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南木 佳士 著 『冬の水練』

d0331556_6191546.jpg 例によって気になる文章を引き出す。

 おなじ時期、ようやく外来診療が可能になって医局に行くと、秀才組だった後輩の医者が疲れた顔で座っていた。
 「あんまり頑張ると、おれみたいにうつ病になっちゃうぞ」
 私がねぎらいを口にすると、彼は、
 「なんでもうつ病でかたづけば苦労はないですけどね」
 と、陰気な顔で冷たく言い放って部屋を出て行った。
 言葉は状況の一部に過ぎないと分かっていても、私がいまでもこの男を許さないのは、病む以前におなじような言葉を私も用いていた可能性が高いからである。彼は鏡に映った元気なころの私にほかならなかったのだ。(医者の言葉)


 精神科医や内科医の言葉は、その身の毛もよだつ鋭利さが目に見ない分だけ外科医のメス以上の危険物と化す場合がある。それなのにこの凶器の取り扱いを教えてくれる、あるいは教えられる資格を有する人は極めて少ない。
 思えば恐ろしい話であり、医者とは小説家とおなじで、つくづく怖い仕事である。(医者の言葉)


 (患者の検査の結果を厳しい言い方で説明するとき)けつの穴の小さい受診者は青ざめ、額から脂汗を流す。
 その姿にこちらも影響され、お互い気分を悪くしたまま別れるはめになる。よく考えてみれば、検査値とはいま現在のものに過ぎず、それを基準に他者の未来を知ったかぶりに予言するなどちょこざいせんばんな行為ではないか。けつの穴の小さな人たちに向けて慎重に言葉を選んでいると、実は断定できることなどひとつもないのだと気づいてくる。
 ならば、お互い気分よく別れられる言葉を用いることにこしたことはない。決して嘘をつかない原則さえ守られていれば。(けつの穴)


 私には信州の田舎町での臨床の医者という仕事があった。作家として虚構が虚構を呼ぶ過剰な言葉の暴走の熱を冷やしてくれる、寡黙で、無駄肉なき身体で働く人たちを相手にする極めて現実的な仕事が。(太宰治の顔)


 世界など、自ら狭めようと思わなくても歳とともに自然に狭まってくるのだと知る。でもその分、若いころはいかにも平凡に見えていた日常の細部に意外なほど深みが潜んでいることに気がついてみたりもする。(波の音に沿って)


南木 佳士 著 『冬の水練』 岩波書店(2002/07発売)
by office_kmoto | 2015-05-27 06:20 | 本を思う | Comments(0)

南木 佳士 著 『陽子の一日』

d0331556_545041.jpg 陽子は還暦間近の内科外来担当の医師であった。診療用のパソコンを開くと、今日来る患者の一覧表の他に、桑原芳明という後期研修医からのメールが添付ファイルとも送られてきていた。その添付ファイルは患者黒田久彦の病歴要約であった。
 黒田は医師で陽子と同期で同じ病院に入った。


 三十年前、妊娠十カ月目まで働いていて、老人患者の気管支切開中に破水したとき、あとの患者の処置を引き受けてくれたのが黒田であった。もとから地域医療を志向していた黒田は内科全般の知識を身に付けた十五年目にこの病院を辞し、ここから車で二時間ほど山のなかに入った村で開業した。


 桑原芳明は黒田の診療所で研修を受けていた。その桑原芳明が書いた黒田の病歴要約とは奇妙なもので、単に黒田の病歴を記したものではなく、黒田のたどってきた自身の歴史まで書かれていた。それは黒田の意志であった。


 江原陽子って医師が病院にいるだろう。彼女にもこの病歴要約、読んでもらってくれよ。

 あいつさあ、三十年前に、ほっとけば数日で亡くなりそうなお婆さんの脳出血患者に気管支切開してさあ、人工呼吸器につないで生かそうとしていたんだよ。付き添ってきた嫁が、あまりにもあっさりお婆さんの死を受容していた、そのあっさりさが許せないってな。
 その嫁さんも妊娠していたんだけれど、江原陽子も臨月で、気管支切開で腰をかがめていたもんだから破水しちゃって、そのあとお婆さんの処置はおれが引き受けたんだけれど、気管支切開はきれいにできて、きちんと人工呼吸器につながれてたよ。そのお婆さん、一週間で亡くなってな。ちょうど産科を退院する日に、おれが報告にいったら、あら、そうって、あっけらかんとしていたな、あいつ。けっこうな悪党だよ。あいつは。おれの病歴、ほんものの悪党には読んでもらいたいよな。


 黒田がいう悪党とは、犯罪など人に迷惑をかけるわれわれが通常言う“悪党”とは意味が違うのだが、それは後で説明する。
 黒田が医師が悪党だと考えるようになったのは、妹の死からである。
 黒田は長男で一歳下の妹がいたが、彼女が四歳の時井戸の周りにあったスグリの木の実を食べ過ぎ、三日三晩激しく吐いて死んだ。その時峠を越えた隣の村の医者が黒いヘルメットにゴーグルをつけ、皺だらけの白衣をマントのようにひるがえして駆けつけてくれたが、彼は妹の尻に太い注射を一本刺しただけで帰って行った。
 弱り切って声も出せない妹を置いて、バイクのエンジンを何度も吹かせて、ゴーグルの埃を白衣の袖で拭いてから手を振って去って行っていく医者を見送り、悪党、と小声で叫んだ。
 悪党が去った翌日妹は死んだ。
 黒田は医者になりたかったわけでもないが、自分が将来就きたいと憧れる職業が見当たらなかった。診療所の医者は自分が結核の時、胸に注射を刺し、胸水を採ってくれたり、盲腸を悪化させ腹膜炎を起こす前に助けてくれた命の恩人ではあったが、妹の死のとき抱いた悪党の印象はぬぐえず、自ら進んで悪党になりたいと思わなかった。しかし進路指導の担当教師は医者は職人だから食いっぱぐれはないと言われる。
 古文の教師は、黒田が医者は悪党だと見抜いたのはたいしたものだ、と褒める。昔、医者は陰陽師と同じ程度の扱いで、身分も低かった。しかし悪党という言葉は、今使われているのとは違う意味を持っていた。悪党とは昔、しぶとい野郎、殺しても死なないやつみたいな意味で使われていたことを教わる。
 黒田は開業した山の診療所で、回復の見込みのない患者に治療をしないで、自然死に持って行くとき、何もしないことに、後ろめたい気持ちに耐えられなくなった家族を説得するのが自分の役目だと考えていた。
 桑原芳明は黒田が「医者は悪党の仕事だから」と口癖のように言うことがわからなかった。桑原は研修の時黒田の往診について行くうちにおのずとその言葉理解できるようになった、とその病歴要約に個人的意見を書き込んでいる。


 ひとが死ぬのを黙って見ていることができるしぶとい神経の持ち主。彼の言う悪党とはそういう人物を指すらしかったが、わたしの見るところ、患者(黒田のこと)は悪党になりきれていなかった。


 黒田は業の深い医者になれなかった。陽子は長いことこの病院で働けている。だから悪党になっていた。いやならざるを得なかったと言うべきかも知れない。そして桑原も悪党になれず、医者を辞め実家の讃岐うどん屋で働いていた。黒田の誘いでもう一度医者として一緒に働かないか、と誘いを受けていたが悩んでいる。
 南木さんの本を何冊か読んできたが、医者は業の深い職業であり、タフな精神がなければやっていくのが厳しい職業であることを何度も書いている。そういう意味できっと医者が悪党でなければやっていけないものだ、と言いたかったのだろう。そして自ら悪党に徹しきれず、パニック障害となり、うつ病となってしまった。その後何とか回復したものの、いつ再発するかわからない自分の抱えながら、そんな自分を解放するために小説を書いている、と書いていた。

 なお黒田の病歴要約を書いている桑原の考察の中にある言葉が気にかかったのがあったので書いておく。


 「わたし」は他者の認証を得ないと「わたし」の同一性に確信がもてない。「わたし」とはそれほど不確かな概念に過ぎない。


 目に見え、指で触れられ、数でかぞえられる実感は常に地味なものだけれど、生きるためには確固たる足場だ。


南木 佳士 著 『陽子の一日』 文藝春秋(2013/01発売)
by office_kmoto | 2015-05-24 05:51 | 本を思う | Comments(0)

南木 佳士 著 『阿弥陀堂だより』

d0331556_1959380.jpg 高校時代知り合った、医師を目指す美智子と小説家志望の孝夫が結婚し、都会で生活を始める。美智子は有能な医師であり、多忙な日々を過ごしていた。
 やっと授かった子供が死産となり、その後精神的に不安定となり、恐慌性障害(パニック・ディスオーダー)となる。1ヶ月の自宅療養指示が出たが、美智子の症状を悪化させるのは、早く第一線に戻らないと落ちこぼれるという恐怖心であった。困り果てた孝夫は美智子の母親と連絡を取り、助けを借りる。落ち込む美智子を見て、母親は、


 「ねえ、みっちゃん、この病気はもしかしたら、人生の後半は前半みたいにつっ走るんじゃなくて、少し生き方を変えてみたらって神様が教えてくれているんじゃないかしら」


 この言葉に美智子は救われていくが病状はなかなか良くならず、美智子が病院の第一線から退くうちに、発病の誘因をつかみかけていた。


 それはあまりにも人工的な東京の都市環境そのものであるらしかった。病む前には快適であったはずの人が人のために創り出した環境は、人間不信に陥った今、彼女の精神を逆なでするものに変質していた。そこに人間の意図が見てとれると、公園の樹木や噴水さえも美智子をいらだたせた。見た目の美しさや合理性ばかり追求された人工建造物のレイアウトには、弱い心の存在を無きものとみなした健康人たちの奢りが感じられた。


 それに気づいてから、美智子は東京を逃げ出すことばかり考え始めた。元気だった頃、お盆で孝夫のふる里、谷中村に帰ったとき、孝夫の同級生が孝夫と一緒に帰ってくれれば、と言ってくれたのを思いだし、役場にすぐ電話をし村の診療所に就職することとなった。
 東京で生まれ育った美智子にはふる里がなく、高校時代からふる里にあこがれを持っていた。美智子が初めて谷中村に来た時、「いつも爪先を立てて歩かなければならない東京の生活を抜け出して、川の瀬音やセミの声を聞きながらゆっくりと踵を地に着けて村の路を行く」この村が好きになった。孝夫も谷中村にいるときの美智子の笑顔は東京では決して見られないものだと感じていた。
 谷中村で二人は暮らし始め、しばらくするうちに美智子の顔が穏やかになっていることに気付き、孝夫はそのことを言う。美智子は、


 「楽なのよね。なんだかとても楽なのよ」


 美智子はここでリラックスしていた。
 二人は谷中村に帰ってきて、村の自然と村の人々、阿弥陀堂の堂守であるおうめ婆さん、さらに村の広報誌に<阿弥陀堂だより>というおうめ婆さんの話をまとめたコラムを書いている小百合たちとのふれあいを通じて、“再生”していく。
 小百合は大学時代喉に悪性の腫瘍が出来て、放射線の治療を受け、その影響で声帯が動かなくなっていた。
 その肉腫が肺に転移していることがわかった。この病気の治療は美智子の専門分野でもあった。しかし小百合の治療に関われば、また病院時代の時のようにまた病気が再発するのではないかという不安があった。しかし孝夫は美智子が回復しつつあるのを見ていたので、小百合の治療に関わることを後押しした。そして美智子は小百合の治療に携わることで、さらに医師として再生していく。
 読んでいていいなあ、と思うのは、美智子の“再生”が劇的なものではなく、徐々に、そして問題や病を抱えながら少しずつ、それまでとは違うまっとうな形で再生していくところである。美智子の言葉が感動的である。


 「最前線こそがエリートの仕事場で、田舎の診療所なんかおちこぼれの医者にやらせておけばいいって、私も前はそう考えたの。だから、中村先生からみれば落ちこぼれ見えるだろうし、それでいいのよ」

 「いいのよ、ほんとうにいいの。落ちこぼれてみないと見えなかった風景っていうのがあるのよ。背伸びばっかりしていると視野に入らない丈の低いものの中に、実はしっかりと大地に根をおろしている大事なものがあったのよ。そういうことに気づいてから、落ちこぼれっていうのも悪くないなって思ってるんだから」


 小百合の病がヤマを越えたとき、


 朝食の席で、小百合ちゃんの肺炎がヤマを越えたわ、と孝夫に告げた美智子の表情は淡々としていて、うまい歳のとり方をしそうな予感すら感じさせる落ち着きがあった。
 「あんた、いいお婆さんになれると思うよ」
 ほっとした孝夫は軽い冗談を投げかけた。
 「目標はおうめさんよね」


 孝夫も、


 これまで雑多な前半生に揺られて乱れてしまっていた人生の算盤の玉をすべてご破算のして並べ直してみたくなる原点回帰の想い。この想いさえあれば村でもう少し生きて行けそうだった。


 ところでここで書かれている阿弥陀堂とは、集落にそれぞれの阿弥陀堂がある。それは集落全体の仏壇であり、堂守は身寄りのない老婆がその役目を負い、阿弥陀堂に住んで、村人の総代として毎日花や供物をあげ、堂を掃除する。おうめ婆さんは孝夫の住んでいる阿弥陀堂の堂守であった。
 そのおうめ婆さんの言葉を小百合がまとめたのが<阿弥陀堂だより>である。
 この<阿弥陀堂だより>はもしかしたら南木さんが一番書きたかったことではないか。そして短いけれど、一番苦労したのでがないか、と思った。


 <阿弥陀堂だより>
 目先のことにとらわれるなと世間では言われていますが、春になればナス、インゲン、キュウリなど、次から次へと苗を植え、水をやり、そういうふうに目先のことばかり考えていたら知らぬ間に九十六歳になっていました。目先しか見えなかったので、よそ見をして心配事を増やさなかったのがよかったのでしょうか。それが長寿のひけつかも知れません。


<阿弥陀堂だより>
 畑にはなんでも植えてあります。ナス、キュウリ、トマト、カボチャ、スイカ、・・・・そのとき体が欲しがるものを好きなように食べてきました。質素なものばかり食べていたのが、長寿につながったのだとしたら、それはお金がなかったからできたのです。貧乏はありがたいことです。


<阿弥陀堂だより>
 九十六年の人生の中では体の具合の悪いときもありました。そんなときはなるようにしかならないと考えていましたので、気を病んだりはしませんでした。なるようにしかならない。そう思っていればなるようになります。気を病むとほんとの病気になってしまいます。


<阿弥陀堂だより>
 お盆になると亡くなった人たちが阿弥陀堂にたくさんやってきます。迎え火を焚いてお迎えし、眠くなるまで話をします。話しているうちに、自分がこの世の者なのか、あの世の者なのか分からなくなります。もう少し若かった頃はこんなことはなかったのです。怖くはありません。夢のようで、このまま醒めなければいいと思ったりします。


<阿弥陀堂だより>
 娘の頃は熱ばかり出していて、満足に手伝いもできませんでした。家の者も村の誰もがこの娘は長生きはできないだろうと言っていたものでした。それがこんなに死ぬのを忘れたような長生きになってしまうのですから人間なんて分からないものです。歳をとればとるほど分からないことは増えてきましたが、その中でも自分の長生きの原因が一番分からないことです。


<阿弥陀堂だより>
 阿弥陀堂に入ってからもう四十年近くなります。みなさまのおかげで今日まで生かしてもらっています。阿弥陀堂にはテレビもラジオも新聞もありませんが、たまに登ってくる人たちから村の話は聞いています。それで十分です。耳に余ることを聞いても余計な心配が増えるだけですから、器に合った分の、それもなるたけいい話を聞いていたいのです。


<阿弥陀堂だより>
 食って寝て耕して、それ以外のときは念仏を唱えています。念仏を唱えれば大往生ができるからではなく、唱えずにいられないから唱えるのです。
 もっと若かった頃はこれも役目と割り切って唱えていたのですが、最近では念仏を唱えない一日は考えられなくなりました。子供の頃に聞いた子守歌のように、念仏が体の中にすっぽり入ってきます。


<阿弥陀堂だより>
 雪が降ると山と里の境がなくなり、どこも白一色になります。山の奥にあるご先祖様たちの住むあの世と、里のこの世の境がなくなって、どちらがどちらだか分からなくなるのが冬です。
 春、夏、秋、冬。はっきりしていた山と里の境が少しずつ消えてゆき、一年がめぐります。人の一生とおなじなのだ、この歳にしてしみじみ気がつきました。


 阿弥陀堂に入って孝夫は思う。


 死ぬことは生者と別れるのではなく、生者よりはるかに多い死者たちの仲間に入るのだというあたりまえの要領が阿弥陀堂の壁を眺めていると単純明快な視覚を介して了解できる。


 阿弥陀堂の壁には村で死んだ者の名前を書いた木札が釘で打ち付けてある。

 いい本を読んだと思い、本を閉じた。


南木 佳士 著 『阿弥陀堂だより』 文藝春秋(1995/06発売)
by office_kmoto | 2015-05-21 20:03 | 本を思う | Comments(0)

沢木 耕太郎著 『テロルの決算』

d0331556_6171987.jpg 腹のバンドに差している日本刀を抜いたのはどの辺か記憶はありませんが、テレビカメラの所を一メートルぐらい走り抜けた時には刀を抜き、右手で柄を握り、左手の親指を下にして掌で柄の頭を押さえ、腹の前に刀を水平に構え、浅沼に向かって夢中になって突進しました。







 このときの写真がこれである。


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 昭和35年10月12日、日比谷公会堂の演壇に立った浅沼稲次郞は山口二矢に刺殺された。いわゆる「浅沼稲次郎暗殺事件」を扱ったのがこの本であるが、ただ時系列に事件を描写したものではない。どこで浅沼稲次郞と山口二矢がクロスしたのか。それを山口二矢が何故右翼に走り、浅沼が左翼である社会主義に身を任せた過程を語り、そして山口二矢が浅沼を刺殺するまでに至った浅沼の第二回訪中の際にはなった「米帝国主義は日中人民共同の敵」という発言が何故行われたのかをたどる。
 まずは山口二矢である。二矢が右翼に向かったのは、兄の朔生の影響による。二矢と朔生は歳が近いこともあってよく喧嘩をしていた。二矢にとって朔生は「圧制者」であった。しかし朔生は単に喧嘩の度に泣かされる圧制者ではなかった。朔生は軍隊への強い関心があって、少年時代にすでに右翼的な思考方法をとるようになっており、それが二矢にも浸透していった。
 父親の仕事の関係で転校を繰り返しているうちに、孤独の中、二矢は「強いもの、流行するもの」に対する反発心が強くなっていく。彼にとって左翼こそ強者であり、流行に便乗していると映っていく。ちょうど時代は戦争が終わり、昭和30年代前半という、日本全体が一種の「政治の季節」の到来に浮き足立っており、思想的に右翼とか左翼とかを問題にする時期であった。この後安保闘争の時代に入っていく。またそんなとき父親が自衛隊に勤めているという負い目が屈折した鋭さを二矢に生んでいく。二矢の高校の時のあだ名は「右翼野郎」であった。


 二矢には朧気ながら敵が見えはじめていた。あとは明確にその敵を名ざししてくれる誰かがいればよかった。二矢は無意識のうちに指導者を欲するようになる。それは彼の「反共」に意味を付与してくれる人物でなくてはならなかった。


 そんなとき二矢は赤尾敏に出会うのである。二矢が初めて赤尾の街頭演説聞いて震えを覚え、その二日後愛国党の本部を訪ねている。以来二矢は愛国党の本部で過ごすことになる。赤尾の街頭演説に立ち会い、ヤジを飛ばすものがあれば、二矢は相手に殴りかかっていく。何度も警察に検挙された。
 時代は安保闘争に入っていた。安保反対に集結する群衆の前では、二矢たちの右翼は一握りの砂でしかなかった。国は安保反対に揺れていた。この大波を食い止めるには、自分のような金も組織もない人間にとって、残された方法は一つしかない。


 彼はしだいに愛国党を離党し、武器を手に入れ、左翼の指導者をテロルによって倒そうと考えるようになっていった。


 しかし誰を倒せばいいのか。二矢は六人の政治家をリストアップするが、その中に浅沼稲次郞の名があった。浅沼は社会党右派として、またその人柄によって右翼からも親近感を持たれていたが、二矢がリストアップした政治家の名前に浅沼の名があげるのは浅沼の第二回訪中の際に発言にあった。


 「米帝国主義は日中の人民共同の敵」


 これが「中共に媚びる売国奴!」と映り、右翼の怒りを買ったのである。では浅沼なぜこのような発言をしたのか?これから先は浅沼の生い立ちと、思想的遍歴を語っていく。
 浅沼稲次郞は明治31年12月27日三宅島三宅村神着で生まれた。彼は庶子であった。浅沼が学生運動から無産運動に突き進み、やがて社会主義の未来を信じる運動家になっていくプロセスは、ほとんど明らかにされていない。
 大正6年のロシア革命の成功と第一次世界大戦後日本の資本主義は大量の労働者生み出し、結果労働運動を激化させることとなる。社会的混乱は都市部だけでなく農村にも広がり、政治的関心を持った若者たちに当然影響を与えていく。浅沼はそうした時代にいた。浅沼が社会主義運動に、政治に活動していく過程は複雑なので、Wikipediaから抜粋と沢木さんのこの本の内容を追加してみる。

 浅沼の父は稲次郎に医者になるよう勧めたが、反対を押し切り、大正7年(1918)に早稲田大学予科に入学する。早稲田では雄弁会と相撲部に在籍した。
 その後社会主義運動に飛び込み、建設者同盟の結成に加わる。同志たちと全国の小作争議や労働争議を応援する日々を過ごした。
 大正12年(1923)に早稲田大学政治経済学部を卒業した後も、社会主義運動を続け、大正14年(1925)には日本で最初の単一無産政党である農民労働党の書記長に27歳の若さで推された。しかし、この党は結党わずか3時間で政府の命令で解散させられた。
 昭和元年(1926)単一無産政党として、労働農民党が結成されるが、まもなく社会民衆党(右派)・日本労農党(中間派)・労働農民党(左派)の三派に分裂した。浅沼は日本労農党に参加した。昭和7年(1932)分裂する無産政党を糾合して、社会大衆党が結成されると、浅沼もこれに加わったが、このとき、浅沼は書記長の麻生久の人柄に心酔し、麻生が軍部との協力によって社会主義革命を目指そうという国家社会主義的な路線を打ち出すと、これを支持した。以後、浅沼は軍部による戦争政策の支持者となる。左派の浅沼たちが軍部を支持したのである。浅沼は次のように意見を述べる。


 《現存せる政党政派の離合集散であっては何等の意義がないと思います。之等既成政党の解消が前提である。国家組織の再編成を行い之を通じて国民指導の任に当り、職分奉公の精神に基く大政翼賛の政治を顕現するため、真に挙国的にして革新的なる政党たらねばならぬ。
 内外の時局は新たなる政治の結成-新政治体制の確立を要求して居ります。之なくしては全国力を統合的に発揮する国防国家建設は困難である》


 沢木さんはこれを次のように言う。


 ここにはかつての社会主義者の姿はない。庶民的な政治家、すら存在しない。見えてくるのは庶民そのもの(つまり国民が戦争を支持していた)、大衆そのものとして事変に身を処している、ひとりの気弱な男の貌だけである。
 麻生の「上からの革命」論は、近衛を「シャッポ」いただいた新党に合流すべく、社会大衆党をして他の政党に先がけて解党させることになる。

 昭和8年(1933)東京市会議員に、昭和11年(1936)には衆議院議員選挙に初当選する。
 昭和15年(1940)に社会大衆党に解党。同年麻生が亡くなる。浅沼は心のよりどころを失い、精神の変調をきたすようになる。沢木さんは浅沼の「発狂」を次のように推理する。


 (麻生の死が)彼らの中で最も深刻な衝撃を受け、永く立ち直れなかったのは浅沼である。麻生というともづなを放たれ、不意に精神的な自由な海に放たれた浅沼は、その不安に激しく混乱してしまう。今度はあらゆるものの責任をひとりで取りながら、戦時という異常な時代に身を処していかなければならなかったからだ。と同時に、今まで麻生が引き受けてくれていた、さまざまな行動の責任が、一挙に彼の肩にかかってきた。浅沼の精神的な混乱は深まった。
 しかし浅沼には、もはや麻生の敷いたレールの上を走るより他に方法がなかった。翼賛議員同盟理事になり、大政翼賛会の選挙制度調査部副部長、東京支部常務委員などの役職についていく。日比谷公園で排英市民大会を主催し、首相官邸に押しかけていったともいわれる。
 このような「愛国」的行動を続けているうちに、彼の精神が音を立ててきしみはじめる。
 庶民そのものとして、時流に身を委ねているうちに、現実は彼の理解を超えて凄まじいスピードで進んでしまった。だが、それにしても、このような社会を招来するために、自分たちは青年時代から苦労して無産運動をやってきたのだろうか。麻生の呪縛から解き放たれ、我にかえった時、このような疑問が芽生えたとしても不思議ではない。もし、そうだとしたら、自分たちは何のために軍閥と闘い、リンチに耐え、検束をはねのけてやってきたのだろう・・・・。


 昭和17年(1942)の総選挙(いわゆる翼賛選挙)での立候補を辞退したが、これによって浅沼は戦後、公職追放を免れることとなる。
 昭和20年(1945)日本社会党の結成に際し、組織部長に就任した。中間派の指導者であった河上丈太郎・三輪寿壮らが公職から追放されたため、自然と浅沼が中間派の中心人物となった。


 結党大会で司会をつとめた浅沼は開会の挨拶で国体擁護を主張し、最後に加賀豊彦が天皇陛下万歳の音頭を取ったいう。出席していた荒畑寒村は唖然としたという。

 昭和22年(1947)書記長だった西尾末広が片山哲内閣に入閣すると、浅沼は書記長代理となり、翌年には正式に書記長となった(国会内では初代衆議院議院運営委員長)。
 昭和24年(1949)第24回衆議院議員総選挙で委員長の片山哲が落選し、一時的に委員長が空白となったため、国会の首班指名では、社会党は浅沼首班で投票した(実際に指名されたのは吉田茂)。一時、書記長を離れるが、昭和25年(1950)に書記長に復帰した。
 昭和26年(1951)サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約ともに反対の左派とともに賛成の右派が対立すると、浅沼は講和条約賛成・安保条約反対の折衷案で、党内の対立をまとめようとするが、左右分裂を食い止めることができなかった。その後、右派社会党書記長となった浅沼は寝る間を惜しんで全国の同志たちの応援に駆け回り、そのバイタリティから「人間機関車」の異名がつけられた。
 昭和30年(1955)社会党再統一が実現すると、書記長に就任する。書記長という役職柄、党内で対立があると、調整役にまわって「まあまあ」とお互いをなだめる役割に徹したことから、「まあまあ居士」などとも呼ばれた。また、長年にわたって書記長を務めてきた実績と、長年書記長を務めていながらトップである委員長のポストが巡ってこない境遇をかけて「万年書記長」とも呼ばれた。
 そして昭和34年(1959)の訪中となる。浅沼にとって中国訪問はこれで二回目となる。最初の訪中の時は、毛沢東や周恩来など歓迎を受けたが、今回の訪中は中国側は冷ややかだった。そこで起死回生講演が演出されたのである。これによって浅沼は一朝にして中国における最も人気のある日本人となった。その演説の全段階で浅沼は次のように言う。


 「台湾は中国の一部であり、沖縄は日本の一部であります。それにもかかわらずそれぞれ本土から分離されているのはアメリカ帝国主義のためであります。アメリカ帝国主義についておたがい共同の敵とみなして闘わなければならないと思います」


 これが国内外に大きな波紋を広げただけでなく、山口二矢が浅沼を狙う理由となった。しかもこの発言が大きな問題となっても、浅沼はかたくなに訂正も修正もしなかった。帰国時に飛行機のタラップを中国の工人帽着用で降りてくるというパフォーマンスとあいまって、右翼のみならず党内からも強い批判があがった。
 この「米帝国主義は日中の人民共同の敵」に浅沼はなぜこだわったのか?それを沢木さんは次のように言う。


 浅沼には社会主義者として中国に対する大きな負い目があった。彼の属した日労系グループが、満州事変には反対していながら支那事変となるに至り双手を挙げて賛成するようになってしまったというばかりでなく、彼自身も中国侵略を「聖戦」とみなし「支那事変は日本民族が飛躍するためのひとつの仕事」と述べたことすらあったからだ。
 初めて中国を訪れた時、浅沼はこう挨拶した。
 「私たちは、かつて日本に民主主義、平和主義、そして社会主義の勢力がきわめて弱かったために、あの恐るべき戦争を、未然に阻止することができず、貴国の皆さんに筆舌に尽くしえない惨禍をもたらしたことに対して、社会主義者として力の足らざりことを深く反省しているものであります」
 公式発言のためにその内面まで曝け出されていないが、彼の心の奥に沈殿する罪の意識だけはうっすらと滲み出ている。

 中国への「贖罪」の意識が発言を支えた。中国への「感動」がさらにそれを強力に支えた。帰国した浅沼は、妹の夫である能美正彦に「中国には人間がいたよ・・・・」と呟いた。
 浅沼の眼には、建国の意気に燃えた六億八千万の民の姿が、強烈に映った。とりわけ彼らと共に同じ道を歩むことのできる指導者たちの幸せが羨しかった。
 かつて戦前のある時期、彼にも大衆の中で大衆と共に闘えばよいという日々を迎えたことがあった。それは単純で、明快で、だから至福の日々だった。


 浅沼は中国の空気に触れて久しぶりに昂揚した気分を味わうことが出来たのである。


 昭和35年(1960)西尾末広らが社会党を離党して、民主社会党(民社党)を結成すると、鈴木茂三郎委員長は辞任し、浅沼が後任の委員長に選ばれた。浅沼は安保闘争を自ら戦いの前面にたって戦い、岸信介内閣を総辞職に追い込むが、安保条約の廃案を勝ち取ることはできなかった。
 そして同年10月12日日比谷公会堂で開催された自民・社会・民社3党首立会演説会に参加した浅沼は、17歳の右翼少年・山口二矢に腹部を刺され、波乱の生涯を終えた。

 二矢の犯行には誰か二矢に使嗾(しそう‐指図してそそのかすこと。けしかけること)した者がいたのではないかと思われた。一番疑われたのが赤尾敏であるが、赤尾の率いる愛国党は単に宣伝ビラを撒いただけのことで(それで警備に隙が出来、二矢が壇上に登れた)、この事件は二矢単独の凶行であった。
 二矢は警察の取り調べで次のように言う。


 「このたび浅沼委員長を刺殺したことはまったく自分ひとりの信念で決行したことで他人からいわれたり、あるいは相談したことは絶対にありません」

 「浅沼委員長を倒すことは日本のため、国民のためになることであると堅く信じ殺害したのでありますから、やった行為については法に触れることではありますが私としてはこれ以外に方法がないと思い決行し、成功したのでありますから、今何も悔いる処はありません。しかし現在浅沼委員長はもはや故人となった人ですから、生前の罪悪を追及する考えは毛頭なく唯故人の冥福を祈る気持であります。また浅沼委員長の家族に対しては経済的生活は安定しているであろうが、いかなる父、夫であっても情愛にかわりはなく、殺害されたことによって悲しい想いで生活し、迷惑をかけたことは事実でありますので、心から家族の方に申し訳ないと思っています」


 これは17歳の少年が言える言葉であろうか、と思った。それにしても、と思うが、これ以上言えば別の話になってしまうのでやめる。
 山口二矢は11月2日に練馬の少年鑑別所に移された。午後八時の点呼で部屋の中で天井からぶら下がっているのが発見された。シーツを細長く裂き、それを80センチほどの紐にして天井の裸電球を包む金網にかけて首吊り自殺した。遺書はなかったが、コンクリート壁に翌朝使うために支給された粉歯磨きを水に溶き、人差し指を筆にして、

《七生報国
 天皇陛下万才》

 と書いた。
 私は沢木さんが書いた山口二矢を知りたくて、この本を読んだつもりだったが、読み終えた後、二矢より浅沼稲次郞の人生の方に気持が移ってしまっていた。


沢木 耕太郎著 『テロルの決算』 文藝春秋 (2008/11/10 出版)文春文庫
by office_kmoto | 2015-05-20 06:20 | 本を思う | Comments(0)

平成27年5月日録(上旬)

5月1日 金曜日

 はれ。今日もいい天気であったが、いささか暑かった。二階では扇風機を出した。

 明日から娘夫婦と孫、義理の妹と我が家にやってくる。孫の四歳の誕生パーティーをやるのだ。そのため部屋の掃除にてんてこ舞いの一日であった。


5月3日 日曜日 

 今日も日中は暑いくらいの日差しであった。

 昨日娘家族が孫を連れ家に来る。義理の妹も来ている。夕方から孫の四歳の誕生日パーティーをする。生意気になってきているけれど、やはり孫と話していたり、遊んだりしていると、時間が経つのを忘れる。
 今日は孫とあさがおの種をまく。遊びながらの種まきなので、果たしてちゃんと芽が出てくれるかどうか、多少心配だ。
 今年で入谷で買ったあさがおは三年目となる。去年たくさんの種が取れたので、芽が出て育ちのいいものだけを間引くことが出来る。なのでいいあさがおが出来るのではないか、と期待している。
 昼食後義理の妹は大阪へ帰って行き、娘たちは夕方帰って行った。
 そうそう、義理の妹に、エスカレータを待つとき、大阪では右側に立つのか聞いてみたら、果たしてそうである、という。面白かったのは、新大阪の駅では大阪以外の人間も多くいて、エスカレーターの左に立つ人、右側に立つ人とまちなのだそうである。つまり統制が取れていないので、急ぐ人は苛立ちながらジグザグに上って行くそうだ。


5月4日 月曜日

 晴れているのだが、風が強い一日であった。

 佐伯一麦さんの『麦主義者の小説論』を読み終える。


5月5日 火曜日

 くもりのち晴。やっと風も収まる。


 タブの木の小さな花がここのところの強風で落ちている。なにせ大きな木なのでその量が半端ない。その上タブの木特有の落葉も一緒に落ちてくる。
 今日になって風も収まったので、さっそく庭と玄関先を竹箒で掃き出す。この竹箒大分使い込んでいているので、そろそろ新しい竹箒を使うか、と思い小屋から持って来て使ってみる。新しい竹箒は穂先が広がって、その上柔らかいので、一気に掃けることがわかる。だから効率もいいし、力も要らない。これだったらもっと早く使うべきだったと後悔する。
 箒はちびたものを使いべきではない。
 庭の掃除をするついでに、花が終わったつつじの枯れた花を取り除く。枯れた花びらがそのまま汚くなって残っているつつじを見て思ったのだけれど、桜がきれいなのは、咲き終わった花びらがきれいに落ちることではないか、と思った。つつじのように花のそのまま残骸を残すことなく、花が咲き終わった後、後跡形もなく散ってしまう。

 さつきが成長してどんどん葉っぱを出している。このままにしておくと葉っぱどうし重なってしまい、また病気になりかねない。剪定が必要だ。切りたくなっていたが、ネットで調べてみると、春の剪定は花が終わってからと書いてある。だから花芽をつけている今は剪定が出来ない。
 ということで、今日はせっせと消毒をする。たっぷり消毒液をかけておいた。


 色川武大さんの『友は野末に―九つの短篇』を読み終える。


5月6日 水曜日

 はれ。今年のゴールデンウィークは天気に恵まれ、雨の日が一日もなく終わる。

d0331556_1112765.jpg 池波正太郎エッセイシリーズ1『東京の情景』(朝日新聞出版2007/11発売 朝日文庫)を読み終える。
 これは画文集になっている。その中で「最後の都電(雑司ヶ谷附近)」に次のような文章がある。


 都電は、都民にとって、メカニズム化する都会の狂暴な車輌の群れに対する一つの防波堤だった。
 いまの東京の、むかしのまま路線に都電が走っていたなら、どんなにすばらしい都会になっていたろう。
 自動車の洪水がせきとめられ、他の方法によって管理されるようになっていれば、道は人のためにあったろうし、江戸以来の歴史を語る町名も残されていたろう。


 都電が廃止されたのは車社会に追いやられたからだと聞いたが、確かに都電がまだ昔のように路面に走っていれば、池波さんの言うように、道路は人にやさしいものとなったろうと思う。もちろん無理な話とはわかった上で言っているののだが。
 そういえば私の高校時代、高校の近くの通りにまだ都電が走っていた。確か始発の停車場が高校の近くにあった。
 私は写真部にまだ入ったばかりの頃(すぐ辞めたが)、都電の写真をよく撮りに行ったことを思い出す。

 「名橋・日本橋」では、いつもの池波節である、橋に上に高速道路を架けた役人を木っ端役人と言い放っている。だから、「この絵は描きたくなかったが、いまの日本橋の、あわれな姿を描きとどめておくこともよいのではないか」といって、車を描かない日本橋の絵が描かれている。なかなかよい雰囲気だしていて、ここにある絵の中で一番気に入っていった。


5月7日 木曜日

 くもり。

d0331556_1123565.jpg 続いて池波正太郎エッセイシリーズ2『一年の風景』(朝日新聞出版2007/12発売 朝日文庫)を読み終える。
 昨日、色川武大さんの『友は野末に―九つの短篇』について書いていて、そこに、この人の不幸は幼い頃、普通であることに疑問を持ってしまったことから、生きていくのが苦しくなった、とを書いてみた。そんな折、池波さんのこの本に次のようにあった。


 人びとが生まれ育った・・・・・ことに生まれてから七、八歳までの生活は、生涯、その人につきまとう。
 大人になって、何かの拍子に、がらりと生活が変わっても、ふたたび元へもどってしまう。それこそ恐ろしいまでに、幼児体験は人の一生を左右してしまうらしい。(紙)


 色川さんはまさにこれだった。

 昨日から以前くじいた左足首がまた痛み出す。どうやら慢性化したらしい。今日はいつもの散歩を止め、午前中は本を読み、午後からたまっているビデオ、映画一本、ドキュメンタリー二本見る。

 3日に種を蒔いたあさがおが芽を出していた。


5月9日 土曜日

 くもり。

 予約していた国保の健康診断へ妻と出かける。糖尿病に注意した方がいいと言われる。
 ここのところ間食はするし、甘いものも食べているので、これが数値として出てきたのだろう。止めればいいだけのことだから、そうすることにする。
 
d0331556_113279.jpg 池波正太郎エッセイシリーズ3『新年の二つの別れ』(朝日新聞出版2008/01発売 朝日文庫)を読み終える。
 前巻もそうだったけれど、池波さんは現代の車社会をものすごく嫌悪している。車が日本の道路を占領することによって、人が道を歩けなくなること。それは日常においても、また旅先でも実感し、社会をおかしく変えてしまっている、と何度も書いている。

 池波さんと言えば食べ物に関するエッセイも最高で、今回も幾つかちりばめられている。特に懐かしかったのは、ポテトフライと、かき氷であった。ポテトフライのことは大分以前書いたことがある。今回はかき氷のことを思い出したので、それを書く。
 私が子供の頃、夏になるとかき氷を売っている店に子供たちは群がった。もともと何の店だったか忘れてしまったが、多分子供相手の商売をやっている店であったろう。駄菓子屋だったかもしれない。
 暑い夏に遊び疲れて、かき氷を買った。氷の受け皿は皿ではなく、最中の皮であり、そこにかき氷を盛ってくれる。一つ10円かそこらだったと思う。サッカリン入りの苺のシロップなどかけてもらい、店の前に座り込んで食べていた。とにかく最中の皮の上にかき氷を入れているので、早く食べないと皮がふにゃふにゃになってしまい、氷が溶けて手に流れてくる。早く食べなければいけないのだが、氷を急いで食べると頭が痛くなるから、苦労して食べたことを思い出した。
 あの頃本当によく道端で遊んでいたものだ。そして子供にとって魅力的なお店があちこちにあった。おでんの屋、紙芝居などもよく来ていた。食べるものがたくさんあるから余計に外にいることが楽しくて仕方がなかった。


5月12日 火曜日

 くもり。夕方より台風。

 スマホを持つこととなった。今のガラケーを維持するより安くなるという経済的理由による。携帯会社も変わることとなり、友人や知人にアドレスの変更を通知しなければならないのだが、それよりも操作の方法がわからないので、まずはそっちの方から始めなければならない。
 スマホいじっているうちに時間があったいう間に経ってしまう。なるほど、長時間スマホをやる人間はこれだな、と実感する。今日はこれにかかり切りだった。しかしスマホに長い時間を費やすことは出来ない。やることもあるし、本も読みたい。だから今日は別として明日からはある程度時間を区切ってやらないといけない。要注意だ。

 夕方より台風6号の接近で嵐となる。


5月13日 水曜日

 はれ。台風一過で暑くなる。東京の気温が28.4度だったという。

 昨日の台風で、隣の雑木林から風で飛ばされた葉っぱや枝などが庭、玄関先にいっぱい散らばっていた。家の裏にも同じようになっている。
 足首にまだ痛みが残るので、軽く散歩して、その後せっせと庭から家の裏側、そして玄関先と竹箒を使って掃く。
 途中、病院に行かなければならないので中断して、帰ってきてからもその続きをする。

 さつきが咲き始めたのを確認する。そして今年もアマリリスが二鉢咲きそうだ。

 森まゆみさんの『不思議の町 根津―ひっそりした都市空間』を読み終える。


5月14日 木曜日

 はれ。今日も暑い一日だった。まだ身体が暑さに慣れていないので、余計に暑く感じるのかもしれない。

 図書館で予約していた本2冊と館内にある新書を1冊借りてくる。

 ここのところ夕方に風呂に入る。湯上がり後、玄関に出てみると、涼しくて気持ちがいい。 

5月15日 金曜日

 はれ。

 常盤新平さんの『山の上ホテル物語』を読む。
by office_kmoto | 2015-05-16 11:06 | 日々を思う | Comments(0)

南木 佳士 著 『からだのままに』

d0331556_18282493.jpg この本はエッセイ集である。
 いくつか言葉を拾って、感じたことを書いてみる。


 心身ともリラックスすること。
 テーマはこれだった。五十歳を過ぎてまで自分を含めただれかと競うことなどまっぴらごめんだから、リラックスの境地を得るための正しいからだの使い方を覚えたかった。(滝の音)


 これ今の私が思っていることでもある。この歳になって誰かと競うなんて、本当にまっぴらごめんだ。もういいだろう、と思っている。


 生活ののかに濃密に浅間山の息づかいが浸透している、そういう村で生まれ育った。だから、三つ子の魂百までとはよく言ったもので、作家になってからも人と自然が切り離された状況を描くことが不得意であり、都市のみを舞台にした小説は幾度試みても書きすすめられなくなる。駅前の雑踏に漂う匂いを表す形容詞一つでも、作者が現実感を覚えずに用いたとき、作品はそこから破綻する(浅間山麓で書く)


 人は時とともに変容する。それも、無責任なまでに。
 こういう実感を得ると、言葉に置き換えたくなる。すくなくともわたしにとって、書くという行為は、からだを通して得た実感を他者に伝えようと試みる作業にほかならないのだから。(風邪の実感)


 生きることを見てとるためには、とりあえずただ生きることが必要だったのだ。(病んで出合った(流れとよどみ)


 これだけで南木さんの文章がどういう形で書かれているかわかる。そして南木さんが人と自然を切り離した人工的な都市を描かないことにこそ、私は惹かれている。さらにからだを通して得た実感を言葉にして表していることに魅力を感じている。だから南木さんの小説は私小説という形を取らざるを得ないのだろうが、それはそれでいい。少なくとも南木佳士という作家の体で濾過された言葉が、むしろ現実感を感じさせてくれると思っている。
 ところで、南木佳士とはペンネームだと初めて知った。ペンネーム由来は以下の文章で語っていた。


 北側の故郷から近世の災厄の元凶として、永く住む南側からは太古の、想像の域をはるかに超えた巨大噴火の自然遺産として見えてしまう浅間山は、山麓で、火山の脅威におろおろしながらも懸命に生きた祖先たちの姿を想い起こさせる。その子孫である、祖母のような地に足の着いた暮らしを営む人たちの生き様を描く作家になりたかったからペンネームを「南木」とした。南木山とは嬬恋村の浅間山麓一帯を指す地元の人たちの呼び名だ。(浅間山麓で書く)


南木 佳士 著 『からだのままに』 文藝春秋(2007/02発売)
by office_kmoto | 2015-05-13 18:29 | 本を思う | Comments(0)

黒井 千次 著 『散歩の一歩』

d0331556_613892.jpg 我が家の隣が引っ越しをし、あっという間に家が壊された。そんな時、黒井さんの文章に次のようにあった。


 一週間も過ぎぬうちに解体は終り、家の断片が幾台かのトラックで運び去られると、後にぽっかりと新しい空間が生まれた。これまで遮られて見えなかった廻りの家々が、急に横腹を現したり、蔦の這う壁を晒したりして今迄とは違う佇まいを示すのに驚いた。(解体作業)


 これがよくわかる。隣がなくなったことで、今まで通りを見通すことが出来なかったのが、よく見通せるようになって、ちょっとびっくりしていたのである。通りをはさんだ家々の様子まで見通せそうな感じがしてしまう。
 そしてその文章には、解体の前に生活用具の取り出しを見ていて、次のように書かれている。


 告げられた日に、まず二台の小型トラックが来た。家に残されていた古い家具をはじめ、様々の荷物を運び出すためらしかった。こちらの二階から見ていると、驚くほどの雑多な生活用具が次々に現れて荷台を埋めた。老未亡人が去って行く時、必要な身の廻りの品々だけを持って行ったのだろう。それにしても、家の内蔵が引き出されるような痛々しい光景だった。解体とは、ただ家屋をバラバラにすることではなく、内蔵の処理から始まることを教えられた。(解体作業)


 解体前に家の中にあったものを取り出すことは、「内蔵を引き出されるような痛々しい光景」というのも、言われてみれば“なるほど”と思う。
 自分も仕事を辞める前、経営に行き詰まった店を撤退する作業に立ち会った。そこを撤退するに当たり原状復帰が条件であったから、まず店にあった備品等を処分してもらう。その時店から出されるひとつひつの備品は、確かにその店の一部だった。店の“内臓”だった。
 原状復帰のためには、それらを引っ張り出すしかないから仕方がないのだが、思えば痛々しい光景であった。会社に余力がなかったから余計に痛々しかった。

 本屋さんの叩き掛けについて書かれた文章があった。確かに昔よく本屋が叩きかける姿をよく見た気がする。あるいはドラマか漫画なんかにあったのかもしれない。それが最近見かけないと書かれる。


 それにしても、昔の本屋ではよく本に叩きをかけていたものだ、と不思議に思う。立ち読みの子供を追い払うためだけではなく、誰もいなくても白い叩きを動かしていた。今に比べてかつては埃が多かったのだろうか。あるいは、埃の多い場所に本を置いて売っていたのか。
 そうではあるまい。一般に書店の規模が大きくなり、ビルの中に収まったり、自動扉のついた空調の働く店構えふえたりしたために、叩きをかける必要がなくなったのであろう。
 最近は本の回転が早いので、埃を叩く暇もないのか、と考えてみたりする。たとえ微かにでも埃をかぶるような可能性のある本は、最初から平積みなどされないのかもしれぬ、と。(商店街の記憶)


 本屋は一見きれいな店舗に見えるけれど、実は埃がすごい。それは通りにあろうとビルの中にあろうと同じだと思う。だから叩き掛けとなるのだろうが、叩きをかけても結局埃を他に移動させるだけなので意味がない。
 立ち読みに対して、嫌がらせをする効果はあるだろうが、街の本屋ならともかく大書店ではそんなことはしないだろう。むしろ大書店は椅子まで用意して、ゆっくり本を選んでもらうのが今のスタイルだから、立ち読みならぬ“坐り読み”を歓迎しているくらいだ。
 やはり叩き掛けがなくなったのは、ダスキンなどのハンディモップが普及したからだと思う。埃を他にやるのではなく、それで絡め取ってもらう。
 本屋ではそのハンディモップが交換時、いつも真っ黒になっていた。

 「風景」と「光景」の違いはなるほどと思った。


 これはぼくの勝手な解釈だが、「風景」とは「風」の景色であり、「光景」とは「光」の景色である。そして風の速度はせいぜい一秒間に数十メートルであるのに対して、光は真空中で秒速三十万キロメートルに達するという。としたら、「光景」は一瞬にして成立するが、「風景」はそれより遙かに時間をかけなければ生まれてこない。「光景」は瞬時の情景であり、「風景」は内部に長い時間を孕んでいる。まして「原風景」ともなれば、それが誕生して育つまでには相当の歳月が必要なのではあるまいか。(戸山ヶ原周辺)


 そして「原風景」はいつ生まれ、成熟していくか?


 いや、かけがえのない原風景とは、実際の風景が消滅することによって初めて心の内に生まれ、成熟していくものなのかもしれないぞ、と夕暮れの教会の階段を降りながら静かに思いなおしていた。(戸山ヶ原周辺)


 まさにこの通りだと思う。
 この本は著者が七十代に書かれたエッセイである。老いというもの触れた文章が幾つかあったが、その一つが、ちょうど体験したことなので書いてみる。


 足の運びがめっきり遅くなり、人に追い抜かれはしても追い抜く機会がないことにふと気づいたのは、幾年くらい前だったろうか-。(外出の得失)


 ちょっと前に六義園へ行ったとき、入場券を買う列に並ぶため、少しでも早くという思いの人たちに私達夫婦は追いこされていった。妻が杖をついているからわれわれはゆっくり歩いている。妻と一緒に歩くときはゆっくり歩くことにしているのだ。そのため私たちはどんどん追いこされていく。狭い歩道だったので、われわれの後ろにいる人はもしかしたら苛立っていたかもしれない。
 ちょっと前までは私も追い抜く側にいたけれど、今はそんなことはどうでもよくなった。年老いて足の運びが遅くなるのは当たり前だし、先を急いでもそれほど時間が短縮されるわけでもない、と思うようになった。時間が普通の人より、あるいは若者よりかかるなら、その分早めに取りかかればいいだけのことである。


黒井 千次 著 『散歩の一歩』 講談社(2011/10発売)
by office_kmoto | 2015-05-10 06:15 | 本を思う | Comments(0)

稲盛 和夫 著 『生き方―人間として一番大切なこと』

d0331556_5544787.jpg この本は一度読んでいる。その頃は読んだ後、どうも仏教色が色濃く出ていて、読んだ後もそれほど頭の中に内容が残らなかった。もともと稲盛さんの『実学』が面白かったので続いてこの本を読んだだけだったと思う。
 生き方などということは、ある程度年齢がいって、しかもそれなりの人生経験を踏んだ上じゃないと内容が頭の中に入ってこないのではないか、と思う。若い頃は書かれている内容に“なに、抹香臭いことを言うんだ”といった程度しか思えないところがあるのではないだろうか?
 もちろん当時も「生き方」を自分なりに考えていたのかもしれないが、やはり今とは違う。今はこれからの生き方を考える年数が当時から比べれば圧倒的に少なくなっている現状があるし、置かれている環境も違う。だからかここに書かれていることが割と素直に頭の中にしみ通ってきた。まず稲盛さんは次のように書く。


 私が現実に仕事や経営に携わるなかから学びとってきた、そのような真理や経験則、つまり、人間として守るべきシンプルな原理原則は、そのいずれもが、やさしい言葉で書かれた平凡なものですが、その平凡さ、単純さというものが、「普遍性」に通底していると私は考えています。


 すなわち、稲盛さんの言う「原理原則」とは、「人間として何が正しいのか」というきわめてシンプルなポイントに判断基準をおき、それに従って、正しいことを正しいままに貫いていこうとする考え方である。そしてその正しいこととは、嘘をつくな、正直であれ、欲張るな、人に迷惑をかけるな、人には親切にせよ等々、子供の頃から親や先生から教わった人間として守るべきルールである。
 シンプルなものの考え方は確か『実学』でも貫き通された考え方だったと記憶する。
 で、まずここでは“人格”を取り上げる。


 この人格というものは「性格+哲学」という式で表せると、私は考えています。人間が生まれながらにもっている性格と、その後の人生を歩む過程で学び身につけていく哲学の両方から、人格というものは成り立っている。


 したがって、どのような哲学に基づいて人生を歩んでいくかによって、その人の人格が決まってくる。


 このように、一つのことに打ち込んできた人、一生懸命に働きつづけてきた人というのは、その日々の精進を通じて、おのずと魂が磨かれていき、厚みのある人格を形成してゆくものです。


 という感じで、何も修行という特別なことをしなくても、仕事、日々の生活の中で一生懸命生きていくことが、仏教による“精進”と同じであるとしている。
 さらに物事を成就させる母体とは、「強烈な願望である」という。それこそ“ど”が付くほど思いつづけることの必要性を説く。それが思いを現実に変える第一歩とする。


 ですからできないことがあったとしても、それはいまの自分にできないだけであって、将来の自分になら可能であると未来進行形で考えることが大切です。


その上で次のように言う。


 「楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する」ことが物事を成就させ、思いを現実に変えるのに必要なのです。


 では人生や仕事の結果を何を持って、どのように見たら良いのであろう。ここで稲盛さんは一つの公式を持ってその因果関係を説明する。


 人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力


 ここで著者が言う能力とは才能や知能で、多分に先天的な資質を意味する。
 熱意とは、事をなそうとする情熱や努力する心のことで、これは自分の意思でコントロールできる後天的な要素である。考え方とは、わば心のあり方や生きる姿勢、哲学、理念や思想も含み、この三つのの要素のなかではもっと大事なもので、この考え方次第で人生は決まってしまうといっても過言ではないものだとする。そして考え方には熱意や能力と違ってマイナス点も存在する。
 それらが 掛け算”によって得られるものが人生や仕事の成果だとする。この掛け算であること、考え方にマイナスポイントが存在することがミソでありる。
 どういうことかというとそれを次のように説明する。


 したがって、この考え方という要素だけはマイナス点も存在し、熱意や能力の点数が高くても、この考え方がマイナスであったら、掛け算の答え(人生や仕事の結果)もマイナスになってしまいます。才能に恵まれた人が情熱を傾けて、詐欺や窃盗などの犯罪という「仕事」に励んでも、そもそも考え方がマイナス方向に働いているので、けっしてよい結果は得られないということです。
 このように、人生の方程式は掛け算で表されるがゆえに、まず考え方が正しい方向に発揮されなければなりません。さもなくば、どれほどすぐれた能力をもち、強い熱意を抱こうとも、それは宝の持ち腐れどころか、かえって社会に害をなすことになりかねないのです。


 能力もあり、さらに頑張ろうという熱意もあるのだけれど、その根拠が己の利害のみに偏った考え方、あるいは復讐的な恨みなどで生まれたものなら、考え方としてマイナスポイントになってしまう。


 ですから、すべてに対して「よかれかし」という利他の心、愛の心をもち、努力を重ねていけば、宇宙の流れに乗って、すばらしい人生を送ることができる。それに対して、人を恨んだり憎んだり、自分だけが得をしようといった私利私欲の心をもつと、人生はどんどん悪くなっていくのです。


 では利己的にならないためにはどうすれば良いか?それをまず稲盛さんは人間の心の構造から説明していく。


 私は、人間の心は多重構造をしていて、同心円状にいくつかの層をなしているものと考えています。すなわち外側から、
 ①知性-後天的に身につけた知識や論理

 ②感性-五感や感情など精神作用をつかさどる心

 ③本能-肉体を維持するための欲望など

 ④魂-真我が現世での経験や業をまとったもの

 ⑤真我-心の中心にあって核をなすもの。真・善・美に満ちている

 という順番で、重層構造をなしていると考えています。私たちは心の中心部に「真我」をもち、その周囲に「魂」をまとい、さらに魂の外側を本能が覆った状態でこの世に生まれてきます。たとえば、生まれたての赤ん坊でも、おなかがすけば母乳を欲しがりますが、これは心の一番外側に位置する、本能のなせる業です。
 そして成長するにつれて、その本能の外側に感性を形成し、さらに知性を備えるようになっていきます。つまり人間が生まれ、成長していく過程で、心は中心から外側に向かってだんだん重層的になっていくわけです。反対に、年をとって老いが進むにつれ、外側からだんだんと「はがれていく」ことになります。


 ここで肝心なのは心の中心部をなす、「真我」と「魂」です。


 真我とは仏性そのもの、宇宙を宇宙たらしめている叡智そのものです。すべてが物事の本質、万物の心理を意味している。それが私たちの心のまん中にも存在しているのです。
 真我は仏性そのものであるがゆえにきわめて美しいものです。それは愛と誠と調和に満ち、真・善・美を兼ね備えている。人間は真・善・美にあこがれずにいられない存在ですが、それは、心のまん中に真・善・美そのものを備えた、すばらしい真我があるからほかなりません。あらかじめ心の中心に備えられているものであるから、私たちはそれを求めてやまないのです。


 魂とは、それが何度も生まれ変わる間に積み重ねてきた、善き思いも悪しき思いも、善き行いも悪しき行いもみんなひっくるめた、まさにわれわれ人間の「業」が含まれたもの。それが魂として真我という心の中核を取り巻いている。したがって真我が万人に共通したものであるのに比して、魂は人によって異なっているのです。


 そして心を磨くこととは、


 心の外側から内側へ向かって、レンズを磨くように外側の壁を磨き落としていく試みであるともいえます。
 まず一番外側の知性を落として感性に達し、その感性を磨きつづけて本能に達し、その本能も磨き抜いて・・・・・と最後に真我がむき出しになるまで磨いていく。この徹底した内へ向けての心の錬磨が修行そのものであり、悟りとは、真我まで心を磨ききった状態のことをいいます。
 
 そこまで到達した人は、本能や感性に惑わされず、「世のため人のため」に尽くす生き方ができるようになるのです。


 なるほど稲盛さんが説く心の構造はよくわかった。人間の心に中心には真・善・美そのものを備えた「真我」というものがあり、それは人間誰しも持っているものであり、それがまわりを取り巻く知性、感性、本能、魂が隠している。心を磨くということはそれらを取り払い、人間の心の核心に近づくことなのだ。
 でも論理としてそれはわかっても、ではそうなるためにはどうすればいいのか、それが問題である。そのために盛さんは「六つの精進」が大切と言う。


①だれにも負けない努力をする

②謙虚にして驕らず

③反省のある日々を送る

④生きていることに感謝する

⑤善行、利他行を積む

⑥感性的な悩みをしない


 稲盛さんによると、いいことも、悪いことも「自分に起こることすべてのことは、自分の心がつくり出している」らしいから、この「六つの精進」を持ってすれば、少しは悪いと思えることは減っていくのだろうか?
 いずれにせよ、これなら自分でも戒めとして持てる。この「六つの精進」を自分の中の生きるための指針としたいところである。


 もし稲盛さんは「この世へ何をしにきたか」と問われたら、迷いもてらいもなく、生まれたときより少しでもましな人間になる、すなわちわずかなりとも美しく崇高な魂をもって死んでいくためだと答える」という。


 生まれたときより少しでも善き心、美しい心になって死んでいくこと。生と死のはざまで善き行いに務め、怠らず人格の陶冶に励み、そのことによって生の起点よりも終点における魂の品格をわずかなりとも高めること。それ以外に、自然や宇宙が私たちに生を授けた目的はない。
 したがって、その大目的の前では、この世に築いた財産、名誉、地位などは、いかほどの意味もありません。いくら出世しようが、事業が成功しようが、一生かかっても使い切れないほどの富を築こうが、心を高めることの大切さに比せば、いっさいは塵芥のごとき些細なものでしかないのです。
 宇宙の意志が定めた、人間という生命が最終的にめざすべきものは、ただの心の錬磨にあり、その魂の修行、試練の場として、私たちの人生が与えられているということなのです。


 そして人間の生き方としてどうあるべきか、その結論を最後言う。


 一生懸命働くこと、感謝の心を忘れないこと、善き思い、正しい行いに努めること、素直な反省心でいつも自分を律すること、日々の暮らしの中で心を磨き、人格を高めつづけること。すなわち、そのような当たり前ことを一生懸命行っていくことに、まさに生きる意義があるし、それ以外に、人間としての「生き方」なないように思います。



稲盛 和夫 著 『生き方―人間として一番大切なこと』 サンマーク出版(2004/08発売)
by office_kmoto | 2015-05-06 05:56 | 本を思う | Comments(0)

吉村 昭 著 『白い遠景』

d0331556_557263.jpg 吉村昭さんのエッセイはほとんど読んできたので、もう吉村さんのエッセイは読むものがないと思っていた。ところがこの本が文庫本として最近出版され、まだあったのか、と慌てて購入した。
 このエッセイは吉村さんにとって初期の頃のエッセイのようで、内容は「戦争と<私>」、「取材ノートから」、「「社会と<私>」の三部構成なっている。
 ところで、吉村さんはまず同人誌で純文学からスタートするが、なかなか芽が出ないうちに、戦史小説を書くことになる。その時心がけたことは、記録に頼るのではなく、体験者から生の声を聞くことで、小説を作り上げてきたことは、以前吉村さんの評論集を読んだときに書いた。


 記録小説と言われるものを書いてきたが、文字によって残された記録というものには率直に言って関心は薄い。私が興味を終始いだきつづけてきたのは、体験者の口から洩れる言葉であり、記録はその裏付けの意味をもつものでしかなかった。記録は死んでいるが、回想は生きている。(緑色の墓標)


 しかしその後戦史小説から歴史小説へと転換する。その理由が体験者の数が年月と共に減ってきて、生の声を聞くことが難しくなったから、と理由づけていた。


 その得体の知れぬ戦時という時間を不明のままに生を閉じたくないという意識は、年を追うごとに募り、やがて私は、戦争を背景とする小説を書くようになった。事実の中に必ず真実ではないと私は信じているが、戦争は一種の虚構的性格をもち、戦争の事実は単なる事実ではなく、その中に自分の抱く疑惑を解きあかすなにかがあると思った。そして、その手がかりとなる最も重要な鍵は、記録にはなく人の肉声であると信じた。しかし、その肉声をきく機会も年ごとに少なくなっている。戦後三十年という歳月が、証言者の生命を病気その他で奪いはじめたのだ。(眩しい空と肉声)


 確かに吉村さんの性格からして、そのことは理由の一つであったろうとは思っていたが、私はそれだけではなかったのではないか、と感じるところがあった。体験者の生の声を聞くことに執念みたいなところを感じさせる吉村さんであったが、いくら生の声を聞くことが難しくなったからといって、それまで築き上げてきて執筆姿勢を大きく転換する理由になるだろうか、と思っていたのである。そもそもその転換は大変なことではないのか、と思ったのである。笹沢信さんも川西政明さんもそれ以上は突っ込んではいなかったはずだ。本音というか、一番の理由は他にあったのではないか。それがこのエッセイ集には書かれているように思える。


 そうした私が、なぜ戦史小説から遠去かろうとしたのか、その理由の一つに、それらの小説の執筆に、息苦しさに似たものを感じたということがあげられる。(「冬の鷹」ノート一)


 私は、今後も歴史小説を書いてゆきたいと思っている。戦史小説とちがって、自在に想像の筆をのばせるし、しかもそれが史実の拘束を受けながらであることに難しいパズルをとくのに似た快感もある。(「冬の鷹」ノート二)


 この「息苦しさ」を読んだとき、もしかしたら吉村さんが戦史小説から歴史小説へ転換した理由がこれではなかったのか。あの戦争が余りにも近い時にあったことだけに、歴史の洗礼を受けていないことが多過ぎる。記憶が新しすぎる。その分神経を使わざるを得なかったのではないか。それが「息苦しさ」だったのではないか、と思うのである。だから体験者の生の声を聞くことが難しくなったことは、「息苦しさ」から解放されることだったのではないか、と考えたのだ。

 さて「取材ノートから」は吉村さんの作品の舞台裏、あるいはその作品が書かれる思いが書かれていて面白かった。
 吉村さんは医家のことを書いた歴史小説が多数ある。特に江戸時代の医家の話が多い。そんな中、描かれた主人公たちをどう見ていたか、それを記した文章がある。


 江戸時代の進取的医家たちの最大の敵は、幕府の鎖国政策であった。退嬰的な医家や庶民たちの無知も外来知識の流入が断たれていたことから発したものと言ってよく、それは幕官のきびしい監視とともに医家たちを苦しめた。そうした堪えがたい社会的背景のもとで、医家として信念をつらぬこうとしたかれらの姿は、美しい。(「北天の星」ノート一)


 また「関東大震災」で描いてきた社会混乱を自然災害だけでなく、人災の部分にも重点を置いて書かれているが、その人災は関東大震災によって露呈した時代の歪みが生んだことがここでは書かれている。


 私が「関東大震災」を書いたのは、地震に対する恐怖というよりは大正という時代を象徴する災害と考えたからである。一種の秩序をもっていた明治時代の内蔵していたさまざまな要素が、大正時代に入ると、それぞれの欠陥をしめしはじめる。その醜い姿が関東大震災の発生によって、一挙に表面化した。つまり関東大震災は、大正時代の日本の姿を、そのまま露呈する作用をしたのである。(「関東大震災」ノート一)


 端的に言えば、明治維新以来、大正時代後期に至って加速度的に蓄積されてきていた様々な矛盾が、この大災害によって一挙に露呈したとみられる。しかも、それは極めて具体的な形をとった露出であり、その象徴的な事件が朝鮮人、社会主義者の殺害であったと思う。(「関東大震災」ノート二)


 これを読むといやが上にも東日本大震災のことを考えてしまう。あの地震や津波は確かに甚大な自然災害であったが、原発事故は人災である。関東大震災が時代の要素の欠陥を突きつけたものであるのなら、東日本大震災は原発の危険を承知していたにも関わらず、それに目をつぶって当たり前に享受してきた。その無知を我々に突きつけたのではないか、と思えてくる。
 

 「「社会と<私>」にある文章が引っかかった。


 会社勤めをしていると、歳月をへるにつれて船底に附着する貝殻や海草のように、責任をもたねばならぬ仕事が次々と背負わされてくる。会社をやめるということは、それらの仕事を一時に放棄することであり、上司、同僚、部下への背信にもつながる。会社に生涯を託し、満員電車に乗って出勤し、働いている社員の中で、自分一人だけが、小説を書くという全く個人的な理由で会社をやめることはできにくい。(ほのぼのとした人の死)


 確かに長いこと会社勤めをしていれば、「船底に附着する貝殻や海草のように、責任をもたねばならぬ仕事が次々と背負わされてくる」のだろう。その上で自分の意志で会社を辞めることを決断すれば、それらを引き受けなければならない人間が出てくる。だから自己都合で会社を辞めるときは、後のことを考えると、簡単に会社を辞めることはできないんだな、と思った。
 自分がそうして会社を辞めなかったので、ある意味、残された人たちに迷惑をかけずに済んだことは良かったのかもしれない、などと自虐的になった。
 最後に私小説について書かれた文章をあげて終わりにする。


 私小説を書きつづけていると、自分とその周囲を一皮ずつはいでゆくうちに顧慮する感覚がその都度麻痺していって、やがて肉をさらけ出し、骨まで露出させるのと相通じている。(最下位と最高点)


 実はこのことは、最近よく感じるのである。ここまで露わにしないといけないのだろうか、と思うことが、私小説やエッセイを読んでいると思うのである。


吉村 昭 著 『白い遠景』 講談社(2015/03発売) 講談社文庫
by office_kmoto | 2015-05-02 05:58 | 本を思う | Comments(0)

平成27年4月日録(下旬)

4月16日 木曜日

 はれ。

 最近の朝日新聞は読むところがあって楽しい。まずは今連載の漱石の『それから』を「それからノート」にスクラップをして、沢木耕太郎さんの連載『春に散る』を毎日読んでいる。新聞の連載を毎日読むなんて、おそらく初めてのことと思うが、昔は新聞に連載される小説を楽しみに読んでいる人がたくさんいたことをよく聞く。漱石の小説だって、最初はそうして読まれたものなのだろう。
 今、毎週木曜日に連載されている『神保町 本の街』を楽しみに読んでいる。全四回の連載なのだが、今週は「禁断の香り ビニールに封入」と昔一部で流行った?ビニ本の話が載っていた。その内容を読んでみると、ビニ本が70年代出回り79年に爆発的ブームとなったらしい。当時ビニ本を発売していた出版社は30~40社あり、新作は月に120冊あり、月間発行部数が130万~140万冊と推定されるそうだ。このいわゆるエロ写真集をビニール入れて発売したのが神保町にある芳賀書店が始まりという。そして80年代半ばになって新作が出なくなったそうだ。
 このビニ本の時代、私の高校時代と重なる。クラスの友人がビニ本を教室に持って来て、男どもが騒ぎ、黒塗りの部分をなんとか消そうと、いじましい努力をいていたのを思い出す。やれライターのオイルがいいとか、バターで消せるとか、馬鹿なことを言っていたのを思い出す。
 しかし今にして思うと、あの女性の下半身をマジックで塗りつぶしてビニールに詰める人間がいたのだ、と思うと、それを仕事にしていた人は、いくら仕事とはいえ、自分の仕事に疑問を持っただろうなあ、と思ってしまう。まあ、どうでもいいことなのだが・・・。
 記事によると、芳賀書店は年商1億に満たなかったのが、ビニ本のお陰で80年代半ばには年商24億円となり、本店ビルの建設費5億円をあっという間にまかなったという。それほどブームだったわけだ。
 本屋にいた頃神保町の裏にある神田村で聞いた話で、当時神保町の駅のトイレがビニールでよく詰まったという。家まで待ちきれない悲しい男どもがトイレでビニールをはがしたのだろう。
 今週はそんな昔の馬鹿馬鹿しいことを思い出させてくれたので、ちょっと楽しかった。

 そろそろ新刊がでる頃だろうな、とネットで調べてみると、今月25日に発売されるという。小路幸也さんの東京バンドワゴンの新刊である。このシリーズ毎年今の時期に新刊が出るので、発売日を知ると、もう1年経ったんだと思ってしまう。
 さっそくHonya Clubで予約する。予約しないとうちの近くの本屋に新刊が入荷しないことがあるので、発売日に行っても手に入らないことがあるからだ。
 Amazonで予約して届けてもらうことも考えるが、やはり本はできるだけ本屋で買いたいという思いが私の中にあるので、そうしている。発売日にトコトコ歩いて本屋に行くのもいいものである。
 買うまでもないかなと思われる新刊を図書館のネット予約をする。私が読みたいと思う本はベストセラー作家が書く本ではないので、予約待ちが1~2名なので、読めるまでそれほど時間がかからない。もちろんベストセラーも読むので、そういう場合、待っていられないので買ってしまう。また自分が好きな作家の新刊、あるいは文庫は無条件で買っている。そのくらいは当たり前と思っている。

 午後から区の中央図書館に行って、南木佳士さんの本を3冊借りてくる。


4月17日 金曜日

 全体的にくもり?
 最近の天気は一体どうなっているんだ、と思う。雨が多いのと、天気の急変が激しい。それと風が強く吹く。今日もそうで、晴れていたと思えば、急に空が暗くなり、風が強く吹き、今は雨が降っている。

 ニュースで残薬のことが問題になっている。高齢者の薬の飲み残しが医療費の無駄と言っている。でも飲み残しは高齢者だけじゃないだろうとは思う。自分も昨年病院を変えたら、薬も変わったので、それまで飲んでいた薬がかなり残ってしまい、処分した。
 今日、今飲んでいる薬が週末にはなくなってしまうことに気がつき、慌てて病院へ行った。その後食事をするため、妻も診察室に同席する。お陰で今まで何とか逃れていた大腸の内視鏡検査を受ける羽目になってしまった。妻が強く望んだためである。
 検査は2カ月先の6月末。ああ、また2ℓの下剤を飲まなければならないのか、と思うといささか憂鬱になる。

 食事の後シマホに行き、来月植える予定のあさがおなどの土を買う。ついでに小さな黄色いマーガレットの鉢植えを一鉢買う。今日は結婚記念日であった。


4月18日 土曜日

 はれ。今日も風強し。

 伊集院静さんの『アフリカの燕』を読み終える。


4月19日 日曜日

 くもりのち雨。

 今日から天気が又崩れると言っていたので、朝散歩に出かけた後、玄関の前を掃き、午前中に買い物済ませようとする妻に付き合う。
 地元から選挙に出る候補者が事務所開きのあと第一声を上げていた。今日から統一地方選挙の第二回戦が始まるのだ。現職の区議会議員である候補者は選挙のときだけ我々に顔を見せるんだな、と思い、車からそれを眺めていた。
 昼食を食べてから、部屋に掃除機をかける。
 玄関先を掃いたり、庭の手入れしたり、部屋の掃除をしたり、家のことやるようになってもう一年のなるが、掃除をした後は気持ちのいいもので、それを知っているから苦にはならない。

 昨日地下鉄の改札口に置いてあった小冊子を見ていたら、浅草に池波正太郎記念文庫があることを知る。見ていたら行きたくなってきた。何でも復元された書斎や池波さんの初版本、一万冊の時代小説コーナーがあるという。今週でも天気のいい日に都バスに乗ってブラブラ行ってみようか、と思う。

 南木佳士さんの『ダイヤモンドダスト』を読み終える。

 図書館で本を借りてみると、栞となるスピンの紐が短くなってしまっていて、栞にならないことが多い。みんなが読んでいるうちに劣化し、少しずつ短くなってしまうのだろう。スピンを使おうと思い、ページから引っ張り出してみると、寸足らずになっているので、慌てて書店でもらった紙の栞を引っ張りだし挟んで使うことになる。
 すぐ取り出せる栞は前回使ったものなので、同じ栞ばかり使っていることに気がつく。不思議なもので何の変哲もない栞で、使いすぎてよれよれになっているのだけれど、その分妙な愛着が湧いてくる。だから書店からもらった栞はたくさんあるのだが、同じものばかり使っている。
 それともう一つ図書館の本で気がつくことは、栞代わりにページを折る人が多いんだな、ということである。ページ上の方に折り目がよくついている。これ確か“ドッグイアー”とか言ったと思うが、みんなの本なのにこうして勝手にページを折ってしまうのは如何なものかと思う。スピンをみんなで使っているうちに短くなったというのと訳が違う。
 せめて自分だけは自分の本以上に借りてきた本を大切に扱いたいと思っている。こうして読みたい本を読ませてくれる機会を与えてもらっているのだから。


4月20日 月曜日

 雨。今日も荒れ模様の天気で風邪が強い一日であった。

d0331556_19362296.jpg 南木佳士さんの『トラや』(文藝春秋 2007/11発売)を読み終える。

 主人公がうつ病になり苦しんでいた頃、子猫が家に迷い込む。父親のうつ病で笑いや安らぎに飢えていた子供たちや妻がこの野良猫をトラと名づけ、家族に安らぎを与える。
 子供たちが巣立ち、夫婦二人になり、お互いが歳を感じるとき、トラも歳をとって身体の衰えていく。トラという猫がこの家族に、この夫婦にいかにかけがえのない存在であったか、その死まで家族とともに描かれる。

 ここで気になったのは“永遠の不在”という言葉であった。


 死者たちは永遠の不在であることによって、こちらの好きに語りかけられる、透明な輪郭だけの懐かしい者たちとして墓石の前で合掌するときにのみ身のうちに在る。


 永遠の不在は、遺された者の内に不在というかたちで残る。そして、それも遺された者の永遠の不在によって消滅する。


 「不在」という言葉は、文字通りそこにないということだが、それを使って死を“永遠の不在”と表現する。死という「不在」は確かにこの通りである。
 そのほかいくつもの文章が心に引っかかった。


 先にこちらが死んだら死んだで、遺された者たちが新たな状況を受け入れ、なるようになってゆくのだろうが、それではいかにも虚しい。


 重大な出来事はささいな日常行為の階段を一歩ずつ着実に昇っていった先でいかにもなにげなく起こるのだな、とリアルに体感する。


 まざまざと見せつけられた自然淘汰の厳しさが、このまま動けなくなったら妻子はどうなるのか、と常に将来への見通しが弱きに傾いていた、その傾斜の角度がさらにきつくした。

 何者でもなくなった事態に絶望している暇はなかった。


 出来事はこんなふうに外や内からふいに起こり、それをそのまま引き受けているうちに身そのものが失せたり快復したり、要するに変容してゆくのだな。


 これらの文章は私がこの一年苦しみ続けた気持ちを揺さぶる。


4月21日 火曜日

 くもり。今日も昨日ほどではないけれど、風が吹いていた。

d0331556_193710100.jpg 南木佳士さんの『こぶしの上のダルマ』(文藝春秋 2005/04発売)を読む。
 「こぶしの上のダルマ」、「山と海」、「ぬるい湯を飲む猫」、「稲作問答」、「洗顔と歯磨き」、「集落の葬式」、「歩行」、「麦草峠」の8篇の短篇集だ。この中には自選短篇集で読んだものもある。そのひとつ「ぬるい湯を飲む猫」は先に読んだ『トラや』になる短篇か?
 『トラや』でトラが15年も長生きした猫であることが書かれているが、その長生きの素因がここに端的に書かれている。


 彼の長寿の主な素因は、外と内とを自由に出入りでき、人間を感動させるような行動は一切せず、他人が家に来るとほかの部屋に消え、体調が悪いときでもとにかく物を食うことだけは忘れない、といったところに尽きる。


 とまあ、自分勝手で憎々しく、食い地のはったところが長生きの原因だと言い切る。それはそれでかえってそれが愛着となったのだろう。
 トラが交通事故にあい、前足を骨折した。トラは父親が寝たきりで逝った部屋のベッドで寝ていた。同じ部屋にいた父親とトラの扱い方が違うことが書かれる。そこには回復の見込みのないものと、回復してくれる予感が介護する側の気持ちに明るさをともすことでその違いがそうさせる。


 回復を予感させる病猫の看病は、父へのそれでは感じられなかった明日への楽観を家族に与えてくれた。腐臭の漂う父の周辺には、滅んでゆくものが発する特有の負の気配があり、その場に入ると、だれもが元気を失う。拠って立つ足もとの不確かさを思い知らされる。やがて、廊下ばかりでなく、壁や床を伝わって家中に腐臭が浸透してきて、みなの表情から笑顔を奪う。
 人は必ず死ぬ。
 それを認め、意識し続けるのはとても大切なことだと子供たちも分かっているようだったが、大事なことだらけの日常は隙間がなく息がつまる。よほど注意しないと、ぴったり積み重ねられた、底冷えのする厚いレンガ壁の内でみなが窒息する。
 トラの看病に熱中したしたのは、だれもが生き延びたかったからだ。トラの身に託して、もう一度未来の存在を信じてみたかったからだ。(ぬるい湯を飲む猫)


 南木さんはよく自分の過去を語るとき、語る度にその変容に驚く。それを過去がその都度上書きされて変容するからと表現していた。ここでも同じことを違う表現の仕方で言う。


 生き延びてみると、いくらでも勝手な解釈ができる。いまの火加減で口当たりよく調理され、いま手に入る最新の調味料で味付けされた過去を食って、また生きる。(ぬるい湯を飲む猫)


 過去なんていつもこんなもので、都合よい改編を重ねているうちに、第一版の面影は跡形もなくなる。そして、きょうもその改編を続けている。(歩行)


 自分の過去でも、それを語るときの状態によって、形を変えてしまう、必要な部分のみを取り出して語る等、過去はその時々で都合よく変わってしまうことをうまく表していると思う。

 さて、テレビ朝日で気象予報士の依田司さんがつつじが咲き誇る根津神社から中継をしており、そこのある千重オオムラサキというつつじを紹介していた。思わず、あっ、これ・・・!と驚いてしまったのである。
 長いこと我が家の庭には名前の分からない木が一本だけあった、この木が「千重オオムラサキ」というつつじであることを確信したのである。
 これまで図書館やネットなどで調べていたのだが、基本的に木の名前を調べる方法を知らないので、それらしきものとして西洋つつじだと決めていたが、まったく違ったことになる。
 近々根津神社に行って、確認してこようと思った。


4月22日 水曜日

 久々の晴れ。天気予報ではこれからが天気が続くと言っていたのでうれしいかぎりである。
 南木佳士さんの『ダイヤモンドダスト』を読み終える。


4月23日 木曜日

 はれ。

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       (写真:池波正太郎記念文庫のホームページから)

 今日台東区中央図書館にある池波正太郎記念文庫へ行ってみた。天気も良いので、急ぐ必要もないので、ワンデイパスを500円で購入し、のんびり遠足気分で都バスを乗り継いで行ってみた。
 池波さんの著作がきれいに展示されていた。書斎も再現されていた。私はこの二つが見たくてここに来たのである。他に愛用品なども展示されている。
d0331556_19393052.jpg 帰りに「池波正太郎記念文庫図録」を一冊購入した。
 せっかく他区の図書館に来たのだから、館内を見てまわる。江戸川区の中央図書館に比べ蔵書はかなり充実している。私が読みたいと思って、ネットで検索してみて収蔵していない本がここではきちんと並んでいる。有名作家を輩出した区だから、本も充実しているのだろうか。うらやましくなってくる。
 図書館をよく利用するようになって、江戸川区の中央図書館も利用するが、どうも収蔵している本が少ないのではないか、と思うようなところもある。
 今地方選の真っ最中で、区議会議員の選挙カーが朝8時になると一斉にがなり立てて走り廻るが、中央図書館の充実も出来ない輩ばかりではないか、と思ってしまう。台東区中央図書館を見習って欲しいものだ。

 「池波正太郎記念文庫図録」の領収書を見ていたら、鰻の駒形前川の宣伝が感熱紙のレシートに領収金額の下に入っている。そこには「大川を臨む 池波正太郎が愛した店」と書いてある。なかなか洒落ている。こんなの初めて見た。面白いので記念に図録とともに取っておく。

 西牟田靖さんの『本で床は抜けるのか』を読み終える。


4月26日 日曜日

 はれ。

 昨日、我が家にクロアゲハがやって来た。昨年より遅いと思う。庭に咲いているつつじに近寄っては離れていく。


d0331556_19402576.jpg 小路幸也さんの『ヒア・カムズ・ザ・サン―東京バンドワゴン』 (集英社2015/04発売)を読み終える。このスリーズは毎年1冊新作が出るので、楽しみにしている。このシリーズももう10年目になった。さすがに10年も経つと、複雑な堀田家の人間相関図も一覧を見なくても、登場人物が誰とどういう関係の人間なのかわかってくる。
 例のごとく勘一の奥さんで亡くなったサチさんが、この家に留まり、家族を見守りつつ、話の展開を追っていく。そのサチさんが語る言葉に、「確かに!」と思うところがあった。


 古本屋で単行本をお求めになるお客様というのは、その本を探してやってくるかなりの本好きである確率が高いですよね。まぁそもそも古本屋に来る時点で本好きなのは間違いないんですが、新刊書店にはなくなってしまった本で、単行本という形態を好むので探しに来たというパターンが多いですよ。


 これは私にも当てはまる。その本が文庫本であっても、出来れば単行本が欲しいと思うことが度々ある。
 先日同じ思いで、Amazonで古本を注文したのだが、しかし出品者の手違いか、在庫がなく、注文を一方的にキャンセルされてしまい、残念に思ったものである。文庫であるのはわかっていたが、単行本で読みたかった、という思いがいつまでも残ってしまった。


 今は大晦日もお正月も関係なく、開いているお店が多くなりましたよね。確かに開いていれば便利でついつい利用してしまうのですが、昔のように三が日はどこのお店もお休みして、家族や友人だけで過ごすというのも、メリハリがあっていいとわたしなどは思うのですがね。


 これも確かに毎年正月を迎える度に思うことである。昔は三が日はどこに店も休みであったから、正月はおせち料理やお餅、あるいは暮れに買い込んだ食材で三が日を過ごした。そのため、正月の買い出しは大がかりなって楽しかったものだ。
 正月からスーパーに買い出しに行くようになってから、正月がいつもと変わらなくなってしまったような気がしてならない。


4月27日 月曜日

 はれ。今日は暑いくらいで、今年初めて半袖のTシャツを着た。東京は気温が25度の夏日となったらしい。

 つつじを見に根津神社へ行ってみた。我が家にあるつつじが千重オオムラサキであるかどうか確認のためでもあった。
 千駄木駅で降りて昼食を取ってから、そのまま根津神社へ行く。


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 我が家のつつじもだいぶ散ってしまっているので、ここのつつじも終わりに近いだろうな、と思っていたが、やはりそうであった。そして千重オオムラサキは確認できなかった。きっと花が終わってしまったのだろう。それでもいくつもの種類のつつじを見ることが出来た。

 でももう少し早く行くべきであった。

 出かけて帰ってきたら不在連絡票が一枚郵便受けに入っていたので、再配達を依頼した。図書館で収蔵していない南木さんのエッセイと南木さんの本の中で書いていた新書である。いずれも古本屋さんを歩いて探したが見つけられず、Amazonで注文したものである。これも読むのが楽しみなのだが、読みかけの本も一冊残っているし、図書館で予約してある本が五冊届いているという連絡も入っている。さて、どこから手をつけたらいいのやら、途惑うことになる。もう少し計画的になれればいいのだが、いつも私は思いつきで行動するので、こういうことになる。とりあえずは、読みかけの本を読んでから、図書館の本を返し、予約した本を借りてきて読むことにするしかない。

 南木佳士さんのエッセイ『ふいに吹く風』を読み終える。


4月28日 火曜日

 はれ。今日は昨日より気温が上がり27.2度まで上がったそうだ。大きく窓を開けて外の空気を入れても花粉の心配ないので、この時期が我が家の一階は一番過ごしやすい。ということは、本を読むのにも良い季節である。

 図書館で借りていた本を返して、ネットで予約した本を5冊を借りてくる。


4月30日 木曜日

 くもり。

d0331556_19521912.jpg 永井龍男さんの『雑文集 縁さきの風』(講談社 1983/05発売)を読んだ。
 以前にも書いたけれど、永井さんの本はその造本が丁寧なので、カバーを掛けずに、そのまま手触りを楽しんで読んでいる。
 もっともこのとき1,600円という定価だから、今だったらいくらになるんだろうか?結構いい値段になるのかも知れない。だったらこの造本なら当然なのか。
 いずれにせよ私はこの本を古本で買ったので、お得感いっぱいである。
 さてその内容だが、いつもの身辺雑記である。
 面白かったのは、先に読んだ小路幸也さんの『ヒア・カムズ・ザ・サン―東京バンドワゴン』で、サチさんが暮れと正月に店を休むのが少なくなった言っていて、正月くらい、昔のように店を休んだ方が風情があると、痛く同感した。でもこの時期休まれると困る人もいる。若い頃の永井さんもそうであったと書いている。


 神田神保町という所は、古本屋の町とも云われている。その一軒で本を売り、その銭を握って、夜店の外れに屋台店のおでん屋がのれんを下げているのに入る。そういうことを覚えて、一八九から酒はうまいものと思った。二十代で編集者に就職してからは、つけのきく店へ毎晩通った。ただ、正月は困った。独身アパートに住んでいたが、三ガ日は飲食店がどこも休むので、酒はおろか三度の食事も出来ない。そのくせ兄の家へ足を運ぶのは億劫なので、夕方から電車で浅草へ行く。浅草は、盆正月が書入れ時であった。田原町から雷門にかけて、電車通りの片側に屋台店がズラリと並んでいるので、焼鳥屋やすし屋で一日分の空腹を癒しホロ酔いで帰る。(しろき・くろき)


 なるほど、浅草なら、正月でもお店や屋台がズラリと営業しているはずだ。

 「全集の校正を終って」という章にある文章は、永井さんの全集が編まれるときに、自らの作品を自選するにあたり、同時に当時のことを振り返られる。読んでいて、なるほど、永井さんはこのような経歴を持っているんだ、と面白く読ませてもらった。
by office_kmoto | 2015-05-01 19:54 | 日々を思う | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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