを思ってしまったのである。例えばこのように自宅の近くにドンキやしまむらや、ユニクロなどの安売りのお店がある場合、見えないところで年齢を問わず結構愛用されている人が多いんだろうな、とドンキの食料品売場で買ったヤマザキの豆大福を食べながら思ったわけである。

 もう一つ思ったこと。


 いつだったか、あれは、とある百貨店でわたしはブラジャーを選んでいたのだった。女性店員の接客は笑顔と高級感に満ちて気持ちよく、わたしは隙を見せれば横や斜めにや下のほうにだるだると解散してゆこうとする胸部の脂肪を集合させておくために、高機能かつ、つけていてまあまあテンションのあがるブラジャーをあれこれと注意深く検分していたのだった。そして数枚当たりをつけ、担当の女性と一緒に個室に入って一大セッション、ブラジャー装着。脇や背中の肉をなんの躊躇もなくがっと摑み、カップに盛り入れ「おまえらは胸の肉である」と錯覚させる手腕はなかなかのもでなんともプロの仕事である。声にならないかけ声をかけあいながら、乳首とパンツ一丁の姿を晒し、そんな奮闘を赤の他人としているのが笑えるけれど、まあ他人&仕事だから可能なわけで、とか思っていたら、その女性店員が肉をさらに盛り込みながら「ご本、読んでますよ・・・・・」と満面の笑みで仰って、その瞬間よくわからない風が吹き抜けるのだったよ・・・・。


 半分氷でできている冷たいフラペチーノを何杯も飲んでいると、ピイー!と音を立てて急激にお腹が痛くなり、わたしはトイレに飛び込んだ。約10分の死闘の末、ものすごくすっきりしたしたわたしは洗面台のまえで待っていたのはひとりの男性。こぼれるほどの笑顔を見せて「川上未映子さんですよね!」。思わず「はい」と正直に肯いてしまったら「本は読んだことはないんですけど、ファンです。握手してください」と右手を差し出し、や、手も洗っていないのでまず洗いますと言って手を洗い、それから黙って握手した。その男性は「これからも応援していますからね!」と言い残し、さっきわたしが用を足したばかりの、色んな意味ほやほやなトイレへ入っていったのだった。恥ずかしのかなんなのか、でてきた言葉は「オーノー・・・・・」であった。すっぴんもブラジャーもきついけど、やっぱりトイレはきついよね。


 本人にはまったくの赤の他人だけれど、その他人が自分を知っているときに起こる話である。まあ有名人ともなれば、こういうことも起こりうるだろうなあ、と思う。そう思うから、有名人は大変なんだな、と思った次第。生活しづらいだろうな、と深く同情してしまう。
 もっとも私の場合、川上さんの本を読んだのは今回初めてだし、お顔も存じ上げなかった。今回カバーの裏返しに著者の顔写真を見ても覚えていられないだろうから、遭遇することがあってもスルーしてしまうだろう。それにこの話、どうも“作っている”感じがする。いくらファンでも、デパートの店員がそう簡単に声をかけるかな、と思うわけだ。まして下着売り場でしょ。
 男にしても、トイレから出てきたのが女性であって、しかも顔見知りの有名人であったら声かけるか?

 と手についた豆大福の粉を振り落としながら思ったのである。


川上 未映子 著 『人生が用意するもの』 新潮社(2012/08発売)
by office_kmoto | 2014-06-17 05:39 | 本を思う | Comments(0)

平成26年6月日録(上旬)

6月某日 はれ

 まだ梅雨が始まっていないのに、この暑さは一体何なんだ!散歩で歩いていると、ときたまくらくらしてくる。慌てて近くの自販機で冷えたスポーツドリンクを買って、一休みする。

 退職の記念にもらったブックカバーを使ってみる。やはり高級なものは手触りがいいものだ。頂いてから使わずにおいたのだが、やはり使うことでこうした感触を味わえるのだから、これからは使わせてもらおうと思う。
d0331556_9551357.jpg カレル・チャペックの『園芸家12カ月』を読み終える。何でもそうだけれど、一つのことに凝り始めると、その異常さが滑稽さを生む。カレル・チャペックは園芸家のその姿を1年12ヶ月ごとにその姿態を茶化してくれる。その文章に加えて、兄のヨゼフ・チャペックの挿画がその滑稽さをさらに増している。
 さて、私も人様から見たら滑稽な庭掃除をしますか・・・。

 川上未映子さんの『人生が用意するもの』を読み始める。これも週刊誌に掲載されたエッセイである。週刊誌に掲載されたエッセイは、その性格上、短く、しかもちょっと考えさせられ、その上おかしから好きだ。
 

6月某日 はれのちくもり

 例の本を図書館に返しに行った。受付の人は返された本の状態を一冊ずつ確認していく。私はページの切り取られた本に、付箋を貼って、「その本、ページ切り取られていました」と伝える。受付の人は一瞬驚き、ページが切り取られていることを確認して、「申し訳ございません」と謝る。それでおしまいだった。
 まさか謝られるとは思わなかったし、それでおしまいというのもちょっと拍子抜けであった。もちろん疑われることもなかったのだが。
 正直なところ、もう少しリアクションがあるものと思っていたし、責任者がそれを見て、驚くなり、憤慨するなりする状況を想像していたのだけれど、まったくそんなことはなかった。要するに新聞の記事になるほど、このようなことは頻繁に起こって慣れっこになっているのか・・・・。
 川上未映子さんの本を読み終え、池波正太郎さんの『池波正太郎銀座日記[全]』を読み始める。川上さんのどこで息継ぎをすればいいのかわからないほどやたらセンテンスの長い文章を読んでいたので(内容は別)、池波さんの文章が気持ちいい。


6月某日 くもり

 池波さんの文庫本を昨日に続いて読んでいる。この文庫本にも頂いたもう一つの文庫カバーを付けてみる。手触りが気持ちいい。何の皮でできているんだろう、と思い調べてみるとラムスキンであった。なるほどだから手触りが気持ちいいのだと、納得する。


6月某日 雨 関東地方梅雨入りした模様と発表あり

 まだ雨が本格的に降り出さない頃、自宅の前の道に小学生が下校してくる。後ろに車を着けていると、ゆっくり走るしかない。小学生は後ろに車が来ていることにも気がつかず、のんびり歩きながら、時には立ち止まって、楽しそうに話している。別にいつもの光景なので微笑ましく、彼らが車に気づいて端に寄ってくれるまで、ゆっくり走る。
 こんな光景が栃木小1女児殺害事件があった小学校では8年半も見ることができず、楽しいはずの友だちとの下校が、絶えず保護者の方たちが見守る中で行われ、このようにのんびりと話ながら帰ることができなかったし、子供同士遊ぶこともままならなかったと聞く。こんな話を聞くと、どうしても犯人は許せなくなる。
 選挙権を持っている年寄りばかり手厚くして、子供を大事にしない国などいつかダメになる。いやもうおかしくなっている。三叉路で待ち伏せするこの犯人や、通学路をものすごいスピードで車をぶっ飛ばすやつなど、子供たちに危害を加えるやつなどに情状酌量の余地はない。

 今日はイオンプレミアムフェス!が始まって、会員様限定の特典があるので買い物へ行った。この夏義父の法事があり、親戚が集まるので、蒲団など必要で、それを見た。妻の礼服、靴なども見る。ついでに私のウォーキングシューズと夏用のパジャマなど購入。
 在職中にお世話になったM税理士からご機嫌伺いのメールが届く。仕事を辞めて半年近く経ち、関係もなくなったのに気遣ってくれて有り難い。久しぶりに携帯でメールを長く書いた。近況を書く。しかし老眼には携帯のメールは疲れる。


6月某日 雨

 昨日読み終える予定だったのだが、買い物で疲れてしまい、今日池波正太郎さんの『池波正太郎銀座日記[全]』をき読み終える。フォーサイスの新刊が読みたかったが、近所の書店にはなかったので、当初の予定どおり山口瞳さんの『還暦老人ボケ日記』を読み始める。これは山口さんの男性自身シリーズの別シリーズで日記スタイルになっている。3冊で完結だ。
 一日中雨模様なので、散歩にも出かけられず、籐いすに座ったり、ベッドに横になって本を読む。午後はたまっているビデオを見ようかと思っている。


6月某日 雨

 結局昨日は本の方が面白くなってしまい、ビデオは見なかった。昨日は雨が強く降っいたので、植え替えたばかりの朝顔を緊急避難させた。朝起きて状況を確認すると、大丈夫なようである。
 それにしても二日ほぼぶっ続けで雨が降っている。雨は三日目だ。仕事を辞めてから二日続けて雨が降ったのは初めてではなかろうか。そのためか今日は気分がすぐれなかった。一日中頭痛がする。気圧のせいだろうか?それに今回は腕、手首と足首が痛くて仕方がない。手首は腱鞘炎で、足首は以前ねんざした古傷である。ボルタレンテープを腕、手首に、ロキソニンハップを足首に貼った。


6月某日 雨のちくもり

 あれほど手入れしてきた庭がひどい状態になっている。強い雨風で落ち葉でいっぱいになっている。やれやれこれを元に戻すの時間がかかりそうだ。
 外に出ないので、山口瞳さんの『還暦老人ボケ日記』を読み終える。さすがに三日続けて雨で、どこも出かけないといささか滅入ってくる。
 義父の法事で親族が家に集まるので、そのための蒲団の組を買うのに妻と一緒に出かける。二セット購入。
 近くにあるくまざわ書店に寄って、フォーサイスの本を探すがない。朝日文庫の新刊も探したがそれもなし。やれやれ・・・・。明日ハローワークへ木場まで行くので、帰りに日本橋に出て丸善にでも寄ろうか。


6月某日 くもりのちはれときどき雨

 ハローワークへ失業の認定へ行く。その足で日本橋の丸善にも行く。フォーサイスの新刊と木皿泉さんの本と朝日文庫を購入。ここに来れば間違いなく探している本があるというのは、やはり安心だ。仕方がないとはいえ、地元の本屋さんでもすぐ買えるようにならないのだろうか、と思う。さっそくフォーサイスの本を読み始める。それと図書館で常盤新平さんのエッセイと吉村平吉さんの本をネットで予約する。


6月某日 くもりのち雨

 雨が降る前に、予約していた図書館の本を取りに行く。明日も雨は続くそうだから、借りる本を読もうと思っている。
 フレデリック・フォーサイスの『キル・リスト』を読み終える。やっぱりフォーサイスは面白い。
 妻に「よく窓の外を見ている」と言われる。そういえばそうかもしれない。何故なんだろう、と考えてみた。これまで仕事をしていた場所は窓が一つしかないところで、しかも私の机のあるところは周りが壁と書棚で囲まれていたから窓も見えなかった。いつも蛍光灯の光の下で仕事をしていた。毎日そこで仕事を続けてきたので、今はこうして窓の外を眺められるのがうれしいのだろう。
 正岡子規のように「病牀六尺、これがわが世界である」と身体的に動くことができず、寝床から限定された世界しか見られないわけじゃないが、家にいるといつのまにか自宅の窓から外を眺めるている。たとえ変わり映えのしない風景でも、やはり木々の緑を眺めていると落ち着いてくるのである。限定された世界でも季節の移ろいは感じられ、その変化にちょっと驚いたりする。正岡子規もそうであったんだろう、と思ったりした。外の風景を眺められるというのは、私にとって解放と同じ意味を持つ。

 
6月某日 雨

 吉村平吉さんの『吉原酔狂ぐらし』という古い本を読み終える。続いて山田健さんの『東京自然農園物語』を読み始める。


6月某日 くもり後はれ 急に雨

 今日は国民健康保険の健康診断に妻と行く。まあ至れり尽くせりなのだが、あちこち検査会場を動き回され、いささか疲れた。9時受付で、私は1時間ほどで終わったのだが、妻を待っていたら、もう昼に近かった。午前中検診で潰れたことになる。
 今はまず受付でバーコード付きのリストバンドをはめられ、検査の度にこのバーコードを読み取ってから始まる。一通りの検査が終わると、検査の速報値の入った冊子をもらう。LDLコレステロールが保健指導の基準値よりほんの少し高め。LDLコレステロールって何だか知らなかったので妻に聞くと、いわゆる“悪玉コレステロール”だと知る。それなら名前だけは知っているが・・・・?。

 血液検査で血を抜かれるのだが、これが下手くそで、針を刺した周り内出血しているし、それに痛みがある。今まで何度も血を抜かれているが、こんなの初めてだ。
 検査終了後、喀痰検査、大腸の検査のための検便キットをもらう。

 面倒くせぇ~

 しかし最近の検便キットは至れり尽くせりだ。小学生の頃から比べると雲泥の差だ。詳しく書きたいけど、どこか笑いを取りに行きそうなので止めとく。

 検査終了後イオンに行き、父の日のプレゼントを買う。最近私も気に入っているレナウンのSIMPLE LIFEの綿100%のシャツを買った。明日親父に渡す予定。


6月某日 はれ

 久々に朝から日が照っている。いつものように散歩に出て、その後床屋へ行く。床屋の親父は元気そうであった。だいぶ髪の毛を切ったので、さっぱりする。
 昼から実家に行き、昨日買った父の日のプレゼントを渡す。


6月某日 はれ

 サッカーワールドカップの日本戦を朝10時より見る。2-1で日本の負け。前半に本田がゴールを入れたときは、おや?!、となったが、やはりコートジボワールとの身体能力の差は歴然だな、と素人目にも感じる。なんか日本の選手のボール運びがちょこまかしているのに対して、コートジボワールはボールを大きく回せるし、それに早い。贔屓目で多少は期待していただけに、試合が終わった後は、どっと疲れる。
 昼飯を食べた後、さつきの消毒をする。もちろん他の植物も一緒だ。
 観音竹にもたっぷり消毒液を噴霧してやったが、脇から薄いピンクの芽みたいなものが出ている。それも2つも。最初変な虫でもついているのかな、と思った。ネットで調べてみると、これは花芽だとわかる。
 観音竹というくらいだから、これは竹の一種だろうと思っていたので花が咲くなど思ってもみなかった。というかこれまで花など咲いたところを見たことがない。
 そういえば開高健さんの『パニック』という小説で、竹の花は何十年に一度咲いて、実がなり、その実を食べるネズミが大量発生したというのがあったが、竹が花を咲かせると枯れると聞いていたから、これはやばいな、とさえ思ってしまった。
 さらに調べてみると観音竹は、ヤシ科の植物であることを知り、花が咲いたからと言って枯れることはないらしい。ただ観音竹が花を咲かせるのは20~30年に一度という。それを知って、おいおい、これは大変なことじゃないか、と驚く。
 鉢の中でパンパンになったものを地面に植え替えてやったのが今年の3月上旬。例によって適当に間引いて、後は他の木々と同じように水や肥料をやり、根元を掃除していただけなのだが、まさかそんな貴重な花が咲くとは思わなかった。下手をすればもう生きている間見られないかもしれないのだ。一気にワールドカップの疲れが吹き飛んでしまった。これは楽しみである。
by office_kmoto | 2014-06-16 04:47 | 日々を思う | Comments(0)

井形 慶子 著 『東京吉祥寺田舎暮らし』

d0331556_1464634.jpg 私は著者のことはまったく知らなかった。この本を手にしたのは、本のカバー写真に、女性が鍋をうれしそうに見ている写真が気に入ったからであった。写真の女性はこの本の著者である。
 著者のプロフィールを見てみると、1959年長崎県生まれ。作家。出版社勤務後、28歳で出版社を興し、英国生活情報誌「ミスター・パートナー」を発刊。同誌編集長。50歳でロンドンに拠点を持つという。
 なるほどなんとなくわかってきた。著者はこのように、イギリス、出版社のある新宿、そして日本での生活の拠点である吉祥寺というトライアングルで生活している。そして日本での生活の中心が吉祥寺ということなのだ。そこで著者の求める英国流田舎暮らしを実践している。
 正直なところ吉祥寺で田舎暮らしって出来るのかな、と思っていた。だって吉祥寺は「人気の街」「住みたい街」として全国的に有名だからだ。そんな人がいっぱいいるところで田舎暮らしどころじゃないだろう、と思っていた。しかしこの本を読んでいて、それがこの街でも出来ることを教えてくれる。
 吉祥寺の魅力を次のように語る。


 吉祥寺は武蔵野という深い杜に囲まれた東京のただ一つの「村」である。一度この村に住み着いたら最後、もう二度とよそには行けぬ謎めいた引力が絡まり、それがこよなき幸せと感じられるのである。


 だから抑圧されたフラストレーションを週末一気に噴き出すべく、人間らしい生活や触れ合いを求めて吉祥寺をうろつくのかもしれない。


 その吉祥寺での生活を仕事などで逃してしまうと、


 それはたとえるなら、読みたい本があるのに家に忘れて、仕方なくどうでもいい週刊誌をキオスクで買って電車に乗るようなものだ。読む本がなく、ボサッと電車に乗っているもったいなさ。たかが三〇分ぐらいの損失は、人生単位で考えればいつでも取り返せる。だが、そのつまづきが一週間を狂わせ、ひいては仕事への集中力や、人への忍耐に影を落とすことにつながるから怖い。


 このたとえ、気分としてよくわかる。私も通勤していた頃、本を忘れたり、あるいは読み終えてしまい、その次の本を持っていなかったときなど、著者と同じことをして、その時間がもったいなく思える時が何度もあった。
 確かにその時間なんて大した時間じゃないのだが、それがつまずきとなって、その日がうまく行かなくなってしまうような気分になる。
 著者が吉祥寺での週末を過ごせなくなることは、その後に影響するする気分になるから、どうしても吉祥寺での生活はかかせない。それくらい大切な場所なのだ。
 しかし著者が求めている吉祥寺での生活は駅前の騒がしい街ではない。一本路地に入った、昔から変わらずそこにあるお店や、駅から少し離れた静かにたたずむお店がある場所。あるいは吉祥寺の北、練馬区と隣接した一帯には、生産緑地(畑)がたくさんあるところである。そこにいる人たちと話をし、買い物をする。あるいは新鮮な野菜を求める。ちょっとぐらい高くてもしっかりしたもの、確かなものを売っているお店を歩き回ることを楽しみに暮らしている。一週間たまった毒をここではき出せる場所なのである。

 この本を読んでいて、街の有り様というものを考えてしまった。たとえば吉祥寺の駅
前など、2009年の駅ビルロンロン閉店、伊勢丹撤退、ユザワヤ移転を機に吉祥寺は大きく変わっていった。著者によると次のようになる。


 我が村で起きている事をあらためてまとめてみると、
老舗百貨店撤退→買い物難民のジジババ→取り急ぎショッピングセンター誕生→若者誘導主義→野外ライブ会場のおまけ付き→さまようジジババ→ドラッグストア&コンビニ乱立→失われし世界、といった感じ。

 裕福な雰囲気を醸し出していた武蔵野市の中高年が、むげにされているようで、情けないやら、口惜しいやらで胸が痛む。日本一人気の街と呼ばれているのに、吉祥寺の繁華街をどこにでもあるパターン化した街へ作り替えることに、なぜ行政は歯止めをかけないのか。
 そのうち吉祥寺はマックやスタバやドラッグストアばかりが目抜き通りを占拠し、コンビニが市場を食い尽くす事態となってしまうだろう。


 このようになると、新宿や渋谷みたいに、ただ騒がしく、長い時間我々はいられない。ここに来るのは、「しまむら」「西友」「イトーヨーカドー」あたりで見たような化せんのブラウスに、しわくちゃなフレアスカート。白い靴下をはき、運動靴姿のおのぼりさんカップルである。
 

 若者に人気のタウン情報誌が吉祥寺特集を組むたび、オープンしたての目新しい店をひと目見ようと、我先に我が村にやってくるのだ。
 お偉いさんはそんなよそ様を満足させようと、これでもかと若者受けする店を引っ張ってくる。ハコの店舗どんどん入れ替えていく「ルミネ商法」のような手法をここ最近、我が村に感じるようになり、もうやめてくれ~と目を覆いたくなる。


 街が誰のためにあるのか、そこが問題である。ここで暮らしている人たちは街がこのように変わっていってしまうことを憂う。当然であろう。しかし街の活気ということを形だけでも考えようとする行政側は人がたくさん来れば良いと考えてしまう。果たしてそうだろうか?
 若者に人気のあるショップやカフェなど多く集めて、街が元気になったと思うのはどうであろう。人が多く集まればマックやスタバ、あるいは大手資本のスーパー、コンビニ、ドラッグストアが出来て、おきまりのパターン化していく。しかも絶えず何か目新しいものがないと人気が失せるものだからお店も次から次へと変わっていく。そうしなければ街が生きていけないのである。そんな街は落ち着いた暮らしを求める人たちにとってただやかましいだけだ。
 どうやら吉祥寺は著者に言わせると、そんな街ではない。だからこのままおのぼりさん的若者ばかり集めていると、ただせさえ地代の高い場所である。街を歩くだけで小銭しか落とさぬ「おのぼり様」に占拠された街は、街としての機能を失うと心配する。
 街で暮らす人々の心を繋ぎとめてきた共同体的祭事など、こんなお店やコンビニ、ドラッグストア、あるいは大手資本のスーパーなどが担ってくれはしない。彼らはよそからやってきて、よそへ帰って行くだけである。後世に継承するべき街のあるいは村の祭事を司っているのは、これらの店に追い込まれる小さな店の寄り合いなのである。彼らが頑張っているから、街のつながりが維持されていることを思うべきなのかもしれない。
 コンビニやドラッグストア、あるいはブランドショップが出来たことを喜んでいたら、彼らが撤退したときには(彼らは資本主義の中、市場競争にいつも勝っていなければならないから、それが出来なくなったときはさっさと撤退するはずだ)、何も残らなかったということになりかねない。今人気でわいわい騒いでいても、その魅力がなくなったとき、失ってしまったものに茫然とするする姿が想像できそうだ。


井形 慶子 著 『東京吉祥寺田舎暮らし』 筑摩書房(2012/11発売)
by office_kmoto | 2014-06-14 14:10 | 本を思う | Comments(0)

本川 達雄 著 『生物学的文明論』

d0331556_51967.jpg とにかく面白かった、この本は。そしていろいろ示唆に富んでいて、知識として知ったことと、考えさせられたことが多かったので、かなり長くなるが書き出してみる。

 まず第三章の「生物多様性と生態系」で、世界規模で生物多様性が失われていることを書かれている。生物多様性とは、生態系(さまざまな生物と、それが棲んでいる環境を含めて、生態系と呼ぶ)・生物群系または地球全体に、多様な生物が存在していることをいう。ちなみに現在、知られている種の数はほぼ180万種。それが、毎日100種ずつ絶滅していっているらしく、こんなことは長い生命の歴史の中で、なかったことだという。それを危惧するのは私たちはその生態系から様々な恩恵(サービス)を受けているからで、その生態系がなくなったら生きてけない。そしてその生態系が安定しているには、生物多様性が大切であるというのだ。
 では、生態系は我々にどんな恵みを与えてくれるか。著者は四つのサービスを示す。

1.供給サービス
 生態系が人間の暮らしに直接役立つ物品を提供してくれるサービス

2.基盤サービス
 エネルギーの供給、水の循環、大気のガス組成の維持、土壌の形成とその保持、炭素や窒素などの栄養素の循環、など、すべての生物が存在するための基盤となる環境を、今ある形に保ってくれているの生態系の基盤サービス

3.調整サービス
 人間社会に対する自然や人間からの影響を、生態系が緩和してくれるサービス

4.文化的サービス
 レクリエーッションの場を提供してくれたり、癒しや、美的や知的な楽しみを与えてくれるサービス

 我々は「供給サービス」のように直接生態系から受けた恩恵にはお金を払うが、そうでない他のサービスに関しては、お金を払うどころか、サービスを受けていることさえ気づかない。そこですべての生態系のサービスに対して、お金に換算しようとする考え方が出てきている。そうすると人間は生態系から莫大な金額のサービスを受けていることを知るが、この価格の決定には、それがどれだけ人間に役立っているかで決まってしまうことになるので、人間に役立たないものには価格が付かないことになる。そうなると人間に役立たないものは価値がないし、保全する必要もないということになってしまう。
 また生物多様性という言葉には「多い」という形容詞が入っているから、多いことがいいことであり、だったらどれだけの多さが必要なのか、どれだけ減少したら問題になるのかという量の問題としてとらえがちになる。しかしそうではなく、多様ということは、それぞれの生物がかけがえのないもので、質が違うのだ。質の問題としてとらえるべきだという。
 しかしなかなか質を問うことは難しい。もともと科学は基本的に質を扱わないで、量だけで考える。そうすれば数式が使えて、客観的にみえるからだ。そこにはすべてのものは同じ質であり、違いは多いか少ないかで価値を計り、その結果量の多い方が豊かであり、より良いとなる。だからより幸せに暮らすためには、どんどん量を増やす。その結果地球の資源や生物多様性を食いつぶすことで量を増やしていっているのである。
 著者はいい加減、量だけで価値判断するやり方を変えないと、地球が持たないといい、必然私たちの暮らしはより量を減らしてゆかざるを得ないのだ、ともいう。
 でも量が少なくなると、豊かでなくなるじゃないか、と考えてしまいがちになる。しかし考え方を変えればいい。量はほどほどでもいいから、質の違ったものが色々あることが豊かなんだと定義を変えればいい、というのである。
 元々生物多様性からものを考えれば、それがあることが大事であって、質が違うのだ。生態系とは、かけがえのない生物たち(たとえ人間の生活に直接関係を及ばさない生きものであっても)が、お互い関係を持ち合って、複雑にからみあったシステムを作っていて、その中で人間が生きている。生態系は自分の一部である。人間も生態系の一部であり、自分そのものなのだから、生態系を大切にすることは自分を大切にすることにつながる。生態系の破壊は物理的環境の破壊だけでなく、他の生物たちのつながりを破壊するのである。

 次の第四章では「生物と水の関係」を説明する。
 今世界的に水不足が起こっている。原因は人口増加で、増えた人口を養うために、より多くの穀物を育てなければならなくなってしまったからだ。地球は水の惑星と言われているが、その水の97.4%が海水で農耕に使えない。農耕に使える淡水は、地球の0.01%とごくわずかである。
 ではなぜ農耕に水がいるのか?それは生物が水で出来ているからである。ちなみに米1キログラムを作るのに、3.6トンの水が必要だと見積もられている。ごはん一善で、風呂2.5杯分の水が使われる。人は水をよく使うと思われているが、家庭で一人が一日使う水の量は0.24トンで、この二倍の水が、茶碗一杯の米を作るのに使われているのである。
 もう少し具体的に生物の体の半分以上が水であることの説明をする。そもそも生物は何故これほどの水を含んでいるのか?それは生命が太古のの海で生まれたことによる。太古の海に溶けて漂っていた有機物が、薄い膜で外界とのしきりを作って自己を確立したのが生命の始まりなので、「膜に包まれた水」が生物の基本だからなのである。
 では何故生命は海で生まれたのか?それは水の性質が関係している。水はいろいろなものを溶かし、それが溶けるとものは化学反応を起こしやすい。その化学反応を起こしやすい環境は生命が生まれるには、うってつけだった。
 それと水は沸点が高いことも関係している。水の沸点が高いということは室温で液体状態のままでいられる。この液体であることが重要である。普通物質は固体、液体、気体の状態にあるが、固体の状態だと分子と分子が密にぎゅっと詰まって、分子が自由に動けない。そのため分子と分子がぶつかって化学反応を起こすことが難しい。逆に気体だと分子は自由に動き回れるが、気体の中では分子同士の距離が離れており、これも化学反応を起こしにくい。その点液体は分子が自由に動き回れ、しかも分子同士の距離も離れていないため、化学反応が起こりやすい。
 さらに水の沸点が高いということは、蒸発しにくいことであり、水は温めにくく、しかもさめにくい。そのことは安定した環境を提供することにもなる。また水が凍って、氷となると、水に浮く。氷は水より軽い。このことも重要である。もし氷が水より重かったら、氷は下に沈み、さらに上の水が凍ることになり、極地の海は全部氷になってしまうことになる。氷は水より軽いことで、海の上に氷が覆い、氷が断熱材の役目を果たすことにもなっている。このことは水の安定性をさらに示すことになる。
 生物の細胞の中身の85~90%が水で、細胞は体の中で活発な化学反応の起こっている場所である。ここで面白いことを著者はあげている。人の細胞外の水は30代以降もほぼ一定なのだが、細胞内の水はどんどん減っていく。水が老化とともに減っていくのだそうだ。これは歳を取れば体が使うエネルギーを使わなくなり、活動しなくなるのと相関関係があるという。ここで著者は「やはり年をとるといくことは枯れていく、つまり水気がなくなっていくこと、それは不活発になっていくことなんですね」と面白く言う。

 第五章の「生物の形と意味」も面白かった。生物は多様であり、いろいろな形をしている。が共通性がある。「生物は円柱形である」というのだ。確かに多少の変形はあるにしても円柱形と言われれば、そうだな、と思う。もちろん平たい部分もある。例えば植物の葉っぱ。しかし葉っぱが平たいのは、平べったくすれば表面積が広がり、光をたくさん集められ、効率よく光合成が出来るからである。このように平たい形には平たくすれば表面積が増え、何らかの利益があるからで、それで生物は生き残ってきた。しかし平たい形には姿勢が保てないという重大な欠点がある。一方円柱形はしっかり姿勢を保てる。生物が円柱形である過程の説明が進化の説明となっていて、これが面白かったのである。実は進化の説明は大好きなのだ・・・。以下著者の書かれたことをまとめてみる。

 生物は太古の海で単細胞で出現した。その後複数の細胞で体が出来ている多細胞生物へと進化していく。初期の多細胞生物は細胞が寄り集まった小さな塊、すなわち球形をしていたと思われる。そして進化の過程で新しい機能をどんどん獲得していく。こうなると細胞を入れるスペースが必要となるので、体のサイズが大きくせざるを得ない。しかし球形のまま大きくなると不都合が生じてくる。球形は一番強い形であるが、体積あたりの表面積が一番小さい形でもある。サイズが大きくなればなるほど、相対的に表面積が小さくなっていく。進化をして内部には生きた組織がたくさん詰まっているのに、それを養うための食物や酸素が入ってくる表面積は小さいままだと、球形のままでいられない。そこで球が長く伸びて円柱形になったのである。これで表面積を増やすことが出来、強度も保てるのである。また円柱形なら、中心に一本、太い神経や輸送ラインを通せば、円周上の各点は中心から等距離なので、情報や物質の輸送も楽である。
 動物の場合動く必要性があるので、円柱形のように細い体だと、先を細くすれば、流線型となって水の抵抗を減らすことが出来る。さらに食べ物を求めて泳ぐのだから先端に口があり、後ろに排泄口を持てば都合がいい。最先端には感覚器官があればさらに良く、そこに脳も出来てくる。
 続いて動物は海から陸上に上がってくる。その時円柱形の胴体に細長い円柱形の脚を突出させる。地面は水と違ってヒレのような広い表面積を持つ必要がない。表面積は関係ない。問題は脚の長さである。コンパスが長ければ早く走れる。しかも細長い方がそれを動かすエネルギー量が少なくて済む。しかし余り細いと折れてしまうので、ここで円柱形の強度が意味をなすことになったのである。

 第六章の「生物とデザインと技術」では、生物と人工物の違いを示す。生物は円柱形をしていて丸っこい。一方人工物は四角く、角張っている。また生物は体のほとんどが水で出来ているので、水っぽい。ところが人工物は水っぽいものはほとんどない。生物は水があることで常に活発に化学反応を起こしている。一方人工物は化学反応が起こっては困る。なぜなら湿っていると長持ちせず、壊れるからである。鉄ならさびるし、木なら腐るのである。
 著者は「湿っている=活発、乾いている=不活発」と見ており、人間の技術は出来るだけ不活発な材料で製品を作ることで長持ちし、良い製品となるから、そういうことを心がけてきた。硬さにおいても生物は柔らかいが、人工物は硬い。
 では生物は何故柔らかいのか?
 生物は水っぽいから柔らかくしなやかなのである。生物は外から加わる力に抵抗するに当たって、しなやかさで、力をいなす。ところが人工物はまともにその力に抵抗する。硬いから当然である。生きているということは水っぽいことで、死ねば水分が失われ、硬くなる。ドライフラワーが脆いのもそのためである。ここで著者はまた「生きている=水っぽい=やわらかい=しなやかに動く」と図式を描く。
 では人工物はどうして硬くて四角くって角張っているのか?
 それは自然を破壊し独自の空間を拓き、そして絶えず侵入してこようとする自然に対しては、硬くて変形しない材料で囲いを作ってはね返してきたからだ。そうして人類は独自の世界を築き上げてきた。それは材質が石器から青銅、鉄と変わっても、その姿勢は変わっていない。
 ここから著者は話をわざと脱線させる。人間はどうしてこうも硬くて角張ったものを作ってきたのだろう、というのだ。確かに四角くすれば重力の関係で安定がいい。それに四角同士はお互いぴったり納まるし、作りやすい。先に書いた通り長持ちする利点もある。
 近頃、「環境にやさしい」、「人にやさしい」という言葉が言われるが、この「やさしい」という言葉は、曖昧だ。「やさしい」を「相性がいい」と置き換えるとわかりやすい。となると、私たち丸い人間(生物)と四角い人工物とは相性が悪いことになる。だから今の人間の技術は人にやさしくない、という。ということはこうした技術で作られた硬くて四角い人工物の中で暮らしていて、人や環境にやさしいわけがない。本当に人や環境にやさしい技術とは、「生物であるヒトのデザイン(丸いこと)と大きく違わない」ことではないか、というのである。生物は環境に適したものが生き残ってきた。環境に適しているとは、環境と相性がいいことである。人間はこのことを真剣に考えないとならない、という。

 第七章の「生物のサイズとエネルギー」は先に読んだ『ゾウの時間 ネズミの時間』と重複するところがあるが、書き出してみよう。例によって詳しい考察の過程はうまく説明出来ないので、結果だけ書いてみる。まず予想として、生物の体が大きければ、生きている組織の量が多いのだから、たくさんのエネルギーを使うはずだ。エネルギー消費量は、当然組織の量に正比例するはずだ、と思われる。
 ところが実際には、エネルギー消費量は、体重ともに増えるのだが、体重ほどは増えないらしい。実際は体重あたりのエネルギー量は、体重の四分の一乗に反比例するらしい。言い直せば、細胞一個あたりのエネルギー消費量が体重の四分の一乗に反比例ということになる。
 ということは、ゾウとネズミの関係で言えば、ゾウの細胞はネズミの細胞のたった5.6%しかエネルギーを使っていないことのなる。それほどまでにゾウの細胞はサボっていることになる。これはどういうことかという説明が面白かった。
 体の熱は内側から体の表面へと外へ出る。ここで押さえておかなければならないことは、体重は長さの三乗に比例し、面積は体長の二乗に比例するらしく、面積は体重ほど増えない。ということはゾウは体が大きいから、熱を発する組織が多いけれど、先に押さえたポイントからすると、体が大きいものほど、体積の割には表面積が小さいので、ゾウは熱を逃がす表面積が少ないことになる。ということはゾウはネズミに比べ、体の内部に熱がこもりやすいことになる。だからゾウの細胞はネズミと比べ、エネルギー消費量を少なくするために、ネズミより動かないのである。
 もしゾウがネズミのようにせっせと動いてエネルギーを使うと、体内の熱がどんどん上昇し、自分の出す熱でステーキになってしまう。これは笑った。

 恒温動物と変温動物の基礎代謝率を比べると、恒温動物は変温動物の30倍エネルギーを使うという。エネルギー消費量も恒温動物は変温動物の15倍も消費する。
 当然食べる量も、同じサイズの動物と比べると、恒温動物の方が変温動物より15倍もたくさん食べることになる。これはどうしてか?変温動物は外気温が低い時は、体を温めてからしか活動できないが、恒温動物はたえず体を温めておき、いつでもキビキビ動ける状態にしておき、効率よく獲物を捕ったり、逃げたりして、動ける状態にしているからである。例えれば、エンジンをかけっぱなし車と同じで、すぐダッシュできる状態にいつでもしているのと同じである。
 その証拠に変温動物は食べ物から吸収したエネルギーの30%が肉となるが、恒温動物は食べ物から吸収した97.5%が維持費として使われ、残り2.5%が体の成長に使われている。これを知ると恒温動物は、いつでもキビキビ動ける代償として、極めて大きなものを支払っていることになる。

 第八章の「生物の時間と絶対時間」で、まず提供されるデータは次の通り。

1.心臓一拍の時間は人間が1分間に60~70回。一拍におよそ1秒ということになる。ちなみにハツカネズミは一拍に0.1秒もかからず、ウマで2秒、ゾウで3秒である。

2.どんな動物でも心臓が2300万拍打つと、子供を生み、15億回打つと死ぬ。

3.どの動物でも生涯エネルギーは30億ジュール(ジュールとはエネルギーの単位)である。

 以上ことから、一生の間にゾウもネズミも心臓は15億回打ち、どちらも30億ジュール分の仕事をして死ぬことになる。これが“きめうち”なので、心臓の一拍時間の関係からゾウの寿命は70年でネズミが3年でそれらをやり遂げて死ぬことになる。結局動物の体の中では、エネルギーを使えば使うほど、時間が早く進んで行くことになり、その分短命となるわけである。比例式で見ると、心臓の時間は体重の四分の一に比例することがわかり、体の大きいものほど寿命が長く、小さいものは短命である。
 このことを踏まえて、ここで著者の生命観が披露される。著者は「生物とは、ずーっと続くようにできているものだと考えている」という。だから生命が地球上に生まれて38億年も続いているのだという。
 しかし個々の体は使っていればすり切れる。アンチエイジングなんて言っていくら手をかけても、いったんガタがきたものは元には戻らない。だったらガタがきたものは、さっさと捨てて新しくそっくりなものを作ってしまえばいい。それが子供を作るということである。心臓が15億回打ち、30億ジュール使い切っても、生物は作り替える作業を繰り返し、時間を回していけば永続できる。だから子供は“私”であり、その次の“私”が子供を作る。こうして“私”を渡していくのだ、著者は考えるのである。
 生物的時間がこのように回ることで、生物の時間を円くデザインしている。もちろんエントロピーは増大し続けるので逆回りはできないが、生物はエネルギーを注入することで、エントロピーの増大を抑え、元の秩序だった体(子供を私として)リセットして使っていくのである、というのだ。

 第九章「『時間環境』という環境問題」では、これまで時間は動物によって変わり、エネルギー消費量に比例して時間が早くなることがわかっているので、そこから時間環境に触れ、環境問題に対する考え方の転換を求める。
 まず恒温動物の体温が高い理由をヒトを通して復習をする。ヒトの体温は37度で一定である。これは外気温よりかなり高い。温度が高いと化学反応は早く進む。生体内で起こるほとんどの事象に化学反応が関わっているので、体温が高いと、よろずのことが速くできることを意味する。だから情報処理もさっさとでき、素早く動ける。私たち恒温動物は大量のエネルギーを使って体温を一定に保っているのは(だから恒温動物なのだ)、これは時間を速く一定の速度に保ちためだと考えられる。
 ところで我々の身の回りのほとんどの機械がエネルギーを使って時間を早めるものばかりだ。飛行機、携帯、工場の生産ライン、家庭内では、全自動洗濯機、電子レンジしかり。これらの文明の利器といわれるものは、「便利」なものであり、「便利」とは速くできることと言い換えられるから、結局エネルギーを使って時間を速めている。
 またビジネスとはビジー+ネス、忙しいことであり、忙しいとは時間が速いことである。一所懸命働いてエネルギーを注ぎ込むと、同じ時間内に、たくさんの製品が作れ、多くの情報を集められる。そしてそれがお金になる。ビジネスとは時間を操作するものである。
 逆に消費とは、お金を出してエネルギーを買い、それを使って時間を速めているものである。それによって仕事が速く進み、余暇が生まれる。
 このように私たち日本人は膨大なエネルギーを使って便利な機械を動かしている。それがどのくらい膨大かというと、一人あたり年間、原油換算で約4000キログラムで、私たちが食べる量の40倍ものエネルギーを、それ以外に使っている換算になる。
 しかし社会の時間が桁違いに速くなっているにもかかわらず、体の時計は昔のまま変わっていない。つまり体の時間と社会の時間との間に、極端なギャップが存在し、それが現代人のストレスになっているのではないか、と考える。著者は次のように言う。
 時間は私たちがその中で生きている環境と言ってもいいが、環境問題が騒がれるにも関わらず、時間が環境問題として取り扱われることはなかった。しかしここが盲点で、地球温暖化も資源エネルギーの枯渇も、元を正せば、じゃんじゃん石油を燃やして(大量にエネルギーを使って)時間を速めているのが原因なのである。
 省エネが訴えられているが、それが思うように効果がない。ならば、「エネルギーを使えば使うほど、社会と体の時間のギャップは大きくなり、私たちはより不幸になるのだ。だから幸せになりたかったら、省エネするしかない!」と言えばいい、と著者は言うのである。
 とは言っても、いったん手に入れた「便利」さはそう簡単に手放せるわけがない。現代人はエネルギーと機械を使って時間を操作できるのだから、時間をデザインすることもできるはずだ。速いだけが取り柄じゃない。時間の質を考えられるようになれば、遅い時間があってもいいわけで、すべてにおいてスピードを要求する必要はない。
 ある生物が生きている環境は、その生物にとってかけがえのないものであり、その環境がなくなれば、その生物は生きていけない。環境も「私」の一部である。そして先に考察したように、子供も孫も私である。この体が占めている空間と、この体の一生だけが私ではない。そう考えれば、今後の環境ももっと広く「私」をとらえれば、環境問題の取り組み方が変わっていくはずだ、と著者は言うのである。

 そして第十章の「ヒトの寿命と人間の寿命」は強烈であった。
 先に心臓が15億回打つとすべての生物は死ぬと言った。これをヒトに換算すると15億回打って41歳となる。ところが今や日本人の平均寿命は男が79歳、女が86歳で倍も長生きするようになってしまった。寿命が延びた原因は二つある。1960年代までの寿命の延びは、子供や青年が結核をはじめ感染症で死ななくなったこと。そして70年代以降は、豊かな食生活、上下水道などの衛生施設の充実、そして何よりも病気を治す医療の進歩があったことがあげられる。
 だから長い老いの時間は技術が作り出したもので、「人口生命体」なのである。この人口生命体としての部分は、生物学的に見れば、存在すべき根拠のないもので、歴史的にも存在しなかった部分である。
 そもそも自然界では老いた動物は、原則として存在しない。野生生活であれば、ちょっとでも脚力が衰えたり、目がかすんだりすれば、たちまち野獣の餌食になってしまう。体力が衰えれば細菌の餌食にもなりやすい。
 このように老いた動物は、野生では生き残りにくい。実は老いた者が生きていると都合が悪い。老いたとは、生殖活動に参加できなくなったことである。野生においては、食物をはじめとする資源は限られているので、生殖活動に参加できなくなった者が生き残っていると、自分の子供と資源を奪い合うことになる。すると子供の栄養状態が悪くなり、生まれる孫の数が減る。結局こういうことをやっている家系は、遠からず絶滅する。だから生物学的に言えば、生殖活動が終わった者はすみやかに消えるのが正しい生き方なのである。
 生物は進化の過程で自然淘汰を受けてきたが、淘汰を受けて生き残ってきたとは、ちゃんと働けると、自然が品質保証してくれることを意味する。だから人生の前半は品質保証のある期間と考えてよい。ところがこの老いの期間は生物学的に存在しない期間であり、歴史的にもなかった期間であるので、自然において品質保証期間が切れた部分である。もともとそんなに長く生きるなど想定されていなかった。品質保証が切れているのだから、ガタが来ても当然である。
 だからといって著者は「人口生命体」を不自然で、悪いというつもりはないという。この「人口生命体」は技術のたまもの、人類の英知の結晶と誇りに思う、と書く。しかし次世代につけを全部回してのうのうと生きていこうとは思わない。「人口生命体」の期間はおまけがついたものだから、それまでの利己主義を捨てて、後ろめたさを少しでも減らして、意味ある人生を過ごしたいと言って締めくくる。


本川 達雄 著『生物学的文明論』 新潮社 (2011/06/20 出版)新潮新書
by office_kmoto | 2014-06-12 05:03 | 本を思う | Comments(0)

伊集院 静 著 『あの子のカーネーション』

d0331556_9575061.jpg この本は週刊文春で連載されてきたエッセイの第一弾である。詳しいことは知らないが、かなり前から連載されていたようで、初期のものはなかなか手に入らなかった。やっとの思いで揃えたのが去年の話で、それをこれから読もうと楽しみにしている。
 この本ではあのなぎさホテルのI支配人のことや、そのなぎさホテルの最後の日の話などある。私は『なぎさホテル』のI支配人が大好きで、この人のやさしさはいったいどこから来るんだろう。どうしてここまでやさしくなれるんだろうと思ってしまう。


 Iさんを思う度に、私は童話の「太陽と北風」の物語を浮かべる。旅人のマントを脱がそうと、北風と太陽が競う話である。北風は無理矢理旅人のマントを脱がそうと強く吹けば吹くほど、旅人はマントを握りしめる。そして太陽がニコニコとやさしい陽射しをそそぐと、旅人は笑ってマントを脱ぐ。
 Iさんはいつも私にやさしく陽射しをそそいでくれた。私はIさんの人生があの笑顔のように、いつも暖かなものだったとは思えない。Iさんの青春時代は、あの戦争のさ中だったはずだ。Iさんは他人にやさしくすることを、哀しみや絶望で見つけたのではないかと私は思う。
 だからIさんにはいつまでも微笑んでいて欲しい。


 このエッセイに登場する人物はどこか影がある。いや伊集院さんの作品にはそうした人物たちが醸し出す悟り、優しさが妙に余韻を残す。たぶん苦労したり、はちゃめちゃな生活をしてきた果ての今がそこにあり、だからこそ語る言葉には重みを感じることができるような気がする。
 人の言葉が心にしみるのはうわべだけの言葉じゃない。言葉以上に何かを感じることができるものがそこにあるから、その人の話を聞ける。その話には経験や体験で得た、あるいはそう悟らざるを得なかったものが裏打ちされている。


 そうだな、誰だって自分が何にでもなれると思った時間があったはずだ。自分が世の中で一番だと思えた時間が・・・・。


 土地を持っている人間が立派なのではない。そんなものは皆たいしたことではない。世の中に財産と呼べるものは、もっとどこか人の何かを揺さぶるものではなかろうか。


 「ギャンブルして、酒飲んで、この歳でなんにもおまへんわ」
 と隣のH記者がおやじに言った。
 「そりゃあ、あんたが一番幸福者や。人間、目で見たもんと口に入れたもん以外は、あの世に持って行けまへん。なんぼ金持ってても、そんなもん死ぬ時はなんのもんでもないやろ」
 とおやじが下を向いたまま言った。


 人は死に急いで、とよく言うが、死に急ぐ人間なぞ世の中にいるはずがない。そう生きるしかなかった生き方があるだけであろう。誰だって永く生きたいに決まっている・・・・。


 この本では伊集院静という名前の由来が記されている。伊集院さんの本名は西山忠来という。


 忠来は珍しい名前だが、韓国から帰化したからである。その前は趙忠来と言った。以前からの知り合いは皆、チョウさんと呼ぶ。


 その忠来さんがどうして伊集院静という名を名乗るようになったか。広告プロダクションの社長からビールのCFの企画の依頼があったが、伊集院さんは以前に他社のビールの企画を引き受けていたので、その依頼はまずいと思っていた。だったら名前を変えればいいと渡された名刺に「伊集院静」という名であった。


 実はこの名前は私に付けられたのではなく、とある広告プロダクションに入社予定になっていた女性のコピーライターに付ける名前だった。


 それがそのまま現在に至っているようである。


 人に名前を呼ばれる度にうそ事のようで、機会があったら止めようと考えていた。丁度、結婚を機にそうしようと決めた。いろいろあった仕事を整理してかかろう、そう思っていた矢先に妻が入院した。仕事を全て休んだ。名前の事を考える時間がなくなった。


 伊集院さんにはもう一つの名前がある。作詞家として“伊達歩”である。近藤真彦の『愚か者』、『ギンギラギンにさりげなく』の作詞者である。


伊集院 静 著 『あの子のカーネーション』 文藝春秋(1992/04発売) 文春文庫
by office_kmoto | 2014-06-08 09:58 | 本を思う | Comments(0)

喜国 雅彦 著 『本棚探偵最後の挨拶』

d0331556_512335.jpg どうやらこのシリーズの最終巻のようだ。このシリーズの初めはたまっていく一方の本の処理を著者が出かけていって、その部屋に合った本棚を手造りで作ってあげ、きれいに本を並べてあげる、と言うのがそのコンセプトであった。しかし前にも書いたとおり、だんだんそれがネタ切れになって、今度は自分も含め古本のコレクターの生態を書くようになった。


 本棚探偵は自分が普通だと思っている普通じゃない人のことを世間に教える仕事だ(「12歳のハローワーク」)


 と本棚探偵の仕事の意味をこのように書いている。なるほどそうであったのか、最後になって本棚探偵の仕事を理解したのであった。本棚はあくまでもダシであって、本当は本に囲まれた人々の生態を描くものであったのだ。
 だいたいこの世界にいる人間はまともじゃない。ここにいる人たちの考え方、生き方はおかしさを通り越して、“異常”である。けれど彼らにとってはそれが当たり前で、そのギャップがこの本を面白くしている。


 そもそも前提が常識外のところにあるので、それはそれで成り立つのである。


 で、今回も好き勝手なテーマを作って、楽しませてくれる。私家版の本を手造りで作るのも、わかりやすくて、これなら私でもできそうだと思わせてくれる。死ぬ直前にせめて好きな本をトランク一つに詰めたいと、それでどの本を選ぶか、迷ってみたり、あるいは、古本の街に出かけていって、まだ整理されずに箱のまましまわれているコンテナに入って、お宝があるかもしれないと、真夏の暑い時期、汗をかきながら箱を開ける。


 なるほどそうか。同意して僕も箱を開けてゆく。最初の箱からはWindows95のマニュアルがドーン。次の箱からは、何十年も前の百科事典がバーン。世の中で一番必要とされていない本の一位と二位が出てきた段階で、僕のやる気はもう完全に失せていた。


 今回は著者の書いていることで笑ったり、深く同意してまう文章がいくつかあるのでそれを書いてみたい。


 朝の九時、愛車で北原さん(コレクター仲間)をピックアップする。こういうとき古本仲間は安心だ。デパートの古書店で一番乗りを競う彼らは、こと本に関する限りにおいては、待ち合わせに遅れる心配なぞ全くないのだ。


 これは笑った。確かに思わずこの人たちは時間に正確だろう。


 「ところで、さっき話に出た、フレデリック・フォーサイス『ジャッカルの日』(角川文庫)はどうするんや?」
 「ちょっと前に、読み返して見たんだけどさ。映画を何度も観たせいで、ちょっとテンポが遅く感じたんだよ。だから残念だけど、入れないことにする。『オデッサ・ファイル』の方が面白かった記憶があるけど、それも読み返してからだね」


 これ大賛成。私もフォーサイスの代表作いや、出世作の『ジャッカルの日』より『オデッサ・ファイル』の方が面白いと思う。パチパチ。


 息の長い作品が新版として出るたびに、活字が大きくなり、ページ数が増え、あげく、一冊の本が上下二分冊になったりするのが耐えられなかった。
 「絵本じゃないんだからよ。こんなデカい文字にしてどうすんだよ。これじゃ体のいい割り増しじゃねえか。コレクターだから、こんなモンでも買うけどよ。もちろん直ちに倉庫行き。一生、陽の目なんか見せてやんないもんね」
 それが本棚探偵のスタイルだった。
 だが、人生は恐ろしい。
 <昨日の続きが今日>でないことを、この頃の僕は少しも気づかなかった。悪魔はいつも背後に潜み、現れる機会をじっと窺っていたのだ。
 ある日、ヤツは忽然と現れる。誰もそいつからは逃げられない。驚く主人を笑い者にし、眼前に居座り続け、どんなに願っても、二度と引き下がることはない。
 そして人は叫ぶ。その悪魔の名を。
 「老眼!!」

 生き方を変えるときが来たのだ、と。
 これまでの<新しい本=悪><古い本=良>という二元論は捨て、<新しい本=読むために良><古い本=飾るために良>という新しい定義に従うことにしたのだ。


 これ、まさしく私が老眼で本が読みづらくなり始めた頃、同じように思ったことである。実際そうなってみると、正直「まいったなあ」と思ったし、これから先本を読むのに苦労していくことになるだろうと憂鬱になってしまった。確かに「人生は恐ろしい」ものである。


 僕はゆとり教育には最初から反対だったのでビシバシいくよ。文系のビシバシは逆に怖いよ。加減を知らないからね。


 ・・・・・・。


 「そうだ。トイレには神様がいるから綺麗にしなきゃいけないよという説教臭い歌詞だ。俺たちの頃ならコミックソングに入れられる範疇だが、現在は感動が安いらしく、あんなんで泣く連中が大勢いるらしい」


 これ、『トイレの神様』について書かれていること。私もこんなだらだらした歌(最後まで聞いたことはないが)のどこがいいんだろう、と不思議であった。


喜国 雅彦 著 『本棚探偵最後の挨拶』 双葉社(2014/04発売)
by office_kmoto | 2014-06-04 05:15 | 本を思う | Comments(0)

5月日録(下旬)

5月某日 はれ

 花が咲き終わったチューリップの球根を掘り出してみた。ネットによると球根を掘り出せば、1、2年はその球根が使えるとあった。ネットにある通りやってみるつもりだ。


5月某日 はれ

 趣味の園芸の続きをやる。
 昨日朝日新聞から「こゝろノート」をもらった。今朝日新聞では夏目漱石の『こころ』を連載している。100年前漱石の『こころ』が朝日新聞に連載されたらしく、その記念で、旧仮名遣いから現代仮名遣いに変えてまた連載をしている。
 その連載されている『こころ』を切り抜いて貼れるノートが「こゝろノート」だ。要するに専用スクラップブックだ。
 今さら『こころ』を読むなんて、それでなくてももう何度読み返しているので、そんなものいらないのだが、連載は当時の雰囲気を伝えているらしいので、スクラップにしておこうと思ったのである。
 第一回から取ってあったものを切り抜いて貼り付ける。貼っていて思った。

 これ1冊じゃ足らないじゃん。

 専用スクラップブックなのに、妙に中途半端だ。また販売店に連絡して、あと2冊欲しいと伝えた。そうしたら販売店の人が言うにはものすごい人気らしく、次は6月上旬になるとのことだ。さすが国民的作家だ。


5月某日 くもり

 さつきが満開になった。手間をかけた分、いっぱい花を咲かせると何かうれしいものだ。
 多田富雄さんの『免疫の意味論』を読み終える。わからないところも多かったが、面白かった。さて、これをどうまとめるか、頭を痛める。


5月某日 雨
 雨なので外にも出られず、1日中本を読んでいた。本はヘディング・マンケルの『殺人者の顔』だ。シリーズ第一作だが、面白かった。同じスエーデンのミステリーだが、マルティンベックとは違い、結構脇の甘いクルト・ヴァランダーが今後どう活躍してくれるか、楽しみだ。訳はマルティンベックシリーズの新訳を始めた柳沢由美子さん。この本の訳は読みやすかった。


5月某日 はれ

 昨日の雨でさつきの花がダメになるかと思ったが、なんとかもったようだ。しかしこの後どうすればいいのかわからない。
 もともとさつきなど興味もなかった。荒れ放題だった庭を見て、こりゃあ、何とかしなければいけないな、と思ったことからはじまった。手始めにせっせと庭掃除を始め、枯れた枝を取り除き、重なり合った枝を間引けば、葉がきちんと日が当たるだろう、というくらいしか思いつかなかった。記憶にある義父や義母がやっていたことを思いだし、物置小屋に残っていた肥料を与え、同じく残っていた農薬で消毒もしてみた。それが正しいのかどうかわからなかったが、でもやらないよりましだったようだ。
 本棚にはやはり義父が残していったさつきの育て方の本が1冊残っている。しかしそれは本当に愛好家の本のようで、素人には難しい。ざっと眼を通したのだが、今咲いている花が終わったら、もう来年の開花のための作業がいろいろ待っている。剪定、消毒、肥料と、なんか本格的にやり出したら、えらいことになりそうだ。さすがにそこまで“じじくさく”なれない。「今さつきに凝っていてね」なんて言うようになったら、友人に馬鹿にされること間違いない。凝るまではしたくないが、何とかこれからも花を咲かせたい。そのための簡単な方法がきっとあるはずだ。
 家の近くにある区の施設で今さつき展をやっている。そこに行って簡単な育て方を聞いてこようか、とも考えた。それとも図書館に行ってさつきの育て方の入門編みたいなものを探してこようか、と迷っている。


5月某日 くもり

 家の中で一番のお気に入りの場所は、一階の仏間である。そこの窓を大きく開ければ、隣のお寺の木々の緑が濃くなり、風が木々の葉を揺らすのが眺められる。暑くもなく寒くもなく、気持ちいい風が窓から入ってくる。
 私はここで横になり、本を読むことが多くなった。読むことに疲れれば、本を置いて、外を眺める。いつまでも外を眺めていて飽きない。別に何があるわけでもない。ただ何本もの木があり、重なった葉を風が揺らしているだけである。昨日雨が降って、今日は気温も上がったものだから、落ち葉が朽ち果てた匂いもする。
 ここで横になって空を見上げれば、ただ重なり合った葉が見えるだけであり、隙間から陽の光を見ることができるだけである。その光もいくつもの葉の隙間を通って見えるものだから、やわらかくなっている。
 ここにいられる時間がものすごく愛しくて、明日も、明後日もここにいたい、と思うと「まだ生きていられるな」と思う。それが大げさではなく、素直に感じられる。
 先ほど急に外が暗くなり、天気予報どおり、雨が降るんだな、と感じさせられた。風も冷たくなってきたので、余計にそう思わせた。雨が降るのをここで待ってみようと、思った。そして雨は降った。けれど通り雨ですぐやみ、また日が差してきた。窓から顔を出して、僅かな庭を見ると、雨に濡れた気品のあるさつきの白い花が揺れている。
 伊集院静さんのエッセイ『あの子のカーネーション』を読み始める。


5月某日 はれ

 最近天気予報が好きだ。昔から天気予報はよく見ていた。特に商売をやっていると天気に左右されることが多いので、それが気になる。場合によっては、天気次第でその日の行動が変わってくることさえある。
 しかし今は違う。気象予報士がその日の天気を教えてくれるのと同時に、日本に残る季節の感覚を景色とともに教えてくれるのが楽しい。
 日本には季節の美しい言葉が残っている。それがあるのことは知っていても、それを口に出すことができない。その言葉や意味を聞いていると、いいもんだなあ、と思ってしまう。「二十四節気」の言葉の意味を聞くと、なるほどそうなんだ、と感心してしまう。昔、本でそんなことを書いたのを読んだことがあり、感心した覚えがある。もう一度読んでみようかな、と本棚を探してみる。


5月某日 はれ

 昨日、午前中ハローワークへ閲覧、相談に行く。ポイント稼ぎ。でも良いことを聞いた。民間企業ではなく、公営事業や非営利団体などの仕事に私向きの仕事があるんじゃないかと言われる。参考にしたい。
 午後から復元された東京駅の駅舎を見に行った。


5月某日 はれ 風強し

 ハローワーク主催のセミナーに出席する。これで今月の就職活動の実績2回をクリアー。
 吉村平吉さんの『浅草のみだおれ』を読み終える。


5月某日 くもり 蒸し暑い

 図書館で本を借りる場合、基本的に今まで読んだことのなかった人の本を読むことにしている。そうした本を読んでいて、いいなあ、と思える本が数冊今まであった。できれば手元に置きたいな、と思う。あるいは借りた本の中で熱っぽく紹介してくれるものがあると、手に入れて読みたくなる。しかしそれらの本は大概が古い本なので、普通の本屋さんでは手に入らないものが多い。それならば古本で見つけようと思い、書名を手帳に書き留めている。
 一度読んだ本なのだから手に入れる必要はないじゃないか、と言われそうだが、どうもコレクター的性格が災いしてしまうようだ。
 先日もハローワーク主催のセミナーに参加した帰りに、近くにブックオフがあったので、寄ってみた。もちろん手帳に書き留めてある本を探すためだ。で、あるんだな、これが。1冊見つける。古い本なので108円だ。状態は図書館の本よりはるかに良い。
 家に帰ってその本を取り出し、しばらく手許に置いてページをめくったりしている。

 先日借りた本はぺーじが破られていた。普通ページなど気にせず、そのまま読み続けるものだと思うが、読んでいて「あれ?話が続かないな。変だな」と思って、戻ってページをたどってみると、ページが飛んでいることがわかった。さらによくよく調べてみると、2ページほど切り取られている。途端に不愉快になる。確かに古い本なので、本全体の状態も良いとは言えないもだったが、内容が面白そうなので借りてきた。まさかページが切り取られているとは思わなかった。

 困ったな。どうすればいいんだろう?

 ページの切り取りは巧妙に行われていて、一見わからないように切り取ってある。これ返すとき、どうすればいいんだろう?本を返すときに「この本ページが切り取られていました」と言うべきだと思うが、嫌なのは切り取ったのが私ではないかと疑われることである。
 何十年も本を大事に扱い、本のない生活など考えられないこの私が、本を傷つけたと思われるのはちょっと耐えられない。
 つまらぬ疑いをかけられるなら、知らぬ顔をしてしまおうか、とも思った。ページは巧妙に切り取られているので、そのまま返しても多分わからないと思うので、それも可能だろう。でもそれもできない。それは私の後にこの本を読んだ人を、私のように不愉快にさせるだけである。
 ちょっとした災難にあったということだ。ページが切り取られたところに付箋を貼っておく。
 ちょうどNHKのニュースで図書館の本がぞんざいに扱われ、最終的には廃棄するしかないということをやっていた。この本もそういう運命になるのだろう。

追記:
 朝日新聞でも「本が泣いています」小平の図書館で破損本展示という記事があった。


5月某日 はれ

 今日は夏日になったようだ。朝散歩に出て、帰ってから玄関先に落ちた葉をかき集め、さらに庭にも落ちた葉っぱもかき集めたら、汗をかいてしまった。妻が風呂に入ったらというので、その言葉に従う。昼食前に風呂に入って汗を流す。風呂上がりは気持ちいい。そのままいつものように1階の仏間に行き、窓を開け横たわり、本を読む。
 1階はもともと室温が低い。冬場はきついが、それ以外は過ごしやすそうだ。今日は風呂上がりなので扇風機を回した。
 今までずっと空調で管理された事務所でほとんど1日過ごしてきた人間なので、こういう自然の風や冷えすぎない扇風機の風がこんなにやさしいものとなんだ、と改めて感じてしまう。今日はきっと冷房なり、除湿などしているところが多いことだろう。そんな必要がない生活、汗をかき、その汗を流し、自然の風で涼を取る生活ができることに感謝したくなる。
 昨日から今までずっと飲み続けていた胃腸関係の薬をやめてみる。調子が完全とまではいかないけれど、薬に頼らなくてもいいような気がしたので、試してみる。
 井形慶子さんの『東京吉祥寺田舎暮らし』を読み終える。


5月某日 はれ

 去年入谷の朝顔市で買ってきた朝顔の種を蒔いた。 入谷朝顔二世は、蒔いた種のうち、半分ほど芽を出した。今は双葉が出て、本葉が出始めている。このまま成長してくれれば、5つ程鉢植えができそうだ。
 そうそう、以前君子蘭が花芽を付けたと書いた。その花が咲いたのだが、咲いている花は赤がきつく、君子蘭と違うんじゃないか、と思い始めた。これも義父が残していったものなので、妻に聞いてみると、君子蘭ではなくアマリリスだと言う。どうやら義父が亡くなってから、君子蘭とアマリリスの鉢がごっちゃになってしまい、その上私が植物の知識がまったくないので、それを君子蘭だとずっと思いつづけていただけのことであった。葉も似ているしね。
 最初、アマリリスは花はきつい花だな、と思っていたが、しばらく見ているうちに、まあ悪くはないな、と思い始めた。
 カレル・チャペックの『園芸家12カ月』を読み始める。


5月某日 はれ

 読んだ本のことを書こうと思って、パソコンを立ち上げたのだが、どうもうまくまとまらない。ここのところこういうのが多くて困っている。
 余計なことが多く書きすぎるのかな、と思う。出来るだけシンプルに書きたいのだが、思い入れがある分、文章を削るのに苦労する。そのうち余りにも削りすぎてしまい、訳がわからなくなってしまう。もう少し“寝かせて”おこう。
 ここのところ“寝かせて”あるものが多い。そのうち忘れちゃっているのもあるので、それも困っている。

 庭に出て掃除をしていたら、チラシ配りのおばちゃんに声をかけられる。

 「ゴミになるかもしれませんけど、チラシ入れますね。それアマリリスですか?」

 「そうだけど」

 「きれいですね」

 「・・・・・」

 変なやつ。


5月某日 はれ

 いつも新中川の東京側を歩いている。京葉道路を、橋を渡って千葉側に行ってみた。そのうち一之江名主屋敷の案内を見つけた。

 えっ、ここにあったんだ。

 以前からもう一度行ってみたいと思っていた。たぶん江戸川区の小学生は遠足で必ずここに来ているはずだ。もう一度と言うのも、私も小学生の遠足のときここに来ているからだ。
 それ以来だからほぼ50年近くたっていることになる。
 案内に従って名主屋敷前にたどり着く。引き込まれるように中に入ってみた。入場料100円払って、座敷に上がって、各部屋を覗いてみる。縁側に立っていると、広い庭の木々が日射しを遮っているからか、心地よい風が入ってくる。部屋も外と違い、ひんやりしている。汗をかいていたので気持ちいい。
 昔のこのような屋敷は外は暑くても、屋内は過ごしやすかったのだろな、と思わせる。
 板の間のいろりには炭が焚かれていて、煙が上っている。屋敷には私一人しかいなかったので、受付の人が屋敷の歴史などを説明してくれた。一通り部屋を覗いて、土間に出て、そこに置かれている農具なども見学した。
 その後庭を一回りしてみる。凝った庭園などではないけれど、歩いていて心地よく、落ち葉を踏む足音が懐かしい。枝が伸びたその下を歩けるのだが、日陰となった地面を歩いていると、なんか昔歩いた里山ような気がしてくる。
 また通りに戻ってみると本屋さんを見つけた。どうやら地元の本屋さんみたいだ。わりと広い本屋さんだ。地元でチェーン店ではない本屋さんを見つけたので、なんかうれしくなり店内に入ってみる。品揃えも悪くないようだ。本を買いたかったが、散歩で出ただけなので、小銭入れしか持っていなかった。申し訳なかったが、そのまま店を出る。
 とにかく今日は新しい発見があって、本を読まなくてもうれしくて、浮き浮きした気持で一日が終わろうとしている。夜、名主屋敷でもらったリーフレットを読んでみた。そこには名主屋敷の近所には名のあるお寺や公園、江戸風鈴のお店などある。

 もう一度ここに来てみよう。

 見つけた本屋さんで本を買って、さらにその先に足を延ばして風鈴でも買ってこようかな、と思った。


5月某日 はれ

 午前中、かねてから悩んでいたさつきの剪定を思いきってやっている。とにかく放り出してあったので、花は咲いても半ば野生化してしまっている。よく見ると葉に病気が始まっている。葉が重なっているところをばさばさ切ってしまう。
 午後から実家に行き、仏壇に線香をあげる。その後墓参りに行く。今日は私の母の祥月命日である。
 今日は東京で31.6度と真夏日となった。午前中庭にいても汗をかいた。
 母が亡くなったあの日は雨だった。病院から母を乗せて家に帰るとき、夕方の渋滞に巻きこまれ、フロントガラスにかかる雨をじっと眺めていたのを思いだした。
by office_kmoto | 2014-06-01 06:37 | 日々を思う | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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