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村上 春樹 著 『村上さんのところ』

d0331556_11172687.jpg 村上さんがネットを通して読者とやりとりするこの本は、今までも同じスタイルで何度もやっていて、それがいくつかの本となっている。私は一番最初の本は読んでいるのだが、その後は持ってはいるものの読めずにいる。
 こういう読者のあらゆる質問に村上さんが答えるのを読むのは、どうしてかひどく疲れるのである。今回もやはりそうで、やっとの思いで読み終えた感じであった。今回コンプリート版として、村上さんが答えたすべてを電子書籍で発売されているが、正直これを読みたい思わない。無理!村上さんもこれを読み切るにはかなりの根性がいると書いている。

 今回いろんな国の人々から質問が来ている。これはネットというツールおかげとともに、やはり村上さんの作品が世界で読まれているからであり、そういう村上さんだからこそ、いろいろな国から質問がくるのだと思われる。
 そしてもう一つが学校の先生から、とくに国語の先生から文学の有り様ついての質問が多かったような気がする。これも何度もノーベル文学賞候補にあがっている村上さんだからこそ聞いてみたい、というのがあるのかもしれない。
 文学を教えるというのは難しいことだと思う。作品に関してその感じ方は読む人によってそれぞれ異なるわけだから、国語の授業のように一つの答えを導き出すやりように疑問を持っているからかもしれないな、と思ったりする。
 その中で面白いと思ったのは、「翻訳は時代とともに更新されるべきか?」という質問である。村上さんはオリジナル・テキストは永遠の定点として存在するからアップデートは不要だと答えるが、翻訳は更新されると考えているところである。


 しかし翻訳は時代とともに更新されていく必要があります。なぜなら翻訳は芸術ではないからです。それは技術であり、芸術を運ぶためのヴィークル=乗り物です。乗り物はより効率的で、よりわかりやすく、より時代の要請に添ったものでなくてはなりません。たとえば古い言葉は更新されなくてはなりませんし、表現はより理解しやすいものに変更されなくてはなりません。


 私もマーローやサリンジャーの村上訳を“新訳”として読んだ。レイモンド・カーヴァーも読んだ。正直なところ旧訳に対して新しい訳が必要なんだ、ということは考えたことがなかったので、これを読んでなるほど翻訳は時代ともに更新される必要性があるべきなんだと思った。ただ古い訳でも名訳というものもあるはずだから、旧訳のすべてを更新されるべき、というものでもないのだろう。

 本に関して村上さんの意見で気になったのをあげる。


 いちばん望ましいのは、図書館で借りて読んだけど、やっぱり自分の手元におきたいので、書店で買い直した、というケースですね。僕としてもそういう本を書きたいです。


 小説って、音楽とか絵とかと同じだと僕は思うんです。大事なのは、わかったとかわからないとかじゃなくて、それが身体に沁みるかどうかということなんじゃないかなと。


 風向きをはかって、「これをこんな風に書いておいたら、人は感心してくれるだろう」みたいな姿勢で書かれているもの(書評や映画評のこと)がときどきあるみたいに感じませんか?


 実は図書館で本を借りて読むようになってから、“この本欲しいな”と思うことが何度かある。実際一度読んでいるのだから、わざわざ買い求める必要なんてないはずであるが、欲しいと思った本は何か私のこころに沁みいった作品で、どこが良かったとか一概に言えないのだけれど、村上さん言うように何かが心に残った感じがする本である。
 ただ私が図書館で借りて読んだ本で、手元に置いておきたい本はみんな古い本で、新刊書店で手に入らないものばかりであった。だから古本屋を覗いたとき、あれば買おうと思って手帳(今はスマホのメモ帖)に書名を書いてある。

 毎年秋なるとノーベル文学賞候補として村上さんのことがニュースで取り上げられ、そこで村上さんの作品を愛する人たちを“ハルキスト”として紹介される。私はこの“ハルキスト”って何だ、と思っていた。村上さんもこの“ハルキスト”なる言い方がチャラいと言っている。


 誰がこしらえたのかは知りませんが、「ハルキスト」という語感がいささかチャラいので、とりあえず無視しませんか。


 村上さんは自ら“ハルキスト”という言い方をやめて、「村上主義」、「村上主義者」と言わないか、と提案している。この方がいいかも。
 今年の秋のニュースではどこの放送局が“ハルキスト”という言い方をやめて「村上主義者」と言うか、ちょっと楽しみである。だって村上さん自身がこう言った方がいいと言っているのだから、「村上主義者」と言い改めたニュース番組はきちんと取材していることになるのではないか、と思うのである。(どうでもいいことだが・・・・)

 さて、最後にへえ~そうなの、と思ったことを書く。
 村上さんが子供の頃絵を習っていて、その先生が須田剋太さんだったというのである。


 僕が小さい頃(たぶん小学校の低学年だったと思いますが)、須田剋太さんという画家が近所に住んでおられました。司馬遼太郎さんとよく一緒に仕事をしておられたとして有名な方ですが、子供がお好きだったようで、おうちの離れに子供を集めて絵画教室のようなものを開いておられました。僕はそこに行って、絵を習っていました。というか、みんな好きに絵を描いて、それを須田さんがにこにこと「これはいいねえ」とか「ここはこうしたら」とか感想を言うというようなところでした。とても良い方だったと記憶しています。僕が須田さんから受けたアドバイスは、「ものを枠で囲うのはよくないよ。枠をはずして描きなさい」というものでした。なぜかそのことだけを今でもはっきり覚えています。


 須田剋太さんは司馬さんの『街道をゆく』の挿絵書いていた人で、亡くなるまで司馬さんと一緒に街道を歩いた人である。ところどころで司馬さんが書く須田さんの姿や行動がおかしくて、ちょっとした清涼剤みたいになっている。
 でもその描く絵はダイナミックで画集を開いて見ると、ほれぼれする。須田さんが村上少年にアドバイスした「ものを枠で囲うのはよくないよ。枠をはずして描きなさい」というのは、確かにそう言うだろうなと思わせる。


村上 春樹 著 『村上さんのところ』 新潮社(2015/07発売)
by office_kmoto | 2015-07-30 11:18 | 本を思う | Trackback | Comments(1)

手触りの知識

 昨年、散歩の途中でオレンジ色の花を咲かせている一画があった。それは川の土手を上がる坂道の横の狭い場所に植えられていた。
 狭い場所であったが、これだけたくさん咲いていると華やかに見える。ちゃんと管理する人がいるからこれだけ花を咲かせているのだろう。一見コスモスみたいであるが、普通のコスモスとは違う。
 その後何度もそこを上ってその花を見に行った。そのうち花は散り、種を付けている。その種をいくつか取ってきた。多少後ろめたいところもあったが、まあ花を摘む花盗人ではなく、種数個なので許してもらおうと頂いてきたわけである。
 その種をこの春蒔いて、今昨年見た花を咲かせている。花の前はキバナコスモスという。

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 この一年半、散歩しているときに見かける草木を注意して見るようになった。花を咲かせていると立ち止まって見たりする。そうしているうちに自分が草木の名前を知らないんだなあ、と思うようになった。
 また佐伯一麦さんの作品を読むようになってから、そこに出てくる草木や鳥の名前がいったいどんなものなのだろうと思うようにもなった。それをネットで検索したり、図書館で図鑑を開いて調べたりした。図鑑を開いて、これかなあ、と見当を付けたりするのは楽しいものだと知った。
 草木の名前を覚えたからといって、どうなる訳でもないのだが、自然に知りたいと思って図書館で図鑑を開く行為がものすごく懐かしかった。図鑑で調べる行為が楽しかった。
 もともとアナログ世代の人間が無理してデジタル社会で生きてきたところがある。こうした行為は、慣れ親しんだ元の形に戻っただけのことかもしれない。
 考えてみれば、ここしばらくは処世術として、いやらしい知識ばかり覚えてきた身である。どうやって効率的に出来るか。どうしたらこの状況をうまく切り抜けられるか。どうしたら相手を納得させられるか。あるいは誤魔化せるか。そのための理論武装として覚えてきたものが、頭の中に充満していた。だからこうした生きるために直接関係ない知識を手触りで覚えて、自分の頭やからだをリセットしいる気がする。今は何だかそれを大切にしたい気持ちでいる。
by office_kmoto | 2015-07-27 06:13 | ものを思う | Trackback | Comments(0)

NHKテキスト

 よくよく思い出してみれば、NHKのテキストを買うなんて中学校以来ではないか。あの頃テキストを買って、ラジオから流れてくる英語を聞きながら、テキストにある文字を追っていた。何度かトライしたけれど、結局最後までやったことはなかった。
 最近はテレビは基本的にニュースか天気予報しか見ないのだが、新聞のテレビ欄は毎日目を通す。いつも見るニュースや天気予報以外に面白そうな古い映画やドキュメントものがあれば、ビデオに録画しておき後で見る。
 そんな時「100分de名著」という番組があること知った。1冊の本を4回に分けて100分で解説してくれるものだ。テキストも売っているので、それを買い、“視講”?している。これまで4冊ほど本について見てきた。もちろん番組はビデオに録画しておき、好きな時間に見ている。
 この番組はいわゆる名著といわれるものを100分で解説してくれるのだが、100分ということで、上っ面をなでる感じである。でも私にはそれでいい。
 今回もビデオを見る前にテキストを読んで予習し、ラインマーカー線を引いたりして、ちょっとした学生気分になる。懐かしくもなる。勉強しているという感じなれる。
 ビデオを見ていて紹介された名著を読んでみたいと思って、ネットでこの本を注文する。また手元にある名著の著者の関係本を取り出して読んでみたり、このテキストを参考して、あれこれ考えてみたりしている。そうしてみると今までわからなかったことが見えてきたりして面白い。これを勉強といえるのかどうかわからないが、この歳で考えるのはちょうど良い。来月も興味のある名著を解説してくれるので、またテキストを買って、ラインマーカーで線を引いて予習しようと思っている。 
by office_kmoto | 2015-07-25 08:06 | ものを思う | Trackback | Comments(0)

常盤 新平 著 『山の上ホテル物語』

d0331556_5393989.jpg この本は御茶ノ水にある山の上ホテルとその創業者吉田俊男の物語である。物語といっても、吉田俊男と山の上ホテルとの関係を吉田が残したメモと、令子夫人やホテル従業員からインタビューをし、吉田の人物像と、山の上ホテルがどんなホテルなのかを明らかにしていくものである。

 今はどうか知らないが、雑誌文藝春秋に山の上ホテルの広告が載っていた。その広告の文章を作っていたのは社長の吉田俊男だったということをこの本を読んで知った。雑誌を読んでいた頃、よくこの広告を目にして、なかなか落ちついたキャッチコピーだな、と思っていたものだ。吉田が残したメモには広告のコピーの下書きのようなものも幾つか残っていて、その中に次のようなメモがある。


 <これが限度です。客室100で五つの食堂その他バー宴会場がうちの全部です。小さいホテルです。
 ですが、よいサービスとうまいたべものを継続して行けるのは、これが限度です。これ以上大きくしては質の低下となります。
 良質のものはどの世の中でも少ししかないのです。
 お客様が「及第」と言ってくださるのを目標にして二十五年。どうやらお試し願へる様になりました。サービスの質、食事のうまさ等ホテルの試験をして下さる様願ひ上げます>


 山の上ホテルは本館35室、新館(別館)40室で、ホテルとしては小さなホテルである。しかし場所柄様々な人に愛されてきたホテルであり、特に作家が泊まり込みでここで原稿を書いていたところで有名である。
 池波正太郎さんの『銀座日記』を読んでいるとこのホテルのことがよく出てくる。作家である以上家に居ることが常態だ。当然家に居るものは一日中気をつかうことになる。だから池波さんは夫人やお母様に自分のことで気をつかわせない日をつくるために、二人の休日みたいな感じで、一人でこのホテルに泊まる、とエッセイに書いてあった。
 ただ池波さんは書く小説が書庫にある資料が必要な時代小説なので、このホテルでは原稿が書けないと書いている。だから新人賞候補作を読むため、あるいは絵を描くために泊まった。
 このホテルの食事もかなり気に入っているようで、泊まりだけでなく、ちょいと外に出たついでに、天ぷらやステーキを食べに来ている。
 頻繁にこのホテルを利用するので、わざわざ預金通帳を作って、フロントに預けたという。
 山口瞳さんの『男性自身』にも同じようにこのホテルの記述が多くあるという。私が読んだ山口さんの『行きつけ店』に、次のように書いている。


 ホテルでは山の上ホテルが一番だ。一番というのは一番上等だという意味ではない。一番好きだと言ったほうがいいかもしれない。その「好き」の内容は「気持が安らぐ」もしくは「自分の家に帰ってきたようだ」ということになろうか。(お茶の水 山の上ホテルの天ぷらとステーキ)


 山口さんは晩年、真夏の一週間、夫婦でこのホテルに滞在したという。池波さん、山口さんは別荘を持とうとしなかった。そのかわりこのホテルを利用したようである。
 常盤さんが池波正太郎さんや山口瞳さんに心酔していたから、この二人が愛したホテルのことを書くのもうなずける。

 このホテル、創業者の吉田俊男のことはWikipediaに詳しいことが載っている。その概要を見ればひとめで歴史がわかる。


 ホテルは1954年(昭和29年)の開業で、表通りからは奥まった神田駿河台の高台に位置している。

 シンボルとも言える鉄筋コンクリート建築の旧館は、1936年(昭和11年)に明治大学OBで石炭商だった佐藤慶太郎の寄付を基にアメリカ出身の建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計により「佐藤新興生活館」として完成した。当初は財団法人日本生活協会の管理下に置かれ、太平洋戦争(大東亜戦争)中には帝国海軍に徴用、日本の敗戦後には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収されて陸軍婦人部隊の宿舎として用いられていた。

 ホテルとしての開業は1954年(昭和29年)1月20日で、GHQの接収解除を機に、実業家・吉田俊男(1913-1992)が佐藤家から建物を借り入れる形で創業した。ホテル名は、GHQ接収時代にアメリカの女性兵士・軍属の間で建物の愛称になっていた「Hilltop」が起源で、これを吉田が「丘の上」でなく敢えて「山の上」と意訳したことによる。

 吉田は長く旭硝子の営業部門につとめていた人物で、この前年に独立して個人事務所を設立、知人から旧・佐藤新興生活館の接収解除を伝えられたことを機にホテル業に参入した。吉田は自らの手で花森安治のコピーライティング等とも通底する個性ある広告コピーを執筆し、ホテル経営の素人であることを逆手に取った懇切な接客体制に務めるなど、その後半生を費やしてこのホテル独特のアットホームなサービス文化を築いた。吉田俊男の死後、ホテルの運営は吉田の子孫によって行われている。

 1970年、別館が増築された。2012年(平成24年)時点でも総室数74室と小規模ながら、瀟洒なしつらえと行き届いたサービスによって知られ、レストラン・バーなどの付属供食部門が充実していることでも評価を受けている。

 かつて出版社の密集していた神田に近いところから、作家の滞在や缶詰(ここでは執筆促進目的の軟禁場所としてホテルに強制滞在させられること)に使われることが多く、そのため「文人の宿」ともなっており、川端康成、三島由紀夫、池波正太郎、伊集院静らの作家の定宿としても知られる。檀一雄は舞台女優・入江杏子と愛人関係になり山の上ホテルで同棲し、入江との生活そして破局を描いたのが代表作『火宅の人』である。

 2013年4月5日午後4時35分頃、別館屋上の機械室から出火、廃材などが燃える火事があり、宿泊客らが避難した。けが人はなく、客室部分への延焼も免れた。神田警察署によると、現場検証の結果機械室から煙草の吸殻が複数見つかり、他に火の気がないため、出火原因は煙草の火の不始末と見られるという。機械室は従業員の休憩所として使用されており、喫煙もしていた。ホテル側は屋上で喫煙しないよう指導していたという。

 2014年6月、別館が閉鎖された。以後、本館35室のみの営業となる。


 私は以前、頭数として、ある新年会に出席したことが二度ほどある。会場が山の上ホテルの宴会場であった。数多くの料理やオードブルなど、立食式で、取り分けて食べるのだが、何せ単に数合わせで出席した会である。知らない人間ばかりの中で、早く終わらないかなという思いだけだったので、料理を味わうことができなかった。この本を読んで、このホテルの料理がうまいことを知ったとき、あの時味わっておけばよかったと後悔する。

 仕事を辞める前にこのホテルのロビーをよく利用させてもらった。会社が危なくなった頃のことだ。
 会社の売却のため、いろいろな人とここで会ったし、税理士さんを含め経営者と会社の行く末を相談した。
 会社を立て直すために求人をし、内定者まで出したのだが、会社がどうにもならないところに内定もへったくれもない。責任を負えなくなっていた。しかもその人はそれまでの勤めていた会社を辞めて待っていたのである。
 経営者は、会社がダメになるのだから仕方のないことじゃないか、と居直っているたが、人の人生設計を台無しにしてしまう行為は、開き直れるものじゃない。私はきちんと謝罪すべきだと、口論になった。
 その謝罪のためにこのホテルのロビーを使わせてもらったこともある。ちょうど別館がぼやを出した頃だった。
 この時期に何度かここでランチも食べているが、これも仕事の関係で食事をしただけで、料理を味わっている余裕などなかった。以前にも書いたことがあると思うが、とに
かく私にとってこのホテルはいい思い出がないのであった。
 この本に池波正太郎さんの絵が飾ってある本館ロビーの写真がある。ここも利用させてもらっているはずだが、絵のことはまったく気づかなかった。

 大学在学中そばにあるこのホテルがいつも気になっていた。このホテルが作家たちの御用達になっていることも知っていたし、何より建物に風格がある。よくホテルの前の坂を上り下りしていたものだ。
 先日も神田の古本屋街を歩いて、金華公園からホテルの裏側の坂を登ってお茶の水駅まで歩いた。そのとき坂がきつくて、昔はそんなことがなかったのになあ、と自分が歳を取ったことを思わざるを得なかった。その時もこのホテルを横目で見ている。
 この文章を書いている時に、ネットでいろいろ調べていて、昨年の6月で別館を閉鎖して、土地を大学に売ったことを知った。あるいはホテルが井戸水の使用量を過少に申告し、下水道料金の徴収を不正に免れていたのが発覚して、行政処分を受けていたことも知った。
 従業員の煙草の火の不始末によるぼやといい、創業者の吉田俊男がこれらのことを知ったら、怒りまくっただろうな。あるいはこのホテルを愛した常盤さんや池波正太郎さん、山口瞳さんは何と言うだろうか。


常盤 新平 著 『山の上ホテル物語』 白水社(2007/02発売) 白水Uブックス
by office_kmoto | 2015-07-24 05:41 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

森 まゆみ 著 『不思議の町 根津―ひっそりした都市空間』

d0331556_1422759.jpg 千駄木の駅から根津神社へ行ったとき、不忍通りにあったお店の前にあった「根津権現かいわい浪漫ちっくマップ」という地図が店頭に置いてあり1枚もらってきた。
 この地図、本当によく出来た地図で、いわゆる谷根千にいた数くの文士がどこに住んでいたか一目でわかるようになっている。さらに古い建物や坂などどこにあるのかもわかるようにもなっている。観光客らしき人たちが、この地図を持って歩いていたのを何度も見かけた。
 この地図を見ていて気づいたことがある。昔近くまで来たことがあるのだ。
 私が秋葉原にあった本屋で働いていた頃、秋葉原から昭和通りを通って御徒町のあたりで曲がって湯島天神の坂(この地図だと切通坂というらしい)を勢いをつけて登り、東大の龍岡門の前にある薬局に本を配達していたことがあった。本を積んで自転車でこの切通坂を登るのはきつかった。
 配達が終わり、寄り道をして、東大の赤門あたりまで行ってみたこともある。いわゆる本郷通りにあった古本屋さんで本を買ったこともある。
 帰りは下りなので、自転車をこがずに、一気に坂を下っていった。これが結構楽しかった。ブレーキをかけずにどこまで行けるか試したものであった。
 ちなみにこの薬局とは、私が本屋の現場を離れてから会社を辞める間に、何度か関わるようになった。あまりいい思い出がない。
 先日根津神社へ行ったときも、この薬局の支局を見つけてしまった。
 それはこの地図を見て、根津神社の近くに夏目漱石の旧居跡があることを知ったので、日本医科大学付属病院の前の根津裏門坂を登っていたら、この薬局を見つけてしまったのだ。私は名前は知っていたが、ここにあることは知らなかった。
 つまらぬものを見てしまったと思いつつ、坂を登って行ったが、結局夏目漱石の旧居跡はわからなかった。

 さて、今回この地図を見ながらこの本を読んだ。この本は一度文庫本で読んでいる。今回この本を読んだのは、先日根津神社へ行ったことと、たまたま初版の単行本を手に入れたことによる。
 千駄木から根津神社までを不忍通りを歩いて行ったのだが、通り沿いに大きなマンションが建ち並んでいることに驚いた。なるほど森さんがこのあたりが地上げ屋によって土地を買いあさられ、マンションがどんどん建っていくのを嘆いていたのがよくわかる。
 あとがきに次のようにある。


 大好きな町に関して散見する資料を自分のためにも早く一つストーリーにまとめておきたいということが、本書の最初の目的である。地域史の叩き台になればそれもよい。それは不忍通りの両側が大手マンションメーカーや地上げ屋によってビルになり、更地になり、町の人間も、そしてその物語も失われる今、ぜひやっておきたいことであった。


 町を歩き、関係者に会い、資料を漁り書かれた本書であるが、その分歴史的背景は詳細を究めている。「地域史の叩き台」以上であろう。
 だがここに暮らしていないとよくわからないことが多い。わからないことが多いが、根津神社へ行ったので、この神社について書かれていたことに興味がある。
 根津神社の起源は、日本武尊が千駄木山に八岐大蛇を退治した素戔嗚尊の武勇を慕って小社を奉納したことから始まる。


 お社のあたりを素戔嗚尊にちなんで素戔嗚(いるさ)の森といい、千駄木の団子坂の上を右に曲った右奥に小さな祠が残っている。これが根津社の古地、元根津の宮である。


 話は江戸時代になり、徳川三代将軍家光の三男綱重が藍染川のほとりに山手屋敷を賜った。この根津の邸を池之端邸とか、谷中邸と呼んでいたらしい。
 ちなみに綱重の兄が四代将軍の家綱で、弟が五代将軍綱吉である。
 その綱吉は男女一子ずつ得たが二人とも夭折し、その後も世継を得られず、やむなく池之端邸にいた綱重の子、綱豊を世子とした。
 43歳で将軍の世子となった綱豊は、名を家宣と改め江戸城に移る。空き家となった池之端邸の地に綱吉は綱豊の産土神である団子坂上の根津社を移し、重厚壮麗な社殿を建設する。これが根津神社である。
 この造営がきっかけで、これに従事する作事方、大工、左官、鳶職などを相手にする居酒屋が出来、女を入れることで、根津に遊郭が出来ていく。
 そう、根津には岡場所と呼ばれる私娼窟があったのである。「根津権現かいわい浪漫ちっくマップ」で見ると、不忍通りに面した根津神社の横、つまり根津小学校がある一帯のようである。


 とはいえ、明治三十六年に団子坂までのび、その後、動坂から明神町へと市電の開通によって開けていったこの町の幹線である不忍通りが、その大元は根津神社の門前、つまり遊郭の仲通りに発生することはまちがいない。いってみれば、不忍通りと根津の町は遊郭から発祥したのである。


 まあ、何事につけ、こういう場所があれば人は集まってくる。
 その後根津の遊郭は火事や弾圧で荒れ果てたりしたが、また復活していく。こうして江戸時代が終わり明治の世となって東京府は最初、遊郭開設を5年間だけの営業として許可しているが、そのままずるずると引き延ばされていく。
 面白いのが、東大と根津遊郭の関係であった。


 東京大学と根津遊郭はほとんど近いので、主に東校の医科大生が盛んに遊んだ。前述したように森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」にも登場する。
 そして十七年、三学部が本郷に移ると、神田から根津まで通った文科の学生も、近くなったと大よろこびでいっそう遊郭に入りびたり、学業を途中で投げ出すものもでてきた。


 明治の東大といえば今よりも日本を背負うエリート養成学校である。その学生が勉強せずに“あっちの方”に励んじゃうのに慌てた文部省は根津遊郭の移転を考えるようになる。しかし移転より遊郭を市街の中心部に許しておくのがいかん、ということになり、根津遊郭の全廃を決める。そして明治20年12月限りで根津では以後営業を許さないという令を出す。根津の引っ越し先が洲崎である。これが戦後の「洲崎パラダイス」となった。一方根津の町は寂れた。

 ところで根津の遊郭で余話みたいな形で、坪内逍遥の妻センの話が載っている。
 逍遥の妻センは根津遊郭の大八幡楼の花紫という娼妓であった。逍遥は明治17年同級生に誘われて大八幡楼へ行き、花紫と初めて会う。その後逍遥は3年越しで花紫のところへ通う。そして年季が明けた明治19年、センと結婚する。しかし逍遥の実家ではセンに冷たく、軽蔑を表すこともあったという。(そうだろうな)それでも逍遥はセンを一生かばい続けた。
 その後逍遥の社会的地位が上がると、センの経歴などで陰口や三面記事が書き立てる。逍遥は早大の文学科長や学士院会員に推されてもそれを固辞した。それを受ければますます逍遥やセンのプライバシーが取り沙汰されるからであった。まして逍遥が教育方面に関係せざるを得なくなってからはセンのことで苦しんだ。役職も辞退した。
 ただその辞退は自分のためではなく、妻のセンが世間の冷たい視線に怯えがちなのをかばうものであったという。晴れがましい席にも妻を同伴しなかったのも、妻の前歴を恥じてのことではなく、妻をかばってのことであった。

d0331556_14225716.jpg ところでこの本は文庫本で読んだと書いた。で、興味があったので、文庫本とどう違うのか比べてみた。
 文庫の方は写真の資料が加えられている。特に藍染川の氾濫の模様など、写真を見ているとなるほどこの川はこんな感じで氾濫していたんだ、と知ることが出来る。


森 まゆみ 著 『不思議の町 根津―ひっそりした都市空間』 山手書房新社(1992/02発売)

森 まゆみ 著 『不思議の町 根津―ひっそりした都市空間』 筑摩書房(1997/05発売) ちくま文庫
by office_kmoto | 2015-07-21 14:24 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

平成27年7月日録(上旬)

7月1日 水曜日

 雨。

 大腸の内視鏡検査でポリープを切除してから、2日経ち、無理はダメだが、普通の生活ができるようになった。食事も3日ぶりにご飯の食事ができるようになった。うれしい限りである。

d0331556_13415973.jpg ダン・ブラウンの『天使と悪魔―ヴィジュアル愛蔵版』 (角川書店2006/12発売)を古本で安く手に入れたので読み始めた。もちろんこの小説は発売当初読んでいる。いまさらダン・ブラウンという気持ちもあるが、私は『ダヴィンチ・コード』よりこの作品の方が面白いと思っている。
 昔読んだので、内容はほとんど忘れているため、新たに読む感じだ。ページがどんどん進むほど、話はスリリングで、テンポがいい。バチカンのこぼれ話もあちこちにちりばめられていて、へぇ~、そうなんだと驚いたりする。またバチカンの様子やそこにある美術品の記述があると、ちゃんと図版が載っておりわかりやすい。さすがヴィジュアル愛蔵版と名を打つほどだ、と感心する。
 ただこの本、A5版の700ページもあり、しかも図版の関係で紙質も厚いものを使っているため重くて仕方がない。そのため寝転んで読める本じゃないので、椅子に座って読んでいる。









7月4日 土曜日

 くもりのち雨。

 昨日は関東も大雨が降った。今日は小康状態ではあるが、また明日は雨の一日になるという。まあこの時期梅雨だからこんな天気は仕方がないのだが、さすがに雨ばかり見ているとうんざりしてくる。しかも来週は台風の影響があるという。なんでも南には台風が3つもあるという。
 今週いっぱいはじっとしていろという医者からお達しを忠実に守らせようとする妻の監視があるので、家でじっとしているので、雨が降っても関係なく家にいなければならないのだが。
 さて、ダン・ブラウンの『天使と悪魔―ヴィジュアル愛蔵版』を朝方読み終える。ほとんど話の内容を忘れているので、再度読み直しても面白かった。
d0331556_13424567.jpg 午後から南木佳士さんの『医者という仕事』 (朝日新聞出版1995/05発売)を読み終える。
 このエッセイ集に度々出てくる言葉は「視線を低くして」である。視線を低くして人や世の中を見てみると、そこに見えるのは、人として最も大切なことである“やさしさ”であることを教えてくれる。


 病んだ者の視線は例外なく低くなる。人間として持つべき最も大事なものは頭の切れの鋭さでも、まして学歴とか富ではなく、ただひたすらやさしくあることなのだというようなあたりまえのことが、低くなった視野に見えてくる。(厄年を過ぎて)


 小説とはあくまでも小さな説なのであり、書く者の視点は限りなく低くあらねばならない。いつも自分にそう言い聞かせてきた。やがて、この視点を低くするという訓練は、医者としての自分にとってもきわめて大事なことだと気づいた。(医者という仕事)


 医者になって心身を病む人たちをたくさん診てきたが、人は挫折を知ると例外なくやさしくなる。そして人が人であるための最低条件とはやさしさ以外の何物でもないことを知る。いわゆるエリートコースを歩んできた人たちは、気づくのが遅すぎた、と後悔するのが常である。(挫折の四月)


 上から目線で人や物を見ていると、どうしても傲慢になる。奢りが出てくる。この視線は競争に勝ち誇った人間がする態度であろう。そこまではわかる。しかし南木さんのように悟れるには自分は至っていない。南木さんの自らの体験から語られる物語は、それをそうっと教えてくれるような気がする。南木さんの物語が心地よいのは、それが何となくわかる年齢に自分が達しつつあるからなのかもしれない。

 気になった文章をあげておく。


 形容詞ばかり増やし続けた自分の人生を少なからず反省させられた春の午後だった。(フキノトウ)


 人間なんて川を流れるゴミのようなもので、会社などの組織はたまたま大きな石の周囲にゴミが集まったものに過ぎない。ある者は流れ去り、ある者はとどまる。しかし、やがてはみんな流れ下って海に入る運命には変わりはない。(川を眺めながら)


 「おまえはなあ、妙に文学的な思い入れを患者にするから十二指腸潰瘍になんかなるんだよ。もっと学問的に患者にアプローチしてみたらどうだ」(上田医師の青き時代)


 最後の一文は“長いエッセイのような掌篇・短篇小説集”として上田医師が研修時代、医長から言われたものである。すなわちこれを言われた上田医師は南木さん自身である。


7月5日 日曜日

 雨。

 よく降る雨である。今日は午後から家に私一人となっている。本棚を何気なく見ていたら、そこに古い雑誌や道路地図などがある。いずれも情報として役に立つものではないので、明日の資源ゴミに出してしまおうと思い、引っ張りだして一つにまとめてくくる。
 そんなことをやっているうちに、また子供たちの写真を見つける。結構な枚数がそこにはあり、終わったと思った写真整理をやり直さなければならない事態となった。たぶんアルバムに貼った写真をもう一度はがして、並べ直さないといけなくなる。それを考えると滅入ってくる。

d0331556_13435493.jpg 南木佳士さんの『家族』 (文藝春秋 1999/02発売)を読み終える。この本は「家族」、「井戸の神様」、「風鐸」、「さとうきび畑」の中短篇集である。個人的には「井戸の神様」が軽みがあって好きであったが、書名にもなっている「家族」はこれまで南木さんが書いてこなかった自分のことが書かれていて、興味深かった。
 父親の介護に関わる家族を一人ひとり書いていく。先の見えない父親の介護。家族は父親に悪態をつき、その死を望むようになる。父親が死んでホッとずる家族がそこにあるのは、それほど介護というものが、大変なことであり、家族に強いるものがそこにはあることを思い知る。
 読んでいて嫌な気分にさせる人間のそれぞれの顔がここで描かれる。でもきっとそれはきれい事ではなく、誰もがとってしまう態度であり、思うことなのではないか。
 父親に距離を置く息子は南木さん自身であろう。これまで読んできた南木さんの作品には父親の介護のことが書かれていたが、この作品ではそれまでにない男としてどうしようない部分がいくつか書かれている。
 まあよく考えてみれば、誰でも若い頃はこうしたくだらないことや馬鹿げたことをやるもんだろうが、それでもこれまでなかった人物像がここにはある。それが作り話なのかどうかはわからないが、もしかしたら今まで書いてこなかった南木さんの昔話かもしれないな、と思うと、この作品を書くにはどこか躊躇したところがあったのではないか、と思ってしまった。今までさらっと流していたものや、書かなかったことが結構書かれていた。


7月6日 月曜日

 相変わらず雨。

 今日は、“サラダ記念日”だったんじゃなかったかと、ふと思い出して調べてみると、確かに“「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日”とある。

 さて。
 大腸の内視鏡検査からちょうど一週間経って、薬のおかげか出血もなく無事に済んだ。この間何も問題がないので、今日から通常の食生活と日常を過ごせることとなった。
 なったのはいいけれど、この雨じゃ散歩にも出る気になれないので、結局家に閉じこもることとなる。こう鬱陶しい天気が続くと本を読む気も萎えてしまう。だから昨日出てきた写真の整理をやった。
 一度整理したアルバムに、途中写真を加えるのは難しい。間に新しい台紙を加え、バランスよく配置していくのだが、結局やり直すことが多くなってしまい、半日かかってやっと息子のアルバムの整理を終える。明日は娘のアルバムに同じことをすることにした。

 テレビの天気予報を見ていたら、今日から鬼子母神の朝顔市が始まったそうである。我が家の三代目の鬼子母神の朝顔は、鉢植えはまだ蕾さえない状態だ。別にプランターに植えた朝顔はネットにはわせているのだが、こちらは野生化していて、多くの蕾を持っているから、こちらから先に咲きそうである。


7月7日 火曜日

 くもり時々雨。

 プランターの朝顔が一つ花を咲かせていた。


7月8日 水曜日

 くもりのち雨。

 今日も雨。何でも今年7月の東京の日照時間は今日まで30分も満たないと言う。
 阿刀田高さんの『地下水路の夜』を読み終える。
 録画しておいた映画を見る。
d0331556_1345658.jpg フレデリック・フォーサイス原作の「ジャッカルの日」である。私はこの原作の映画バージョンの表紙が好きである。
 さてこの映画、公開された1973年にテアトル東京で見ている。ブルース・ウィリス主演のリメイク版もあったが、こちらの方がいい。ブルース・ウィリスはどうしてもダイ・ハードのイメージが強く残ってしまう。
 暗殺者の冷静さや残酷さなど演ずる時は、妙な笑い顔を作らないほうがいい。その点のこの映画のジャッカルを演じている俳優は淡々と演じていてる。この俳優の名前はエドワード・フォックスというそうだ。
 ジャッカルを追いかけるクロード・ルベル警視役の俳優も良かった。


7月9日 水曜日

くもりのち雨。

 芦原伸さんの『ヘルン先生の汽車旅行』を読み終える。


7月11日 土曜日

 はれ。

 先日行った大腸の内視鏡検査でとったポリープの検査結果を聞きに行く。先生は、このまま放っておけば癌になる可能性のあるポリープだったと言う。もちろん必ず癌化するとは限らないが、こういうものが出来やすい体質と年齢だということらしい。来年も必ず検査をするように言われる。


7月13日 月曜日

 はれ。

 お盆なので実家に行き、線香をあげてくる。
 帰りに父親と近くにあるヤマダ電機に一緒に行く。パソコンとプリンターを買う。
 問題は設定である。父親がパソコンの設定とデーターの移動など出来るわけがないので、それをヤマダ電機にやってもらおうと最初は考えていた。相談すると出張サービスでそれをやることが出来るが、2万から4万円かかるという。
 たかがパソコンの設定にはそれはちょっとぼりすぎじゃないかと思うが、ここではそういうことらしい。
 一緒についてきてしまった以上、この値段を聞いて、お願いするのは納得いかないので、仕方なしにその設定をやることになってしまった。

 阿刀田高さんの『怪談』を読み終える。


7月14日 火曜日

 はれ。ここ数日暑い日が続く。今日は東京で34.3度だったという。さすがに暑いので今年初めて冷房を入れる。

 実家のパソコンの設定を始めた。まったくパソコンというやつは電源を入れればすぐ使える代物じゃないのが厄介だ。昔はこうした設定は嫌いじゃなかったのだが、今は歳のせいか面倒になって、自分のパソコンでさえやりたくないな、と思っていた。
 まずWindows8.1がわからない。仕方がないので図書館に行って入門書を借りてくる。
 今回すべてWi-Fiでネットもプリンターも繋ぐ予定で、さてこれどうやったっけ、と思い出しながら、何とかネットが繋がるところまでこぎ着けた。


7月15日 水曜日

 はれ。今日も暑い。

 明日台風が来るので、今日中に実家のパソコンの設定を終わらせようと、朝から実家へ行く。
 マイクロソフトのアカウントを取るのが面倒臭い。これをきちんと取らないとOfficeが使えない。たかがソフトをインストールするだけなのに、もうちょっとシンプルに出来ないのか、と思う。何事も大袈裟すぎる。
 プリンターはWi-Fi仕様になっているので、我が家みたいにプリントサーバーを付けなくてもいいので、認識させ、ドライバーをインストールして、パソコンの設定を終える。
 設定が終わり使い方を説明する。まず、パソコンの周りにコードがないことに驚いている。
 ノートパソコンの有り難さを十分発揮でき、どこでもパソコンが出来、ネットに繋がる。プリントも試しにやってみせると、父親は不思議がっている。
 だよな、と私も感じる。知識とイメージは頭の中にあるのだけれど、それがどうして繋がっているのか私もよくわからない。
 でもまあ、無事に設定が出来たので良かった。ヤマダ電機に4万円払わずに済んだ。(それにしても高い)後は古いパソコンのデータの移動だけなので、後日やることにする。
 昼過ぎ暑い中とぼとぼと歩いて家に帰ると、どっと疲れが出てくる。パソコンの設定は結構神経を使う。
by office_kmoto | 2015-07-16 13:55 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

呆れること

 ちょっと前の朝日新聞のエコを歌うコーナーに「ブックカバー、無駄やめて」という記事があった。


 書店で本を買うとき、「カバーをおかけしますか」と店員から尋ねられたことがある人は多いだろう。汚れを防いだり、読んでいる本を見られないようにしたりするため、定着しているブックカバー。できるだけ紙資源の無駄遣いを減らそうという取り組みも出てきている。


 とまあ、書店で書けてくれるブックカバーを資源の無駄遣いと断罪している。確かに書店でかけてくれるブックカバーは、本の傷みや汚れを防ぐ、あるいは読んでいる本を他人に見られたくないという意識でつけてもらうだけの一過性のものかもしれない。だから無駄だからカバーをかけてもらうのは止めようというのがこの記事であるが、これよくよく考えてみるとおかしなことにならないか。
 たとえば「カバーはいらないです」と断って、会計の後むき身のままその本をもって店を出るかといえばそうはいかないだろう。カバンでも持っていればそこに入れることも可能だが、普通カバーを断ったら、たぶん書店員はビニール袋に本を入れると思う。紙のカバーがエコじゃないと言うなら、だったらこのビニール袋はどうなんだ、と言いたいのである。この記事はカバーを断った後、どうすんの?ということは一切書いていない。書いてあるのは、カバーを断って、包装紙やチラシなど使って自分でカバーを掛けましょうというのだ。
 私は一過性のものであっても、カバーを付けてもらう意味があるなら、無意味ではないと考えるのだが。ここには「本のカバー=無駄」というのが最初にあって話を進めている単細胞的発想があるとしか思えない。
 今、もっともっと大きな無駄があるでしょう。例の新国立競技場。こんなつまらない記事を載せるくらいなら、あれ止めましょうと大々的にキャンペーンをやるべきでしょう。テレビのニュースでやっていたけれど、あの競技場建設費で、スカイツリーが3本立っちゃうらしい。
 こんな記事を書く新聞も単細胞的なら、政策に反対する新聞には広告を出させないように経団連にお願いしようと言う単細胞な国会議員もいる。嫌になるのはその国会議員が私が住む地区から選出していることだ。こいつ以前に国会でセクハラヤジを飛ばしていて問題になったので、私は先の選挙では票を入れなかったが、本当に入れなくて良かったと思う。(もっとも私が票を入れなくても国会議員になっちゃったけど)
 今回二度も同じことを言って、党の幹事長からかなり怒られたと新聞で読んだ。この時だって、マスコミの誘いに乗せられてしまった感が見え見えなのに、なんで同じことを言うかなあ、と思ったものだ。やっぱり馬鹿なんだとしか言いようがない。
 結局安倍総理が謝罪する破目になって、総理の応援団を自認している子分が親分に恥をかかせた形になった。お願いしようとした経団連からも批判され、まったく立場がなくなってしまった。あれ以来ニュースや新聞には出てこないが、どうしているのか。しばらくじっとして、忘れてもらった頃にまた選挙という魂胆なのか。情けない話である。
by office_kmoto | 2015-07-12 06:40 | ものを思う | Trackback | Comments(0)

色川 武大 著 『友は野末に―九つの短篇』

d0331556_5574881.jpg この本は「友は野末に」、「卵の実」、「新宿その闇」、「右も左もぽん中ブギ」、「奴隷小説」、「吾輩は猫でない」、「蛇」、「鳥」と9つの短篇と、色川さんと嵐山光三郎さん、立川談志さんとの対談、そして色川さんに奥様である色川孝子さんのインタビューが載っている。
 短篇のうち色川さんの生き方の源流を見ることが出来る小説として、「吾輩は猫でない」と「蛇」が気になる。


 私は、成人するまでずっとこの父親を内心で尊敬しており、私を教育した唯一の人物で、そのためこれに反撥することが生甲斐になっていた時期があった。父親の唯一の趣味が碁で、だから私は碁石を一度も手にしたことがない。一度も海に身体を入れたことがないのは父親が海軍だからであり、そのクソ忠誠心のおかげで、幼い頃から天皇、に限らず権威を尊敬したこともない。もっと重要なことでいえば、父親のおかげで、私は何かと何かを比較するという癖を身につけようとしなかった。
 どうせ比較するならば絶対者とくらべればよろしい。そうでない限り比較根性は下劣である。それはそうだけれども、比較しない、中途半端な評価をしないということは、言葉を変えれば、見境がなくなるということである。これがどうも始末がわるい。
 その時分、教師が、君は将来何になりたいか、という設問をして、席順に隅から答えさせていった。私は答えようがない。何になりたいわけでもないし、そういうことを考えようとしない。時がたてば大人になるだけであるし、番がきたらそう答えるより仕方がない。
 私の席のうしろの生徒まで順番が来、次に教師は黙殺して、前の席の生徒の名を呼んだ。(吾輩は猫でない)


 父親の眼から見たら、誰が見てもだが、これ以上、不出来な息子は考えられなかったろう。無秩序、無個性、無気力、私はその標本であった。できうるかぎりそうなろうと思い、傷ひとつ背負わずに、すうっとに戻ってくる。猫のように。これでもなんとか生きられるぜ、と私は父親にいいたくてたまらなかった。その頃、私にとって他の人間は居ないと同様だったから、父親以外は見境などつける必要がなかった。(吾輩は猫でない)


 まだある。


 私は儀式を憎んだ。そうして又、人生の要点が儀式によって成り立っていることも覚った。たとえば学帽だ。たとえば徽章であり、ランドセルであり、草履袋であり、カラーの大きいシャツであり、校服であり、新調の靴であった。近所の小学校に通学するについて、こんなにも多くのそれまでと変わったものを身につけなければならず、辛うじて以前の形を保っているのは私の小さな肉体だけという有様だった。もし、こんなふうな奇矯な恰好で通学するのが世界じゅうで私一人ということなのだったら、どんなに気楽だったろう。私が息苦しくなってしまうのは、誰もが、例外なく、同じようにしているという点に起因していた。小学校へかようのに、通学する恰好になるということは、常識以前のごくあたりまえの原則のようであり、人々は諸事万端、その原則を吞みこんで暮らしているようであった。
 けれども、何故、それがいいことなのだろう。(蛇)


 このような文章を読むと、この人の不幸は、普通であることに疑問を子供の頃から持ってしまったことに始まったのだろう、と思ってしまう。そしてこんな人がどうやって自分の人生を生きていきたんだろう。ぐれて、博奕に明け暮れるしかなかったのか。でも本心は寂しがり屋であり、だからいつも人と交わっていたかったに違いない。
 しかし一方でそんな本心を隠すために虚勢を張り続け、生きるためには人を欺く、あるいは張り倒してでも生き延びることもしたであろう。
 そんな仲間に自分を見るようで、それが嫌で、突き放すこともあっただろうし、逆にだからこそ仲間としてやさしくなれたのもよくわかる気がする。
 たった一度疑問を持ってしまったことの不幸を一生背負っていたのが色川さんだったのではないか、と思った。

 ところで父親と張りあっているうちに、父親が老いて、ただ自分の方が若いということだけで、自分が優位に立っていることを自覚したことがそのあと書かれている。それを読んだとき、勝負は別なところでついてしまったことの残酷さを知る。


 父親は、私が生家に戻るたびに確実に老いていた。私はそれまで懸命に父親と張りあって追撃しているつもりだったが、実際は、いつのまにか私の方が、ただ若いというだけでの理由で、生き物として優位にたっているのだった。年齢というものは、マゾヒストの私にも、サディストの父親にも、同じように残酷なもので、愚かな若者が全面的に勝利をおさめてしまう。若者は決して本格的な勝利など望んでいないのに。(吾輩は猫でない)


 そんな父親が亡くなったとき、色川さんは一人部屋に籠もって泣いていた、と色川さんの奥さんはインタビューのなかで明かしている。


色川 武大 著 『友は野末に―九つの短篇』 新潮社(2015/03発売)
by office_kmoto | 2015-07-09 05:59 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

佐伯 一麦 著 『麦主義者の小説論』

d0331556_633494.jpg こういう小説論はどうも苦手である。特に私小説の“あり方”を論ずるところは、佐伯さんが私小説にこだわりを持っているだけに、こと細かかに論じているのは、気持ちとしてわかる。が、個人的には作品のそのものの味わいをずばり書いたものの方が取っつきやすい。
 昔は私小説というのを、なんか個人的事情の曝露みたいなものと感じていて、どろどろしていて嫌だな、と思っていた。だからからりとした物語を感じさせてくれる、あるいは楽しませてくれる作品が気に入っていた。
 しかしよく考えてみると、どんな作品でも作家の日常を反映しない作品はあり得ない。どんな作品も私小説要素を免れぬことは出来ないのではないか。


 小説作品には、いかに異なる域へ押しあげようと、日常の下地が透けてのぞく。これはひとまず作中の日常のことであるが、作者の日頃の、日常感にもつながる。(略)そればかりか、日常より拠んどころなく懸け離れようとすればするほど、日常への無際限な依存が露呈してくる。(古井由吉氏との交点-『招魂としての表現』)


 もう一文。


 いまの私にとっては、書けば書くほど私小説の背理に搦め捕られてしまい、自分で自分を認識するいとなみである私小説というものがわからなくなっていくばかりである。(私小説の背理)


 この二つの文章を読んでいると、南木さんが医師と作家の二足のわらじをはいたあとしばらくして、パニック障害、うつ病になってしまったことを思い出す。
 医師が多くの他者の死を見続けてしまう職業であり、そんな職業についている自分を凝視して小説を書く。それがとんでもないことであり、パニック障害やうつ病になってしまった原因として書いていた。
 この佐伯さんの二つの文章を読んでいると、なるほど、と思える。私小説としてもう一人の自分を書いていくと、佐伯さんの言う通り、「私小説の背理に搦め捕られてしまい」、そしてそんな小説を書くこと自体が「作者の日頃の、日常感」にもなってしまう。こうなってくると、際限がなくなってくる。区切りがはっきりしなくなってくる。そこで精神的「自家中毒」を起こしてしまう。


 少なくとも私にとって、私小説とは、事実の穿鑿よりも、読む度ごとに、その都度その都度更新され、一回限りの相貌を帯びて蘇ってくる文学の謂である。肯定も否定も、そもそも不可能と思われるような己の出自、お里を突きつけるものとして、あるいは、親、そのまた親たちの流動や営為の結果として、己が今この世にあることの不思議さと、それゆえのある充実した感じとしかいいようのないものとして。(私小説という概念-和田芳恵と『暗い流れ』)


 「更新」、この言葉も南木さんよく使っている。思えば「更新」されることで、物語が違う形で生まれてくるのかもしれない。
 作家が小説を書くことは、そこに書かざるを得ない理由があって、小説が生まれるのだから、これは大変なこととなる。ある意味、小説は作家にとって“魔物”なのかもしれない。覚悟が必要となる。


 先ほど書いたように、昔は私小説を敬遠してきたところが私にはあったが、最近はそうでもない。佐伯さんや南木さんの作品を読んでみると、一気に虜となった。こういう私小説は味わいがあっていいものだと思うようになった。たぶん自分も歳を取ってきて、人生の機微に多少同感できるところが出来てきたのではないか、と勝手に思っている。 もしかしたら私小説というのは、ある程度歳を取らないと本当の意味で味わうことができないのかもしれない、と思ったりする。そう考えれば、本を読む楽しみの幅が広がったことにもなる。これからはこうした小説も読んでいきたい。


佐伯 一麦 著 『麦主義者の小説論』 岩波書店(2015/02発売)
by office_kmoto | 2015-07-05 06:05 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

南木 佳士 著 『ふいに吹く風』

d0331556_62062.jpg この本は南木さんがまだパニック障害、うつ病の発症などの記述がないので、芥川賞を受賞した前後に書かれたエッセイを集めたものと思われる。だから初期のころのエッセイに属するのではないだろうか。
 つい最近読んでいた南木さんのエッセイと比べ、まだカドがある。言いまわしに硬さがある。でもその分、自分の気持ちに素直なので、言っていることストレートに受けと取れる。
 南木さんが医師でありながら、何故小説を書いているのか、以前読んだ本にも書かれていたが、ここでにはもう少し分かりやすく書かれている。


 医者になって二、三年経ったころ、死者を看取る仕事に疲れてしまった時期があった。医学部の教育に、病気の治し方の講義は多かったが、死者の看取り方の試験はなかった。診断学と称する多分に経験主義的な学問が、実は治る病気と死に至る病とを鑑別するために存在するのだ、という冷徹な事実も、実地の臨床の場に出てみるまで知らなかった。
 ここで医学教育の不備を責める人は、おそらく小説を書かなくても生きていける人なのである。小さな説を自ら書き記して、それに共感を覚える人間がいることを確認しながら歩みを進めることしかできぬ者は、やはり書かざるを得なかった。(一本の電話から)


 医者になってみると、医学ではどうしようもないことは多すぎるから、文学があり、哲学があり、宗教があるのだと分かった。(涙)


 このように南木さんが感じ得たのは、医者として年に四、五十人の患者の死を看取る生活を続けていたからであり、人生には限りがあり、ふいに吹く風のように消え去るものであること、嫌が上でも突きつけられ、このことが小説を書かせる原動力になっているのではないかと書いている。

 実は時たま、文学などというのは所詮道楽みたいなところがあって、世の中にそれほど役に立たないところがあるのではないか、と思っていたときがある。
 人間が進歩していくためには、科学や技術の進歩が不可欠で、その進歩の恩恵で我々は何とか生きていける。そんなことを思ったことがあり、今でも多少そう思っているところがある。だから文学とか偉そうなことを言わなくても、小説を読むのが唯一の楽しみとしている自分はある意味穀潰しみたな、感覚に陥ることがある。
 理系の人と話していると、その理論展開に、その論理の明快さ、必要性があることを、いやが上にも知らしめる、恐れを感じてしまう時もあった。そこにはそれが絶対に必要なことであり、それを自分たちが担っているという自信を感じさせる。私はそれにたじろいでしまう。
 これまでのように人類が今日まで文学や音楽、あるいは絵画や哲学、そして宗教を捨ててこなかったことこそ、その意味があるんだ、という半ば既成事実を是認することでその存在価値を認めようとした。事実としてそれは確かにそうなのだろうが、これはそれ以上の説明を放棄してきたものと同じように思えてならなかった。
 しかし南木さんのエッセイを読んでいると、人間がわかり得るところはごく一部であり、科学や技術の進歩でも及ぶことのできないものが多くあるから、そこに文学や哲学や宗教の必要性を感じると書かれると、そうなのか、とストンと納得できる。

 不謹慎ながら医師である小説家はその題材に事欠かないだろうと思える。何故なら、病院は人が生きるという根元的なところを目の当たりするわけだから、そこで繰り広げられる人間模様は多種多様であろう。まして死を覚悟しなければならなくなった人、その死を受け入れなければならなくなった家族など、生きるということがどういうことなのか嫌がうえにも突きつけられていく。人の重い一生が凝縮された時間がそこにある。その分自分に跳ね返ってくるものは、他人がそう簡単に手に負えるものではない。


 医者であり、かつ作家であること。見た目には理想的な二足のワラジを履いて歩き始めてみたら、玄関を出たばかりのところに思いがけない落とし穴があった。はまってみて初めて分かる落とし穴が。(医者として書く)


 しかし、いざ書いてみると意外な壁があった。禁句である。医者としての禁句である。患者が私に言い残したひとことの中には、私の創作力などおよびもつかない真実の顔を出すのだが、それは私が医者だから言ったので、作家に言ったことではない。また、患者の苦しんでいる様を作家として克明に描写することは、死者にもう一度その苦しみを味わわせているようで、医者としてできない。(医者として書く)


 結局小説家として南木さんは、医師として厳しい現実を経験した上で、それをとことん濾過した上で、人が生きる根元を突き詰める。突き詰めた結果得たものは、決して難しいことではなく、根元である以上、簡単明瞭なことなのだ、と教えてくれるのが南木文学だと思っている。
 もちろんその濾過の過程の苦しみはとんでもないものとは思うが、その後に描かれる作品はものすごく魅力的なものとなって、私たちに訴えてくる。濾過作用の結果だと思っている。

 ところで南木佳士というのはペンネームで、その由来、南木に関しては以前読んだ本に書いてあった。問題は佳士の「佳」だが、これはケイとは読まない。どうして佳士となったのか「ケイと読まない佳」に書かれていた。それによると南木さんが長男の名前をつけるとき、


 佳という字が好きだった。特に理由はない。なんとなく奥ゆかしそうで、書いたときの坐りも良い。よし、佳だ、ということになった。これは物事を決めるときの私の常態で、いつも気分が先、理由は後から無理やり付いてくる。
 漢和辞典で佳を引くと最初に目についたのが「佳人」であった。これでヨシトと読ませれば決まりだなと思ったが、その下に佳人薄命とあった。いくらなんでも生まれたばかりの子に薄命はまずい。佳人の横には「佳士」があった。立派な身分の武士、という意味は上州の百姓の末裔の名としてはふさわしくなかったが、字のおさまりも良いのでこれに決めた。読みはカシであったが、ケイシと読めないこともないだろうと勝手に決めて役場に届け、受理された。
 この秋から小説を書き始め、自分のペンネームを考えるのが面倒だったので長男に断りもなく「佳士」を借用した。


 それをそのままずっと使っているとのことであった。


 それにしても、息子の名を借用したままの父親なんて・・・・・・。


 と最後に書いている。


 さて最後に次の一文をあげる。


 人が一年の間に自らの血となり肉となる体験を積むその量は、ちょうど木の伸びる長さに比例するそうである。若い木は一年で驚くほど伸び、老木はもはやはた目からはその成長を確認できないようになる。同じ一年という時間なのに、年をとるに従って短く感じられてしまうのは、たとえ新たな体験をしても、それが血となり肉となる前に、いくえにも張り巡らされたふてぶてしい精神的自己防衛にからめとられてしまうからであろう。
 ただ、最も傷つきやすい感性だけはしっかり守られているから、前向きの感性より先に涙が出てしまったりするのである。ああ、一年が短くなったなあ、と感じたときから、人は老い始める。一日の内で過去を振り返る時間が少しずつ、目に見えぬ増殖を開始する。(大晦日)


 私も過去を振り返るまではいかないけれど、思い出すことが多くなってきている。特に本を読んでいて触発され、自分の過去をあれこれ思い出すことが多くなってきた。それを老いというなら、じゃあそれを利用していろんなことを思い出してやろうというのが、実はこのブログの密かな企みでもあるのだが、この本でも思い出したことがあった。それは「人間・深沢七郎-信州佐久にて-」に書かれている、深沢七郎が感心していた病院の連続成分分離輸血装置というやつである。


 私の勤務する病棟に連続成分分離輸血装置という県下で初めて導入されたばかりの夏のことであった。血小板などの血液の成分を遠心分離器で採り出し、残りは供血者に還すこの装置を動かしていた血液学専門の医者の目に、開け放したドアからもの珍しそうにのぞき込んでいる老人の顔が映った。ほおー、というように口を開けていたが、目には異様な好奇の光が宿る見なれない老人だった。


 「珍しそうにのぞき込んでいる老人」が深沢七郎なのだが、実は30年ほど前に、私は従姉妹に血小板だけを輸血するために、この装置に寝かされ繋がれたことがある。
 従姉妹は再生不良貧血症であった。両親は同じ血液型であったが、叔父は肝炎であったし、叔母は貧血だったので、自分たちの血を輸血することが出来なかった。私は何度か彼女のために献血したが、この装置に繋がれ、自分の血が機械を通ってまた自分の身体に戻ってるのをチューブ見ながら不思議な感じでいた。記憶ではものすごく時間がかかった思いがある。
 従姉妹は頭の良い可愛い小学生であったが、東大病院の古めかしく薄暗い、確か廊下が木だった小児科病棟で、ホルモン治療のため、顔にひげが生え、毛深くなって死んでいった。


南木 佳士 著 『ふいに吹く風』 文藝春秋(1991/02発売)
by office_kmoto | 2015-07-02 06:21 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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