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佐伯 一麦 著 『渡良瀬』

d0331556_5442192.jpg 茨城県西部の渡良瀬遊水池の近くにある配電盤製造の工業団地に南条拓は家族5人で引っ越してくる。それはちょうど昭和が終わろうとする頃であった。長女の優子が「緘黙症」になり、本人は喋ろうとするのだが、金縛りあったみたになり、硬くなって喋れなくなり、涙を流してまう症状になってしまう。その原因が父親である拓の暴言にあった。
 長男祐一が川崎病にかかり入院し、母親の幸子がずっと祐一に付き添っていたため、拓は優子と次女の夏子と一緒に暮らしていた。
 公園の帰り道、娘たちにガムをせがまれた拓はそれを娘たちに買い与えた。道々娘たちはガムを噛みながら歩いた。しかし次女の夏子がガムを口から落としてしまい泣きはじめた。拓は夏子を宥めていたが、その横で優子が夏子に見せつけるようにガムをくちゃくちゃ噛んでいた。
 拓はそんな優子を見て「お前もガムを捨てなさい。捨てろといったら捨てろ」と怒鳴りつけた。
 優子は子供ながら憎悪のこもった眼で、父を見て、口にあったガムを取り出し、地面に投げつけた。そして大声で泣き、身もだえしながら叫んだ。拓はあの時の優子の昏い眼差し眼も、獣が吠えるような泣き声も忘れられなかった。
 以来優子は人と喋れなくなった。小学校に入ってからもその症状が続き、学校の担任からカウンセリングを受けてみてはとカウンセラーを紹介される。そのカウンセラーから優子が「緘黙症」だと教えられる。
 この症状は本人が自ら心を開くのを忍耐強く待つしかなく、転校で治った子もいると聞き、この地に家族で引っ越してきた。


 拓は、結婚してから、ずっとこんなこと繰り返してきた、と思った。何かがうまくいかなくなるたびに、幸子に懇願され、目先を変えるように引っ越してばかりきた。


 もともと拓と幸子はうまく行かなくなっていた。お互いことをあまり知らずに結婚してから、夫婦それぞれの考え方の違いや好みの違いがどんどん瞭かになって隔たっていくばかりだった。


 「わたしたちはもう、子供がいないと相手を見付けられないのかもしれない」


 とにかくこの渡良瀬遊水池の近くの配電盤製造の工場で、それまでの電気工のキャリアを捨てて、一工員としてこの働き始める。拓はこの下請けの工場で汗を流し配電の仕事をし、その仕事に打ち込むことで、充実感を得、家族との絆の回復を目指す。幸子がいい顔をしなくても、優子や祐一の病気のためになる講演会に出かけてみたりする。
 工場の仲間や関係者との交友にも恵まれ、かたくな幸子もそうした拓のつきあいから少しずつ変化が出てくる。優子も新しい学校でぎこちないながらも回復を見せ、この地に来たことが良かったように思えていく。

 昭和から平成の時代に入っていくのに、天皇の死を経ることとなる暗い時代背景の中、下請けの配電の仕事を徹底的に描くこの小説は、そんな中でも生活がそれぞれあり、人が生きている姿がただ描かれる。それは波瀾万丈のものではなく、ここでは当たり前の、いつもの普段と何ら変わらないものである。もちろん人は普段見せない過去を背負っているのだが、ここではこうして生きている、と思わせる。
 生きているということは、生活の中の家族や周りにいる人たちとどんな形であれ、つながりの中で生まれてくるものであることを、しみじみ思わせる小説であった。

 例によって言葉を拾ってみる。


 「六十前で引退するなんて早いと思うかも知れんが、わしゃ正直もう疲れたよ」


 拓が一緒に仕事をしている職人肌の本所さんの言葉である。拓は本所さんの言葉が幾分わかるような気がするのである。


 高校を出て十八で働き始め、十年経つと気付いたとき、拓は言いようのない疲労感のようなものを覚えた。社会に出てから、そんな風に感じたのは初めてだった。


 仕事への疲労感というのは、今の私にはよくわかる。がむしゃらに働いているときはそんなことを考えている余裕もなければ、充実感で充たされていると思えれば、そんなことなど考えもしない。けれど年月は確実に流れ、手元に残っているものを眺めてみれば、それは少なく、残っているのは疲労感と、体力の低下を実感する老いだけである。
 今日たまたまハローワークへ行った帰り、同じように職を探しているだろうと思われる私と同年齢か多少上の男の人とエレベーターで一緒になる。別に面識があるわけではない。単にエレベータを降りるとき、先を譲っただけである。その人が礼を言うのと一緒に、私の顔を見て「疲れますなあ」と多少笑いながら私に語りかけてきた。
 私同様、この歳での職探しが、自分の年齢、経験などがまったく役に立たない現実を改めて突きつけられたような顔であった。
 私は「そうですね」と一礼してその男の人とは別の道を歩き出した。その人の顔は一瞥しただけだけど、確かに疲労感が広がっていた。きっと私も同じ顔をしていたのかもしれない。
 その時思ったのである。意識しなくても人生の疲労感は私の身体全体に広がっているのだろうと。いやそもそも老いとはそういう疲労感で一杯のことを言うのかな、と思った。その引きずっているものが重すぎる。


佐伯 一麦 著 『渡良瀬』 岩波書店(2013/12発売)
by office_kmoto | 2014-11-28 05:46 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

高見 順 著 『詩集 死の淵より』

d0331556_674978.jpg この本は私にとって、先に読んだ井上靖さんの『桃李記』とセットなのである。古ぼけ、日に焼けた本なのだが私にとって大切な本である。


 手ですくった砂が
 痩せ細った指のすきまから洩れるように
 時間がざらざらと私からこぼれる
 残りすくない大事な時間が

 そのかわり私の前にいくら君が立ちはだかっても
 死の世界にしては明るすぎる向こうの景色が丸見えだ
 そのかわり君が敵か味方か私にはわからないが
 なぜ君は君の見ている景色を私に見せまいとするのか(「過去の空間」)


 この「過去の空間」という詩が、井上さんの「風」の中で“私”が死んだ父親と会話する場面と重なるのである。
 ここにある詩は高見さんが食道癌の手術の前後に書かれたものである。癌という病気は当然「死」を予感させる。この本にある詩はすべて死の影がつきまとっている。
 以下今回改めて読み直してみて、その死をどう受け取ったか、詩の一部を書き出してみた。


 魂よ
 この際だからほんとうのことを言うが
 おまえより食道のほうが
 私にとってずっと貴重だったのだ
 食道が失われた今それがはっきりと分かった
 今だったらどっちかを選べと言われたら
 お前 魂を売り渡していたろう(「魂よ」)


 電車が川崎駅にとまる
 さわやかな朝の光のそそぐホームに
 電車からどっと客が降りる
 (略)
 ここで降りて学校へ行く中学生や
 職場へ出勤する人々でいっぱいだ
 むんむんと活気にみちあふれている
 私はこのまま乗って病院にはいるのだ
 ホームを急ぐ中学生たちはかつての私のように
 昔ながらのかばんを肩にかけている
 私の中学時代を見るおもいだ(「青春の健在」)


 たえず何かを
 望んでばかりいた私だが
 もう何も望まない
 望むのが私の生きがいだった
 このごろは若い時分とはちがって
 望めないものを望むのはやめて
 望めそうなものを望んでいた
 だが今はその望みもすてた
 もう何も望まない
 すなわち死も望まない(「望まない」)


 私の好きだった英語教師が
 黒板消しでチョークの字を
 きれいに消して
 リーダーを小脇に
 午後の陽を肩さきに受けて
 じゃ諸君と教室を出て行った
 ちょうどあのように
 私も人生を去りたい
 すべてをさっと消して
 じゃ諸君と言って(「黒板」)


 振り向いたおれに
 目鼻のないずんべら棒の顔を
 そいつは見るにちがいない
 そしてそいつは一向に驚かないで
 すぐですねと言うかもしれぬ(「まだでしょうか」)


 美しいあなたが私のなかから出て行って
 私に残されたものが何もないからではない
 ひとえにこのすばらしい光のせいだ
 醜い生にも惜しみなく注がれるこの光のなかで
 生きられるだけ生きたいのだ(「醜い生」)


 みんなぶっ殺されて
 自分だけ殺されないで
 取り残された病牛が
 屠殺場の隅で恥じていた(「恥」)


 いずれも死の影をひしひし感じ、それに怯え、それでも生きたいという渇望がにじみ出ている。


高見 順 著 『詩集 死の淵より』 講談社 (1965/08第6刷)
by office_kmoto | 2014-11-24 06:10 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

井上 靖 著 『桃李記』

d0331556_1018211.jpg 時たまこの本を読みたくなる。読み返すのはこれで三度目となる。この本は短篇集なのだが、特に『風』が読みたいのだ。
 次に描かれる場面が好きなのだ。
 父親が81歳で他界し、10年が経った時、兄弟姉妹で父親についての思い出を小冊子にしようという話になった。最初は父親について書けることがあると思っていた子供たちは、いざペンを取ると何も書けなかった。


 「この間、二、三日暇ができたんでペンを執ったんだが、どうも難しい。何か書かなければならぬが、なかなかたいへんだな。これが恩師だとか、友達だとかいうことになると、らくな気持ちで書けるんだが、親父となるとね。親父というものは不思議なものだな。親父が不思議ではなくて、親父と息子の関係が不思議なんだな。息子にとって、親父というものは何だろうね」
 弟は言った。
 「そう、確かに不思議なものであるだろうね」


 「大体、俺と父親に関する思い出の中で、いいものだけを拾って行くと、殆ど全部無言劇なんだ。俺も父親も話していない」

 「いいじゃないか、喋っていなくたって。- 忽ちにして壊れてしまうような、そんな関係だろう。父と子というものはね」

 私は父の葬儀のとき、父の横でその無言劇を一人でやっていたことを思い出す。


 -今になってはもう遅いですが、こういう会話を生前のお父さんと一度ぐらい交わしておくべきでしたね。
 -そりゃ、無理だよ。こういう会話を交わせないで別れていくのが親子というものなんだろう。
 -でも、もう亡くなってしまったんだから、今は言えるでしょう。何か言って下さい。私に言い遺しておくことはありませんか。
 -ないね。あるとすれば、ひとつだけだね。お前は若い若いと思っているだろうが、わしが居なくなると、次はお前の番だな。今まで衝立になって、死が見えないようにお前をかばっていたが、もうわしが居なくなったからね。まだ父親が生きているんだからというような考え方はもうできない。
 -気付いていますよ。見晴らしが利いて、死の海面までいやに風通しがよくなっています。
 -まだお母さんが半分、お前をかばっている。親というものは、そういう役割しかできないものだね。死んだ今になってみると、そういうことがよくわかる。そのほかでは、わしはお前のために何もしなかった。そういうことはお前の場合だって同じだ。お前が子供にしてやれることは、ある期間衝立になって死の海面を見せないように子供をかばってやることだけのことだ。


 この短篇集では私の母の晩年、死を描いた「雪の面」という小編もある。そこに、父とは違い、母のときはそんな一人で無言劇をしなかったことが書かれている。


 その夜も今夜と同じように机に向って夜の明けるのを待ったが、その時は私は子として父に語りかける言葉を、生前に交わすべきであって、ついに交わさなかった言葉を幾つか拾っていたものである。しかし、今の母の場合、そうしたことはなかった。母とは生前何もかも話しつくしてしまい、もう語るべき何ものも遺されていない感じであった。


 私は父と息子の関係、この父親が語ったような言葉が、今でも心に浸みる。私も父がいて、自分がその息子である関係が今でも続いているが、今も昔も父親とは殆ど会話しない。そして私には息子がいるが、やはり会話がほとんどない。別に両方とも親子関係がひどくこじれているわけではないのだが、顔をあわせても話すことがないのである。
 でも、それでもいい、と思っている。
 私の場合、母を亡くして、母が生きているんだから、という考えは確かにできなくなった。そして順番から言えばその次は父を失うことになるだろうから、この時以後は、両親が生きているから、という考えや思いはできなくなることになる。だから話をしない父親であっても、生きていてくれる分、まだ気持ちの上で“甘え”は半分持てることに感謝すべきなのだろう。
 そして自分の子供たちには、こんな父親でも「死の衝立」となって、子供たちを見守っているだけでも、生きている価値はまだあるのだな、と思えてくる。
 さらに先のことを考えれば、子供たちはどうなっていくんだろう、と様々な不安に駆られてしまうが(それは子供たちが成人してもそうだし)、それも親の役割かもしれない。

 さてこの短篇集を改めて読み直して、もう一篇気になった。「ダージリン」という作品である。
 この短編は私がインド北東部の避暑地ダージリンへ行ったことが契機となっている。そこは元M新聞の記者樫村蛍太郎が自殺したといわれている場所であった。私と樫村とはつきあいがあったわけではない。ただ一度だけ列車に同席し、それ列車が踏切事故で急停車したことがあった。その時樫村は「飛込みましたね」と言う。私は誰か轢かれた程度に思っていたので、その樫村の反応が強く心に残った。
 その樫村がダージリンで自殺したという記事が出た。樫村を知る誰しも樫村が自殺する人間ではないと思われていた。樫村という人間を調べてみると、アナーキスト、二重スパイ、白無垢鉄火、事件を起こしてニュースにしていた特派員、天成のバガボンド、虚無的なジャーナリスト、無節操に外国の出先機関に自分を売った男など言われていた。


 私と列車に同席した時、いきなり、飛び込みましたねという言葉を口から出した樫村であった。樫村は生まれつき自殺ということから切り離すことのできない宿命的な何ものかを持っていた人物ではなかったか。私は樫村に対してこのような見方をした。いかなることでも死によって処理できないことはない。死は生を食ってしまう。樫村はいつもそのようなデカダンスな思いを最後の切札として匿し持っていた特殊な人間ではなかったのか。そしてそういう見方をすれば、樫村の特派員としての派手な活躍も、異常で大胆な行動も、そして唐突な死というものの意味も解釈できないではなかった。


 私はこの霧深いダージリンを訪ねてみて、樫村が自分の持っていた「最後の切札として匿し持っていた」自殺という武器を行使したのではないか。、この霧の町において死と結びついてしまったのではないか、と思い始める。


 樫村は何かひどく打ちのめされるようなことがあって、疲れ果てた心と体をここに運んで来、そしてここで死にたくなって死んだのではないか。樫村がその性格にどんなに強靱なものを持っていようと、人間である以上心の折れることも、自ら死を選びたくなることもあるであろう。


 樫村はふいにこの寝台から身を起し、その瞬間、いっそ死のうかと思ったかもしれない。あるいは私と同じように、樫村は何回も寝台から降りて窓際に立つ。そして何回目かの時に、窓硝子一枚隔てて、その向うに立ち籠めている霧の層と顔を合わせながら、死んだららくになるだろうなと、そんな思いに捉われたかも知れない。


 彼が生前に為したたくさんの意味のないことの重さが、彼に意味のない死を選ばせたかも知れなかった。


 樫村がどんなに強靱なものを持っていようとも、誰でも人が生きる意味を失ったとき、心折れたときなど、樫村のような気持ちに陥ると思ったのである。それまで石にかじりついてでも生きたいと思っていても、ふとした瞬間、そう思うことがあるのではないか。それまでが必死だとなおさらかもしれない。逃げ場所がなくなってしまった人間が一瞬垣間見るものは、死の顔ではないか。その触媒というか、そういう気持ちにさせる雰囲気がそれを増長する。樫村はそれをダージリンという町で感じてしまったのだ。
 「死は生を食ってしまう」のだ。樫村はここで「食われてしまえ!」と思ってしまったかもしれない。


井上 靖 著 『桃李記』 新潮社(1974/09発売)
by office_kmoto | 2014-11-21 10:19 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

小泉 孝一 著 『出版人に聞く15 鈴木書店の成長と衰退』

d0331556_6134323.jpg 今は神保町の裏側は再開発されて、今風のオフィスビル街になっているが、それ以前は本の中小の問屋さんが集まる、通称“神田村”と呼んでいた。各々の問屋さんは自分の強みのある出版社が決まっていて、新潮社なら安達図書、三和図書、文藝春秋社の本なら、やはり安達図書、新聞社関係の出版物は弘誠堂、小学館や集英社の本なら太洋社、ビジネス書なら明文図書、日新堂とか仕入れる本によって行く問屋が決まっていた。私がいた小さな書店では、日販が新刊をくれないこともあるし、客注を出しても、なかなか入荷しないという事情があったので、新刊、客注などは神田村で現金で買ってきたものだった。
 幸いこれらの問屋はまとまっていたので、自転車で回って仕入れが出来た。ただ鈴木書店だけは靖国通りを渡らないとならなかった。
 鈴木書店は岩波書店、未来社、白水社、みすず書房などいわゆる人文科学系の出版社の本をメインとして扱っており、そのほか左翼系の出版社やあまり知られていない出版社の本など扱っていた。そして在庫は少なかったけれど地方の出版社本も扱っていた。おそらく扱っている出版社はきっと神田村一じゃなかったかと思う。
 その店売は二軒つながっており、お目当ての本を探すのは結構大変だった。各階の入り口に地図があり、出版社がアイウエオ順にあり、何階の何番の棚とそれを見てから本を探す。棚だって1本の棚に数社の出版社の本が詰められていた。それこそ“迷路”のような感じで、階段を上り下りし、各階にある棚からお目当ての本を探していく。
 しかしだからこそ面白く、知らない出版社の本を、棚を見て面白そうだと思うと、自分のために本を仕入れたことも度々あった。
 鈴木書店の仕入部に井狩春男という人がいて、手書きで「日刊まるすニュース」という新刊ニュースを書いていた。まるすというのは業界用語で、カタカナの「ス」をまるで囲んで鈴木書店を表していた。
 新刊ニュースといってもちょっと変わった本ばかり紹介していた。この人には『返品のない月曜日』など著作もある。
 さて、その鈴木書店である。この本は鈴木書店がどのように生まれ、繁栄していき、そして倒産していったか、鈴木書店が創業されて間もないころ入社し、社長の鈴木真一が亡くなってから追い出された格好となった小泉孝一という人のインタビューを元に書かれている。
 ただ残念なことに、小泉さんから当時の鈴木書店の話を全面的に聞き出せていない。インタビューする側が下手なのだ。本来なら相手の話を上手く聞き出す役柄なのに、とにかく自分の意見を言いたがり、肝心の小泉さんの話がかすんでしまっている。私としては当時現場で働いていた人の意見を生でもっと聞きたかった。その声から鈴木書店がなぜ倒産していったのか、聞きたかった。
 この本によると創業者の鈴木真一は昭和2年に栗田書店(現在の栗田出版販売)に入社した。戦争へ召集され、復員後昭和22年に鈴木書店を創業する。
 栗田が岩波書店の出版物を扱うことで成長して行ったのを引き継ぎ、鈴木書店のメインの取引出版社も岩波書店であった。
 鈴木真一は、人間というものはやっぱり学問をしなければいけない。だからそれに関わる本、良心的な出版社の本を普及させ、売らないとだめで、それが自分の仕事だという強い信念を持っていたという。
 その取り扱い商品から定価の高い単行本中心に、大型書店や大学生協が取引のメインであった。だから本が売れていた時代は鈴木書店は成長していった。
 しかし鈴木書店の斜陽は、まず会社に労働組合が出来たことから体質が変わってくる。それまでは外向き、上向きで出版業界のことを考えながら仕事をしていたのに、労働組合が出来てからはすごく内向き、下向きになってしまったという。
 さらに出版社の重版をベースにして、取次として鈴木書店が成り立っていたものが出版界全体で売れなくなってきた。


 ところが重版やロングセラー商品の売れ行きが落ちてきて、それをカバーするために出版社は新刊点数を多く出すようになってきた。それこそ筑摩のように文庫や新書を創刊するところも出てきた。その結果、新刊点数も増え、また単価の安いものが増えてきた。重版やロングセラーは客注や常備品に近いものだからほとんど返品にならなかったが、新刊は当たり外れが極端だから返品率がどうしても高くなってしまう。そういう新刊ラッシュ状況の中に鈴木書店も完全に巻きこまれてしまった。


 鈴木書店の場合、従来の全体の返品率は13.4%だった。それはひとえに短冊注文が多かったからで、新刊だと20%を超えていたいたが、それが30%を上回るようになってしまった。その原因をチェックしてみると、軽薄短小の本を出す出版社が増えてきたことで、それが新刊の返品率の上昇につながってしまった。


 このように現在につながる文庫化、新書化が進んでいくことになるが、それは一冊の流通コストは変わらないから、利益が出ないという悪循環に陥っていくのである。
 さらに追い打ちをかけるのが書店の閉店が続くことである。当然取引先が減少するわけだから、それが与えた影響は取次はダイレクトに受けることとなる。
 さらに当時郊外に大型書店がどんどん出来た。それらの書店は複合型書店で、メインが雑誌、コミック、レンタルで、本の方はサブになってしまった。専門書など必要ない。 もともと日本の出版は雑誌の上に書籍が乗っている特殊構造だから書店というよりも雑誌店の色彩が色濃く、それが郊外店化でさらに顕著となる。そのため鈴木書店と帳合を開いても新規出店が出来なから、東、日販のどちらかと帳合を持ち、鈴木書店が補助的な形でしか取引がなかった。そこへ持ってきて東、日販は統一正味と歩戻し、運賃負担など取引条件を専門取次より優位に進めていく。
 立場が悪化した鈴木書店は毎年赤字が続き、累積していく。それでいてそうした現実を直視してこなかった。
 ここにあるのは出版社がつくる本が売れるものがあれば、業績は回復するという他力本願でしかなかった。
 これは鈴木書店のような取次だけでなく、書店にも当てはまることであった。あの当時売れるものさえ出れば、ベストセラーが続けて出れば、何とか持ちこたえることが出来ると私たちも思っていた。だってそうした本は出版社作るのだから、すべては出版社次第だとしか考えられなかったのである。
 ここには鈴木書店の全員が本を売ることは得意としてきたが、いわゆる経営のことなどは身に沁みるほど分かっていなかった、と書かれているが、それは書店でも同様であった。だからどんどん本屋は潰れていったのである。


 鈴木書店が倒産して十年が過ぎ、この十年間で日本の出版業界はかつてない出版危機の中に追いやられてしまった。それが鈴木書店の倒産後に顕著になった出版業界の状況ですから、鈴木書店の倒産は象徴的な出来事だったと考えていいでしょう。


 と書かれているが、これまでの出版業界の鈴木書店の位置を見てくると、まさしくその通りだと思えてくる。


小泉 孝一 著 『出版人に聞く15 鈴木書店の成長と衰退』 論創社(2014/09発売)
by office_kmoto | 2014-11-17 06:15 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

平成26年11月日録(上旬)

11月某日 はれ

 我が家はデザイナーハウスといったほど洒落た家ではないが、それでも近所の工務店の社長の知り合いのデザイナーが家の設計をした。確かに作りはお洒落なのだが、デザイン重視で、使い勝手が悪い。特に収納場所が少ないことが問題で、今日は一階のその数少ない押し入れの整理をする。
 ここは義父と義母が使っていたのだが、まずは座布団が7枚ほどありこれが場所を占有していた。
 歳を取ると床や畳に座りこんでしまうと立ち上がるのが少しずつ難儀になりつつあるから、椅子に座って生活する方が圧倒的に多くなってきている。そのため座布団が要らない。来客があっても座布団に座ってもらうよりも、やはり椅子に座ってもらう方が多い。ということでこれを粗大ゴミとして出してしまうことにする。
 それと押し入れに多くあったのは、バスタオルとか敷布、あるいは布団カバー等、何と45リットルのゴミ袋に8つほど出てくる。これは昔の結婚式の引き出物としてもらったやつと思われる。当時はこれが定番だったのだ。しかし長いこと使わず押し入れに詰め込まれていたものばかりなので、処分することにした。これで押し入れが広く使えるようになった。


11月某日 くもり

 井上靖さんの『桃李記』を読み終える。続いて永井龍男さんの随筆『わが切抜帖より』を読み始める。井上さんの本は昭和49年発行、40年前のことだ。本の装画は東山魁夷がしている。その絵を本の表紙に使っている。A5版の箱入り。
 そして永井さんの本は昭和43年発行、これも46年前の本だ。表紙に和紙が貼られているようで、手ざわりが心地よい。これも箱入りだ。永井さんの本を並べてみるとその重厚感と落ち着きにほれぼれしてしまう。
 この当時の大御所の本は凝っている。本の造りもしっかりしていて、紙質も厚手のいいものを使っているからか、今流通している本より重く感じる。
 井上さんの本も永井さんの本も取り出して読み始めるとき、本に紙のカバーを掛けずに読んでいる。そもそも表紙もごてごてしていないし、厚手に造られているから、その必要がない。むしろ直にその造りを手で感じて読むほうが気持ちいい。
 やっぱり本はこうであるべきだ、と思う。本自体が作品になっている。それを味わえるのはうれしい。こういう本はもう古本でしか味わえないのかもしれない。いずれも古本として手に入れた本である。


11月某日 はれ

 永井龍男さんの本は一時置いといて、高見順さんの詩集『死の淵より』を読み直した。


11月某日 くもり

 今日は先週出した押し入れの不要物をゴミとして出す。全部をいっぺんに出すと近所に迷惑なので小出しにする。座布団は粗大ゴミとして、今日持っていってもらった。
 そして今日は物置に置いてある使えないパソコン、液晶モニター等も処分しようと思い、テレビのコマーシャルで見た「パソコン回収.com」に電話を入れる。来週の月曜日に取りに来てくれることなった。使わなくなった古いパソコンの処分は本当に厄介だ。
 ゴミにしてもパソコンにしてもこうして回収してくれるのは、考えてみると有り難い。

 散歩がてら図書館に本を返しに行く。その後今週末孫が遊びに来るので、今年も一緒にチューリップを植えようと話してある。そのための準備をする。


11月某日 はれ

d0331556_622260.jpg 永井龍男さんの『わが切抜帖より』(講談社 1968/2発売)を読み終える。前回の永井さんの本もそうであったけれど、永井さんは気になった新聞や雑誌の記事をこまめに切り取っておくようで、それも長い間続けてきた結果、こうした随筆の題材として提供している。こうして集めておくと面白い話題になるようだ。
 そういえばスクラップってやらなくなったなあ、と思う。昔はスクラップブックを買ってきて、新聞の切り抜きを貼り付けたりした。しかしたいがいは続かない。数ページ貼り付けた記事があるが、あとは空白のままになってしまう。切り抜いて、糊で貼り付けるって結構面倒である。
 最近はインターネットで得た情報など、コピッペが簡単にできるから余計にこうしたことから遠ざかっている。唯一やるのが、今漱石の『三四郎』が当時の雰囲気を残したまま掲載されているので、朝日新聞からもらった専用のノートに貼り付ける程度。それもまとめて一週間分、金曜日にまとめてやる。
 さて永井さんの本のことだ。「月の表面」という随筆で次のようにあった。


 新家庭を持つ、子供が生れるとなるといよいよカメラが活躍をはじめる。カラーフィルムも、素人にどんどん撮れるので、アルバムは何冊あっても足らない。
 その上八ミリだ、十六ミリだと手がのびて、子供の成長の過程なぞ正確な記憶が残る訳だから、将来の人々は、われわれが幼年期や少年期を振り返って、おぼろげな記憶の中から、なにかを求めるようなことは、もうじきなくなるかも知れない。


 まさに今はその通りになっている。子供の昔の記録がありのまま残される。ちょっと前まではビデオテープが媒体だったので、テープが伸びてしまったり、劣化して切れてしまったりして見ることができなくなることもあった。でもそれが良かったのかもしれない。映像を見られなくなっても、記憶を楽しめる。
 しかし今はファイルとして残されるので、簡単にコピーができる。だからバックアップも簡単で、いくつもの媒体に残すことができ、永井さんの言う通り、「おぼろげな記憶」を楽しむことができない。ときにその子供が成長し結婚するとなると、その結婚式で自分たちの子供の頃のビデオを流す始末だ。(結婚式場合、余興であり、親に当時を思い出させ、涙を流させる演出であろうが)
 私は「おぼろげな記憶」は曖昧なところがあるからこそ、“ああであった。こうだったたのではないか”と思いだし、楽しめるのではないか。その曖昧さがいいのである。それをリアルに再現されてしまうと、逃げ場がないほどその事実を突きつけられるので、苦笑ですまないところも出てきてしまうのではないか、思ったりする。
 私も今は孫の日々の記録をビデオで見ているけれど、それだっていつまでも見られるものじゃないだろうし、当の本人が成長してからも、そんなビデオを見られたんじゃたまらないだろうから、そのうち見なくなるだろう。だいたい本人がビデオに撮られること自体嫌がるはずである。またそうでないと困る。


11月某日 くもり

 肌寒い一日だったので、予定していたチューリップの球根を植える作業は中止。後日にすることに。
 かねてから妻と相談していたクリスマスツリーを孫のために買う。今はツリーもLEDが主流になっていることに少々驚く。


11月某日はれのちくもり

 「パソコン回収.com」がパソコンを回収に来るため、物置の奥にしまい込んであった使わなくなったパソコンを引っ張り出す。ついでに物置の整理と掃除をする。パソコンがなくなるだけでも、だいぶ整理できる。
 午後「パソコン回収.com」の人が回収に来てくれた。パソコン本体や液晶モニターなど周辺機器を処分してもらった。本来なら処分するにはお金がかかるのだが、今回はすべて無料だ。
 リサイクルを促進させるためには費用が必要なことかもしれないが、何せ古いパソコンを処分するのに手間がかかる。だからこうして回収しに来てくれ、しかも無料となれば有り難い。
d0331556_6232262.jpg リサイクルといえば、「本の雑誌」の2014年8月号の特集ブックオフでお宝探し!を読む。私はブックオフをかなり利用する方だが、最近のブックオフは本当につまらなくなったと思う。この特集にある“お宝”などほとんど見つかったことがない。
 私がよく行くブックオフは二軒あるのだが、いずれも入口近くにあった文芸書を奥に引っ込め、ビジネス書や実用書を持ってきている。この特集を読んで、これらの本が回転率がいいらしいから、そのようにしているのだろうか?
 まあ新刊本が売れない時代だから、古本に出回る本も大したものが出てこないし、出てくるものはその手の本ばかりなのだろう。
 それに最近よく目にする“ビームセドリ”が、小笠原沖で中国の漁船が根こそぎサンゴを取ってしまうように、お宝をさらっていくのだ。その後は無残なものである。
 これを最初見たとき、何なのだろう?、と思ったが、スマホと連動したバーコードリーダーで、アマゾンの中古価格を参照できるらしい。つまりブックオフの棚にある本をバーコードリーダーで次から次へと読ませ、アマゾンの中古価格が高い本を探すのだ。要するにここで仕入れをしている。
 実はこの特集を読みたいと思ったのはビームセドリのことが書いてあるからだ。このビームセドラー(ビームセドリをする人間)がどのように本をさばいているのか知りたかった。
 それによると、ブックオフで安く買い入れ、高く売れそうな本は、そのままアマゾンの倉庫に送ってしまうという。アマゾンにはFBA方式というのがあって、こうしてブックオフで仕入れられた本をアマゾンで売り、売れたらたらアマゾンが発送してくれるという。これだとアマゾンへ本を送る送料、アマゾンに支払う在庫管理、配送代行、販売手数料さえ払えば、自ら古本屋ができるというわけだ。ちょっとした副業にはもってこいだ。古本の知識がなくても、ビームセドリが商売できる本を教えてくれるし、店を持たなくてもアマゾンがすべて代行してくれる。
 まったくアマゾンというやつはここまでするか、と思ってしまう。
 ブックオフでは最近このビームセドリを禁止しているところも出てきているという。さもありなん。このままこんな輩をのさばらせていると、お店が枯れ、いずれ一般客が来なくなる。実際つまらなくなっているし・・・・。


11月某日 くもり

 義理の妹が網膜裂孔だという。3年前娘が網膜剥離で手術を受けた。家系的にこうしたことが遺伝しているのか、と思ってしまう。義理の妹は来月手術をするという。
 そのため、また新井薬師へ妻と二人で出かけ、お参りと、お守りをもらいに行く。まさかまたここに来るとは思わなかった。西武新宿線の新井薬師前駅まで行き、参道を歩く。妻はこの参道の商店街が昭和の匂いを残していることに驚いていた。確かにそうなのだが、でも懐かしくもあることは事実である。
 お守りは義理の妹の分だけでなく、自分たち二人ももらうことにした。二人とも歳をとって、老眼が進んでいるし、これから先眼の病気になるかもしれないなど思ったので、お守りを持つことにしたのだ。
 帰りは高田馬場から山手線外回りで、途中京浜東北線の快速に乗り換え秋葉原に出る。山手線外回りになんて乗るのは本当に久しぶりだ。
 この後上野で山手線に陸橋からゴミ袋投げ込んだやつがいて電車が止まったという。後でこのことをニュースで知ったのだが、我々が乗っていたいた時刻のちょっと後のことだったようである。つまらぬことに巻きこまれずにすんだようだ。


11月某日 はれ

 ここのところ天気がはっきりしない日が続いていたからか、私の気分もすっきしない日々が続いている。いつも雑念が湧いてしまい、落ち着いて本が読めずにいた。なので今日は意識して本を読む!ということにした。本はここのところ気に入っている佐伯一麦さんの『渡良瀬』を読む。
 久々に天気が一日良かったので、障子をあけて陽の光を部屋にいっぱいに入れて、その中で読んだ。本のページに当たる陽の光のなかで、隣の雑木林の木々が風で揺れているのがその影でわかる。ちょっといい感じであった。


11月某日 はれ

 佐伯一麦さんの『渡良瀬』を読み終える。午後から妻と胃腸科のクリニックへ行く。ネットで図書館で借りる本3冊を予約する。


11月某日 はれ

d0331556_6242528.jpg 佐伯一麦さんの『まぼろしの夏 その他』(講談社 2000/09発売)を読む。私にとって佐伯さんの初めての短篇集である。9篇の短編の内「野蒜」が心に残った。主人公が故郷に帰ってきて、医者である高校の友人との交友を描いたものである。
 話は待ち合わせて主人公が友人と飲むため待ち合わせをしているところからはじまる。友人は主人公の主治医となって主人公の喘息と鬱病の治療受け持っていた。痛風の疑いも出て来ていたので、節制をするよう指導し、その効果出てきているので、たまには気晴らしに飲もうとなったのである。
 そんな一情景から高校時代、友人を山学校(この辺の言葉で学校をサボること)に誘い、野生の野蒜とビールを飲んだこと。寮で一緒に試験勉強をしていたが、そのうち酒を飲み始め、騒いだこと。友人が大学時代、主人公のアパートを訪ねてきたこと。主人公の小説が賞を取り、読んでみたがまったく理解できなかったことなど思い出話が語られる。ただそれだけなのだが、それがなんか、長いつきあいを語っていて、読んでいて心地良かったのである。
 「まぼろしの夏」は自殺未遂をおこした主人公とミホの話だが、これまで読んできた佐伯さん長編の中にあった話の一部をズームアップした話だと思った。そのミホが言った言葉が心に残る。


 「でも、人間て生きる力が強い人と弱い人がいるんじゃないかな」
by office_kmoto | 2014-11-16 06:28 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

永井 龍男 著 『カレンダーの余白』

 この本は49年前の本である。当時の定価が580円となっている。この当時の本は装幀がしっかりしている。
 ここのところ永井龍男さんのいわゆる「雑文集」を集めているのだが、いずれも箱入りのしっかりしたもので、こうして並べてみると見栄えがする。

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 今の本は装幀がつまらない。棚に並んだ本を見ていても、最近の本は貧相である。原価計算上仕方がないのかもしれないが、ちょっとつまらない。かといって高い本を買わされるのも困ることは困るのだが。

d0331556_17334771.jpg さて、この本のことである。内容はだいたい昭和30年代に書かれた随筆である。内容にはまだ戦後感が残っていて、表現も今ではあまり使わなくなった言葉が使われていたりして、戸惑う部分があるけれど、話そのものは色あせていない。むしろ永井さんの苛立った感じが、くすりと笑ってしまうところもあって、なかなか面白かった。
 話はおもに新聞の記事から、身辺雑記となっている。いくつも気になる文言があるのだが、面白かったのは「天気予報」と「甘すぎる」に続く「ベーコン再び」で、「雑木林他」はその話自体“うまいなあ”と感心してしまったのである。
 まずは「天気予報」という題された文章。


 ちょうど夕食の時間に当たるせいもあるが、私はNHKテレビの天気予報が好きで、家にいる時はたいてい見落とさない。


 というのではじまる。そして、


 天気予報が好きだというには、少しおかしな云い方で、正確には天気予報を担当するこれらの人がを、気楽に眺めているのが、いつの間にか私の楽しみになってきたのだ。明日の天気が気になって、スイッチをひねることもないではないが、毎日のように画面に出てきながら、テレビの空気に染まらない素顔の人間、そういう処が私を惹くのであろう。その上、天気予報は一切無色だから、素直に聞いてられることもある。


 これ、今まで私が感じていたことなのだ。実を言うと私も天気予報を見るのが好きなのである。もともとは仕事柄天気が気になって、テレビの天気予報を注意深く見ていたことにはじまる。
 本屋にいた頃、売上が天気に左右されるからである。いくら売れ筋の雑誌の発売日であっても、その日に雨が降ってしまうと、客足が伸びない。だから天気が気になった。天候によって、忙しさが違ってくるからである。そして私は外商もやっていた。雨の中の本の配達は大変なので、その覚悟をするために天気予報を見ていた。つまり天気によって仕事の仕方が変わってくるから、天気予報はどうしても気にならざるを得ないのである。
 本屋を辞めても天気予報はいつも見ていたし、仕事を辞めた今でも天気予報は朝、昼、晩、と見ているので、その習性が未だに抜けずにいる。
 でこれほど天気予報を見ていると、各チャンネルごとに、今は担当の気象予報士がいる。例えば、NHKなら平井さん、佐藤さん、斎田さんと好みの気象予報士がいるし、日テレなら木原さん、TBSなら森田さんや森さん、テレ朝なら依田さん、と“お気に入り”の気象予報士が私にはある。
 この中で最古参といえば、たぶん森田さんだろうと思われるが、私はこの人が好きなのである。好きと言っても解説ではない。相手の女子アナとかみ合わない森田さんの話しぶりが何とも言えないのである。森田さんが自分勝手に話を進め、相手のアナウンサーが困ってしまったり、何とか話を合わせようとするとき、ちょっと間が開いちゃったりする。そんなやりとりが好きなのである。まさしく「テレビの空気に染まらない素顔の人間」を地で行っている。時にはちょっとハラハラしてテレビを見ている。
 それに最近の天気予報は単に天気のことでなく、二十四節季の話など、その季節の風景や風物詩なども教えてくれるので、季節を感じることが難しくなった都会生活者にとって天気予報が季節を感じさせてくれ、ついつい見てしまうのである。

 「あますぎる」では新聞の家庭欄にあった風変わりの記事から書かれている。その記事の内容は、新婚早々自殺した妻の話で、自殺の原因が、夫から「ベーコンの料理」が食べたいと言われ、新妻がベーコンを知らなかったことで料理ができずに自殺してしまったということらしい。新妻は北海道の辺地の農家出身という。
 私は北海道の辺地の農家出身ならベーコンぐらい知っているのではないか、と突っ込みたくなってしまうのだが、まあいい。とにかく妻はベーコンを知らないので、それを使った都会料理ができない。そのため夫の希望に沿えないのを悲観して自殺してしまった、ということらしい。
 で、その記事に解説があって永井さんはその解説のあり方が紋切り型の解説しかできないことを怒っているのである。解説には次のようにあったそうだ。


 「食事が婚姻生活にとって、この上なく重大なそして最も現実的な問題の一つであることを、結婚するまで彼女はほとんど考えたことがなかった。まわりの人たちも教えなかった。不幸はまず第一にそこからやってきた」

 「そこで、この不幸に追い込んだものは、彼女の大都会についての無知、あるいは思いつちがいということになる。おおぜい人がウジャウジャいるのに、親身になって話し合える人はひとりもいない孤独」


 と解説者は「悲しい」、「いじらしい」と語っていたという。
 こういう輩、今でもたくさんいる。永井さんはこの解説者の言い分を呆れた形で批判している。
 そうしたら不審感をあらわにする読者(これは雑誌「家庭画報」に載った話)が多くいて、仕方なしに「ベーコンふたたび」と、再度この件で永井さんは自分の立場を表明する。妻はベーコンについて、なぜ夫に質問できなかったか?ということである。「ベーコンに就いて、自分の夫に質問出来ないような結婚そのものが、この若妻を殺したのである」と。


 死者に対しては申訳ないが、私はそう解釈する他ありません。
 だいたいこの頃の世の中は、なにかあるごとに政府が悪かったり社会施設が悪かったり、大都会が悪かったり環境が悪かったり、なにもかも周囲のせいにしたがる傾向が強うようです。 
 政府の悪い処も、大都会の悪い処も、もちろんあります。しかし、そのように周囲のせいにしてばかりいてよいものでしょうか。
 この「ベーコン自殺事件」に、政府や社会施設との関連はありませんが、周りのせいにしたがる解説者の甘い考え方は、軌を一にしていると思います。「君たちのせいじゃあない。みんな世の中が悪いんだ」
 と、ご機嫌を取る批評家や評論家が、少し多過ぎると思いませんか?


  まさしくその通りで、この文章は昭和36年に書かれたものだが、今でもテレビのコメンテーターなる輩は同じ内容の話をするので、50年以上経った今でもなんら変わってはいないと思ったりした。
 私はテレビをちょっと見すぎているかもしれない。この本には「切るたのしみ」という随筆もあり、テレビのスイッチを切る楽しみ書かれているが、こんな時、まさしく同じ気分になる。


 あまり愚劣な時は、
 「馬鹿が・・・・・・」
 と舌打ちしながら切る。馬鹿は当方だが、気分はさっぱりする。


 身辺即時という章の「杉林そのほか」という文章はなかなかいい。
 永井さんには二人の娘さんがいるようで、その二人の娘さんが一人嫁ぎ、二人嫁ぎ、永井さん夫婦だけになってしまった時の一風景が、その様子がうまく書かれている。


 この頃、家の中にいる筈の妻を、探して歩くことが再三重なる。
 別に広い家ではない。ちっぽけな一軒家だが、二階の仕事部屋を降りて、茶の間に妻の姿が見えぬと、急に夫婦二人だけになった生活の中で、私は途惑うのである。
 納戸や台所をのぞいて、すぐつかまえられればことはすむが、何々の切り抜きはどこにあるかとか、熱い番茶が欲しいとかの用件を口先に、三室か四室の階下をまわって歩かなければならない。
 探している自分が後ろから妻に呼びかけられるようなこともある。夕刊を取り、門口まで出たとか、洗濯物を取り込んでいたとか、たいていそんなことなのだ。
 隠れんぼをしているようなものだが、家中探して会えない時は、締め切った女中部屋に声をかけるのもなんとなく気詰まりで、廊下のガラス越しにぼんやり庭を眺め、もとの二階へ戻るより他はない。


 子供たちが家にいなくなると、ふとしたことで妻の姿が目にする。
 長女が結婚し、奥様は心ここにあらず、ぼんやりと過ごしているのを見た永井さんは長女のところに行きたいんだな、と言ってみる。


 すると妻は、とたんに涙をこぼした。とても大粒の涙を、こしらえた物のように続けて落とし、それから、
 「・・・・・へへ」
 と辛うじて笑い声に出した。
 それがきっかけで、鎌倉から一時間足らずの東京にも、めったに一人で出かけぬ妻が、大阪まで一人旅をすることになった。下の娘を支度の助手にして、にわかに修学旅行をするような賑やかさになった。
 永井さんの友人が亡くなり、永井さんが弔辞を読むことになり、葬式には奥様が代わりに出席することになった。


 出がけの挨拶を、縁先きから妻は云ったようにも思うし、聞かなかったような気もして、私は門の見える処まで歩を運んだ。
 ちょうど繰り戸をあけて、家を出て行く処だった。
 門を出てから、少し坂を上り、自動車の待っている表通りまで歩かなければならない。その後ろ姿を、私は何の気もなく見送っていた。すると妻は、坂を登り切った処から、急に小走り駆け出した。
 表通りに、車が待っているのが分かったからに違いないのだが、それが私には無性に可笑しかった。
 妻と私が一しょに外出する場合、妻の身支度や出かける先に立っての用事なぞで、必ず苛立つのが多年の例である。私が気短かなのは分かっているが、妻の気の長いのも事実である。私が急ぎ立てなければ、なにごとも間に合いはしない。たいていの場合私が車に先に乗りして、行ってしまうぞという形を見せるのである。
 しかしいまは、ひとりで逗子まで行くのである。車は待っていても、あわてる必要はさらにないのに、あのように小走りに駆けている。
 長年の慣いが、このような姿に自然に出るものかと思って、私はひとりで笑いをもらしたのだが、その後ろ姿が視野から去ると、私の笑いはある寂しさに変っていた。それは、妻をねぎらいたい気持ちのようでもあり、おのれの性質を恥じる気持ちのようでもあり、またある訣別に通じるような枯れた孤独感でもあった。


 このように妻が普段見せない姿を目にしたとき、驚きを感じるのと同時に滑稽さを感じてしまうのかもしれない。そしてその妻の行動は自分との長い生活中で生まれたものであると思うと、永井さんではないがその思いがよくわかる。
 たぶん私も意識しないところで自分の考え方など妻に強要してしまっていることがあるのではないか。それが妻を変えたかもしれないと思うと、の滑稽さは自分を見ているように思えるし、同時に寂しさにもつながる。その間長い年月が流れてもいる。だからその瞬間妻を労いたくもなる。この文章はそういった意味で心に浸みる。


永井 龍男 著 『カレンダーの余白』 講談社(1965年/11発売)
by office_kmoto | 2014-11-12 11:03 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

田口 久美子 著 『書店不屈宣言―わたしたちはへこたれない』

d0331556_5785.jpg この本は著者が勤務するジュンク堂書店、ジュンク堂と経営統合した丸善丸の内本店の社員、著者が1976年からほぼ20年勤務したリブロの池袋本店社員等、著者の知り合いからインタビューし、最近の書店事情、出版事情を書いた本である。

 「いいですね、田口さん。定年を無事に迎えられて、私たちのときに書店はあるのでしょうか、私たちの働く場所はあるのでしょうか」


 これは著者の後輩が言った言葉である。
 アマゾンが日本に上陸した2000年11月から、本は書店へ行って買わなくてもいい、という読者が急速に増えてきた。そのことが書店員にとっての「約束の地」が、「そうでない」と少しずつ明らかになり、去年まで来てくれたお客がいつのまにか来なくなっている。その去年も、一昨年に比べて減少している、そんな減少がもう何年も続き、未だにそれがとまらない。
 先の書店員の言葉はそうした不安が言わせている。ではその不安とはどこから来たのだろう。それはインターネットである。インターネットが本や雑誌の存在意味を空虚にし、その買い方を変えて行っているのである。インターネットがグローバル化を促進し、「直接性、効率性、スピード性、そしてダンピング化に傾いた世の中」にしていく。そのため読者の価値観もそれに引きずられ大きく変わり、社会も変わってきてしまっている。本や雑誌を買わなくても、情報がインターネットから取得できる。だから本や雑誌が売れなくなってきている。長い出版不況が続いている。
 1996年の出版業界の総売上が2兆6,563億円あったものが、2013年は1兆6,823億円となっている。7年間で失われた額が1兆円となっている。それはユニクロの売上高が1兆円を超え(2013年8月期)とほぼ同じだ。それが現在も続いており、全出版物の売上衰退はとどまるところを知らない。
 ちなみにアマゾンがも日本における総売上額で7,300億円(2012年)を軽く超えているという。
 これが現実である。そしてここでは触れらていないが(どうしてなのかわからない。この本の後半には町の本屋さん存在価値にふれているのに)、1999年に2万件以上あった書店は、2013年には約1万4000件まで減少。この14年で約8000件の本屋が町から姿を消したという。これはネット書店が普及する以前からこの傾向があった。書店の寡占化、チェーン化による大書店の出現がそうさせていた。
 街の本屋さんがなくなるとどういうことになるかといえば、それまで街にあった本屋さんが“面”として読者を繋ぎとめていたのだが、それがなくなり大書店が“点”としてしか読者を繋ぎとめられず、書店から読者に本を渡す機能を大書店が果たしていないことに問題がある。本を買うのにわざわざ電車に乗って買いに行かないとならなくなったのである。
 さらにかろうじて生き残った街の本屋さんには新刊がないという現実が、それに輪をかける。つまりアマゾンがどんどん売上げを伸していくのは、それまであった日本の書店業界の傾向がいい素地を作ってくれたことによる。自分の街に本屋さんがなく、あっても欲しい本がないなら、ネットで買えば便利じゃないか、ということである。
 ここで面白いことが書かれている。
 何年か前では本好きのお客の反応が手に取るようにわかったが、最近はその反応が鈍いという。本好きのお客が待っていた新刊の発売日に書店に来ても手に入らないことが多いからか、本好きのお客はアマゾンでどんどん本を買っているという。


 私たちはこういう大切な「マニア・学問の人」、つまり日常的に本が周辺にあるひと、を新興ネット書店・アマゾンに奪われているわけだ。だが、そのお客さんにとってはまことに便利な時代になったのだろう、書店員として認めるのは悲しいけれど。


 アマゾンヘビーユーザーは「本好きのお客」、「マニア・学問の人」なのである。逆に本にそんなに詳しくない人たちはアマゾンを利用しない。だから書店の棚はそんなお客をターゲットにした標準的な品揃えになってしまうという。


 ただ私も思うのだが、アマゾンでの必要買いが果たして本来の本の買い方なのだろうか?


 「たくさんのものを持つのがカッコよかった時代から、持たないほうがスマートな時代に変わっていっているんですよ。田口さん。無駄な買い物はしたくないんですよ。だから無駄な買い物をしないですむネット書店が流行っているんです」

 
 本の買い方がいつでも目的買いであり、必要のない本や雑誌以外買わないというものだけではないだろう。それだと楽しみがない。効率とか、即効性とか、実用性とか、そんなものを求めて、そのために本を買うのも結構だけれど、それだと本を選ぶ楽しみがない。本は“選ぶ”ことに面白みがある。だから本屋さんが必要なのだ。本屋さんで本を選ぶことは“遊び”である。
 時につまらぬ本を手にしてしまうこともあるだろう。でもいつもいつも面白い本などあるわけがない。むしろつまらぬ本の方が多い気がする。それは無駄と言えば無駄かも知れない。効率が悪いと言われるかも知れない。
 ただその時は無駄だと思っても、それを知ったことと知らなかったことには雲泥の差がある。いつか役に立つなんて思わない方がいい。そういう打算的なものではない。気がつけばふと、そうかもしれない、と思う程度である。それでもその発見が、多分人生を面白くするような気がする。
 よく“本は人生を豊かにする”とか言われるけど、そうかもしれないが、仮にそうだとしたら、無駄が人生を豊かにしていると言えそうである。いずれにせよ無駄は無駄できっとどこかでその人ののりしろを大きくするような気がする。本から人生の機微を知るのも楽しいものだ。


 けれども、私は思う。「必要な本」を買うのに便利なアマゾンでの、読者向けサービスに抜け目のないアマゾンでの、つまり「効率的な買い方」が日常生活に入り込んでくると、選書に失敗するという遊びがなくなり、本の選び方が痩せてくるのではないか?いやいや、無駄な買い物をしないのが現代人の生き方、と多くの人がいうのだが、「文化」というものは無駄と無理の果てにあるもの、と私は無謀にも考えている。実は本心では無謀でさえない、と思っている。


 インターネットが変えた「効率的な本の買い方」が、本を手に入れる歳の「物語」を失わせている、それがボディブローのように効いている、と私は頑固に信じている。本はそれを手に入れ、読んだ時の状況が、ひとの記憶に影響を及ぼす道具なのだ、とまで信じている。


 本はかたちがあってこそ本だ。本は紙とインクでできたモノなのだ。著者にはじまり、さまざまな業態のいろいろな人の手を通して読者に渡るのが本だ。その流れの最後の場所に私たち書店員がいる。それらの「本」をふさわしい居場所に置き、読者に見つけてもらい、手渡しする場として機能したい、と私たちは願っている。


 最近は売上低迷のなか著しく不調なのが雑誌と聞く。その影響はまさしくインターネットだろう、と思われる。しかしここでは雑誌が本来持っている“器”が書かれていてそれが興味深かった。
 書店員曰く、媒体としてのスピードとして雑誌はテレビ、ラジオ、新聞の次であった。ただテレビなどの媒体として遅い分、雑誌は新しい情報が整理されて提供される場であった。
 しかし今は情報の価値がスピードに求められるために、インターネットやツイッター、SNSに押しまくられている。ただもともと人間のスピードはゆっくりで、感覚や感性はあの速さについていけないのではないか。だからすぐ忘れてしまう。


 「そこへいくと雑誌は単に<整理された情報>だけでなくて、<寄り道ができる情報、ムダが詰まっているように見えるけれど、そのムダが実はあとで効く、みたいな、手間がかかった分だけ実のつまった情報が載せられている器>が雑誌だと思うんです」


 確かに雑誌は特集記事だけに限らず、それ以外にも様々なニュースや情報(それこそ色んな分野に及ぶ)、連載等々、関心事以外にもたくさん寄り道ができる。必要なくても、興味があれば読むものだ。取材にはそれなりの手間がかかっている。無駄がたくさんある。それがまた楽しい。

 さて、書店人を悩ませるものとして、やはり電子書籍がある。
 これまで電子書籍の普及する機会が何度かあって、その都度失敗してきた経緯がある日本では、今回の電子書籍の波は、これまでとは違い、かなり大きな波となっている。もしかしたら電子書籍は普及するかも知れない、という気さえする。
 そんな中、児童書は電子書籍では普及しないだろう、という書店員がいる。


 「電子書籍、電子書籍って騒がれていますけれど、児童書は大丈夫って私は思っています。絶対になくならない、絶対です。特に絵本は。プレゼント需要が圧倒的に多いから」


 児童書は買う人と読む人が違うからである。そして買う人は誰かのアドバイスが欲しい。だからベテラン書店員がいる店が売上げを伸ばすという。さらにその書店員は出版社の営業からいろいろアドバイスを受ける。頼りにされるから営業が来る。だから「書店営業の伝統」が児童書売り場にはまだ残っているという。
 知らなかったのだが、最近は営業が書店に回ってこないらしい。やはり出版不況のため営業も減らされているらしい。効率を考えて新刊発売時以外書店回りしなくなった。 しかしそんな中でも児童書売り場では在庫調査をしている営業マンを何人も見かけるので、書店員と出版社の信頼関係が残っている現場だと言える。その当たりが電子書籍では児童書は成功しないと断言する書店員の根拠となっている。

 書店員なら本が紙でできていることに価値があると考えている人がほとんどだろう。紙の良さ、モノとして形のある本のだからこそ、著者から造本、書店員、そして読者へと手渡しできる実感がある。存在感がそこにある。そのことがいかに大切なことか知っている。テキストしてしか存在できない電子書籍は同じ内容を本で読んでも、その差は歴然としているだろう。モノとして実感できるモノの中にその話があることに幸福感みたいなものさえ感じ取ることができる。だから本はなければならないのである。そのためにはどうすればいいのか。どうあるべきなのか。
 著者はアメリカで電子書籍が普及したのは、広大な土地で本を買うのが不便だからだ。そう考えれば、「手に入りやすさ」が商品として流通する「雑誌・書籍」を「紙」で維持する力となる。だから著者は読者の生活圏の中にある書店の存在が「紙の本」の命綱だろうと考えている。
 出版社や取次は「紙の本」を日本に残したいと考えるなら、小さな書店にも注文した本がスムーズに届くようにし、読者がベストセラーをアマゾンや大型書店で買わなくてもすむような流通を一から考え直さないといけないと言っている。まさにその通りだと思う。


田口 久美子 著 『書店不屈宣言―わたしたちはへこたれない』 筑摩書房(2014/07発売)
by office_kmoto | 2014-11-07 05:18 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

門田 隆将 著 『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』

d0331556_1432049.jpg この本は福島第一原発所長の吉田昌郎氏を筆頭に、現場で闘った福島第一原発の所員や協力企業の人々、自衛隊員と、津波による全電源喪失、原発が冷却不能の中、何とか原子炉の暴走を食い止めた人々の話である。
 考えてみれば東日本大震災による原発事故を今ではその放射能被害に遭った人々の側にたった話をずっと読んできた。あるいは当時の民主党政権の無能さを批判したものも読んできた。
 今回はその原発事故を自らの命も危うい状況の中で、なんとか食い止めた東電の社員、あるいは協力企業の人々たち、自衛隊、消防の人々の話である。そんな中、東電の社員の場合、加害者の立場で見られるため、その時どんな苦労をしても、そんなもの当たり前、と見られてきたのではないだろうか?だからか、その時どんな状況であったのかは、その中のことは詳しく報道されてこなかったのではないか。
 しかしこの本を読んでいると、暴走する原発を何とか止めようとしていた人々は福島県出身者が多く、自分のふるさとを放射能に汚染させてしまったことに苦しみ、さらにこれ以上ひどい状況にさせないという決意のもとで活動していたことを知ると、加害者だから当然だ、とはとてもじゃないが言えなくなってくる。まして自分の命の危険があるにも関わらず、原子炉建屋に飛び込んでいく姿を読むと、この福島第一原発の最前線では加害者も被害者もないのではないか、と思えてくる。
 だからあの時、すべての電源を失い原発が制御できなくなったのを何とかしようとしている最中、パフォーマンスとしか言いようのない行動を取り、作業を邪魔をしにいった時の総理大臣や、また最近になって東電社員が全面撤退などするわけもないのに、所長の命令を無視して所員の9割に当たる約650人が、吉田所長の待機命令に背いて10キロ南の福島第2原発に撤退したと報じた新聞など、許しがたい。福島第一原発所長の吉田昌郎氏は人命と原子炉を守る、それしか頭になかったとここでは書かれる。

 2011年3月12日に菅直人総理が原発にやってくるが、著者は時の総理大臣がとった行動を次のように批判する。


 それは、国民の生命・財産を守らなければいけない国家のリーダーが、“一つ部分”だけに目を奪われていることを物語っている。


 だから福島第一原発を訪れた総理たちをこの本では“総理ご一行様”と揶揄する。多分現場でも似たような言い方をされていたのではないか。こんな時になぜわざわざやってくるのだ、と思っていたに違いない。
 あの時私たちも総理大臣が福島に行くことをむしろ現状を詳しく把握する目的だと賞賛していたかもしれない。
 それを私たちは何も知らされていなかったし、未曾有の災害に動揺していたからだけではすまない気がする。
 一号機、三号機が水蒸気爆発を起こし、二号機も格納容器圧力が上昇し始めたとき、吉田所長は格納容器爆発という最悪の事態に備えて、協力企業の人たちに、帰ってもらおうと思った。


 「皆さん、今やっている作業に直接、かかわりのない方は、いったんお帰りいただいて結構です。本当に今までありがとうございました」


 その後、


 席に戻り、しばらく経った時、吉田のようすがおかしいことに何人もが気づいた。顔から精気が失われ、どこか虚ろな表情をしている。明らかにこれまでと雰囲気が違う。
 ふいに吉田が、座っている椅子をうしろに引いて、立ち上がった。それは“ゆらり”立ったように見えた。
 身長百八十センチ、体重八十三キロという吉田が、幽霊のように立ち上がったかと思うと、今度は、テーブルを背にして、椅子と机の間にできたスペースにそのまま胡座をかいて座りこんだ。
 そして、ゆっくりと頭を垂れたのだ。吉田は目をつむったまま微動だにしなかった。手は、長い脚が交差している部分を包み込むように置かれている。見ようによっては、それは座禅を組んでいるようにも思えた。
 (もう、終わりだ・・・・・)
 周囲の人間には、そのことがわかった。誰も言葉を発しない。黙って吉田の姿を見ている。事態の深刻さを緊対室に詰める誰もに悟らせるシーンだった。
 その吉田の姿は、「最後の時」が来たことを身体全体で周囲に伝えていた。


 しかし、この時、吉田所長は頭を垂れながら、あることを考えていたという。


 「私はあの時、自分と一緒に“死んでくれる”人間の顔を思い浮かべていたんです」


 3月15日になって、東電から政府へ「福島第一から全員撤退したい」という連絡が入る。もちろん東電はそんなことを言っていない。これは東電の清水社長の説明不足と政治家の誤解が生んだ。ただこの「福島第一から全員撤退したい」から菅総理は東電と政府が十分な意思疎通ができていないので、政府と東電が一体となった統合本部を東電本店に置くことを決め、東電に乗り込む。そこであの有名な演説を始める。この演説は吉田所長以下、福島第一原発の最前線で闘う面々にも、興奮した菅の様子が伝わった。


 「事故の被害は甚大だ。このままでは日本国は滅亡だ。撤退などあり得ない!命がけでやれ」

 「撤退したら、東電は百パーセントつぶれる。逃げてみたって逃げ切れないぞ!」
 逃げる?誰に対して言っているんだ。いったい誰が逃げるというのか。この菅の言葉から、福島第一原発の緊対室の空気が変わった。
 (なに言ってんだ、こいつ)
 これまで生と死をかけてプラントと格闘してきた人間は、言うまでもなく吉田と共に最後まで現場に残ることを心に決めている。その面々に、「逃げてみたって逃げ切れないぞ!」と一国の総理が言い放ったのである。

 
 「六十になる幹部連中は現地へ行って死んだっていいんだ!俺も行く。社長も会長も覚悟を決めてやれ!」

 「撤退したら東電は百パーセントつぶれる!」


 その時、緊対室の円卓の中央の本部長席いた吉田は、テレビ会議の映像とカメラの方向に背を向けて、すくっと立ち上がった。
 なんだろう?まわりが吉田を見た瞬間、吉田はズボンを下ろし、パンツを出してシャツを入れなおした。総理に尻を向けて、ズボンを下ろしたのである。
 (なに言ってやがる、このバカ野郎)
 吉田はそう言いたかったのかもしれない。東工大の先輩でもある総理に対して、現地で死を覚悟した吉田は、空虚感と怒りを覚えていた。


 今にして菅総理の言葉を聞くと、一国の総理とは思えない言動である。ヤクザとさほど変わらない言葉使いである。その後菅は当時のことを言い訳まがいのことを言っているが、所詮それはあとから取り繕った言葉でしかない。もともとこの人は総理の器じゃなかったのだ。世の中にはリーダーとなれる人となれない人がいる。それはチャンスとかいうものではない。資質の問題である。


 菅の“演説”から30分ほどしか経っていない頃、二号機の格納容器の圧力を調整する圧力抑制室の圧力がゼロになった。誰もが「もうダメかもしれない」と思った。吉田は支持を出す。

 「各班は、最少人数を残して退避!」


 言うまでもなく「必要最小限の人間」とは、基準のないものである。どこまでが必要でどこから必要ないのか、曖昧なのだ。慌ただしくなった免震棟では、その基準は多くの場合、「自分自身」の判断に委ねられたのだ。
 ただ退避すべき人間は、技術を持った人間以外で、年齢が若い人間である。退避すべきかどうか悩む人間もいた。そして一度退避してもまた戻ってくる人間も多くいたのである。死にに行くのではなく、やるべきことがあるから残り、戻って来た人たちなのである。少なくと全面撤退ではなかった。
 朝日新聞の捏造はこの時のものである。2011年3月11日の東日本大震災で東京電力福島第一原発が危機的状況に陥った際の、吉田所長と政府のやりとりを記した極秘文書(いわゆる吉田調書)を暴露し、5月20日から、「福島第一原発(1F)の現場の人間の9割が所長命令に違反して撤退した」というセンセーショナルな大キャンペーンを張ったのである。
 これまでの経緯を書いたように、吉田所長から「退避」は指示されたものの、朝日新聞の言う「撤退」はなかった。それを告発したのはこの本の著者である。
 
 福島第一原発は今廃炉に向かっての作業が進められている。それは気の遠くなる長い道のりだ。あの時吉田所長は最悪の事態を考えていた。
 格納容器が爆発すると、もう人間がアプローチできなくなる。福島にある第一原、第二原発にある10基が暴走する。単純に考えても“チェルノブイリ×10”という数字が最悪の事態として吉田は考えていたという。
 当時の斑目原子力安全委員会委員長は次のように言っている。


 「近くに別の原子力発電所がありますからね。福島第一が制御できなくなれば、福島第二だけでなく、茨城の東海第二発電所もアウトになったでしょう。そうなれば、日本は“三分割”されていたかもしれません。汚染によって住めなくなった地域と、それ以外の北海道や西日本の三つです。日本はあの時、三つに分かれるぎりぎりの状態だったかもしれないと、私は思っています。


門田 隆将 著 『死の淵を見た男―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』 PHP研究所(2012/11発売)
by office_kmoto | 2014-11-03 14:33 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

平成26年10月日録(下旬)

10月某日 はれ

 久しぶりに出かける。まずは岩本町から秋葉原へ出て、ヨドバシで買い物。その後お茶の水に出て、神保町まで坂を下りていく。永井龍男さんの随筆3冊購入。1冊300円なり。
 講談社学芸文庫だと1,200円する本もあり、古本の単行本だとこの値段なのでうれしい。しかももう1冊は講談社学芸文庫本でも品切れとなっている。いずれも美本。
 その後飯田橋の東京しごとセンターへ職探しと講習会出席。


10月某日 はれ

 佐伯一麦さんの『草の輝き』を読み終える。
 続いて、今問題となっている「吉田調書」の吉田昌郎さんのドキュメント、門田隆将さんの『死の淵見た男』を読み始める。

 孫の七五三のお宮参り写真をプリントアウトして、ちょっときれいな台紙に貼ってみた。結構いい感じだ。スタジオアリスには負けるが、悪くないと思う。我が家のものと、娘のために同じ物を二冊作った。


10月某日 はれ

 私の実家へ顔を出しに行く。

 今日はその前に眼鏡ケースを“眼鏡市場”で買った。たまたま“眼鏡市場”の前を車で通ったから、ちょっと寄ってみたのだ。
 ちょっと前に百均で眼鏡ケースケース買ったことは書いたと思う。これでいいじゃん、とその時は満足していたのだが、やっぱり安物は長持ちしないようだ。バネが馬鹿になってしまい、開いたままになってしまった。
 車を駐車場に止めるときから、店の女の子が出てきて、車を誘導してくれ、店内に招き入れてくれる。眼鏡を買うわけじゃないので、こうも丁寧にしてもらうと、なんか申し訳ない気がしてしまう。
 いくつかケースを見せてもらい、今度はバネ式はやめた。理由は閉めるときパッチン、パッチンとうるさいし、それに指を挟んでしまうと結構痛いのだ。(安物だからかもしれないが)なのでホック式のもにする。500円と消費税の40円だ。
 たったそれだけなのに、眼鏡拭きもつけてくれたし、洒落た店の小さな手提げ袋に入れてくれた。しかも店を出ると、見送りまでしてくれる。ますます申し訳なくなってくる。妻も同じ気持ちだったようだ。
 妻は近いうちに眼鏡を造り替えるつもりでいたので、今度はここで作ろうと言っていた。


10月某日 くもり

 門田隆将さんの『死の淵見た男』を読み終える。
 図書館で借りてきた佐伯一麦さんの本を返しに行き、田口久美子さんの本と池波正太郎さんのエッセイを借りてくる。
 すぐ田口さんの『書店不屈宣言』を読み始めた。
 ドラマ「昨夜のカレー、明日のパン」の第三回をビデオで見る。見ていてこんなに説教臭い話だったかな?、と思う。


10月某日 雨

 田口さんの『書店不屈宣言』を読み終える。
 池波正太郎さんの『一升枡の度量』を読み始める。


10月某日 雨

 今日で雨が3日続いた。お陰で3日間家に閉じこもっている。晴耕雨読ではないが、雨の日は一日中本が読めるので有り難い。
 昨日こたつをセットし、今日は寒いので電源を入れてこれを書いている。徐々に冬支度がはじまる。今年初めに買った羽毛布団も引っ張り出して、一昨日から使っている。
d0331556_5492627.jpg 池波正太郎さんの『一升枡の度量』(幻戯書房 2011/05発売)を読み終える。
 偶然かも知れないけれど、私が読んだ幻戯書房から発行されたエッセイはみんな未発表のものだった。この出版社はこうした未発表エッセイを探し出して出版しているのだろうか?
 まあ、そんなことはどうでもいいのだが、この本の書名となっている、最初のエッセイ、「一升ますには、一升しか入らぬ」にあるたとえが良かった。


 この[日本]という小さな島国を一升マスにたとえてみようか。
 それは実に、一升マスへ、一斗も二斗ある宏大な国に生まれた機械文明を取りいれてしまい、国土も国民の生活も、これに捲き込まれて、どうしようもなくなってしまったのだ。
 経済成長を目ざした日本は、一升マスへ二斗も三斗も入るという過信を抱き、むりやりに、それを押し込んでしまった。


 まさしく「一升ますには、一升しか入らぬ」わけで、これっていい言葉と思った。
 「維新の傑物 西郷隆盛」、「楠の樹に映る薩摩藩士の姿」、「維新前夜の事件と群像」は面白かった。いずれも短い文章だけれど、読み応えがあった。

 夕方からビデオの映画を見る。
 永井龍男さんの『カレンダーの余白』を読み始める。


10月某日 はれ

 やっと晴れたといった感じだ。3日ぶりに散歩に出る。
 永井龍男さんの『カレンダーの余白』を読んでいるのだが、これがなかなか面白い。昭和30年代、40年代の事柄を書いてある。多少今は使わない言葉が出てきて戸惑う部分があるが、それでも思わず笑いながら読んでいる。永井さんの本は始めて読んだが、これはやみつきになりそうだ。
 図書館に4冊、予約を入れる。


10月某日 はれ

 今までちょっと読みたいなと思った新刊はだいたい買い求めてきた。多少内容に不安がある本(つまり面白くなかったり、難しすぎて読み切れなかったりする可能性のある本)でも構わず買っていた。
 今年になって区の図書館を利用するようになり、それも結構頻繁に利用させてもらうようになって、こうした不安のある新刊を買わなくても読めることを知ったのである。 最近はネットを使って区にある図書館のすべての在庫を簡単にチェックでき、しかも在庫があればいつも通っている図書館まで届けておいてくれる。本が届けばメールで教えてくれる、と至れり尽くせりなので、これを使わない手はない。
 “不安本”は『鈴木書店の成長と衰退』(論創社)という本。普通、鈴木書店ってどこの書店?と思われるかもしれない。鈴木書店は問屋さんなのだ。だから出版業界で古い人ならわかる、という特殊な本だ。ということはこんな本を読む区民がどれだけいるんだろうと思ってしまう。しかしそれをちゃんと区の図書館に蔵書として買い入れてくれているのである。正直驚いてしまった。
 私としては買わなくて済むというありがたい部分がかなりある。ということで昨日予約した中の1冊がこの本なのである。
 新刊でも有名作家の本とか、ベストセラーとなると予約待ちがものすごい数になってしまうけれど、私が読みたい本は古い本かちょっと変わった本なので予約待ちがなくて済むことが多い。
 ベストセラーや話題になる本ももちろん読むが、こうした“不安本”が買わずに読めるなら、せめてベスセラーで読みたい本とか文庫本ぐらいは本屋さんで買うことにしようと思っている。

 さて。

 今日は毎年行われる神保町の古本祭りの初日である。この古本祭りはほとんど毎年行っている。今年も探している本がいくつかあるので行ってみた。
 わざわざ人ごみの中、出かけなくてもネットで探せば簡単に買えるのだが、そこはこんなに多くの古本が見られる機会はそうそうないし、行ってみると昔読んだ本で処分した本を目にすることができ、懐かしくなって思わず手に取るのも楽しい。文庫になる前の単行本(見たことがないもの)など見ると、これが親本か、と眺めてしまう。
 今日は探している本が数冊あるが、それらはすぐ手にしたい本でもないし、あれば買いたいと程度の本である。
 だから今回、探している本が500円以上ならあっても買わない、ということにした。こういう制限をつけて本を探すのも案外面白いものだ。まあ、あっても1冊か2冊ぐらいだろうと、最初から覚悟はしていたのだが、何と6冊も買えてしまったのだ。思わず顔がほころんでしまう。
 家に帰ってゲットしたお宝を横に置いてこの文章を書いている。この後1冊ずつ手にとってあれこれ眺めてみるつもりだ。


10月某日 くもり

 作家の赤瀬川原平さんが26日午前に亡くなったそうである。享年77歳。そうか、赤瀬川さんも77歳となっていたのか思ってしまう。私は赤瀬川さんの本をそれほど読んでいる訳ではないが、これでまた新しい作品を読むことができなくなった作家さんがまた一人増えてしまった。
 失業の認定へ行く。その帰りに病院へ行ったのだが、月曜の午前中とあって、ものすごい人が待っている。病院に入る前に中の様子が見えたので、今日は止めにした。明日出直すつもり。
 この先生から出してもらった薬がかなり効いているように思える。問題は今後この薬を飲み続けないと、症状が落ち着きを見せないのか、それが気になる。明日先生はどう言うだろうか?
 昨日永井龍男さんの『カレンダーの余白』を読み終えて、今日は次の本を読みたいところである。しかし図書館で予約した本が全部揃ったというメールが昨日あった。すぐ借りて読みたいところだったが、今日は月1回の休館日で、本は明日となった。
 というわけで、今日新しい本を読んでしまうと図書館の本がすぐ読めない。仕方がないので、午後から永井さん本の感想書いた。夜は録画してある映画でも見た。


10月某日 はれ

 図書館で借りてきた小泉 孝一さんの『出版人に聞く15 鈴木書店の成長と衰退』 (論創社 2014/09発売)を読み終える。
 続いて前田塁という人の『紙の本が亡びるとき?』という本を読み始めるが、ひとつの文章が恐ろしく長く、その上途中でかっこ書きで説明を入れてくれるものだから、何を言っているのか分からなくなる。私はだんだんその文章スタイルに拒否反応をおこし始め、手がつけられなくなってしまう。そのため読むのを諦めて、今度は逆の立場の酒井邦嘉さんの『脳を創る読書-なぜ「紙の本」が人にとって必要なのか』を読み始めたが、これもダメだった。
 これらの本は本が必要かそうではないか、というだけのことで、私から言わせれば、最初のとっかかりがもう紙の本は役目を終えたというスタンスになれば前田さん本になるし、いや紙の本は必要だといえば、酒井さん本になるだけのことではないか、と気がついたのである。後はその肉付けをどうするかだけである。
 本の役目が終わり、電子書籍の時代に否応なくなっているのだから、本にこだわるのはフェチズム以外のなのものでもない、と言い切る人はそう言えばいいし、紙の本に愛着を持っているなら、本を読めばいいだけのことだ。仮に本がなくなってしまう時代が来たとしても、多分その頃は私は生きていない。そういうことなのだから、そのまま本を読めばいいだけだ。電子書籍も否定はしなし、便利なものだと思うけれど、それ以上に「本」が好きなのだから、それでいい。
 ということで、せっかく区内の図書館からかき集めてくれた本であったが、読むのを止めた。馬鹿らしくなったのである。元の読書スタイルに戻ることにする。
 佐伯一麦さんの『遠き山に日は落ちて』を読み始める。読み始めて何だかホッとする。


10月某日 くもり

d0331556_5511739.jpg 佐伯一麦さんの『遠き山に日は落ちて』(集英社 1996/08発売)を読み終える。この本は以前読んだ『鉄塔家族』の斎木と奈穂の物語である。だから『鉄塔家族』はこの本の続編と見ていいのだろう。
 しかしこの物語の本当の主人公は斎木たちが住む家ではないか、と思った。斎木たちは自分たちが住む家を探し、今は住んでいる人がいない一軒家を見つける。家の周囲は杉の枯れ葉がうずたかく積もり、家の外側の羽目板は所々剥がれ、中は黴臭く「とても住めない」と最初は思った。しかし安い物件で草木染めの工房も開ける物件がなく、再度この家を訪れ、手直しすれば住めるのではないかと考え始めた。そして斎木と奈穂は自分たちの手で家を直し始め、庭を整理し始める。庭の杉の枯れ葉を除けば思わずいろいろな草木が芽を出し始め、栗の木はおいしい実つける。
 家を修繕し、よそで要らなくなったものを譲り受け、家具やミシン、あるいは机など、ときには修理して使い、少しずつここで生活が出来るように二人で工夫していく。それはお金がないというやむにやまれぬことなのだが、多少不便でも、言うことを聞かなくても、「折り合い」をつければ、使えるのである。
 そんな中で生活していると、工芸品の茶筒を一つ土産としてもらい、その茶筒からお茶の葉を出して、お茶を入れるとものすごく贅沢に感じられるというのもよくわかる。


 彼らの家には、まだ食器棚も茶箪笥もない。斎木が拾ってきて修理して使っているテレビは椅子を台にして置いてある。けれども、茶を飲む度に茶筒を眺めていると、ぜいたくな生活をしている気分になった。生活にぬくみのようなものが生まれた。
 「来年は、茶筒をしまっておく茶箪笥が買えるといいな」
 と風邪声で斎木が言った。
 「うん、そうだね」
 と奈穂が大きく頷きながら答えた。


 斎木の周りに住んでいる人々の交流も素朴で、温かい。自然は厳しいけれど、注意して見てみれば、それに答えてくれる。


 もし、名前を知らなかったら、それらはたんなる草花であり、木であり、においであり、鳥であるだけで風景の中に埋もれてしまっていることだろう。目の前にあったりしても、特別気に留めないでいることが多いだろう。だが、一度注意して名前を覚え知った、そういうものは決して忘れることもなく、風景から浮かび上がって、こちらに飛び込んでくる。


 周りの自然を再確認しながら、ものの名前を覚えると身の回りの世界が広がるということを斎木はここでも経験した。


 心が豊かになっていくのを感じさせる。
 そして読んでいる方も、斎木たちが抱えているだろう問題とは別に、この家で、村で、自然の中で生命を合わせて生きている。いや生かされているのだと思えてくる。
by office_kmoto | 2014-11-01 05:52 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

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