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南木 佳士 著 『天地有情』

d0331556_6392582.jpg 天地有情とは南木さんの座右の銘であるそうだ。出典は哲学者大森荘蔵のエッセイによるらしい。意味は、


 自分の心の中の感情だと思い込んでいるものは、実はこの世界全体の感情のほんの一つの小さな前景に過ぎない。此のことは、お天気と気分について考えてみればわかるだろう。雲の低く垂れ込めた暗鬱な梅雨の世界は、それ自体として陰鬱なのであり、その一点としての私も又陰鬱な気分になる。天高く晴れ渡った秋の世界はそれ自身晴れがましいのであり、その一前景としての私も又晴れがましくなる。簡単に言えば、世界は感情的なのであり、天地有情なのである。その天地に地続きの我々人間も又、其の微小な前景として、其の有情に参加する。それが我々が「心の中」にしまい込まれていると思いこんでいる感情に他ならない。(天地有情)


 こういうもの考え方は好きである。特に最近はそう思う。自然が人間の心に及ぼす影響というのは、確かにあるはずだ。この思想は人間とは自然の一部であり、そこに「参加」しているだけである。人間は自然をコントロールできるほど、それを超越している存在ではないのだ。

 さて、このエッセイでも南木さんは開高健さんのことを触れている。


 田舎暮らしと人見知りの激しさゆえ、小説を書くうえでの生身の師匠を持ち得なかったわたしだが、小説家とは本来こういうものでなければならない、と勝手に師と仰いでいた作家はいる。それが開高健だ。(開高健、その過剰なる語彙)


 ところでその師と仰ぐ開高さんの作品を南木さんはわずらわしく感じるようになっている。


 正直なところ、いま、開高健の作品、とくに小説を読み返してみると、その過剰なる語彙がわずらわしく感じられることがある。(開高健、その過剰なる語彙)


 これがよくわかるのである。確かに開高さんの作品を最初に読んだとき、その語彙の豊穣さに圧倒される。ひとつの事象、あるいは人間、あるいは自然、あるいは食べ物を表現するとき、これでもかというぐらい漢字が並ぶ。その漢字の多さによって、そのものの奥深さを表したいという、それこそその奥にある本質を突き詰めるかのような表現方法をとる。
 だから本を読むことに楽しみを覚えた頃、開高さんの文章表現はある意味衝撃的であった。しかしその後いろいろな作家が書く文章を読んでくると、そこまで必要なのだろうか、と思うようになった。いや、本当はそうではないのではないか、と思うようになってきた。まさしく南木さんがいう通りだと今では思うのである。


 単純で平易な言いまわしの方が、潤沢な語彙で塗りかためるよりも、人間の存在そのもののしぶとさ、不気味さを読者のからだの奥深くに届かせることができるのではないかと思えてならない。
 おそらく、それは開高健自身がいちばんよく理解していたのだろう。豊か過ぎる語彙を駆使したこの作家は、きっと誰よりも言葉の無力さを知り抜いていたのだ。(開高健、その過剰なる語彙)


 本当は平易な文章ほど難しいものはないと思う。難しい漢字を使い、あるいはカタカナを使い、権威あるような表現を使って読む側を惑わせる、圧倒させる文章は、ときにことの本質を見失わせないか、とも思う。いくら言葉を紡いでも現実には太刀打ちできないのではないか、と思うこともあり、そう思ったとき、言葉は無力なのだ、と感じてしまう。確かに南木さんが言うように、開高さんはそのことを知っていたのだ。知っていたが、そうするしかなかったのだ、と思える。
 南木さんの文章には確かに開高健の影響を感じるところがあるが、自分に起こったことを出来るだけリアルに表現されている。それはエッセイ、私小説という形だから出来ているところがあるのかもしれない。
 そんな言葉の一言半句を書き出してみる。


 死にゆく人を前にすると、世俗の価値の原色が急速に色あせる。ただの存在に還ってゆく人を見ていると、地位とか名誉とかいったものは存在を底上げしていた幻影なのだという事実が身に沁みて理解される。(厳寒の日)


 ふるさとが懐かしいのは風景そのものではなく、そこで共に生きてきた人たちなのだとの感をあらためて深くした。(ふるさとの裏山)


 病気とは、身体との距離のとり方を見失ってしまうことにほかならない。(本を読む元気)


 生きるっていうのは、きっとだれかしら憎まれ続けることなのだ(くしゃみ)


 しかし、人生が復路に入っているのを明確に自覚する今日このごろ、往路でほったらかししてきた私の過去の世界の細部をときにきちんと見つめ直してみようと努めている。(井戸)


 最初からなにもしないで自然死を待つのも勇気がいるが、一度始めてしまった延命措置を途中で中断するのはもっと苦痛なのだ。(井戸)


 もはやだれからも、生き急いでいる、と指摘されない歳になった。
 だから、気がねなく、あせっている。(あとがき)


南木 佳士 著 『天地有情』 岩波書店(2004/01発売)
by office_kmoto | 2015-04-28 06:41 | 本を思う | Comments(0)

五木 寛之 著 『風に吹かれて』 『ゴキブリの歌』 『地図のない旅』 その2

 先日マイブームとしてジャムパンににはまっていることを書いた時に、五木さんのメロンパンのことを思い出しそれを書いた。その後それが気になり、改めてどんな風に書かれていたのか知りたくなった。それで本棚の奥にあった五木さんの初期のエッセイ集を引っ張り出して読んでみたのだ。
 これらのエッセイ集を読んだのが高校二年の頃だったと思う。とにかくもう40年以上前に読んだ本だからほとんど忘れているのだけれど、何故がメロンパンのことは覚えていた。で今改めて読み直してみると懐かしかったので、その“メロンパン事件”の顛末を書き出してみる。


 物心ついてから青春前期にさしかかるまでに慣れ親しんだ味こそ、唯一無二の味であり、人間はすべて最後はそこへ回帰するのではあるまいか。私個人に関して言えば、さっきあげたメロン・パンなど、そのひとつの例であって、およそ何の普遍性もないしろものなのだ。メロン・パンと言ったところで、メロンと関係あるわけではない。ただ、菓子パンの表面が何となく黄色っぽく盛り上がっていて、その上に網目がつき、白いザラメがまぶしてあったりする。きわめて人工的なパンである。(食い狂いの世代 『ゴキブリの歌』収録)


 私はあのメロン・パンという、いかにもインチキくさい菓子パンの、黄色いかさぶたの部分が、今でも好きで仕方がない。これは私個人の人生とかかわり合った好みであって、それに関しては他人の干渉を絶対に受けたくないもののひとつである。(食い狂いの世代 『ゴキブリの歌』収録)


 といった感じでメロンパン賛歌を書いたわけだが、それがとんでもないことに発展する。


 「なにか食べるものないか」
 と私は例によって言った。
 「テーブルの上にあるわよ」
 「なんだ、これ」
 「ヒヒヒ」
 テーブルの上に紙袋があって、五木さんへ、とマジックペンで書いてある。破ってみるとメロン・パンが五個転がりでた。
 「どうしたんだ一体」
 「さっき読者の方がみえて、五木さんに、って」
 「くれたのか」
 「毎日新聞の日曜版で読みました、って」
 「困るなあ」
 「悪いから本を一冊さしあげたわ」
 「いくらの本だ」
 「文春から出たやつ」 
 「七百五十円だぞ、馬鹿。角川文庫の方をあげればよかったのに」
 「ケチねえ、あなたって」
 「そうじゃない。おれは小説家だから予見を語るのだ。もしもだな、毎日新聞を読んだいろんな人たちがメロン・パンをおれに送ってくれたらどうする?そのたびに七百五十円の本をお返ししてた日には家の経済は破滅だぞ」
 などと、ぶつぶつ言いながらメロン・パンを食べる。
 「どう?おいしい?」
 配偶者は明らかに軽い蔑視のまなざしで私を見あげ、笑いをこらえたおももちである。
 「うまい。死にそうだ」
 と、答えたのは嘘であった。まずいのだ。本来、黄色い皮の薬品くさい部分のパサパサした感じが私を魅了するべきなのに、肝心のその部分がねっとりと湿っていて、気持が悪いのである。
 「これはいかん」
 私はその原因を発見して大声で叫んだ。
 「どうしたんですか」
 「メロン・パンの表面は乾いていなければならない」
 「犬の鼻は乾いてちゃいけないのよ」
 「犬の鼻はメロン・パンとちがう。正統的なメロン・パンの在るべきすがたは、表面がかさかさして、爪でおとすとポロリとこぼれるようでなくてはならぬ。これは濡れているじゃないか。原因は、このパンを一個ずつ愚劣にも包装してある完全気密のビニール袋にあるのだ」
 「そういえばそうだわ」
 「衛生的か耐久的か知らないが、メロン・パンをビニール袋に密閉するのは間違いだ。そもそもこの皮の堅さ、乾き方、エリオットの言うドライ・ハードネスがメロン・パンの生命ではないか。外は堅く、内は柔らかく、つまりハード・ボイルドのココロなのだ。アパテイアの精神、ニルアドミラリの外貌を持ったパンこそ、真のメロン・パンでなくてはならぬ。それがビニールに包まれて、このようにふにゃふにゃでは!わが愛するメロン・パンの美しきおもかげはどこへ行ったか!メロン・パンのこころ、コラソン・デ・メロン・パンはいずこにありや。そう思わんか、おい」
 「冷静に、冷静に、アトラキシンでもあげましょうか」
 「メシにする。ヤキソバでもいい」
 「谷崎賞のパーティーでちゃんといただいてくればいいのに」
 女は常に現実的であり、男はのぼせている時は妙に冷静なものなのだ。

 だが、数日後、私は自分の小説家としての予見才能にははなはだしく自信を持つこととなった。驚いたことに公開の席上、つまり講演会だとかサイン会だとか、番組の録音だとかいった場面で、私のところへ次々と差し入れられる現象が相ついだのである。


 そしてその後も、私の自宅へは郵送でメロン・パンが一日に三個はとどくのである。お礼状は出さない。もしもそんなものを出して、クリスマスにメロン・パンの小包が殺到してきたらどうなるか。私は神に誓って言うが、メロン・パンも(も、である)好きなのだ。メロン・パンだけが好きなのではない。
 「あなたが悪いのよ。綺麗なお花が好きだって書けばよかったのに。そうすれば-」
 配偶者は、本当は私にハンドバッグや香水が好きだと書かせたかったにちがいないのだ。だが世の中そう甘くないぞ。無礼もの。(メロン・パン筆福事件 『ゴキブリの歌』収録)


 五木さん夫婦のやりとりが懐かしいし、今読んでも笑える。奥さんの会話はまだ面白いものがある。


 「お仕事、はかどってますか」
 「当り前だ。早くあっちへ行け。気が散って仕事にならんじゃないか」
 「何枚くらいおできになりました?ヒッヒッヒ」
 「あと・・・・・枚で終りだ。早く行けったら、行け!」
 ウヒャウヒャと、こっちの苦境を見すかすような笑い声を発しつつ、敵はドアをしめて去って行く。


 「これ、どうしましょう」
 「なんだ、それは」
 「国勢調査ですって」
 「どうしてそんなものが家にくるんだ」
 「日本人全部のいろいろなことを調べて、統計を出すんでしょう。よく知らないけど」
 「それなら民勢調査と言うべきだ。そうじゃないか」
 「あたしに文句いったって」
 「おれはもう一字も書くのはご免だ。きみが書いてくれ」
 「だって、ここんとこどう書くのよ」
 「どれどれ」
 「ここの学歴のところよ」
 「おれのことか」
 「そう」
 「事実を書けばいいだろう」
 「事実、って?」
 「早稲田大学文学部中退、いやそれじゃ経歴詐称になる。え-と、大学抹籍としておくか」
 「そんなのないわよ。調査票には大卒とか高卒とかあって、該当するところに○をつけるようになってるもの」
 「大抹、というのはないのか」
 「あるわけないじゃないの」
 自慢じゃないが、私は早稲田に人並み以上に長くいた。そのあげく授業料を払えず、抹籍になってしまったので、大卒でも中退でもない。
 「仕方がないわね。では事実どおり、高卒に○をつけることにするわ」
 「ちょっと待てよ」
 「なんで国勢調査にそこまで書かなきゃならんのだ。一体どういう権利があって国は人民の私事を調べるのかね。おかしいじゃないか」


 頭では学歴が人間の値打ちと全く関係ないことを承知しており、人にもそうしゃべっり、文章にも書いているのに、いざ自分のこととなると何となく口惜しい感じがあるのである。素直に高卒に○をつけず、大抹にこだわるのは、やはり一種の学歴コンプレックスのなせるわざなのだろうと思う。(秋の日はあやしくも 『ゴキブリの歌』収録)


 カンヅメで仕事をしている夜半に、配偶者から電話がはいった。
 「仕事中にかけるなと言っただろう」
 私はひどく不機嫌な声で言う。
 「何年一緒に暮らしているんだ。そのくらいちゃんとわかってくれ」
 「でも、ぜひこれだけは知らせときたいと思って」
 「いいから切ってくれ、今どうにも進まなくて苦しんでるところだ。電話は困る」
 「いいニュースなのよ」
 「なんでも関係ない」
 「じゃあ切るわ」
 「ちょっと待て。どうせ電話をかけてこちらの思考を中断させたんだから喋ってもいい。仕方がないから聞いてやる。なんだ、早く言いたまえ」
 「税務署がねえ」
 「もう切る」
 「ちょっと待ってよ。いい話なんだから」
 「いいわけないだろう」
 「金沢の税務署から手紙がきたの。去年の地方税を納めすぎてるから返すって」
 「本当か。まさか」
 「何かの間違いらしいわ。でも返すっていうのに辞退することはないでしょう」
 「当り前だ。くれぐれもよろしくお伝えしておいてくれ。来年もよろしくって」
 「今年から横浜の税務署よ」
 「そうか。どうもごくろうさん」
 「現金なひと」(電話についての感想 『ゴキブリの歌』収録)


 五木さんが早稲田の露文科に入学した頃、初めて教えを受けた先生のことを書いた「横田瑞穂先生のこと」も読み返しているうちに懐かしくなる。


 どうにもならなくなると、私はしばしば京成電車に乗って、青砥だったか立石だったか、あの辺の製薬会社に血を売りに行って急場をしのいだ。ある冬の午後、やはり売血を終えて上野から高田馬場へ出た。授業に出るつもりで来たのだが、気分的に疲れていてどうも学校まで歩く気がしない。駅から学校まで二、三十分はかかるので、思いきってスクールバスに乗ることに決めた。学校まで片道十円、往復だと十五円になる。私たち学生はほとんど歩いていたし、それまで私はバスに乗ったことはなかった。それはたいへんぜいたくのように思えた。だが、自分の血をガソリンに代えるだけのことだと考えると少し気が楽になった。


 そして初めてバスに乗ったので、五木さんは外を見る。そこに横田先生が歩いていて、先生と目が合ってしまった。その時の先生の目の色を今でもはっきり思い出すことができると書いている。


 「やあ、バスに乗っているな。いくらか景気がいいんだね。よかったなあ」
 といった優しい感じでもあり、
 「ぼくは今ちょいと景気が悪くてね。今日は歩きさ。風が冷たいねえ」
 と自嘲されているようでもあった。私はどうも身のおき所がなくて、もじもじ、もう血を売った日でもバスに乗るのはやめようと考えていた。寒い、風の強い日の午後だった。(横田瑞穂先生のこと 『風に吹かれて』に収録)


 このことを懐かしく思ったのは、私も高田馬場から早稲田へ行く都バスを眺めていた自分があったことによる。
 高校三年の時に推薦で入った大学を辞めて、そのあと何する訳でもなく入学した一年を棒に振って、翌年また大学へ行こうと思い、高田馬場にある予備校へ通った。
 高田馬場を降りて予備校とは反対側に早稲田があり、そこへ行くバスをいつも眺めていた。五木さんの時代のスクールバスではなく都バスであったが、五木さんが先生と目の合ったバスはこのバスの前に走っていたものだったのだろうと思ったものである。

 業界新聞を配達し、持っている本を売り、そしてどうにもならなくなったとき自分の血を売って生きてきた。「そんな生活の中で、どうしてそれが可能であったのか不思議でならないが、私たちは時として女を買い、酒を飲んだ」(夜の蹄の音 『地図のない旅』に収録)と書いている。五木さんはここでも「それらの日々を再びくり返したいとは思わない。だが、その頃の私には、現在の自分に失われてしまった何かがあったと思う。それは、ひとつのやけっぱちに近い勇気だったかも知れない」と書いている。(深夜に目覚めて 『地図のない旅』に収録)


 五木さんの家の押入から聞こえる何重にもくくられた電話の音が虫の声ようにが聞こえることを書いたところも、懐かしかった。


 以前にも書いたが、私の家では午後の二時から五時までの間、電話を使うようにしている。それ以外の時間は、かける方も受ける方も一切使わない。毛布で厳重に包んで、その上から夏の掛布団をかけ、さらにヤッケをかぶせて押入れの中に入れておく。こうなればほとんどベルの音はきこえない。
 時たま包み方がゆるいと、押入れの中で、ジーッ、ジーッと虫が鳴くような声を立てていることもある。(電話についての感想 『ゴキブリの歌』に収録)


 とにかく今回40年以上前に読んだ本を、その内容を思い出すかのように読んでみた。こういう本の読み方も面白いものだ。これらのエッセイ集を読んだ高校二年の頃の私はどういう精神状態でいたんだろうと思い出してみると、やはり屈託していたように思える。確かにあの頃もいろいろあった。
by office_kmoto | 2015-04-25 06:12 | 本を思う | Comments(0)

五木 寛之 著 『風に吹かれて』 『ゴキブリの歌』 『地図のない旅』 その1

 私が五木寛之さんの本を夢中になっていたのは高校の二年頃だったと思う。あの頃多くの五木さんの本を読んでいた。高校三年の時、推薦で大学が早々と決まってしまい、その後アルバイトをしていた。その得たお金で初めて買った全集が「五木寛之作品集」であった。
 この全集は今は手許にない。なので時たま古本屋の均一コーナーでこの全集の端本をで見かけると懐かしくなる。

 この三冊のエッセイを読んでいると、五木さんの異なる二つの意識が相克していることがわかる。それは自分の暗い過去を語りたくないという気持ちと、語ってみたいという気持ちのことである。
 五木さんは子供の頃家族で朝鮮で暮らした。それは植民地で、多数の人々の中で一部の支配する側の立場として暮らしていた。だから子供としての五木さんは孤立していた。
 終戦後も敗者としてそこから逃げて来て、それこそ「外地育ちの引揚少年だった私」だった。
 その少年を待ち受けていたのは、


d0331556_5112997.jpg 私は朝鮮半島において、よそものとして少年時代を過し、九州に引揚げて来てからは、外地からやって来た余計者として扱われて来た。当時の日本にとって、外地から体一つで帰って来た引揚者たちは、まぎれもなく厄介者であったわけである。故郷は私たちに取って異国も同じだった。(果てしなきさすらい『風に吹かれて』に収録)


 その後も貧しい学生生活を送くり、大学も横に出て(除籍))、社会に出てからも、いわば現代社会の底辺を縦断して生きてきたと自身の過去を思い出すと、


 いくつか思い出しても不愉快でない事はある。だが、人間生きてきた過去の世界なぞというものは、裸の目で振り返ると無残なものだ。(自分だけの独り言『風に吹かれて』に収録)


 だから、

 「自分の青少年期を、まるごと全体として振り返ってみるとひどく怖い気がする。もう一度、あの頃に帰ってみたいなどとは、金輪際おもわない」


 「自分の歩いて来た道を振り返ってみる度に、私は冷汗が出る。あの若い時代にもどってみたいなどとは、二度と思わない」


d0331556_5124297.jpg と強く否定するのだが、それでもこの三冊のエッセイ集(特に『風に吹かれて』はその傾向が強い)で魅入られたかのように自分の過去を語っていく。何故なのか。その理由らしきものを最後のエッセイ集『地図のない旅』の「過去への遁走曲」で語る。


 私は私自身の過去を、出来ることことなら全く消しゴムで消し去ってしまいたい、目をおおうような気持ちで願うことことが時にある。それは、或る人間が自己の能力で人並み以上の生活や体験を欲するとき、避けることのできない苦しい道程なのかも知れない。


 自分のたどってきた道を語ることは、他者を楽しませないかも知れない。そして自分も苦い気持ちになるだろう。でもこれから先のことを考えるとき、嫌が上でもそれまでの自分の過去と向き合わざるを得ないわけで、それを五木さんはこれらのエッセイ集で試みていたのではないか、と思うのである。


 私は、いま、未来への旅と同時に、過去への旅へと出発したいという衝動に駆られて、そのことでひどく不安になっているのだ。なぜならば、その過去への旅は、私の場合、ほとんど筋道立った地図を持たず、いったいどんなところにどのような暗い谷間や亀裂がひそんでいるか、見当もつかないからである。
 あのプルーストの小説のように、ふとした瞬間に触発される豊かな記憶の海への期待にみちた旅は、私には予想できない。それは決して人を楽しませず、自分にとっても楽しいものとはならないだろうということがわかっている。
 しかし、一体どこに自分の本当の地図を持った人間がいるだろう。私たち人間は、常に地図のない荒野への旅を続ける単独旅行者のようなものだ。


 私はそんな自分の、はなはだ意気のあがらない過去について時に考えてみたいと思う。そして、そんな記憶の欠落をできるだけ埋めながら、地図のない過去への旅に出発してみたいと思う。その行きつく先に何があるのか、何のためにそうするのか、実は私にもまだよくわからない。ただ今はその薄暗い記憶の中にかすかな揺れているあの青白い花房を手でかきわけて行けば、何かが見えてくるのではないか、と考えているだけだ。


 でも私は高校時代読んだ三冊のエッセイ集を改めて読み直してみると、決して不快なものではなかった。むしろ時代に翻弄されながらも生きてきたという証みたいなのが、ひしひしと感じられた。こうとしか生きようがなかった、ただそれだけなのだ。
 そしてそこには苦い思いはあっても、それを持ってして他者を批判したり、説教を垂れたりしない。むしろそうすることを自ら戒めている五木さんに共感さえ覚える。
 でもそうは言っても、歳をとれば「世代の相違」とか「最近の若い人たちは」とひょいとそんな言葉が口からこぼれることがある。自分たちと比べて“お前たちは・・・・”といった感じで、要するに若者の考え方や行動が理解できないところからそんな言葉が出てくる訳だ。
 それはどうしてなんだろうと考えた部分がある。これがなかなかうまい考え方だな、と思った。


d0331556_5152347.jpg しょせん私たちは、死という結末に向かってたゆみなく歩きつづけて生きている。
 私の前に、少し私より早く生まれた人々が歩いて行く。その前にも先行者がいる。そしてさらに前方にも、はるか地平のかなたへ向けてずっと一列に歩いて行く列がある。私はその群像を後から見ながら、歩いている。したがって、それらの先達たちの体つきや歩き方が、目の前に見えている。もっとも、はるかかなたに豆粒みたいに小さくなっている人々の様子はわからない。だが、およその見当はつく。
 ところが、実はその私のうしろにも、まだ長い長い行列が続いている。それは、背後の足音やしゃべりあう声などでそれと知れるが、果たして彼らがどんな連中なのか、すぐには見当がつかない。
 何しろせまい道だし、はじめてのコースなので足もとを注意していないと、どんな亀裂に落っこちてしまうかもわからない。脇見や、うしろを振り返るのは、かなり勇気がいることなのだ。
 にもかかわらず、私たちは時どき背後をふりかえる。それが長い旅をする上で必要な場合もあり、また好奇心から振り返ることもあるだろう。するとそこに、見なれない、えたいの知れない人間たちの顔が並んでいる。
 うしろに続いている彼らからは、私の動作や足どりが見えているのだ。だが、私たちは歩き続けなければならないので、ちらと一瞬しかふりかえるわけにもいかない。そして背後から無言の視線を感じながら、果てしない落日の地平へ向って歩いて行くのである。
 たぶん、前と後の世代への感じ方は、そんな具合のものだろうと思う。(一宿二飯の恩義 『ゴキブリの歌』に収録)


五木 寛之 著 『風に吹かれて』 新潮社 (1972/05発売) 新潮文庫


五木 寛之 著 『ゴキブリの歌』 新潮社(1973/11発売) 新潮文庫


五木 寛之 著 『地図のない旅』 新潮社(1977/08発売) 新潮文庫
by office_kmoto | 2015-04-20 05:17 | 本を思う | Comments(0)

平成27年4月日録(上旬)

4月1日 水曜日

 くもり時々雨。

 天気が不安定なので、一日本を読んで過ごす。南木佳士さんの『阿弥陀堂だより』と『からだのままに』を読む。


4月3日 金曜日

 くもり。

 南木佳士さんの『陽子の一日』を読み終える。


4月4日 土曜日

 くもり。

 ここのところ風の強い日が続く。風が南風なら暖かくなるが、今日みたいに北風が強いと、当然気温が下がって寒くなる。ここのところ強く吹く風の向きで気温が上がり下がりする日々が続いている。そんな中、西洋つつじの紫の花が一輪咲いた。

 チューリップのつぼみも色づきはじめ、鉢植えのものを家の出窓に置いてみた。

 大学のクラス会が5月の連休にするというメールが入った。ちょうどこの日は、孫の誕生日パーティーをみんな揃って我が家でやる予定だったので、出席出来ない旨の返信をした。幹事である友人はそれでは個人的に会いませんか、と言ってくれた。しかし私は今、人に会える気分でない。
 ここところの私は、“人嫌い”が激しく、これでは駄目だとと思い、重い腰を上げるのだが、その前後が大変なのである。会う前に、なんで会うことを約束してしまったのだろうと思い、あった後とことん落ち込んでいくのである。元のペースに戻すのにものすごく時間がかかり、それが嫌なものだから、誘いをお断りした。私の身勝手で断ざるをえなかった。誠に申し訳ないと思っていたし、正直なところこれで友人関係が壊れても、私の責任なのだから、仕方がないとまで思っていた。
 その後彼からメールが届き、了解してもらったようだが、それでもそのメールを読んでまた落ち込む。なんて私は身勝手な人間だな、と改めて思うのである。自分で自分が嫌になる。

 南木佳士さんの『冬の水練』を読み終える。


4月5日 日曜日

 雨。

d0331556_6124913.jpg 池波正太郎さんの『新しいもの古いもの』(講談社2007/08発売 講談社文庫)を読み終える。
 常盤新平さんが山口瞳の文章に元手がかかっていると書いていたが、池波さんの文章にも同じように元手がかかっていることと思う。
 ここで言う元手がかかっているとは、知識や情報をがたくさんあるということではない。それらは所詮‘データ’でしかない。
 確かにそうしたものをふんだんにちりばめた小説は知的楽しみはある。でもそれだけのことで、読んでしまえばそれでおしまいだ。かろうじて頭に残っていても、雑学程度でしかない。
 しかし池波さんの文章には経験則から生まれたものであり、その経験は時間がかかっている。お金もかかっている。
 その経験には楽しいこと、悲しいこと、苦しいことも含まれ、すべて身体で体験したことである。頭で考えたことではなく、池波さんに身についたものである。それが裏打ちされ池波さんの文章となっている。そしてさらに重要なことはそのことを自慢げに書くものはひとつもなく、さりげなく文章の中に書かれ、読む側はそれをほのかに感じる程度で済む安心感がある。これが池波さんの文章を読んでいて心地よく感じられるゆえんではないだろうか。だから池波さんのエッセイが好きでたまらない。まだ数冊エッセイ集を持っているので、今後が楽しみである。



4月8日 水曜日

 みぞれ交じりの雨。

 4月だというのに昨日から冷たい雨が降り続き、今日はみぞれ交じりの雨となる。6日の月曜日には22.9度と5月下旬並みの暖かさだっただけに、身体がそれの暖かさを知ってしまっている。だから今日のように“まさかの”真冬並みの寒さになると、身体にこたえる。ダウンも着たいくらいだが、クリーニングに出してしまっている。だから手元にあるコートを着て買い物に出るのだが、寒くてたまらなかった。
 西洋つつじは花を咲かせようとしていて、実際幾つか咲いているのだが、咲いた花が雨に濡れ、その重味で垂れてしまい、可愛そうである。つつじも赤い花を咲かせようとしているのだが、いつ咲かせようか途惑っている感じだ。チューリップも花を咲かせているが、これも寒々しい。
 この時期、我が家の庭は一年で一番華やかになる。それを楽しみにしているのだが、こうも雨が続き、今日みたいに寒くなると、せっかくこれまで手入れしてきたものがダメになるような気がして、こちらの気持ちも寒くなる。

d0331556_6135490.jpg 伊集院さんの『白秋』(講談社 1992/09発売)を読み終える。私はこういう恋愛小説はダメだ。小説はもともと作り物だけれど、さらに話が作り物のように思えてしまう。
 確か伊集院さんのエッセイで、伊集院さんの母親が野に咲く花を必ず生けていたので、それが思い出となってこの小説を書かせたと書いていたはずだが、そうだとしても、私はこの小説は好きになれなかった。
 話を美しくしようという、鎌倉で咲く花々、鎌倉ならではの季節の行事をちりばめ、形容詞をふんだんに使うのだけれど、そういうこざかしさが、余計に話を嘘くさく感じさせた。作品が悪いのではなく、たぶん私に問題があり、生理的にこういう恋愛小説は受け入れられないのかも知れない。


4月9日 木曜日

 久しぶりの晴だ。でも気温は例年よりも低いらしいが、昨日が寒かっただけに、今日は日が出ている分、暖かく感じられる。庭の花もやはり日が照っている方がきれいに見える。

 池波正太郎さんの『日曜日の万年筆』を読み終える。


4月11日 土曜日

 雨。

 とにかく雨がよく降る。今朝も昨日の天気予報で、雨だとは知っていたが、実際雨戸を開ければ、雨音が聞こえ、空を見あげれば、雨粒が落ちてくるのを見てとれる。なんでもこの4月の上旬で、晴れた日は3日しかないという。

 百田尚樹さんの『夢を売る男』を読み終える。面白かった。


4月12日 日曜日

 はれ。

d0331556_6144042.jpg 木村晋介さんの『サリンそれぞれの証』 (本の雑誌社2015/03発売)を読む。この本は、地下鉄サリン事件から20年たって、地下鉄サリン事件の被害者、救出、救命活動にあたった消防官、警察官、自衛官、医師、地下鉄サリン事件実行犯の母、元出家信者など加害者の関係者、弁護士の証言をまとめたものである。
 これらの証言も貴重なものであるが、しかしそれよりも私は著者が言う通り、その犯罪を、その時、正当化できた信者たちが持っていた思想の方が恐ろしかった。
 まずはオウムの犯罪がどのように起こって行ったのかを見てみる。
 麻原首謀によりオウムによって引き起こされた犯罪は、1989年2月から95年3月までの間13事件に及び、29人の死者と約6,500人の負傷者を出している。
 麻原は1988年6月に、自らを日本の「王」とする国に変革し、議会主義を廃止してオウム真理教による政祭一致専制国家を樹立する「日本シャンバラ化計画」を公表する。
 「シャンバラ」とは、サンスクリット語で「幸福の維持」を意味し、仏教での理想郷を指した言葉で、シャンバラ化された日本こそ、麻原の目指した理想郷であった。
 1989年半ば、教団の勢力拡大を目論んだ麻原は、90年に予定されていた衆議院選挙に幹部とともに立候補し、89年、麻原を代表とする真理党を政治団体として届け出をしている。シャンバラ化計画では議会政治の廃止を打ち出していたが、それを実現するための第一歩として教団の知名度を上げるため選挙に出ることを考えた。
 そして実際に自分たちは当選すると思っていた。しかし結果は当然のごとく大敗であった。
 そこで麻原は高弟二十数名を集め、「合法的手段でいこうと思ったが、その結果合法的手段では救済ができないことが分かった。これからは非合法の手段で救済の計画を進める」と非合法化を宣言する。ここから教団の武装化が進むこととなる。
 そしてここからが驚きである。


 彼(麻原)の指示のもとにこの犯罪を実行した15人にとって、あくまでも事件の実行は被害者に対する善意のもとになされている。この事件の恐ろしさはここにあると考えることもできる。


 被害者に対する善意とは何か、というと、これは麻原の裁判で認定された麻原の思想にある。
 すなわち麻原の説法には、グル(麻原のこと)がそれを殺せと言うときは、相手はもう死ぬときに来ている。そして、弟子に殺させることによって、その相手をポア(殺すこと。本来は、相手の意識を身体から抜き取ってより高い世界に移し替えること)する。これが一番いい時期に殺されることになり、それが「被害者に対する善意」となる。あるいは生まれてから功徳を積んでも、その後生かせておけば悪行をつみ、地獄に墜ちてしまうから、今のうちポアさせればその人のためだというのが、彼らが信じていた「被害者に対する善意」であった。
 この身勝手な言い分が信じられてしまうオウムが作り出した環境の考察も興味深かった。すなわち修行という名のもとに集団生活を強い、慢性的睡眠不足、食の制限、過剰とも思える修行を繰り返し、そして特有の呼吸法による過呼吸を招き、脳に低酸素状態を作り出す。こうして外界と隔離し、暗示にかかりやすくする。こうなれば神秘現象も麻原の説法も信じられるというわけなのだ。


4月13日 月曜日

 雨。

 国保の保険料減をするため、手続きに近くにある区役所の事務所へ行く。窓口に行くとこの減免措置を受ける場合、住民税の申告をしないといけないという。それはここでは出来ず、区役所の課税課へ行けという。
 もともと保険料減免措置というのを知ったのは郵送されてきた「国保だより」だったが、だったら減免措置を受ける前に、住民税の申告を先にしてね、と書けないものかと、たらい回しにされるのでイラだつ。しかもこのザーザー降りの雨のなか出てきているから余計に腹が立っていた。
 そのまま車で区役所まで行く。駐車場に車を止めるとき、間違ったところに車を入れてしまったら、警備員が飛んできて、怒られる。あまりにも威圧的な態度なオヤジだったので、思わず、「その言い草はなんだ!」とくってかかってやろうかと車を降りそうになったが、なんとか気持ちを抑え、課税課へ向かい、申告を済ます。この窓口の職員もどこか偉そうな口利きだった。今日はそういう威圧的な態度に出くわす日なのかも知れない、と思いさっさと家に戻る。


4月15日 水曜日

 はれ。天気が急変すると気象庁では言っていたが、ほとんどしなかった。ただ風だけは一日中強く吹いていた。
d0331556_617542.jpg 午前中頭痛に悩まされる。本当は出かけるつもりだったが、天気も不安定だし、体調も悪いので一日家で過ごす。午前中横になって過ごし、午後から少し良くなった感じがしたので、読みかけの堀井憲一郎さんの『かつて誰も調べなかった100の謎―ホリイのずんずん調査』 (文藝春秋2013/08発売)を読み終える。
 正直なところなんでこんな本を買ったのか、自分でも不思議で、こんな本を読んでいる場合か、と思いつつ、昨日から読み始めてしまったので、最後まで読んでしまった。
 内容はどうでもいいことを調べ、データー化して、表にして、ものを言っている。例えば冷やし中華はいつから始められるか、というテーマ。確かに著者が言うように、冷やし中華は夏のものというイメージがあるから、7月頃に出回る感じがする。しかし著者が調べたところ、4月からバンバン出始め、ゴールデンウィーク明けに集中するらしい。そういえばコンビニのテレビのコマーシャルでは、もう冷やし中華の宣伝が始まったいた。
 あとまあ、調査の結果が面白いな、と思われるものをあげると、日本人の二割が牡蠣にあたっていた、とか、チョコボール千箱に金のエンゼルが1枚あり、80箱買えば、銀のエンゼルが5枚集まっておもちゃのカンヅメがもらえる計算になるとか、・・・。
 大阪ではエスカレーターの右側に立つ、というのもあった。この話どこかで読んで、大阪に住んでいる義理の妹聞いてみようと思って、聞けずにいる。ちなみにこの本の調査の結果、エスカレーターの右側に立つのは大阪と隣接した兵庫、奈良、和歌山の一府三県だけだそうだ。
 日本人でよく覚えられている年号の語呂合わせの何か。これはすぐ分かった。「いい国作ろう鎌倉幕府」である。第二位は「鳴くよウグイス平安京」である。
 ちなみに今の教科書では1192年以前に鎌倉幕府が成立したと読める曖昧な記述になっているそうだ。鎌倉幕府の成立には諸説あって、今でも決着ついていないそうだ。(山本博文ほか『こんなに変わった歴史教書』新潮文庫)
 ちょっと驚いたのが、『巨人の星』の星一徹は一度もちゃぶ台をひっくり返したことがない、というもの。え、そうなの?これは業界では有名な話だそうで、一度息子の飛雄馬を殴ろうとしてちゃぶ台がひっくり返りそうになったシーンがあるだけでという。
 では何故我々の頭の中に星一徹はすぐちゃぶ台をひっくり返すという、イメージがあるのかというと、この飛雄馬を殴るシーンが毎回エンディングにも組み込まれ、いつの間にやら一徹がちゃぶ台をひっくり返しているイメージが染みついてしまったらしい。
 ちなみにVサインを初めてテレビで見せたのも星一徹だそうだ。このVサインいつやったか知っている人は、テレビで『巨人の星』をよく見ていた人であろう。私はすぐ、「あの時ね」と思い出した。
 あと時代劇の悪徳商人の屋号が「越後屋」だったのを見たことがない、というもの。これも驚きだった。「越後屋、おまえも悪ようのう」とよく聞いたように思うのだが、実際「水戸黄門」「大岡越前」「銭形平次」など見て調べてみると、ないそうだ。一番あるのが「西海屋」だそうだ。
 そしてこの本の中で一番驚いたのが、大学の単位を「取る」と今の学生は言わず「来る」ということだった。単位が来る?どうして「来る」なのだろうか?
by office_kmoto | 2015-04-16 06:18 | 日々を思う | Comments(0)

開高 健 著 『珠玉』

d0331556_19485684.jpg 「掌のなかの海」ではアクアマリン、「玩物喪志」ではガーネット、「一滴の光」ではムーン・ストーンの宝石を核にして三つの話が始まる。
 話は前後してしまうが(そのわけはあとで書く)、「玩物喪志」は渋谷の飲食街の横丁や露地にある枝道に『随時小吃』という中華料理の店から話がはじまる。
 小説家が書きたいことがあるらしい予感があるのだが、それが書けない、とをこの店の主人李文明に話すと、よれよれのトイレット・ペーパーにくるみ、それを剥がせば、古綿に包まれた深紅の長方形の石を渡される。このアルマンダイン・ガーネットが触媒になって小説が書けるかもしれないというのである。
 それを預かった小説家は「緋色の研究」を始める。この深紅の赤い色が小説家の記憶を蘇らす。この石を眺めていると「歳月の赤錆に蔽われつくしていた記憶」が少しずつ発掘されていく。バンコックの夕焼け空から始まり、婚姻色で赤くなったサケが川を上るアラスカの川の深い朱に変わり、サイゴンの市場で銃殺刑にされた学生が流した血にも及ぶ。
 しかし李氏が言うように「酢がスープ変わるかもしれない」ということはなかった。小説にはならなかった。


 この赤い石が毎日の核になってから、朝となく夜となく、室内と室外を問わず、見たくなれば革袋からとりだして見惚れてきた。書斎で堂々と眺めたし、ホテルのロビーでこっそりと眺めた。公園でも駅のトイレでもとりだして、撫でたり、さすったりした。電灯、シャンデリア、マッチ、ロウソク、ライター、思いつくかぎりの光で切子がどう顔を変えるか、そのたわむれぶりを見てきたのである。そしてそのたび魔法のランプをこするようにたちあらわれる緋色のイメージを玩見してきた。どんな短篇の、長篇の、どんな部分にそれらのイメージを使ったらいいのか、ほとんど何も考えられなかったし、工夫もできなかった。光景は石から出てきてそのまま揮発するか、石へもどっていくかした。連想は飛躍し、明滅し、湧きだすのも収縮するのもつねに一瞬で、しかもどんなときにもけっしておしつけがましさがないので、湧くまま、消えるまま見送り、後追いしなかったことを悔いるこころはうごいたことがなかった。この石を何かの触媒にしたかったのならそれは失敗だった。


 「料理でいえば材料はいろいろ手に入れた」だけであった。


 「一滴の光」では『石イロイロ。ゴキゲンの店』と書いた紙を貼った六本木の外れにある小さな店で、ムーン・ストーンを購入したところから物語は始まる。


 この石のことを思い出すたびに月下に輝く白い宮殿と巨大な鐘の沈んだ深い淵という光景が登場する。


 ここから月下に輝く宮殿の“白”を小説家は探し始め、恋人の阿佐緒の口にほとばしった自らの滴を見て、一瞬探し求めていた“白”を見る。しかしそれは一瞬であり、月下に輝く白い宮殿と巨大な鐘は残ったままであった。

 さてこの本の3つの短篇で私が一番心に残っているものは「掌のなかの海」であった。話は「汐留の貨車駅の近くにあるその小さな酒場」から始まる。


 汐留の貨車駅の近くにあるその小さな酒場に入ると、凸凹の古い赤煉瓦の床にまいた松のオガ屑のしっとりした香りが鼻と肩にしみこんでくれる。物置小屋のように小さくてみじめな、薄暗い店で、酒棚には何本も瓶が並んでいないけれど、毎夜毎夜しこしこと雑巾で拭きこんだ、傷だらけのカウンターに肘をのせると、まるで古い革のようにしっかりと、しっくりと、支えてくれる。その吸収ぶりとオガ屑の匂いだけに誘われてほとんど毎夜のようにかようのである。


 「高田先生は?」


 高田先生の家は何代にもわたって医院であり、もともとその地方では指折りの素封家であった、先生は毎月決まって一週間ほど上京してホテルに泊まり、夕方になるとこの酒場に来た。
 東京に上京するのは、スキューバダイビングをやっていた息子が下宿先のアパートからスェット・スーツを持って出てからそのまま消息を絶ってしまい、その一人息子の行方を警視庁の本庁で探るためであった。


 そうやってかれこれ二年近く、先生は、毎月、福岡と東京のあいだを往復し警視庁の本庁に出頭してはうなだれて出るという暮らしかたしていたのだが、禅機一瞬、とあとになって述懐する行動にでる。某日、先生は発心する。則天去私と思いつめる。すでに妻は彼岸に去って久しくなり、今また息子が海で分解したのなら、家や、財産、地所を持っていたところで、どうってこともない。息子のあとを追って海へ出よう。船医になって船に乗りこみ、この海に息子の体がとけているんだと思って墓守の心境で余生をすごすことにしようと思いきめる。医院を解散し、助手や看護婦たちとの送別の酒を飲み、地所を手放し、自邸を売り払う。これまでの専攻科目は外科と内科と小児科だったが、あらためて接骨術とカイロプラクティックを勉強して船医の資格をとって、外洋航路の貨物船に乗りこむ。息子の下宿だった深川のアパートを拠点として、あの船、この船、この海、気の向くままに出かけていく。もどってくると色エンピツで通過した海を地図上で塗りつぶす。


 その高田先生との話は、「人としての責務をことごとく果たした年齢の人物がヒッピーになったわけだが、小さい事物を語る背後にしばしば鋭くて深い憶測が入っているので、聞いていて飽きない」。
 ある年の春、高田先生は自分の下宿に来ないか、と誘われる。かつて息子が使っていた部屋は畳も壁も窓も枯れ、萎びて、乾からびている。しかし酒を注がれたグラスはみごとなクリスタルで、「この人歪な完璧主義者らしいと、あらためて感じさせられた」。
 先生はスェード革の袋を取り出すと、そこから大中小のアクアマリンが出てきた。
 先生はブラジルのサントス港の質屋で船乗りのお守りだと言われ、一つのアクアマリンを買ったが、これが病みつきになったと言う。


 「この年になって一切捨棄と思いきめたはずなのに、もう一箇、罠がありましたな。これは一生思いもよらなかったことなので、感動しました。こんなものがあるとは知りませんでした。不意打ちです。それからボチボチと港に寄るたびにキュリオン・ショップや宝石屋へ立ち寄るようになりましたが」


 中国では「文房清玩」といい、硯や筆を愛でて楽しむという言葉があるが、先生はアクアマリンをマッチやロウソクの火にかざしてアクアマリンが発する光具合を楽しむようになった。その日もロウソクの炎で宝石を眺めた。


 「文房清玩とはいい言葉ですね」
 「さびしいですが、私は」
 「清玩とはよくいったもんです」
 「さびしいですが、私は。九州者のいっこくでこんな暮らしかたをして、石に慰められるんですが。どうしても血が騒いでならんこともあるです。私はさびしいです。さびしくて、さびしくて、どうにもならんです」


 今夜は乱酔などというものではなかった。ほどよい微酔といったところだろうか。飲むというよりは一滴一滴を噛んで砕いて送り込んだにすぎないのである。先生は羞かむようにして眼をそらしたが、爛々と陰火が輝いている。肩をふるわせて激情をおさえおさえ、さびしいですが、私は、さびしいですが、といって先生は、すすり泣いた。かすかな声を洩らしているうちに崩壊がはじまったが、先生は大あぐらかいてそれを支え、うなだれたまま肩をふるわせて、声を出して泣いた。はばかることなく声をふるわせて泣きつづけた。手が濡れ、膝が濡れ、毛ばだった古畳に涙はしたたり落ちつづけた。


 何もかも捨てた歳老いた男がアクアマリンの魅力に惹かれ、それを所有することとなったが故に、捨ててしまったもの、失ったものがかえって淋しくなってしまった。そのことを思うと読む方も涙が出て来てしまう。歳をとることはひとつひとつ何かを失うことだから、余計に寂しさが伴うのである。


開高 健 著 『珠玉』 文藝春秋(1990/02発売)
by office_kmoto | 2015-04-15 19:52 | 本を思う | Comments(0)

開高健の「勉強部屋」とその死

 南木さんの小説で、主人公は小説やエッセイを執筆する部屋を書斎と言わず「勉強部屋」と記す。その理由を、開高さんを真似たという。


 医学生のころから購読していた文芸誌でよく読み、完成度の高さと語彙の豊富さに酔っていた開高健の作品群のなかに「勉強部屋」が多出する。みずから体験した戦中戦後の貧困や飢餓の様子を執拗に描いた作家が、そういう事柄を書くための部屋を中産階級の所有物とみなされやすい書斎と記すのをためらったらしい鬱屈が好ましかったゆえ、たんにそれを真似たのだ。


 その「勉強部屋」を見ることができる。開高健さんが暮らしていた茅ヶ崎にある家が今は開高健記念館になっていて、開高さんの書斎を見ることができるのである。私も一度行ったことがある。


 いまは記念館になっている開高健の茅ヶ崎の家を見に行ったのは数年前だが、母屋とは別棟の勉強部屋は外からの見学が許されていた。西側の障子窓に向かって坐り机が置かれたスペースは決して広くはなく、簡素なキッチンも備わっており、ここを書斎と記さなかった彼の思慮深さをあらためて思い知るとともに、深夜、ウォッカやストレートウィスキーを酔わない程度にすすりつつ、一字たりとも書き直しのない精緻な文を原稿用紙の上に愛用のモンブランの万年筆で紡いでいた本物の作家の苦しげな気づかいの残響が聴こえる部屋を覗き見てしまったことにやりきれない罪悪感を覚えたものだった。
 紙に呼び水となる一言半句を置き、身の内の奥の奥から背丈にあった世界を構築するための言葉を汲み揚げる座業にからだ全体を使って精をだし、根気よく務める部屋だから、いかにもそれらしい人物がきどって書き物や読書するイメージを喚起しがちな書斎よりも、勉強部屋のほうがふさわしい。(白い花の木の下 南木 佳士 著『先生のあさがお』に収録)


 展示してあるからだろうが、きれいに片づいている「勉強部屋」であったし、何よりも驚いたのがそこある本が少ない、ということであった。たぶん別に蔵書があるのだろう。開高さんは他の作家書いた本に毒されることを嫌った人だから、手元には最低必要限の本しか置かなかったのかもしれない。
 ここを訪れた人たちが開高さんを偲んで書き込んである寄せ書き帖があるが、これをパラパラとめくってみると、開高さんのことを「大兄」と呼んで、それぞれの開高さんの思い出が書いてある。
 私はこの「大兄」という言い方が大嫌いでった。そのなれなれしさが鼻持ちならなかった。
 「大兄」は多分週刊プレイボーイに青くさい若者の人生相談から始まったものと思っているが、こんな若者たちがが開高さんのことを「大兄」と呼べる訳もないだろう。使い方が違う。


 以前、湘南の海を見に行ったついでに開高健記念館に入ったときもそうだったが、作家が生きた場所に立つと、その作品の精度が高ければ高いほど、過敏な心身ゆえに生きにくかったはずの生身の作者を想像し、たまらないほど寂寞感を覚えてしまう。(おのぼりさん 南木 佳士 著『生きのびるからだ』 に収録))


 確かに開高さんの小説を読んでいると、開高さんは自分の心身をもてあまして生きにくかっただろうな、と思うことがたびたびあった。だから開高さんは「大兄」なんて安易に呼びかけられても、本心ではそれどころじゃなかったのではないか、そんなふうに思うのである。
 寄せ書き帖はこの「大兄」のオンパレードであったので、うんざりしてすぐ閉じた。


 二年後神経衰弱に陥って鮎釣りどころではなくなり、かろうじて生きのびてふと気がつけば、今年で開高健の享年と同じ歳になる。(白い花の木の下)


 この文章を読んで南木さんが開高さんの愛読者であったのだ、と知った。そして『急な青空』にある「骨を拾う」に開高さんの思い入れと、その死で新しい作品が読めなくなることを残念に思う。「珠玉」を読んで泣きじゃくった。


 休日の郊外の古書店に行った。全国チェーンの店で、どんな有名作家の本であれ、古ければ安く、新しいものは高く売るという商法で急速に業績を伸ばしているらしい。以前入ったときも、数年前から気になっていたが買わずにきた本が並んでおり、定価の半値以下で手に入れた。
 今回、百円均一コーナーを眺めていたら、なんと開高健の『輝ける闇』の箱入り本があった。手にとってみるとそれほど汚れてもいない。昭和四十三年発行のものとしては保存状態はよい。
 「あの開高健の本が百円・・・・・・」
 胸の内でつぶやきながらしばし茫然となった。
 豊富な語彙を駆使して遠心力で書かれた開高健の小説、エッセイ、ルポルタージュは活力に満ちていて、身辺雑記のような私小説ばかり載る文芸誌のなかでは格別に光っていた。新しい本が出ると必ず買って読むという意味では、私は医学生のころから開高健の大ファンだった。
 だから平成元年十二月十日の新聞で開高健が食道癌で亡くなったとの訃報を目にしたとき、腰のあたりから力が抜けてしまう実感があった。
 近くの温泉旅館で泊まり込みの忘年会があり、二日酔いのまま家にたどり着いたら妻と子供たちはまだ寝ていた。私は新聞を読んでから、出版社より送られたまま封を切らずにいた雑誌入りの封筒を開けた。
 その月の「文學界」に開高健の最新作が載っていた。「珠玉」と題された、どこか枯れた趣をたたえながらも、相変わらず完成度の高い小説を読み進めて行ったら、もう、此を書いた開高健はこの世にいないのだとの想いが胸の底から込み上げてきて、私は貧寒たる病院住宅の居間の炬燵にあたりながら、泣きじゃくりつつページをめくった。
 そんな開高健の代表作で、毎日出版文化賞を受賞している『輝ける闇』が百円!私は尊敬する作家の遺骨を拾うつもりでこの本を買った。そして、家に帰って読んだ。いつか、どこかで必ず読了していたはずなのだが、あらためて読み返して脱帽した。優れた作家の作品は時流の淘汰なんてものともしないのだと教えられた。(骨を拾う 南木 佳士 著 『急な青空』に収録)


 私の好きな作家の作品が、私が働いていた本屋の店頭に並ぶとき、そのうれしさはたまらなかった。うれしくてうれしくて仕方がなかったことを思い出す。早くその作品を読みたい、と思いつつ、店頭の平台に並べていた。
 そして好きな作家が亡くなって、追悼関係の本や単行本未収録などと称して、次から次へと発売されると、本当にこの人の新しい作品は読めないんだ、と思ったものであった。そんな作家が私の中の幾人かいる。

 私の手元には週刊新潮に連載された山口瞳さんの「男性自身」の切り抜きがある。いずれも開高さんの死を書いたものである。これらはたぶんこのシリーズのどこかでこれらの文章は掲載されているのだろうが、山口さんは開高さんの後を継いで「洋酒天国」の編集に携わった人だから、開高さんに対しての思い入れは人並み以上だろうと思っている。だから開高さんの死を眼の前にして、あるいはその死をどう捉えたか知りたかったので、この切り抜きを残しておいたのである。その切り抜きから書き出してみる。平成元年の12月21号、日付が11月28日火曜日となっている。


 家を出る前に、開高健病状悪化の報に接する。ごく親しい人だけに知らせるという連絡だが、容易ならぬ状況だ。
 中央線で四谷駅まで行き、福田家まで歩くのだが、俄に涙が溢れてきてどうにもならない。すでにしてあたりが暗くなっているからいいようなものの、泣きながら歩いている老人というのは異様なだろう。開高健が僕の運命を変えた。命の恩人の一人だと言ってもいい。初めて会ったのは昭和三十二年だと記憶するが、その頃の開高は、触れたら感電するんじゃないかと思われるくらいビリビリしていた。驚いたことに早川書房のミステリーを全部読んでいた。僕の周囲の文学青年とは違っていた。後に開高は高校時代は鉄棒を得意とする体操の選手だったと聞くのだが、狼のような感じのする青年だった。開高は多くの女を愛し、酒を飲み、美味いものを食べ、世界中を飛び廻り、よく勉強し、よく仕事をして、要するに激しく生きたのだから、以て瞑すべしとは思うのだが、そんなことでは収まらない感情の昂ぶりがあって涙がとまらない。こんな顔をでは宴会に出られないと思い、ホテルニューオータニまで歩いていって洗面所で顔を洗った。そうして、つくづく思うのは、カナダでサーモンを釣っている開高の姿は目に浮かぶが、江戸川でヘラ鮒を釣っている老人としての開高の後姿は見えてこないということだった。

 この週の題名が「上の空」であった。この一週間もこの後も、山口さんは何をするにしてもいつも開高健さんのことが頭によぎるのであった。
 開高さんの死でもう新しい作品を読むことが出来ないと泣きじゃくりつつページをめくった人もいれば、もう開高さんが危ないと思うと街を歩きながら涙する人の姿がここにある。
 12/28号の「男性自身」でも山口さんは、「開高健がいなかったら、僕が小説を書くという事態にならなかったと思う」と書いている。
 そして翌週の年が変わった1月4日号で開高健さんの「珠玉」について書かれている。この文章がいい。


 『文學界』新年号、開高健「珠玉」を読む。
 これは正に文字通り渾身の力作というべきものだ。三章に分れるが、第二章を大手術を行った病院で書き、第三章を退院後から再入院の九月一杯に書いたと聞いた。病気と戦いながら、よくこんな力作を書けたものだと思うが、実状は、この小説のことがあったからまだ生きのびている(もはや意識がないそうだ)のだと僕は思った。
 この小説はウィスキイをストレイトで飲む男が書いた小説である。自分のことを引きあいにだすのはどうかと思われるが、昭和四十年代の初めに僕は糖尿病を宣告され、禁酒禁煙を言い渡されたとき、もう駄目だと思った。僕の最初の小説はウィスキイのストレイトを浴びるように飲みながら書いた。だから間違いが多く、いま考えると背筋が寒くなるようなシロモノだが、勢いはあったと思っている。僕のような学問も教養もない男から勢いを奪ったら何が残るだろうか。
 開高は自分の病気にどの程度自覚があったのか知らないが、ウィスキのストレイトを飲み続けた。酒場で大酒を飲むより、書斎で毎夜チビチビとストレイトを飲むほうが体に悪いのである。しかし、「珠玉」はそうやって情念を培養しなければ書けない小説である。
 次に、これは言葉で書かれた小説である。
 誰だって言葉を使って書くわけだが、とりわけ、この小説は言葉をもって導かれているナという思いが濃い。それが“清玩”であり、京都の人が使う“はんなり”であり、“ざっかけな”である(僕等東京者は“ざっかけない”という使い方をするが)。おそらく開高は、そういう言葉を発見するたびに身が揮えるような喜びを味わったはずである。そうして、結果的に、よく醸成された、まったりとした味わいのある小説に仕上った。
 第三に、若い時からミステリー好きと芸術至上主義(完全主義と言ってもよい)が」うまく溶けあっているように思われた。僕には良い小説はミステリーに似てくるという持論があるのだが、その意味でも「珠玉」は僕を充分に満足させてくれた。
 いや、理屈なんかどうでもいいのだ。久しぶりにいい小説を読んだ。いい時間を与えてくれた友人開高健に感謝している。


 私はこの「珠玉」は雑誌も持っているし、本として出版されたものを二冊持っている。私はこの作品は開高さんの小説の中でもすばらしい小説だと思っている。山口さんがここでいうように、この小説の雰囲気は確かにウィスキーをストレートで飲む男の世界だと思える。
 そして、


 十二月九日(土)晴


 午後十一時五十七分、開高健死去。五十八歳。柳原良平さんから「開高君、やっぱり駄目だったなあ」という電話が掛かってくる。いままでの至近弾が遂に僕等に命中してしまったという思いがする。


 十二月十一日(月)晴

 通夜の席でホッとウィスキイ、山崎邸でビール、列車のなかでポケットウィスキイ、家に帰って日本酒で完全にダウン。開高の密葬に行かれなかった。今日侘助一輪咲く。


 これでこの週が終わる。
by office_kmoto | 2015-04-11 06:34 | 人を思う | Comments(0)

南木 佳士 著 『急な青空』

d0331556_5421730.jpg この本のなかにある「大漁日」というエッセイに、読んでいる小説に意味のある言葉を見つけた日は「大漁日の漁師の気分になる」と南木さんは書いている。私も同様で本の中にある一言半句を含む文章に感動し、拾い出している。著者はそれを手帖に書き出しているようだが、私はここに書き出し、思い出しては読んでいる。


 思えば少年期から医者になって数年経つこの時期まで、走りっぱなしだった。休めば置いていかれそうな強迫観念にあおられて。(禁令の釣り)


 身体の関所を通過できた言葉を率直に伝えられるようになった。(日曜日の贅沢)


 物事に敏感に反応してしまうがゆえに自省や後悔も多かったあの青くさい時代。
 もどれないし、もどりたくない。いまはただゆるやかな坂を下る、その力の抜き方だけ会得したい。(日曜日の贅沢)


 期待が大きいほど裏切られたときの落胆もひどい。その種の落ち込みを若さのバネで跳ね返してきたのだが、いつからかこのバネが金属疲労を起こしてきたらしく、ある日音を立てて折れた。(草むしり)


 そもそも、人生というなにかがあるわけでもなく、降っては湧き、前に立ちはだかったり後ろから突き飛ばしてきたりする出来事におろおろ対応している間に歳をとってしまう。そんなおぼろげな足跡をふり返って名づければ「人生」と呼べなくもない。(五十年)


 二十五年前、フォークダンスの輪を作る若い看護婦さんたちの健康そうな脚線に見とれていた私が、おなじメーデーの日、腰に手をあてて庭木の枝ぶりを愛でるようになってしまった。(メーデー)


 ひねくれ者がこういうまっとうな行為を素直に行えるようになるまでには二十五年の歳月が必要だったのだ。(メーデー)


 本質を突く言葉には特有の硬度がある。(メーデー)


 などなど。こうして書き出してみると、このように「身体の関所」、「ゆるやかな坂を下る、その力の抜き方だけ会得したい」、「若さのバネで跳ね返してきたのだが、いつからかこのバネが金属疲労を起こしてきた」とか、「ひねくれ者がこういうまっとうな行為を素直に行える」など、思わずうまい言い方だなあと感心してしまう。たぶんこだわって使われているのだろう。これだけでもこのエッセイを読んでよかったと思ってしまう。
 こういううまい一言半句は誰かに似ているな、と思ったら、著者は開高健さんの愛読者であったことを知った。それを知ってなるほどそうか、と思ったのである。雰囲気が開高さんの文章にあるものと似ている。
 
 ワープロで文章を打っていると漢字に簡単に変換してくれ、本当は無理に漢字にしなくてもいいものを漢字で書かれてしまう。しかし著者の文章はそうではなく、ひらがな混じりの漢字で書かれる。また逆に普通使う漢字とは違う漢字でそれを表したりする。(これは私のようにワープロで文章を書き出していると、結構苦労する。ワープロのお節介機能が漢字に変換してくれなくてもいい漢字に変換しちゃうからだ)
 開高健さんはくどいくらい漢字を駆使する人だったから、当然漢字にこだわったはずだ。漢字はそこにあるだけで、たぶんこういう感じななんだろうな、と察することは出来る。それは漢字のよさであろう。まさしく‘感じ’である。だけど開高さんのようにそれをこれでもかというくらい羅列されると、いささか途惑う。こういう表現方法を取るしかなかったのだろうが、食傷気味になる。
 反対に司馬遼太郎さんの文章も無理な漢字の使い方をしない人だ。ひらがなで表す言葉が多い。最近はいい文章を書く人は不自然な漢字の使い方をしないのだろう、と私は思うところがある。分かりやすく、やさしい文章というのにひかれるのだ。
 開高さんのようなプロが吟味して漢字を使うのと違い、素人が無理して、多分普段漢字で書かないだろうと思われる語句を、ワープロが漢字変換し、そのまま使っている文章によく出合う。こういうのを見ると、文章が自分のものになっていないと感じてしまう。

 ところで前回の短篇集に吉田拓郎のことが書かれていて、正直予期しなかっただけにドキッとしたのだが、著者が開高さんの大ファンであることを知って、この著者が私にとってかなり身近になったことを感じていたが、さらに著者が吉田拓郎のレコードを聴いていることが書かれていると余計に身近に感じられた。
 私は高校時代よく吉田拓郎をレコードで聴いていた。今も拓郎のエレック時代のレコードから「人生を語らず」までの、その間のレコードすべて持っている。

 開高さんは今はそれほど読まなくなったけれど、大学時代夢中になって読んでいた。本は高校時代からむさぼるように読んできたが、開高さんを知って、さらに本を読む楽しみを教えてもらった。だから開高さんの作品を読みたくて、古本屋を巡って開高さんの本を探した。それが今の私の古本屋好きになっている。
 しばらくは南木佳士さんの本を読むことになりそうだが、著者が開高さんのことを書いてある文章から、次回開高さんのことを書いてみようと思う。


南木 佳士 著 『急な青空』 文藝春秋(2003/03発売)
by office_kmoto | 2015-04-08 05:48 | 本を思う | Comments(0)

南木 佳士 著 『先生のあさがお』

d0331556_6354322.jpg 先の読んだ短篇集と似た、随筆とも自伝的小説ともいえるこの短篇集にも「生き残った」がある。「生き残った」というより、ここまで「生き残れた」というのがいろいろ考えさせられる。
 ここに吉田拓郎のことが出てくる。


 夕刻、家で妻の得意なタラノメの天ぷらとコゴミのごまあえを肴に、朝から錫のチロリにうつして冷蔵庫でよく冷やしておいた純米大吟醸をウサギのぐい呑みに注いで静かにすすりつつ、吉田拓郎のCDを聴いた。

 同世代である忌野清志郎の訃報に接したばかりだったから、妻は、私は今日まで生きてみました 時にはだれかの力をかりて 時にはだれかにしがみついて、と歌う「今日までそして明日から」を聴きながら、
 「拓郎にはずっと生きてて欲しいよね」
 と涙声になった。
 吉田拓郎自身が肺の手術を受ける前後の深刻な状況を綴った手記を雑誌で読んだ記憶がある夫は、流れる星は、今がきれいで、ただそれだけに 悲しくて、と歌う「流星」を聴いていたらふいにまぶたが熱くなり、夫婦はどちらもはばかることなく涙を流しあったまま、黙って幾羽のウサギを呑み干し、採ってきたタラノメとコゴミをすべて食べつくした。(白い花の木の下)


 生き残れたのは誰かの力を借りて、誰かにしがみついて「生き延びられた」。そして厄介なのはその誰かが死者となってしまった者もいる。彼らのお陰で自分たちは何とかここまで生き延びられたという自覚は、正直つらい。


 平均で月に四、五のひとの死を扱う業の深い仕事に従事するには繊細すぎる精神を、厚い体脂肪の裏に隠していた男が、神経衰弱で前線から落ちこぼれた先輩のせいで予期せぬ苦労を一身に背負い込む羽目になり、そのみずからすすんで受け止めたのではない辛労が彼のからだの基本仕様をゆがめた。そして、だれだって歳を重ねるにつれて高まってくる病の圧力をすこしずつ逃がしていたはずの安全弁のバルブがあっけなく壊れた結果、悪性腫瘍の細胞は発病から二年でからだ全体を乗っ取り、ともに絶えた。(熊出没注意)


 同僚が犠牲になってくれたお陰で一線から退くことができ、そこなら何とかやっていけた。そして小説を書くことでもてあました「わたし」を解放する。


 医学校を出たばかりの若造が地方病院の第一線の臨床の医者となり、死にゆくひとたちを目撃し、朝まで飯を食っていたひとが夜には死んでしまうというとんでもない事実に圧倒され、それでもなんとか医者の仕事を続けるためには、圧倒されている「わたし」を書いて誰かに読んでもらえればいいのではないか。そうすればおろおろするばかりの「わたし」は言葉の船に乗り、外海に出て解放されるのではないか。いまだからいくらでもそれらしい理屈はつけられるけれど、とにかくその当時は原稿用紙に向かっているときだけしかじぶんが生きていると感じられなかったのが小説を書き始めた理由です。(熊出没注意)


 なぜ小説を書くのか、と問う人間に、このようなひな型にした文章を述べるようになることの嫌悪感。ふてぶてしさを苦々しく思う。たびたび「上書き」という言葉が出てくる。要するに自己変化である。そうして変質した自分を客観視するとさらに苦々しく感じられてくる。


 言葉にしているうちに過去がまたもこの場で相手に合わせて上書きされ、変質してしまいそうな、そういう事態が客観視する体感がひどくわずらわしいものと直感される。(白い花の木の下)」


 いつのころからこんなにふてぶてしくなってしまったのか、あるいはふてぶてしくなったおかげできょうまで生きのびられたのか。母のない子の役の貧相ぶった衣装の下には、もとよりしぶといこの裸刑が隠れていたのだろうか。(熊出没注意)


 三十年目の結婚記念日の夜も、妻と特別な会話を交わしたわけではない。
 「三十年、おたがい生きのびたんだなあ」
 「そうだねえ」
 たったいまこの殺風景な部屋に生きてあることだけがことさら明瞭に意識され、過去を懐かしまないのは、上州の寒村でとなりあった家に生まれたこの夫婦それぞれの幼・小児期によいことがなかったせいかもしれない。(白い花の木の下)


 この夫婦が、きょうを快適に暮らすことのみを第一と考え、起きてしまった出来事は昨日でも二十年前でもみな等しく無意味なのではないか、との共通認識を抱くにいたったのはつい最近(白い花の木の下)


 吉田拓郎のこの歌の続きは、「そして今 わたしは思っています 明日からも こうして生きていくだろうと」とあったはずだ。
 この本の最後にある「先生のあさがお」という短編は、これらの集大成でろうか。
 秋の土曜日の午後プールの帰りに女と会い、先生が育てたあさがおの種をもらった。ただこの女が誰なのかはっきりしない。
 面白いことにちゃんと植えたあさがおは芽を出さず、余った種を半ば外に放りだすように蒔いたのが芽を出す。
 話はそのあさがおの成長に合わせて、各章が「種」、「双葉」、「本葉」、「蔓」、「花」、「採種」分かれ、その間、先生との思い出、種をくれた女があの女か、それともこの女かと先生の記憶とともに姿を変えて現れてくる。先生との思い出だけでなく、自分の苦い思い出もその追憶の中に連なる。不思議な小説だった。


南木 佳士 著 『先生のあさがお』 文藝春秋(2010/08発売)
by office_kmoto | 2015-04-04 06:41 | 本を思う | Comments(0)

平成27年3月日録(下旬)

3月17日 火曜日

 はれ。

 吉村昭さんの『白い遠景』を読み終える。


3月18日 水曜日

 はれ。

 今日から彼岸の入りだ。義父の墓詣りに行く。墓の掃除をし、花を手向け、線香をあげ、手を合わせる。


3月20日 金曜日

 はれ。

 私の実家に行き、母の仏壇に手を合わせる。順序が逆になってしまった感じだが、都合で、その後、墓詣りに行く。花を手向け、線香をあげ、手を合わせる。

 この時期、我が家の隣はお寺なので、窓を開けると線香の匂いが漂い、お墓のあたりがざわついているのを感じることができる。彼岸というは、何かいいものだなあ、と最近思う。秋もいいけど春もいい。暖かくなってきて、草木が芽吹き始めるので、やっと春が来ているんだなあ、と思う。
 今年は何故か春が待ち遠しかった。その春を感じることがやっと出来ることをうれしく感じる。


3月21日 土曜日

 くもり。

d0331556_1174055.jpg ここのところバタバタしていてなかなか読み終えられなかった南木佳士さんの自選短篇集『熊出没注意』 (幻戯書房 2012/02発売)を読み終える。
 この本には南木さんが選んだ10篇短篇、「重い陽光」、「落葉小僧」、「ニジマスを釣る」、「スイッチバック」、「急須」、「神かくし」、「ぬるい湯を飲む猫」、「稲作問答」、「歩行」、「熊出没注意」が収められている。中には読んだ短篇もある。そして最後にあとがきとしてこれら短篇が書かれた時がどういう時であったか、南木さんの説明が入る。
 その中で私が良かったと思われるものは、父親の死を綴った「スイッチバック」と「稲作問答」であろうか。
 「スイッチバック」はもうそこまで死が近づいている自分の父親がいる。そして何も出来ないまま、死を待っている自分たちがいる。自分たちはなかなか死が訪れない父の介護に疲れ果てていく。


 死にゆく者と生きねばならぬ者。世代交代はすでに完了しているのではないか。


 「このまま起きなかったらどうなるの」
 妻の口調が主治医を問い詰める家族のそれに似てきた。
 誰も最終責任はとりたくないのである。そんなとき、ラクビーボールのようにパスされる「責任」を最後尾で受け止めるのも泥臭い臨床医の役目なのだと、いつの頃からか寂しく身に付けた性癖がある。
 「いいよ、このままで。おれが責任をとるよ」
 そう答えておきながらなにもしない。
 こんな経験は医者になって二十年になろうとしているが初めてだった。


 「稲作問答」は「作品の履歴書としてのあとがき」に次のように書かれている。


 短篇集を編むべく企画し、雑誌に連作を発表し続けていると、ときに遊びを入れたくなる。こういう作品を書きたくなる。


 南木さんは自らの周りにある「死」をどう扱っていいのかわからないまま、死にゆく者、死んでいった者、逆に生き残った自分と、ただ途惑う。


 不幸も出来事なら奇跡も出来事だ。出来事が入り組んで人生が織られてゆく。(神かくし)


 いたものが、いなくなる。いなくなったものが、いる。身近に起きる出来事は単純明快なほど、みぞおちに強烈な膝蹴りをくらったみたいにからだの芯にこたえる。(熊出没注意)


 そういう生と死を扱う作品が多い。そんな中で「遊び」として 「稲作問答」が書かれたという。だけどこれが登場人物たちが一番生き生きしていた。


3月22日 日曜日

 はれ。

 4月から始まる手帖を買う。去年から高橋書店のものを使っているが、使い勝手良かったので、今年も同じものを購入する。
 仕事をしていた時はそれこそスケジュールが一杯であったが、去年から空白が多くなった。けれどちょっとしたことを書き込むにはこの手帖がちょうど良く、昨年の手帖から引き継ぐ購入予定の本など書き写す。
 今年はその日の天気をきちんと書き込んでおこうと思っている。というのもこのブログを後でまとめて書くとき、いつも天気はどうだったかなあ、と困るからである。
 とにかく歳をとったせいで物忘れが激しい。後でやろうと思ったことも、あるいは思いついたこともすぐ忘れる。なのでそうしたことをその都度書き込むようにしようと思っている。
 ということで、今はこの手帖と、5年連用日記、そしてノートをいつも枕元に置いてある。
 
 で、携帯は?

 それはどこだったっけ。ジャケットのポケットの中にあると思うけど・・・・。


3月23日 月曜日

 くもりのちはれ。東京にサクラ開花宣言が出た。平年より3日早いという。

 アルバムの修繕と掃除をおこなった。我が家のアルバムは本棚の一番下に入れてあり、埃と湿気で汚れてしまっていた。子供たちも成人したし、自分たちの写真を改めて見る機会も気持ちもなかったので、そのままにしておいた。
 しかし孫が成長して、孫と娘や息子の子供の頃の写真を見比べるように最近なってからアルバムを取り出すことが多くなった。
 しかし昔のアルバムを取り出して見るとかなり痛んでいる。例のフエルアルバムを使っているのだが、背表紙がなくなっていたり、破れていたり、中にはビズがなくなってバラバラになりかけているものもあった。台紙のフィルムの糊が利かなくなってしまい、写真が落ちてくるものさえある。
 これではいかん、と思い、まず掃除機で埃を落す。その上でアルバムの修繕をし、駄目なアルバムは、アルバムごと替えた。
 自分たちが結婚する前の写真や新婚旅行の写真が貼ってあるアルバムもあり、改めて見てみると懐かしい。
 掃除機を使ったため、窓を開けていたのだが、日差しの柔らかい日中、アルバムのページを一枚一枚めくっていくのもなかなかいいものであった。
 今は写真がデジタル化してファイルとなっているから、こんな手間暇かけて苦労して保存する必要もないのだろうが、でもアルバムにはアルバムとして形になったものを手にすることでき、アルバムの重味が時の重味みたいに思える。またアルバムも写真も経年劣化しているのを目のあたりにすると、時の流れをしみじみ感じてしまう。

 そういえばあの当時「百年プリント」なんていうのがあった。要するに百年後も現像した当時写真ままの鮮やかさが残るというのである。しかしよく考えてみれば、あの当時百年後の写真の状態を誰が確認できたんだ、という素朴な疑問が湧いてくる。


3月24日 火曜日

 はれ。寒さが戻る。それでも寒いと言っても、日差しが明るく、暖かく感じるから、それほどじゃない。

 図書館で借りた本3冊の返却期限が今日であった。いつもなら3冊ぐらいあっという間に読んでしまい、そんな期限など気にする必要はなかったのだが、今回はいろいろあって、なかなか本が読めず、やっと今日3冊目を読み終える。
d0331556_1192892.jpg その3冊目の本が南木佳士さんの自選エッセイ集『猫の領分』 (幻戯書房 2012/10発売)である。
 ここのところ南木さんのエッセイ、私小説を読んでいるのだが、こうして作品に触れていると、南木さんの生い立ち、経歴、あるいは病歴など私生活に詳しくなってくる。他人の個人情報に詳しくなっていることで、妙な感覚に陥る。本来他人の私生活など見てはいけないものだし、詳しく知る必要性はどこにもないのだが、エッセイとか私小説は個人のプライバシーを露わにしてしまう部分が多いので、必然的にこういうことになってしまう。そう思うと作家というのは因果な商売である。
 また言葉を拾ってみる。


 老いて死んでいく者を看取るのは、人類が何千年も実行してきた世代交代の儀式である。(医者)


 物事の本質にとらわれてしまう不器用な者だけが損をする。(答えがない)


 要は堅くなりすぎた心身を解放し、どうせ下る坂なのだから、無駄な力を入れずに下りたい。(保育園へ行きたい)


 齢を重ねないと見えてこないものがたしかにありそうで、そういうあたりまえのことが五十も半ばになるまで理解できなかった事実にあきれ、再び驚く。(石仏になる)


 生きのびることは絶えず変容し続けること。(壇上にて)


 真実の了解とはなぜいつもかくのごとく身も蓋もないものなのだろう。(おまえはみくりが池か!)


 そろそろ“底上げされた人生を生きのびてしまったこと”に途惑う作家の書くものに飽きてきた。まだまだ南木さんの本は読みたいが、ちょっと休憩しようかと思う。


3月26日 木曜日

 はれ。

d0331556_1112036.jpg 南木さんの本を読みたいのだが、少々疲れてきたので、気分休めに池波正太郎さんの『むかしの味』(新潮文庫 1988/10発売)を読む。こういうとき池波さんの食に関する本は箸休めになる。気取らず、淡々とその食べ物のうまさ、それにまつわる自分の昔のことなど読んでいると、いつの間にか心が安まる。
 なにも小難しくそれを表現しなくても、読んでいる者は、いつの間にか「うまそう!」と思えてくるあたりは、池波さんの筆のうまさだろう。口絵の写真もそのおいしさを見せてくれる。
 生きることをあれこれ悩み、苦しみ、考えることも大切だろうが、食べることは生きることにダイレクトにつながるはずだ。悩む前においしく食べることがどうできるか、そんなことを考える。


3月27日 金曜日

 はれ。

稲盛和夫さんの『生き方』を読み終える。


3月28日 土曜日

 はれ。

 娘夫婦が孫を連れて来る。


3月30日 月曜日

 はれ。

 図書館へ南木さんの本を借りに行く。図書館へ向かう途中が桜並木になっており、ほとんど満開に近い桜が咲いている。
 昨年も同じ時期桜を見ているのだが、今年は桜のことが気にかかる。たぶん昨年の今ごろは仕事を辞めてそれほど時間が経っていなかったので、まだ仕事モードから完全に切り替わっていなかったからではないかと思う。それから1年を今までとはまったく違う生き方で、季節の移り変わりを実感する生活を始めた。春から夏へ、そして秋へ、さらに冬を迎え、過ごしたことで、いつの間にか春が待ち遠しくなっていた。その春を感じさせてくれるのが桜だ。だから気になる。

 我が家にある名前がわからない木が、たくさんの紫色のつぼみをふくらませ、咲こうとしている。


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 何の木かわからないのもしゃくなので、ネットでいろいろ調べてみると、たぶん西洋つつじではないかと見当をつけた。断定できないのは、この西洋つつじ、品種改良のためかいろいろ種類があるようで、その中の一つが昨年咲いた花に似ているので、それではないかと思っているのだ。
 この木、昨年はそれまで放っておいたために数個の花しか付けなかったが、その後肥料をやったり、剪定したり、こまめに消毒もしたので、昨年と違い、今年はたくさんのつぼみを持っている。これが全部咲いたら豪華になりそうである。まさしく1年かけてここまで育てたという感である。ここのところ毎朝雨戸を開ける度に、つぼみの状態を確認する楽しみが増えた。普通のつつじもつぼみを持ち始めている。


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 もう一つ気にしていることがある。それは庭に広がるコケである。


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 もともとこの庭はさつきがメインで、こやつ、水やりが欠かせない。そのため庭はいつも適度に湿っている。そのためコケが生えてくる。これがなかなかいい感じで、ちょっとしたみどりの絨毯みたいに広がりつつある。触ってみると柔らかい。これがもっと広がればいいなあ、と思っている。

 さて今日は夕方から出かける。六義園のしだれ桜のライトアップを見に行く。かねてからこのしだれ桜のライトアップを一度見てみたいと思っていたのだ。
 午後7時過ぎ庭園の前に着くと、結構人が出ていて、入園料を払うのに並んでいる。
 入口からちょっと入ると、しだれ桜がライトアップされている。ものすごい大きな木だ。ちょっと圧倒される。この桜一本を見たいためにこれだけの人が集まるのもうなずける。


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 しばらしだれ桜まわりを歩き、これだけかな、と思いきや、案内の人間が「しだれ桜ツーがこの先にもあります」と言う。「しだれ桜ツー」という言い方がおかしかった。そのまま人の流れのまま暗い園内を歩いて行くと、先ほどとは違う幾分白い、背の高いしだれ桜が見える。こっちの方は妖艶といった感じであった。


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3月31日 火曜日

 はれ。

 黒井千次さんの『散歩の一歩』を読み終える。
 今日は散歩コースにある桜を写真に撮ってみた。昨日のしだれ桜はあまりにも大きすぎて、それだけで圧倒されてしまった。こちらのしだれ桜は小さいけれど、これはこれできれいである。


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 私の散歩コースである親水公園にはこんな感じで桜が咲いていた。


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by office_kmoto | 2015-04-03 11:37 | 日々を思う | Comments(0)

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