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日付を忘れた写真2

 写真は趣味であった。だから写真は撮りまくっていた。
 もともとアルバムには写りの良いものだけを貼っているものだから、ボツになった写真が写真屋でもらったポケットサイズのアルバムに数多く残っている。
 子供たちがまだ幼い頃、私は大手町の当時第三合同庁舎といっていた地下売店にある10坪ほどの本屋にいた。その売店は役人の福利厚生のために、様々な業種のお店が入っており、私がいた本屋も役人のための本屋であった。正面には写真屋さんがあり、休日撮った写真をそこに出して、現像してもらった。お店同士のやりとりだから、安い値段で現像できたのも、写真の枚数を増やした。
 当時写真はフィルムをを現像してもらい、そこに写っているすべてが写真として現像された。だから写りのいいものもあれば、悪いものもある。そこからお気に入りの写真だけをアルバムに貼っていた。どちらかと言えばそうした写真は少ないかもしれない。だからアルバムに貼れない写真が数多く残っていく。
 厄介なことに写真というのはどんな写真でも一度現像された写真は簡単に捨てることが出来ないものである。ダンボールに入っている私が撮った写真はそうした当時処分できなかった写真ばかりであった。
 ただアルバムに貼られなかった写真は当時としてはボツになった写真であるが、今になるとよほど写りがひどい写真でなければ、なんでこれがボツになったんだろうと思える写真が数多くある。まあすべてをアルバムになっていたら、それこそアルバムが膨大な数になってしまうので、そうするしかなかったのだろうが。
 そこに他の父兄から子供たちが写っている写真を数多くもらっている。今のように写真をファイルとして携帯やパソコンで簡単に送れる時代ではなかった。すべて写真という形で残され、渡された。
 思えば当時の親たちは律儀で、お互い撮った子供たちの写真をそれぞれ焼き増して、封筒に入れて渡していたものだ。その形跡が、封筒に書かれた子供たちの名前にあり、そこに娘や息子の写真が数枚入ったままで残されている。
 
 写真の整理はまず当時ボツとなった私が撮った写真をポケットアルバムから取りだし、他の親からもらった写真を封筒から取り出していった。ポケットアルバムは手軽で便利なのだが、このように長い年月が経ってしまうと、写真にセロファンが貼り付いてしまい、取り出せなくなるし、取り出してもセロファンがひっついてしまい、写真がひどい状態になってしまうことがわかった。だからきちんと取り出して、保存した方がいいようである。
 ネガも同様にたくさん出てくる。これはもう処分することにした。いまさら焼き増しすることはないだろう、と思ったからだ。焼き増ししたければ、写真をスキャナーで読み込んで、プリンターで印刷できるからだ。それとどうしようもないピンぼけ写真などは裁断する。
 さらにそこに学校での行事で撮った集合写真も数多く残されており、それも個々に振り分けていく。
 問題は写真が撮られた日付である。私のカメラは日付がプリントされない。ただ他の父兄からもらった写真には多くが日付が入っている。日付がなくても封筒に入った写真には、丁寧に日付など書かれているものもある。集合写真にも日付が入っているので、これを目安にして整理していく。それらをベースにして振り分けた写真を年代別、学年別、あるいは学校別に分けていけそうである。それでもいつ頃の写真かわからないものも出てくる。それらはおおよその感じでこの時だろう、と推定していった。

 こうしてまとめられた写真をアルバムに貼っていくのだが、いくら絞り込んでもかなりの枚数がある。これらをすべてアルバムに貼ることはできない。集合写真以外はセレクトして枚数を絞る。問題は最初からボツにされた写真と、今回はじき出された写真である。これをどうするか。
 ネットで私みたいに写真の整理に困っている人がいて、その人のブログを読んでいたら、アルバムに貼れない写真は、カテゴリー別に分けて、それを箱に入れてまとめておくことが書かれていた。
 これはいいや、と思い採用する。ただ、箱入れてしまったら今までと同じことになってしまうので、100円ショップでプラスチックケースの小さいものを買ってきて、そこに入れておくことにした。ケースには見出しを貼り付けておく。引き出し式なのですぐ取り出せるから、しまい込むよりはいい。これならいつでも簡単に見ることができる。

 こうして時間が止まってしまったままでいた子供たちのアルバムに、また時計の針を動かすことになった。

 長男の写真が幼稚園の頃からほとんど貼られていなかった。ひどいものである。だからこの三日間かかりっきりで、アルバムの時計の針を進めた。500枚くらいの写真をアルバムに貼っていった。
 出来上がった長男のアルバムを眺めていると、涙が出てくる。なんできちんとアルバムを作ってあげなかったのか、申し訳ない気持ちになってきた。アルバムを眺めているうちに茫然としている自分がそこにあった。ここにも取り戻せない時間を実感する。
 折り返しをとうに過ぎた私の人生は、こうしておろそかにしてきた時間をどうやって修復するか、そればかりを考えてしまう。いったい自分の生き方を押し通したきたことで犠牲にしてきた時間を、どうすればいいんだろうか。
 どうにもならないのかもしれない、と思いながらアルバムを閉じた。

 続いて長女のアルバムの時計を進める。長男ほどの枚数ではないけれど、それも200枚くらいはアルバムに貼っていた。
by office_kmoto | 2015-06-29 18:07 | 人を思う | Trackback | Comments(0)

日付を忘れた写真

 仕事を辞めてからやらなければならないと気にしていたことがある。それはいくつかあって、やったものもあるし、手をつけずに尻込みしているものもある。
 そのひとつが子供たちの幼い頃の写真整理だ。

 長女や長男が生まれてしばらくの間はこまめに写真を撮り、それをアルバムに貼っていたが、いつの頃からやらなくなってしまった。それは子供たちが写真を撮られることを嫌がる年齢の頃からではないかと思う。多分その頃に写真を撮ることをやめたはずだ。だからアルバムにきちんと整理されている子供たちの写真は、長女が小学生高学年になるまでしかない。
 以後時たま撮った写真や、他の父兄からもらった写真と、学校での行事の写真、あるいは集合写真がたくさんダンボールに詰め込まれたままになっていた。
 子供たちの写真を撮らなくなった理由は子供たちが写真を撮られることを嫌がったからだけではない。私にも事情がある。仕事に追いまくられ、家族サービスを放棄してしまった頃がちょうど子供たちが写真を撮られることを嫌がった頃と重なる。この頃、私の中で仕事がすべてになってしまったのだ。以後会社を辞めるまでそれが続いた。
 そうしているうちに子供たちは成人となり、長女は結婚し、子供が生まれる。私にとって孫が生まれた。子供たちの写真を撮ることが出来なくなっていた。
 それでも会社で仕事をしていれば、それが言い訳にもなって済んでいたが、自分の全人生かけてきた会社を放り出されれば、言い訳も出来なくなってしまった。それにそうした自分のこれまでの生き方を全否定される自体になってしまえば、逆にこれまでの生活態度に疑問を持つことになってしまった。
 この一年半、自分の人生の半分以上使ってしまった私の会社人生は、結果として不毛に終わり、取りかえしのつかないものであったことを実感してきた。仕事を理由に家のこと、家族のことを何もしてこなかったことを改めて気づかされた。だからこの間、できる限り家のことを関わるようにした。元々不器用なので、それがすんなりと出来たとは思わないが、出来る範囲内でやって来たつもりである。ただ子供たちの写真に関しては、アルバムが途中で止まっていることが、ストレートに家族のことを何もしてこなかったということに繋がってしまい、手が付けられなかった。
 でも気になってはいた。いつかちゃんと整理しなければいけない。私は親として子供たちに何もしてやれなかったことを直視する責任がある。私には家族を蔑ろにしてきたという意味でもっともっと苦しまなければならない罪がある。
 たかが写真の整理じゃないか。そんな大袈裟なことではない、と思われるかもしれないが、私には自分が何もしてこなかったことの一端を突きつけられているのと同じことなのである。それを再度自覚するためにも、子供たちの写真の整理をしなければならないのだ。それは贖罪とかいうことではない。それは今の私にとってしなければならないことの一つなのである。
by office_kmoto | 2015-06-28 06:22 | 人を思う | Trackback | Comments(0)

意味のない職歴書2

 在職中、会社を辞めた元同僚が私のいる事務所に訪ねてくれることは少なかった。もっとも私の元同僚の大半は私同様会社を辞めさせられていった人たちだったので、会社に良い感じを持っていなかっただろう。ちょっと近くに来たから訪ねてみようなんて気持ちなど起こらなかったに違いない。でも本当に稀に元同僚が訪ねてくれることがあって、その時はうれしかったものである。だから彼らのことを思うと、どんなに会社が小さくなっても存続していたい、と思ったものであった。その思いは経営者以上持っていた。そのための仕事なら何でもしたいとさえ思っていた。会社に愛着があるんじゃない。辞めていった彼らの存在意味を少しでも残してやりたかったのである。それが生き残った者の仕事だと思っていた。いい意味でも悪い意味でも、彼らに「ここにいたんだよな」という存在証明みたいなものを確保しておくべきだと思っていた。
 ところが経営者は違った。自分の身の保全ばかり考える人間で、従業員のことなどどうでもいい、と思う人間であった。だから会社の存続のために切られていった同僚たちの口惜しい思いなど考えもしなかった。そもそも会社の存続のためではなく、自分のお金が減っていくことが耐えられなかったから、人を切ってきた人間であった。もともと経営者の器でなかったのである。
 このスタンスの違いが私と経営者の確執になっていき、最後は自分が切られた。ある意味当然である。

 できれば秋葉原にはよく行くので、差し入れを持って訪ねていけるような退職でありたかった、と思う。そこにかつて自分がいた会社があったという“より所”として、あって欲しかった。だって30年以上もそこにいたんだから、そう思っても仕方がないじゃないか。
 でも訪ねることはできなかった。だからときたまかつての同僚が管理しているホームページを眺めたりしていた。ところがこのホームページがアクセスできなくなった。
 もともとこのホームページは同僚が個人で管理してしたものである。だからここにアクセスできなくなったということは、同僚がここから離れた可能性がある。
 そして買収した側の会社のホームページにアクセスすると、支店として名前が出ている。つまり自分がいた会社が完全に吸収されてしまったのだろう。
 会社を買った社長さんは経営者にかなりぼったくられたと嘆いていたが、その支払いが終わったため、会社が自分のものになったので、晴れてここに名前を載せたのだろうか。
 いずれにしても私がこだわってきた“より所”が完全に消えたことになる。しかしいつまでも“より所”の存在であってほしいと願う方が馬鹿なのであり、むしろこれでいいのかもしれない、と思う。さっさと忘れちゃえばいいのだけれど、意味のない職歴書を書いていたものだから、そんなことを思ったのだ。
by office_kmoto | 2015-06-27 10:26 | 人を思う | Trackback | Comments(0)

意味のない職歴書

 南木佳士さんの『臆病な医者』に次のような文章がある。


 私が病院で相手にしているのはほとんどが老人患者さんたちである。老いることによって、金を稼ぐだとか、他人より地位が上であるといった世俗的価値観から自由にならざるを得なくなった人たちである。
 もちろん、なかには以前身に付けていた価値の衣装をうまく脱げないまま老いてしまった人もいて、なんとなく気の毒になる。こういう人たちが若い者に意見したがる。やれ、昔の若者はもっとしっかりしていた、だの、嫁たるものが夫の両親の面倒をみるのはあたりまえだ、などと。(信州における定点観測)


 ここにある「以前身に付けていた価値の衣装をうまく脱げないまま老いてしまった人」というのは、自分自身に感じたことがあった。それは職歴書を書いていてたときに感じたのである。
 話はちょっと変わるが、以前ちょっとかじったことがある雇用保険法に、失業の定義が書かれている。そこには、「離職し、労働の意思及び能力を有するにもかかわらず、職業に就くことができない状態にあることをいう」となっている。つまり働く意志があることが最前提で、その間働けなかったら、失業給付を支給しましょう、というのが法律の主旨だ。だから去年の私みたいに、失業給付だけをもらって、働かないというのはルール違反となる。そういう私みたいな人間がいるので、失業の認定をもらうとき、就活を二度以上していることを確認される。
 その際の就職活動とは実際に履歴書など持って会社に行くことはもちろん、そのための準備として、カウンセリングやセミナーを受けることも就活をしたことにカウントされる。そこで私は逃げ道として、それらを受け、就活を二度したことに利用した。
 そのセミナーとは、履歴書の書き方、職歴書の書き方、面接の受け方などで、もちろん私はまともに聞いていない。ただ出席しただけであるが、それでもそこにいれば嫌でも耳に入ってくる。
 だいたい履歴書など人のを見ることはあっても自分のは30年以上も書いたことがない。ましてや職歴書は、履歴書を書いた当時仕事をしていなかったし、以後同じ会社にずっといたのだから一度も書いたことがない。
 で、耳に入ってきた言葉が「自分の棚卸し」というものであった。つまりそれまでしてきた自分の仕事、その内容をこと細かに書きだしてみるということである。それが「自分の棚卸し」と言うのである。うまいことを言うもんだとその時思ったものだから記憶に残っていた。
 話はさらに脱線するが、この就活セミナーの変わったところがある。携帯電話である。セミナー中はマナーモードにしておくことはもちろんだが、普通のセミナーと違うところは、電話の呼び出しがあったら、たとえセミナー中でも席を立って電話に出て構わない、と最初にことわりがある。つまりここに出席している人間は就活中なので、その電話が求人している会社からの電話かもしれないからだ。
 それとシニアの履歴書の書き方で、必ず書き入れることは、健康状態のことである。「健康状態は良好」だけでなく、どのように健康に気を使っているか、たとえば「毎日一万歩歩いている」といった具体性を持って書きなさいというのだ。歳を取ったシニアを雇い入れる場合、その人の健康状態が気になるからだという。ヨレヨレを雇っても困るからだ。
 さて、職歴書の話である。まともにセミナーを聴講していなかったが、テキストがあるので、それを参考にして書いてみた。
 書いてみたが、そのうちこれは一体何なのだろう、と思うようになった。偉そうなことを細かく書き込んだことは、在職中では当たり前のことである。小さな会社だから何でもやって来なければならなかった。
 その自慢でもなんでもないことが、職歴書に書いていると、まるで自分が特別なことをやって来たように見えてしまう。これは「以前身に付けていた価値の衣装をうまく脱げないまま老いてしまった人」である。こんなもの読まされて、雇い入れる側はうんざりするのではないか、と思えてならなかった。
 そもそも自分が長いこと勤めてきた会社人生に疑問を持ってしまっているので、正直なところこんな職歴など役に立たないと思っているのである。
 自分のこれまでの職歴を自信一杯に誇れるほど、価値のあるものとは思っていない。なぜなら歳をとって会社を放り出された人間の職歴など何の意味もないではないからである。だからできればこんなものを抱えたまま、これから先、生きていきたくないと思っている。
by office_kmoto | 2015-06-26 06:30 | 人を思う | Trackback | Comments(0)

西牟田 靖 著 『本で床は抜けるのか』

d0331556_1181939.jpg この本は自分の蔵書の多さでアパートなどの床が抜けたとか、著者のようにその蔵書の多さで床が抜けるのではないか、という恐れを感じながら生活している人たちが、その本をどのように処理しているのかを書いた本である。


 本が増えすぎてどうするか、という切羽詰まった問題の解決法探しを基点にして始まったのだが、本を巡るこの旅である。


 私も床ではないが、押入の上の段が落っこちたという先輩を知っている。この先輩の奥様はフォトデザイナーで、その仕事の資料として雑誌「家庭画報」をかなりの冊数押入に保存していたという。
 夜中に押入から大きな音がして、中を覗いてみると押入の上の段が落っこちていたという。
 この話を聞いて“だろうな”と思ったものである。とにかく「家庭画報」は重いのである。写真ばっかりの雑誌だから仕方がない。
 今はどうか知らないが、私が本屋で働いていたとき、この「家庭画報」一つの梱包で5冊しか梱包されていなかった。それだけこの雑誌は重いのである。
 この本によると、本の積載荷重の限界値は、木造建築は一平方メートルあたり180キロ、一般RC(鉄筋コンクリート造り)住宅などは同300キロ、図書館は600キロだそうだ。
 数字で表されるとそれがどれぐらいの冊数になるのか、実感がわかない。出来れば具体的な形で示してくれれば有り難かった。


 本の存在感は諸刃の剣である。


 どういうことかと、その説明があるので抜き出してみる。


 物体として本の存在感は読者に読む醍醐味を与える。本を手に持ち、ページをめくりながら、目を通していくから読書という体験は豊かになる。だが、その物体性故に、床がぬけそうになったり、居住空間が圧迫されたりもする。さらに、部屋に閉じ込められたり、果ては凶器となり怪我をしたりとあらゆる厄介事を抱え込んでしまうのだ。


 本が凶器にもなるということである。例えば東日本大震災のとき、国会図書館では180万冊が床に落下したという。それをかたづける作業に延べ180人でに8日間かかったという。
 あの地震の後私も自分の本棚が心配であった。幸い落下した本はほとんどなかった。多いときは2,500冊近く本棚にあったが、その年の前にかなりの冊数を古本屋に売りとばしていたので、棚から本が溢れている状態から解放されていた。それとこの本棚は壁面に作り付けであり、土台も本を置くということから頑丈に作っていたのも幸いしたと思われる。
 もし、本棚の本がほとんど落ちていたら、二階から一階へ降りる階段が使えなくなっていただろう。それを思うとゾッとする。
 また本棚が部屋の外、つまり玄関から二階に上がる階段の壁面にあるため、本を生活空間に置くことはない。必要な本を本棚から取り出して、読んだら元に戻せば居住空間が圧迫されることもない。
 今は本が以前のように増えなくなった。とにかく読む方に力を置いているので、ちょっと前みたいに気になる本があればすぐ買ってしまうことはしない。
 また好きな作家がほとんど物故しているので、新刊がほとんど出ないこと。さらに昨年から図書館を利用することが多くなったことで、昔と比べると本の量が増えなくなった。そして買って読んでつまらなかったら、すぐブックオフで売ってしまうことで、何とか均衡を保っている。
 このように図書館で借りた本、処分した本は、ここに書くことで、資料がデータとして残るので、本当ならもっと処分していいのかもしれない。ただやはり好きな本、お気に入りの本は手元に置いておきたいので、基本的にこの本棚に置く本はそういう本にするようにしている。

 著者は結局増えつづける本の処理を怠ったため、床が抜けるのではないかという不安から本を自宅に移動したりする。ただ自宅に置かれた本は、家族の生活空間を圧迫する。それを奥様が理解してくれているものと思っていたのが、そうではないことを知らされ、本が増えることで離婚まで発展してしまった。「自分のものでない、本という重くてかさばる物質に空間を圧迫され続けた者特有の疲れが実感としてこもっていた」と書く。
 その苦い教訓から、本当に手元に置きたい本だけを残し、後は業者に自炊してもらって、電子化することになる。
 まあそうするしかないだろうな、と思っていたが、本を裁断してスキャニングすることはたとえ個人でしようとも法律的に問題がある状況である。それでもやむにやまれずそうせざるを得ない現実をどうするかであろう。
 やはり増やさないこと。徹底的な断捨離を敢行することに尽きるのではないかと思う。
 問題は今蔵書としてある本、すなわち家族にとって「自分のものでない本」が私が死んだ後じゃまになる可能性がある。それを何とかしないといけないのだが、それは今後考えていこうと思っている。


西牟田 靖 著 『本で床は抜けるのか』 本の雑誌社(2015/03発売)
by office_kmoto | 2015-06-23 11:09 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

池波 正太郎 著 『日曜日の万年筆』

d0331556_19582561.jpg 池波さんが美味しい食事を食べたとき、すばらしい映画を見て感動すると、“堪能した”とよく書かれる。今私は池波さんのそんなエッセイを読み終えて、堪能した気分でいる。
 さて、次の文章で思い出したことがあるのでそれを書いてみたい。


 私は、むかしから、他人が休日にはたらき、他人がはたらいているときに休むのが好きだった。(私の休日)


 池波さんは他人が働いているときに休めば、混雑せずに旅も出来るし、美味しい食事処でゆっくり出来ると言う。でも私の場合はこれを読んで、違うな、と思ったのである。どちらかと言えば、何で人が休んでいる時に働かなければならないのだ、と自分の身を情けなく思う方だった。
 例えば暮れの12月31日などもそうだ。今は銀行が30日までとなって、31日から翌月3日まで休むようになったが、以前は31日ギリギリまで営業していた。そのため経理を仕事する自分はどうしても31日まで仕事しないといけなかった。他の社員は大体御用納めの28日で仕事を終えているのに、自分一人だけで机に向かって仕事をしていたのである。大口の決済が月末に集中していたので、どうしても銀行が営業している以上、出社しなければならなかった。
 さらに夏のお盆休みも同様である。通勤電車はガラガラなのに、駅のホームでは、行楽地へ向かう家族連れや、帰省客で混雑している。それを横目で見ながら、おれは仕事だもんね、と半ばひがみに似た気分でいた。
 昔本屋で働いていた頃は、日曜日・祝日に営業している他店の助っ人として、朝早くから出社していたこともある。シャッターを開け、キャスターの壊れて、言うことを聞かない重い看板を通りに出し、閉店時にはその逆をやった。店は通りから奥に入ったところにあり、店の所在を知らせるために、その看板を通りに出すのである。
 その日が雨など降っていれば、朝からカッパを着て、開店の準備をする。そんなときなんで休みなのにこんなことをしなければならないのか、看板を何度蹴飛ばしたことか。
 閉店したあと売上を計算して、戸締まりをして帰るが、帰りの吹きさらしの駅に立つと、ホームから飛び込みたくなる。その駅は飛び込み自殺者を助けようした人が二人がみちづれになって亡くなった駅である。それくらい夜は寂しい駅であった。
 もちろんそんな日は他に休みが取れるのだが、それをうれしいと思ったことはなかったし、みんなが働いている時に休日が取れる恩恵を感じたことはなかった。それはそれで違和感があった。私の中では土日祝日は休むというのが、身についていたし、人と違う休みはどうしても受け入れがたい部分がいつまでもあった。
 こんなことを書くと今は1年365日、24時間営業なんて当たり前で、仕事は仕事、休みは休みじゃないか、と言われそうだが、ただ土日祝日は休むもの、仕事は昼間するものというリズムが私のからだに出来上がっているから仕方がない。

 面白い文章があった。“なるほど、確かに”と思ったので二つ書き出してみる。一つは、


 白でなければ黒、黒でなければ白と、両極端のどちらかに決めてしまわなくては、
 「おさまらない」
 という風潮は、戦後の日本のものであって、白と黒の中間色を忘れてしまった。
 このことが今日の、
 「味も素っ気もない・・・・・」
 世の中を生み出してしまった。
 幕末の開国以来、めぐまれた風土と高い文化をもった島国の日本は、諸外国の多種多様な文明を大胆に受けいれ、消化してきた。
 その消化剤が、中間色だったのだ。
 戦後の、外国から渡来して日本中を席捲した民主主義に、もっとも必要なはずの、この消化剤を日本と日本人は忘れてしまったのは、まことに皮肉なことといわねばなるまい。(消化剤 上)


 もう一つが、


 情趣をともなわない風景の中に暮らしていれば、当然、人間の心にも情趣が失われる。
 高度成長と機械文明に便乗して、際限もない、そのひろがりに慣らされてしまった私どもは、いずれ近いうちに、高い付けを突きつけられるだろう。(絵を描くたのしみ 下)


池波 正太郎 著 『日曜日の万年筆』 新潮社(1984/03発売) 新潮文庫
by office_kmoto | 2015-06-17 20:00 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

平成27年6月日録(上旬)

6月4日 木曜日

 はれ。

 昨日降った雨と今朝まで強く吹いていた風で、タブの木の落ち葉とさつきの花が終わって落ちて、庭がひどい状態になってしまった。それを午前中せっせと掃除をし、かねてからやりたかったさつきの剪定を始めた。
 それらを始めたのはいいのだが、軽い熱中症なのか、からだが途中でだるくなる。これはやばい、と思い、作業を止め、家に入り水を多量に飲み、しばらく椅子に座ったままでいた。
 どうも最近からだの調子が思わしくない。だるくて仕方がないのだ。午後から出かけるつもりでいたが、急遽止め、明日にする。

 佐伯一麦さんの『川筋物語』を読み終える。


6月6日 土曜日

くもり。

南木佳士さんの『山行記』を読み終える。


6月8日 月曜日

 くもり。今日関東地方が梅雨に入ったと発表があった。

 ここのところ体調も気持ちも不安定で、長いこと本を読むことも出来ず、またこうして文章を書くことが出来ずにいた。いわばスランプなのだが、こういう状態は年に何回か訪れる。やっと今日何とか持ち直した感じなので、たまっていた文章をせっせと書き綴る。

d0331556_11214767.jpg 南木佳士さんの『海へ』文藝春秋(2001/02発売)を読み終える。
 ここに南木さんの“怒り”が書かれる。その怒りを持てる限り力で露わにしているので、ちょっと当惑してしまうくらいだった。
 医師の次男が朝練が低血圧のためきついから部活を辞めたいというので、医師は身体の生理を無視した部活は馬鹿げた行為だから辞めたければ辞めればいいと告げる。その後顧問の女教師から電話がかかってきて、このままだとお宅のお子さんはつぶれてしまいますよ、と言った。医師はこの言葉に瞬時に反応する。


 「いやしくも人間の子供に対して、つぶれる、などと機械に対するような言葉を用いるものではありません。失礼ですが、あなたは何科を教えていらっしゃるんですか」
 「国語ですが・・・・・」
 「言葉に関してその程度の感受性しか持たない人に国語を教える資格などないと思いますが」
 「・・・・・・・」


 普段の南木さんの文章からこうした怒りを露わにしたものは珍しい。南木さんは自ら精神を病で、そのために苦しんできただけにこういう無神経な言葉を発する人間を許せない。私の覚えている限り、人として気持ちを無視した言葉に対して怒りを露わにしたのは『冬の水練』にもあった。
 後輩を気遣って「あんまり頑張ると、おれみたいにうつ病になっちゃうぞ」と声をかけたら、その後輩は「なんでもうつ病でかたづけば苦労はないですけどね」と答えた。そのとき、この男を許せない、と書く。それは自分が元気なとき無神経に発していた言葉でもあったからだ。
 私が南木さんの文章に惹かれるのは、病から学んだ優しさである。苦しんで学んだことだけにそこに書かれる言葉は身に沁みるのである。


6月9日 火曜日

くもり時々雨

d0331556_11223584.jpg 半村良さんの『うわさ帖』(毎日新聞 1979/04発売)を読み終える。この本神保町のガレージセールで3冊500円で買った内の1冊である。(このとき6冊買っている)本を開くと黴臭い匂いが漂う。おそらく発売されてから一度も読まれたことなく、本棚の奥深くか、ダンボールに詰め込まれたままだったのだろう。ここにはそんな本がたくさんある。
 さて、
 この本は半村さんのエッセイである。半村さんは自分はエッセイなど書くまいと思っていたらしい。


 随筆も似たような理由から、書くまいと思った。いや、随筆の場合には、売るまいと思ったのだ。
 随筆は味のある人がさらっと書いて、その人柄がにじみ出るところによさがあると思っていたからだ。要するに人柄が書くもので、私などとうてい人さまの前に出てよろしい人柄じゃない。もっと年をとったらどうか判らないけど。今はダメ。・・・・・・そう思っている。


 と謙遜して始めに書かれている。
 そのまま読んでいると、こう言っていてもどうやら以前にもエッセイを書いているようで、今回も「またこうやってはじめてしまっている」と書き込んでいる。
 まあ、随筆と言おうが、エッセイと言おうが、こうしたものはふと書きたくなるのかもしれない。
 半村さんは自分の回りにいた人物、出来事などノートに書き込んで、ネタ帳みたいなものを作っておられるようで、このエッセイもそこから生まれたもののようだ。だからか、半村さんの人柄や人間関係が良く出ていて、面白かった。それなりに人生に苦労している人の話は、たとえ与太話でも味があっていいものである。


6月11日 木曜日

 はれ。


d0331556_11331061.jpg 北尾トロさんの『傍聴弁護人から異議あり!』 (現代人文社 2013/10発売)を読む。
 裁判の様子を面白いとか、面白くないとか言うのは不謹慎な話であることは重々わかっている上で、あえて言わせてもらえば、この本はこれまでのトロさんの裁判傍聴記と比べて、はっきり言って面白くなかった。
 これまでのトロさんの裁判傍聴記録は、被告人が犯した罪が裁判で明らかになっていく過程で、その罪の悪質さと、裁判所における態度から、率直な感想を忌憚なく言っているところが面白かった。またその罪状を告発する検察官、あるいは被告を弁護する弁護士にも、ひと言ふた言言ってくれるので、それもおかしかった。彼らの服装や、被告人の服装からの感想も面白かった。つまり笑い話として読んでいられたのである。
 しかし今回の本は、同じ傍聴人ではあるけれど、あくまでも弁護側の立場に立って裁判の行く末を傍聴するという“しばり”があるので、とことん不謹慎になれない分、中途半端な感じがぬぐえなかった。
 ただ断っておきたいことは、この場合の不謹慎と言うのは、普通の人が感じる違和感である。だからそれが不謹慎かもしれないと思うのは、抱いた感情が裁判所だと思うからである。
 さてこの本を読んでいて、最近の、特に裁判員裁判になってからは、裁判はショー化しているんだな、と思った。そのことがこの本のあとがきに書いてあって、それがこれまでの裁判とは形を変えつつあることがうかがうことができる。


 裁判員裁判開始後、検察官や弁護人の法廷術は明らかに変わった。評議の席で全9票中6票を占める裁判員の支持がなければ、望む判決が得られないからだ。
 検察官は強い口調で被告人を責めたり、皮肉まじり嘲笑するパターンを封印。自白調書に頼ることも控え、映像や図解のビジュアル効果を活用して証拠の正当性を訴える機械を増やした。
 かつてよく見られた、自分たちが正義の使者でもあるかのような、エラソーな物言いはすっかり影を潜めている。
 弁護人は服装など外見に気をつかうようになり、法廷の中央まで出て裁判員に語りかけるなど、自分が被告の代理人としての立場を明確にして弁論を行うことも多くなった。
 ここが争点だという内容を裁判員にはっきり伝え、言葉という武器を最大限に使って証拠の矛盾を突く。また、冒頭陳述や弁論で、弁護人の希望する量刑年数(有罪だと認める場合)を告げることも一般的になってきている。
 これまで以上に、法廷での戦いぶりが判決に影響を及ぼすようになり、弁護人にとっては、その実力を問われる時代。弁護人チームでの一員になった“つもり”で傍聴してみたのがこの本だ。


 と、ここに全てが書かれている。後は犯罪別に裁判での流れを書いているだけだ。
 今回弁護人の立場で傍聴すれば、必然的に弁護側について物事を見ることになるので、どうも片手落ちになってしまっている。やっぱりトロさんの裁判傍聴記録は何ものにも縛られず、自由に、トロさん流の常識で裁判を傍聴し、そこで繰り広げられるドラマを書いてくれた方が、いいものになるような気がする。この本はどこか弁護人から見た裁判員裁判の広告塔みたいに思えなくもない。

 さつきの消毒をした。これまで花が終わったあと、一本ずつ剪定していたので、それが終わったので、一気に消毒をする。


6月12日 金曜日

 くもり時々雨。

 今日は月一回の病院へ行く。今月29日に大腸の内視鏡検査をやるので、その準備のための前日から食べる検査食と下剤をもらってくる。これらをもらうと、あの下剤で苦しむ日が近づいてきていることを実感する。
 この薬のことで頭がいっぱいになってしまい、常用している薬をジェネリックにしてもらうことを忘れてしまった。江戸川区の国保から封書が届き、いつも飲んでいる薬をジェネリックにすれば、これだけ薬代が安くなりますよ、という案内が入っていた。それを先生に見せたら、「なに、ジェネリックにしたいの?」と言われる。そう言うと先生は何かものすごく不機嫌になった感じがした。そして「ジェネリックは同じ成分とは限らないし、効き方が違う場合もあるよ」とも言われる。
 どこかジェネリックなんか、という雰囲気がぷんぷんする。いかにも小馬鹿にした感じで、認めていないところを感じた。
 そう言われると患者の側はどうしていいのかわからないし、ジェネリックにしちゃうとまずいのかな、と思ってしまう。困ったものである。こちらは毎月の薬代が馬鹿にならないと思うから、そうしようかな、と単純に思っているだけなのだけれど。

 以前からやろうと思っていた娘や息子の写真整理を始めた。これに関しては思うところがたくさんあり、別の機会に書いてみたいと思っている。


6月14日 日曜日

 くもり。


d0331556_11282084.jpg 南木佳士さんの『冬物語』(文藝春秋 2002/01発売 文春文庫)を読み終える。
 「川岸にて」、「空の青」、「赤い車」、「晩秋」、「タオルと銃弾」、「冬物語」、「ウサギ」、「急須」、「スイッチバック」、「木肌に触れて」、「となりの町で」、「芝生」の12篇の短篇集である。この中には自選短篇集で読んだものもあるが、私は「冬物語」と「となりの町で」が気に入った。いずれも魚が関係している短篇で、特に「となりの町」はヤマメの追い込み漁が、普段の重苦しい生活から解放される開放感にあふれ、明るくて好きである。これは自選短篇集には収録されていなかったはずだけど、どうしてだろうと思った。

 このブログのスキンを変えてみた。模様替えなのだが、今回はなかなかすっきりしていいんじゃないか、と思っている。
 模様替えを頻繁にするのも落ち着きがない気がするので、あまりやりたくないのだが、今までのものが気に入っているわけではなくて、仕方なしに使っていただけに、なにか落ち着きのあるものを探していたのだ。今回はしばらくこれでいけそうである。





6月15日 月曜日

 はれ。また暑くなった。

d0331556_1129714.jpg 池波正太郎さんの『日曜日の万年筆』 (新潮社1980/07発売)を読み終える。このエッセイはつい最近文庫本で読んでいる。
 今回親本である単行本を古本で手に入れたので、改めて読んでみた。

 最近古本の買い方が変わってきたと思う。特に図書館で本を借りるようになってから、「あっ、この本いいな。手元に置いておきたいなぁ」と思える本を探すようになった。出来れば単行本で置いておきたいのだが、どうしてもない場合、文庫本で我慢している。 でもたまたま古本を漁っているとき、お気に入りの本を単行本で安く見つけると、ついつい買ってしまう。今回もそうで、つい最近読んだばかりの本でもこうして読み直している。同じ本じゃないか、と言われればそれまでだけれど、でもどうしても単行本にこだわってしまうのだ。
 ただ今回の池波さんのエッセイは、文庫本では池波さんが自ら描いた挿絵になっているが、単行本では池波さんが脚本を書いていた新国劇を立ち上げた沢田正二郎の息子である沢田正太郎が挿絵を描いている。私はこうしたペンで書かれた絵が好きなので、この本を買って良かったな、と思っているのである。
 再度読み直して、引っかかる文章があった。
 池波さんの京都の友人の家に出入りしている畳職人が、独立した。職人は30年も同じ主人に仕えていて、主人の片腕と言われた男であった。友人は職人に独立した理由を尋ねた。


 その職人がいうには、この夏、仕事場で大怪我をしてしまい、二ヶ月も入院した折、主人が見舞金としてよこしたのは、わずか一万円にすぎなかったという。これで、職人はがっくりきてしまった。金額の多い少ないではなく、三十年も懸命につくしてきた自分へ対するおもいやりが、これだったのかという、その落胆だった。二ヶ月も無収入になる職人が、自分の片腕だったら、こんな見舞い金ではすまぬはずだったろう。(<花ぶさ>の女主人)


 私とよく似ていた。自分が思うほど、人は思ってくれないということだ。嫌気が差すときは、こんなときだ。
by office_kmoto | 2015-06-16 11:38 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

南木 佳士 著 『ダイヤモンドダスト』

d0331556_5491635.jpg この本は、「冬への順応」、「長い影」、「わかさぎを釣る」、そして芥川賞受賞作品の「ダイヤモンドダスト」が収録されている。
 この4つの作品の中で私は、「冬への順応」がよかった。
 タイ・カンボジア国境で3ヶ月の難民医療活動をして帰ってきたぼくは、安川千絵子を知っているかと、研修医から聞かれる。千絵子は肺癌の末期で入院してきたのだ。慌てて千絵子の病室へ行くと、


 千絵子は起き上がろうと、右手でシーツをつかんだ。ぼくは肩を押さえて、右側を下にしたまま体位を保たせた。掌には、細くて脆そうな骨の感触だけがあった。胸水の貯留した患者特有の、患側を下にした体位をとる千絵子のタオル地のパジャマの背に、ぼくはナースセンターで見た胸部X線写真の白い残像を重ねていた。
 「しばらくでした」
 ぼくは肩から手を放した。
 「こんにちは」
 千絵子は右を向いたまま言った。
 ぼくたちはこんなふうに、ほぼ十年ぶりの再会にふさわしい、ぎこちないあいさつをかわした。


 僕は千絵子と村の小学校の同級生であったが、ほとんど口も聞かないまま転校した。そしてぼくが浪人時代、東京での予備校時代、代々木の駅のホームで再会する。
 千絵子はぼくに大学へ行って何をするのかと聞く。僕は医学部へ行って医者になろうと思うことを告げる。

 「お医者さんか。似合うかも知れないわね。歳の割に老けて見えるから。山の中の診療所のお医者さんなんていいわね」
 「あんたは?」
 「まだ決めていないの。でも、田舎のお医者さんの奥さんていうイメージはすてきね。なってみようかな。国文の勉強なんかして、内側のお化粧をしてね」


 僕は千絵子と村にいたときの話をしていた。


 「生きていたわね。おたがい」
 「単純なことだけど、いいことだな」


 翌年の春千絵子は教会のある大学の文学部に合格し、ぼくは、東北の二期校に新設された医学部へ入った。初めは千絵子と離れて手紙のやりとりをした。手紙の最後には毎回異なったデザインの診療所の絵が描かれていた。
 しかし千絵子から手紙を受け取る回数も減り、東京に行くと友達だという男性を千絵子から紹介され、千絵子との仲を終わったことを悟らされる。
 そして僕は難民医療活動をして帰ってきて、村の診療所に派遣されることなり、千絵子と語った村の診療所のお医者さんになった。
 千絵子の母親から千絵子を励ましてやって欲しい、と頼まれ、千絵子の病室へ見舞う。千絵子に難民医療活動の頃の様子を話してやったりした。
 村に雪が降り、ここに来た頃より寒さを感じなくなっていた。看護婦にも薄着でよく平気だねえ、と言われる。でも訪れる冬は千絵子の死の時期でもあった。


 体のように素直に冬になじむのを拒むものが、ぼくの内にあった。あの暑い国の国境地帯で見た光景や、こだわり続けようとするひとつの死を、ありふれた落葉と同じように雪の下に埋めつくそうとする冬に、ぼくはささやかな抵抗を試みていたのだ。


 診療所に来る患者はほとんど老人ばかりで、「生き過ぎてしまった」と言う。病院では「生き足りずに死ぬ者がいて」、診療所では「生き過ぎて死ねない者がいる」。


 日曜日、わかさぎ釣りから帰ってくると病院から電話があり、千絵子が死んだこと知る。


 「わかさぎを釣る」では、難民医療団で一緒に働いた、現地の人間であるミンさんが日本に来て看護学校に入学していた。そのミンさんがカンボジアで話したわかさぎ釣りをしたいと種村に手紙が届く。そのわかさぎ釣りの一光景が描かれる。
 湖に昨日ほかの人が開けた穴に足を取られないように、ポイントへ向かう。種村はこの穴を「後家穴って言うんだよ。他人が開けた穴だからな」と教える。


 「ゴケ?」

 「夫に死なれてしまった女のことだよ」

 「僕の国にはたくさんいるよ。穴だらけだね」


 つまらないジョークがジョークにならない現実に後悔する。


 そういえば自然にある穴をよくこんな風にたとえる話を聞く。開高さんの釣りでも確か北海道の湿原にある底なし沼を同じようにたとえていた話があったはずだ。


南木 佳士 著 『ダイヤモンドダスト』 文藝春秋(1989/02発売)
by office_kmoto | 2015-06-14 05:50 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

伊集院 静 著 『アフリカの燕』

d0331556_449269.jpg この頃の伊集院さんのエッセイを読んでいると、のびのびしているなあ、と感じる。最近の伊集院さんが書く、説教がましい文章のようなところない方が、むしろこの人らしい文章が書けるんじゃないか、と思えてくる。人生相談みたいなことをやっていると、どこか自分も窮屈になるのかもしれない。
 伊集院さんさのこのエッセイには“顔”がよく出てくる。文章の最後に思い出した過去が人の顔を通して出てくるのである。


 私は大人の顔には哀愁が自然にそなわるものだと思っている。(早起きは三ピンの得)


 善はそれが見えた瞬間に作為が同時に顔をのぞかせる。(元気でいるか?)


 人間は誰とでもずっと一緒に生きて行くことなどできない。ひとつの夏が過ぎて、二度と戻ってこないように。しかしどんな夏でさえ、人間には決して忘れない不思議で厄介な、記憶という能力が備わっている。
 それがひょんな時に顔をのぞかせて、人をせつなくさせることがある。(彼岸花)


 『なぎさホテル』のIさんの顔もその訃報を聞いて思い出として出てくる。


 Iさんの訃報は今年の春に聞いた。
報せて下さったのはIさんの娘さんだった。入院したことは手紙で知っていたが、報せを受けた時、
 -そんなに具合が悪かったのか。
 と驚いた。病院へ見舞いにも行けなかった自分が情なくなった。


 私は結局、Iさんに何ひとつお返しができなかった。
 いつも遅れてしまう。ひと言話しておけばよかった言葉が言い出せない。
 なのに歳月は容赦なく過ぎて行き、いつくしんでくれた人たちは笑顔だけを残して去って行く。
 目の前の水平線がぼやけ出す。(やさしい笑顔)


 ひとつ気になった文章がやはり最後にぽつっと言っている。


 紫陽花は年に一度咲けばいい。花だけがそれをわかっている気がする。(年に一度逢えれば)


 我が家のつつじの花が豪勢に咲いている。咲いているのはいいのだが、ここのところ雨が多くて、せっかく咲いた花が雨で濡れ、花を重くして、垂れ下がった感じになっている。天気がよければこんなことにはならないのに残念だな、とここのところ思っていた。つつじはこの時期一年に一回しか咲かない。さつきにしても、そうだし、我が家で育てている草木の花々はそれぞれの時期に一回しかさかない。その華麗な時期に今年のような雨が続くと、花が咲くまでの一年がどこか無残な感じがしていたのである。
 でも、この文章のように、一年に一回しか咲かないから、その花が咲いたときが華麗に見えることは事実で、この時期に花が咲かせられることを喜んでいる。花はそれをわかっている。たとえその時、雨が降いても、風が強くても、花は雨に負けずと咲き誇っている。


伊集院 静 著 『アフリカの燕』 文藝春秋( 1997/11発売) 文春文庫
by office_kmoto | 2015-06-09 04:50 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

百田 尚樹 著 『夢を売る男』

d0331556_5334110.jpg この本は自費出版ビジネスの裏事情を書いた本である。私は人の自己満足を端的にしたものが、自費出版と思っている。だからこういう裏事情、それを手玉にとって、いかに自費出版が馬鹿げたものかを茶化しているのは大好きだ。
 とにかく自分の拙い原稿を自費出版したい思いに駆られる人たちに共通しているのは強烈な自己顕示欲だと丸栄社の牛河原が言うのはよく納得できる。
 たとえば、自分はスティーブ・ジョブスになれると思いこむ、頭の中がスカスカのフリーターに対して牛河原は、


 「あの手の根拠のない自信を持っている若者をその気にさせるのは簡単なもんだ」


 「自分はやればできる男だ、と思っているからな。自尊心にエサをつけた釣り糸を垂らしてやれば、すぐ食いつく」


 そのためには丸栄社のビル自体も立派なビルに見せる必要があるし、応接室だって赤いカーペットを引き詰め、ソファだってゴージャスなものを置き、そこで“客”と応対する。スカスカ男もこの応接室で対応され浮き上がる。こんな素晴らしいビルにある出版社、こんな立派な応接室のある出版社から自分の本が出版されると夢心地になる。
 この話昔どこかで読んだことがある、と思い出してみると、佐野真一さんが自費出版ビジネスをしている出版社を訪問したときに、その雰囲気を同じように書いていた。見せかけに騙されるわけだ。そういう意味で自費出版の本を出そうとする客に見せる“器”は必要不可欠なのだろう。佐野さんは自費出版の本を“ 饅頭本”と書いていた。饅頭を人に配るのに似せて言っている。饅頭なら食べられるけど、本はねえ、配られても困る。


 「それにだ、しばらくはベストセラーになるかもしれないという夢も見られるんだ。生涯で滅多に味わえない楽しい気分を満喫できる」


 「俺たちの仕事は客に夢を売る仕事だ」


 と言っちゃうわけだ。では何故自分の本を出したいと思うのか。牛河原は「日本語が書けるからだ」と言う。つまり、


 「自分が一流ピアニストになれるとは誰も思わない。サーカスの空中ブランコをやれるとも思わない。でもな、日本語は誰でも書ける。だから自分も本ぐらい書けると思う」


 なるほど。自分を表現する手段を持っているから、じゃあ書いちゃおうかな、というところなんだろう。その上ワープロのお節介機能が、誤字脱字を直してくれる。言い間違えさせ直してくれるから、パソコンがあれば始められちゃうのだ。
 で、書いた原稿をどうするか。出版社へ投稿するのである。


 自費出版ビジネスは丸栄社が長年シェアのトップを走ってきた。それを支えてきたのが「新人賞システム」だ。様々な賞を設けて一般の人たちから原稿を応募する。そして落ちた客に一人ずつ電話して、「この素晴らしい原稿をそのまま埋もれさせるのは惜しい」と言葉巧みに誘導し、出版費用を出させるというものだ。


 ママ友から浮き上がっている女は、週刊誌のゴシップや韓流スターにうつつを抜かしている他のママ友と自分は違う。娘の教育に自負を持っていた。その自分の娘の英才教育の効果を書いた「賢いママ、お馬鹿なママ」を本にしたかった。そして自分を馬鹿にした女たちを見返したいと思っていた。書いた原稿を「丸栄社教育賞」に投稿した。それに牛河原は食いついた。その方法は、まず最終選考に残り、最有力候補であると伝える。それから時間をあけて女をじらす。そして惜しくも最終選考から落ちたことを伝える。ここからが牛河原のセールトークが女の心をくすぐる。「編集部では大賞だと思っていた」とか・・・。
 その女は自分の原稿が本になることしか考えていないから、牛河原のカモとなる。すなわち本にするにはお金がかかる。だから出版にかかるお金の半分を女が持ってくれれば原稿は本にできると誘うのである。ここでは「ジョイント・プレス」と呼んでいる。もちろん女はその話に乗る。女としては乗るしかないのである。それを牛河原は見抜いている。牛河原は言う。


 「大垣萌子はどす黒い怨念を溜め込んで生きている。その怨念をどこかで放出しないといつか心が腐ってしまうんだよ」

 「いや、それだけじゃ足りない。それを外に向かって吐き出してこそ、心が軽くなる。パソコンに向かってキーボードで打ち込んでいるだけじゃダメなんだ」

 「今回、本を出すことで、大垣萌子の心に長い間巣くっていた怨念が晴れるんだよ」


 これって詐欺のすれすれを行っている。牛河原は言う。


 「たしかにうちも詐欺まがいの商売をしている。しかし守るべき一線は守っている。それが丸栄社の誇りだ。客には嘘は言わん」
 「駄作を名作とは言っていますが」
 「それは主観だから嘘じゃない。名作と信じて言えば嘘じゃない。売れると信じて、売れると思うと言えば嘘じゃない。世に出すべき作品だと信じて言えば、嘘じゃない。出版にかかる費用に関しても、丸栄社全体の経費と考えれば決して嘘じゃない。会社というのは、社員のために利益を出す必要があるからな。それも大きな目で見れば経費に含まれる」


 詭弁くさいし、ものは言いようだ、と思うけど、才能も能力もない自分の書いた原稿を本にしたいという人間がいるからこういう商売が成り立つ。考えてみれば商売というのは客の要望に応えて成り立つものだから、これもありなのだろう。次の事例は大笑いしてしまう。なるほど、こんなオヤジ居そう、と思う。実は私も一人知っている。

 一部上場企業を定年退職し、「自分史」を書いた男が丸栄社の自費出版費用が高いとクレームをつけてきた。知り合いの印刷所の社長に聞けば30万円も出せば本ができると言われていた。そのクレームに対処した牛河原は、自費出版の本にはISBNコードが付かない(実際は申請すればつく)。そしてこのコードが付いた本でなければ全国の書店に流通しない。このコードが付けば国会図書館に納められ、夏目漱石や三島由紀夫の本と同じように日本の書籍として永久に残ると言うのである。馬鹿なオヤジはその口車に乗せられ、自分の本が国会図書館に納められ、全国の書店に流通し、漱石や三島由紀夫の本と同じように残ると言われて、浮かれるのである。で、牛河原は当初の見積もりから多少値引きをして男を納得させる。


 「原稿は読んでいないが、団塊の世代の自分史らしいじゃないか。あの世代でそういうのを書く男は自意識過剰で自己顕示欲が非常に強いんだ。自分は本当はすごいんだ、本当の自分をみんなに教えてやりたい、という気持ちがやたらと強い。だから、そのあたりを満足させてやれば、契約などは簡単だ」


 そしてとことんカモにされる。


 丸栄社は全国117の書店と契約していて、その書店では丸栄社で出版している書籍を一冊ずつ置かれることになっている。書店は30日間その本を置くが、その本が売れなかった場合(ほとんど売れない)、その本は丸栄社が買い取ることになっていた。このことは書店にとっても置いとくだけで売上になるのだから、書店にとっても「おいしい本」になる。
 自費出版の本でも丸栄社から出した本だから、本自体は丸栄社のものだ。著者が友人や知人に自分の本を配りたければ、8掛けで買うことになる。


 「阿漕な商売だよ。しかしこれを考えた社長はすごいよ。一般には絶対に売れる本じゃないが、著者だけはちびちび買いとってくれる。これが意外に馬鹿にならない。しかも、作った数年後に、また儲かるようにできている」

 「数年経った時に、著者に『絶版通知』を出すわけだ。いろいろと営業努力を重ねてきましたが、売れ行きが芳しくないために絶版にといたします、とな」

 「絶版にあたり、在庫はすべて裁断しますと告げるんだ。つまりその本はこの世から消える-」
 「ははあ、すると、著者は本を救いたいと考えるわけですね」
 「そういうことだ」牛河原は言った。「時に五百冊くらいまとめ買いもある。この儲けはごついぞ」
 「完全無欠のビジネスですね」


 まさしく、「うちの客は読者じゃなくて著者だからな。千人の読者を集めるよりも一人の著者を見つける方が楽だ」と牛河原が言っちゃうのである。

 各出版社が出している文芸誌の内情も書かれていて、これも面白い。昔は文芸誌は売れた時代もあったが今はほとんど売れない。図書館や大学が購入している以外はほとんど売れない。牛河原は「出版社のガンだ」と言い切る。それでも出版社が文芸誌を出し続けるのは、単行本にするために原稿を集めるために文芸誌を出しつづけている。ここでも牛河原の言葉は辛辣だ。


 「ああ、現実には小説誌は、食えない作家のセーフティーネットみたいな役割を果たしているからな。言葉は悪いが作家の生活保護みたいなもんだ。だから、小説誌が一斉に休刊したら、作家が大量に廃業するだろうな」


 その文芸誌の内容に対しても、


 「いや、ごく一部の一流作家の原稿を除けば、本当にクズみたいなのが多かった。小説誌なんか誰も読まないのを作家も知っているから、原稿料欲しさに適当に書く奴も少なくなかったんだ。どうせ後で本にする時に大幅に直すつもりだから、完成度なんて初めっから目指していない。明らかに枚数稼ぎに不要なシーンや会話がえんえん続くこともある。(原稿料は一般レベルで1枚4,5千円。月に50枚書けば、20万から25万。1年続けば240万から300万円)本にする時はそういう部分をカットするんだ。ストリーが途中で変わることだってある。極端な時は、一度死んだ人間が途中で生き返ったりする」

 「要するに、はっきり言ってしまえば、小説誌を購読する読者は下書きを読まされているわけだよ。出来損ないを売っているわけだから、一種のペテン商法だな。売れなくて当然だ」


 ここでそんな小説家に対して、


 「売れないものを出したいなら、そいつが金を払うのが当然だろう。てめえの自己満足のために出版社に金を出してもらおうというのは虫がよすぎる」


 これは仕事は仕事。商売は商売。だけどの気持ちはこの通りである。牛河原の矜恃であろう。


百田 尚樹 著 『夢を売る男』 幻冬舎(2015/05発売) 幻冬舎文庫
by office_kmoto | 2015-06-06 05:35 | 本を思う | Trackback(1) | Comments(1)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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