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永井 永光 著 『父 荷風』

d0331556_5192134.jpg 『墨東綺譚』を読んで永井荷風の人となりを知りたくなった。それでこの本をとってみた。著者は書名ある通り荷風を父と呼ぶからには、荷風の人となりを詳しく知っているものと思ったのである。
 しかし著者は荷風の養子であった。その経緯を荷風の生まれから書くと次のようになる。
 荷風(本名荘吉)は明治十二(1879)年十二月三日、小石川金富町(現在の文京区春日二丁目)に永井久一郎の長男として生まれた。その久一郎の弟久満次が永井家から大島家に養子に入り、長男一雄をもうける。その一雄が著者の実父であった。この一雄は後に杵屋五三郎門下に入り、昭和元年、杵屋五叟と名乗って長唄の師匠となった。
 そして著者を養子にとる経緯は次のように書かれる。


 もともと荷風が養子をとろうと決めたには、前にも書きましたが、戦争が激しくなって自分の身に何かあった場合、義絶している威三郎(荷風の末弟)さんに遺産がいくのを防ぐためだったと思われます。父のほうも、永井家に戻って父久満次の遺志を継ぎたいと思っていたのでしょう。私は自分の意思に関係なく、二人の事情によって、養子になっただけでした。


 私の実父大島一雄は、荷風より二十六歳年下の従弟の子である私を二度の結婚に破れ、子どものなかった荷風は養子にしました。私が荷風の籍に入ったのは昭和十九年三月、荷風六十四歳、私が十一歳の春です。

 
 ということで、著者は生まれながらにして荷風の子どもではなかった。ただ子ども頃から荷風とは行き来があったようである。
 話は著者の子ども頃から始まる。すなわち終戦直後、空襲で焼け出され、疎開をせざる得なくなり、代々木から熱海、そして市川と著者の父親が転々とするに当たり、同じように荷風も著者の父親を頼り、同居することなった。その中で荷風の人なりを語っていく。
 読んでいて、荷風という人物は煮ても焼いても食えない人物であったようである。そのことがいくつかのエピソードとして書かれていた。
 たとえば、『断腸亭日乗』という荷風が満37歳の大正6年9月16日から、死の直前、昭和34年4月29日まで、42年間綴られた日記があるが、空襲が激しくなった頃に荷風は著者の父親にその保管を頼んでいる。


 父は荷風から『断腸亭日乗』など保管を依頼されていたので、たいへん苦労しました。父は焼失するのを防ぐため、知人である杵屋彌十郎さんの御殿場の家に預けました。(略)
日記は複製が主でしたが、ブリキの缶に入れ、土中に埋めて保管したようです。荷風は、預けたものの安否をしきりに父に問い合わせていたようです。


 保管だけでも大変なのに、その安否もしきりに問い合わされたんじゃかなわなかっただろうと思ってしまう。さらに、


 荷風は強迫観念が強い人だということは、すぐ感じました。やってきた当初のころのことですが、風呂に入るときは、財布ばかりか、貴重品すべてを抱えて風呂場に入るのです。私たちさえ信用できなかったのでしょうか、ほらまた荷物を抱えて入っているよと、家族が笑って言うのが日常でした。


 荷風は強迫観念の強い人物であると同時に、だからこそ“ケチ”でもあったらしい。荷風はお金がなかったわけではない。葬儀の時には意外にも資産家であったこともわかっている。


 たしかに文化勲章の受章で五十万円、芸術院会員の手当が二十万円、ほかに株やら原稿料やらで、当時はたいへんなお金持ちでした。


 いろろな本には荷風はケチだと書かれていますが、それはほんとうです。
 敗戦の日から月日がたつにつれて、荷風には手土産を持った出版社からの原稿依頼が増えましたが、それらを決して私たちに分けてくれることはありませんでした。


 荷風は編集者が持って来た、好きなカステラを隠れて食べていたし、しかも食べきれずカビを生やしてしまったのを見たこともあると書かれている。さらに著者のところに居候をしていた頃は家賃さえ払わなかったという。
 ところで『墨東綺譚』を読んでいると、主人公の大江は隣のラジオの音がうるさいので、著作ができない。それで玉の井へ通うことになったとしている。荷風はこうした音に異様なほど嫌悪感をあらわにしたという。もともと居候している著者の父親一雄が長唄の稽古で生活費を稼いでいることを荷風は承知していたはずだし、ラジオだって夜に少しかける程度だったにも関わらず嫌がらせやじゃまをしたという。


 しかし荷風は、長唄の師匠の家にみずから頼んで同居しているのですから、普通なら遠慮して我慢するところでしょう。しかし、その家のいちばんいい部屋に住んだ荷風は、三味線の音が始まると、容赦のない独特の嫌がらせをしたのです。


 なるほどこれを読むと大江は荷風だったんだ、と思ってしまう。


永井 永光 著 『父 荷風』 白水社(2005/06発売)
by office_kmoto | 2015-02-25 05:26 | 本を思う | Comments(0)

池波 正太郎著 『私の歳月』

d0331556_62617100.jpg 「縁台」というエッセイがある。


 夏になると、戦前の東京の下町には、縁台売りがやって来た。

 日が落ちると、町すじの通りや道には、ほとんど車輌が通らぬ。
 だから、通りも道も、路地も、下町の人びとの<サロン>になった。
 一日の労働の汗をながし、冷奴などで一杯のんだ男たちは、それぞれ縁台に腰をおろし、世間ばなしにふけったり、将棋をさしたりする。


 縁台売りという人がいたことは知らなかったが、縁台に座って夏の花火を見ている人たちを見たことがある。
 ちょうど私たちがこちらに引っ越してきた頃だ。江戸川区で夏の花火大会が行われているが、それをまだ面識のない近所の人たちが道に縁台を出して見ていたのである。
 まだ大きなマンションが建っておらず、視界を遮るものがほとんどなかったので、江戸川で打ち上げられている花火が、ここからも見えたのであった。
 夕方になるとほとんど車も通らなくなるので、花火を見るのにはちょうど良かったのだ。もしかしたら花火って、こうして離れて見るのもではないか、と思ったりする。
 高い建物もなく、道には風が通る。道は確かにサロンでもあり、子供の遊び場でもあった。
 そういえば、昔は道に蝋石で絵を描いたり、遊ぶために輪を描いたりしたものだが、最近道にそうした子供たちが描いた絵を見ない。それだけ道端で遊べない。ちょっと前に歩いている時、蝋石で描いた女の子の絵を見て驚いたくらいだ。


 <人情>というものは、いまでいう<連帯感>のことなのである。(東京の下町)


 地震・カミナリ・火事・オヤジと題して≪下町っ子座談会≫があり、ここで池波さんが当時の物干し場のことを言って、それに対して植草甚一さんが答える場面がある。


 池波 夏は、その店の物干しで寝るんですよ。ゴザを敷いて寝ると涼しいんだ。月が出ていて、新内がトチチリチンと聞こえてきたりしてね。(笑)
 植草 物干しというのは、いい遊び場でしたね。朝顔を作ったりして。両国の花火を見たり、凧をあげたりね。あっちこっちでも凧をあげているんですよ。競争でね。


 植草さんが物干し場で凧を揚げていたと言っているのを読んで、そういえば吉村昭さんも子供の頃よく物干し場で凧を揚げていたと書いている。
 吉村さんはそこでB29爆撃機を見た。操縦席に載っている血色のいい飛行士の顔が見えたことを書いていた。

 池波さんが当時を振り返り、今を語るとき、ぼやきに聞こえるところが多い。しかしそれは江戸情緒がなくなってしまったことだけをぼやいているのではない。変わることに文句は言っていない。変化が暮らしの中の潤いや余裕のためであるなら、それを肯定する。


 川を埋めて、高速道路ばかりこしらえて、江戸情緒がなくなった、けしからんという人もある。そんなことをいってやしないんだよ、おれは、江戸情緒なんて、とっくの昔になくなっているうだから。人間が暮らして行くためには、人間の住む場所に、うるおいと余裕がなくてはねえ・・・・・。江戸情緒なんていってやしない。東京がもっと変ったてかまわないんだ。よく変るぶんには、どんなに変ったていいんだ。


 問題はいい意味で変わっていないということなのだ。それを池波さんはぼやくのである。


 近い将来に、時代は、また激しく変わって行くであろうが、いまのところ、日本は退屈な単一化を目ざしてすすむだけなのだ。


 こういう世の中になってくると、人間の生活といっしょに、感情そのものが枯れてくるわけだよ。(インタビュー-池波正太郎の青春・小説・人生)


 だが現代は、人間の感覚で理解し得ぬほど、機械のメカニズムが発達(?)してしまった。
 すると、職人のみならず、一般の人びとも手指や足先をつかうことが少なくなり、したがって肉体の機能は衰弱し、肉体の機能とむすびついている精神の感応も鈍化しはじめたのではないか・・・・・。

 そのかわり、理論のみが発展(?)して、対立を生み、どこの世界にも、理屈と対立の様相が日毎に烈しくなってきた。人間の特権であった豊かな感覚によって、物事を理解し、解決し、前進せしめる時代ではなくなったのである。(機械に飯を食べさせろ)


 アル・パシーノが出ている映画で恋愛を語る部分がある。


 昔のような恋愛を古めかしいとしか受け取れないんでしょう。われわれからいわせると、このアル・パシーノ、大したものなんだ。演技力が一段と深みをまして。恋愛というのは忍耐でしょう、本質的にね。それが出ているわけですよ。彼の演技に。だけどそれがわからないんだよ、今の若い批評家には。じっと大人が忍耐しているのでも、ただ女を見つめて甘ったるくあれしているとしか取れないんだよ。
(略)
 このこと一つを見ても、いかに人間の情緒というものが日本では破壊されてしまったかということがわかる。
 男と女、あるいは男と男との間の感情、エモーションというかね、それは単純じゃないわけだよ。相手の胸のうちをお互いに推し量りながらね、含みのあることばと態度で接していって、それが次第に劇的なかたまりを見せてドラマを生むわけでしょう。単純じゃないんだよ。

 結局、一番大きな問題は、情緒の破壊と美的感覚の破壊だね。この二つの柱が失われたら映画なんかできない。映画に限りませんがね。だけど、それをなくすことがむしろ「新しい」といわれる時代なんだよ、今は。(梅安こぼればなし)


 これを読んで、先に読んだ永井荷風の『墨東綺譚』で私がいいなあと思った情景はこれだったんだ、と思ったのである。
 読んだ後上手く言えなかったが、今、池波さんの言葉を借りて言うことが出来そうである。
 話に何があるわけでもない。ただ大江とお雪の間にあるお互いの胸の内の感情を推し量り、含みのあることばと態度で接している、それだけである。それだけで充分情緒を感じ、美的感覚を感じることができる作品なんだ、と思ったのである。

 こうして池波さんたちが当時のことを思い出しながら、下町の風景を描いているのを読んでいると、確かに「時間のながれは、つもりつもって<歳月>となる」(休息の旅)んだと思う。そしてその流れは四十までは長いと思ったと言う。


 しかし、四十までは一年一年の月日のながれが充分な重味をもっていて、むしろ一年一年をこちらが追いかけているような気持ちだった。
 一年を、長いとおもった。
 その長さが実に、たのもしかった。
 二、三度の失敗をしても、いくらでも、やり直せるとおもっていた。
 「きみたちなんか、いま、一年一年が充実していて、長いだろう?」
 「いいえ、あっという間にすぎてしまいます」
 と、いずれも、こたえは同じである。
(略)
 どうも、そのようだ。
 やり直しがきかぬ世の中になってしまったらしい。(歳月)


 私も一昨年までは時間はあっという間に過ぎていったと感じている方である。だから池波さんが感じた時間の長さに“頼もしさ”を感じることができなかった。だから失敗をやり直せるなんて考えたこともなかったのである。ただひたすら走り続けた。
 やり直しがきかない結果、こうなってしまったわけだが、今は違う意味で、一年を長いと思っている。ただやり直しがきかなくなってから思ったことなのでその分たちが悪いだけである。


池波 正太郎著 『私の歳月』 講談社(1984/06発売) 講談社文庫
by office_kmoto | 2015-02-22 06:32 | 本を思う | Comments(0)

永井 荷風 著 『復刻版 墨東綺譚』

d0331556_5421936.jpg この本は1937(昭和12)年、発刊した岩波初版本の戦後初めての復刻版らしい。箱入りでこんな感じだ。













d0331556_543846.jpg 箱から本を取り出してみると、表紙はこうなっている。しかしなんでこんな本を買ったのだろう、と今になると思う。
 この本を買った時のことはよく覚えている。日販の店売へ仕入れに行ったとき、岩波書店の新刊コーナーにこの本があったのだ。それで自分用に仕入れて、購入した。
 あえてこの本を買った理由をあげれば、木村荘八の挿し絵が気に入ったからかもしれない。

 話は小説の構想を練っている老作家大江匡が、自分の書いている小説の現地取材、それに家のラジオの音がうるさいので、そこから逃げだし、足を向けた玉の井であった。
ウィキペディアによると、「玉の井(たまのい)は、戦前から1958年(昭和33年)の売春防止法施行まで、旧東京市向島区寺島町(現在の東京都墨田区東向島五丁目、東向島六丁目、墨田三丁目)に存在した私娼街(戦後は赤線地帯)である」と書いてある。
 その玉の井で大江がお雪と出合う場面が次のようであった。


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 大分その邊を歩いた後、わたくしは郵便箱の立ってゐる路地口の煙草屋で、煙草を買ひ、五圓札の剰銭を待つてゐた時である。突然、「降つてくるよ。」と叫びながら、白い上ッ張を着た男が向側のおでん屋らしい暖簾のかげに馳込むのを見た。つゞいて割烹着の女や通りがかりの人がばた馳け出す。あたりが俄に物木氣立つかと見る間もなく、吹落る疾風に葭簀や何かの倒れる音がして、紙屑と塵芥とが物の怪けのやうに道の上を走つて行く。やがて稲妻が鋭く閃き、ゆるやかな雷の響につれて、ポツリくと大きな雨の粒が落ちて來た。あれほど好く晴れていた夕方の天氣は、いつの間にか変ってしまつたのである。
 わたくしは多年の習慣で、傘かさを持たずに門を出ることは滅多にない。いくら晴れてゐても入梅中のことなので、其日も無論傘と風呂敷とだけは手にしてゐたから、さして驚きもせず、靜にひろげる傘の下から空と町のさまとを見ながら歩きかけると、いきなり後方うしろから、「檀那、そこまで入れてつてよ。」といいさま、傘の下に眞白な首を突込んだ女がある。油の匂においで結つたばかりと知られる大きな潰し島田には長目に切った銀糸ぎんしをかけてゐる。わたくしは今方通りがかりに硝子戸を明け放した女髪結の店のあつた事を思出した。


 この後お雪の家に上がり込み、お雪とのやりとりが情緒があっていい。ちょっと長くなるが、その雰囲気がいい。


「誰もゐないから、お上んなさい。」
「お前一人か。」
「えゝ。昨夜まで、もう一人居たのよ。住替に行ったのよ。」
「お前さんが御主人かい。」
「いゝえ。御主人は別の家うちよ。玉の井館つて云う寄席があるでしょう。その裏に住宅があるのよ。毎晩十二時になると帳面を見にくるわ。」
「じゃア氣楽だね。」わたくしはすゝめられるがまゝ長火鉢の側に坐り、立膝して茶を入れる女の様子を見やつた。
 年は二十四五にはなつてゐるであらう。なかくいい容貌である。鼻筋の通った圓顔は白粉焼がしてゐるが、結立の島田の生際もまだ抜上あがってはゐない。黒目勝の眼の中も曇つてゐず唇や歯ぐきの血色を見ても、其健康はまださして破壊されても居ないやうに思われた。


「顔でも洗ふの。水道なら其処にあるわ。」と女の調子は極めて氣輕である。
「うむ。後でいゝ。」
「上着だけおぬぎなさい。ほんとに隨分濡れたわね。」
「ひどく降つてるな。」
「わたし雷さまより光るのがいやなの。これぢやお湯にも行けやしない。あなた。まだいゝでしょう。わたし顔だけ洗って御化粧してしまうから。」
 女は口をゆがめて、懐紙ふところがみで生際の油をふきながら、中仕切の外の壁に取りつけた洗面器の前に立つた。リボンの簾越しに、両肌もろはだをぬぎ、折りかゞんで顔を洗ふ姿が見える。肌は顔よりもずつと色が白く、乳房の形で、まだ子供を持った事はないらしい。
「何だか檀那になつたやうだな。かうしてゐると。箪笥はあるし、茶棚はあるし……。」


「長くゐるのかい。」
「まだ一年と、ちよつと……。」
「この土地が初めてぢやないんだろう。藝者でもしてゐたのかい。」


「どこに出てゐたんだ。こればかりは隠せるものぢやない。」
「さう……でも東京じゃないわ。」
「東京のゐまわりか。」
「いいえ。ずっと遠く……。」
「ぢや、満洲……。」
「宇都の宮にゐたの。着物もみんなその時分のよ。これで澤山だわねえ。」


「縁起だから御祝儀だけつけて下さいね。」と火をつけた一本を差出す。
 わたくしは此の土地の遊び方をまんざら知らないのでもなかったので、
「五十銭だね。おぶ代は。」
「えゝ。それはおきまりの御規則通りだわ。」と笑いながら出した手の平を引込まさず、そのまゝ差伸してゐる。
「ぢや、一時間ときめよう。」
「すみませんね。ほんとうに。」
「その代り。」と差出してゐる手を取つて引寄せ、耳元に囁ささやくと
「知らないわよ。」と女は目を見張つて睨返し、「馬鹿。」と言いさまわたくしの肩を撲つた。


「何て云う家だ。ここは。」
「今、名刺あげるわ。」
 靴をはいてゐる間に、女は小窓の下に置いた物の中から三味線のバチの形に切つた名刺を出してくれた。見ると寺島町七丁目六十一番地(二部)安藤まさ方雪子。
「さよなら。」
「まつすぐにお帰んなさい。」


 大江はお雪の旦那を気取るではなく、純粋に客というわけでもない。ただお雪のいる家に通うのである。世間から忘れ去られようとする作家であっても(実際の荷風は戦後大もてだった)、この玉の井に通っているという醜聞をさけるため、雨が降ればぬかるみ、蚊が多く湧くドブある路地を入ってお雪の家に行く。
 なぜ自分はここに惹かれるのか。そんな大江の心境を知りたければ、というわけで、自らの小説の中のことから見てくれれば、私という人物がわかろうというものだ、として、作中の人物の心境を書くことによって、玉の井へ通う訳を書く。


 「(略)正當な妻女の偽善的虚栄心、公明なる社会の詐欺的活動に對する義憤は、彼をして最初から不正暗黒として知られた他の一方に馳せ赴かしめた唯一の力であつた。つまり彼は眞白だと稱する壁の上に汚い種々な汚點を見出すよりも、投捨てられた襤褸の片きれにも美しい縫取りの残りを發見して喜ぶのだ。正義の宮殿にも往々にして鳥や鼠の糞が落ちてゐると同じく、悪徳の谷底には美しい人情の花と香しい涙の果實が却つて澤山に摘み集められる。」


 「いまに夕立が來そうだな。」
「あなた。髪結さんの歸り……もう三月になるわネエ。」

 お雪は毎夜路地へ入込む数知れぬ男に應接する身でありながら、どういふ譯で初めてわたくしと逢つた日の事を忘れずにゐるのか、それがわたくしには有り得べからざる事のように考へられた。初ての日を思返すのは、その時の事を心に嬉しく思うが為と見なければならない。然しわたくしはこの土地の女がわたくしのような老人に對して、尤も先方ではわたくしの年を四十歳位に見ているが、それにしても好いたの惚ほれたのといふような若もしくはそれに似た柔く温あたたかな感情を起し得るものとは、夢にも思って居なかった。
 わたくしが殆ど毎夜のやうに足繁く通つて來るのは、既に幾度か記述したように、種々な理由があったからである。創作「失踪」の實地觀察。ラディオからの逃走。銀座丸ノ内のやうな首都枢要の市街に對する嫌悪。其他の理由もあるが、いづれも女に向って語り得べき事ではない。わたくしはお雪の家を夜の散歩の休憩所にしてゐたに過ぎないのであるが、さうする為には方便として口から出まかせの虚言もついた。故意に欺くつもりではないが、最初女の誤り認めた事を訂正もせず、寧ろ興にまかせてその誤認を猶深くするやうな挙動や話をして、身分を晦ました。この責だけは免れないかも知れない。


 大江は自分の素性を隠しながらお雪のところへ通い詰める自分に一抹の後ろめたさも伴う。ましてお雪が自分と出会ったときのことを忘れないでいればいるほど、大江は悩んでいくこととなる。自分がお雪を騙しているという気持ちに苛まれていく。
 それでもお雪の家に上がり込み、客を引くその姿に思うのであった。


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 お雪は氷を一匙口へ入れては外を見ながら、無意識に、「ちよつと、ちよつと、だーんな。」と節をつけて呼んでゐる中、立止って窓を覗くものがあると、甘えたやうな聲をして、「お一人、ぢや上ってよ。まだ口あけなんだから。さア、よう。」と言つて見たり、また人によつては、いかにも殊勝らしく、「えゝ。構ひません。お上りになつてから、お氣に召さなかつたら、お帰りになつても構いませんよ。」と暫くの間話をして、その擧句これも上らずに行ってしまつても、お雪は別につまらないという風さへもせず、思出したように、解けた氷の中から残つた白玉をすくひ出して、むしやく食べたり、煙草をのんだりしてゐる。
 わたくしは既にお雪の性質を記述した時、快活な女であるとも言ひ、また其境涯をさほど悲しんでもゐないと言つた。それは、わたくしが茶の間の片隅に坐つて、破団扇の音も成るべくしないように蚊を追ひながら、お雪が店先に坐ってゐる時の、かういう様子を納簾の間から透すかし見て、それから推察したものに外ならない。この推察は極く皮相に止とどまっているかも知れない。為人の一面を見たに過ぎぬかも知れない。
 然しここにわたくしの観察の決して誤らざる事を断言し得る事がある。それはお雪の性質の如何に係らず、窓の外の人通りと、窓の内のお雪との間には、互に融和すべき一縷の糸の繋がれてゐることである。お雪が快活の女で、其境涯を左程悲しんでいないやうに見えたのが、若もしわたくしの誤りであつたなら、其誤はこの融和から生じたものだと、わたくしは辯解したい。窓の外は大衆である。即ち世間である。窓の内は一個人である。そしてこの兩者の間には著しく相反目している何物もない。これは何なんに因るのであろう。お雪はまだ年が若い。まだ世間一般の感情を失わないからである。お雪は窓に坐つてゐる間はその身を卑しいものとなして、別に隠してゐる人格を胸の底に持つてゐる。窓の外を通る人は其歩みを此路地に入るるや仮面をぬぎ矜負を去るからである。


 とにかくこの小説はその当時の玉の井という場所で働く女との一情景を描いているだけである。それしかない。
 それしかないのだが、確かにそういう時代があり、そういう場所があったことを、この小説を読むことによって、想像できる。もしかしたら下手な記録映画(もしそういうのがあったとして)よりも、人の気持ちが表れているような気がした。
 木村荘八の挿絵が夜の暗さとともにそこで生きている人間のうら寂しさを描き出しているのも良かった。


永井 荷風 著 『復刻版 墨東綺譚』 岩波書店(1990/01発売)
by office_kmoto | 2015-02-19 05:46 | 本を思う | Comments(0)

平成27年2月日録(上旬)

2月1日 日曜日

 はれ。
 相変わらず北風が強く吹いた1日であった。

 昨日から来ている孫と一緒に娘の雛人形を出し、飾り付ける。この雛人形、もともとはケース入りの三段飾りだったものを、昨年ケースから取り出し、お雛様とお内裏様のみ残したものであった。二体だけれど、気品がある。孫も喜んで飾り付けていた。
 それと妻が独身時代作った木目込みの雛人形がもう一組あって、それも屋根裏から引っ張り出し飾り付けた。
 その後娘と孫と一緒に錦糸町に出て、娘の旦那と合流し、一緒に昼食を取って別れる。

 義理の妹の旦那さんが、今日還暦を迎えたという。3月で定年退職となるそうだ。それを妻から聞いた。妹からメールにそう記してあったらしい。妹のメールには旦那さんの定年退職に感慨深げらしいことが書いてあったという。
 それを聞いた私は、「定年まで働けただけでも良かったじゃないか」と我が身を振り返って言う。後で余計なことを言ってしまった、と後悔する。


2月3日 火曜日

 はれ。

 節分。子供が大きくなってからは豆まきもしなくなったし、恵方巻など最近話題になっているが、今日まで食べたことがなかった。
 スーパーに行くと恵方巻だらけである。ちょうど昼に何しようと考えあぐねていたので、恵方巻のハーフというやつを1本買ってきて食べる。食べるに当たりせっかく恵方巻を買ってきたのだから、“西南西”を向いて食べてみる。
 
 永井永光さんの『父 荷風』を読み終える。『墨東綺譚』読んで、永井荷風のことをちょっと知りたくなった。図書館で入門書らしきものを探してみたが、この図書館は蔵書が少ないので、荷風に関する本は半藤さんの本とこの本しかなかった。


2月4日 水曜日

 はれ。今日は立春というが、肌寒い。午後より曇ってくる。明日は朝から雪になり、積もるかもしれないという。一応雪対策として、芽を出しているチューリップをプランターごと小屋に入れ、直接地面に植えたチューリップには覆いを掛けておく。
 車にもカバーを掛けて、降雪に備えておく。

 荷風に関する本と一緒に借りてきた小山力也さんの『古本屋ツアー・イン・神保町』(本の雑誌社 2014/11発売)を読んでいたのだが、ちっとも面白くない。神保町の古本屋全店制覇を目論んだ本であるが、それが何の意味があるのかよくわからない。結局古本屋の紹介である。飽きてきて、投げ出してしまう。店の紹介より、本の話か、神保町にまつわる話を読みたかった。
 昨日からこの本を読んでいたのだが、なんか無駄な時間を過ごしてしまった感じで、落ち込む。


2月6日 金曜日

はれ。

 昨日は一昨日から雪が降り積もると予報では言っていたが、どうやら雪はみぞれ交じりで、途中雨に変わり、積もることはなかった。
 雪が積もった場合、雪かきやら、やらなければならない。なので一昨日から準備はしていたのだが、無駄になった。まあ降らなくてよかったのだから、それはそれでいい。また降っても準備をしておけば慌てることもない。
 昨日の夕刊では昨年の大雪がちょうど今ごろだったので、その時大変だったことをふまえて、人もそうだし、交通機関もこの雪に備えて準備していたことが書かれていた。
 確かに昨年の大雪の時は大変だった。だから私も予報で雪が積もると言われれば、昨年のことを思いだし、それなりの準備をしたのだった。
 というわけで昨日は一日中家におり、録画していた映画を1本と、伊集院静さんの“叱咤激励”本を2冊読んだ。
 今日は以前からまた読みたいと思っていた、伊集院静さんの『なぎさホテル』を読み始めた。
 何度か書いているが、私はこの本が大好きで、伊集院静さんの本の中でベストワンと思っている。本当は昨年末に読もうと本を取り出していたのだが、それが今日になった。


2月7日 土曜日

 くもり。
 伊集院静さんの『なぎさホテル』を読み終える。何度読んでもいい小説だ。


2月9日 月曜日

 くもり。昼ごろ小雪が舞い散る。今年一番の寒気が来ているらしく、ものすごく寒い一日だった。

d0331556_16211673.jpg 森まゆみさんの『「即興詩人」のイタリア』 講談社(2003/06発売)を読み終える。アンデルセンの『即興詩人』を手にイタリアを旅した記録だ。作品を巡る旅は面白いもので、作品がガイドブックになる。こういう歴史紀行を読んでいるとイタリアに行きたいものだ。

 録画しておいた「ダイ・ハード ラスト・デイ」を見る。例のごとく「こんなのあり得ない!」、「おお~!」と言いつつ見ていた。
 ただ今回はロシアに出かけて行って、ただドンパチやらかしてきたという感じがぬぐえなかった。
 ブルース・ウィリスも最初の「ダイ・ハード」 から比べると、髪の毛がなくなっちゃったね。
 「ミッション・インポッシブル」のトム・クルーズもそうだったけれど、こういうシリーズものは、その年月が風貌に表れるので、主人公の変化に驚く。トム・クルーズはまだこのシリーズは続けられそうだけれど、ブルース・ウィリスは年齢的風貌からするとこのシリーズを続けるのは無理が出てくるかな?だからラスト・デイなのかもしれない。


2月10日 水曜日

 今朝は寒かった。東京の最低気温が-2.4度だったという。この冬の最低気温だったらしい。
 そのためか出窓に置いてあったシクラメンの葉が元気がなく垂れ下がってしまっていた。慌てて部屋の中に入れて、しばらくすると多少元気になった感じがする。

d0331556_16215925.jpg 伊集院静さんの『三年坂』(講談社 2011/11発売 講談社文庫)を読み終える。













2月11日 木曜日

 はれ。久々に暖かかったが、それでも平年並みらしい。布団を目一杯干す。

 使うかどうかわからないが、履歴書と職務経歴書なるものの下書きを書いてみた。学歴などもういつの頃かわからなくなっている。
 文房具屋さんで買った日本法令の履歴書と職務経歴書のセットになったやつにはご丁寧に生まれた年ごとに、小学校から大学までスムーズに行った場合、それが何年になるか一覧表があったので、大学入学まで使わせてもらった。ただ一度大学を中退しているので、それ以降は指折り数えて書き込んでいく。
 職務経歴書というのは生まれて初めて書いた。下書きをした上で、パソコンで作成してみる。作っているうちに、これは単に自慢話の一覧だな、と思えてくる。こんな自慢話を見せられる側もたまったもんじゃない、と思えてくるが、以前受けた「求職活動支援セミナー」ではとにかくこれまでの実績、自己アピールを書くことと言っていたので、それに従って書いたら、こういうことになってしまった。書いていてうんざりしてくる。こんなの提出しなければならないなんて思うと、おぞましくなってくる。

 図書館で2冊本を借りてくる。読もうと思っていたのだが、履歴書と職務経歴書の作成に手間取り、本の数ページだけ読んだ。

 以前から約束していた元同僚に、会える日時を調整するためにメールを出す。返事は夜遅く来た。どうやら会えるのは来月になりそうだ。


2月14日 土曜日

 はれ。多少暖かくなってきて、近くのウメが白い花をつけ始めたかと思えば、今日は昨日と違い、寒そうなので、花がまたつぼんでしまいそうな感じだ。

 佐伯一麦さんの『とりどりの円を描く』を読み終える。


2月15日 日曜日

 はれ。風が強い日で夜までそれが続いた。雨戸を閉めて、本を読んでいても隣の雑木林の木々が大きく風で揺れている音が聞こえた。今年の冬は強風の日が多いような気がする。

 福田利子さんの『吉原はこんな所でございました』を読み終える。
by office_kmoto | 2015-02-17 16:25 | 日々を思う | Comments(0)

食べ物2題

ジャムパン賛歌


 ここのところのマイブームはジャムパンである。先日急性胃腸炎になって、何も食べられなくなってしまい、やっと食べられるようになってから食べたのがジャムパンであった。これがものすごくおいしく感じられ、以来食事で物足りないときはジャムパンを食べている。しかもワンコイン(500円じゃないよ、100円だ)でおつりが来るのだからうれしい。
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 私が食べているジャムパンはパン屋さんで作っているものではなく、スーパーのパン売り場で売っているやつである。ここ最近食べたジャムパンはPasco、ヤマザキ、神戸屋のものである。
 もちろん好みの問題なので、意見はいろいろあろうと思うが、この3つのうち、今一番好きなのがPascoのジャムパンである。ヤマザキのジャムパンはジャムが少ない気がするし、神戸屋のジャムパンはジャムに凝りすぎていて、パンになじまない感じがしている。その点Pascoのジャムパンはジャムがパンになじみ、なめらかである。味もくどくなく、すっきりしている。
 パンを半分に割って、そのパンの端をちぎって、中のジャムを付けて食べるのにちょうどいいなめらかさと量なのである。なので最近はスーパーへ行くとパン売り場へ行き、Pascoのジャムパンがあると買ってきてしまうのである。
 パンといえば昔読んだ五木寛之さんのエッセイで、五木さんがメロンパンに凝っていることが書かれていた。
 五木さんがメロンパンが好きだと書くと、それを読んだ読者が五木さんにメロンパンを送ってくること。それも結構な数が送られてきて、“配偶者”として登場する奥さんにイヤミを言われたことを読んで笑ってしまったことを思い出す。
 私の場合そんな心配は必要ないが、それでもことある度にジャムパンをかごに入れるので妻は呆れている。当分マイブームは続きそうな気がしている。
 パンでもう一つ思いだしたことがある。コッペパンである。子供のころ、近所の駄菓子屋とも言えるし、パン屋ともいえる汚い店があった。お店の横ではもんじゃ焼きもやっていた。そこでコッペパンを売っており、それにピーナツクリームや苺ジャム、それとミルククリームみたいなやつを好みでぬってもらう。
 好みのものをお店のばあさんに言うと、ばあさんは軍手の指のところを切った手で、ピーナツクリームや苺ジャムなど入っている四角い缶からへらみたいなやつですくいだし、半分に割ったコッペパンにぬりつけていく。われわれ子供たちは多くぬって、と頼み込むが、一向に言うことを聞いてくれないものだった。
 代金はいくらだったろうか?とにかく例の軍手の手でお金を子供たちから受け取る。だから軍手がいつも汚れていた。今から考えれば不衛生きわまりないところだが、当時は何とも思わなかったし、それで腹を壊したということもなかった。バイ菌なんていう観念など考えも及ばなかったし、いろんなものを触っては遊んでいたから、充分対菌性があったのだろう。


いなり寿司


伊集院静さんの本に次のようにあった。


 -義母が去ったということは、あの煮物を二度と口にできないということなんだ・・・・。(「夜半の花」 伊集院 静 著 『それでも前へ進む』に収録)


 伊集院さんの酒の肴を義母は週に一度こしらえて届けてくれていたそうだ。そしてその義母が亡くなって、あの煮物が二度と口にできないことを思い、改めて義母の死を実感するのである。
 この文章を読んで、自分にももう二度と口にできないものがあることを思う。それは母親の作ったいなり寿司である。運動会で食べたいなり寿司の味がいつまでも記憶に残っている。給食がない日に弁当を持っていく日が続いたときなど、さすがにレパートリーが尽きたのか、弁当にいなり寿司が入っている時もあった。私が好きだからそうなったのだろう。
 普通の油揚げに包んだもの、わざわざ油揚げを裏返して、豆腐の白い面を見せて包んだものと2色に別れていた。そこに必ず紅ショウガが添えてある。味は余り甘くなく、さっぱりしていた。
 母が死んでからも、外で売っているいなり寿司を何度か食べているが、母の味とは遠く離れたものだった。大体が甘すぎて、味付けも濃い。たぶん似た味には出会えないだろうと思っている。私の中で母の作ったいなり寿司がかなり美化されてしまっているからだ。
 そういえば、私の結婚式の前、会者と打ち合わせがあり、その時に母に関して何か思い出となるものはありませんか、と聞かれたことがある。私は母の作ったいなり寿司のことを話した。そしてそれが実際の式で司会者から紹介された。それを聞いた母は後で私に、「しょうもないことよく覚えていたわね」と言われた記憶がある。あの時も母のいなり寿司が懐かしかったのである。
 母が生きていれば、あのいなり寿司を作って欲しいということも出来ただろうが、今はそれさえも言えなくなってしまった。残るのはあの記憶だけである。
by office_kmoto | 2015-02-13 07:42 | ものを思う | Comments(0)

岡崎 武志 著 『昭和三十年代の匂い』

d0331556_20274652.jpg こういう本を読んでいると“そうそう、そんなのあったね”という感じで、懐かしさにとらわれる。まあそれが目的でこの本を読んだのだから、それでいい。だから読んでいて、そこに書かれていることが、懐かしい!と思ったことを書き出してみる。

 まず「8マン」である。
 「8マン」というだけでもう懐かしさがこみ上げてくる。漫画は上半身だけ走る格好で動かないまま、足だけシャカシャカ動いているというやつである。
 「8マン」は確かに懐かしいのだけれど、話の内容は一切覚えていない。
 当時のアニメはお菓子メーカーなどがスポンサーになっていて、商品とタイアップしていた。たとえば「鉄人28号」は「グリコアーモンドチョコ」、「8マン」は「のりたま」、「ハリスの旋風」では「ハリスガム」、そして「鉄腕アトム」は「マーブルチョコ」だった。
 確かに言われてみれば、「鉄人28号」主題歌の最後に「グリコ、グリコ、グリーコー!」と盛りあがって終わっていた。
 マーブルチョコに入っていた鉄腕アトムの擦って貼り付けるシールは懐かしい。詳しいことは忘れてしまったけれど、当たりがあれば、大きなサイズにアトムのキャラクターがいっぱいあるシールがもらえたはずだ。
 小学校の頃、クラスの女の子がそれが当たり、見せてもらったことがある。ものすごく羨ましかった記憶がある。
 小学校の運動会で「宇宙少年ソラン」のテーマソングを縦笛で吹きながら行進した記憶もある。
 この当時のアニメソングといえば、ソノシートであろうか。ありましたよね。レコードではなくペラペラのやつ。この本によると次のようにある。


 それからポータブル電蓄とセットで思い出されるのが「ソノシート」だ。形や仕組みはレコードと同じだが、素材が違う。下敷きよりまだ薄い。端をつまむと、ぐにゃりと曲がるペラペラの素材だった。マジックインキと同じく、これは朝日ソノラマの登録商標で、他社は使えない。


d0331556_20285832.jpg  実は我が家にもひとつだけソノシートがある。本の付録として付いている。本の名前は『西欧精神の探求』というNHKが出していた西洋中世史のお堅い本だ。本棚から取り出してみるとソノシートが3枚セットになっている。もちろんアニメソングではない。グレゴリウス聖歌である。


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 中の解説には「ソノシート」をと書いてある。この本によると「ソノシート」は登録商品だからこの名称を使っちゃいけないはずだが使っている。当時はこのあたりおおらかだったのだろう。そもそもソノシートはソノシートとして普及していたから、それで許されたのかもしれない。もちろん今は再生機がないから聞くこともできない。

 私が生まれた昭和31年は「もはや戦後ではない」と言われた年であったあったが、それでも戦争の爪痕は子供ながら見た記憶がある。傷痍軍人の物乞いする姿である。


 たしかに、現実的な風景として、昭和三十年代あたりまで、駅前に白衣の傷痍軍人が座り込んで物乞いする光景は普通のことだった。戦禍で片腕、片足を失った人を町で見かけると、戦争のイメージはまだ生々しかった。


 テレビが家にやってきた頃の話も懐かしい。


 あの当時、テレビを床の間に置く家が珍しくなかった。テレビは神様みたいなものだった。白い布をかぶせる家もあった。


 白い布どころか、ブラウン管の前に観音扉のついているテレビもあった。


 そうだった。確かにテレビには白いレースの布が画面に被されていた。とにかく当時の家電は総じて仰々しかった。ステレオにしたって、家具調ばりでごっつい。今からすれば想像できないくらいだ。
 それとここに書かれているようにテレビを1台買うと、やたら変なものが付いてきた。例えばここに書いてあるには「ナショナルが『黄金の茶釜』、日立は『維新の大砲』、東芝が『幸福を呼ぶ十二支の置物』など。私が知っているのは『黄金の茶釜』である。
 とにかくテレビは高かったから、よく電気屋さんに修理に来てもらっていた。この本の巻末対談に面白いことが載っている。


 岡崎 テレビは故障すると叩いた?
 岡田 叩きましたね。
 岡崎 実際、あれ、配線のハンダ付けが甘くなって、叩くとまたつながって映ること があるんやな。
 岡田 叩くと映りましたね。叩き方もあるけど。
 岡崎 可愛いよね、とにかく電化製品が人間っぽくて。長時間たつと、熱を持って暑 くなるし。なんか生々しい感じでしたね。
 岡田 調子が悪かったら、ちゃんと見てわかりますものね。テレビが壊れて、電気屋 さんを呼んだら、裏のフタを開けたらちゃんとダメな真空管、黒いですからね。ボコ って、子ども心にも「ここが悪かってんや」って。
 岡崎 見た目で悪い所がわかる・・・・・・今のデジタルの電化製品なんか、故障し たら、もうまったくわからんものな。
 岡田 昔は電気屋さんが、めちゃでかい真空管、取り替えて修理完了。今、考えたら 「どんな簡単な回路なんや」というのはありますね。


 私も電気屋さんがテレビを修理に来るときは、固唾を呑んでその修理を見ていた。テスターを使い、ハンダ鏝でハンダ付けする。あの松ヤニの匂いなど懐かしい。確かに真空管は黒くなっており、ボコって抜いて取り替えていた。真空管もやたら大きいものだという記憶がある。

 不二家のお子様ランチ、渡辺ジュースのもとも懐かしい。自動販売機の上がドームになっていて、その中にオレンジジュースがシューって噴水みたいに噴き出しているやつも確かにあった。
 そういえばお米屋が持ってくるプラッシーといジュースもあったなあ。何か薬臭いジュースだった。あれ武田薬品が作っていたからだろうか?なぜお米屋が持って来たのだろうか?
 さて、この本は昭和30年代にあった“匂い”に触れている。当時それぞれの家にはその家の匂いがあったし、製品には粗悪品ならの匂いがあったことを書いている。今のように「臭み」や「匂い」を病的まで消し去ることから考えれば、考えられないことであるが、その匂いの話は懐かしい。汲み取り式トイレ、ゴムの匂いがする上履きなど、ある意味リアルに、そして微かにそのもの存在を匂いで感じさせていた気がする。


 まずは汲み取り便所。必ず財布を落とす奴がいた。一応、水道でじゃあじゃあ水をかけたりするが、この匂いたるや、三千年先まで残るかと思うほど、強く沁み、取れるもんじゃなかった。


 私の小学校の友達がやはりトイレで財布を落としてしまい、困っていたのを母がその子の母親のところまで行って、事情を説明していたのを思いだした。
 また当時畑が多くあって、野壺もあった。台風が来たときなど、排水が間に合わず畑が浸水すれば、野壺から糞尿があふれ出ていたものだ。
 学校の上履きだって、学年ごとにつま先に色の付いたゴムが覆ってあり、確かにゴムの匂いがぷんぷんした。作りも雑だから、すぐパカッと口があいた。
 確か高校も似たような上履きだった。やはりつま先のゴムの色が学年ごとに違った。私たち悪童は、自分たちの上履きがダメになると、下級生の上履きを下駄箱から盗んで、ゴムのところを自分の学年の色にマジックで塗り直して履いていた。だからまともに上履きを買った記憶がない。

 私はよく「音」、あるいは「声」で昔を思い出せてくれる本を読んできた。いずれそれらを思いだして、私なりの懐かしい「音」、「声」を書いてみたいと思っていたが、匂いも確かにこのようにあの当時ことを思い出せてくれるものだとこの本を読んで思った。

 最後にトローリバスの豆知識を知ったことを書く。


 トローリバスは、かたちはバスだが、区分では「電車」の仲間で、その証拠にナンバープレートがない。運転手も大型二種のほかに、「動力車操縦者運転免許証」を必要とする、とのことである。


 へぇ~、そうなんだ!

 『江戸川区の昭和』という購読者が昔から江戸川区に住んでいる人でなければ、絶対に買わないだろうと思われる写真集の広告が新聞の折り込みに入ってくる。私も懐かしくてちょっと欲しいなと思うのだが、如何せん9,900円と高い。で、そのチラシを取ってある。そこに載っている「小松川大橋を渡るトローリバス<昭和30年代>」という写真にトローリバスの後ろ姿の写真がある。それをよく見てみると、確かにナンバープレートが見当たらないようである。
 そういえばこの小松川橋、東日本大震災の時、歩いて渡ったんだな、とふと思う。


岡崎 武志 著 『昭和三十年代の匂い』 筑摩書房(2013/05発売) ちくま文庫
by office_kmoto | 2015-02-10 20:35 | 本を思う | Comments(0)

常盤 新平 著/中野 朗 編 『国立の先生山口瞳を読もう』

d0331556_17114410.jpg 私はこれから山口瞳さんの「男性自身」シリーズをじっくり読んでみたいと思っている。そのためにこの「男性自身」がどういうものだったのか改めて知りたかったので、この本を読んでみた。
 ちなみに「男性自身」とは週刊新潮に山口瞳さんが直木賞受賞した昭和38年(1963年)の12月から亡くなるまでの31年間、延べ1614回、一度の休載もなく続いた連載であった。
 常盤さんがサラリーマンであった頃、帰りの電車で週刊新潮をあらかた読んでしまい、残るは敬遠している連載ものである小説と「男性自身」だけとなってしまった。下車までに時間があったので、「男性自身」を読み始めた。と同時に常盤さんにとって山口瞳という作家が身近になったという。その後で国分寺駅南口の古本屋さんで『江分利満氏の優雅な生活』の再販を手に入れ、その後山口家に出入りするような関係となった。
 常盤さんはこの頃生活は荒れていたようで、山口さんを一番怒らせ、心配させた人であった。
 「男性自身」を支持していた読者はまともな市民生活を送っていて人たちであったが、


 私は先生の言うことを聞かずに、家庭をないがしろにし、女と別れずに子供を二人までつくり、家を飛びだして彼女の家にころがりこんでいた。
 自分から離婚を言いだせずに、一方ではいずれはいっしょになるんだからと言って、どちらからも身勝手すぎると言われた。


 つまり当時、「男性自身」を読者らしい生活をしていなかったらしい。

 話はちょっと外れてしまうけれど、常盤さんが『江分利満氏の優雅な生活』を買った古本屋さんって、もしかしたら椎名誠のデビュー作である『さらば国分寺書店のオババ』の本屋さんじゃないのかとふと思った。あるいは違うかもしれない。

 ではリアルタイムで「男性自身」を読んでいた読者は「男性自身」をどう捉えていたのだろう。常盤さんが解説している文章から拾い出してみると、


 「男性自身」を読んでいると、そのとき「自分が何をしていたかを思い出す」


 山口瞳の読者は私を含めて、氏の作品をたんに小説としてエッセーとして読んできたのではなかった。暮らしてゆく上で必要欠くべからざるものとして読んでいた。読者のほうで勝手に氏とのっぴきならない関係があると思いこんできたのである。君は山口瞳を読むかという一点で人と親しくなったり、離れていったりした。これは作家のあずかりしらない、作家と読者の蜜月関係であろう。


 読者が漠然と考えていて言葉にならなかったことを『男性自身』のなかに発見する。


 とある。
 ある意味「男性自身」は読者である市民の代弁者みたいな性格を帯びていたのかもしれないし、よく書いてくれた、という気持ちにさせたのかもしれない。また当時読者がしていたことをこの「男性自身」を読み返すことで、思い出せる連動性みたいなものを持っているようだ。当時、時代を共有していたのだろう。それだけ世相も山口さんは書き込んでいたのだ。
 常盤さんの山口瞳をどう見ていたのかも興味深い。もちろん山口さんを心酔しているところがあるので、贔屓の引き倒しになりかねないところもあるが、書き出してみる。


 無頼と市民とが渾然一体となっていたのが山口瞳という作家だったと私は思っている。無頼であって、あれだけ市民である人はいなかったし、市民であって、あれだけ無頼である人もいなかった。


 山口瞳という作家を私はジャーナリストともみていた。ジャーナリストとしての目と耳を持っていなければ、『男性自身』がこれほど長くつづくはずがない。ジャーナリスト以上にジャーナリストではないかと私は思っていた。


 『江分利満氏の優雅な生活』から『新東京百景』まで、私がまず感じるのは、文章そのものが、山口氏がよく使う英語を借用すれば、「リッチで」あるということだ。豊かであることだ。文章の一行一行にお金がかかっていると感じられるけれど、もちろん、それだけではない。許容度が大きいということもあるし、そうでなければ、「男性自身」の連載が二十年以上もつづいているということがなかっただろう。「男性自身」に一貫して流れているのは、フェア・プレイの精神である。他人のファイン・プレイにはつねに拍手を惜しみなく送ってきたことである。そのかわり、「ずるい奴、抜け目のない奴、heartのない奴」を許すことはなかった。


 この「男性自身」シリーズを読むのが楽しみだ。これはなかなか面白くなりそうだな、という気がしてくる。


常盤 新平 著/中野 朗 編 『国立の先生山口瞳を読もう』 柏艪舎(2007/08発売)柏艪舎文芸シリーズ
by office_kmoto | 2015-02-05 17:12 | 本を思う | Comments(0)

平成27年1月日録(下旬)

1月16日 金曜日

 はれ。

 今朝方、急にトイレに行きたくなり、その後下痢は止まらず、何度もトイレに駆け込むんだ。嘔吐も繰り返し、ひどい状態となる。
 近所の診療所に妻に車で連れて行ってもらい、診断を受けた結果、急性胃腸炎と言われる。急性胃腸炎というのは何なのかよくわからないが、多分食あたりだろう、と思われる。そういえば昨日の夜から気持ち悪かった。
 下痢止め、嘔吐止め、整腸剤の薬を3日分もらって帰り、そのまま横になる。しばらく下痢、嘔吐は続いたが、夕方より楽になり始める。お陰でヘロヘロとなる。
 もちろん食欲は一切ない。ポカリスエット2本飲んだだけだ。


1月17日 土曜日

 はれ。

 何とかジャムパン1個を半分に分けて、1日かけて食べられるようになる。夕方になってかなり楽になる。夕方残ったジャムパンを食べたが、ジャムパンがすごくおいしいものだ、と思った。


1月18日 日曜日

 はれ。

 下痢、嘔吐は完全に止まったが、フラフラする。食欲はまだない。
 近所の本屋さんに注文してあった本が届いたというメールがあったのだが、この状態なので取りに行けず、今日妻の買い物に車で乗せていってもらい、受け取ってくる。


1月19日 月曜日

 はれ。

 今日は最後の失業認定日だ。これで私は完全に無収入になる。
 このハローワークに来るのもこれが最後になるだろうか。ここは失業認定日だけに来るところで、それがなければわざわざ電車賃を使って来ない。区内にハローワークの出張所みたいなところがあるから、今後そこに通って職探しをしようと思う。
 体調は万全ではなく、歩いていると立ちくらみがする。認定後まっすぐ家に帰る。


1月20日 火曜日

 はれ。

 ふと、お年玉年賀はがきの当選発表日はもうあったのだろうか、と思った。別にそれを期待しているわけではない。だいたい切手シートしか当たったことがないのだから、それ以外の当たりが本当にあるのかい、と思っている。けれど昔から年賀状をもらえば、それを読む楽しみとともに、おまけとして当選番号を見るのが習慣となっている。
 今回もその習慣に従っただけのことだ。昔は当選発表日が15日の成人式の日と決め打ちとなっていたから、15日もしくは翌日の新聞で番号を確認していた。ところが成人の日が1月の第二月曜日と年によって変わってしまうものだから、成人の日がいつなのか、カレンダーを見ないとわからなくなってしまった。
 その日を祝日とするくらいだから、本来その日であることに意味があったはずなのに、ハッピーマンデー制度という中途半端な制度のお陰でわけがわからなくなってしまった。
 ハッピーマンデー制度は連休を増やして家族でレジャーを楽しんでもらおうという主旨なのだろうが、それがなぜ成人の日でなければならなかったかを知らない。
 1月15日はもともと「小正月」という昔からの行事があって、その時に元服式も古来から行われ、これにちなんで成人の日が制定された。
 しかしその成人の日が15日でなくなってから、その伝統的意味を失ってしまった。だから成人式も単にイベント化してしまう。単に大手を振って酒が飲めて、馬鹿騒ぎできる日になってしまい、その責任の重さをを感じさせなくなってしまったのではないか、という気がしてならない。
 まあそれならそれでいい。ところで今年は成人の日が影が薄くなってしまったので、例年この日にあるにあるサントリーの広告を見忘れた。当日の新聞を探して見てみると、ちゃんとある。伊集院静さんの文章だ。
 昔はこれを山口瞳さんが書いていた。何でこれを思いだしたかというと、今読んでいる常盤新平さんの山口瞳さんのについて書いた本を読んでいたからだ。ちょっと懐かしくなり、確か山口さんが書いた成人の日に新成人に贈る言葉をまとめた本があったはずだ、と自分の本棚を探してみる。

 夕方よりOne Driveにアップされた娘たちが撮った孫の写真をダウンロードし、クリスマス前に娘のところを訪ねた時と、3日、4日と我が家に来た時の孫の写真を幾つか選びプリントアウトする。


1月21日 水曜日

 くもりのち雨、時々雪。朝から曇り空で、冷え込みが厳しかった。時々雪が風に舞う。午後より冷たい雨に変わる。最高気温が2.8度だったという。

 寒い日が続くためか、持病の腰痛が出てくる。今日は特に寒かったため、痛みがひどく、午後よりベッドで横になる。横なりながら常盤新平さんの『国立の先生山口瞳を読もう』を読み終える。今年は何としても山口瞳さんの男性自身シリーズを読破したいと思っているので、そのための勉強本として読んだ。常盤さんによる山口さんの本の解説などが収められている。結構参考となった。


1月24日 土曜日

 くもり。天気予報では今日は晴れることになっていたが、2日続きの雨がおさまったものの雲がとれない感じの1日であった。

 正月、父親のところに行こうと思っていたが、父親がインフルエンザに罹ってしまったので、延期になり、今日、ご機嫌伺いに行く。元気そうであった。

 岡崎武志さんの『昭和三十年代の匂い』を読み終える。
 
 先週末から急性胃腸炎に罹ってから、どうも体調が思わしくない。調子が今ひとつ出ない感じだ。普段のペースがなかなか取り戻せずにいる。


1月25日 日曜日

 くもり

d0331556_206180.jpg ジョルジュ・シムノンの『メグレと老婦人』を読み終える。

ジョルジュ・シムノン 著/日影 丈吉 訳 『メグレと老婦人』 ハヤカワ・ミステリ文庫 早川書房(1976/11発売)









1月27日 火曜日

 はれ。今日はかなり暖かかった。

 いつも散歩をする親水公園の、早咲きのウメが咲いていた。ただ他にあるウメはまだ蕾のままなので、この歩道にあるウメが多く咲くのはもう少し後かもしれない。いずれにしてもまずウメが咲き始めたというだけで、なぜかうれしくなってくる。春が待ち遠しいのである。
 花といえば、我が家にある年代物のシクラメンが蕾が大きくふくらみ、花を咲かせようとしている。
 普通売っている鉢植えのシクラメンはクリスマスから正月に花を咲かせているが、我が家のものはその時期を逸する。これからなのである。
 もう何年も前に買った鉢植えである。それ以来素人が管理しているから仕方がない。それでも毎年咲いてくれるだけでもうれしい。ただ遅く咲いた分、長く花を見られる。
 それと昨年植えたチューリップの球根が芽を出しているのがわかった。今年も新しい球根を買ってきて、それはプランターに植えていて、芽を出しているのだが、昨年のものは同じ時に植えてもなかなか芽を出さなかったので、やっぱりダメだったかな、と思っていたのだ。
 もともとチューリップは花が咲いたら、それでおしまいと思っていた。ところがネットで調べてみると、花が咲き終わって、それを切り取って、葉が枯れてから球根を掘り上げれば、次も花を咲かせると知ったのである。その掘り上げた球根を取っておいて、別に植えたのだ。まだ花を咲かせるかどうかはわからないが、咲いてくれればこれもうれしい。
 さつきやつつじもよく見ると、花芽か春の葉を伸ばすための新芽かよくわからないが、とにかく少しふくらんだものが先っぽにたくさん付いている。これも春の準備は怠りなくしていることがわかる。

 永井荷風の『墨東綺談』を読み終える。


1月29日 木曜日

 はれのちくもり。

 今日も寒い日であった。明日東京でも雪が積もるかもしれないと言っている。

 池波正太郎さんの『私の歳月』を読み終える。続いて『新 私の歳月』を読み始める。



1月30日 金曜日

 昨日から関東地方では雪が降るとニュースで流れていたが、朝方だけ雪が降った。その後雨となる。でも寒い一日だった。お陰で今日は雨戸を開けることはなかった。

 ビデオに録画しておいた「ミッション・インポッシブル/ゴースト・プロトコル」を見る。話はつまらなかったけれど、アクションはそれなりに楽しめた。
 私はやはりあの「スパイ大作戦」のテーマソングに反応しちゃうな。そういうのってあるでしょう?例えば金麦のCMなんか、どうしてもバックでかかる曲に惹かれるのと同じだ。たぶん中学校の頃深夜放送を必死に聞いていた世代はそうなるのではないかと思う。ビールよりオールナイトニッポンを思い出してしまう。
 それにしても「トップガン」から比べるとトム・クルーズも歳をとったなあ、と感じた。

d0331556_2065524.jpg 『新 私の歳月』を読み終える。池波さんの“言い分”が相変わらず心地よい。


 昔はよかったんだよ。田舎から来た政治家や役人どもが、寄ってたかって東京をだめにしちゃった。自分の住み暮らした町じゃないから平気なんだ。とにかく浅草でも、大川端でも、深川でも、川と人びとの暮らしとは切っても切れない関係にあったわけだよ。船の情緒、水の情緒というものがなくなってしまった東京なんて、東京じゃないんだよ。それをねえ、川という川を埋め立てて、日本橋の上に高速道路をつくったりするんだから、どうにもならない。([鬼平]の花見)


 これは何度か書き出した気がするが、やはりもっともだ、と思うのでまた書き出した。


 収支の感覚というのは、
 「人間のやっていることには、良きにつけ悪しきにつけ、必ずツケがまわってくる」、「結果がそうなるについては必ずどこかに伏線がある」(「収支の感覚」について)


 池波さんのエッセイを読んでいると、自分の作品には結果がそうなるために、きちんと伏線を書き込んでいるという。それは当たり前のことだ、という。作品にはこの収支の感覚がきちんと反映しているに違いない。池波さんの鬼平、梅安など読んでみたくなる。


 仕事に夢中になることは、それ自体結構なことだと思います。職人気質でね。だけれども仕事に中毒してしまうと大局がみえなくなります。(「収支の感覚」について)


 なるほだなあ。自分では仕事に夢中になっていると思っていたことが、実は中毒になっていたんだと気がつかなかった。今になってそう思った。


池波 正太郎 著 『新 私の歳月』 講談社(1992/10発売) 講談社文庫


1月31日 土曜日

 はれ。夜より風が強まる。明日もかなり寒そうな予感をさせる。

 娘と孫が来る。娘が高校時代の友人に会うため、こちらに出てきて、そのままうちで一泊していく。
 本当は明日、ここのところ通例としている娘の家族と一緒に浅草寺へ初詣に出かける予定でいた。しかし娘も孫も風邪をひいていて調子が今ひとつ良くないのと、明日は今日よりさらに寒くなるようなので、延期にする。
by office_kmoto | 2015-02-01 20:11 | 日々を思う | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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