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廣澤 昌 著 『新しきこと面白きこと―サントリー・佐治敬三伝』

d0331556_5231362.jpg 開高さんの評伝を読んでいたら、どうしても佐治敬三さんのことが気にかかる。たまたま佐治さんのことを書いた本を手に入れたので読んでみた。
 私にとって佐治敬三という人は開高健という作家を通してしかその人物像が浮かんでこない。そこでは佐治さんは開高さんの支援者であり、パトロンでしかない。しかもただの支援者ではない。晩年の釣り行脚には相当のお金がかかっていたはずで、それを支援しているのである。
 それだけではない。本業だけでなく、文化などにも多大な援助をしている。そこには企業の社会貢献という話以上のものがあったに違いない。それはどうしてなのか。さらに広告というものをものすごく重視する企業体質はどうしてそうなのか、そしてそれらが一体どこから来るのか知りたかった。この本はそうした私の疑問に答えてくれた。

 佐治敬三は大正8(1919)年11月1日土曜日、大阪市東区住吉町の商家で生まれた。父は鳥井信治郎である。どうやらサントリーの独特の企業体質は信治郎からさかのぼれるようである。


 当時(明治の青年・鳥井信治郎が弱冠二十歳で独立したとき)、全酒類に対する洋酒の製造量はまだ0.25%に過ぎなかった。ほとんどの人にとって未知の物を売る。それが信治郎の課題であり、そのためには見込み客にその物の魅力を伝え、欲しいと思ってもらわねばならなかった。さらに、これをいかに楽しめばいいのか。そうした生活提案も必要だった。また、店に置いてもらう必要があった。こうして、壽屋は創業の当初から、宣伝に力を入れ、人々のイメージを喚起することで、売り上げを拡大していったのである。まだ必需品でないものを買ってもらうには、人々の憧れをかきたて、引き付ける必要があった。まず、夢を売り、商品の購買に結びつけていく作業が欠かせなかったのである。虚がなくては実もない世界であった。
 敬三や道夫が、幼少の頃から稼業の仕事に興味覚えたのも、宣伝の力だったといえるかも知れない。父が持ち帰り、神棚に供えた広告。父の会社の宣伝部にごろごろしていた各種ノベルティー候補の珍しい小物たち。こうしたものが、二人の心をとらえ、自然に製品と広告という商売の装置を関連づけてみるようになったといえよう。信治郎は何も教えなかったが、子供たちを小さな頃から会社に遊びに来させたことは、はからずも最良の後継者教育になっていた。


 要するに信治郎が始めたウイスキーはその市場がまだ日本にはなかった。だからその市場を作らなければならなかったわけである。単に製品をポンと出せばいいものではなく、それに興味を持ってもらい、買ってもらえる“環境”も作らなければならなかったのである。“酒”というものがもたらす雰囲気づくり、その場所の提供も不可欠であった。これがサントリーの戦略を決定する。


 極端にいえば商品を創るということが市場を創ることであった、逆にいえば市場を創らないと売れない、そうした性格の商品を創ってきた、それが敬三のたずさわった洋酒業界の特質であり、こうした若い産業、まだ確立していない産業にとって、マーケティング活動は企業経営の前提であったのである。だからこそ、チャレンジスピリットが重要であり、コミュニケーションの力が求められたのであり、つねに時代の動きを捉えて対応していく反射神経が要求された。


 良い製品を、じっくりと時間をかけてつくり、人々にゆったりした楽しい時間を提供する-いってみれば、サントリーの仕事は、壽屋として創業当初から、時間産業であった。こうした産業の性格が、父・信治郎や息子・敬三の経営に実にさまざまな多面的努力を求めたのであり、それは製品の楽しみ方の提案であり、また、楽しむ場そのものの開発であった。


 ここにサントリーが広告を含め「場作り」に力を入れるわけが見えてくる。また佐治敬三という人物も形作ることになる。この本の最初に山崎正和さんが書いている文章が的確にそれらを言い表している。


 ウイスキーであれワインであれ、嗜好品という商品は奇妙な商品だといえる。それは栄養にもならず、健康にも役立たず、じつは酔いという麻薬的な効果を本質とするものですらない。酒はほのかな夢幻状態を人にもたらしながら、そのなかで味と香りとグラスの色を味わわせ、会話を引き立て孤独の静けさを深め、酔いの周辺というべきものを楽しませる商品である。
 いいかえれば、それは限りなく物質から遠い商品であり、雰囲気をつくり、気分を養うという意味で、むしろ芸術作品に近い商品だといえる。そういう商品の創造を本業とする佐治さんにとって、かずかずの「趣味」はたんなる息抜きではなく、まして財団や音楽ホールといったメセナ事業は、その本業の直接の延長だったにちがいないのである。


 いずれにしてもサントリーという会社は、商品だけを造っていけばいい会社ではない。自ら率先して市場を開拓し、消費者に購買意欲を湧かせ、それを楽しんでもらうことが必要な会社であった。人の生活に密着していなければならなかった。だからいつも時代の先端をいき、それに敏感でなければならならなかった。
 広告を打つのも、文化的事業に乗り出すのもすべて本業にかかわっていたことなのである。
 酒というものは面白いもので、どういう形であれ人を癒やしてくれる。その癒やし方を会社が提供することが社会の創出に貢献することになったのである。しかもその社会の創出も自分の会社に直接売上げに貢献するものではない。
 佐治には信条とする言葉が二つある。それは「真善美」、「美感遊創」である。
 「真善美」とは佐治が若い頃傾倒した自由主義知識人の河合栄治郎が言う言葉である。


 河合によれば、学生にとって、専門知識を修得する特殊教育とともにその基礎として教養を深める一般教育が極めて重要であるとし、教養の目標は人格の陶冶にあると説く。人格の構成要素は三つあり、「学問、道徳、芸術である。そして此の各々の理想が真、善、美である」から、「人格の陶冶」、すなわち人格の形成とは、自らの努力で生涯を通して真・善・美という理想に向かって三者をバランスよく修得し、高めていくことに他ならない。何故ならば、「之ら三つの要素は現に人間各自に本来具有されているもの」だからでり、「そのすべてを『引き出す』ならば、人間を彼れ自身たらしめることになる」というのである。


 そして「美感遊創」とは、佐治が平成元(1989)年、サントリーは創業九十周年を迎え、そこで宣言した言葉である。


 「美感遊創」の「美」とは羊の下に大きいという字。丸々と太っておいしそうな羊、つまり、グルメ、舌の喜びを表しています。
 「感」とは、感性、感情、共感というように、理論、理性を超えたエモーショナルな心の動きです。
 「遊」とは神代から人間にとっていちばん大切なこと、人生を楽しく、生き生きとさせる根幹です。
 「創」とは、一刀のもとに切り裂くという字。そこに新しい断面、局面が生まれる。自分らしい生きかた、創造の喜びを実感することが、すなわち、生きている実感につながると思います。


 佐治がサントリーを「生活文化企業」と名付け、「真善美」を基にして「美感遊創」社会の創出に貢献したいという思いがあったのだ。


 敬三が資本家としてケタ外れなのは、洋酒という嗜好品、金では測れない心の商品をつくるメーカーの社長だからかも知れない。しかも、父と同様、ものづくりにきわめて強い情熱を注ぎ、品質にこだわり、それが消費者に愛用されることに無情の喜びを覚えるという性格の故であろう。ものづくりは、金もうけよりもはるかに面白く、豊かな達成感、強烈な充足感があり、これが敬三父子に麻薬のような中毒症状を植え付けてしまったともいえようか。そうでなければ、どうしてつねに次々に新しい挑戦の的をみつけ、狩人のごとくその夢を追いかけ続けることができようか。


 マスターブレンダー・佐治敬三は、こうして、その生涯で実に四十を超えるサントリー・ブランドを作ってきた。これは、もしかすると世界最多かも知れない。どうして、こうも多きにわたったのか。つねに時代に合わせて、ウイスキーを変えてきたからである。


 最後に開高健さんと佐治さんとの関係を書く。


 敬三にとって開高健は社長と社員という関係を超越していた。開高が壽屋に在籍していた期間は昭和二十九年一月から昭和三十三年五月までの四年に過ぎず、その後は嘱託として自由に、しかし、かなり多くの宣伝制作の仕事をこなし、嘱託を辞したのが昭和三十八年十月のことだった。合わせて約十年、三十三歳のときである。彼は二十四歳で入社して、すぐ壽屋の広告の第一線に立ち、サントリー宣伝部の黄金時代を担って、数々の名コピーを書き、とりわけ『洋酒天国』という歴史に残るPR誌を編集して、作家となっていった。なんという早熟の天才であったことか。
 作家になってからも敬三との関係はますます緊密となり、折あるたびに開高は敬三の相談にのり、アイディアを出し、忠告し、敬三は開高の応援団としてつねに手厚くサポートし、それでいて必ず宣伝、PRへの協力を引き出し、持ちつ持たれつの友情を交わし続けた。敬三にとって開高は盟友であった。最も惚れ込んで「男の中の男」と思い、最も尊敬し、信頼し、頼りにして来たのである。終世、その関係は変わらず、平成元年十二月九日、開高が亡くなると葬儀委員長つとめ、挨拶では人目も憚らず号泣した。身を引き裂かれる思いが見えて、もらい泣きする者が続出した。


 この本によると開高さんがサントリーで仕事を直接していた期間はわずか10年ほどだった、ということにちょっと驚いた。もっと長い付き合いがあるものと思っていたが、そうではなかったのだ。ただ開高さんが死ぬまで佐治さんと関係は続いた。
 谷沢永一さんの『回想 開高健』の中で次のようにある。


 この二人の様子について「開高はほがらかにくつろいで燥ぎ、大きな駄々っ子のようであった。佐治は佐治でまた眼をほそめ、愛しうてならぬという風情であった。兄弟でもこうはいくまい」と描写している。「どう見ても弟」と言いつつ、「兄弟でもこうはいくまい」とも評する。二人の関係は血よりも濃い、ということだろうか。(坪松 博之 『壽屋コピーライター開高健』)


廣澤 昌 著 『新しきこと面白きこと―サントリー・佐治敬三伝』 文藝春秋(2006/03発売)
by office_kmoto | 2014-08-27 05:26 | 本を思う | Comments(0)

坪松 博之 著 『壽屋コピーライター開高健』

d0331556_52379.jpg 今まで開高健さんの評論は読んできた方だと思う。開高さんの死後、たくさんの関係者が開高さんの生前の姿を書かれてきたし、その交友、女性関係の暴露まであったが、開高さんの交友の広さが、その関係者をして生前を偲ばせるものばかりだったような気がする。あれほど文学に対して口うるさい仲間がいたのにもかかわらず、ここまで作品のあり方を詳しく検証した本はなかったのではないかと思った。
 結局開高さんの文学をあり方を壽屋(現サントリー)時代に限定することによって、開高さんがその後してきたことの“原点”を見出し、それを検証することによって、開高文学の性格を読み解けたのではないかと思われる。


 開高は文章による表現者であるとともに「つくる人」であると感じられてくる。物書きではなく物づくりの人である。後になって、そのプランナー、あるいはクリエイターとしての才能が発揮されることにより開高は従来の作家の枠を超えた「行動」を成し遂げたように思えるのである。「ベトナムに平和を!市民・文化団体連合」の呼びかけ人として発案した「ニューヨーク・タイムズ」でのベトナム戦争反対を主張する意見広告の掲載、十二人の文学者、画家たちへのインタビューをベースとして組み立てた人物評伝『人とこの世界』、『オーパ!』や『もっと遠く』『もっと広く』といった釣魚冒険行、さらに、自ら出演するウィスキーの広告シリーズ、特別番組制作、元朝歴代皇帝陵墓探索計画-ユニークな視点から新しい企画をスケール大きく組み立てるプランナーとしての着想の原点がこの壽屋のPR誌の編集者としての仕事ぶりから感じられるのである。


 しかし、この言葉の工作作業は開高にまさにピッタリの仕事であった。そして、この工作作業は開高の小説家としての作品づくりのひとつの特徴を示しているように思われる。
 開高は小説の新しい題材を求め、その表現を切り拓いてきた作家である。言葉として定義されていない対象物を豊かな語彙を用いてなんとか表現しようとする。そこに妥協はない。細かいディテールをあらゆる名詞、形容詞を駆使して描き、極端な対句を用いて物事の裏と表、光と影、あるいは虚と実を提示する。さまざまな言葉があふれ出る。読み手が疲労感を覚えるほどの手厚いアプローチである。そして、その表現の到達点に凝縮された一言半句が登場する。物事の原理をひとことで貫いてしまう。読者の前にある真実を的確に描き出す。鮮やかな決まり手である。もちろん、その一言半句を構成するひとつひとつの言葉は吟味され、並べられている。決して他の言葉に言い換えることができない。揺るぎない洗練がそこにはある。


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 この「何をどう書くか」を自らに常に課し、なんとか言葉で描き尽くそうした姿勢は、対象物を与えられ、言葉を連ねてその姿、イメージ、魅力をなんとか表現しようというコピーづくりへの熱中と重ね合わされるのである。与えられた対象物をなんとか言葉で描こうとする。コピーライターもまた言葉の探求者であった。表現者としての開高にとって極めて相性の良い仕事だったと思われる。


 そうだとすると開高さんが壽屋でコピーライターをしていたことで、それ以後開高さんの小説のスタイルを決めてしまったといっても過言ではないかもしれない。
 広告では「何を、どう書くか」、そしてそれが「どう伝わるか」を考えないとならない。題材を求め、それをどう表現していくか。そして表現されたものがどう伝わっていくか、その効果も考えなければならない。そのためには「漢文調の言葉を駆使し、時には対立する言葉を用いて完全なる表現を求める」。それが著者の言う通り、「読み手が疲労感を覚えるほどの手厚いアプローチ」となって文章に表される。その上で最後の一文が徹底的にそぎ落とされた、洗練された一文となっていく。これが開高さんの文学である。


 この表現アプローチこそコピーライターとして開高がトリスウイスキーの広告制作の中で修得していったものではないだろうか。特に、開高がコピーづくりで磨いたものが、リズム感であろう。


 コピーライターという仕事は題材との付き合い方、取り組み方を身につけさせた。しかし題材を探して求めて歩くという仕事が、開高さんの小説のあり方を決めてしまう。つまりこれはという題材があれば、小説は書けるが、それがない場合、まったく小説が書けないという事態に陥る。


 そのころ、彼は、しっかりした題材がさえあれば、人をとらえる力のある小説がすぐにも書けるはずだということにようやく気づき、何を見ても、何を聞いても、何を読んでも、もちろん何を書いても、小説の題材として用いるのに堪えうるかどうか、まずその力の強弱を量らずにいられなかったらしいからである。
(向井敏『開高健 青春の闇』文藝春秋 1992年)


 このように題材というパートナーの発見は開高に小説創作の方法をもたらした。そして芥川賞までプレゼントしたのである。見方を変えると、題材と出会わなければ開高は小説を書くことができなくなったのである。それも、その題材は触れたら衝撃を受けるほどのエネルギーを秘めたものでなければならない。このことが、やっと書けるようになった開高に新たな書けない病をもたらすことになる。
 このことからとにかく開高さんは題材を求めて外へ出て行かなければならなくなっていく。


 開高は世界を歩き、さまざまな出来事を目撃、体験しながらその本質を探ろうとしていた。真実はいったい何なのか、作家として、表現者として目に見えている事象について常に懐疑の気持ちを抱き続けてきた。何が正しいのか、何が本当のことなのか。対立する言葉による表現は、なんとかしてその真実にたどり着こうとする開高が見出した表現スタイルであり、開高文学の本質的特徴である。


 特派記者としてベトナムへ行き、南北アメリカ縦断の釣り行脚にも出かけていく。それは多分に道楽、現実逃避もあるが、そこにあった題材から結局また自分の内面に戻って来るのである。


 自分の外部にあるものを扱いながらも作者の明確な主観がそこには存在している。外に出ることで、開高の「私」は明確な姿を現しはじめる。そして、この外への旅は、小説にとどまらず、ノンフィクションとフィクションの峡間を行き来する開高健の将来の作家像を示していたといえるだろう。


 創作に取り組む内にへ内へ向かおうとする開高は、実は外へ外へ「逃げよう」とする開高からもたされたものなのである。


 開高は文学においても自ら「シチュエーション文学」と称した『パニック』『巨人と玩具』、さらには『裸の王様』を書きながら、一方では『食卓と寝台』、さらには『なまけもの』で自分の内面へのアプローチを試みている。そしてベトナム行を経験し、特派記者としての雑誌への記事連載、大幅な改稿によるルポルタージュの書き下ろし、そして小説化という段階的な試みを経て『輝ける闇』を生みだし、さらに内面へのアプローチを行い『夏の闇』へと到達する。外界と内面を行きつ戻りつしながら通常の私小説の域を超越し、ノンフィクションを大きく包み込む物語化、小説化に成功するのである。


 具体的に言うと、開高さんはベトナムで少年が銃殺される光景を目撃した。その光景を見たことにより「自らのこれまでの生が粉々に砕けるのを覚え、その後の試みはすべて、この衝撃からの復元にむけて重ねられることになった」(廣澤 昌 『新しきこと面白きこと―サントリー・佐治敬三伝』)のである。

 そして、


 ベトナムから『夏の闇』が生まれたように、南北アメリカ縦断での宝石の出会い、そし『オーパ、オーパ!!』での探求から『珠玉』が生まれたように、創作に取り組む内にへ内へ向かおうとする開高は、実は外へ外へ「逃げよう」とする開高からもたされたものなのである。


 だから、


-開高健は永遠に旅を続けなければならない表現者だったのである。


 と著者は言うのである。そう言われればそうかもしれない・・・・。が、しかしこの論法は、結果論と見ることも出来るような気がする。自分の内面を見つめるために、そのための題材を探し外へ出て行ったようには私には思えない部分がある。むしろ壽屋時代に培った「企画力」を自分自身のため(たとえば道楽、気分転換、あるいは健康のため、趣味や興味の対象)に使ったといった方がすっきりする。そしてその副産物として題材が見つかり、それを触媒にして自分の内面を見つめることになったのではないか。そうでないと最晩年のジンギスカンの墓探しなど、どう説明出来るというのか?


坪松 博之 著 『壽屋コピーライター開高健』 たる出版(2014/04発売)
by office_kmoto | 2014-08-20 05:26 | 本を思う | Comments(0)

その違い

 本当は先にあげた文章に書いてしまってもよかったのだが、テーマが変わってしまうので別に書いてみた。
 吉村昭さんと司馬遼太郎さんの歴史小説の違いを書きたかったのである。私は両方の作家が書く歴史小説が好きでよく読んできた。
 しかし同じ歴史小説であっても、そのスタイルが違いが味わいを別にする。もちろん作家が違うのだから、味わいは違って当たり前なのだが、その味わいの違いって何なのだろうか。どこにその違いが生じるのだろうか、と思う。
 それで先に読んだ吉村昭さんの評伝に、その違いが書かれていたので、それを書いてみたい。


 司馬遼太郎は、<ビルから、下をながめている。平素、住みなれた町でもまるでちがった地理風景にみえ、そのなかを小さな車が、小さな人が通ってゆく。/そんな視点の物理的高さを、私はこのんでいる。つまり、一人の人間をみるとき、私は階段をのぼって屋上へ出、その上からあらためてのぞきこんでその人を見る。おなじ水平面でその人を見るより、別のおもしろさがある。(中略)/ある人間が死ぬ。時間がたつ。時間がたてばたつほど、高い視点から人物と人生を鳥瞰することができる。いわゆる歴史小説を書くおもしろさはそこにある>(「私の小説作法」)と述べている。それは「鳥瞰」という方法であり、いわゆる“司馬史観”ということになる。作者が鳥のように高所にいて、中心人物を眺め下ろす方法である。そのように司馬には歴史を上から俯瞰するように捉える傾向が強く、それが「天下国家」を論ずる視点となっている。
 ところが吉村昭は、主人公に寄り添うように等身大の人物を描く。そこに明確な差異が感じられる。また司馬には、英雄こそ歴史を動かすという嗜好があるようである。“英雄史観”ということもできるだろうが、乱世の中で立ち上がり世の中を一変させる力をもった主人公にした作品が多いのも吉村昭との顕著な違いといえる。(笹沢 信 『評伝 吉村昭』)


 「司馬遼太郎さんは、国の全体の歴史を書くんです。たとえば『翔ぶが如く』で、西郷が消え失せ、大久保利通が生き残っていく必然性を書く。
 滅んでいく西郷と次代を担う大久保を、つまり結果として正しい国の歴史をバランスよく書いていく。
しかし吉村さんは(略)
 観念に捉われ歴史の本流から外れた人生を描いて、人を動かす情念の凄絶さを、われわれに突きつけてくる。この本からは“自分にはこれしかできない。だからそのために死んでいく!”という呻きが聞こえてくる」(松本健一 Kawade夢ムック 吉村昭 - 歴史の記録者」収録)


 これでわかるだろうか?司馬さんは“上から見た”歴史を書き、吉村さんは“自分が寄り添って”歴史小説を書いているのだ。
 どちらが面白いか、それは好みによるだろう。ただ司馬さんが書く歴史小説が絶大な人気があるのは、司馬さんが“上から見た”人物であり事象であるが故に、ダイナミックにその歴史観を展開出来る。さらにその先のことがわかっているがゆえに、それらの人物達や事件が与えた影響を関連づけることが出来る。それが面白いのだ。だから司馬さんの小説には、物語とは別に、わざわざ話の腰を折ってまで、余話として、あるいは「閑話休題」として、その後に起こる事象に言及がなされるのである。それが読む側は“なるほど!そうなんだ”とさらに興味をそそるように作られている。その展開が日本という国だけでなく、アジア、世界と関連づけられている。それが「司馬史観」なのである。これが面白くないわけがない。
 一方吉村さんが書く歴史小説は、あくまでも人物がなぜそのような行動を起こしたのか。そこに重点が置かれる。人がそのような行動を起こした理由を、歴史的事実は歪めず、その心情を自分自身に置き換えて考えていく。だから徹底的に資料が必要となる。その上で作中の人物たちの行動を人間的に考えるため、自分ではどうだろう、と考えていくのだ。


 リアリティは、人間から発生する。そして、人間は「記録」を残すことによって、「人間」となるのだ。人間をあますところなく描き尽くすのが文学であると信じた吉村は、人間の本性の確実な痕跡としての「新資料」を必要としたのである。(島内景二 Kawade夢ムック 吉村昭 - 歴史の記録者」収録)


 歴史小説においては、史実を徹底的に掘り起こし、その史実を叙述するなかで、吉村昭の「私」はいったん捨てられる。しかし登場人物が果たした歴史を叙述するに際して、吉村昭の「私」が完全に捨てられることはなかった。登場人物と史実は、吉村昭の理想のかたちに仕上げられてゆく。そこに吉村昭の「私」は残る。時代に先駆け、その時代を創ったゆえに、歴史から追われる人物が描かれるが、歴史に迎合した人物が描かれることはない。日本の幕末の時代と十五年戦争の時代が重ねられ、そこに日本人の源像が表現されてゆくが、その登場人物は時代を切り開いたゆえの寂寥をただよわせて人生を終える。
 そこに吉村昭は日本人を見ている。歴史其儘ではなく、歴史離れをする。そこに「歴史其儘」ではない、吉村昭独自の「歴史小説」ができた。その一点に吉村文学の秘密がある。(川西 政明 『吉村昭』)


 ここが吉村昭さん歴史小説の“人間臭さ”であり、それが吉村昭という作家が書く歴史小説の魅力でもある。
 もちろんその後の歴史的つながりもしっかり見すえている。


 吉村は“史伝”は大事件をクライマックスにするようなに、“演出”を施していないことにも留意が必要である。これは歴史で重要なのは大事件のような“点”ではなく、否応なく進む“流れ”であるという発想から生まれたように思えてならない。(末國善巳)


 その比喩が必ずしも妥当かどうかは措くとして、吉村昭が主な対象とした江戸時代から明治維新にかけての時代を、巨大なジグソーパズルに想定してみる。ジグソーパズルは無数のピース(事象・現象)で構成されている。そのピース(断片・小片)の一つに焦点を当て、徹底的に調査・取材して執筆されているのが吉村昭の歴史小説である。
 しかし、どのピースも単独で存在を主張するものではなく、互いに有機的なつながりをもつことで初めてジグソーパズルは完成する。あらゆる事象を正確に歴史の流れの中にはめ込んでこそ有効なのである。つまり、歴史の全体像が摑めないと、ピースをはめ込むことはできない。換言すれば、吉村昭の歴史小説を貫く歴史感は、一つひとつのピースのつながりから帰納されているということができる。だから吉村作品の歴史小説は支流が集まって本流となり海洋に注ぎこむように、互いに併呑しながら激しい流れとなって明治維新にへと流れこむように綴られているのである。(笹沢 信 『評伝 吉村昭』)


 要するに司馬遼太郎さんの歴史小説は、わかりやすく、そのダイナミックな発想が大衆受けするが、吉村昭さんの歴史小説は通受けするものだと言えそうである。
by office_kmoto | 2014-08-17 05:30 | 本を思う | Comments(0)

平成26年8月日録(上旬)

8月某日 はれ

 月が変わり、そして金曜日。各部屋にあるカレンダーを変える。こゝろノートに1週間分の新聞を切り抜き貼る。
 散歩から帰ってきて、汗が引いたら、さつきを消毒する。月2回やらなければならないので、月初と15日することにしている。春に花が咲いて、その後バッサリと剪定し、毎月2回消毒しているので、病気もないようだ。

 少々本棚の整理もした。

 坪松博之さんの『壽屋コピーライター 開高健』を読み終える。結構重い本で、横になって読んでいると腕が疲れてくる。ただ内容は面白かった。新しい「開高健」像を見せてくれた。
 続いて廣澤昌さんの『新しきこと 面白きこと』を読み始める。これは開高さんを支え続けた佐治敬三さんの伝記である。


8月某日 はれ

 とにかく朝から暑くてたまらない。熱帯夜が続いている。
 朝、ハローワークへ失業認定へ出かける。問題なく認定を受け、さっさと帰る。暑くてどこにも寄る気が起こらない。
 本もこれじゃ思うように読めない。


8月某日 猛暑日続く

 以前から気になっていた眼の充血がここのところひどくなっている。もともと昔から充血しやすく、まあ疲れ目であろうとそのまま放っておいたのだが、余りにもひどいので近所の眼科に行った。診察の結果、「慢性結膜炎」と言われる。何だかよくわからない。「中高年の病気や症状」というサイトには「原因として考えられることは多岐にわたる場合が多く」、「急性結膜炎よりもしつこく、なかなか治癒しない場合があります。途中で治療を投げ出さずに、医師の指示のもと、根気よく治療するようにしましょう」とある。
 まいったなあ。そういえば先生も治りにくいと言っていたっけ。根気よく治していくしかないようだ。処方箋をもらい、近くにある薬局で目薬をもらう。

 朝顔が昨日に続き咲いていた。今日は7つ咲いていた。朝方5時頃はきれいに咲いていたので、あとで写真を撮ろうと思って、9時頃見てみたらもう花はしぼんでいた。この暑さのためか、そう長く咲いてくれない。
 5月の初旬に種を蒔き、3カ月かかってやっと花を咲かせるまで来ても、数時間しかもたないとなると、なんか物足りないなあ。

 やっと廣澤昌さんの『新しきこと 面白きこと』を読み終える。


8月某日 はれ

 朝起きて庭にある朝顔を見るのが楽しみになった。今日もいくつか花を咲かせている。今日はピンクの花が咲いていた。きれいに咲いている時間が僅かなので、余計にきれいに見える。これまで手塩に育ててきたことも、夏の一番涼しい朝に花を咲かせていることもそう見えるのかもしれない。朝顔は案外大人でも楽しめる。小学生だけのもじゃないと思ったりする。


8月某日 はれ 立秋だけど今日も猛暑日

d0331556_17223369.jpg 木皿泉さんの『木皿食堂』を読み終える。
 この本で「木皿ドラマ」って何なんでしょうね、と問われ答えている部分がある。


 (私たちのドラマは)いろいろなものを入れ過ぎるせいで、それ用の箱が見つけられ巣、いつも袋詰めです。パッケージらしいものはなく、中に何が入っているのか、わかりにくい。まったくもって不親切なドラマです。


 この本も袋詰めの木皿ワールドである。
 でも木皿さんたちは「私は、ドラマのシナリオを書くのが仕事である。デビューから今に至るまで書き続けているのは『日常』についてだ」と言っている。そう、ここにあるのは普段我々が繰り広げている日常で、それを木皿さんたちが言葉で表現すると妙に味わいが出てくるから不思議だ。


 子育てを終えたばかりの友人夫婦の生活は、子猫を中心に回っているようだ。私には、二人が若い頃の自分たちをやり直しているように思えた。子供を育てるのに無我夢中だった、そんな時間を、今度はゆっくりと味わっているように見える。


 大きな力の前では、人はただただ頭を垂れるしかない。


 お互い投げては受け止める。受け止めては投げ返す。そういうのを「愛」と呼ぶのではないだろうか。


 早くやろうと焦ることが、一番の遠回りになる。


 その人に必要なモノをあげるのが贈り物ではない、と思う。その人にあげたいと思うのが贈り物だ。


 幸せであり続けることは、とても難しい。それは、今も昔も同じだと思う。ただ、昔の人は、そのことを身にしみてわかっていたのだ。だから、無事に年を越せたことを誇りをもっただろう。


 何十年も一緒にいるが、相手の中身なんて、ほとんどわかっていない。わかっていないけれど、ここに「いる」ということだけで嬉しくなる。この人、いつかサヨナラしても、また会いたいと思ってしまうだろう。これって、何だろうと思う。


 電車で化粧している女の子を見たような、むきだしのその人見せられているようだ。


 「今日、何食べたい?」と聞くと、たいてい「何でもいい」と言われてしまう。作るほうは困ってしまうが、そういうものなのかもしれない。食べたいものなんて、出合うまでわからない。出合って「そーや、これ食べたかってん」とわかるのだ。そのためには、気のそまぬモノでも食べてみることだ。人生そのものが、何が出てくるかわからない「おまかせコース」みたいなものだから。


 もし、食べていかなくてもいいということになっても、私はやっぱり働くだろう、と思う。何のためにと聞かれると、それはたぶん、人生という長い時間を自分のためだけに生きられるほど、人は強くないからだ。



 木皿さんたちの小説『昨日のカレー、明日のパン』というのがある。『昨日のカレー』は「きのう」ではない「ゆうべ」と読ませている。なぜそうなのか。そのことがここに書いてあった。
 カレーの匂いがするのはだいたいが夕方だからだ。そしてパンは「明日のパン無いわ」とか、「明日のパン買うてきて」とか、スーパーとかで、「明日のパン買うとかなあかん」と言っている。つまり木皿さんたちが言うパンは明日の匂いがするものなのだ。
 そう言われるとパンって、明日の朝のものというイメージがすぐ浮かぶ。それだけにいつもと同じ朝だけど、だからこそそれが愛おしいと思わせる。なるほど、あの小説に向いている題名だ。


8月某日 はれ

 伊集院静さんのエッセイを読んでいたら、ツバメの話があった。それで思いだした。
 先日新中川の土手を歩いていたとき、さっーと風を切るように飛んでいくものがあった。ツバメである。久しぶりにツバメを見たような気がする。飛んでいった先を見ていると、川にかかる橋の下にある橋脚とつながったところにいくつもの巣が見える。こんなところで暮らしているんだ、と思い、しばらくそれを眺めていた。
 私が子供頃は夕方など、ツバメが低空飛行して飛んでいく姿をよく見かけたものだ。夕方になるとえさとなる虫がたくさん出てくるので、それを捕るために、あっちこっちでツバメが見られたし、それが私の中で子供の頃の記憶の一つとして残っている。
 そういえば昨日は立秋だった。暦の上では秋になったのだろうが、まだまだ暑い日が続く。それでも土手には赤とんぼがたくさん飛んでいた。それを見ると、もう秋なんだなあ、と思う。
 それでも蝉の鳴き声がうるさいほどだ。我が家の狭い庭にぽこぽこ穴が開いているところがある。いくつもある。最初何の穴なんだろうと思った。こんな都会にモグラなどいるわけがないし、不思議に思っていたところ、近くの木に蝉の抜け殻ある。そうなのだ。蝉が地面から出てきた穴なのだ。
 こんな些細なことも、普段は気がつかない。たまたま時間があって、庭の手入れなどして、毎日庭を見ているから気づくことである。

 こんなことを気づいたって、どうってことはないのかもしれないが、それでも四季の営みの一つを身近に見ることが出来るって、案外いいものだと、つくづく思うのである。
 今年はこうした四季の移ろい、花にしろ、生きものしろ、行事にしろ、季節が移っていくのを直に感じられるのを、案外楽しみしているところが自分にはある。


8月某日 雨

 台風11号が日本を直撃している。九州、四国、紀伊はその影響が心配される。そのおかげでというのは不謹慎かもしれないが、東京は連日の猛暑日から解放された。朝から蒸すことは蒸すが、昨日までとは違い過ごしやすい。これなら今日は本が読めるな、と思う。
d0331556_17233991.jpg どうもここのところ暑さのおかげで本を読む気が起こらないでいたのだ。手にしたのは伊集院静さんの昔のエッセイ『神様は風来坊』である。
 例の如く“そうだよなあ”と思いつつ読んでいた。
 伊集院静さんの考え方は“体育系”であるのだが、その文章に見えるのは繊細なのだ。厳しさの中にやさしさがあるのが魅力的なのだ。


 誰だって事情はある。それが人生なのだろう。男は大人になったら逃げるわけにはいかない。


 中睦まじく見える男女は、案外とこわれやすい。逆にささいなことでも本気で喧嘩している男女の方は、しぶとく続いているように思われる。はたで見ていて、よく毎々言い争うなと思うが、当人たちは本気である。本気ということは正直だということであり、正直は裏をかかないということだろう。


 いろいろな夢で迷う人間より、ひとつの夢を追い続ける人の方が、はるかに良い顔をしている。


 なんでもない静かな時間だけが、ささやかなことからよみがえる。


 夜、木皿泉脚本の「ドブコ」を見た。木皿さんの脚本のドラマを見るのは初めてである。
この番組は10組の脚本家が週替わりで執筆する「おやじの背中」の1話である。
 なるほど、木皿さんたちはこういうドラマを書くんだ、と思った。面白くて、そして切なく、それらを日常の中にいっぱい描いている。
 今日は台風が来て、天気がめまぐるしく変わるので、1日家にいる。とにかく蒸し暑く、肌がべたつく感じがいつまでもとれなかったが、髙村薫さんの『マークスの山』を読み始める。この本はだいぶ以前に読んだことがあるが、内容は忘れている。『冷血』を読んで、合田刑事シリーズを読み直したかったのである。


8月某日 台風一過 風強し

 昨日の台風で庭が荒れてしまっている。隣のお寺の雑木林から、葉っぱがそこら中に落ちていて、ひどい状態だ。そんな中朝顔は花を咲かせている。
 芽が出たものをすべて鉢植えにして、6鉢になってしまったが、これだけあると毎日花を咲かせてくれるので、かえってよかったかもしれない。来週末孫が家に来るが、それまで花が咲いているだろうか。出来れば孫に見せてやりたいのだが。
 まだ風が強いので、しばらくは落葉はありそうだが、とりあえず掃除をする。

d0331556_17245595.jpg 髙村薫さんの『マークスの山』の上巻を読み終える。続いて下巻を読み始める。














8月某日 はれ

 今朝は久しぶりに涼しい朝を迎えた。ただ昼は暑くなる。飯田橋の東京しごとセンターへ行き、履歴書の書き方という講習会へ出席。ハローワーク主催の同じ講習会へ一度出席したことがあるが、今回はシニア向けということ。
 前回の履歴書の書き方でなかったことがある。それは健康が良好であることをきちんと書くことだそうだ。さすがシニア向けとちょっと笑ってしまった。確かにシニアを採用する側からすれば、健康に不安がある年寄りは採用したくないだろうから、重要なポイントなのかもしれない。でもなんかなあ、と思う。
 帰りは神保町へ寄ってみる。見たい本があるからだ。ヘニング・マンケルの『北京から来た男』という新刊が出ていることを知る。まだ私は揃えた文庫本を読んでいないので、それを読んでからにしようと決める。
 三省堂古書館で山口瞳さんの揃っていない『男性自身』を5冊購入。これでだいぶ揃ってきた。あと池波正太郎さんの『原っぱ』という文庫本も買う。しめて3,000円也。
 夕方家に戻り、玄関先を慌てて掃除し、迎え火を焚く。部屋に線香の香りが漂う中、買ってきた本を眺める。少々疲れた。


8月某日 くもり

 湿度が90%近くあるので、肌にまとわりつく感じだ。今日は居間の掃除をする。居間にあったブルーレイレコーダーを和室に移動する。これで録画した番組や映画などベッドで横になりながら見られる。たまっていた古い映画などゆっくり見ようと思う。

d0331556_17263945.jpg 髙村薫さんの『マークスの山』の下巻を読み終える。この作家女性なのに硬質の文章を書く人だ。
 南アルプスの山中で起こった過去の事故を必死に隠そうとする、人間たち。そして彼等は自分たちの地位を利用して事件を隠蔽しようと警察上層部に圧力をかける。一方、同じ南アルプスの山中で起こった一家心中事件の生き残りである水沢裕之は、窃盗に入った家で彼等が起こした事件の真相をしるしたメモを発見し、彼等をゆすりはじめる。
 話は昔の事故を隠そうとする彼等と水沢のゆすり、殺人、そして警察上層部の事故の隠蔽工作に合田たちは翻弄され、奇妙な展開をしていく。
 それにしても水沢裕之がこのようなゆすりが出来るのか。その点が疑問符が付く。彼は一家心中の生き残りとして、精神的にダメージを受けたが、そのことはそのこととしても、その水沢が窃盗に入った家でゆすりネタを見つけ、そしてゆすりを行う思考回路があるのだろうか、と思ったのである。どこか無理があるように思えてならなかった。
by office_kmoto | 2014-08-16 17:29 | 日々を思う | Comments(0)

背負ってしまったもの

 私は吉村昭さんのいい読者ではないと思う。何故かといえば私は吉村さんの作品の内、歴史小説とエッセイしか読んでいないからだ。結局歴史小説とエッセイが好きだからそういうことになる。人の内面ばかりを追った純文学にはなかなか手が伸びない。
 ところでその吉村さんの小説スタイルは劇的に変化したと思っていた。最初は純文学を志し、その手の小説を書かれていたが、なかなか芽が出ず、たまたま戦艦武蔵の「建造日誌」を見せてもらい、そこから戦史小説へとスタイルを変え、その後7年間戦史小説を書いてきた。
 吉村さんはとことん事実にこだわる人であったため、当時の関係者に会い、その事実を積みあげ小説を書いてきた。つまり証言者がいることが前提であった。しかしその証言者も高齢で亡くなり、証言してくれる人間の数が減っていく。


d0331556_5195264.jpg この『深海の使者』は吉村昭の転機になった作品である。
 というのは、吉村昭は『戦艦武蔵』執筆をきっかけに、七年間にわたって戦史小説を書き継いできた。『深海の使者』の連載時は戦後も二十七年が経っていた。執筆中、吉村昭は多くの証言者が次第に周囲から消えていくのを実感した。避けることのできない体験者の高齢化や死である。吉村昭の戦史小説の最大の武器は、複数の証言者の回想を得て、それを公式記録で裏づける方法である。そして文体は禁欲までに感情を抑え、事実だけを丹念に積み重ねてゆく。多くの評者が語るように、事実をもって語らしめるのが吉村文学の小説作法なのである。
 吉村昭は、その肝腎の源泉が渇れ始めていることを痛感する。ちなみに『深海の使者』を執筆するにあたっては百九十二人から直接取材している。それから二年ほどして単行本になり贈本したところ、二十四人が鬼籍に入っていたという。体験者の証言を重視した吉村昭にとって、証言者の激減は致命的だった。
 吉村昭は、いさぎよく戦史小説の筆を折ることにする。(笹沢 信 『評伝 吉村昭』)


 そして次への記録小説、歴史小説へと方向転換していった、と思っていた。つまりやむにやまれぬ事情のためそうせざるを得なかったと思っていたのだ。
 確かに区分分けすればそうなる。私はそのまま鵜呑みにしてしまい、そうした変化(純文学→戦史小説→歴史小説)に関連性を考えたことがなかった。ただ変化していったとしか思わなかったのである。
 しかし小説のスタイルは変わっても、その根底に流れるものは関連性があり、変わることが出来ないものがあることを知る。

 作家の評伝というのは作品の中に流れる内面に深く踏み込んで、なぜその作品が書かれなければならなかったのかを教えてくれるところに面白みがある。
 吉村さんの場合は小説のスタイルは変わっても、それが吉村さんが書かなければならない理由は変わっていないのである。つまり吉村さんが“背負ってしまった”ものからそれらの作品は生まれていたということを知った。
 ではその“背負ってしまったもの”とは何であろうか?それは「死」と「戦争」である。


 いま一つ、吉村文学の原点にあるのは、多くの血族の死であろう。四男の政司は疫痢で生後八か月足らずで亡くなり、七男の留吉は生まれた日に死亡した。吉村昭が四歳のとき、姉富子が疫痢にかかり七歳で死亡。十二歳のとき祖母てるの死。十四歳とき兄敬吾が中国戦線で戦死。十七歳とき母きよじが子宮癌で死亡。十八歳のとき父隆策が癌で死亡。そして吉村昭自身、二十一歳のとき生死の境を彷徨うような過酷な胸郭成形術の手術を体験する・・・・・。(笹沢 信 『評伝 吉村昭』)


 初期の秀作に共通するのは人間の死、重い病気を扱った暗いテーマのものが際立つことである。それは、後に太宰治賞を受賞する「星への旅」にもみられる世界である
 これらは吉村昭が結核で大量喀血、左胸部の肋骨五本切除などの体験を引きずってきたことを窺わせる。それに川端康成の影響もあるだろう。(笹沢 信 『評伝 吉村昭』)


 吉村さんの初期の作品は純文学指向であったが、そこには死の影、あるいは骨への嗜好が強く表れている。だから「骨の作家」とさえ言われていた。同人雑誌時代はこの方向で作品が書かれていた。しかし見ている人は見ていた。
 昭和33年2月に『青い骨』を自費出版したが、その本に「跋にかえて」という石川利光の文章がそこにある。


 ただ、ここで危惧されることは、こうした感覚主義的な傾向にありがちなことだが、同じことを掘りつづけているうちに、身動きも向きも変えることができなくなりはしないか、ということである。それはまだ、先のことに属するけれども、若しそういう時期に至っても、しかし果たして大きく回転すべきであるか、現行のまま押し通すげきか、この作品集を手にしてみると、何れがいいとは、俄に断じ難いものがある。


 たぶん吉村さんは自分が書く小説のテーマに身動き出来なくなってしまったのではないか。そこに作家として売れない不遇の時代が続いたから、必然的に方向転換をせざるを得なかったのではないか、と思われる。そういう意味では、こうした感覚主義的小説を書き終えていたのかもしれない。そこへたまたま戦艦武蔵の「建造日誌」を見せてもらい、これなら書けると思い書かれたのが『戦艦武蔵』であった。
 では何故戦争を題材とした小説を書けると思ったのであろうか。ここにもう一つ吉村さんが“背負ってしまったもの”の「戦争」体験が原点となる。

 日本がアメリカと戦争を始めた頃、吉村さんの父親は「日本は負ける。アメリカに勝てるはずがない」と子供たちに言う。そのとき吉村さんは自分の父親はなんてことを言うのだろうと思ったという。


d0331556_5232837.jpg この1941年2月8日の記憶は吉村昭の精神の根幹を成すものである。戦争に「勝つことを強く願って努力してこそ勝利も得られる」と日夜刻苦勉励した日本人像が、吉村昭が求める日本人像の根幹に位置することになり、彼の史実を求めて遍歴した日本人像もここにあったからである。(川西 政明 『吉村昭』)


 つまり吉村さんは純粋な“軍国少年”を生きてきた。それを疑いもしなかった。しかしこの頃吉村さんは結核を患う。そのため戦争を肯定しそれと共に生きることが出来なくなる。


 吉村昭は結核を発病することで、戦争に「勝つことを強く願って努力してこそ勝利も得られる」という信念と行動とを合致させる場所をみずからの倫理を確立する道を失ってしまった。
 吉村昭は予科練に行くことも陸軍幼年学校へ行くことも不可能な身体になってしまった。戦争に直接参加する道は閉ざされた。
 もし吉村昭が発病することなく、司馬遼太郎や城山三郎のように兵隊の経験をしていれば、彼の戦争観や歴史観は別な表れ方をした可能性がある。吉村昭の言葉は信念と行動の一致が一度切れた場所から再構築されたものであった。(川西 政明 『吉村昭』)


 もしもの話である。もし吉村さんが司馬遼太郎さんのように戦場にかり出されれば、その不条理さを司馬さんのように直に見たかも知れない。言ってみればそれを感じなくても済んだ。ただ日本軍が外地でアメリカと命をかけて戦っている。だから空襲にも耐えなければならない。いずれ日本は勝つ、とそう信じていた。ここに司馬さんと吉村さんの戦争観の違いが生じる。

 だから終戦後、


 吉村昭は自分自身を含め戦争の歳月のなかで必死に生きた人間を肯定し、敗戦の日を境に軍国主義から民主主義にすばやく転身した人間を否定する。戦争の時代、日本人は戦争を遂行する国民として必死に生きたのであり、それがいかに怪奇なものであったとしても、そこには人間の本質的なものがある。その解明をすますことなく、戦中と戦後はつながりうるのか。それは戦中派から昭和五、六年くらいの世代をとらえた難問であった。昭和二年生まれの吉村昭にとっては切実な実感であった。(川西 政明 『吉村昭』)


 吉村昭は驚きを感じて身をひそめて沈黙した。熱気の中にいたような戦時中、それほど多くの戦争批判者がいたことは想像することも出来なかったのだ。吉村昭自身は勝利を信じて働きつづけ、戦争に積極的に協力した軍国少年だった。そんなことから、まるで自分が犯罪者であるような怯えにもとらわれた。しかし、次第に吉村昭は、そうした“進歩的知識人”なる人種の発言に反撥を抱くようになる。その体験が、のちに戦史小説を執筆するに当たっての原動力になっていることは疑い得ない。(笹沢 信 『評伝 吉村昭』)


 吉村さんは戦争終了後いわゆる「転向者」認められなかった。たとえ戦争を軍部が煽ったにせよ、それを支持したのは国民であった。


 しかし、少年だった吉村昭の眼に映じた戦争は、庶民の滾るような熱気によって支えられたものだった。自分の見た戦争をいつかは率直に書きたい、と思っていた気持ちが後押しした。(笹沢 信 『評伝 吉村昭』)


d0331556_5264567.jpg 「武蔵」の「建造日誌」を見せてもらいますとね、みんな徹夜で一生懸命働いている。それがまぎれもない私の見た戦時中の日本人だったんですよ。それで『戦艦武蔵』を書こうと思った。(吉村昭 「Kawade夢ムック 吉村昭 - 歴史の記録者」収録)


 それが吉村さんをして『戦艦武蔵』を書かせた原動力であった。そのことによって吉村さんの文学世界が転換したのではなく、“背負ってしまったもの”の表現の場の違いであったのだ。


 それまで「骨と生死」を主題にした小説を一応書き終えたとき、吉村昭の前に『戦艦武蔵』の主題が訪れたといっていいだろう。それに挑戦したことで、吉村文学の世界は広がっていったのである。(笹沢 信 『評伝 吉村昭』)


 こうして戦史小説は7年間書き続けたという。ただ吉村さんの執筆スタイルである事実の積み重ねによる小説の書き方は、多くの証言者を必要とした。その証言者が年々少なくなったことで、戦史小説を書くことを終える。
 しかしその時の取材による副産物として、短編が生まれ、戦史小説を書いていた執筆スタイルはそのまま記録小説や歴史小説に引き継がれる。特に短編小説は吉村さんが文学を志した頃の純文学をそのまま引き継いでいる。


 戦史小説を書き継ぎながら、“純文学”系の短編小説を書くことで、精神のバランスを取っていたのかも知れない。(笹沢 信 『評伝 吉村昭』)


 吉村さんの歴史小説はほぼ幕末ものである。なぜそうであったのか?


 吉村昭の性格は幕末贔屓、明治政府嫌いである。吉村昭は明治政府に加担した人間よりも、滅び行く幕府側に立った人間のほうがよほど優秀な人間であったという確信を抱いている。(川西 政明 『吉村昭』)


 こういう崩壊しつつある幕府にあって、全力を出し切り、新しい時代を切り開きながら、その生涯をふりかえると、「なにかもの悲しい気配」を感じさせる人間が吉村昭は好きなのだ。幕末、幕臣としてめざましい活躍をした人間はギリシア神話に登場する英雄と同じような運命をたどった。それは彼らが敗者として挫折する宿命を生きたからである。日本の敗戦により、幼年時代、少年時代の価値観を破られた吉村昭は、幕末の幕臣の運命が、自己の世代の人間の運命と重なることに深く共鳴をいだいのだと思われる。(川西 政明 『吉村昭』)


 江戸末期の幕府崩壊までの史実に接しているうちに、私は、「大東亜戦争」の敗戦にいたる経過と似ているのを感じるようになった。歴史は繰返されるという手垢に染まった言葉が、重みをもって納得されるのである。
 とりわけ幕末に起こった桜田門外の変と称される井伊大老暗殺事件が、二・二六事件ときわめて類似した出来事に思える。この二つの暗殺事件は、共に内外情勢を一変させる性格をもち、前者は明治維新に、後者は戦争から敗戦に突き進んだ原動力にもなった、と考えられるのである。(笹沢 信 『評伝 吉村昭』)


 歴史小説にも、吉村さんが“背負ってしまったもの”が反映されていたのである。だからここに吉村さんの文学スタイルの断絶はない。
 歴史小説以外に吉村さんがよく書いたものが「逃亡もの」と「漂流もの」がある。これもそれを書かなければならないもの、書かせることを後押ししたのが、やはり「死」と「戦争」である。これらのテーマは追われて逃げる主人公が生き延びることの重さを感じさせる。


 吉村は好んで、本人がどうしようもない状況に置かれた人間を描く。脱獄を繰り返す無期刑囚、全国を逃げ回る幕末の蘭学者、ガンに侵された弟。漂流する人間も、ここに分類されるだろう。(重里徹也 「Kawade夢ムック 吉村昭 - 歴史の記録者」収録)


 私は吉村さんの全作品を大きく分類すると、純文学、戦史小説、記録小説、歴史小説と分けることができることが、小説のスタイルの断絶だとずっと思ってきた。しかしそれはあくまでも分類であって、スタイルの断絶でもなく、方向転換でも何でもないことを今回知った。
 作家に限らず、人はどういう状況であれ、“背負ってしまったもの”を完全に捨て去ることは出来ず、それを抱えて生きていかなければならないのだ。吉村さんの小説群は、それを抱えながら、単に題材を変えただけのことだったのである。

 次に私の好きな歴史小説家司馬遼太郎さんと吉村昭さんとはどう違うか、読んだ本を参考にしながら書いてみたい。


川西 政明 著 『吉村昭』 河出書房新社(2008/08発売)

笹沢 信 著 『評伝 吉村昭』 白水社(2014/07発売)

Kawade夢ムック 吉村昭 - 歴史の記録者 河出書房新社(2008/02発売)
by office_kmoto | 2014-08-12 05:37 | 本を思う | Comments(0)

坂崎 重盛 著 『東京本遊覧記』

d0331556_559616.jpg 今日は隅田川の花火大会があった。娘夫婦が隅田川の近くに住んでいて、孫が生まれてから毎年花火大会に連れて行っている。私たちはその模様をビデオで毎年見ている。だから私たちもこの隅田川の花火大会が夏の風物詩となっている。
 私は一度だけ、結婚する前に妻と一緒にこの花火大会に行ったことがある。今はこの花火大会をテレビで見ているけれど、花火は実際見た方がその迫力がある。みんなと一緒になって空を見上げ、花火に歓声をあげるのは楽しいものだ。
 今年は孫が夏風邪を引いてしまい、花火大会には行かなかったらしい。(そういえば去年は雨で花火大会が急遽中止になり、広げたお弁当を慌ててしまい込む様子がビデオで撮影されていた)それでも家から見える花火を楽しんだという。家で娘が作ったお弁当を広げてみんなで食べたらしい。

 今BSで坂崎さんがゲストと一緒にただ東京の居酒屋を飲んで回る番組をやっている。別に内容のある番組じゃないのだけれど、見ているだけでその居酒屋やバーにいるような雰囲気にさせてくれるので、毎週見ている。時に、行ったことのあるお店が出てきたり、店内に山口瞳さんが書いた掛け軸があったりして、「おっ!」と食い入って見てしまう。
 その不良隠居である坂崎重盛さんの『東京本遊覧記』を読んだ。坂崎さんも隅田川という川に惹かれているのがよくわかる。そこに隅田川周辺の年中行事が紹介されている。


○5月17日・18日に近い金・土・日には浅草の「三社祭」
○5月31日・6月1日・30日・7月1日は浅間神社の「お富士さんの植木市」
○6月7日に近い土・日には「白鬚神社例大祭」
○6月9日に近い土・日には「鳥越祭り」
○6月第二土・日には「隅田川神社例大祭」
○6月第二土・日には「隅田稲荷神社万灯御輿」
○6月30日、鳥越神社「茅の輪くぐり」
○7月6~8日、「入谷朝顔まつり」
○7月9~10日、浅草寺「ほうずき市」
○7月下旬の土曜日、「隅田川花火大会」
○8月上旬、「住吉神社例大祭」
○8月第二曜日、「東京湾大華火祭」
○8月15日前後の三日間、「深川祭り」
○8月下旬土曜日、「浅草サンバカーニバル」


 と、夏は隅田川沿いは熱い。みんなで夏を満喫している感じだ。坂崎さんは言う。


 東京という都市、さらには隅田川という“場”は、必ずしもその地に生まれ育った人々のためだけの空間ではなく、いや、むしろ、外部やその周辺の人々から“発見”され、愛されてゆく。


 この本は、東京という街、特に下町を本を通して紹介している本なのだが、私も東京下町という場所は好きなので、ここで紹介された本の内何冊かは読んでいる。
 昔の東京下町を本で偲ぶとなれば、その本自体もなかなか手に入らない。それでもガツガツその本を探すのではなく、「例によって、必死に集めるのではなく、縁あって出会えれば入手する、という集めかた」をして集まった本たちである。こういう本の集め方は楽しいだろうな、と思う。

 ところで何もかも“消毒”された都市空間というのは息苦しい。だからそのはけ口を求めることになる。時にそれが暴力的になることは何度も書いてきた。この本でもこうした都市空間のあり方は息苦しいことが書かれている。


 人は都市に、管理のゆきとどいた、明るさ、清潔さ、あるいは便利さを求めると同時に逆に、そこにまぎれ込むことができる、雑然とした空間、暗さ、あるいは混沌とした世界をも求める。
 一日に昼と夜があるように、都市にも“明”と“暗”の両面があってこそ、人は活発に行動し、また、ホッと真の自分の姿に戻り休息することができる。
 手術台を照らす、無影燈のような、影の部分が生じない都市では、人は心を休めることができないのだ。機能面ばかりが重視され、また管理が隅々まで行き届いた都市はいわば無影燈に照らされ続ける都市である。そこには魂の休まる逃げ場がない。


 都市計画家や造園家、建築家は都市を造るが、それに生命の華やぎを与えるのは、そこに住む人であり、商いをす人であり、また、その街を愛する人たちである。


 街は変わっていく。特に東京という街はその変化のスピードが速い。この本では小林信彦さんの『私説東京放浪記』を使って、江戸・東京のの景観や、そこに棲む人々の暮らしを根こそぎ変えたエポックを箇条書きに書き出す。

 
①まずは明治維新。これは、江戸に上ってきた新興勢力、薩・長の“田舎武士”が力にものを言わせて(と当時の江戸っ子は言った)江戸の生活の好さを、ご維新、“開花”の名目のもとに切り捨て、変えてしまった。
②次に起きたのが関東大震災。この災害によって、それまで辛うじて残っていた江戸の雰囲気はほぼ全滅する。
③そして第二次世界大戦と東京大空襲。東京は敗戦国の焼土の首都となる。
④戦後における最初の都市大建設(=大破壊)は東京オリンピックをきっかけとして起こる(小林信彦は、このオリンピック時の東京大改造を“外国からのお客に恥ずかしい”という気持から生じたと記している)。
⑤そしてもっとも記憶に新しいのがバブルによる地上げ、都市改造。このバブルによる改造によって、関東大震災の後に建てられた、モダンなアールデコの建築物が消されていったことを小林はくりかえし指摘している。

 その上で坂崎さんは、


 明治維新のときから連綿と続いてきたことでもあるが、よき江戸、よき東京の街や暮らしが、あっというまに消されてしまったのは、震災や戦争は別として、「地方から出てきた、東京を<出世の場>としか考えていない人間」のせいではなかろうか


 と小林信彦さんの文章を挙げている。


 さらに、


 同じく東京生まれの時代小説家で、東京に関するエッセイも多い池波正太郎も“コッパ役人ども”が日本橋の上に高速道路などをかけた、と怒っていたが、地方出の治政者が“コッパ役人”かどうか別として、その街を心から愛していない人間が、なにか別の都合で街をいじくると、街はバランスが崩れ、きしみ、そして多くは衰えてゆく。
 東京もまた、例外ではない。いや、東京こそ、もしかしたら世界に類のないほど、伝統空間、伝統の暮らしが断絶され続けてきた都市なのかもしれない。


 隅田川は江戸時代、白魚が捕れたくらいきれいな川だったという。東京が首都として変わっていけばその自然が残る方のには無理があることぐらいわかるが、だからといってそれをそのまま肯定しているわけじゃない。何でもかんでも壊して作り替えてしまうことが、如何なものか。またそうして出来た新しいものばかりを歓迎する人々の気分はどこか寒々しい。その結果人々の心は殺伐とした気持ちになってはいないか。
 残すべきものは残す。そうすることでそれまで連綿とつながってきた人の心も残すことになる。そうではないか。
 新しいものが出来ても、それが人々の心の中に溶け込む前に壊されて行けば、一体この街には何が残るといういうのか。
 きっと今度のオリンピックおいても、「おもてなし」など馬鹿なことを言って、大きく東京という街を変えてしまうのだろう。大義名分があれば、何でもしていいのが、この国の政治家の発想なのだ。「おもてなし」も結構だけれど、この「おもてなし」というくだらんパフォーマンスのおかげで、それまでの生活や建物を壊わし、殺伐とした気分させられて、何が「おもてなし」かと言いたくなる。人をもてなすには自分たちの生活がそこにしっかり根付いていなければならないはずだ。生活感の希薄なところで「おもてなし」なんかできるわけがない。
 たまたま読んでいた酒井順子さんの『泡沫日記』に面白いことが書いてあった。


 東京は、他の都市にある店を貧欲に取り込む街である。パリのカフェだ、ニューヨークのデパートだ、ハワイのパンケーキ屋だと自分の街に持ってくると、いちいち見事に人気店となる。


 確かに東京は「他の都市にある店を貧欲に取り込む街」である。そして目新しいものにすぐ飛びつく人々の住む街である。そんな東京で日本独自の「おもてなし」なんてあるのだろうか?


坂崎 重盛 著 『東京本遊覧記』 晶文社(2002/03発売)
by office_kmoto | 2014-08-08 06:05 | 本を思う | Comments(0)

佐々 涼子 著 『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている―再生・日本製紙石巻工場』

d0331556_5274948.jpg 本は紙で出来ている。当たり前である。その紙が東日本大震災の後しばらくして不足し、出版業界が慌てていると、聞いたことがあった。


 「今、大変ですよ。社内で紙がないって大騒ぎしてます。石巻に大きな製紙工場があってね。そこが壊滅状態らしいの。うちの雑誌もページを減らさないといけないかも、佐々さん東北で紙が作られてるって知ってましたか?」
 私は首を振った。ライターの私も、ベテラン編集者の彼女も、出版物を印刷するための紙が、どこで作られているのかまったく知らなかったのだ。私たちはそれに改めて気づいて、迂闊さに呆れた。


 私は何度も本は紙で作られていることに意味があることを書いてきた。本や雑誌は紙に印刷されているから、だからこそ内容だけでなく、“うつわ”に価値を見出していた。しかしその紙がどこで作られていたかは知らなかった。震災で業界が慌てたニュースを知って、それが東北で作られていたことを知ったわけだが、それ以上のことは知らなかった。
 紙を作っていたのは日本製紙で、被災に遭ったのは石巻工場だった。日本製紙はこの国の出版用紙の約四割を担っていたという。そして日本製紙石巻工場の抄紙機の一つ、「8号が止まるときは、この国の出版が倒れる時」だったのである。つまり日本製紙石巻工場の復興がなければ、さらに出版業界を揺るがす事態になっていたのである。
 この本はその日本の出版用紙の供給を支えている日本製紙石巻工場の復興をルポしたものである。


 壊滅的と言われた石巻工場であの日何があったのか、そして誰がどのようにして復興したのか、疑問を口にするものはいなくなった。
 震災から二年後のある日、私は石巻に取材に入った。


 震災に関する本は当然、2011年3月11日の東日本大震災の大きな被害状況を記述する。日本製紙石巻工場も同様で、大きな地震、さらに津波から避難する従業員たちの姿、そして津波にのみこまれていく工場が関係者の口から語られていく。
 そんな中「3月11日、日本製紙石巻工場で働いていた従業員は、こうしてひとりも命を落とすこともなく生存が確認された」のであった。
 ただ工場は壊滅的状態であった。構内には近所の住民41人の遺体が発見され、家屋の一部18棟、自動車が約500台が水に浸かっていた。工場の復興には相当な時間とお金がかかる。従業員たちは工場の閉鎖も頭によぎる。しかし日本製紙の社長は、現地石巻で、「工場のことは心配するな」「これから日本製紙が全力をあげて石巻工場を立て直す!」と従業員たちに宣言した。

 ここで石巻工場の歴史が語られている。


 日本製紙石巻工場は、いくつもの合併を経て現時にいたっている。
 1938年、王子製紙の社長で、のちに「製紙王」と呼ばれた藤原銀次郎は、東北地方の豊富なブナ林に目をつけ、東北振興パルプを設立した。
 東北振興パルプは、東北興業株式会社と協力して石巻に工場を建設、1940年に操業を開始している。

 1936年、この東北興業株式会社は、昭和恐慌や昭和三陸大津波により疲弊した東北地方を救済し、経済振興を促進することを目的とした東北興業株式会社法に基づいて設立された。
 つまり石巻工場はもともと津波で被災した地を支えるために、設立されたものなのだ。


 この工場は東北の復興という歴史を持っていた工場であったというのは妙な因果であった。


 工場長は半年で復興すると従業員たちに伝える。誰しも半年という期限が無謀であり、不可能と感じていた。しかし、


 「半年復興」という目標は、明るい話題のない被災地で、彼らがすがりつくことができる、唯一具体的な希望ではなかったか。


 と著者は思った。
 工場の復興をもっと劇的に示すためには、この工場にあるN6抄紙機という機械を動かすことであった。「N6抄紙機は、幅が9450ミリメートル、抄造スピードが毎分1800メートル、一日の生産量が1000トンを超える世界最大級の超大型設備であり、日本製紙が約630億円かけて投入した最新鋭マシンである」。ちなみに「東京スカイツリーの総工費が約650億円であるのと比べてみると、一台のマシンにかけた金額がどれほど巨額であるかがわかるだろう」。

 従業員たちは構内に流れ込んだ瓦礫の撤去からN6抄紙機を動かす作業に入る。しかし出版業界からは「最初に立ち上げるのはN6ではなく8号にしてほしい」という要望が出てくる。それは8号機が出版用紙を生産していたからであった。


 「日本製紙のDNAは出版用紙にあります。我々には、出版社とともに戦前からやってきたという自負がある。出版社と我々には固い絆ある。ここで立ち上げる順番は、どうしても出版社を中心にしたものでなければならなかったのです」


 石巻工場の復興は出版業界に待たれているのだ。


 日本製紙は、なぜこんなにも必死になって石巻を立て直そうとするのか。それは結局のところ、出版社を経て、我々の手元にやってくる本のためなのである。


 そして8号機は半年後の11年9月14日稼働した。続いてN6抄紙機も動かされた。


 日本製紙全体で震災被害はおよそ1000億円。その中で石巻工場の回復費用が大半を占めており、私企業では東京電力に次ぐ巨額の費用が投じられた立て直しだった。


 この工場の復興は「今に思えば、我々はまるで病気のようだったな。そして、今も心に何かを負っている」と回想される。
 この本のプロローグには村上春樹さんの新刊のことが書かれている。普通村上さんの新刊の発売されるというそのものが話題として取り上げられるのだが、この本では違う。村上さんの新刊に使われた紙が主役なのである。


 2013年4月12日。各地の書店の前に長い行列ができた。この日発売される村上春樹の新刊『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』をいち早く手に入れようとする熱心なファンの列である。


 この盛り上がりを興奮気味に見守っている人々が東北にいた。日本製紙石巻工場の従業員たちだ。『多崎つくる』の単行本の本文用紙は、東日本大震災で壊滅的な被害に遭いながらも、奇跡的に復興を遂げた石巻工場の8号抄紙機、通称『8マシン』で作られているのである。


 ちなみにこの本の巻末には、この本の本文は日本製紙石巻工場8号機で作られた紙を使っていることが記載されている。

 ところで工場の復興作業の中で、それとはまったく別の世界を垣間見てしまったことが書かれている。


 二、三人の男がゴルフクラブや金属バットを持って、ブラブラと彷徨っている。いったい何をしているのだろうと見ていると、ジュースの自販機を壊しはじめた。
 吉田は孫のためにと、朝四時半から行列に並んで、ジュースを手に入れたばかりだった。
 <みんなが困っている時に、なんてひどいことを・・・・・>
 誰も取り締まる者はいないし、通報する手立てもない。見渡す限り数キロまで人の気配はなかった。やがて男たちは自販機にたかって、つり銭や飲み物を漁り始めた。吉田は思わず目をそむけた。


 商店街はしばしば強奪の標的となった。モラルを失った者たちが、バットやゴルフクラブを持って街を徘徊していた。洋品店ではオーナーの目の前でガラスが壊された。めいめいがバットやゴルフクラブで、ショーウィンドウを、ガチャーン、ガチャーンと叩き壊す。
 「ちょっと、やめてください!いったい何をしてんのっ?」
 止める店主を尻目に、強奪犯は振り向きざまにこう言い放った。
 「今はそれどころじゃないんだよ!」
 集団の力を借りて、男たちは破ったガラス扉から侵入すると、次々と服を盗ってバタバタと逃げて行った。この時期、宝飾店にも窃盗が入り、高価なネックレスや時計が奪われた。


 「あそこにね、ゴルフ練習場があるんですよ。ネット立ってるでしょう?津波がザーッと来て、遺体がたくさんひっかかって見つかった。その指先が切り取られてたって。遺体は水で膨らむから、指から指輪が抜けなくなる。だから貴金属を取りたいってやつが、指切って持っていくっていうのよ。それは外国人だという噂だよ」


 東日本大震災の被害、復興を書いた本には必ずこうした事象が書かれている。被害の甚大さ、復興という尊い作業を描くとき、醜い人間の姿も聞かされる。生きるためには仕方がなかったという理由もあるだろうが、こうしたことを耳にすれば、復興に関わる人たちの必死な思いを描こうとすればするほど、そこにつけ込む人間の性がどうして存在してしまうことの無念さがそれを書かざるを得ないのかもしれない。


佐々 涼子 著 『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている―再生・日本製紙石巻工場』 早川書房(2014/06発売)
by office_kmoto | 2014-08-05 05:36 | 本を思う | Comments(0)

山口 正介 著 『正太郎の粋―瞳の洒脱』

d0331556_54649.jpg この本は山口さんの息子である正介さんが書いた本である。正介さんは池波さんとも交友があったので、その池波さんと自分の父親である山口瞳さんとの生き方の違いを書いた本である。
 その生き方の違いを一言で表せば、池波さんは「旦那」であり、山口瞳さんは「幇間」ではないか、としている。


 池波さんは、またお座敷できちんと旦那ができる方だった。芸者衆やホステス相手にも毅然として主客の態度を忘れなかった。
 やはり、子どもの頃から自分で働き、自分の稼ぎで食べたいものを食べてきた苦労人の性癖であろうか。一方の瞳は旦那を演じることができなかった。料亭などの座敷では、旦那であろうことよりも幇間であることを好んだ。妻・治子が「お願いだから鷹揚に構えていてよ」といってもお座敷を巡ってお酌をして、まるで幇間のように、なんとか座を盛り上げようと苦心していた。すすんで旦那に気に入られる幇間を演じていたともいえる。


 これが池波さんの粋であり、瞳の洒脱という意味である。
 では何故、山口瞳さんの生き方は「幇間」なのだろう。それは山口瞳さんの出生の秘密による。
 山口瞳さんは1926年(大正15年)の11月3日に東京府荏原郡入新井町で生まれたことになっている。しかし小説『血族』にあるそうだが、山口さんの本当の生年月日は1月19日かもしれないらしい。それは腹違いの兄と生まれ月が数カ月しか違わないのはおかしい。そこで虚偽の届け出がなされたのではないか、と疑い出す。父・正雄は身重の妻を残して瞳の母となる静子との駆け落ちしたのではないか。
 山口瞳さんの父・正雄は事業も軌道に乗り、大きな屋敷を所有する家となった。このあたりになるとたぶん、山口家は水商売に関わることになったのだろう。だから「女性は商品」であり、「商売ものには手を出すな」というのが家訓になっていたのではないか、と正介さんは推察している。つまり遊ぶ側ではなく、遊ばせる側に山口家は存在していたのだろう。だから山口さんは池波さんとは違う生き方をするようになってしまったのではないか。
 そして「本来の生年月日だったら半年早く赤紙が来て外地で戦死していたかもしれないという思いを山口瞳は終生、拭えなかった」と正介さんは書く。それが山口瞳さんの原罪となり、人なりにも影響した。さらに自分は不義密通の子どもであるということも、後々山口さんに影響を与える。
 山口さんには、母親が自分の手を引いて、線路脇に佇んでいいたという記憶がある。母親は心中を考えていた、と感じると同時に、おれを殺そうとしていたという感情が、「瞳は妻にも子どもにも、そして家族というものにも期待できなくなる。いずれ別れるものだからと考え、また関係が濃密であればあるほど、その別れが、妻や子、あるいは両親、兄弟に対して妙に他人行儀になった理由であり、自身を冷血動物と評する理由でもある」と正介さんは書く。だから山口さんは、


 僕や妻・治子を、間違っても呼びつけにすることはなかった。
 妻に対しては、「治子さん、お茶をいれてください」とか、「治子さん、今日は駅前の寿司屋にいきませんか」というようなしゃべり方であり、僕に対しても、「正介さん、ちょっとこれ片づけてくれませんか」とか、「正介さん、晩御飯はまだですか。よかったら一緒に食べましょう」などと言う。それは僕の物心ついたときから変わることがなかった。そして、誰に対しても常に丁寧な言葉遣いで接していた。


 近いうちに山口さんの『血族』は読んでみたいと思った。


山口 正介 著 『正太郎の粋―瞳の洒脱』 講談社文庫
by office_kmoto | 2014-08-02 05:51 | 本を思う | Comments(0)

平成26年7月日録(下旬)

7月某日 くもり

 本当に久しぶりに、折り目の付いていない紙のブックカバーを読む本に付けた。先日購入したものである。
 今までは本屋さんで本を買った時に付けてもらっていたカバーを取っておいてそれを使っていた。そのため買った時の本のサイズに折り目が残っている。
 こうして真っ新な状態で本のカバーを付けるのは気持ちがいい。きちんと本のサイズに合わせて切り込みを入れ、セロテープでずれないよう貼り付ける。
 昔はこれを1冊あたり、30秒ぐらいでやっていたし、一発できちんと決まったものだが、今はそれは無理だ。何度も微調整して、丁寧にカバーを付けた。


7月某日 くもり

 ブログのスタイルを変えてみた。頻繁に変えるのはどうかと思うが、たまにはちょっとした変化があって、いいのではないか、と思ったのである。

 川西政明さんの『吉村昭』を読み終える。続いて笹沢信さんの『評伝吉村昭』を読み始める。この2冊を読む比べてみようというのが、今回の主旨であるのだ。


7月某日 くもりのちはれ

 笹沢信さんの『評伝吉村昭』を読み終える。次に文藝別冊『吉村昭』を読み始める。この本は一度読んだことがあるように思うのだが、記憶に余り残っていないので、今回吉村昭という作家を考えてみたいので、読むことにする。


7月某日 関東地方梅雨明け

 朝セミが鳴いているのが聞こえた。今年初めて聞いた。関東地方は今日梅雨が明けたらしい。これから暑い夏が本格的に始まる。
 飯田橋の東京しごとセンターへ行く。途中秋葉原に出たので、時間つぶしにブックオフに寄ってみる。山口瞳大全があった。いくつか巻数が抜けていたものがあったが、ちょっと触手が伸びてしまう。たぶん普通の古本屋で売っているものより安いだろう。でもわざわざ全集で持つほどではないな、と思い、近くにあった池波正太郎自選随筆集があったのでそちらを購入する。
 それにしても昔の本は装幀が凝っていて、いかにも本といった感じがする。最近はコストダウンのため、ペーパーバックみたいな本が増えてきているので余計にそう思う。


7月某日 大暑 はれ

 またお金の夢を見た。「これじゃお金が足らない!」と困ったところで目が覚める。
 自分のお金ではない。勤めていた会社のお金である。仕事を辞めてからもう何度か似たような夢を見ている。
 思えば、経営者でないのに、いつもお金のことで悩まされていた。資金繰りで右往左往させられてきた。月初になると、いつもハラハラする日を過ごし、ぎりぎりで危機を脱するのであった。
 稲盛和夫さんの『実学』ではないが、会社の決算では利益が出ているのに、手元にお金がない状態であった。利益の大半が商品に化けていた。
 それでいて商品なんて、店をたためば、二束三文である。しかも買掛が売掛より1か月分多い状態であった。要するに帳簿上利益が出ていても、キャッシュフローでは、お金が足らない状態であった。
 銀行でお金を借りていた時期もあった。いつも銀行に気ばかりつかっていた。年の初めに経営者と一緒に銀行へ年始の挨拶へへこへこと出かけていったこともあった。結構長い間そうしていた。下げたくない頭を何度も下げてきた。つまらぬ言い訳、嘘もついてきた。それも月を越すための方便だった。
 行員たちは下手に出て、我々をお客扱いしていたが、腹の中では「あそこはやばいかも」なんて思われていたんじゃないか、といつも感じていた。
 こんな中でずっと仕事をしてきたのである。夢で何度もうなされるのも当然かもしれない。
 昨日、東京しごとセンターでカウンセリングを受けた。そのとき、「今後もっとも仕事をしたくない職種って何ですか?」と聞かれた。私はこれまでやってきた仕事だ、と答える。きっとそれが頭に残って、また嫌な夢を見たのだろうか?
 この夢が尾を引き、暑さも伴って、一日不快な気分で過ごす。

 今日は妻の誕生日でもあった。昼食事に出かけ、夜枝豆をつまみにビールを飲み、クーラーをかけてさっさと寝た。変な一日だった。


7月某日 はれ

 文藝別冊『吉村昭』を読み終える。
 坂崎重盛さんの『東京本遊覧記』を読み始める。


7月某日 はれ

 ノートパソコンの電源が入らなくなった。バッテリーの充電できず、ACアダプターをさわってみると熱を持っている。多分ACアダプターがいかれたと思われるが、もしかしたらバッテリーも寿命の可能性がある。
 仕方がないので両方買いに行くか、と思って、とりあえずネットで在庫の確認をすると、いずれも取り寄せとある。つまり在庫がないといことだ。
 このパソコンは2011年に買っているので、もう3年経っていることになる。発売から3年も経てば、周辺機器も店頭には在庫していないのだろう。そのうち修理に出すことがあれば、部品がないということで修理不可能となるのだろう。
 仕方がないのでACアダプターはAmazonで、バッテリーはヨドバシでネット注文する。しばらくはパソコンが使えなくなる。


7月某日 はれ

 なんとAmazonからACアダプターが届く。一昨日注文して中一日で届いてしまうって、すごい。しかも送り主は大阪である。ますます驚いてしまう。
 さっそくパソコンに付けてみる。充電が始まった。ということはバッテリーはいかれていない、ということになる。
 ヨドバシには申し訳ないが、バッテリーの注文をキャンセルさせてもらった。

 坂崎重盛さんの『東京本遊覧記』を読み終える。続いて酒井順子さんの『泡沫日記』を読み始める。

 やっと朝顔がつぼみを持ち始めた。どうやら花が咲きそうだ。日々草は3つのうち一つは枯れてしまったが、2つは残り、花が終わり種が出来ているのと、またつぼみを持っているのもある。もう一花咲かせてくれそうである。


7月某日 はれ

 一昨日に続き、昨日も熱帯夜から解放されて、クーラーを付けずに寝られる。日中もクーラーなしで、扇風機だけで済むのは有り難い。もともと冷房は弱い方なのだ。出来ればクーラーなしでいたいし、いられる方なのだが、ここのところの蒸し暑さにはさすがにクーラーをつけないとやってられない。それは1日でもそれなしに過ごせる日があれば、この夏も乗り越えられそうである。
 パソコンの調子が悪くて、書けなかったものを書こうとしたが、機を逸してしまったので、うまくまとまらない。もう一度頭の中で文章を組み立ててみるが、そのうち嫌になる。何でも機というものはあって、それを逸してしまうと、次に回せないものだ。


7月某日 はれ

d0331556_5353795.jpg 酒井順子さんの『泡沫日記』を読み終える。
 この本は著者が歳をとってからした「初体験」を主に記したエッセイである。
 まあ、人生というのは若かろうが歳をとろうが「初体験」というものはある。その「初体験」というのも“程度”というか“影響度”というか、“衝撃度”はそれぞれであろう。ただいつも劇的とは限らない。よくよく考えてみたら「初体験」であったということも多いだろうし、そもそもそんな意識させさせないかも知れない。


 しかし、案外「知らないうちに終わっていた」初体験って、多いかも。どれもこれも忘れられない衝撃を伴う初体験だったら、人生ヘトヘトだろうしな。


 確かにそうだ。いつも衝撃ばかり受けていたら、精神がよほどタフじゃないと生きていけなくなるだろう。

 ところで人生の後半にする「初体験」とはどういう意味を持つか?それは若い頃のと違い、何かと苦い記憶になるのではないか、と思ったりする。


 人生後半の初体験は、もちろん老いや死と密接な関係を持っています。成長に伴う初体験でなく、退化とともにある初体験であったりする。そういった初体験を積み重ねることによって、人は自らの死を迎え入れる準備をしていくのでしょう。


 今のところ、行動がおぼつかなくなるとまではいかないが、いずれ「今までできたことが、できなくなる」という事態にも直面するのであろう。すなわち「初出来!」ならぬ「初不出来!」に驚く日も来るに違いない。そしてやがては「初不出来」の数ばかり多くなっていくのだきっと。


 多分その通りなのだろう。

 ところでこの本には著者が雪道で転んだことを書いてある。


 「転倒」という事態そのものがものすごく久しぶりで、一瞬呆然となる。雪道でこんなに派手に転んだのは、初めてかも。
 人間、非常事態に陥ると「そのまま」のことしか言えないものである。


 これ、すごくよくわかる。私の場合雨が降っていた時であった。駅の階段を下りるとき、持っていた傘と足が絡んでしまい、階段を踏み外し、転んだことがある。だいたい足が絡んでしまうこと自体、歳をとった証拠だと思うが、それにしても階段を落ちたとき、確かに「一瞬呆然となる」。その時は、やはり、転んだという事態「そのまま」しか頭に浮かばなかった。
 ただ私の場合、転んだことだけでは済まなかった。この後、そういえば「最近平坦な道でもつまずいたりするよなあ」と思ったし、その前にはやはり雨の日、コンビニの入り口で滑った。駅前のコーヒーチェーン店でも、階段を踏み外して足首をねんざした。
 このためどうしてこういうことになるのか考えさせられたのであった。結局意識するほど足が上がっていないということで、多分老化により、頭と身体の動きがうまく連動しなくなりつつあるじゃないか。
 あのときそう思ったら結構ショックであった。


7月某日 はれ

 坪松博之さんの『壽屋コピーライター 開高健』を読み始める。この本はちょっと楽しみにしていたの、じっくり読んでみようと思う。
by office_kmoto | 2014-08-01 05:38 | 日々を思う | Comments(0)

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