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山口 正介 著 『江分利満家の崩壊』

d0331556_6162516.jpg 今度は正介さんによる母、山口瞳さんの奥さん、治子さんの死を看取るまでの記録である。
 治子さんの病名は確定できないが中皮腫か腺ガンではないかと医者から言われていた。余命1年と宣告された。本格的な闘病生活は2009年7月から始まった。
 今度は自分の母を看取ることになった正介さんは、母の死をどのように迎えさせればよいか、父親の瞳さんの死から考えることとなる。


 父の前例が予行練習になっている。


 父が肺ガンを宣告された十五年前は、まだ緩和治療や終末医療に関して医学界自体手さぐり状態で、ホスピスなんか断固拒否、という考え方がほとんどではなかったか。
 手術自体が患者の負担となり、ガンの種類はわかったが患者の体力はなくなった、というのでは延命効果あったものではない。
 父の死のときから、父の失敗の轍を踏みたくない、というのが母と僕の願いだった。


 担当医の言うまま、父に手術を勧めてしまったのは母と僕だった。手術さえすればよくなるらしいよ、歩いて帰れるらしいよ、と。


 これはまったく個人的なことなのだが、私の母親の時のことを思ってしまった。
 私に母親はスキル性の胃がんであった。父親はそのとき医者の言われるまま母の手術に同意した。しかし母はそれから1年も持たなかった。しかも手術以前の生活の質は望めないまま、たぶん苦しんで死んでいった。
 父は私によく言う。「あのとき手術をしてよかったのだろうか」と。結局手術をしてもしなくても助からなかったのだから、手術後はただ母を苦しめてしまったことになってしまった。もちろん少しでも長く生きて欲しいという父の気持ちであっただろう。しかし結果は悲惨なものになってしまった。
 以来、父は自分の時は余計なことはしなくていいと私に言う。もちろんそれが父の気持ちであるなら、まさかの時はそのつもりでいるし、自分もそうして欲しい、と妻にも言っている。
 これが我々親子が母の死から受け取った貴重な教訓なのである。

 さて、

 正介さんも母親の死を父親から受け継いだ“教訓”から母の死をどのように迎えさせるか考えることになる。幸い担当医も「これからはいわゆるクオリティー・オブ・ライフでいきましょう。放射線の使用や抗ガン剤も生活の質を落とすだけで、延命にも効果がないでしょう」、と言ってくれたので、その方向で余計な治療はしないこととなる。母の死の準備をすることとなった。


 ピンピンコロリが理想とされているが、予め準備ができるという点ではガンにも一得があった。


 これは言えてるかもしれないな、と思った。ガンは多少患者に時間をくれる。その間をどう過ごしていくか、凝縮された人生に向き合うこととなる。
 ただそうは言っても、看病する側、死を看取る側は、かなりの覚悟を強いられる。正介さんも父親の時のようには行かないことを覚悟していく。


 なぜならば、父が逝ったとき、僕は毎日を泣き暮らしていたからだ。人前で涙を見せることはなかったが、一人になるといつまでも、時に嗚咽を漏らしながら滂沱の涙を流し、めそめそといつまでも回復しない悲しみの中にいた。
 それでも母が気丈にしてくれたから、また仕事の締め切りにも追われていたから、それなりに対処できたのだと思う。
 しかし、今回は、母については何もかも僕一人で対処しなければならなかった。孤立無援が予想された。父のときのような精神的な動揺があったら、とても乗り越えられそうもない。


 山口治子さんは東日本大震災から2日後、2011年3月13日に亡くられた。東日本大震災の日は、もう危篤状態だった。

 ところで山口治子さんは不安精神症で、一人で乗り物も乗れなかった。外出も山口瞳さん生きているときは、瞳さんと一緒に、瞳さんが亡くなられた後は正介さんといつも一緒であった。
 その不安精神症にどうしてなってしまったのか、その原因が明かされる。それがこの本の帯にある「父・瞳が書けなかった母をめぐる壮絶な『ミステリー』」であった。
 正介さんがこの事実を知ったとき、あるいは夫婦間にあった問題を子供である正介さんが知ることとなってしまったことはやるせなかっただろうな、と思ってしまった。


 初産の直後からの、いわば産後鬱病が長引き、それにつづく予定外の懐妊と堕胎のあとで精神の失調をきたしたときに、父が我が家の家族に特有の口の悪さでこう言い放った、と母は言うのだった。
 「あなたの家はみんなおかしいから、あなたも、いつかおかしくなると思っていました」
 父は自らの予想が的中したような口ぶりだった。


 産後鬱病のような状態から気が進まない中絶を強要された母に止め刺したのは、この言葉だった。乳母日傘で育った母は「継母にいじめられるシンデレラ」に自分をなぞらえ、瞳をその環境から救ってくれる王子様だと考えていたのに、この心ない言葉は、母を誰にも頼れない絶望の淵に突き落とすことになった。
 そして、これ以降、母は精神のバランスを崩していくのだった。
 母の不安精神症の根本原因はここにあった。


 父には毒舌というか、言ってはいけないことを言ってはいけない場面で言ってしまうようなところがあった。それが当意即妙の洒落になっているところに、作家として真骨頂があるのだが、舌鋒の矢面に立たされた方はたまらない。


 母の生涯は、こんなひどいことを言うひとだけれども、自分が選んだ、そして掛け替えのない最愛の夫なのだ、自分自身の選択は間違ってはなかったと、自分で自分を納得させて、そのことを証明するためにあったような気がする。
 今現在の僕は、母の一生を決めてしまった乗り物恐怖症に代表される、母の生涯を通しての精神の病の本当の原因は、この父の心ない一言だと確信している。


山口 正介 著 『江分利満家の崩壊』 新潮社(2012/10発売)
by office_kmoto | 2014-09-26 06:17 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

百田 尚樹 著 『海賊とよばれた男』

d0331556_613403.jpg この本は出光興産の創業者出光佐三をモデルにした小説である。2013年本屋大賞第一位を取っている。
 読んでいて、本屋の店員が好きそうな物語だと思った。
 主人公は田岡鐵造という。戦後、戦中に作った海外の営業所を失った。会社の存続が危うい。そこで人員整理が提案される。


 「この際、思いきった人員整理をすべきです」

 「店主、思いきって、店員を切りましょう」

 「ならん」と鐵造は言った。「ひとりの馘首もならん」

 「馘首がないのは、他の会社にはない国岡商店のいちばんの美徳ではあります。しかし、今回は事情がまったく違います」

 「わが社の事業はすべて失われており、社員たちの仕事はありません」
 「だから何だ」

 「たしかに国岡商店の事業はすべてなくなった。残っているのは借金ばかりだ。しかしわが社には、何よりもすばらしい財産が残っている。一千名にものぼる店員たちだ。彼らこそ、国岡商店の最高の資材であり財産である。国岡商店の社是である『人間尊重』の精神が今こそ発揮されるときではないか」

 「それでは」と森藤が言った。「社歴が浅くて、すぐに兵隊に取られた若い者だけでも、辞めてもらうというのはどうでしょう」

 「馬鹿者!」

 「店員は家族と同然である。社歴の浅い深いは関係ない。君たちは家が苦しくなったら、幼い家族を切り捨てるのか」

 「君たちは、店員たちを海外に送り出したときのことを忘れたのか。彼らは国岡商店が骨を拾ってくれると思えばこそ、笑って旅立ってくれたのではないか。そんな店員たちを、店が危ないからと切り捨てるなどということは、ぼくにはできん」

 「もし国岡商店がつぶれるようなことがあれば-」
  鐵造は言った。
 「ぼくは店員たちとともに乞食をする」


 きっとこの最初の部分で書店員はぐっときちゃったんだろうと推察する。さらに国岡商店には創業以来ある五つの社是がさらに書店員の気持を引き付けたものと思われる。
 これまでの本屋大賞の受賞作を読んでいると、書店員はこういうヒューマニズム溢れる、人にやさしい物語が大好きのように思えてならない。

 「社員は家族」「非上場」「出勤簿は不要」「定年制度な不要」、それに「労働組合は不要」というものだった。これらの制度は、多くの他の経営者たちから「非常識」と嗤われてきたものであったが、鐵造は「家族の中に規則があるほうがおかしい」と言って、信念を貫きとおした。出勤簿のごときは、経営者が社員を信用していないものとして、蛇蝎のごとく嫌っていた。


 「この非常時においては、仕事を選んではならない。全店員、やれることはなんでもやろう」

 「もはや石油にはこだわらない。なんでもやると言ったのは、文字どおりなんでもやるということだ」

 「それでは百姓も入りますか」

 「百姓-いいじゃないか。さっそく、その方面での仕事を探せ。柏井、君がやれ」

 「百姓だけじゃない、漁師だってやる。なんだってやるんだ。君たちに命じる。ありとあらゆる仕事を探せ。選り好みするな。すべての仕事が国岡商店の建設になり、日本のためになると心得よ」


 それでも、

 終戦後二年間はまさしく塗炭の苦しみだった。店員たちを食べさせるために、荒れ地の開墾、底引き網漁、印刷業、それに慣れないラジオ修理の業務と、さまざまな事業に乗り出したが、そのほとんどが失敗に終わった。社運を懸けたタンク底の業務を浚う仕事でも、巨額の赤字を出してしまった。


d0331556_6143034.jpg 物語はそれなり面白かった。
 今も昔も石油を扱うのは大変のだな、と思う。その利権を握れるかどうかで、会社だけでなく国まで、それに目に色を変えてしまう。

 私は国岡鐵造よりも鐵造が独立するとき、資金提供をした日田重太郎という淡路の資産家の人物に魅力を感じている。


 「国岡はん、あんた、独立したいんやろう」

 「まあ、いつか独立したいと思っていますが、それはもうずっと先にのことです。中年になったら店をもちます」

 「嘘言うても、あかん」

 「でも無理な話です」

 「金の問題か。それとも他に何かあるのか」

 「お金です」

 「今、ぼくは神戸の家のほかに京都に別宅がある。それを売れば八千円ほどの金になる。そのうち六千円を国岡はんにあげる」

 「待ってください。あげると言われても受け取れませんよ」

 「六千円あれば独立できるやろう。その金で頑張ってみいんか」

 一週間後、鐵造は悩んだ末に、

 「それでは、日田さんのご厚意甘えます」

 「返済の件なのですが-」

 「返済って何のことや。ぼくは国岡はんにお金を貸すとは言うてへんで。あげると言ったや」

 「六千円もの大金をいただくわけにはいきません。これは融資として考えています」

 「国岡はん、六千円は君の志にあげるんや。そやから返す必要はない。当然、利子なども無用。事業報告なんかも無用」

 「ただし、条件が三つある」

 「家族で仲良く暮らすこと。そして自分の初志を貫くこと」

 「ほんで、このことは誰にも言わんこと」


 鐵造は日田からもらった六千円で明治44年(1911)6月20日、九州の門司で国岡商店を旗揚げした。しかし独立して4年目の春、日田からもらった資金が底をついてしまった。


 「日田さん-」

 「国岡商店は廃業します」

 「三年間、必死でやってきましたが、とうとう資金が底をついてしまいました。せっかく日田さんからいただいたお金を増やすことができませんでした。お返しすることは叶わなくなりました」

 「あと、なんぼあったらええや」

 「三年であかんかったら五年やってみいや。五年であかんかったら十年やってみいや。わしはまだ神戸に家がある。あれを売ったら七千円くらいの金はできる」

 「なあ、とことんやってみようや。わしも精一杯応援する。それでも、どうしてもあかなんだら-」

 「一緒に乞食をやろうや」


 国岡鐵造がいくら人物であっても、それを物心共々支えた日田みたいな人物がいなければ、国岡商店も、鐵造が掲げる社是もあり得なかった。
 鐵造が世界の様々な利権と戦えたのも、日田のような人物の影響と思えてならない。日田の気持に応えるために鐵造は邁進したのではないか、と思えた。
 今は金儲けのために投資することが当たり前の世の中になってしまっているが、人物に惹かれて、自分の財産のすべてを投資ではなく、あげてしまうことが出来る人間が昔はいたのである。
 ちなみにこの本の書名である「海賊」とは、鐵造が門司の対岸下関で、ポンポン船に軽油を売ったことから始まる。国岡商店は軽油の卸元の特約で門司の支店は下関で販売してはならないことになっていたので、軽油を海の上で売ることにしたのである。


 国岡商店はどんどん販路を広げ、ついに門司、下関の漁船と運搬船の七割近くの船の燃料を賄うまでになった。門司と下関の石油特約店たちは、関門海峡を暴れまわる伝馬船を「海賊」と呼んで怖れた。


百田 尚樹 著 『海賊とよばれた男』 〈上〉 講談社(2012/07発売)

百田 尚樹 著 『海賊とよばれた男』 〈下〉 講談社(2012/07発売)
by office_kmoto | 2014-09-22 06:15 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

山口 正介著 『ぼくの父はこうして死んだ―男性自身外伝』

d0331556_619354.jpg いらない本を古本屋さんに売ってしまおうと、本棚を整理していたら、この本を見つけた。まさしく見つけたと言う言葉がぴったりで、買ったことも忘れていた。この本は山口瞳さんの息子さんが山口瞳さんの最期を書きつづった本だ。
 変な言い方かもしれないが、私は作家の最期、死に様に興味がある。作家の身内や知人が書いたものを結構読んできている。昔は高橋和巳から、最近は開高健さんや、吉村昭さんの最期を記したものを読んでいる。機会があればその他の作家さんの最期を綴ったものを読みたいとさえ思っている。

 さて、この本はいきなり山口さんの死のときから始まる。


 1995年8月30日午前9時55分。武蔵小金井にある聖ヨハネ会桜町病院ホスピス棟で、担当の先生が心停止、呼吸停止と瞳孔反射なしを確認して、父山口瞳の死亡が確定した。68歳だった。肺がんから縦隔に転移した末期ガンで最後は肺不全だったと思われる。


 もともと山口さんは検診で、肥満、胸部異常陰影(要CTスキャン)、高血圧、尿蛋白(潜血あり)血沈促進、胃潰瘍、肝臓数値すべて異常、脂肪肝、右腎のう胞腫瘍マーカー数値上昇、糖尿病とあらゆる病気を抱えていた。そのため朝など薬だけでお腹が一杯になってしまうとこぼしていたという。
 特に肺癌は手術をして縦隔に鶏卵大の腫瘍、一部は肺に癒着し、摘出不可能で、肺原発の大細胞ガンと診断される。もう残された時間はほとんどなかった。
 そん中、息子の正介さんが父親とどう関わってきたかが興味深い。そして思ったことは、息子と父親は双方とも真っ正面から関わり合うのが苦手だということだ。それがよくわかったし、自分もそうだと思う。


 成人した息子と父親などというものは、そう会話するものではない。


 父の精神は、小説家なら当たり前のことだが、つねにどこか遠くに飛躍していて、日常の会話を続けてこちらの欲求を満たしてくれるようにできていなかった。もちろん、仕事として座談会に出席しているときなどはまったく別だが。
 それだけに当たり障りのないことを選んでしゃべるのは、至難の技だった。


 だろうな、と思った。だけど正介さんは自分の息子を持っていないから、父親側からのことは書けない。一方的に息子の立場でしか語れない。だから父親としての山口瞳さんの気持ちを推し量れないのが、ある意味残念だし、山口瞳さんがかわいそうだなと思った。
 これは自分が息子を持つ父親となって、初めてわかるものである。父親も自分の息子とうまく関われないものだ。話すことがどこか照れくさい。うまく話せないものなのである。それが正介さんが書く山口瞳さんの態度に感じてしまう。次の文章は病室での出来事である。


 なんとなく居たたまれないと感じたぼくは、立ち上がって窓から外の景色を眺めていた。
 ふいに父がベットから起き上がり、ぼくの隣へ来ると、自然と並んで外を見る風になってしまった。
 父と二人で並んで風景を眺めるなんて初めてのことのように思われた。そして、これが最後になるのではという思いも同時にこみ上げてくる。
 並んだ二人の背中を、椅子に腰掛けたスバル氏(山口瞳の作中に出てくる慎重社の“スバル君”のこと)が見ている。会話はいつの間にか途絶えていた。
 まいったなあ、こういうのが一番、苦手だ。何だか父が思い出を造っているように感じた。隣に並んだ父が随分、小さくみえる。
 この年はまだ五月の中旬だというのに、すでに今年の十大ニュースが出そろってしまうような変な年だった。
 そのせいだろうか、病室から眼下の高速道路を見下ろしていた父がぽつりと、生きるに値しない世の中になったな、と独り言を言った。
 その瞬間、父の体内にあるガン細胞が一気に増殖した音が聞こえたような気がして、病室にいたスバル氏とぼくは恐る恐る目を合わせた。


 私は正介さんがどうしようもできない父親の病気を思う一方で、そんな父親であっても、うまく関われない息子の気持ちを書いていることはよくわかる。けれど自分の息子とこんなときどう関わればいいのか、戸惑う父親としての山口瞳さんの気持ちもひしひしと感じてしまう。だから「生きるに値しない世の中になったな」と言うしかなかったのではないかと思ったのである。

 死期が迫った山口さんが、言ったギャグが山口さんらしいなと思った。


 帰り際、豊田さんが、欲しいものがあったら何でもいってください、と言うと、

 「芥川賞」


 とはっきりした声で答えたという。当意即妙というか父の面目躍如といった感がある。正介さんは「常日頃から、こういったレベルのギャグを連発していた」と書いているが、さすが山口瞳だなと思った。ちなみにこれがギャグである理由は、芥川賞の勧進元である豊田さんに直木賞作家の山口瞳が言うところに妙味がある。


山口 正介著 『ぼくの父はこうして死んだ―男性自身外伝』 新潮社 (1996/05/20 出版)
by office_kmoto | 2014-09-19 06:22 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

平成26年9月日録(上旬)

9月某日 くもりのち雨

 今日は義父の祥月命日だ。その前にハローワークへ行き、失業の認定を受け、その後墓参りへ行く。

 清水義範さんの『夫婦で行くバルカンの国々』を読み終える。


9月某日 はれ

 久々の天気だ。さつきの消毒をする。今年はこれで定期的な消毒はおしまいだ。

 今デング熱が流行していて、感染源と思われる代々木公園は大変なことになっているようだ。デング熱は蚊に刺されることで発症するらしいが、確かにその蚊が今、ものすごい量で発生している。ちょっと庭に出ただけで、蚊の大群に襲われる。蚊よけスプレーを手などに吹き付けるが、効き目がない。あっちこっち刺されてしまう。
 そこで強力な武器を出す。蚊取り線香である。これは毎度書くが、たちまち蚊がいなくなる。
 消毒が終わり、蚊に刺されたところにムヒを塗る。もう何カ所も塗る羽目になる。

 宮武外骨の『震災画報』を読み終える。昨日が関東大震災があった日なので、ちょっと読んでみた。震災の悲惨さより、震災に遭った人々の生きるためのいじらしさが滑稽に描かれる。

 眼の方はだいぶ赤みが消えてきたが、夕方近くなると充血がひどくなる。目薬もなくなってきたので、もう一度眼科へ行く。
 先生曰く、夕方になって充血がひどくなるのは一日の疲れが出てくるのと、やはり加齢によるものだろう、と。
 やれやれまた“加齢”か。それとここのところ雨が続くのと、季節の変わり目だからか、腰も痛み出している。まったく身体がぼろぼろだ。



9月某日 くもり

 今日飯田橋の東京しごとセンターへセミナーへ出席したついでに神田の古本屋を歩く。永井龍男さんの雑文集が均一ワゴンにあったのを2冊見つける。常盤新平さんが永井さんの本のことを褒めていたので、読んでみたいと思っていたのだ。楽しみである。それと池波正太郎さんの文庫本を2冊購入。いずれもエッセイだ。これも楽しみだ。
 今日は歩き回ったので、疲れた。それと昨日なかなか寝付けなかったので、今日は早めに寝ることとする。
 明日ブログに載せる文章を書くことにする。


9月某日 くもり

 9月になると秋めいてきて、夜など虫の声がやかましいくらいだ。そんな中、池波さんの良質なエッセイを読んでいると、時間が経つのも忘れてしまう。暑くもなく寒くもなく、苦手なクーラーも必要もないのでうれしい。
 “熱帯夜”などいう日本らしくない夜な夜なを過ごすより、窓を大きく開けて夜風を感じベッドに横になりながら本が読めるなんて、うれしい季節である。


9月某日 はれ

 昨日代々木公園が閉鎖された。デング熱の蚊が数多くいる可能性があるからだ。普通なら、「あ、そう」と軽く受け流せるのだが、今回はちょっと困っている。というのは来月代々木公園の隣にある明治神宮へ行く予定だったからだ。「人形感謝祭」に行こうと思っていたのである。その明治神宮も一部閉鎖されているという。
 この春、私の両親が娘のために買ってくれたケース入りの雛人形を解体し、お内裏様とお雛様を残して、あとの人形を明治神宮の人形感謝祭に行って、供養してもらう予定でいたのだ。
 しかしこれでは明治神宮には行けない。供養しようとしている人形をどうするか考えないといけない。

 昼前に床屋に行く。床屋の親父があまり調子が良くなさそうだ。いつもなら話しかけてくるのに、今日はほとんど話さなかった。
 鏡に映る自分の姿など、床屋に行かないとそうそうじっくりと見ないが、最後の仕上げにかかる自分の髪を見ると、白髪が増えたなあ、と思う。


9月某日 雨

 随筆、随想、エッセイと言い方はいろいろあるが、とにかく作家が書く個人的なことを書いた本を読むのが好きだ。
 ここでは話を進めるために、それらをエッセイと呼ばせてもらうが、今、池波正太郎さんの自選随筆集を読んでいる。
 この本は1988年1月発行と奥付ににあるから、今から26年前の本である。もちろん古本である。本を開くと古本特有のカビ臭さが漂うが、これもまた、いかにも古本を読んでいる気分になれる。

 今日で58歳となった。孫から「誕生日おめでとう」と電話がある。なんでも今日は七五三の写真を撮りに行くそうで、孫が七五三を迎えるのだから、私が歳をとっても当たり前というところか。


9月某日 くもり、雨

 ここのところ天気が良くない日が続く。今日は中秋の名月だが、これじゃ月は見られないだろう。
 『池波正太郎自選随筆集』下巻を読み終える。続いて伊集院静さんの『時計をはずして』を読み始める。
 もうすぐ朝日新聞に掲載されている『こころ』が終わる。これでスクラップもおしまいになるな、と思っていたら、今度は『三四郎』を10月から連載するという。やれやれこれもスクラップにしなければならないか、と思う。


9月某日 はれ

 今日は天気になった。夜大きな月が見えた。昨日が中秋の名月だったが、中秋の名月と満月とは違うらしい。必ずしも中秋の名月が満月とは限らないという。まあどうでもいいが・・・・。


9月某日 くもりのち雷雨

d0331556_20331897.jpg 伊集院静さんの『時計をはずして』 文藝春秋(1994/10発売) 文春文庫 を読み終える。読んでみると、この時期の伊集院さんはまだめちゃくちゃな日々を過ごしていたようだ。もともとこのシリーズは週刊文春に連載されていた「二日酔い主義」をまとめたものだから、二日酔いは当たり前である。だからか少々やけくそ気味である。
 それでも、というか、だからかこそと言うべきか、伊集院さんが言っている言葉は身にしみてくる。


 -伊集院君、少しずるく打つことを覚えないと・・・・・。
 昔、阿佐田哲也さんこと色川武大さんに麻雀のことで、一言だけ言われた。
 ずるいということは悪いことではないと思えるようになった。人生では何度かずるいことをしなくては、その場をしのげないことがある。


 人間は、その人が向上しようとしている時、かがやくような表情をする。


 新聞や雑誌を読んでいて、綺麗な話とか美談に逢うと、どうも背後に醜いものがしまい込んであるような気がして仕方がない。


 これよくわかるなあ。私はテレビや雑誌などで美談と称される人の話や、この人いい人、というのを見るにつけ、聞くにつけ、どこか嘘くさい部分を感じてしまう。こういう人間がマスメディアに出てくると、どこか影で何をやっているかわからないような気がしてしまうのである。


 誰かと過ごしていても、それなりに世間が評価してくれる仕事をしても、それでも、どこかどうしようもない自分がいるのを、いつからかわかっている人が世の中にはたくさんいる。


 人生を○と×で考えると、×の方が多いはずだから、永く生きることは、せつない記憶をたくさんかかえこんでいることにもなる。老人がふとした時に見せる淋しい表情はそんなことと関係があるのかもしれない。


 こんな人生になるなんて思ってもいなかった・・・・・。


 街から少しずつ酒乱が消えていく。
 もうすぐ忘年会のシーズンである。
 交差点の真ん中で月に吠える社長さんや、電柱に外掛けをかける部長さんは少なくなった。
 昔に比べて、今は皆しあわせなんだろうか。飲まずにいられない、酔わずにいられるか、という人生が消えたとはとても信じられない。
 新婚ほどなく酔っ払って帰宅して、新妻を組み伏そうとした男が、性的暴力を受けたと、すぐ離婚されたそうだ。
 酔っていないで組み伏す男の方が、私には異常に思えるし、性に暴力の要素がなかったら、その行為は保健体育のさし絵のようになるのではなかろうか・・・・・。


 「保健体育のさし絵」って笑ってしまった。


 人間の記憶というのは、あやふやのようでいて、おそろしくあざやかなものである。

 しかしそんなことも、固い石が砂になって行くように少しずつ形を変える。
忘れるのではなく、おだやかな形になるのが時間の力かも知れない。


9月某日 雨

 百田尚樹さんの『海賊とよばれた男』の上巻を読み終える。続いて下巻へ入る。


9月某日 はれ

 昨日孫の保育園で「敬老の日の会」というのに呼ばれ、我々夫婦はとぼとぼと出かけた。まさか自分が「敬老の日」でもてなされるとは思いもよらなかった。
 保育園へ行くと、孫が待っていた様子で、少々遅れてしまった私たちの顔を見てほっとした様子。手を挙げて自分の居場所を教える。
 保育園では孫だけでなく他の子供と話さなければならない。隣にいた女の子は人懐っこい子で、いろいろ私に話しかけてくる。しかし言葉足らずで何を話しているのかわからない。それに正直なところ、子供と話すのは苦手で、なかなか会話にならない。仕方がないので適当に相づちをうっていた。
 ここではじめて一眼デジカメで動画を撮ってみた。もちろんその前にマニュアルを見て、練習しておく。
 問題はそれをどうやってテレビで見るか、その保存をどうするかである。テレビで見るのは、デジカメとテレビをつなげば見られるのだが、それをどうやってDVDなどに保存するかである。いろいろ考えてみたが、わからず、ネットで検索してみると、Windows Live ムービー メーカーというソフトを使えばDVDに保存出来、それをブルーレイレコーダーに入れて見られることがわかった。今さらながらパソコンは色々なことができるんだ、と改めて思う。
 ということで今日は昨日撮ったビデオや写真の編集で一日が終わってしまった。それに昨日の疲れもあって、本が読まず、早めに寝る。


9月某日 はれ

 昨日は早く寝たので、今日は調子がいい。身体の調子の良し悪しが最近なんだかはっきり出てくるようになった気がする。
 今日は「江戸川伝統工芸展」へ散歩がてら行ってみた。いろいろな作品が並べられていたが、「区長賞」の江戸切り子だろうか、それがきれいであった。ここで「江戸川区の史跡と名所」なる本を一冊購入。510円とお手頃価格だ。暇なときパラパラとページをめくるにはいい。

 昔書いた文章を直しているのだが、これが結構疲れる。ちょっと前に書いた文章を読んでいると、こんな私でも拙いところが多いと感じる。直した方がいいな、と思われるところが多くある。そう感じさせるのは、もしかしたら文章を書く能力が付いてきたのかも知れない、なんて独り合点している。

百田尚樹さんの『海賊とよばれた男』の下巻を読み終える。
by office_kmoto | 2014-09-16 20:42 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

赤瀬川 原平著 『ちょっと触っていいですか』

d0331556_11403590.jpg この本の副題が「中古カメラのススメ」とある。要するにいま主流のデジカメ以前、更にそれ以前カメラを著者が手に取り、それこそカメラの進化を実感している本である。とにかくカメラの構造が実感でき、それがどう作動することで写真となるかが、リアルにわかる本である。


 カメラに電子部品とか液晶表示の導入される以前のものが中心で、いずれもくっきりとした機械の清潔感にあふれている。最近の電子カメラというのは中がどうなっているのかわからず、ちゃんと風呂に入って体のこまかい所を洗っているんだろうか、というような疑念をもたらす。風呂というのは変なたとえであったが、しかしどうも電気というのは実体が見えないので明解な清潔感というもにはつながりにくいのだ。
 まあ理屈はともかく、ここに並んでいるのは現役を引退したカメラばかりだ。いずれももう製造中止となっている。人間でいうと定年退職したカメラである。でもまだちゃんと動く。フィルムを入れてシャッター速度と絞りをセットし、距離を合わせてシャッターを押せばちゃんと写る。そのまま置いておくのはもったいない。人間だって60歳で定年は早すぎる。もちろんスピードや身の軽さでは新入社員にかなわないが、しかし何といっても基礎がしっかり出来ている。いまの若者は電気がないと何もできぬが、わたしゃ違う、というような。


 確かに昔のカメラは写真を撮るということがどういうことなのか、その仕組みがわかった。しかも当然のようにピントから露出、シャッタースピードなど自らが決めなければならない。それこそフィルムの感度やレンズまでこだわった。その上でシャッターを押す。すべてマニュアルだ。だから著者の言う「基礎がしっかり出来ている」ということは、カメラだけでなくユーザーの能力もしっかりしていないとならなかった。カメラ自体は写真を撮るという機能のみで造りがシンプルであった。
 それがすべてオートになり、誰にでも出来る(実際は出来ないのだが)ということになれば、写真の善し悪しはシャッターを押す瞬間の偶然で決まってしまう。それでなくても「あっ、それやってあげますよ」方式で何でも電子制御してしまい、おまけに必要ないことまで出来ますよ、みたいなお節介までしてくれるのである。
 だから昔のカメラが逆に懐かしくなるのかも知れない。もし何でもかんでもカメラが自動的にやってくれるなら、そのカメラにマニュアル操作機能など付けないないだろう。今でもこだわる人はいるのだ。
 その中古カメラの魅力に著者は取り付かれた。それを“中古カメラ病”と言っている。


 中古カメラ屋さんというのはときどきふらりと立ち寄る。ときどきではなく、ちょくちょくかもしれない。立ち寄ると気が休まるので、じつはちょっと暇があるとすぐ立ち寄る。
 一般の方にはわかりにくいかもしれないが、これは中古カメラ病にかかっているからである。ちゃんと写るカメラを持っているのに、それでもなお昔のカメラが欲しくなる。
 ぼくもその病気にかかってしまった。それまでも昔のカメラに興味があったが、そんなのはレトロ趣味だとばかにしていた。だから自分で買うとは思いもしなかったのだけれど。
 去年一つ買ってしまった。やはり昔の金属カメラの魅力は素晴らしい。しかもけっこう探すと安いものもある。なるほど、これはこれは、と思って中古カメラ屋のハシゴをするうち、気がついたら完全に病気にかかっていたのである。

 だから古式カメラというのは、あまり見つめてはいけないのである。猿山の猿じゃないけど、ちょっと見る程度にしておかなければいけない。落ち着いた目でぱっと見て、すぐ次に移る。
 それができれば病気に罹らないのだけれど、そうはいかずに見つめてしまうから、その視線を逆流して中古カメラウィルスが付着し、症状が出て、頭が化膿し、それが胸にまで進展して内ポケットの財布に伝わる。一万円札がめろめろになってどんどん剥がれて落ちていく。


 しかしここに取り上げられるカメラはどうしても“現役”を引退しているので、どうして手厚いメンテナンスが必要になる。場合によってはどうしようもない状態に陥っているものもあり、必ずしも「ちゃんと動く」と行かない場合もあるようだが、根気よく中古カメラに接していく。


 古式カメラというのは古いシステムとのお付き合いも大変だけど、こういう故障部分とのお付き合いも大変である。でもこの古式システムを確かめたい、この古式カメラと行動を共にしたい、というので半信半疑でつき合ってみるわけである。

 低速シャッターの1秒を切ってみると、ほぼ正確に1秒である。何十年振りに動いたようで、まだどことなく引っ掛かりがある。セルフタイマーをかけてみると、途中で止まってしまった。もう一度やってみると、何とかそこを通過してカッチンといった。何度も繰り返していると、その動きが滑らかになってくる。十回二十回とやっていると、完全に昔のことを想い出したみたいで、音が精悍になってくる。三十回四十回とやっていると、完全に筋肉が回復し、もうほとんど昔の青年である。
 その回復力に目を見張った。構造が単純でしっかりしているから、そこに戻るのも早いのだろう。やはり銘機だなと思った。


 ふと思ったことがある。今使っているデジタル一眼レフカメラを何十年後に手に入れたとしたら、著者が手に入れた「カメラの進化における黎明期」のカメラみたいにメンテナンスをすれば使えるようになる、というわけにはいかないだろう。まず電子部品がどうにもならないのではないか。そんな気がする。それに比べ昔のカメラは構造がシンプルだけに、きちんと手入れをしてやれば、“現役復帰”も可能なのではないか。

 私が最初に手にしたのは家にあったヤシカのカメラであった。絞りもピントも、多分シャッタースピードもレンズに付いていたピンの付いたネジを回して合わせていた。詳しい操作がわからなかったので、適当にやっても写っていた。
 この本のイラストにあるように、牛革のカバーがで覆われていた。レンズ部分を上からがばっと覆うタイプである。イラストを見て「そうそう、こういう風にカバーがかかっていた」と口に出してしまうほど、懐かしかった。カメラの上部を著者は「軍艦部」と言っているが、まさしく軍艦の甲板みたいに、仰々しいのが、当時のカメラであった。確かに今にしてみればごっついし、スマートじゃない。けれど当時はそれが最先端だった。セルフタイマーも、目に見える形でレバーが戻ることで、その待ち時間が実感できた。
 私も一度中古カメラ屋でCanonの一眼レフを買ったことがある。雑誌の『日本カメラ』に広告が載っていて、確か中野のお店まで行ったと思う。交換レンズにも憧れ、何本は買った。しかし今は「交換レンズ」という響きさえ懐かしい。著者言っているように、私もその欲望が失ってしまったのだろう。


 それとN十年。振り返ってみたら、交換レンズなんてそうは使わない。自分は標準レンズ一つでもだいたいはすむ、ということに気がついてきた。若いころは交換レンズ欲望というものがある。でも歳をとると、どうもその欲望が減退してくるように思うがどうだろうか。


 ここに紹介しているカメラは私は知らないけれど、形はこんなものがあったよな、と思い出せてくれ、とにかく懐かしかった。
 私が昔使っていたカメラは今、本棚のオブジェとして飾ってある。


赤瀬川 原平著 『ちょっと触っていいですか―中古カメラのススメ』 筑摩書房 (1998/02/24 出版)ちくま文庫
by office_kmoto | 2014-09-14 11:47 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

池波 正太郎 著 『池波正太郎自選随筆集』

 書名が自選となっているところを見ると、この随筆集は池波さん本人が選ばれたエッセイ集なのだろう。上下2巻、なかなか興味深く読ませてもらった。
d0331556_1804925.jpg 読んでいていろいろ書きたいのだが、まず「いいなあ」と思った一情景を書き出したい。池波さんがフランスで見た情景である。


 そこで私は、件の少年ジェランを、
 「ムッシュー」
 と、よんで、葉巻を出すや、
 「メルシ」
 少年は、にっこりとして受け取ってくれた。
 同行の友人たちは、
 「葉巻は、少し早いんじゃないですか」
 と、いう。
 「なあに、あんなに一人前にはたらいているのだから、彼は、もう大人だよ。葉巻も酒も一人前さ」
 私は、少年のころの自分をおもい出しながら、そうこたえた。

夜が更けて、部屋へもどり、窓を開けて冷たく澄みきった夜気を胸一杯に吸い込んでいると、ホテルの通用口から少年のジェランが出て来て、ホテル前の道を突っ切り、ロワール河をのぞむ木立の中のベンチへ腰をおろす姿が、月の光と、道端の街燈によって、はっきり見えた。
 少年の白い服が微かにうごいたと思ったら、彼の手の中に火が浮いた。マッチを摺ったのである。
 つぎに、彼の口からけむりが吐き出された。私がプレゼントした葉巻を吸いはじめたのだ。いかにもうまそうに、ゆっくりとして、少年が葉巻をふかしている。
 一日の、はげしい労働を終えた後の思いを、彼はたのしんでいた。
 「やってるな・・・・・・」
 と、私は口の中つぶやいた。


 この文章、池波さんが見た情景が目に浮かんでくるし、この「やってるな・・・・・・」というのがいい。いかにも仕事の後の一服を楽しんでいるのを感じさせる。

 ところで、池波さんが時代小説を書く上で、これまでの自らの衣食住がいかに大切なものであるかがこの随筆集に書かれている。以下それらを書き出してみる。


 東京の下町では、となり近所が助け合い、たがいの不足をおぎない合うことも当然だったもので、そうした環境に生きていたからこそ、母の細腕で一家をささえあうこともでき得た。不足だらけのエネルギーが、われわれの町に充満していたようにおもう。


 大震災後の典型的な下町の家であって、土地は借地であったが、家は祖父が建てた。近辺は、いずれもこのような家ばかりで、炭屋・油屋・洋服屋・弓師・仏師・鍛冶屋・八百屋・下駄屋・駄菓子屋・酒屋など、すべて人びとが手足をうごかし品物を造り、これを商う姿を、子供の私たちは朝に夕にながめて育ったのである。この時代の生活が、いま、時代小説を書いている私にとり、どれほど実りをもたらしているか、はかり知れぬものがあるといってよい。


d0331556_18236100.jpg これも、やはり過去につきあった人とか、さまざまな経験の蓄積が、そういう形にふくらんで出てくるものなのであろう。
 小説を書くにあたっての、こまかい点にふれてみれば、私は[衣食住]は、人間の生きてゆくための三大要素であるから、なるべくきちんと書きたいと思っている。
 それに江戸時代では、食事や衣服について書くことは、そのまま季節を表現することにもなる。現代とちがって、冬には[茄子]はないものだし、きわめてはっきりと、食事に季節があらわれている時代であった。また、江戸の人がどんなものを食べていたのだろうか、という読者の興味もあることだろうと考えている。
 また衣服にしても、それを書くことによって、その人の社会的地位や、経済的条件などもわかるわけであり、公用なのか私用なのかさえも、いくらかわかるのだから、重要なことだと思っている。


 ちかごろ、歴史小説と時代小説の相違はなにかという議論が、また出てきているが、私としては、良いもの、面白いものなら、区別など、どうでもいいではないかと思っている。
 どうしても区別したいというのなら、大づかみに言って、歴史小説とは、歴史の資料を克明に調べて、その中から論断と観察を生み出すもの。また、時代小説とは、歴史を背景にしたフィクションだといっておいてもよいだろう。
 だが、歴史を背景にする、とひとことで言っても、風俗も一つの歴史であり、そのころすしはなかった、とか、うなぎは、こうして食べたとかいうのも、一つの歴史であるのだから、強いて区分けすることもないのではないだろうか。


 なるほど、池波さんが過ごしてきた昔は、今と比べれば、まだ江戸の庶民の生活風景に近いものが残っていた。だからそれが生きてくるのか、と思った。確かに江戸の庶民の食卓に、夏野菜である茄子を冬の食卓に出してはまずい。
 池波さんが衣食住にこだわるわけはここにあるのだと思う。本来あるべき季節にそれらがあり、それらがあることでその季節を感じることができた。
 人々の生活が町の中で完結し、みんなが助け合った。ささやかな生活風景があったのだ。そんな江戸の町並みや人々の生活などに思いをはせると、現代の東京の無茶苦茶な開発池波さんは憤る。


 何しろ、東京の中心である日本橋の上へ高速道路で蓋をしてしまう世の中なのだ。高速道路を造るのに反対なのではない。いかになんでも、これはひどすぎる。この口惜しさは、いくら書いても書き足りないのだ。


水と日光と土への恩恵を忘れた都市は、かならず、大自然の報復を受ける。


 怒るあまり、そんな無茶な都市計画をする役人を“木っ端役人”と罵るのである。だから自分の作品で“人間らしい”、“日本人らしい”、“江戸の面影”を残すことが出来ることを喜んでいる。


 こういうところは、私などの[商売]はありがたい。自分の作で、江戸時代の湯島天神を舞台の上に見ることができるのだから・・・・・。


 池波さんの書かれる言葉が心にしみる。


 人間という生きものは、苦悩・悲嘆・絶望の最中にあっても、そこへ、熱い味噌汁が出て来て一口すすりこみ、
 (あ、うまい)
 と感じるとき、われ知らず微笑が浮かび、生き甲斐をおぼえるようにできている。
 大事なのは、人間の躰にそなわった、その感覚を存続させて行くことだと私はおもう。


 いずれにせよ、人間の一生にあたえられた[歳月]と[時間]は、呆気ないほど、わずかなものである・・・・・と、おもいがおよぶのは五十をこえてからだ。


 五十歳を越えると、
 「あれも、これも・・・・」
 とやりたいこと、したいことの大半をあきらめねばならぬ。
 そのうち一つか二つをえらんで、自分の生活と仕事の中に溶けこませるだけで、精いっぱいになってしまう。


 人間の世界の大半は、
 「勘ちがいによって成り立っている・・・・・」


 いうまでもなく、例外はいつの世にもある、例外をいったら切りがない。


 二十年、三十年のむかしも過去であり、昨日も過去である。


 などなど・・・・。なるほどなあ、と思ってしまう。
 ところで池波さんは映画にも造詣が深い。数多くの映画見られている。なぜそんなに映画を見るのかを自分でも考えてみている。池波さんが映画を見るのは必然性があるのだ。


 のみならず、何百年も前の日本人を素材にして時代小説を書いている私自身の仕事と現代とのむすびつきを、私は内外の映画鑑賞によって感覚的におこなっているようにおもう。


 最後に私が一番懐かしいなあ、と思ったのはポテト・フライの話である。


 私にとってビールの肴には、ポテト・フライが、もっとも好ましい。フライド・ポテトではない[ポテト・フライ]である。

 菓子屋で五銭のキャラメルを買うくらいなら、ポテト・フライをそれだけ買い、辛いソースをたっぷりかけ、生キャベツをそえてかぶりつくのが、まったく好きだった。
 遊び友だちは、
 「あいつはポテト・フライばかり食っているから・・・・・」
 というので[ポテ正]というニック・ネームをつけてくれた。


 私が小学生の頃、学習塾へ通っていたことがある。夕方塾が終わって帰り道に、肉屋があった。そこに寄り道をして、ポテト・フライやハムカツなど揚げたてを買って、友人と帰ったものである。いずれも子供の小遣いで買えたものだが、揚げたてにソースをかけてもらい、口にほおばって食べた味が懐かしい。そういえばポテト・フライって最近見かけないな。大体フライを揚げてもらえる肉屋が町になくなってしまった。なんかポテト・フライが食べたくなってしまった。


池波 正太郎 著 『池波正太郎自選随筆集』〈上巻〉 朝日新聞出版(1988/01発売)

池波 正太郎 著 『池波正太郎自選随筆集』〈下巻〉 朝日新聞出版(1988/03発売)
by office_kmoto | 2014-09-09 18:08 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

清水 義範 著『夫婦で行く』シリーズ

 このシリーズは3冊ある。『夫婦で行くイスラムの国々』『夫婦で行くイタリア歴史の街々』『夫婦で行くバルカンの国々』である。
著者が海外旅行に目覚めたのは四十歳になってからで、二十代頃は国内旅行さえ、行かなくていいかなという気持だったという。
 その海外旅行が初心者である著者が奥さんとお母さんと一緒にインドへ行った。海外旅行最初にデープなインドへ行ったのである。しかしインド旅行で異文化体験の面白さの虜になってしまう。


 「インドは、すべての立場の人間を抱えたまま、すべてを生かしてくれるという社会だったんだ」


 私はだんだん、生きるためになりふり構わず主張しまくるインド人が好きになり始めていた。なぜなら、それこそがここでは生活そのものであり、つまり生きることに真剣な姿なんだとわかってきたからだ。


 インドという国はものすごくはまってしまう人とそうでない人の両極端な国のようで、著者はインドにはまってしまう。そこで「文化のあるところでは、人間はちゃんと美しく生きられる」と思うようになる。
d0331556_5371013.jpg その後トルコでイスラム文化の面白さにはまり、中東や中央アジアなどを夫婦で回ることとなる。それがこの旅行記の第一弾、『夫婦で行くイスラムの国々』となる。
 もともと「二人とも、歴史が古くて、豊かな文化の感じられるところが好きなのだ」というくらい、歴史のある国が好きなお二人だから、ある意味、トルコという国は向いていたかもしれない。


 トルコは見飽きるということがない。思いがけないものがいくらでも出てくるのだから。世界の歴史の縮刷版のようなところに、今はイスラム教徒のトルコ人が住んでいるという不思議さもある。


 イスラム世界を順にひとつずつ見ていきたい、と私は考えるようになっていった。イスラム建築のファンになっていたから、という理由もあるし、こっち側を知ってみないと世界を知ったことにはならないぞ、という思いもあったのだ。


 そしてここでも「大いなる歴史を持つ国というのは、どこか雰囲気に気品のようなものがあるんだなあ、ということを私は感じていた」。


 イスラムの世界は、今は紛争があちこちで起こっている。だから「またしても多くの人から、そんなところへ行って大丈夫なんですか、こわくないんですか、と言われてしまった」というが、それでもイスラムの国々を見てみたいと思うようになっていく。


 実はこれはあまり知られていないことだが、近代ヨーロッパ以前、イスラムの国々の学問はヨーロッパよりはるかに進んでいた。ヨーロッパでルネサンスが起こったのも、近代科学は発達するようになったのも、十字軍でイスラムの国々と戦って、イスラムの学問を知ったからである。


 そういう学問は実は、その頃イスラム世界のほうがはるかに進んでいて、ヨーロッパなどはかなり遅れていたのである。なのに私は今まで、そんなことはひとつも知らなかった。


 旅は、イスラム教が誕生した中近東から、中央アジアへ、そして北アフリカへとイスラム教が普及していくのを見てまわることとなる。そして最後はイスラム教がヨーロッパのスペインまで広がっていったのを見てまわる旅となる。


 トルコはきっかけをもらった国で、ウズベキスタン、イランと見てきたのだから、その次はシリア、レバノン、ヨルダンへ行き、そしてアフリカのイスラム国を東から西へ巡っていって、ついにモロッコまで到る。
 そうしたらその次に行くのはスペインだな、と私は決めたのである。このイスラムの国々を巡る旅はスペインまで行ってそこがすごろくでいう上がりであると、そんなふうに初期に私は決めていたのだ。


 ところでこれらの国は様々な文化、宗教が交錯する地域である。イスラムの国々をまわっているのに特に目に付くのがローマの遺跡群であった。


 私はトルコへ行った時にギリシア・ローマの遺跡ばかり見せられて驚いた。シリア、ヨルダン、レバノンでもローマ遺跡を数々見た。そしてアフリカのチュニジアまで来て、またしても見せられるのはローマ遺跡だったのである。地中海に面するところをまわっていくというのは、ローマを裏側から見るようなことかもしれない。


 ローマ人というのは、世界中をローマにしてしまうんだな、という感想がわいてしまう。


d0331556_5381250.jpg そこで次はこれらのイスラムの国々見たローマを見てみたいということになる。それが第二弾の『夫婦で行くイタリア歴史の街々』となる。


 イスラムの国のうちの地中海近辺の国、トルコ、シリア、レバノン、ヨルダン、チュニジア、モロッコなどで私たち夫婦は、本当はモスクなどのイスラミックな景観を見たいのだが、非常にしばしば古代ローマ帝国の遺跡を見せられたのだ。地中海沿岸地方というのはかつて古代ローマ帝国が支配したところで、今はイスラム国でも、見るべき遺跡は古代ローマの都市跡なのだ。列柱通りや円形闘技場などの遺跡をいくつ見たことか。イスラムの国をまわっているのに、半分は古代ローマを裏から見ているようなものだったのである。
 だからこそ、古代ローマ帝国そのものをちゃんと表から見てみようか、という気がしてきた。どうもそれを知ることが、世界史の背骨を知ることのような気がしてきたのだ。
 それから、古代ローマ帝国が滅びたあと、あのイタリア半島はどういう歴史をたどったのかも知りたい。1861年に王国となるまで、イタリアはひとつの国にまとまっておらず、バラバラの都市国家群だったことを、なんとなくきかされて知っているが、それはどんな実態だったのかも知りたい。


 まずは南イタリアを旅する。シチリア島から最後はナポリまでである。そして次が北イタリアとなる。イタリアを知る旅のメインはこちらになるだろう。


 私のこの北イタリア紀行は、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の食堂でレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を見ることで始まった。そして今、システィーナ礼拝堂でミケランジェロの「最後の審判」を見ることで終わろうとしているのだな、という気がした。


 私は個人的のヨーロッパの歴史に興味がある人間なので、この第二弾の方が面白く読めた。そして旅でのエピソードが興味深かった。
 たとえば、ルビコン川である。あのカエサルが渡った川である。何となく歴史上重要なことなので、それに伴いルビコン川が大河のように思ってしまうが、実は幅十メートルぐらいのドブ川だという。これは他の本でも読んだことがある。


 ルビコン川はアドリア海に流れこんでいる全長五十キロメートル弱の小さな川である。


 だから著者の言う通りなのだろう。


 このエピソードから、「ルビコン川を渡る」は「清水の舞台から飛びおりる」というような意味、「賽は投げられた」は「始めてしまったんだからやるしかない」というような意味に使われるのである。


 イタリア観光はよく歩かされるようである。著者も足にまめが出来て歩くのが苦痛なくらい歩かされたことが書かれている。


 イタリアで多く歩きがちになるのは、城壁に囲まれた旧市街を見る際に、中までバスは入れない、ということになっていることが多いからである。ずいぶん遠い駐車場から街の中心部までどうしても歩かなきゃいけないのだ。
 そしてそれは、ローマでも同様だった。たとえばサン・ピエトロ大聖堂へ行こうとすると、バスはかなり離れたところでなければ駐められないのだ。
 そこで、日本人はズルイことを考える。寺院のすぐ近くにバスを一瞬停めるから、皆さん大急ぎで降りて下さい、という方式にするのだ。短時間ですむなら咎められることもない。
 というわけで、このツアーで我々はメンバーは、バスから降りて下さい、と言われることが多かった。すると、だんだんそれがうまくなってきて、我々は火災警報が鳴った時の消防士のように、あっという間にバスから乗降するようになった。そういうのも旅の面白さである。


 これは面白かった。
 そのサン・ピエトロ大聖堂のエピソードも興味深い。
 サン・ピエトロ大聖堂はもともとキリスト教を公認したローマ皇帝コンスタティヌス1世が建てた聖ペテロの墓がある教会であった。15世紀になって、教皇ニコラウス1世がこれを再建することを思い立ち、教皇アレキサンデル6世もその方針で進め、1505年教皇ユリウス2世が改築を決定した。ユリウス2世が死ぬと、次の教皇にはメディチ家のジョヴァンニが選ばれレオ10世となる。


 このレオ10世は、メディチ家の家風である平和均衡路線で何事も現状維持をはかるという人であったが、メディチ家のもうひとつ家風の、文化事業、芸術の後援には費用を惜しまないというところがあった。そのためできた巨額の借金を返すために、教皇庁は聖職を売買し、免罪符を活版で刷って売りまくったのだ。
 それに対して、そんなの変ではないかと、ルターが疑問を投げかけたことにより、宗教改革が始まるのだ。つまりレオ10世は、ルネッサンス芸術を最高水準まで高めた教皇であると同時に、宗教改革を呼びおこしてしまった教皇でもあるのだった。


 で、最後に著者が感じたイタリアをイタリアを訪れている日本人女性のファッションを見て思うのである。ファッションの本場イタリアにおいても、「その日本人女性を見て私は、実にファッションが素敵だと思った」という。
 何故そう感じたのだろう。


 イタリア女性は、ぐずぐずにカジュアルになっちゃうか、決めようとするとコンサバティブになりすぎて、堅すぎる。つまり、決めすぎって感じなのだ。男性も、決めすぎになっていることが多い。


 しかしその一方でイタリアは、どこか洗練されていないのだ。よく言えば、田舎のよさがある。悪く言えば、どうも国際的でない。
 あらゆる地方の人が、おらの街がイタリア一だ、という自負を持っている。すべての男が、おれはカッコいい、という自負を持っていて、それはあきれるほどキメている。なのに、アウェーへ行くととたんに気が小さくなってしまう。
 デザイン優先である。そして、街ごとにデザインにこるから、ひとつの国なのに統一感がない。そこがイタリアのよさだね、と思う人もたくさんいるだろうが、アイデンティティーにこだわりすぎるあまり、巨大な国力になってこない気がする。


 著者はイタリアを「すごいものだと感嘆しつつ、少しあきれている、というのが正直なところだろうか」と書いている。

d0331556_5385943.jpg そして第三弾はローマに行ったんだから次はギリシアだな、だから『夫婦で行くバルカンの国々』なんだろう、と思っていたら、それは違うようである。著者がバルカンの国々を選んだのはただの“勘”だと言っている。もちろんギリシアへ行く。
 バルカンの国々とは、旧ユーゴスラヴィアである。ユーゴスラヴィアは様々な人種と宗教などで内線が起こり、解体した国である。それそれが独立して、今でも問題を抱えている。


 サラエボ観光とは、オスマン時代と、第一次世界大戦と、ボスニア内戦時代という三つの時代を交互にみることか、という気がした。


 とにかく複雑な事情を抱えている国々だから一筋縄ではいかない。その分わかりにくい。私がこの紀行文で興味を湧いたのが一つの「橋」である。
 サラエボをひたすら東へ進み、セルビアとの国境のところでヴィシェグラードという小さな街がある。

 ここはドリナ川の狭い峡谷と豊かな谷間に開けた街で、周囲は森や山地に囲まれている。
 この街で見るべきものは、ドリナ川に架かる一本の橋だ。橋の名前はメフメド・パシャ・ソコロヴィッチ橋。オスマン帝国支配時代の1571年、オスマン帝国の大宰相ソコルル・メフド・パシャの命により、ミマール・スィナンの設計によって着手され、1577年に完成した。
 ソコルル・メフド・パシャはもともとボスニアのこのあたりに住むキリスト教徒の息子だったが、オスマンに徴用され、大いに出世した。


 そういう名宰相が、自分のふるさとのドリナ川に橋をかけさせたのだ。少年時代に、親元から引き離されてドリナ川を小舟に乗せられて渡り、遠い都につれていかれた時のことを忘れなかったのだ。


 このドリナの橋は、ユーゴスラヴィアの作家イヴォ・アンドリッチの歴史小説『ドリナ橋』という作品になっている。この小説はノーベル文学賞を受賞している。
 私はこの小説の日本語訳を大学時代ゼミで読まされた。
 “読まされた”というが、この小説なかなか奥深い内容の本で、面白かったと記憶している。まさかこんなところで昔読んだ本のことが出てくるとは思ってもいなかったので、ちょっと驚いてしまった。
 ちなみにこの本は今手に入らない。Amazonで調べてみると古本価格で結構な値段が付いていた。
 この橋は第一次世界大戦ではついに破壊されてしまうが、この小説のおかげで 修復され、世界遺産に登録されている。

 ところでこの旅の最後に著者たちはギリシアを訪れるのだが、著者は「ギリシアはバルカンの国だろうか、という気もするのだ。ギリシアは古代ギリシア文明につながるところで、バルカンの一国という捉え方は似合わないような気がする」と書く。
 これはイスラムの国々を訪れたとき、エジプトを後回しにしたのと同じ気分だ。
 エジプトを後回しにしたのは、エジプトに行けば、イスラムの国(実際はそうなのだが)を見るというよりは、古代エジプトの遺跡ばかり見せられるのではないかという危惧からであった。
 ギリシアにおいても、バルカンの国々の事情を知るというよりは、古代ギリシアの遺跡ばかりを見せられると思ったのであった。
 確かにそうの通りなのだが、エジプトに行ってみて、エジプトがとても敬虔なイスラム国だという一面もよくわかったので、ギリシアにおいてもバルカンの一国だというのが見えるかもしれないと思い直すのである。


 著者たちの旅は自ら細かいことを計画して旅行する旅ではなくパッケージツアーである。しかも全く予習もせず白紙状態で目的地に行くという。そして「旅先でいきなり史実を教えられ、旅の終わったあと勉強しなおして理解を深めていく、というやり方なのだ」。

 その上で、


 そんなふうに、何もわからないまま私は観光を始めるのだ。そして、なるべく多くのことを見ようと夢中になり、印象をため込む。そうしておいてから、後でだんだんと見たものの意味がわかってくるのが好きだ。資料を読んだりもするが、印象をひとつひとつ積み重ねていって、そこに意味を発見するのが、劇的に面白いのである。それから、この旅行記を書くために正確なデータを集め、知っていく。だから、これを書きあげたところで、旅は完結するのである。私の旅は、そういう時間のかかるお楽しみ(長く楽しめるもの)なのだ。


 だからこの3冊は旅行記だけではなく、十分な歴史解説書となっている。しかもそれぞれが複雑な歴史背景を持つ国々だけに、それらの国のことを理解するのは難しい。それを何とか著者なりに理解した上で解説してくれているので、下手な入門書よりも歴史がわかりやすかった。


清水 義範 著 『夫婦で行くイスラムの国々』 集英社(2009/08発売) 集英社文庫

清水 義範 著 『夫婦で行くイタリア歴史の街々』 集英社(2011/05発売) 集英社文庫

清水 義範 著 『夫婦で行くバルカンの国々』 集英社(2013/04発売) 集英社文庫
by office_kmoto | 2014-09-05 05:41 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

平成26年8月日録(下旬)

8月某日 くもり

d0331556_5183022.jpg 坂崎重盛さんの本に出ていた小林信彦さんの『私説東京放浪記』 筑摩書房(1992/11発売)を読んでみた。まあ内容は坂崎さんが紹介していたことをそれぞれの町で、小林さんの思い出話を交えて書かれている。
 東京でオリンピックが行われた時を東京を根こそぎ変えたエポックとして挙げていたが、その再開発の根底にあるのが「外国からのお客に恥ずかしい」というものであると言っている。なるほどそうかもしれない。恥ずかしいから必死に隠そうと化粧をする。今度のオリンピックも同じ発想で東京を変えていくんだろう。


 東京について書く文章は、怒りと喜びに彩られる。東京の現在を考えると、怒りがこみ上げる。未来を考えると絶望し、はるかなる過去を思い出すと、喜びを覚える。


8月某日 くもり

d0331556_5195333.jpg 酒井順子さんの『昔は、よかった?』 講談社(2011/07発売)を読む。ここのところコラム集ばかり読んでいる気がしている。まあ好きだから読んでいるわけだが、そろそろしっかりした本を読みたいと思っている。

 さて、この本を読んで気になった点は3点ある。ひとつは京都の高山寺にある鳥獣戯画である。
 私は実物を見たことがないけど、それを忠実に模写したものを見たことがある。中学校の教頭先生で美術の先生でもある先生が、若い頃高山寺に行って、それを模写したものを見せてもらった。それが本者ではないかと思えるほど忠実に模写され、さすが美術の先生をする人だとびっくりしたものである。それが鮮明に頭に残っているため、鳥獣戯画と聞くとピックと反応してしまうのである。


 たとえば、鳥獣戯画。京都の高山寺に伝わるこの絵巻物は、ウサギやらカエルやらが相撲をとったりしていて、とっても可愛い。
 京都に行くと、著作権がきれているせいなのか、この鳥獣戯画グッズがたくさん売られています。湯呑みお皿、手ぬぐいに文房具・・・・。鳥獣戯画というのは和風サンリオの役割を、京都において果たしている。
 私も三十代で京都に目覚めた頃、鳥獣戯画グッズにはまったものでした。家で鳥獣戯画の湯呑みと急須を使用していると、遊びにきた先輩独身女性が、
 「鳥獣戯画って、独身女が一度は通る道なんだよね・・・。誰の家に行っても、この湯呑みがある。ていうか、うちにも」
 と言っていたのであり、どうやらそれは私だけではないらしい。


 そうなんだ。

 この教頭先生はものすごく器用な人で、私たち男子生徒が技術の時間に作った文鎮にそれぞれ名前を彫金してくれた。たしか今も自分の名前が彫られた文鎮があったはずだ。

 もう一つは「男と女の仕分け方」というコラム。女性専用というもについて書かれたもの。たとえば女性専用列車みたいなものについて書かれたもの。


 「分ける」ことも、弱者の保護には必要です。特に、東京のような人口密度が高い場所においては、男女や年齢で人を分けておくことが、弱者にとっては安全対策となる。
 しかし、分けてしまうことによって、「世の中には色々な人がいる」ということは、分かりづらくなります。同類と一緒にいる心地よさにどっぷり漬かって、他者のことを考えなくなるのです。


 これは痛し痒しだろうな。弱者保護には今の世の中、訳のわからない男ども多いから必要であろう。だけどそこにいれば安全という場所を作ってしまうと、その場所がない場合、免疫力がないため、今後の対応の仕方に困るんじゃないか、と思ったりもする。
 まあ我々男の側からすれば、弱者保護とかうるさく宣う女性たちもいるわけだから、そんな女性専用という場所を作っておけば、「じゃあそこに行けば」と言えるのでそれはありなんだと思っている。もっとも逆に馬鹿な男どもがいるからここに逃げ込んでいるんです、という声も聞こえてくるが・・・・。

 最後が「『三代目以降』の法則」というコラム。著者が知り合いの税理士さんに聞いた話。


 「一番しっかりしているのは、当たり前だけど自分で会社を興したという社長さん。二代目の社長さんっていうのは、やっぱり親が甘やかしているのか、どうも弱々しいというか頼りないというか、しっかりしていないところがある。けれど不思議なことに、三代目以降になると、今度は帝王学みたいなものができてくるせいか、一種の風格を持った社長さんになってくるんですよね」


 してみると会社というものは、二代目社長の時に持ち崩さなければ、何とかなるのかもしれず、初代が二代目にバトンを渡すときが、最も緊張する瞬間なのでしょう。リレーにおいても、バトンパスの瞬間こそが、最も危険な時間のようですし。


 そういえば私が辞めた会社の社長も二代目だった。今思えば最初に大きな花火を打ち上げるのが大好きで、あとはずるずると持ち崩していった感じであった。いかにも二代目がやりそうなことを地で行っていた。


8月某日 はれ まったくいつまでたっても暑い

 最近NHKのBSでゴジラの映画をしょっちゅうやっている。子供の頃母親に連れていってもらい、近くの商店街のちょっと奥にあった映画館でみたものだ。
 ゴジラと言えばあのいかめしく、荒らしい怪獣だが、そのゴジラがおそ松くんのイヤミがする「シェー」をやってことがあることを知っていますか?
d0331556_5225381.jpg そのことを思い出させてくれたのが小林信彦さんの『人生は五十一から』 文藝春秋(1999/06発売)であった。小林さんは「ぼくはといえば、ゴジラが子供たちに媚びて『シェー』を演じていらい(1965年『怪獣大戦争』)、日本の映画館では観ていない」と書いている。まあ、ゴジラを本格的な怪獣映画として観れば、そういうコミカルな場面は許せないところであろうが、でもゴジラはもともと子供向けの映画だったんだから、子供に媚びたところがあっても不思議じゃない。実際私はそれを観て大笑いしたことは事実なんだから。だからそれほど目くじらたてることでもなかろう。
 この本は小林さんが<横丁居住者の生活と意見>として、書いているコラムだから仕方がないのかもしれない。
 でもそんな日本橋育ちの小林さんが言っている。


 フランスの三つ星シェフの料理やら、超高級ワイン、各種パスタの溢れる生活と交換に、ぼくたちは、映画、小説、その他、近所の店でうまいソバが食べられる程度の日本文化さえ失ったのである。


 これはよくわかる。


8月某日 はれ

 義父の17回忌の準備に追われる。人が家に来るというのは、何かと気をつかうもので、細かいことが結構あるものだ。

d0331556_5225740.jpg 東野圭吾さんの『マスカレード・イブ』がでるので、その前に『マスカレード・ホテル』 集英社(2014/07発売)をもう一度読み直してみるた。一度読んだ本でも面白い。











 8月某日 くもり

 娘夫婦が孫を連れて来る。2カ月ぶりだ。夜、孫と花火をする。


 8月某日 はれ

 義父の17回忌当日。朝早く玄関先を掃き、その後墓の掃除に出かける。11時に寺に、私たち家族、娘家族、義理の妹、その息子たちと行く。彼等と会うのは久しぶりだ。
 法要で住職がお経をあげるが、この人のお経がなんかカラオケで歌っているように聞こえ、重々しさが感じられない。
 法話も下手くそで、世事のことをあれこれ言うが、まとまりがない。何を言いたいのかよくわからない。余計なことを言わずに、プロである仏事のことでも言ってくれれば、まだ聞く耳を持つが、変に私たちに媚びるような話をされると、逆に腹ただしくなってくる。
 人に話をするのは難しいものだ。話を聞いてもらうためには、やはりどこかその話に感心するところがないとならないものだと改めて思う。上手く話が出来ないなら、余計なことは話さず、簡潔に話せばいい。下手に受けをねらうと、逆に墓穴を掘る。


8月某日 くもり

 昨日の気疲れで、今日は何もする気が起こらない。私はよくこういうことが起こる。

 話はまったく違う話になるが、パソコンのデータの保存のことである。今まで何台ものパソコンをつかってきたが、そのたびに作ったデータを、例えばUSBメモリーやポータブルハードディスクにバックアップしてきた。まあそれはいいのだけれど、USBメモリーなど手頃なのでたえず新しいものにバックアップしてきた。そしてそこに何が入っているのか内容をわかるようにしておけばいいものを、そのままにしていたため、そこに何が入っているかわからなくなってしまっている。
 いくつもあるUSBメモリーの中身を覗いてみた。確かにそこには昔作った文章やら、写真、その他データが保存されている。これは一度きちんとまとめた方がいいと思い始める。ただいったいいくつUSBメモリーがあるのか。まとめるにはかなり手間がかかりそうだ。そう思うと今日はうんざりし、そのまま放り出してしまう。


8月某日 くもりのち雨

d0331556_5234210.jpg 東野圭吾さんの『マスカレード・イブ』 集英社(2014/08発売)を読み終える。これは『マスカレード・ホテル』の前章といった短篇集である。あのホテル・コルテシアの山岸尚美がフロント業務について間もない頃の話は、『マスカレード・ホテル』で見せたプロがこんな時期もあったんだな、と思わせる「それぞれの仮面」。そしてやはり山岸と組んだ刑事の新田の新人の頃の話「ルーキー登場」も面白かった。
 「仮面と覆面」は雑誌に掲載されていたのを読んでいた。
 そして「マスカレード・イブ」は前作『マスカレード・ホテル』で起こる事件の前の話である。新田は山岸と潜入捜査のためこのとき初めてコンビを組んだのだが、その前に起こった大学教授殺人事件で、新田と捜査のコンビを組んだ所轄の穂積理沙が容疑者のアリバイを探りにホテル・コルテシア大阪に聞き込みに行く。そこに山岸がいた。山岸は穂積に素性を明らかにしないという約束で自らの推理を穂積に伝えた。その推理が事件の解決へ向かわせる。
 つまり新田は『マスカレード・ホテル』で山岸とコンビを組む前に、間接的であるが山岸と関係があったのであった。
 
 
 「一度、顔を見ておきたかったな。その聡明な女性フロントクラークとやらの」
 「美人ですよ。いつか会えるといいですね」
 新田は口元を曲げ、遠くに目を向けた。東京の空が赤く染まり始めていた。事件が解決したばかりだというのに、何かが始まる前触れのような気がした。


 そしてエピローグがあり、『マスカレード・ホテル』で山岸が襲われることとなることの発端が描かれてこの話が終わる。


8月某日 くもり

 昨日今日とあれほど暑かった日々が嘘みたいに肌寒い。あれほど咲き誇っていた朝顔も昨日は一つも花を咲かせていなかった。花が咲き終わった後に種がぷっくりふくらみ始めている。もう夏が終わったんだな、としみじみ思わせる。今年は本当に季節を実感していて、夏が終わるというのはこんな感じか、と思ってしまう。何となく寂しい感じだ。


8月某日 雨

 朝から冷たい雨が降っている。清水義範さんの『夫婦で行くイスラムの国々』を読み終える。続いてシリーズの『夫婦で行くイタリア歴史の街々』を読み始める。


8月某日 くもり

 清水義範さんの『夫婦で行くイタリア歴史の街々』を読み終える。今度の本はちゃんと地図があってわかりやすくなっている。前回と比べ自分が好きなイタリアなので、興味深く読んだ。


8月某日 はれ

 久しぶりに陽を見た感じだ。それでも一時の暑さはひいて過ごしやすい。夜などは秋の虫がたくさん鳴き始めている。
 8月は暑さのためか気持に張りがなく、本があまり読めなかった。

 今日はかねてからやろうと思っていたUSBメモリーの整理を始めた。そこに勤めていた会社の社長の叙勲を祝う会の写真があった。

 削除した。

 たぶん会社の関係データもこれから出てくるんだろうな。今は会社のデータなどUSBメモリーに持ち出すといろいろ問題になる時代であるが、如何せん、個人商店に毛の生えた程度の会社の資料などだれも気にしまい。ましてほとんど潰れてしまったのと同じなのだから、価値などあるまい。もちろんUSBメモリーに残っていれば保存などしないし、きれいに消去するつもり。

 清水義範さんの『夫婦で行くバルカンの国々』を読み始める。これでこのシリーズは全部読むことになる。
by office_kmoto | 2014-09-01 05:27 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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