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 『志賀直哉小説選』 〈2〉

d0331556_820128.jpg この巻には有名な「城の崎にて」も収録されている。主人公が「山の手線の電車に跳ね飛ばされて怪我をした、其後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた」と始まる。
 ここには三つの「死」が生き残った自分と対比されている。その「死」が生との対比で、生々しく描かれる。
 ある朝玄関の屋根に一匹の蜂が死んでいるのを眼にする。その蜂の死骸の描写が生と対比されることで鋭く浮かび上がってくる。


 足を腹の下にぴつたりとつけ、觸角はだらしなく顔へたれ下がつてゐた。他の蜂は一向に冷淡だつた。巣の出入りに忙しくその傍を這ひまわるが全く拘泥する様子はなかつた。忙しく立働いてゐる蜂は如何にも生きてゐる物といふ感じを與へた。その傍に一疋、朝も晝も夕も、見る度に一つ所に全く動かず俯向き轉つてゐるのを見ると、それが又如何にも死んだものといふ感じを與へるのだ。


 その後雨が降って流されてしまっただろうその死骸の姿を想像が、いかにも蜂の死骸がそうだろうな、と思わせるほどリアルである。

 そして多分捉えられたネズミだと思うが首に金串さされて、川にそのまま捨てられ、何とか這い上がろうとする姿を目撃する。必死に川を這い上がろうとするネズミは首に刺された金串がじゃまをして、這い上がってもすぐ川に落ちてしまう。主人公は何度もそれを繰り返すネズミの姿を見るに堪えなくなりそこを去る。


 鼠が殺されまいと、死ぬに極つた運命を擔ひながら、全力を盡して逃げ廻つてゐる様子が妙に頭についた。自分は淋しい嫌な気持になつた。あれが本統なのだと思つた。自分が希つてゐる静かさの前に、ああいふ苦しみのある事は恐ろしい事だ。死後の静寂に親しみを持つにしろ、死に到達するまでのああいふ動騒は恐ろしいと思つた。

 今自分にあの鼠のやうな事が起つたら自分はどうするだらう。自分は矢張り鼠と同じやうな努力をしまいか。


 そう、主人公は電車にはねられ病院を探し、そしてこの温泉に療養に来ていることこそが死から逃れようとしているネズミと同じであった。
 そして有名な蠑螈(いもり)の場面だ。


 自分は蠑螈を驚かして水へ入れようと思つた。不器用にからだを振りながら歩く形が想はれた。自分は踞んだまま、傍の小鞠程の石を取上げ、それを投げてやつた。自分は別に蠑螈を狙はなかつた。狙つても迚もあたる當らない程、狙つて投げる事の下手な自分はそれが當る事など全く考へなかつた。石はこツといつてから流れに落ちた。石の音と同時に蠑螈は四寸程横へ跳んだやうに見えた。蠑螈は尻尾を反らし、高く上げた。自分はどうしたのかしら、と思つて見てゐた。最初石が當つたとは思はなかつた。蠑螈の反らした尾が自然に静かに下りて来た。すると肘を張つたやうにして傾斜に堪へて、前へついてゐた兩の前足の指が内へまくれ込むと、蠑螈は力なく前へのめつて了つた。尾は全く石についた。もう動かない。蠑螈は死んで了つた。自分は飛んだ事をしたと思つた。蟲を殺す事はよくする自分であるが、其氣が全くないのに殺して了つたのは自分に妙な嫌な氣をさした。素より自分の仕や事ではあつたが如何にも偶然だつた。蠑螈にとつては全くの不意な死であつた。


 こうして読み返してみると、これ実際作者が行った行為だったのだろう、と思う。あまりにも描写がリアル過ぎる。観察が行き届きすぎている。
 そして自分が生き、他が死ぬことを思うと、そうした現実を感謝するものの「生きて居る事と死んで了つてゐる事と、それは兩極ではなかつた。それ程に差はないような気がした」と書く。南木佳士さんが言う「ふいに吹く風」でどうなるかわからない、ということだ。

 もう一編「和解」のことを書く。
 主人公の順吉は父親に自分の結婚を反対され、以来父親との確執が始まった。父が主人公の家を訪ねる場面があるが。順吉は来てくれるなと父親に手紙を書いてしまう。
 女の子が生まれ、祖母や父親が会いたいというので、麻布の実家に生後間もなく連れていく。父たちが孫に会いたいという気持ちは当然だが、子供を通して順吉と父親の和解を図ろうとし、その後子供に急変が起こり死んでしまったので、順吉は自分の子供が死んだのは父親のせいだと思ってしまう。


 自分にはかういう考があつた。若し皆に父と自分との関係に赤兒を利用する氣がなかつたら、赤兒は死なずに済んだのだ。素より自分が氣が進まないのを折れて赤兒の東京行きを承知した事は悔いても悔いても足りない氣がしたが、今はもう仕方がなかつた。


 しかしそうした父への反感は、第二子の誕生で和らいでいく。


 少しづつ調和的な気分になりつつある自分には實際の生活で、其儘に信じていい事を愚さから疑つて、起さなくてもいい悲劇を幾らも起してゐるのは不愉快な事だと云ふ考があつた。そしてそれは必ずしも他人に就いての考へでないのは勿論の事だつた。


 こうして「自分の調和的な氣分は父との関係にも少しづつ働きかけて行つた」のである。「段々年寄つて行く父の不幸な氣分に心から同情を持つ事もあつた」から父との和解はあくまでも自分が父が可哀想だという思いから行動したまでだという考えであった。 直接父親と話をしていても、順吉は自分がしたことを悪いとも思わなかったし、あくまでも過去のことして片づけようとした。このあたりはかなりの頑固である。和解は将来に向かってしようという姿勢を崩さない。そして折れたのは父親であった。父親としてはそうするしかなかったのである。
 この本の解説にはそこの二人の心情をうまく解説していて、なるほどこの小説はこうして読むものか、と思った。


 息子が傲慢だということではない。いままで両者の関係の経緯を見れば、たとえ心の余裕や自信ができてきたとはいっても息子はいざとなればなかなか素直にはなれず、ぎこちなくなる。そういう意味でもことの解決のバトンは年長者にわたされたのであり、年長者は、若き者に解決の道をつけてやる。そこには年長の者の義務としての行動もある。


 この巻の中短篇小説ではこの二つが私には際立っていて、他に面白いな、と思うのは「流行感冒」と「轉生」をあげる。そして最後に「痴情」にある女の表現しかたをあげる。


 女には彼の妻では疾の昔失はれた新鮮な果物の味があつた。それは子供の息吹と同じ匂ひのする息吹があつた。北國の海で捕れる蟹の鋏の中の肉があつた。


 志賀直哉のが言っているこの「蟹の鋏の中の肉」の味がする女ってどんな女だと、開高健さんが北陸の宿に泊まって探し求める話があった。開高さんが参考した志賀直哉の文章はこれだったのかな、と思った。ただ後で調べてみたらそれは「暗夜行路」にある一文だと分かり違うことがわかった。この小説選の最終巻が「暗夜行路」なので楽しみである。


『志賀直哉小説選』 〈2〉岩波書店(1987/04発売)
by office_kmoto | 2015-09-29 08:21 | 本を思う | Comments(0)

南木 佳士 著 『臆病な医者』

d0331556_5381524.jpg 人は他者の死を見られる限度がある。限度以上それを見てしまうと、それが自分に及んでしまうのではないか、と思った。


 人が一生の間に見るべき他者の死の数には限りがあり、それ以上見てしまうとなんだか大変なことになりそうだとの予感はあった。(信州における定点観測)


 我々が他者を看とる場合、家族、親族である。時に親しくしていた知人や友人が加わるかもしれないが、そこまでである。つまりそれが他者の死を看取れる限度であるということになる。何故なら彼らの死は、失ったことをとことん突きつけてくるからだ。


 人は自分とより多く、より密度の濃い思い出を共有した者を失うとき、より深く悲しむのだ。(信州における定点観測)


 だから死を受け入れることができない。あるいは見ることができないようになっている気がしてしまう。悲しみを受け止める容量がオーバーしてしまい、自分ではどうにもできなくなるような気がする。
 その点、医者という職業は我々一般人が経験できない数多くの死を見つめることで、死というもののとらえ方が違うのではないか、と思ったりする。
 が、結局行き着くところは、「そうだろうな」というところであった。


 医者になって二十年、末期の肺癌患者さんばかりを診てきたので、人はいつどのように死ぬのか分からない。死はあたかもふいに吹く風のように、いつでも、誰にでも吹いてくるのだと確信するようになった。(信州における定点観測)


 さらにローマ皇帝のマルクス・アウレーリウスの死生観を引用して次のように言う。


 死は生きている現在からみれば未来の出来事である。そして、未来とは現在頭の中で考えているだけのものであって、誰も明日の、あるいは一時間後の私の生存を保証してはくれない。
 過去も、現在思い出さないかぎりは存在しないもので、実体として所有できはしない。要するに、人がかろうじて持てるのはいま生きているこの瞬間だけなのだ。
 だとしたら、死ぬとき失うものはその瞬間のみ。未来を考える現在が失われるのだから、当然、死後の世界を想像する必要もなくなる。(信州における定点観測)


 こう書かれると、今現在の生き方を否定するようなストイックな生き方を肯定するように思えてくるけれど、そうではない。理想や欲望をかなえるために生きることはある程度の年齢までは、そうあるべきで、ただそれをいつまでも持ち続けていられるかと言えば、それは無理な話で、いつか挫折が来る。


 理想を求めるのは一種の欲望である。そして、並の感性さえ備えていれば、欲望は失望でしかかなえられないことを大人になる過程で知るはずではないか。(信州における定点観測)


 そしてどうにもならない、“老い”と“死”がこれまでの生き方を変えていく。時にはこれまでの生き方を否定してしまう。でもその否定は最後は穏やかに生きるためのものではないか、と思いたいところが私にはある。
 そんなことを自らの経験から、あるいは医師として患者さんを通して教えてくれる南木さんの文章に惹かれるのである。おそらく若い頃に南木さんの文章にふれることがあったなら、きっと理解できなかったのではないか、と思っている。
 私は六十手前で人生最大の挫折を味わい、これまでの生き方に疑問を持つことになってみて初めて、南木さんの書かれる文章に味わいを感じている。まさしくこの通りだな、と思える文章にふれると安心できるのだ。


 五十の声を聞くと堪え性がなくなり、隠し続けていたが故に内部で増殖してしまった反乱の虫を抑え切れなくなるようだ。この虫を解放できなかった者は私のように病気になるしかないのである。(還り路の視野)


 なんのことはない、人生の登り道で懸命に羽織ってきた知識だのといった見せかけの衣装が峠の突風で剥ぎ取られ、山村の畑の端で風を怖れて泣いていた子供にもどって坂を下る覚悟を迫られたのである。(還り路の視野)


 もとより人生の峠はすでに越え、つまずかないように足元ばかり注視して坂を下っているので、ふり向いたところでなにが見えるわけでもない。(淀川長治と広末涼子)


南木 佳士 著 『臆病な医者』 朝日新聞出版(1999/12発売)
by office_kmoto | 2015-09-24 05:39 | 本を思う | Comments(0)

村上 春樹 著 『職業としての小説家』

d0331556_5373483.jpg この本のあとがきに次のようにある。


 本書は結果的に「自伝的エッセイ」という扱いを受けることになりそうだが、もともとそうなることを意識して書いたわけではない。僕としては、自分が小説家としてどのような道を、どのような思いをもってこれまで歩んできたかを、できるだけ具象的に、実際的に書き留めておきたいと思っただけだ。


 ということでこの本は村上春樹という小説家が、小説家とはどんな人物で、どのように小説を書いてきたか。そして小説家として世間の評価をどう考えてきたかを書いている。
 第一回の「小説家は寛容な人種なのか」では、村上さんが小説家というのはどういう種類の人間なのかを村上さん流に定義する。そこには「小説家は円満な人格と公正な視野を持ち合わせているとは言いがたい人々」で、「そしてたいていの作家は『自分がやっていること、書いているものがいちばん正しい。特別な例外をは別として、外の作家は多かれ少なかれみな間違っている』と考え、そのような考えに従って日々の生活を送っている。だから友人や隣人として持ちたいと望む人は少ないのではないか、と言っている。
 しかし小説家という職業領域における排他性に関しては、小説家ほど広い心を持ち、寛容さを発揮する人種はいないと言っている。
 普通専門外の人間が手を出してくると、その分野の人々から良い顔をされない。素人が何をやろうとしているんだ、と非難され排除される。しかし小説家は専門外の人間が小説を書いても鷹揚であり、寛容だ。小説は才能の有無は確かに左右するけれど、書こうと思えば訓練しなくても、誰でも書くことが出来る。事実村上さんがある日、ヤクルトの野球の試合を見ていて、小説を書いてみようと思い書き始めた。そしてそれが文芸誌の新人賞を取ってしまったほどなのだからと言う。
 だからといって文学を軽く扱っているわけではない。ここ言うのはそれだけ小説は間口のとても広い表現形態であり、小説の持つ素朴で偉大なエネルギーの源泉の一部となっていることを言っているのである。
 ただ小説家として長く留まり続けるのは簡単ではない。何か特別なもの、例えば才能や気概、運や巡り合わせも必要になる。小説家として留まり続けるにはそれを含めたある種の「資格」が求められる。

 小説家はあまり頭の切れる人には向かない。なぜなら小説家は自分の意識の中にあるものを「物語」という形に置き換えて表現する。しかし頭の切れる人なら、わざわざ物語に置き換えなくてもストレートに言語化して話した方が遙かに早いし一般にも理解されやすい。知識の豊富な人であれば、わざわざ物語というファジーな「容れ物」を持ち出さずに、手持ちの知識をうまく組み合わせて言語化すればいい。それくらい小説は手間のかかる回りくどい作業なのだ。だから異業種から来た頭のいい人や知識のある人が小説を書いて「これならほかのことをやった方が効率がいいじゃないか」と言って去って行く。こういう人は長期間にわたって小説を書き続ける必要性を感じない。それを小説家は知っているから、異業種から小説に参加しても鷹揚でいられるのである。


 「小説家とは、不必要なことをあえて必要とする人種」


 小説家の資格とは小説という回りくどく、手間のかかるヴィークル(乗り物)に乗って、書き続けられる職業人のことを言うのだ。だから第七回の「どこまでも個人的でフィジカルな営み」で、それを忠実に誠実に言語化するために必要とされるのは、寡黙な集中力であり、くじけることのない持続力であり、あるポイントまでは堅固に制度化された意識だ。そのためにそのような資質を維持するために必要な身体力が要求される、と考え、村上さんは体力維持にいつも努めている。

 第三回の「文学賞について」は一番興味深かった。毎年秋になると村上さんのノーベル文学賞受賞なるか、と話題になる。それとは別にいつもノーベル文学賞の対象となる村上さんが芥川賞を受賞していないことが、日本の芥川賞ってどうなのよ?と思わせるところが生じてしまう。日本で芥川賞を受賞していない作家がノーベル文学賞の候補に度々挙げられるわけだから、芥川賞の価値というか、意味あいにそんなに価値を見出すほどのものではない感じを与えてしまう。
 つい最近太宰治が当時芥川賞選考委員だった佐藤春夫に自分が受賞できるよう懇願する手紙が新たに見つかったのが話題になった。太宰が芥川賞を強く望んだことは有名な話だが、今回の手紙はその懇願があまりにもあからさまで驚いてしまう。太宰は「芥川賞は、この一年、私を引きずり廻(まわ)し、私の生活のほとんど全部を覆つてしまひました」と切り出し、「第二回の芥川賞は、私に下さいまするやう、伏して懇願申しあげます。私は、きつと、佳(よ)い作家に成れます。御恩は忘却いたしませぬ」と畳みかけるように頼んでいる。
 そんな芥川賞に対して村上さんは次のように言う。


 芥川賞に「魔力がある」のかどうか僕はよく知らないし、「権威がある」かどうかも知らないし、またそういうことを意識したこともありませんでした。これまでに誰がこの賞を取って、誰が取っていないのか、それもよく知りません。昔から興味があまりなかったし、今でも同じくらい(というか、ますます)ありません。


 一方で村上さんは『風の歌を聴け』で「群像」の新人賞を受賞している。そのことは素直に喜んでいる。


 『風の歌を聴け』という作品が文芸誌「群像」の新人賞に選ばれたときは本当に素直に嬉しかった。それは広く世界中に向かって断言できます。僕の人生におけるまさに画期的な出来事でした。というのは、その賞が作家としての「入場券」になったからです。入場券があるのとないのとでは、話がまったく違ってきます。目の前の門が開いたわけですから、そしてその入場券一枚さえあれば、あとのことはなんとでもなるだろうと僕は考えていました。芥川賞がどうこうなんて、その時点では考える余裕さえありませんでした。


 だから入場券としてはそれなりに有効だけど、これくらいのレベルのもので「群像」新人賞に続いて芥川賞までもらってしまうと、逆に余分な荷物を背負い込むことになるかもしれない、という気がしたのです。


 これを読むと村上さんらしいな、と思ってしまう。第二回の「小説家になった頃」で村上さんは次のように言っている。


 僕が長い歳月にわたっていちばん大事にしてきたのは(そして今でも大事にしているのは)、「自分は何かしらの特別な力によって、小説を書くチャンスを与えられたのだ」という率直な認識です。そして僕はなんとかそのチャンスをつかまえ、また少なからぬ幸運にも恵まれ、このように小説家になることができました。あくまで結果的ではありますが、僕にはそういう「資格」が、誰からかはわからないけれど、与えられたわけです。僕としてはそのようなものごとの有り様に、ただ素直に感謝したい。そして自分に与えられた資格を-ちょうど傷ついた鳩を守るように-大事に守り、こうして今でも小説を書き続けていられることをとりあえず喜びたい。あとのことはあとのことです。


 もともと権威主義に反感を持つ村上さんだから、芥川賞に関しても冷めた目で見ている。


 いずれにせよ、長く小説家をやっている人間として、実感として言わせてもらえば、新人レベルの作家の書いたものの中から真に刮目すべき作品が出ることは、だいたい五年に一度くらいのものじゃないでしょうか。少し甘めに水準を設定して二、三年に一度というところでしょう。なのにそれを年に二度も選出しようとするわけだから、どうしても水増し気味になります。もちろんそれはそれでぜんぜんかまわないんだけど(賞というのは多かれ少なかれ励ましというか、ご祝儀のようなものだし、間口を広げるのは悪いことではないから)、でも客観的に見て、そんなに毎回マスコミあげて社会行事のように大騒ぎするレベルのものなのだろうかと思ってしまいます。


 村上さんは何らかの形で本を読み続ける人は総人口の5%ぐらいじゃないか。残りの95%人たちは文学と正面から向き合う機会が日常的に多くない人たちだろう、と推測している。そして「活字離れ」はますます進行していくけれどそのうちの半分くらいは、社会文化の事象として、あるいは知的娯楽として文学に興味があり、機会があれば本を手に取ってみよう考えているのではないか。選挙で言えば「浮動票」だ。だからその人たちのために、なんらかの窓口が必要で、芥川賞はそのショールームをつとめているのではないか。
 確かにそうかもしれない。例えば今回の又吉さんの作品でも、彼がお笑い芸人だったから話題になった。(作品は素晴らしかったと私は思うが)もし彼が普通の一般人だったら、果たして200万部以上も本が売れたかどうか疑わしい。実際もう一人の作家さんは誰なのか、名前さえ浮かばない。
 でもこんなにマスコミが騒いでくれるわけだから、芥川賞を受賞すれば、作家として生活基盤は築けることも事実なのだろう。
 いずれにせよ、悲しいかな、村上さんがこのように芥川賞について言えば言うほど、芥川賞に“物言い”が着いてしまう。それほど村上春樹という作家に「権威」がついてしまったのだ。言わなければならなかったからこうして言っているのだろうけど、もうこれ以上言わない方がいいように思えた。

 第五回は「オリジナリティーについて」である。

 村上さんが特定の表現者を「オリジナルである」と呼ぶための基本的条件をあげる。

(1)ほかの表現者とは明らかに異なる、独自のスタイル(サウンドなり文体なりフォルムなり色彩なり)を有している。ちょっと見れば(聴けば)その人の表現だと(おおむね)瞬時に理解できなくてはならない。

(2)そのスタイルを、自らの力でヴァージョン・アップできなくてはならない。時間の経過とともにスタイルは成長していく。いつまでも同じ場所に留まっていることはできない。そういう自発的・内在的な自己革新力を有している。

(3)その独自のスタイルは時間の経過とともにスタンダード化し、人々のサイキに吸収され、価値判断基準の一部として取り込まれていかなければならない。あるいは後世の表現者の豊かな引用源とならなくてはならない。

(2)と(3)に関して言えばその作品がオリジナルかどうかは「時間の経過」が重要で、「時間の検証を受けなくては正確には判断できない」わけで、そうでなければただの「一発屋」で終わってしまう。だからそのスタイルの質がどうこう言う前にある程度かさが必要で、実例を残さなければ、その表現者のオリジナリティーが立体的に浮かび上がってこない。だから表現者は自分の作品を一つでも多く積みあげてなければならなくなる。
 その上で村上さんが考えるオリジナリティーとは、自由でナチュラルな感覚で自由な心持ちを、その制約を持たない喜びを、多くの人々にできるだけ生のまま伝えたいという自然な欲求、衝動のもたらす結果的なかたちに他ならないとする。

 第八回「学校について」。どうしてここで学校について書かれるのだろうと思っていたが、読んでみると、村上さんは読書という行為によって学校以上に学んだことがあると書きたかったようである。


 僕は自分の好きなこと、興味のあることについては、身を入れてとことん突き詰めていく性格です。中途半端なところで「まあ、いいか」と止まってしまったりしません。自分の納得のいくところまでやる。しかし興味がもてないことは、それほど身を入れてやらない。というか、身を入れようという気持ちにどうしてもなれないのです。そのへんの見切りのつけ方は昔からずいぶんはっきりとしています。「これやりなさい」とよそから(とくに上から)命じられたことに関しては、どうしてもおざなりにしかできないのです。


 村上さんは学校という「制度」があまり好きになれなかった。学校生活を終えた時点で、「人生でもうこれ以上の退屈さは必要ないんじゃないか」と思えるくらい退屈だった、と言っている。
 それに対して本を読んできたことが、いかに自分にとって意味のあったことかをここで書いている。読書という行為は村上さんにとって自分にカスタムメイドされた学校であったと言い切っている。しちめんどくさい規則もないし、数字による評価もない、激しい順位争いもない。そこで自分自身を確保出来たという。それはどうしてか、次のように言う。


 いろいろな種類の本を読み漁ったことによって、視野がある程度ナチュラルに「相対化」されていったことも、十代の僕にとって大きな意味あいを持っていたと思います。本の中に描かれた様々な感情をほとんど自分のものとして体験し、イマジネーションの中で時間や空間を自由に行き来し、様々な言葉を自分の身体に通過させたことによって、僕の視点は多かれ少なかれ複合的になっていったということです。


 それが良かった。村上さんは身のまわりにある矛盾や欺瞞など、納得のいかないことを正面から追求していったら、袋小路に追い込まれきつい思いをしたはずで、世界がぐずぐずと煮詰まり、フットワークが重くなり、うまく身動きがとれなかっただろう。でも読書体験から得た複合的な視点から自分の立ち位置を眺めることが出来るようになっていたので、世界はより立体性と柔軟性を帯びた。だから、


 これは人がこの世界で生きていく上で、とても大事な意味を持つ姿勢であるはずだと、僕は考えています。読書を通してそれを学びとれたことは、僕にとって大きな収穫でした。
 ここから村上さんは想像力の大切さを言う。


 どんな時代に合っても、どんな世の中にあっても、想像力というものは大事な意味を持ちます。
 想像力の対局にあるもののひとつが「効率」です。数万人に及ぶ福島の人々を故郷の地から追い立てたのも、元を正せばその「効率」です。「原子力発電は効率の良いエネルギーであり、故に善である」という発想が、その発想からでっちあげられた「安全神話」という虚構が、このような悲劇的な状況を、回復のきかない惨事を、この国にもたらしたのです。それはまさに我々の想像力の敗北であった、と言っていいかもしれません。今からでも遅くはありません。我々はそのような「効率」という、短絡した危険な価値観に対抗できる、自由な思考と発想の軸を、個人の中に打ち立てなくてはなりません。

 村上さんは読書体験から想像力を養っていけた。だから学校に効率や数値で表された結果だけを重視することで、「想像力を持っている子供たちの想像力を圧殺してくれるな」ということを望むと言う。


 第十一回「海外へ出て行く。新しいフロンティア」も興味深かった。村上さんが海外で評価されているのは、単に村上さんの作品が海外で受け入れやすい、日本人でなければわからないドグマにとらわれない作風にあるからだと思っていたが、この章を読んで、そうではなく、村上さんが積極的に海外に打って出たことにあるとを知った。村上さん自ら自分のの作品を翻訳してくれる人、エージェント、出版社探しに苦労されたことが書かれている。地道に海外の活動拠点を自ら作り上げて行ったことが、海外で村上さんの作品が読まれているのだ。
 ではなぜ村上さんは世界に打って出ていくのか。


 好景気に沸く日本に留まっていれば、『ノルウェの森』を書いたベストセラー作家(と自分で言うのもなんですが)として、仕事の依頼は次々にありますし、その気になれば高い収入を得ることもむずかしくありません。でも僕としてはそういう環境を離れ、自分が一介の(ほとんど)無名の作家として新参者として、日本以外のマーケットでどれだけ通用するのかを確かめてみたかった。それが僕にとっての個人的なテーマになり目標になりました。そして今にして思えば、そういう目標をいわば旗印として掲げられたのは、僕にとって善きことであったと思います。新しいフロンティアに挑もうという意欲を常に持ち続ける-それは創作に携わる人間にとって重要なことだからです。ひとつのポジション、ひとつの場所(比喩的な意味での場所です)に安住していては、創作意欲の鮮度は減衰し、やがては失われます。僕はちょうど良い時に良い目標、健全な野心を手にすることができたということになるかもしれません。


 この本を読んで村上さんだったら言うだろうな、ということと、なるほどこういうことだったんだ、改めて知ったことは、ファンとして面白かった。


村上 春樹 著 『職業としての小説家』 スイッチ・パブリッシング(2015/09発売) Switch library
by office_kmoto | 2015-09-21 05:38 | 本を思う | Comments(1)

佐伯 一麦 著 『川筋物語』

d0331556_10405550.jpg  この本は佐伯さんが住んでいる仙台周辺の川を訪れ、その川にまつわる自分の記憶を、ときに紀行文的に、ときに小説にして書いた本だ。ただそのスタイルが急に変わるので、とまどってしまうところがあった。
 気になる文章がある。


 普段に我々が食している果実は、生まれながらにして氏素性を問われ、幼少にして厳しく選別され、過保護もよいところの育ち方をした面々なのだ。我々人間のように、育ち損ねなど、とうてい人前に出せるものではない。


 サラダのトマトを食べている時いつも思うのだが、昔のトマトはこんなに甘くなかった。もっと青くさくかった。今のトマトは果実である。フルーツトマトというのもあるくらいだから、なんか変なことになっている。
 高校三年の時、早くから大学が決まってしまい、時間を持て余した私は、果物屋でアルバイトをしていたことがある。隣は野菜ばかり売っている店で、そこの店主に何故か好かれ、トマトをごちそうになったことが記憶にある。
 そのトマトは野性味たっぷりで、多少歪で青くさいトマトであったけれど、いかにもトマトといえるトマトであった。口いっぱい頬張ると汁がこぼれ落ちる。氏素性ははっきりしているのだろうが、決して過保護に育てられたトマトではないと思う。個性が強かった。でもあのトマトはうまかったなあ、と今でもトマトを口にする度に思うのである。

 もう一つ。


 あの頃の体感が残っているせいだろうか。今でも体調がすぐれないとき、発熱の予感があるときには、必ずといってよいほど歯が欠け落ちる夢をみるのは。弛んだ歯茎から一本抜けては、また一本と呆気なく抜け落ちる。そして茫然と、抜けた歯を手に取って見遣っている。取り返しの付かないことになってしまった、という後悔も萌している。目覚めた後も嫌な感じがつきまとう悪夢だ。低気圧が近付いて水気を多く含んだドカ雪が降った一昨日の夜も、その夢に魘された。


 同じ夢を何度か見たことがある。私は母親の遺伝を強く引いているようで、母と同じように歯が弱い。
 実際前歯が一本抜け落ちたときのショックは隠せないものがあり、気がつけば下の奥歯は両方ない状態になっている。それこそ神経質なくらい歯磨きをしているのにどうしてなんだ、といつも思っているものだから、それがトラウマとなり夢に出てくる。その時は寝汗でじっとりとしてして最悪である。だからこの文章を読んだとき、久しぶりにゾッとした。

 ところでこの本の物語に「閖上」というのがある。東日本大震災で甚大な被害を受けた地域である。あの頃、この「閖上」という文字を目にしたときなんて読むのだろうと思った。
 この本によると、ゆりあげの「閖」は仙台藩専売の国字で、普通の漢和辞典にはまずお目にかからない文字だそうだ。
 この地域は名取川河口で、昔「名取の浦」と呼ばれていた。その海岸に十一面観音像が波にゆり上げられたので「ゆりあげ浜」と呼ばれるようになったという。
 仙台藩四代藩主綱村がこの浜を見て何というところかと尋ね、「ゆりあげ浜」と近侍が答える。綱村はどう書くのかと重ねて問うと、近侍は「文字はありません」と答えたので、綱村は「門の内から水が見えた故に、今後門の中に水を書いて閖上と呼ぶように」と言ったという。以来ここを「閖上」というらしい。

 さて、この本にはそれぞれの川の風景写真があるのだが、その写真の場所がローマ字表記になっている。これを読むのが面倒であった。どこの風景写真なのだろうか、と目をこらして読むのだが、文字が小さいので読みづらい。なんでわざわざローマ字表記にしなければならないのか、よくわからない。それこそ見てくれを良くするためか、と思うが、不親切である。せっかくの写真も、その文字を見る度苛立っていく。でも雪の下から芽が出ているカタクリの写真は良かった。


佐伯 一麦 著 『川筋物語』 朝日新聞出版(1999/01発売)
by office_kmoto | 2015-09-17 10:42 | 本を思う | Comments(0)

平成27年9月日録(上旬)

9月1日 火曜日

 雨。

 午前中、築地のがんセンター行く。退院の手続きを手伝うためだ。とりあえずここでの治療は終わった。後は自宅療養となる。もしここに戻ることとなれば、もう命の保障はないかもしれない。
 病室から出て、エレベーターを待っている間、一人の男性に声をかけられる。「退院ですか?」と。男性は私が入院患者で、退院すると勘違いしているようだった。
 普通なら退院となれば喜ばしいことなのだろうけど、ここの場合、素直に喜べない。病気が完全に治って退院するのではないからだ。むしろ残りの時間を家に帰って過ごすために家に帰るのだ。
 私はその男性に「ええ、一応・・・」と答える。男性は私のその答えが意味することをわかっているようで、素直に笑えない笑いを返した。この病院は何もかも普通の常識で通らないものに満ちあふれている。

 午後から墓参りをする。今日は義父の祥月命日である。雨が小降りになった頃を見計らって出かける。雨は一時的止んだいた。
 雨が降り続く天気が続いているので部屋も湿気がある。仏壇から流れる線香の香りが重く漂う感じがする。なんかそれが命日にふさわしく思えた。
 まだ雨が降り出す気配がないので図書館へ予約していた本を借りに行く。


9月2日 水曜日

 くもりのちはれ。

 ここのところの天気はくもりの記述となっている日が多いが、一日中くもりではない。急に雨が降ったり、日が出たりして、ここはなんて書けばいいのか悩む。いったいいつまでこんなぐずついた天気が続くんだろうか?

 佐伯一麦さんの『月を見あげて』の第3集を読む。


9月5日 土曜日

 くもり。

 天気予報では今日は久しぶりに晴れる、と言っていたのだが、結局日はあまり差さなかった。晴れれば久しぶりに蒲団でも干そうかなあ、と思っていたのだが。お預けとなった。
 
 スヴァンテ・ペーボの『ネアンデルタール人は私たちと交配した』 を読んだ。実は私はネアンデルタール人に非常に興味を持っている。(なんで?)だからこの本は面白かった。

 佐伯さんの本で紹介されていた本が届いたというメールが図書館からある。毎度思うのだが、このシステム有り難い。近所にある図書館はそれほど蔵書がないので、そこの棚から本を借りるということはあまりない。だけどネットで江戸川区にある図書館の蔵書が検索でき、区内の図書館に本があれば、近所の図書館まで配送してくれる。届けばこうしてメールが届く。
 私が借る本を誰かが近所の図書館まで配送してくれているのである。ある図書館にある本をその図書館の職員が棚から探し出し、カートか何かに入れて運んでくれているのだろう。そんなことを思うと、届いた本をちゃんと読まないといけないな、という気持ちにさせる。
 明日でも借りに行こうかな。


9月7日 月曜日

 雨。

 退院して今日が初めての病院なので、付き添う。手続きなど確認してから、私は帰った。結局この日は一日がかりだったそうだ。
 この後、妻と錦糸町で待ち合わせて、食事をする。今日は私の59歳の誕生日だ。
 今日も天気が悪く、錦糸町の駅近くから見えるスカイツリーがてっぺんだけ雲から出ていたり、あるいはてっぺんが見えなくなったりしていた。


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 時間つぶしのため、駅近くにあるブックオフに寄る。高山文彦さんの中上健次さんの評伝『エレクトラ』の単行本が200円であるのを見つける。
 この本以前図書館で借りて読んだ。いい本で手元に置いておきたいと思った本で、実は古本屋を歩くとき探していた。一度見たことがあるのだが、状態が悪い上に、売値も高かったので辞めた経緯がある。今回美本でしかも安い。これは買いだな、と思って購入した。
 図書館で本を借りて、読んでいていい本だなあ、と思い、出来れば手元に置いてまた読んでみたいな、と思う本がいくつかある。だから結構改めて古本で買っている。
 村上春樹さんが言っていた「いちばん望ましいのは、図書館で借りて読んだけど、やっぱり自分の手元におきたいので、書店で買い直した、というケースですね。僕としてもそういう本を書きたいです」というものである。今それをやっている。

 夜、娘からLINEでが孫の様子を動画で送ってくれる。私の誕生日に私の絵を描いている様子がそこにあった。その後電話があり、「ハッピーバースデー」を歌ってくれた。
 弟からもメールがあった。ここのところ弟とよく話すし、メールのやりとりもする。誕生日を祝ってくれていた。
 私は返事に自分が亡くなった母親と同じ年齢になり、これからは母親より長く生きていくことが不思議だ、と書いたらまたメールが来る。そこには母親は死ぬのが早過ぎた、と書かれ、母親が過ごせなかった時間を息子二人が過ごすことが一番の親孝行かもしれない、と書かれていた。
 確かに母親は早く死にすぎた。私は自分が59になる前から、母が死んだ年齢である59という年齢に深い思いがあった。母親の人生は59で終わり、私はそれよりも、どれだけ長いのかわからないが、母の年齢を超えた人生を過ごすことになる。それが不思議でならない。
 親はいつも自分より歳が上であった。当たり前である。だけど親が早く人生を終えてしまったら、息子はその年齢より上に行ってしまう。それが私である。
 生きた年数が長ければいいというわけでもないが、まあ、弟が言うように自分が母親より長く生きることが親孝行というなら、少しだけ母親より長く生きてみようか、とも思う。


9月8日 火曜日

 雨。

 今日も雨。秋雨前線が日本列島に停滞しているところへ、台風が二つも来ていて、さらに前線を刺激しているらしい。台風の一つはは明日紀伊半島付近へ上陸するようだ。そうなると雨は明日の方が強く降るという予報である。だから今日、昼前に月に一回の病院へ行き、薬局で薬をもらってくる。
 この病院に月に一回来るときは、その先にあるイトーヨーカドーへ寄る。ときには隣にあるシマホにも寄ることもある。今日はヨーカドーへ行く。雨の平日だから駐車場は空いているだろうと思っていたら、以外に混んでいた。今日はハッピー・デイであった。
 まずは腹が減ったのでヨーカドー内にある珈琲館でミックスサンドとアメリカンを夫婦揃って注文する。昨日ガッツリ食べているので今日は軽めにしたいのでこれでちょうどいい。
 その後店内で買い物をする。妻が昨日誕生日だったので何か買ってくれると言う。それでかねてから欲しかったトートバッグを買ってもらう。
 私はこれまでショルダー式ビジネスバッグしか使ったことがない。私は上着やズボンのポケットに財布や定期など入れて歩くのは好きではない。その上本をいつも持って歩く。通勤途中で、あるいは外出中に本を読むのだが、それが途中で終わってしまいそうなときは単行本を2冊持ち歩くこともある。そんな人間なので、どうしてもバッグが必要であった。
 仕事を辞めてからは、仕事の関係物はなくなったけれど、やはり持ち物が多い。それで最近は義母が使っていたよれよれのトートバッグを使うようになった。これ何でも放り込む形で物が入れられるので以外に便利でる。本など買ったときなど、ぼんぼん放り込んで持ち歩いていた。ただ定期や財布、あるいはスマホを入れるポケットがないので、それを取り出すのに本などで下敷きになっているので苦労する。だから同じトートバッグでもこうしたものを入れるポケットのあるものが欲しかったのである。
 今日買ってもらったものは、小物などを入れることが出来るポケットも幾つかあるので、これで使い勝手がよくなる。それにちょっとカジュアルっぽくお洒落なので気に入っている。これを持って外に出るのが楽しみだ。

 平田俊子さんの『スバらしきバス』を読み終える。


9月9日 水曜日

 雨。

 とにかくひどい天気だった。台風は愛知県当たりに上陸して、そのまま列島を縦断して日本海に向かった。関東地方には台風の直接影響ないはずなのだが、とにかく雨が断続的に降り続く。しかも強く降ったり、弱まったり、それを繰り返している。強く降ったときは、それこそバケツをひっくり返したようにひどい状態になった。
 ということで今日は半日パソコンに向かい、文章を書いていた。午後からは本を読んで過ごす。

d0331556_11571185.jpg 木皿泉さんの『6粒と半分のお米』(双葉社 2015/05発売)を読み終える。懐かしく、久しぶり聞いた言葉もあった。また気になる文章もあった。
 懐かしいのは旅のお土産のペナントである。


 ペナントというものもあった。三角形の旗のようなもので、雷門やら善光寺やらのローマ字の地名が書かれていて、相撲の化粧回しのように房なんかついていた。私の家でも兄の部屋の壁に長く貼られていたが、いつの間にか消えていた。
 ペナント屋さんは今もあるらしい。テレビで観たが、やはり最近は全く売れないそうである。


 そういえばあったなあ。私の部屋にもいくつもペナントが壁に貼ってあった。今から思うとあれにどんな価値観を見出していたのか不思議でもある。それにしても本当に久しぶりにペナントという言葉を聞いた。本を読んでいてこうして死語に近い言葉を聞くと、思わず懐かしくなる。

 気になる文章は、


 欲望というのは不思議なものである。欲は自分の奥底からどうしようもなく、わいてくるものだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。他人がいて初めて気づくものなのだ。


 人間には弾力があるということを知らないと、簡単にポキッと折れてしまう。


 次の文章は、又吉直樹さんの『火花』にある神谷を思い出した。


 テレビの中の人は、のんきそうに見えるかもしれないが、けっこう過酷な日常を生きているのだ。生身の人間でありながら、常に明るく美しく見られなければならないというカセは、人をおかしくする。そんなのは不自然だからだ。


 Amazonのマーケティングプレイスに出店している古本屋さんから本が届く。思ったより美本で喜んでいる。しかも神田の古本屋さんの半値で買えた。あと2冊、明日以降届くだろう。
 そして明日村上春樹さんのエッセイが発売だから、それから読もうかなあ。


9月10日 木曜日

雨。

 台風の影響が直接なかったのだけれど、関東地方だけに大雨が続いた。鬼怒川では川の堤防が決壊し、津波のように市街地に水が流れこんでいた。自衛隊がヘリを出して、逃げ遅れた住民を空から救助している映像がいつまでも流れていた。
 とにかくひどい雨である。こちらは夕方になり雨も小降りになった。明日は久しぶりに晴れるという。

d0331556_11585791.jpg 南木 佳士さんの『医学生』(文藝春秋1993/05発売)を読み終える。
 この本の帯には「自叙伝的小説」と書いてあるから、南木さんの医学生時代の風景を四人の医学生に託して書かれている、と言っていいかもしれない。
 この本では四人が医学部入学し、卒業し、国家試験を受け、実際に医者として勤務する風景が断片的に描かれる。そして卒業15年後の四人の姿も描かれる。
 人体解剖実習の情景が印象に残る。


 「人体解剖実習って、なんだか死生観ていうのかなあ、そういうものを問われているような実習よね」
 

 和丸は人体解剖実習というものの疲れはとても人を感じ易くさせてしまうものだと知った。


 実習とはいえ、そこの人の死体があり、それを解剖するということになれば、確かに自分をその死体に置き換えてしまうこともあるだろう。と思われる。逆に生き様を問うことにもなるだろう。そんなことを想像する。


 毎日死体を扱っていると、生きているという事実がたまらなく貴重な現象に思えてくる。人生という川の流れがあり、流れ着く先がこの動かない枯れ木のような死体なのだとしたら、途中はとにかく精一杯流れてみるのが大事なのだと素直に感じられる。今、女の腹の中には確かに自分の遺伝子を受け継いだ生命の川が流れ始めている。その流れを勝手に中断させてしまう権利なんて果たしてあるのだろうか。


 例によって、南木さんの人生観を垣間見る。そこにあるのある程度年を重ねた人間が思うことであり、若い頃を振り返って見て感じ得ることである。私はこうした南木さんの、冷めた人生観が好きである。何故なら自分もそんなことを思う年齢になってみて、かねがね思うことであり、そこにはどこか“諦念”みたいなものがいつもつきまとう。それを南木さんの書かれる文章に共感するである。その思いは後ろ向きかもしれないけれど、後ろを向くしか、時間もないし、気力、体力もないから感じ得ることだと思っている。いつでも前を向いて進むことに疲れた年齢になると、この思いは深くなる。そしてそこで見えたものに、心を奪われる。


 山を登るにつれて周囲の風景が変わっていくように、年を重ねるにしたがってものを見る目にこもる熱も少しずつ冷めていくはずだ。


 年を重ねないと見えてこないものがある。川を下らないと見えてこない風景があるように。最近、しみじみそう思う京子であった。


 病気というのは暗記するするものではなく、生きている人間を悩ませるものなのだということがようやく分かりかけてきた。


9月12日 土曜日

 はれ。

 朝早く大きな地震があった。

 それでも今日は久々に晴れたので、蒲団を干したあと散歩に出る。ブックオフの寄って、10冊ほど本を売りに行く。これらの本は読んだあと、本棚に残しておく本じゃないと判断した本であった。こうしないと本棚がいっぱいになってしまうので、適時やっていることである。
 散歩から戻ってからは、家の近くにある側溝の泥浚いをやる。この側溝は以前から気になっていた。家の隣にあるお寺の大きなタブの木から落ちる葉がこの中にかなり入り込んでいる。そのためここのところの大雨でも排水がうまく行かなくなっていた。側溝を開けてみると、ものすごい量の泥と落ち葉であった。スコップを差し込み何と取り除く。しかしこのままだとまた同じことなるので、植木鉢の鉢の底に土が流れないようにする網があるので、それを適当な大きさに切って、落葉など入らないようにした。
 午後から妻の買い出しに付き合う。100円ショップで来年のカレンダーが売り出している。
 去年から私もここで壁掛け用と卓上カレンダーを買うようになった。それまで一度もカレンダーを買ったことがない。会社には業者が持って来たカレンダーが使い切れないほどあったので、それをもらって使っていた。だからカレンダーなんて買うもんじゃない、とずっと思っていた。しかし仕事を辞めればそんなカレンダーも自腹で買わないといけなくなってしまった。
 自腹と言えば文具などもほとんど買ったことがなかった。ボールペンなども使い切れないほど手元にあり、それが300円とか500円とかするもんだと知ったのもつい最近だ。幸いボールペンは仕事を辞めるとき、幾つか持って来たし、ラインマーカーもいまだにメーカーの名前の入ったものを使っている。付箋もよく使うので、3Mの付箋をごそっと持って来ている。当分心配はない。糊だけがなくなってしまったので、いくつか買ったくらいか。
 ちょっと前に引き出しを整理していたら、数本のカギと名刺入れがあった。カギは会社の書類入れのケースなどのカギと思われる。カギはすべて置いてきたはずだったが、スペアキーが残っていたようだ。こんなもの持っていても仕方がないので、燃えないゴミとして今度捨てることにする。
 名刺入れには、自分の名刺数枚と受け取った名刺が10枚ほど入っていた。
 会社を辞める前に大量の書類とか資料をシュレッダーにかけ、名刺も同様にシュレッダーにかけた。とにかく交換した名刺がこんなにあるのか、と呆れるほどあったが、まさか自分が持ち歩いていた名刺入れにまだ残っているとは思わなかった。
 会社で使っていた自分の名刺など持っていても仕方がないし、交換した名刺も不要なのでこれも破って捨てる。
 もう会社を辞めて2年になろうかというのに、まだこんなものが残っているとは。もうそんなものはないだろうな、と引き出しをくまなく見て、ないことを確認する。

 南木佳士さんの『落葉小僧』を読み終える。
 この本は何故か江戸川区の図書館で蔵書しておらず、読みたいと思って古本屋を歩くとき探していたのだが見つけることが出来なかった。なのでAmazonのマーケティングプレイスに出店している古本屋で購入した。売値は1円であるのだが、送料が257円とちょっと不思議なことになっている。Amazonではこういうことがよくある。
 売値が1円ということで本の状態が気になったが、届いた本はかなり丁寧に扱われていて、表紙にパラフィンがかけられていて、きれいな本であった。


9月15日 火曜日

 はれ。

 散歩していると、風がもう秋の風のように感じる。汗をかいたまま、風に当たると冷たく感じられるようになった。

 さつきの消毒をする。さつきは月2回消毒をする。本当は月初めに消毒を予定していたのだが、今月は雨が降り続いたので出来なかったのだ。

 お寺の雑木林から彼岸花が咲いているのを見えた。毎度思うことなのだが、この花、急に茎がにょきっと伸びてきて、いきなり赤い花を咲かせるのが不思議で仕方がない。しかもほとんど狂いなく秋のお彼岸に花を咲かせる。変な植物だ。

 村上春樹さんの『職業として小説家』を読み終える。
by office_kmoto | 2015-09-16 12:04 | 日々を思う | Comments(0)

スヴァンテ・ペーボ 著『ネアンデルタール人は私たちと交配した』

d0331556_542927.jpg 人類の進化には昔から興味があった。私たちが習った世界史では、アフリカにアウストラロピテクスという猿人がいいて、アジアには北京原人、ジャワ原人いて、ヨーロッパには旧人と呼ばれるネアンデルタール人いて、その後に現代型ホモ・サピエンスであるクロマニヨン人がいた、とそれこそ単語を覚えるような感じで名称だけを教わった。その関係がどんなものなのかよく分からない。猿人から原人、そして旧人、さらに新人と進化したように何となくイメージさせるものでしかなかった。
 その中で絶滅人種であるネアンデルタール人になぜか興味があった。そのネアンデルタール人ってどんな人類なんだろうか?この本によると、化石記録からネアンデルタール人は40万年前~30万年前に出現し、およそ3万年前に消えた。
 ではネアンデルタール人はどこから来たのだろう。そして何故絶滅したのだろうか。それを読んできた本からまとめてみたい。まずネアンデルタール人がどこから来たかである。
 現在人類の起源には二つの説がある。一つはアフリカ単一起源説で、もう一つが多地域進化説である。アフリカ単一起源説とは、地球上のヒトの祖先はアフリカで誕生し、その後世界中に伝播していったとする説である。多地域進化説とはヨーロッパ人はネアンデルタール人から、アジア人は北京原人から進化したという説である。今はこのアフリカで人類の祖先が誕生し、それが世界へ広がっていったというアフリカ単一起源説が主流となっているようだ。





 ではネアンデルタール人とは人類の祖先にどの辺に位置する人類だったのだろうか?d0331556_5431946.jpg アリス・ロバーツの『人類20万年遙かなる旅路』に詳しい説明がある。


 現生人類は、二足歩行する類人猿の、長い系譜の最後に残された種で、「ヒト族(ホミニン)」に属する。わたしたちは現生人類を特別な存在と見なしがちだが、特別なのは、「この惑星に唯一残ったホミニン」という、現在の位置づけだけだ。時をさかのぼれば、ホミニンの系統樹には多様な枝が茂り、同じ時代に複数の種が存在することも珍しくなかった。だが、三万年前までに、その枝はわずか二本を残すのみとなった。現生人類と、近い親戚のネアンデルタール人である。そして今日、わたしたちだけが残った。


 これらの人類は皆、アフリカを出てユーラシア大陸に渡った。およそ100万年前までに、ホモ・エレクトスは現在のジャワ島や中国に到達していた。60万年前にホモ・エレクトスの系統からもうひとつの系統が生まれた。それがホモ・ハイデルベルゲンシスで、その化石はアフリカとヨーロッパで見つかっている。そして、およそ30万年前に、ヨーロッパに移住したホモ・ハイデルベルゲンシスから、ネアンデルタール人が生まれた。一方、現生人類は、20万年前に、アフリカに残った集団から生まれ、地球全体に広がっていった。


 つまりこういうことになるのだろう。アフリカで人類の祖先が誕生し、そして進化していくうちに、人類の祖先はアフリカを出て、世界各地に広がっていった。ヨーロッパに向かった人類の祖先はやがてネアンデルタール人に進化した。一方アフリカに残った人類の祖先から現生人類が生まれ、その後彼らもアフリカを出て行く。こういう構図だろう。
d0331556_5442499.png 奈良貴史さんの『ネアンデルタ-ル人類のなぞ』次のようにある。


 アフリカで現生人類が誕生したとすると、その後、アジアやヨーロッパへ拡散するためにアフリカを出たことのなる。ホモ・エレクトゥス(原人)は、170万年前にアフリカを出た。これを第一次アウト・オブ・アフリカとすると、現生人類がアフリカを出たのは第二次アウト・オブ・アフリカとなる。


 では何故人類の祖先たちはアフリカを出なければならなかったのだろうか?奈良貴史さんの本にその説明が書かれている。


 さて、この最初のヨーロッパ人はアフリカからやって来たと考えられている。アフリカを最初に出たアウストラロピテクスではなく、猿人から脳が拡大してホモ属に進化してからだということは、おおかたの理解を得ている。どうしてホモ属がアフリカを脱出したのかについてはまだ定説がないが、有力なのは、人類が肉食をはじめたためだという説である。
 ホモ属の脳の大きさは、アウストラロピテクスの約二倍の1000ミリリットルとなった。一般的な現代人の場合、脳は全体の約2パーセントの重さしかないが、その正常な活動には、全消費エネルギーの約20パーセントを費やしている。つまり、脳が大きくなるということは、からだの大きさ以上にエネルギーを必要とし、そのために食料を大幅に増やさなければいけなくなるということである。そこで人類は、効率よくエネルギーを得るために高たんぱく質の肉食を導入した。しかし、これには大きな問題が生じた。肉食動物は、草食動物よりも大きなテリトリー(行動範囲)を必要とする。人類も、肉食の比重が高くなるにつれて広いテリトリーを必要とするようになったことが、新天地を求めてアフリカを出る契機となったとする考え方だ。


 この人類の祖先たちの肉食の比率が多くなることは、ネアンデルタール人も同じで、その高い肉食率は80パーセントにもおよぶ。これはトナカイの肉に依存しているグリンーランドのラップ人の90パーセントと同程度である。
 ネアンデルタール人といえば、埋葬のとき花を添えた形跡があるとして、人としての感情がここにあったのではないか、という話が有名であるが、実は食人をしていたとも考えられる、傷ついた人骨、20世紀前から複数の遺跡で発見されている。そしてその時雑に解体されたからだの骨は、ネアンデルタール人のDNAを検出するにあたり、埋葬されたネアンデルタール人よりもいいサンプルとなっているらしい。

 さて、スヴァンテ・ペーボの本ではネアンデルタール人と現生人類の祖先との関係が問題となるので、ここでは現生人類の祖先がどのルートを使ってアフリカを出て行ったかを考えてみる。
 いまヨーロッパでは中東、アフリカの内紛か逃れてくる難民の流出が続いていて、それが問題となっている。彼らはいずれも地中海を渡ってヨーロッパへ流れてきている。アフリカからヨーロッパへ渡るにはこれが最短距離だろう。そして現生人類の祖先も同じようにしておかしくないのだが、ヨーロッパに入ったのは外の地域よりかなり遅れている。その原因がすでにヨーロッパに住んでいたネアンデルタール人であった。アリス・ロバーツの『人類20万年遙かなる旅路』に次のように書かれる。


 ヨーロッパがアフリカのすぐ北にあることを考えれば、現生人類がヨーロッパにたどり着くのが、オーストラリア到着より二万年も遅れたのは、ずいぶん意外なことのように思える。なぜ、それほど長くかかったのだろうか?その背景には、地理と環境に起因する複雑な理由があり、また、すでにヨーロッパに住んでいた他の人類も関係していたと思われる。ヨーロッパはずっとネアンデルタール人の支配下にあったのだ。


 このため現生人類の祖先たちは中東に迂回してヨーロッパに入ったと思われている。そのため現生人類の祖先が広がるのが、ヨーロッパでは外の地域より遅れた。
 そしてこのことは、現生人類の祖先がネアンデルタール人と初めて出会った場所が中東であり、ここで交配が行われた可能性を示唆する。このスヴァンテ・ペーボの本で次のように書かれる。


 現生人類の矢印は、アフリカから出てまず中東を通過する。そしてここで現生人類はネアンデルタール人と出会ったのだ。彼らはネアンデルタール人と交配し、その後アフリカの外の全人類の祖先となったのだ。だからアフリカの外の人は、ほぼ同じ量のネアンデルタール人DNAを持つことになる。


 結論が先に出てしまった形になるが、もう少しネアンデルタール人のことを書きたい。ここで問題にしたいのは現生人類の祖先がヨーロッパに来たとき、そこを支配していたネアンデルタール人が、何故絶滅していったかである。
 スヴァンテ・ペーボは、その間彼らの技術はほとんど変化していない。現生人類が経てきたより3~4倍長い歴史をもつが、その間、ほぼ同じ道具を作り続けた。その歴史の終わり近くで現生人類と接触したが、海を渡って未知の土地へ広がることはなかった、と書いている。奈良貴史さんの『ネアンデルタ-ル人類のなぞ』にはもう少し詳しく説明している。


 ネアンデルタール人類は、多くの原始的形質を保持しながら新しい特徴を加えていく「保持型」である。一方現生人類は、古い特徴を捨てるか、変形させる「改良型」といえるかもしれない。


 ネアンデルタール人類の特殊化も、ある程度までは順調にいっていたのだろう。しかし、ある時期を境にして、持ち続けてきた古い形質と自分たちの形質とで飽和状態なり、新たに適応することが困難になってしまったからではなかろうか。


 比較的化石が豊富なヨーロッパでは、それより古い人類からネアンデルタール人類にいたるネアンデルタールゼーションの過程を追うことが可能であり、その結果、40万年前から20万年前にわたり、徐々にネアンデルタール人類らしくなったと理解できる。しかしその後、彼らの特徴は、20万年前から3万年前までの間、あまり変化していない。最後のネアンデルタール人類とされた、サン・セゼールで発掘されたものなどは、典型的なネアンデルタール人類といっても過言ではないことから、彼らの特徴が何万年間にもわたって固定されてしまったように思われる。そしてネアンデルタール人類的な特徴は3万年前以降の後期旧石器時代の人骨には見出すことはできない。
 一方現生人類は、古い形質を捨てて、新しい形質を獲得してきたため、まだ改良する余地があり、環境の変化などに適応することができたのではなかろうか。


 その上でアリス・ロバーツの『人類20万年遙かなる旅路』では次のように書かれる。


 ニッチ(生態的地位)をめぐる争いは、現生人類を社会的ネットワークを広げる方向に駆りたて、それに応じて、ネアンデルタール人の方は「文化的に閉じ込められて」いった。その競争の果てに、やがて現生人類は勝利を収めた。両者のテリトリーは数百年から千年にわたって拡大と縮小を繰り返したが、全体的に見れば、現生人類のテリトリーは拡大し、ネアンデルタール人のそれは縮小していった。


 両者は同じ環境の中で競いあっていた。そして考古学的証拠は、両者の生活戦略が異なり、現生人類は、彼らより高度な文化、複雑な社会的ネットワーク、そして、より柔軟で多彩な技術を持っていたことを語っている。それこそが、現在わたしたちはここにいて、ネアンデルタール人はいない理由なのかもしれない。


 さてそろそろスヴァンテ・ペーボの『ネアンデルタール人は私たちと交配した』の内容に入りたい。
 奈良貴史さんによると、人類の歴史を500万年とすると、なんとその99パーセント以上、すなわち497万年の間、つねに複数の種がいた、と説明している。アウストラロピテクス属、ホモ属の各段階でも何種もいた。それぞれの種と現代人との遺伝子的距離は、チンパンジーと現代人との距離よりよりはるかに近い。いいかえれば、人類にはチンパンジー以上に近い「隣人」となったのがネアンデルタール人類であると考えられている。
 実際現生人類の祖先が中東付近で初めて遭遇したのがネアンデルタール人であったろうと考えられる。そこでペーボはネアンデルタール人は現生人類に非常に近い人類なのだから、そのDNAはわたしたちのDNAによく似ているはずだ。わたしたちのゲノムに近いはずだ、と考える。
 逆に現生人類とのわずかな違いが現生人類とネアンデルタール人を分けたのだと考えた。だからネアンデルタール人のDNAを調べるのである。
 DNAを調べるといっても、生体から検出出来るDNAを調べるわけではない。化石となったネアンデルタール人の骨からDNAを取り出すのである。その苦労が書かれる。何万年も前の骨には雑菌が沢山ついている。そしてそれを掘り出しすとき人間の手に触れる。DNAを検出するとき雑菌や人間のDNAが検出され(ペーボたちはこれらを「汚染」と呼んでいる)、正確なデータがなかなか出来ない。ときには間違った判断をさせる。
 それでもペーボたちは苦労してネアンデルタール人のmtDNAを抽出することに成功する。
 その結果、ネアンデルタール人のmtDNAは現代人のmtDNAを寄与していない、ことが判明してくる。


 話はちょっと横道にそれるけど、ミトコンドリアDNAのことで知り得たことを書いておく。

 ミトコンドリアDNAは必ず母親から子に受け継がれ、父親から受け継がれることはない。したがってミトコンドリアDNAを調べれば、母親、母親の母親、さらに母の母の母の…と女系をたどることができる。その結果人類のmtDNAが20万年から10万年前にアフリカにいたひとりの祖先(ミトコンドリア・イブ)に遡る。


 つまりヒトのmtDNAのバリエーションを遡ると20万年から10万年前のアフリカにいたひとりの女性(人類共通の祖先)にたどりつくという説である。私はもうこれだけでもわくわくしてくる。興味津々なのである。

 とにかく実際には初期現生人類においても、数千人の現代人においても、ネアンデルタール人のmtDNAは見つからなかったのである。
 しかしここにも問題が残る。例えばネアンデルタール人と現生人類の祖先が交配して出来た子供が全員、ネアンデルタール人のコミュニティで生涯を終えたら、ネアンデルタール人は私たちの遺伝子プールに寄与しない。(実際子供は母親のコミュニティに残ることが多い)さらにネアンデルタール人の男性と現生人類の女性との間で交配が起こった場合、男性は子供にmtDNAを伝えないので、彼らのmtDNAは、現代人の遺伝子プールからは検出されない。このことを深く理解するためにはネアンデルタール人の核DNAを調べる必要が出てくる。
 なぜ核DNAの分析がmtDNAよりもパワフルなのか。それは核DNAは30億以上のヌクレオチド(DNAを構成する単位)からなるが、mtDNAはわずか1万6500ヌクレオチドしかできていない。しかも核DNAは世代が替わるごとにシャッフルされ、2本1組の染色体は一部を相手と交換して、1本ずつ分かれ、子孫に受け継がれていく。このシャッフリングと核DNAの巨大さから、ネアンデルタール人と人類が交配していればその痕跡が核DNAに残る可能性は高い。
 さらに交配が実際起きたのであれば、一度きりということはあり得ない。そして交配から生まれた子供を含む個体群が膨張(人口増加)したのであれば、ネアンデルタール人のDNAが絶えることはない。事実現生人類はヨーロッパに来て人口が増加し、ネアンデルタール人に取って代わったのだから、交配が起きたのであれば、わずかであってもその痕跡が残っていていいはずだ。
 そこでペーボたちはネアンデルタール人の骨から核DNAを調べることへ移行していく。そしてネアンデルタール人のゲノム(ゲノムとは、DNAのすべての遺伝情報)調べることが出来るようになると、そのゲノム情報から、現在生きている人々のDNAに、ネアンデルタール人のDNAが生きていたことが判明する。ネアンデルタール人のDNAは確かに現生人類の祖先に寄与していたのだ。すなわち現生人類の祖先たちとネアンデルタール人は交配していたのである。
 そしてこのことがネアンデルタール人がすでに20万年以上も、アフリカの外で暮らしていたため、アフリカに存在しない特有の病気との闘いに適応していたかもしれない。それ故にそれらを受け継いだ現生人類は、受け継がない人より生き延びやすくなった。このことで現生人類の祖先たちは地球規模で広がっていけいたのである。だから、ペーボは言う。


 現生人類が世界各地に広がっていく過程で古い型の人類と交配するのは、例外的なことではなく、ごく普通のことだったと考えられる。


 とにかく私は門外漢のくせに、人類の進化に、そして遺伝子の研究に興味がある。私のわからないことばかりの話なので、この文章自体もふらふらしていてまとまりがない。
 でも現生人類の祖先とネアンデルタール人がセックスしていた、という話は興味津々であった。そんなことがあり得るんだ、という感じだった。
 ネアンデルタール人は現生人類の祖先よりもがたいが大きく、マッチョだったというから、ひ弱な現生人類の祖先の女性は憧れちゃったのかも。あるいはからだの大きなネアンデルタール人の女性に征服された感を求めた現生人類の祖先の男どもがいたのかもしれない。(最後は下世話だね)


スヴァンテ・ペーボ 著/ 野中 香方子 訳 『ネアンデルタール人は私たちと交配した』 文藝春秋(2015/06発売)

アリス・ロバーツ著『人類20万年遙かなる旅路』 文藝春秋(2013/05発売)

奈良 貴史 著『ネアンデルタ-ル人類のなぞ』岩波ジュニア新書 岩波書店(2003/10発売)
by office_kmoto | 2015-09-12 05:46 | 本を思う | Comments(0)

南木 佳士 著 『エチオピアからの手紙』

d0331556_5333916.jpg この本は「破水」、「重い陽光」、「活火山」、「木の家」、「エチオピアからの手紙」の5篇の短篇からなる。「破水」は以前読んだ『陽子の一日』の前の部分になるのだろうか。 あの黒田が陽子を“悪党”と呼んだときの模様が描かれる。
 『陽子の一日』では黒田が、「ほっとけば数日で亡くなりそうなお婆さんの脳出血患者に気管支切開してさあ、人工呼吸器につないで生かそうとしていたんだよ。」と回想した。
 陽子は気管支切開で腰をかがめ、そのため破水してしう。その後を黒田が引き継いだ。
 陽子が助かる見込みのない老婆をそこまで治療続けるのは、


 「私が言いたいのは、かたち、なんだよね。だめになって、土に還るしかない人を見送るのにも、かたちがあると思うんだよね。こだわって、こだわって、どこまでもこだわり続けなきゃいけない、かたち、がね。」(破水)


 病気だけを相手にする医者にとって、死は己の知識と技術の敗北でしかない。だから、彼らは死を見ることを極端にきらう。どうしても見なければならない立場に立たされると、彼らは徹底してその死を先に延ばそうとし、やれるだけはやった、という一種のひらき直りの境地を獲得する。
 最もつらいのは、ただ傍観することだった。傍観しかできない者が、少なくとも自己満足だけは得られる者よりもはるかにみじめであることを、ぼくはこの頃しきりに感じるようになっていた。(木の家)


 南木さんの本を読んでいると、医者という職業は、業の深い職業であることを毎度思い知らされる。人の死に直面せざるを得ない職業、たとえ一時であっても患者が背負ってしまった死病という荷をどこで降ろさせるか、その判断を委ねられ、そして患者の息が止まったことを確認して、人生を終えさせる。これだけも精神的負担は並大抵なものではない。だから余計に淡々と仕事として、人の死を見ることに徹するだけの図太い神経を持ちうるかどうかに、医者の精神的負担の比重が違ってくるみたいだ。陽子は悪党に徹することで自分を救っているのだ。もちろん医者とて同じ人間であるから、そう簡単に悪党に徹することが出来るとは思わないが、無理であろうとそうするしかない職業だと思えてくる。かかえ込んでしまった南木さんはパニック障害とうつ病になった。


 死んだ患者の枕もとで頭を下げたあと、勇はいつも言い知れぬ不安にとらわれる。一人の人間の死を、その一生のたかだか数ヶ月だけかかわった自分がもっともらしく宣言していいのか。呼吸と心臓の停止に加えて脳波の消失を確認したところで、そんなことで多くの想い出をかかえ込んだ人間の死を決めつけてしまえるのか。(活火山)


 患者の最期が近いことを告げるとき、これまで明らかな数字を出さずに納得した家族はなかったから、三日から五日という数字を出したに過ぎなかった。悲しみを集約したり、想い出を整理する支点として、最後に頼りになるのは空虚な数字だった。(エチオピアからの手紙)


 癌を告知した患者として、聞かれたら応えるべき平凡な回答の用意はあった。しかし故意を悟られずに自分から話しかける自信がなかった。死病を背負った人を前にして、あなたの荷は軽い、と嘘をつきとおすのは楽なのだが、真実を告げたとたん、その人が重すぎる荷を背負ったまま自分の背にかぶさってくる。それを支えられるほどぼくは強くない。(エチオピアからの手紙)

d0331556_5341754.jpg そういえば同じ南木さんの『海へ』にも次のような文章があった。


 重すぎたのは遺体そのものではなく、おそらく死を完成させる行為を一回ごとに着実に加算された負荷だったのだ。


 一方で死を直前にして、自分の人生が凝縮された瞬間に発せられる患者の言葉、重味が違う。それは長い人生の中で、高い代償を払って、生きてきた中の言葉だけあって、患者の口から発せられる言葉は、業の深い医者という職業に、時に救いを与えることがある。おそらく南木さんはそうして発せられた患者の言葉を紡ぎたかったのではないか。それの言葉で自分が少しでも救われたことがあることを書きたいために、小説を書いているのかもしれない、と思ったりする。

 「エチオピアからの手紙」では、モルヒネしか投与するしかない末期癌の父親の死後、薬学生でもある娘は、自分の父親がモルヒネの呼吸抑制作用で死んだ、と言い、モルヒネを使わなければもう少し父親は長生き出来たと言う。そして、


 「病室に泊まりこんで、少しずつ父を殺していたんですね」


 なまじ知識があることで発せられた言葉であろう。
 自宅に帰ると、「人殺し」とひと言言って切れる電話がある。あの娘であった。
 何度か至らないことで患者に責められることはあっても、「人殺し」と言われたのは初めてであった。
 そんな時近所で開業医をやっている安田が訪れる。自分の肺のX線写真を持っていた。肺癌であった。医師は薬学生に「人殺し」と言われたことにこたえていただけに、安田の発する言葉を貴重に思えたのであった。



 「現実から逃げずに、現実の流れの中にいると、時が自然に流していってくれるものなんですねえ。岸にあがって流れを見るのは、私のような老人になってからでもいいのではないかと思いますよ」


南木 佳士 著 『エチオピアからの手紙』 文藝春秋(2000/03発売) 文春文庫

南木 佳士 著 『海へ』 文藝春秋(2001/02発売)
by office_kmoto | 2015-09-08 05:36 | 本を思う | Comments(0)

又吉 直樹 著 『火花』

d0331556_556051.jpg 私はバラエティーやお笑いなどほとんど見ない。最近やっているこれらの番組は視聴者を楽しませるのではなく、自分たちが楽しんじゃっているので、見ていてしらけてしまう。
 やっている芸もこれが芸なのかと思えるものばかりだ。そんな風に感じていた。しかしこの本を読んで、主人公で売れないお笑い芸人の徳永が師匠とする神谷の言葉を拾っていると、もしかしたら私は彼等の見方が間違っていたのかも知れない、と思うようになった。むしろどんな時でも、どんな人でも、例えば赤ん坊でも、あるいは同棲していた女と別れるときでさえも、笑わせなければならない姿勢は、やはり芸を追求する者の姿である。ただどんなとこでも“笑い”を取らなければならないという姿勢は、逆にその芸人を悲しく見せることにもなる。笑いのためならとことん阿呆でなければならないし、一歩道を外したように見せるなければならない。面白いと思ったら、それをとことん追求しなければならない。基準は面白いかどうか、その一点である。しかもそれは流行廃りがあって、絶えず新しい笑いを追求しなければならない。さらにその笑いがその芸人の個性まで昇華されなければならない。
 神谷が追求しようとしている“笑い”はそうした厳しいものである。


 「漫才師である以上、面白い漫才をすることが絶対的な使命であることは当然であって、あらゆる日常の行動は全て漫才のためにあんねん。だから、お前の行動の全ては既に漫才の一部やねん。漫才は面白いことを想像できる人のものではなく、偽りのない純正の人間の姿を晒すもんやねん。つまり賢い、には出来ひんくて、本物の阿呆と自分は真っ当であると信じている阿呆によってのみ実現できるもんやねん」


 「一つだけの基準を持って何かを測ろうとすると眼がくらんでまうねん。たとえば、共感至上主義の奴達って気持ち悪いやん?共感って確かに心地いいねんけど、共感の部分が最も目立つもので、飛び抜けて面白いものって皆無やもんな。阿呆でもわかるから、依存しやすい強い感覚ではあるやけど、創作に携わる人間はどこかで卒業せなあかんやろ。他のもの一切見えへんようになるからな。これは自分に対する戒めやねんけどな」


 「論理的に批評するのは難しいな。新しい方法論が出現すると、それを実戦する人間が複数出てくる。発展させたり改良する人間もおるやろう。その一方でそれを流行りと断定したがる奴が出てくる。そういう奴は大概が老けてる。だから、妙に説得力がある。そしたら、その方法を使うことが邪道と見なされる。そしたら、今度は表現上それが必要な場合であっても、その方法を使わない選択をするようになる。もしかしたら、その方法を避けることで新しい表現が生まれる可能性はあるかもしらんけど、新しい発想というのは刺激的な快感をもたらしてくれるけど、所詮は途上やねん。せやから面白いねんかど、成熟させずにそれを捨てるなんて、ごっつもったいないで。新しく生まれる発想の快感だけ求めるのって、それは伸び始めた枝をポキンと折る行為に等しいねん。だから、鬱陶しい年寄りの批評家が多い分野はほとんど衰退する。確立するまで、待てばいいのにな。表現方法の一つとして、大木の太い一本の枝になるまで。そうしたら、もっと色んなことが面白くなんのにな。枝を落として、幹だけに栄養が行くようにしてるつもりなんやろうけど。そういう側面もあるんかもしらんけど、遠くから見えへんし実も生らへん。これだけは断言できるねんけど、批評をやり始めたら漫才師としての能力は絶対に落ちる」


 徳永や神谷の存在価値を測る基準はそれが面白いかどうか、それだけなのである。少なくとも彼らを見る者にとって、それしかない。彼らの笑いにかけた「求道」など見たくて彼らを見に来たのではない。
 そして彼らほど批判や批評に晒されるものはないかも知れない。その批判や批評に対しても、笑いのためなら耐えなければならない。そのことを言う神谷は芸人であった。
 私はお笑い芸人など中途半端な人間だと思っていた。けれど笑いを取るということは、人より自分が阿呆であるといつも見せなければならない。上から目線では受け入れられない。「こいつアホじゃん」と思わせなければならない。自分をいつもその立場に置かなければならない。笑いのためなら人としてのプライドを押し殺す。それに耐える。
 徳永が神谷にネットなどの批判を気にするかどうか、聞く場面がある。。徳永はそれが気になって仕方がないけれど、神谷はどうか?


 「だけどな、そいつがそいつの、その夜、生き延びるための唯一の方法なんやったら、やったらいいと思うねん。俺の人格も人間性も否定して侵害したらいいと思ってねん。きついけど、耐えるわ。俺のいちばん傷つくことを考え抜いて書き込んだらええねん。めっちゃ腹立つけどな。でも、ちゃんと腹立ったらなあかんと思うねん。受け流すんじゃなくて、気持ちわかるとか子供騙しの嘘吐いて、せこい共感促して、仲間の仮面被って許されようとするんじゃなくて、誹謗中傷は誹謗中傷として正面から受けたらなあかんと思うねん。めっちゃ疲れるけどな。反論慣れしている奴も多いし、疲れるけどな。人を傷つける行為ってな、一瞬溜飲が下がるねん。でも、一瞬だけやねん。そこに安住している間は、自分の状況はいいように変化することはないやん。他を落とすことによって、今の自分で安心するという、やり方やからな。その間、ずっと自分が成長する機会を失い続けてると思うねん。可哀想やと思わへん?あいつ等、被害者やで。俺な、あれ、ゆっくりな自殺に見えるねん。薬物中毒と一緒やな。薬物は絶対にやったらあかんけど、中毒になった奴がいたら、誰かが手伝ってやめさせたらな。だから、ちゃんと言うたらなあかんねん。一番簡単で楽な方法選んでもうてるでって。でも、時間の無駄やでって。ちょっと寄り道することはあっても、すぐ抜け出さないと、その先はないって。面白くないからやめろって」


 ここでも芸人が取るべきスタンスをきちんと言う。しかし批判や批評を受けるばかりではない。ここでは批判や批評をする人間がいかに器量が狭いかをきちんと言う。そしてそれは面白くない、とも言う。徳永はそんな神谷を次のように思う。


 僕は神谷さんを、どこか人におもねることの出来ない、自分と同種の人間だと思っていたが、そうではなかった。僕は永遠に誰にもおもねることが出来ない人間で、神谷さんは、おもねる器量はあるが、それを選択しない人だったのだ。


 そして、


 人の評価など気にしないという神谷さんのスタンスや発言の数々は、負けても負けではないと頑なに信じているようにも見え、周囲から恐れられた。恐怖の対象は排除しなければならないから、それを世間は嘲笑の的にする。市場から逸脱した愚かさを笑うのだ。


 これが神谷が売れない芸人としてしまう。芸に毒舌だけでは済まない神谷の醒めた目が出てきてしまう。人は神谷の芸にある裏を見てしまうのである。だから神谷は大衆から受け入れられないかった。
 そしてここが重要なのだが、神谷個人の笑いの追求は、神谷個人の中でエスカレートしていくことで、ここまで世間を見ていたのに、あるところで見えなくなっていることに気がつかない。
 借金をして身を持ち崩し、面白いと思えば、豊胸手術をして自分の胸をFカップにしてまでも、笑いを取ろうとする。あれほど笑いの中に真実を見ていた男でも笑いに搦め捕られて、自分を失ってしまう。笑いをとことん追求していっても、限界があり笑えなくなってしまうことに気づかなかった。徳永がお笑いを引退して、しばらく姿を消していた神谷に会ったときに言っている言葉が悲しみを誘う。


 「神谷さん、あのね、神谷さんはね、何も悪気ないと思います。ずっと一緒にいたから僕はそれを知ってます。神谷さんは、おっさんが巨乳やったら面白いくらいの感覚やったと思うんです。でもね、世の中にはね、性の問題とか社会の中でジェンダーの問題で悩んでる人が沢山いてはるんです。そういう人が、その状態の神谷さん見たらどう思います?」

 「不愉快な気持ちになる」

 「そうですよね。神谷さんには一切そんなつもりがなくても、そういう問題を抱えている本人とか、家族とか、友人が存在していることを、僕達は知っているでしょう。全員、神谷さんみたいな人ばかりやったら、もしかしたら何の問題もないかもしれません。あるいは、神谷さんが純粋な気持ちで女性になりたいのであれば何の問題もないのです。でもそうじゃないでしょう。そういう人を馬鹿にする変な人がいることを僕達は、世間の人達は知ってるんですよ。神谷さんのことを知らない人は神谷さんを、そういう人と思うかもしれません。神谷さんを知る方法が他にないんですから。判断基準の最初に、その行為が来るんやから。神谷さんに悪気がないのはわかっています。でも僕達は世間を完全に無視することは出来ないんです。世間を無視することは、人に優しくないことなんです。それは、ほとんど面白くないことと同義なんです」


 徳永は神谷が世間を無視してまでも笑いを取ろうとするのをよく見ていたのである。

 徳永の相方が引退することを決意したとき、自分もこの世界から身を引く。その時徳永がこの厳しい世界で生きたことを決して無駄ではなかったと思う。


 必要のないことを長い時間かけてやり続けることは怖いだろう?一度しかない人生において、結果が全く出ないかもしれないことに挑戦するのは怖いだろう。無駄なことを排除するということは、危険を回避するということだ。臆病でも、勘違いでも、救いようのない馬鹿でもいい、リスクだらけの舞台に立ち、常識を覆すことに全力で挑める者だけが漫才師になれるのだ。それがわかっただけでもよかった。この長い月日をかけた無謀な挑戦によって、僕は自分の人生を得たのだと思う。


 引退を決意した徳永に言う神谷の言葉はいいものだった。


 「俺な、芸人には引退なんてないと思うねん。徳永は、面白いことを十年間考え続けたわけやん。ほんで、ずっと劇場で人を笑わせてきたわけやろ」

 「たまには、誰も笑わん日もありましたけれどね」

 「たまにな。でも、ずっと笑わせてきたわけや。それは、とてつもない特殊能力を身につけたということやで。ボクサーのパンチと一緒やな。無名でもあいつら簡単に人を殺せるやろ。芸人も一緒や。ただし、芸人のパンチは殴れば殴るほど人を幸せに出来るねん。だから事務所やめて、他の仕事で飯食うようになっても、笑いで、ど突きまくったれ。お前みたいなパンチ持っている奴どっこにもいてへんから」


 「漫才はな、一人では出来ひんねん。二人以上じゃないと出来ひんねん。でもな、俺は二人だけでも出来ひんと思ってるねん。もし世界に漫才師が自分だけやったら、こんなにも頑張ったかなと思う時あんねん。周りに凄い奴がいっぱいいたから、そいつ等がやってないこととか、そいつ等の続きとかを俺達は考えてこれたわけやろ?ほんなら、もう共同作業みたいなもんやん。同世代で売れるのは一握りかもしれへん。でも、周りと比較されて独自のものを生み出したり、淘汰されたりするわけやろ。この壮大な大会には勝ち負けがちゃんとある。だから面白いねん。でもな、淘汰された奴等の存在って、絶対に無駄じゃないねん。やらんかったらよかったって思う奴もいてるかもしれんけど、例えば優勝したコンビ以外はやらん方がよかったんかって言うたら絶対にそんなことないやん。一組だけしかおらんかったら、絶対に面白くなってないと思うで。だから、一回でも舞台に立った奴は絶対に必要やってん。ほんで、全ての芸人には、そいつ等を芸人でおらしてくれる人がいてんねん。家族かもしれへんし、恋人かもしれへん」

 「だから、これからの全ての漫才に俺達は関わってねん。だから、何をやってても芸人には引退はないねん」


 芸人にこだわっていた神谷だから言える言葉であった。浮き沈みの激しい世界で生きてきたから言える言葉でもあった。
 これほど優しさを持って人を見る目のある神谷でも自分の芸のオリジナリティーを追求するあまり、最後は世間を見る目を失っていた。
 笑いが世の中の中にあることがわかっているから、自分へのバッシングも受け入れようとしたが、そうした醒めた目は世間を見誤ったのだろうか。人に向かって笑いを取ることは世間を無視しては成り立たない。無視すれば不快だけが残ってしまう。神谷はそのことに気づくのが遅かったのだ。


又吉 直樹 著 『火花』 文藝春秋(2015/03発売)
by office_kmoto | 2015-09-04 05:56 | 本を思う | Comments(0)

平成27年8月日録(下旬)

8月16日 日曜日

 くもり。

 半藤一利さんの『日本のいちばん長い日』を読み終える。


8月17日 月曜日

 雨。

 日比谷線に乗っていて茅場町で乗り換えるつもりでいたのだが、眼鏡もかけず、慣れないスマホでメールを打っているうちに乗り越してしまった。気がついたのが人形町駅を出たあとだったので、そのまま秋葉原まで行く。
 秋葉原に来たついでにブックオフに寄る。以前から気になっていた南木佳士さんの自選短篇集がまだあったら買ってもいいかなあ、と思ったのだ。
 南木さんの本は図書館で借りてかなり読んだ。読んでから南木さんの本は手元に欲しいと思って、古本であれば買っている。
 今回の自選短篇集は定価が2,900円なのだが、ブックオフでは960円で売っている。しかも今回は値札からさらに半額となっていた。これはここへ来て良かったと思い、すぐさま手にする。
 この本の横にもう一冊南木さんの本がある。『山行記』で、これは510円となっていた。もちろんこの本も買う。いずれもかなりの美本で、自選短篇集は多分一度も読まれた形跡がない。
 ブックオフのいいところは、108円の均一本はともかく、それなりの売値を付けている本はきれいなものが多いことである。新刊として売ってもおかしくないほど美本が手に入る。
 ここのところ忙しく、気分的に滅入ったことが多くて、落ち込んでいたので、ちょっと得した気分になれた。雨も降っていることだし、そのまま岩本町駅まで歩いて、地下鉄で帰る。


8月18日 火曜日

 くもり。

 ここのところ気の滅入ることで振り回されていて、そのことをこの日録に書いていたのだが、あまりにもプライベートなことなので、書いたあと消した。
 こういう文章を書いていると、どこまでプライベートなことを書いていいのか悩む。特に相手のあることなどは、そうそう書けるものではない。自分でもここに書くことはあくまでも私自身の考えや気持ちを書くことにしているし、政治的なことも、できる限り書かないようにしている。
 佐伯一麦さんが私小説を書くに当たり、自分の家族や親類のことなど書いて、彼らから嫌がられたと書いていたが、確かにそうであろう、と思う。小説を書くに当たり自分の周りで起こったことしか書けないとなると、必然的にそういうことになってしまう。そこまで書く必要性さえ疑問視される。
 私は悩んだ末、今は書かないことにした。あまりにも身近すぎて、生々しく、切れば血が出そうなことは、やはり書けない。まあここのところあまりいい話が身の廻りに起こっていないということである。
 ということで、ここのところ自分以外のことであっちこっち振り回されていて、さすがに今日はからだが一日中だるくて、なにも出来なかった。明日も出かける。


8月20日 木曜日

 雨。

 妻と二人で築地にある国立がん研究センター中央病院へ見舞いに行く。実は先週から私はある人がここに紹介状を持って、診察を受け、入院するまでに関わってきた。それでここのところバタバタしていたのである。
 それでも今日で一段落すると思っていたところ、ちょうど担当医師が来て、来週から始める抗ガン剤の治療の説明をしたいので、明日また来てくれないか、ということになってしまった。
 病室を出て、病棟のエレベーターの前にある“食堂”と書いてある休憩室で少し休む。ここからは築地市場が一望できる。遠くはベイブリッジからお台場まで見渡せた。


d0331556_9475741.jpg



 何もなければこんなところに来ることなどないわけで、ということはこの景色も見ることもなかったはずだ。それを思うと単に見晴らしの良さに驚くわけにもいかず、妙な気分で窓越しからその景色を眺めていた。


8月21日 金曜日

 くもり。

 午後から病院へ出かける。医師との約束の時間へ行っても、その時間で医師と会えるわけではないことはこの一週間でわかっていた。医師は外来も受け持っているし、他に何人もの患者を院内で受け持っているようで、その関係で約束の時間通り会えるわけではないのである。だから私も多少遅れて病院に着く。
 結局約束の時間から30分ほど経ってから医師と会う。
 今日は抗ガン剤の治療のその同意書を得るための説明がある。私はその説明に立ち会った。
 ほとんど毎日ここに来ていたので、かなり疲れていた。それでなくともガンという病気は当の本人だけでなく、周りの人間にも色々な覚悟を強いる。先の暗い思いをさせる。いくら私が部外者でも、それがからだの疲れだけでなく、精神的にも疲れさせる。
 まっすぐ帰って家で休みたいという気持と、帰ってもあれこれ考えてしまうだろうという思いが絡み合って、少し寄り道をすることにした。
 日比谷で都営三田線に乗り換えて、神保町に出る。私の気分転換は古本探しがいちばんいい。しかし今日は真剣に本を探すというより、ぶらぶら歩いて古本を見る、という感じであった。天気もはっきりしない。
 古本を二冊購入したあと、駅に戻るとき雨が降り出した。古本屋は一斉に店頭に出ているワゴンなどにビニールカバーを掛け始める。その様子がどこも同じなのがおかしかった。これもこの町ならでは光景なんだな、と思った。


8月23日 日曜日

くもり。

d0331556_9483197.jpg 伊集院静さんの『半人前が残されて』(文藝春秋 1998/06発売 文春文庫)を読み終える。毎度無茶苦茶な生活ぶりが書かれているが、それでもというか、だからこそというべきか、言っていることは、やっていることよりまっとうなのである。
 多くの人と出会い、また知人や友人を亡くし、その中から、決して上から目線でなく、言うべきことは静かに言う。出逢いや別れなど、痛い思いをした人間が発する言葉は、説得力を持つ。どんな生活をしようとも、その回数はその者生活環境によって違うだけで、それらはついて回る。無茶苦茶な生活をしようとしまいと関係ない。


 物事がそうであるように、役に立つと言われる人ほど恐い存在はない。当人が自分は社会に何かをしているとか、他人に何かをしてやっていると思い込むことほど大それた話はない。そういう人は、いつも他人に何かをしてやっているという意識があるから、その行為に対して代償を求めるし報われなければ不平を言い出す。(無用の用)


 口に出してもどうしようもないことが世の中にはたくさんある。しかしそれを口にして背中の荷を半分くらい軽くすることは、生きる術としては大切なのかもしれない。(沈丁花と潮の香り)


 ベタつくようなつき合いをしないことが基本なのだが、歳月は知らぬ内に関係を濃いものにする。(別れても好きな人)

 ちいさなつぶやきのような一言が、勇気を与えることは世間に多々ある。意志が弱いと言われればそれまでだが、不撓不屈の魂なんて人は私は好きではない。(別れても好きな人)


 命日も供養も死んだ人間のためにあるものではなく、生きている家族や友のためにあると、私は考えている。それを機会に残されたものが、自分たちの生を考えればいいのだと思う。(夏である)



 毎年夏恒例の24時間テレビをやっている。身近にガンを宣告された人がいる立場の人間としては、見たくない番組だ。タイミングが悪い。当の本人はわりとケロッとしているのだが、身近にいる人間がテレビを見て溜息をついているという。見なければいいのだろうけど、やっている以上気になるらしい。
 もともとこの企画には疑問を持っていた。病気で苦しんでいる人、あるいは障害を持っている人を引っ張り出して、何にも問題のない我々の生き方を考えさせる。こんなに頑張っている人がいるのだから、あなた、そんなにいい加減な生きかでいいの?といった感じがしてならない。
 病室でテレビを見ている人たちをここしばらく見てきたが、あそこに入院している人たちはこのテレビを見ているだろうか?と思ってしまった。何となく苦々しく思って、チャンネルを変えている様子が浮かんでくるのは、私だけであろうか?


8月24日 月曜日

 くもり。

 一時と比べて昼間の暑さは落ちついてきたように見える。朝方などだいぶ涼しくなってきた。いつの間にかセミの声より虫の声の方が気になるようになった。
 今日はこちらでは資源回収の日で、たまった新聞を出す。そういえば最近新聞の横取りを見かけなくなった。以前は軽トラで回っている横取り業者をよく見かけたものだが。横取り業者撲滅のため、いろいろ対策を打っている効果が出ているのかもしれない。
 そういえば、秋葉原にはダンボールを目一杯積んで歩道でリヤカーを引いているおっさんたちがたくさんいた。聞くところによると、彼らは秋葉原にやっちゃ場があったころから、多くいたという。市場はゴミとしてダンボールがよく出るからだろう。
 彼らは自分の人生を諦めているかのように、マイペースで人の迷惑など考えない。だから歩道でリヤカーを引き、歩く人たちの妨げになる。どこでもリヤカーを止めて休む。 昭和通りの上を走っている高速道路下がいい雨宿り場所になるので、どこから仕入れてきた蒲団を敷いて寝てもいた。数人集まって酒盛りをする輩もいた。ゴミとしてして捨てられたラジオなんか聞いている。
 店に出ていた頃、平気で店の前にリヤカーを止めるので、何度も言い合いになり、追い払ったこともある。彼らに恨みがあるわけじゃない。お客が店に入るのにじゃまだったからだ。
 もう一つ思い出したことがある。イチョウの木である。これが秋になるとごそっと歩道に落ちてくる。その量、半端ない。とにかく昭和通りにはイチョウが並んで植えられているので、秋になると店の前を掃いても掃いてもきりがないのだ。
 どこだったけ?秋になるとイチョウ並木のある所が黄色い絨毯のようだなんて言って騒いでいるけれど、あれ掃除する人のことを思うと、大変だろうなといつも思ってしまう。並木道を歩く人たちで踏みつけられたイチョウの葉は道路に貼り付いてしまい、なかなか取れない。イラだっているだろうな、と痛く同情してしまうのである。
 イチョウは東京都の木だったと思うが、東京都のシンボルマークもイチョウをデザインしたものだと思っていた。ところが違うそうだ。今日初めて知った。Wikipediaに次のようにある。


 東京都のシンボルマークはその形状が都の木であるイチョウの葉を連想させることから「いちょうマーク」と通称されることが多いが、東京都では「イチョウではありません。このマークは東京都の頭文字であるTをデザインしたものです」と公式にイチョウの葉をデザインの由来とする説を否定している。


 あれが東京のTの文字をデザインしたものとはちょっと思えないな。イチョウに見えても不思議じゃない。
 見えるといえば、東京オリンピックのエンブレムも盗作問題で揺れている。実際問題あのデザイナーがエンブレムに関してはオリジナルを主張していても、彼の事務所で盗作があったのだから(トレースとか言っているけれど)、ここはやっぱり一度取り下げるべきなんじゃないか、と思ったりする。競技場建設もリセットとしたことだし、その方がいいような気がする。
 東京でオリンピックをやる前からいろいろいケチがついてしまって、果たしてちゃんと出来るのかのかねえ。いっそうのこと東京でオリンピックをすること自体、リセットしてしまった方がいいんじゃないの、と言いたくなる。正直なところ今の日本はこんな所でお金を使うべきではない。本当に使わなければならないところがあるではないか、と以前から思っているのだけれど。

  阿刀田高さんの 『阿刀田高の楽しい古事記』を読み終える。


8月25日 火曜日

 くもり。

 今日も病院へ行く。行く予定はなかったのだが、行く羽目になったというべきか。その人は抗ガン剤の点滴を携帯型注入器を用いて行う。そして点滴が終わったとき、その針を抜かなければならない。その針の抜き方を教わるためにレクチャーを受けに行ったのだ。もちろん私がそれをやるわけではない。知ってて欲しいということなのである。
 最初に点滴の針の抜き方のDVDを見て、今度は模型を使って実際針を抜いてみる。簡単にできる。注意するのは医療用手袋をして針を抜き、その後きちんと消毒することであった。いずれ自宅でこの作業をすることになるのだ。
 DVDを見て、そして針を抜く作業が簡単にできることを知ると、この病院が目指している医療のあり方の一端が見えるような気がする。すなわちガンを病院の中だけで治療するのではなく、普段の生活の場で治療できる形にするということだ。そうすることによって、患者の気持ち楽にさせる。病気と上手く付き合わせる。あるいは患者の生活の質を保障する。そういう方向性なんだ、と感じた。母ががんの治療をしていた頃とは大分違う、とも感じた。そしてそれは患者のことを十分考えてなされていることなのだろう、とも思った。
 病気とのかかわり合い方も、時代とともに変わりつつあることを実感したのである。


8月26日 水曜日

 久々の本格的な雨。
 南木佳士さんの『八十八歳秋若月俊一の語る老いと青春』 (岩波書店 1999/03発売)を読む。


8月27日 木曜日

 くもり。

 南木佳士さんの『山中静夫氏の尊厳死』 (文藝春秋 2004/02発売 文春文庫)を読む。


8月28日 金曜日

 くもり。ここのところすっきり晴れることが少なくなり、そのため肌寒い日が続く。8月の前半は暑くてやりきれなかったのが嘘みたいだ。

 昨日イオンへ行った。花売場にはもうチューリップの球根が売っていた。同じ売場にはミニ水仙の球根も売っていたので、チューリップの球根とミニ水仙の球根を購入する。 水仙は以前から欲しかった。今年の早春、まだ寒いときに、可憐な黄色い花を咲かせる水仙が気になっていた。この時期花が少ないだけに、その花が小さいのにひときわ目立っていた。
 チューリップの球根は昨年オランダ産のものを購入して育てたが、外国産のものだからか、どうも花がケバケバしかった。なので今年は新潟産の国内産を購入する。私は花はあまり自己主張をしない方が好きである。
 いずれの花も来年の春の話になってしまうので、気の早い話になってしまう。今年は朝顔が失敗であった。花のつけ方が今ひとつ芳しくない。まばらに花を付ける。育て方に問題があったようだ。今は花が終わって汚らしく、葉も黄ばんでいるのだが、来年のための種を取るためにそのままにしている。
 この秋から冬にかけて、もう一つトライしようと思っているものがある。シクラメンである。今年シクラメンの種が取れたので、実生から育ててみようと思っているのだ。ネットで調べてみると、その育て方は難しそうだが、面白そうなので、やってみようと思っている。
 植物を育てるというのは案外難しいものだと、今年庭作業をしていて思った。

 南木佳士さんの『信州に上医あり―若月俊一と佐久病院』を読む。


8月29日 土曜日

 くもり。

 今NHKでサンダーバードを放映している。
 昔のサンダーバードはやっぱり懐かしい。1号から5号まで、そして基地までもプラモデルで作ったものだ。あの頃もそして今もサンダーバードはかっこよかった。
 そして50年経って新たなストーリーが作られ、昔の手作り感を残しつつCGを駆使して作ったという。だいたい昔ものを作り替えると、おかしくなる。変に今風に作り変えられるとみんな同じように見えてしまうところがある。それに昔のイメージが我々の中に強く残っているものだから、どうして昔の方がよかったということになってしまう。
 今回もそれを恐れたけれど、以外に楽しめた。悪くはなかったと思う。2号のでっぷりした丸みのあるボディーがちょっと角張ってしまったのは気になるが、悪くはなかった。ただアランのキャラクターが子供っぽく、チャライのはどんなものか?国際救助隊はインターナショナル・レスキューなんて変えてほしくなかったなあ。


8月31日 月曜日

 くもり時々雨。

 今日で8月も終わる。8月の前半は暑い日が続き、記録を更新することとなったが、後半は今度は日照不足となるほど、太陽を見ない日が今日まで続くこととなった。当然気温もうって変わって、平年を下回る日々が続くこととなった。このままもう秋になってしまうのだろうか。どうもそんな感じがしてしまう。
 7月、8月はとにかく本が読めなくなってしまった。それまでは結構元気に読んでいたのだが、7月になって、そして8月にいたってスピードダウンしてしまったのである。でもそれはいつもあるスランプであろうと思っている。
 まぁ、別に期限があるわけでもないので、それならそれで一向に構わない。そのうち元に戻るだろう。
 午前中に今話題になっている又吉直樹さんの芥川賞受賞作品の『火花』を読む。以外に楽しめた。いやむしろ作品の出来に驚いている。
 午後からは文章書きに時間を費やす。これもあくまでも趣味なので、好きでやっていることだが、自分が今思っていること、読んだ本の感想など書きたいと思うことが幾つかあってそれをまとめて書いた。
 書いたのはいいのだけれど、これ、結構神経を使う。疲れてしまった。私は文章を書くよりも本を読む方がいいようだ。
 ただ今日は本を持ってベッドに横になったら、すぐ眠くなった。明日、朝から出かけなければならないのので、このまま眠ることにした。
by office_kmoto | 2015-09-02 09:50 | 日々を思う | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


by office_kmoto
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