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騒ぐ

 私たちの世代にとって成人式は1月15日というのが決まりである。だから成人式が年によって日にちが違ってしまうのにはどうしても落ち着かない。
 例年新成人が奇抜な格好をして馬鹿騒ぎをしている模様がニュースで映し出されるが、まあ所詮その程度の頭の持ち主なのだから仕方がない。デコレーションされたクルマをドリフトさせて人を轢いてしまい、過失運転致傷で現行犯逮捕されたり、花魁姿で成人式に出席するやつ、相変わらず酒を飲んで喧嘩騒ぎを起こすやつなど、話題に事欠かない。

 養老孟司さんが面白いことを言っていたのを思い出す。
 子供は自然で、人工的に作られた都市には入れてもらえない。何故なら都市が人工的なものであるが故に自然を排除するからだ。


 ある年齢にならなければ世の中に入れてくれないんです。なぜかと、それはまだ自然だからです。そうすると、訓練し終わって、一応のことがわかるようになって、人間の約束ごとがちゃんと使えるようにならなければ、入れてもらえません。(養老 孟司 著 『脳と自然と日本』)


 人として訓練されていない人間を、たかだか親のすねをかじって20年生きてきただけで、形式的に大人の仲間入りとするのが成人式なのだから、こうなっても仕方がないのである。
 過失運転致傷で逮捕された男は成人式初っぱなから、これから厳しい現実の訓練をさせればいい。少なくともいきなり人生を棒に振ることなかったのだから、それくらい当たり前である。これまで人として十分な訓練をされてこなかったのだから仕方がない。「什の掟」ではないが、ならぬことはならぬ、を教え込むだけであろう。
 太夫姿で式に出る女にしても、その姿を勧めた馬鹿なスタイリストがいたに違いない。そうでなければ彼女らがそうした姿があることを知るはずがない。
 昔の太夫姿をした花魁たちがどうしてそんな格好をしたのか、彼女らがどういう思いで花魁として生きていたか、華々しさの裏にある悲しい事実を知ったら、簡単にそういう格好ができるかどうか。
 本来大人として教えるべきスタイリストがそれを知らないから、平気で太夫姿の着物を勧めたりするのだ。訓練する側もいい加減だからそういうことになる。
 騒ぎ立てる彼らを疎ましい目で見ることは簡単だけど、そうさせてしまった側にも問題があるからこういう状態になるのである。彼らの行動は自分たちの鏡である。

 面白いもので成人式に出席する人間はいつも数人でつるんでいる。ときには親がそれについて場合もある。それでふと思ったのだが、成人式は学校での行事の延長なんではないか。学校で何か行事があるときは、集まって行動する。公の行事なら親も出席する。それと同じなのだな、と思ったわけである。
 私は成人式に出席しなかった。出来なかった。高校を卒業して、すぐ大学を辞め、また大学に戻ろうとして、予備校にいた。
 このときが最後の追い込み時期であったが、私は予備校にいても本ばかり読んでいた。昼時、当時本屋の上にあった割と広い喫茶店で、茹でてから時間が経ったパスタで作られたナポリタンを食べながら、ラグビーの早明戦を見ていた。雪がちらつく寒い日であった。
 昔からつるんで何かをすることが嫌いであったから、たとえ成人式に行けても、きっと行かなかったと思うが、街や駅で晴れ着姿の女性ややスーツを着た男どもを見て、自分だけが余りにも異端過ぎることに、どうにもならない気分でいた。もちろん自分で招いたことだから仕方がないのだけれど、それだけにその日のことをよく覚えている。(2016年1月11日)
by office_kmoto | 2016-01-28 06:12 | 余滴 | Comments(0)

吉村 昭著 『精神的季節』

d0331556_624084.jpg このエッセイの内容は「文学」「医学」「戦争」「社会」「家庭」といカテゴリー別に分かれて、読んでみると吉村さんの初期のエッセイになるようである。すなわち戦争を体験し、終戦を迎え、しばらく経った頃、あるいは純文学から戦争ものに執筆内容を変更した時期と重なるようである。
 その変化をこのエッセイでは詳しく語っている。なぜ戦争ものを書かなければならなかったのか。
 そこには吉村さんの“告白”にも見える、どうしていいのかわからない悲壮感がある。


 その理由は、はっきりしている。それは戦争というものに、私はいつの間にか慣れきってしまっていたからだ。
 私は昭和二年の生れだが、物心ついてから絶える間もなくつづいて発生した××事変と称する小戦争の雰囲気の中で育った。さらに私の生れる以前にも、日清、日露の両戦役、そして第一次世界大戦などの大戦争のあったことが大人たちの口から頻繁に洩らされていたし、つまり私にとって戦争は、変哲もないきわめて日常的な環境にすぎなくなっていた。そのため、太平洋戦争の発生も、なにか歴史というクサリをつなぐ一つの環、とでもいったものとしてしか感じられなかったのだ。



 つまり吉村さんにとっては、物心ついてから、戦争は「長いお祭りがだらだらつづいているような印象でしかなく」、「戦争というものは必ず勝つことで終るはずだと思っていた」し、「国旗が、装飾物のように巷にあふれていた」。「顔を合わせれば戦争の話に熱中していた」から「戦いにまつわる話は私たちを興奮させ、お祭りに似たにぎわいのつづく日々の生活は、私たちをひどく陽気にさせていた」のであった。
 たとえ戦争が長引き、物資が不足し、配給制度になって大人たちが愚痴りはじめても、「私にとって戦争は、依然として、一種のきらびやかな一大ショーに似たものであり、それを見物していることに少なからぬ興奮をおぼえていた。そして、こうした陽気な気分は、中学生に入った頃になってもそのまま残されていた」。つまり戦争が日常であり、それを肯定して生きていた。
 ところが、


 戦争が敗戦という形で終ったことは、私にとって信じがたいことであったが、私の実際の驚きは、終戦の日からはじまったと言っていい。


 吉村さんにとって尊厳の象徴であった国旗が鋏で裁たれ、雑穀袋に変化し、米兵に喜々としてとして抱かれるように歩く娘たち巷にあふれ、 米兵の投げる菓子に子供たちを突き飛ばして拾う大人たちの姿に驚く。そして何よりも吉村さんを唖然とさせたのは、学識者の戦争批判論であった。
 吉村さんはこうした変身の変わりようが気恥ずかしいほど激しすぎるのでうろたえてしまう。敗戦という一事件によって、これほど急な変貌をとげてよいものなのか。それほど自分は頼りないものであったのか、と思ってしまうのであった。


 それらの人々の発言内容は、まるで申し合わせたように軌を一にしていた。「あの悲惨な戦争は、軍部と政治家によって引き起こされたものであり、私は、それら戦争指導者に身を挺して戦った。そのため私は、軍部・官憲からの弾圧を受けた」「庶民は、罪深い戦争をのろいながらも、戦争にまきこまれて多くの被害を蒙った」「特攻隊は、犬死にであった。かれらはただ軍部の指導者に操られただけである」等々。
 堰を切ったように流れ出したこれらの発言に、私は息もつまるような驚きを感じて身をひそめた。私にとって、熱気の中にいたような戦時中に、それほど多くの戦争批判者がいたとは想像もできないことであった。と同時にかれらの論旨に従えば、戦争が罪悪であることも知らずに勝利を信じつづけた私は、戦争に積極的に協力した少年であったことになる。私は、自分が潜伏している犯罪者であるようなおびえにとらわれた。



 戦争中、私と同じように一心に働いていた人々の群れは、いったいどこへ行ったのだろう。かれらは、戦時中戦争遂行に協力するふりを装って、内心ではひそかに戦争を呪っていたとでもいうのだろうか。
 私は戦いの渦の中で真剣に生きた自分の過去におびえつづけた。批判力の乏しい年齢であったとはいえ、戦争の勝利を念じながら働いたことに深い負い目を感じていた。
 私は、自然と牡蠣のような沈黙の中にひそめるようになった。そしてそれは、敗戦の日から二十年間つづいた。


 いずれにしても、私は、終戦の日以後、世代の異なった大多数の人々の戦争観に、戸惑い、憤り、絶望してきた。そして得た結論は、全く異った精神的季節の中に生きながらえてきた自分を含めた、人間そのものに対する不信感なのである。


 このように吉村さんは、戦争を肯定することが当たり前にあった世界と、終戦の日を境にして、全否定する世界の全く異った二つの精神的季節の中で生きてきた。しかし吉村さんはその断絶について行けなかった。自分は間違いなく戦争少年であったことを否定できないから、黙っているしかなかった。
 しかしそうした少年であったことを正直に述べなければならない、と思うようになっていく。そうでないと死ぬまでこの思いを抱き続けなければならないし、それは耐えがたいことであったからだ。


 軍艦を描きたいという創作衝動は、終戦後から現在まで私の内部に鬱屈してきたものを吐き出したいという願いから発したものにほかならない。


 これが吉村さんをして純文学から戦争ものに支点を変えていく理由であった。『戦艦武蔵』が生まれてくる背景であった。ここから戦争の本質とは何か。“人間”の内部にひそむ奇怪さとはどういうものかを問うことで、戦争を肯定していた自分、そして当時の日本人の姿を捉えようとしたのではないか。そんなことを具体的にうかがえるエッセイであった。
 結局転向するまで行かなくても、「昔オレさあ、戦争少年だったんだ」といった具合に、身軽な生き方が出来る人じゃなかったわけだ。いわば生き方の下手な人の“もがき”みたいなものを感じてしまう。いつまでも頑なな性格が吉村さんの頑固さにもなっているのかもしれない。
 このエッセイは初期のものだけあって、まだ理屈っぽく、堅苦しい感じが拭えなかった。晩年のエッセイのような穏やかさがまだ見受けられない。ただ小うるさいオヤジ感はこの時期でも健在であった。


吉村 昭著 『精神的季節』講談社 (1972/09発売)
by office_kmoto | 2016-01-27 06:25 | 本を思う | Comments(0)

収める

 どちらかというと、私は買ってきたその本をすぐ読む人ではない。読む本があるのでそちらを優先する。そして切りのいいところでその新しい本を手にすることが多い。で、買ってきた本は一階の出入り口に近い本棚に入れておく。
 今私は、一階で寝起きしているので、一階の入口近くの棚に読みたい本を置いておく。その方がすぐ取りやすい。2段ほど近々読む本が並んでいる。この2段はただ本を入れて置くだけで、著者もジャンルも関係ない。
 そしてそこから取り出して読み終えた本は、きちんとあるべき所に収める。基本著者別に本を並べているので、そこへ収める。
 面白いもので、あるべき所に収まった本は、今まで仮に置かれていた本棚はどこか落ち着きのない感じであったのが、やっと定住の場所に収まったという安定感を感じてしまう。特に佐伯一麦さんの『鉄塔家族』はがたいが大きいので、同じ佐伯さんの本が並んでいる場所に収まるとその存在感が増す。こうやって私の本たちは読み終えれば定位置を確保していく。(2016年1月12日)
by office_kmoto | 2016-01-23 16:09 | 余滴 | Comments(0)

松村 賢治 監修 『暦のある暮らし―旧暦で今を楽しむ』

d0331556_554949.png 相変わらず天気予報はテレビでよく見ている。そこでよく出てくるのが旧暦とか、二十四節季とかいう言葉である。これが気になっていた。佐伯一麦さんのエッセイを読んでいても、月齢とか出てくる。それでこの本を読んでみた。読んでみてわかったことを書いてみる。
 まずは旧暦である。旧暦とは何か。この本では次のように解説されている。


 日本で、明治5(1872)年まで1300年以上も使われてきた旧暦です。正式には太陰太陽暦とよばれ、月の運行に太陽暦の要素を加味しています。旧暦は1年が平均354日で、1カ月は29日か30日になり、何月がどちらになるかは毎年変わります。そして19年7度、1年が13カ月になる閏月を設けてずれを調整します。


 なるほど旧暦は月の運行を基本とした暦だとは知っていたが、1カ月が29日か30日で、19年7度、1年が13カ月になるとは知らなかった。
 そして二十四節季とは、


 古代中国で、太陰暦と太陽暦の差を修正するために考え出されたものです。太陽が1年間に移動する道筋(黄道)を24等分して、季節の移ろいの基準点としました。1年を24の季節に分けるので、1カ月の中に「節季」と「中気」という2つの季節区分ができます。


 すなわち次のようになる。旧暦は新暦に比べだいたい1カ月遅いので、旧暦の1月は新暦の2月となる。春はここから始まる。(このレジュメはこの本とウィキペディアを参考にした)


<旧暦1月>
 節気 立春 (りっしゅん)-新暦2月4日頃
 寒さも峠を越え、春の気配が感じられる

 中気 雨水 (うすい)-新暦2月19日頃
 陽気がよくなり、雪や氷が溶けて水になり、雪が雨に変わる
<旧暦2月>

 節気 啓蟄 (けいちつ)-3月6日頃
 冬ごもりしていた地中の虫がはい出てくる

 中気 春分 (しゅんぶん)-新暦3月21日頃
 太陽が真東から昇って真西に沈み、昼夜がほぼ等しくなる

<旧暦3月>

 節気 清明 (せいめい)-新暦4月5日頃
 すべてのものが生き生きとして、清らかに見える 。

 中気 穀雨 (こくう)-新暦4月20日頃
 穀物をうるおす春雨が降る

 そして旧暦4月から夏である。

<旧暦4月>

 節気 立夏 (りっか)-新暦5月5日頃
 夏の気配が感じられる

 中気 小満 (しょうまん)-新暦5月21日頃
 すべてのものがしだいにのびて天地に満ち始める

<旧暦5月>

 節気 芒種 (ぼうしゅ)-新暦6月6日頃
 稲や麦などの(芒のある)穀物を植える

 中気 夏至 (げし)-新暦6月21日頃
 昼の長さが最も長くなる

<旧暦6月>
 
 節気 小暑 (しょうしょ)-新暦7月7日頃
 暑気に入り梅雨のあけるころ
 暑中見舞いを出せる時候

 中気 大暑 (たいしょ)-新暦7月23日頃
 夏の暑さがもっとも極まるころ

 そしてここから秋となる。

<旧暦7月>
 
 節気 立秋 (りっしゅう)-新暦8月7日頃
 秋の気配が感じられる
 暑中見舞いから残暑見舞いへ

 中気 処暑 (しょしょ)-新暦8月23日頃
 暑さがおさまるころ

<旧暦8月>

 節気 白露 (はくろ)-新暦9月8日頃
 しらつゆが草に宿る

 中気 秋分 (しゅうぶん)-9月23日頃
 秋の彼岸の中日、昼夜がほぼ等しくなる

<旧暦9月>

 節気 寒露 (かんろ)-新暦10月8日頃
 秋が深まり野草に冷たい露がむすぶ

 中気 霜降 (そうこう)-新暦10月23日頃
  霜が降りるころ

 そして冬。

<旧暦10月>

 節気 立冬 (りっとう)-新暦11月7日頃
  冬の気配が感じられる

 中気 小雪 (しょうせつ)-新暦11月22日頃
 寒くなって雨が雪になる

<旧暦11月>

 節気 大雪 (たいせつ)-新暦12月7日頃
 雪がいよいよ降りつもってくる

 中気 冬至 (とうじ)新暦12月22日頃
 昼が一年中で一番短くなる
 寒さが本格的になる時候

<旧暦12月>

 節気 小寒 (しょうかん)-新暦1月5日頃
 寒の入りで、寒気がましてくる
 この日から節分までが寒の内

 中気 大寒 (だいかん)-新暦1月20日頃
 冷気が極まって、最も寒さがつのる


 いずれも農業や年中行事など古くから生活の様々場面で親しまれてきたものであるようだ。さらにこの二十四節季をさらに三等分(初候、次候、末候)して七十二候というものもあるらしい。


<立春>
 初候 東風解凍  東風が厚い氷を解かし始める
 次候 黄鶯睍睆  鶯が山里で鳴き始める
 末候 魚上氷 割れた氷の間から魚が飛び出る

<雨水>
 初候 土脉潤起 雨が降って土が湿り気を含む
 次候 霞始靆  霞がたなびき始める
 末候 草木萠動  草木が芽吹き始める

<啓蟄>
 初候 蟄虫啓戸 冬蘢りの虫が出て来る
 次候 桃始笑 桃の花が咲き始める
末候 菜虫化蝶 青虫が羽化して紋白蝶になる

<春分>
初候 雀始巣 雀が巣を構え始める
次候 桜始開 桜の花が咲き始める
末候 雷乃発声 遠くで雷の音がし始める

<清明>
初候 玄鳥至 燕が南からやって来る
次候 鴻雁北 雁が北へ渡って行く
末候 虹始見 雨の後に虹が出始める

<穀雨>
初候 葭始生 葦が芽を吹き始める
次候 霜止出苗 霜が終り稲の苗が生長する
末候 牡丹華 牡丹の花が咲く

<立夏>
初候 蛙始鳴 蛙が鳴き始める
次候 蚯蚓出 蚯蚓が地上に這出る
末候 竹笋生 筍が生えて来る

<小満>
初候 蚕起食桑 蚕が桑を盛んに食べ始める
次候 紅花栄 紅花が盛んに咲く
末候 麦秋至 麦が熟し麦秋となる

<芒種>
初候 螳螂生 螳螂が生まれ出る
次候 腐草為蛍 腐った草が蒸れ蛍になる
末候 梅子黄 梅の実が黄ばんで熟す

<夏至>
初候 乃東枯 夏枯草が枯れる
次候 菖蒲華 あやめの花が咲く
末候 半夏生 烏柄杓が生える

<小暑>
初候 温風至 暖い風が吹いて来る
次候 蓮始開 蓮の花が開き始める
末候 鷹乃学習 鷹の幼鳥が飛ぶことを覚える

<大暑>
初候 桐始結花 桐の実が生り始める
次候 土潤溽暑 土が湿って蒸暑くなる
末候 大雨時行 時として大雨が降る

<立秋>
初候 涼風至 涼しい風が立ち始める
次候 寒蝉鳴 蜩が鳴き始める
末候 蒙霧升降 深い霧が立ち込める

<処暑>
初候 綿柎開 綿を包む咢(がく)が開く
次候 天地始粛 ようやく暑さが鎮まる
末候 禾乃登 稲が実る

<白露>
初候 草露白 草に降りた露が白く光る
次候 鶺鴒鳴 鶺鴒(せきれい)が鳴き始める
末候 玄鳥去 燕が南へ帰って行く

<秋分>
初候 雷乃収声 雷が鳴り響かなくなる
次候 蟄虫坏戸 虫が土中に掘った穴をふさぐ
末候 水始涸 田畑の水を干し始める

<寒露>
初候 鴻雁来 雁が飛来し始める
次候 菊花開 菊の花が咲く
末候 蟋蟀在戸 蟋蟀(きりぎりす)が戸の辺りで鳴く

<霜降>
初候 霜始降 霜が降り始める
次候 霎時施 小雨がしとしと降る
末候 楓蔦黄 もみじや蔦が黄葉する

<立冬>
初候 山茶始開 山茶花が咲き始める
次候 地始凍 大地が凍り始める
末候 金盞香 水仙の花が咲く

<小雪>
初候 虹蔵不見 虹を見かけなくなる 虹蔵不見 虹を見かけなくなる
次候 朔風払葉 北風が木の葉を払い除ける
末候 橘始黄 橘の葉が黄葉し始める
<大雪>
初候 閉塞成冬 天地の気が塞がって冬となる
次候 熊蟄穴 熊が冬眠のために穴に隠れる
末候 鱖魚群 鮭が群がり川を上る

<冬至>
初候 乃東生 夏枯草が芽を出す
次候 麋角解 大鹿が角を落とす
末候 雪下出麦 雪の下で麦が芽を出す

<小寒>
初候 芹乃栄 芹がよく生育する
次候 水泉動 地中で凍った泉が動き始める
末候 雉始雊 雄の雉が鳴き始める

<大寒>
初候 款冬華 蕗の薹(ふきのとう)が蕾を出す
次候 水沢腹堅 沢に氷が厚く張りつめる
末候 鶏始乳 鶏が卵を産み始める


 まあこれはあまり知らなくても問題ないかもしれない。さらに五節供というのもこれに加わる。


 1月7日の人日 (じんじつ)
 3月3日の上巳 (じょうし) 桃の節供
 5月5日の端午 (たんご)
 7月7日の七夕 (しちせき)
 9月9日の重陽 (ちょうよう)


 たぶんこれらに雑節を加えれば、基本的に暦日に関して網羅出来るようである。雑節とはこの本によれば次のようにある。


 二十四節季や五節供が、人々に季節の節目や変わり目を教え、農作業や生活の指針、行事を行う目安となってきました。雑節は、そうした暮らしの基準点のすき間を埋めるものです。


 では雑節とは何か。
 節分 (せつぶん)
 季節の分かれめのことで、もとは四季にあった。立春の前日。

 彼岸 (ひがん)
 春分と秋分の前後の3日ずつの計7日のこと。初日を彼岸の入り、当日を中日(ちゅうにち)、終日を明けと呼ぶ。

 社日(社日)
 春分または秋分に最も近い戊(つちのえ)の日が社日となる。

 八十八夜 (はちじゅうはちや)
 立春から数えて88日目をいう。霜が降りることが少なくなる頃。

 入梅 (にゅうばい)
 太陰太陽暦では芒種の後の壬(みずのえ)の日。つゆの雨が降り始める頃。

 半夏生 (はんげしょう)
 太陰太陽暦では夏至より11日目にあたる

 土用(どよう)
 太陰太陽暦では立春、立夏、立秋、立冬の前18日間を指した。最近では夏の土用だけを指すことが多い。

 二百十日 (にひゃくとおか)
 立春から数えて、210日目の日。

二百二十日(にひゃくはつか)
立春から数えて、220日目の日。


 このくらい押さえておけば、天気予報などで、何とか暦を理解できるだろうか?
 あと月の形とその名前も詳しく知らなかったので、ここに書いておく。画像はAll Aboutというサイトの画像を借用した。


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 この月の満ち欠けは潮の干満に関係するが、その詳しい内容を読んで、なるほどそうだったのか、と知ったのでそれを最後に書いておく。


 新月と満月の頃は月と太陽の引力が合力となって、干満の差が最大になります。これを大潮とよびます。その中間にあたる、上弦と下弦の月の頃は太陽と月の引力が打ち消し合い、干潮の差は最小になります。これが小潮です。


 この本の後半は吉凶と方位の話になっているが、これは興味がないのでまったく頭に入ってこなかった。
 この本は私は図書館で借りたのだが、いわゆるリファレンスブックとして手元に置いておいてもいいかもしれない。


松村 賢治 監修 『暦のある暮らし―旧暦で今を楽しむ』 大和書房(2015/09発売)
by office_kmoto | 2016-01-22 06:04 | 本を思う | Comments(0)

貼る

 南木佳士さんの「風鐸」にこんな文章があった。


 昭和四十四年初版の本は紙が濃い茶色に変色しているので強い陽射しの下で読んでも眩しくない。


 この文章が言っていることはよくわかる。新しい本で紙質が白っぽい本を陽射しの下でなくても、蛍光灯の下で読んでいると、文字が光ってしまい読みとれないことがある。その点古本はそんなことはない。まさに南木さんが書く通りである。古本はやさしいのである。
 ところで私は読んでいる本で気になった文章に出会うと、付箋を貼る。本に赤線を引いたり、ラインマーカーで塗るのが嫌なのである。というかそれが出来ない性格なのである。だから付箋を貼る。使っているのはフィルム素材のポスト・イットである。これは粘着力が強い上に、丈夫であるから、使い終わったら剥がして、何度も使えるから重宝している。
 しかしこれを古本に貼ると、ページの紙が剥がれてくる。古本であるために紙が劣化して、紙質が弱くなっているのだ。だから粘着力の強いフィルム素材のポスト・イットではダメなのである。それで困っていた。読んでいる本は古い本が多いので、このままじゃまずいな、と思っていた。
 ということで紙の付箋を買ってくる。これなら粘着力も弱いので、ページも剥がれない。古本にもやさしい。

 この付箋を手にして思い出すことがある。私が本屋の現場から、会社の経理に移った頃、会計伝票を苦労して仕上げて、会計士さんに渡したとき、帰って来た伝票が付箋だけだったのだ。問題のある箇所にすべて貼り付けてあった。
 最初は嫌な思いをしたが、もともと簿記の知識などまるっきりない人間だったので、知らないことが多くあったのでそれも仕方がなかった。
 昔の伝票を参考にしたり、本で学んだことを自分なりに駆使して書き上げた伝票であったが、やはり素人は素人である。それがべったりと貼り付けられた付箋が物語っていた。その時貼ってあった付箋がこの紙のポスト・イットであった。
 とにかくこの付箋が貼ってある箇所を解決しなければならない。私は何度も会計事務所電話を入れ、質問した。私がずぶの素人であることを知っている会計士さんとは月に何度も会社に足を運んでくれたので、その時は長いこと私に付き合ってくれ、問題箇所を丁寧に説明してくれた。私がとにかく形だけでも簿記を理解できるようになったのはこの人のお陰である。この人が教えてくれたから、最後まで会社にいられた。
 この会計士さんは寿退社して、後を引き継いでくれたのが税理士のMさんである。私はこの人からは、会社の経営のイロハを経理を通して教えてもらった。(2016年1月10日)
by office_kmoto | 2016-01-19 05:45 | 余滴 | Comments(0)

白川 密成 著 『ボクは坊さん。』

d0331556_618114.jpg この本のことは知らなかった。何でも今度映画化されるらしく、そのCMで著者は書店員からお坊さんになった、とあった。その書店員から、というのに食いついてしまった。その異色の経歴に興味が湧き読んでみた。普通書店員からお坊さんに成る人などそうそういまい。
 読んでみると、著者の祖父が四国八十八ヵ所の栄福寺の住職で、著者はその後を継いだ。高野山大学を卒業した後、地元の書店に就職し書店員となり、祖父が亡くなったあと寺を継いだ。そんな若い新米の僧の話である。


 どんな世界でも同じであると思うけれど、そこに所属したからといって、その職業に必要な素養がいきなり身につくわけではない。美容師が美容師として認められるには、数年はかかるだろうし、「一人前」として求められる技術は半端なものではないだろう。それは、本屋さんだって、パン屋さんだって先生だって、多分そうだ。
 坊さんも同じこと。しかも、僕たちの「仕事」は時に生と死にまつわる仕事だ。


 まあ正直なところ、坊主に関していいイメージは持っていない。それは自分の周りに尊敬できる僧がいなかったし、どちらかといえば寺の経営に奔走しているかのようなところが見えて、生臭さが人の死を扱っているだけに、余計に目立ってしまって、心の中で「この野郎!」と思うことが多かった。葬式や法事の時の講話など聞いていても、無教養丸出しで、思わずこいつ馬鹿じゃなかろうかと思うことも多い。時に高級車を乗りましているのも何度も見かける。
 そんな坊主ばかり見てきたから、この人はまだ初々しいし、これからどんな坊さんになるのか楽しみさえ感じる。仏教という拠り所を心から感じ、考え、まだ坊さんに成り立てだからということで、ものすごく謙虚だ。逆にそれだけ考えていることが心に浸みる。


 仏教は一般に日本で考えられているイメージよりも、ずっと理知的な側面をもっている。「さとり」や「しあわせ」のために“しくみ”を探求して論理的作戦をすこしずつ積み上げていっているように見えることがある。(略)
 しかし、それでも「坊さん」と「死」は、やはりとても近しい存在だと僕は思う。人がすこしでも、「生命」や「生きる」ということについて、深く思いを巡らしたとしたら、そこに間違いなく登場するのは「死」だ。そんなことを考えることの多い「仏教」の「坊さん」に死の儀礼を人々が任せ始めたことは、むしろ自然な流れだったのかもしれないし、僕は今でもその役割を担わせてもらうことが、「大きな意味のあることだな」と感じることが多い。


 そして、そんなお墓の話になったら、「もしかしたらお墓は生きている人のためにも、つくるものかもしれませんね。亡くなった人と話したい、手を合わせたい、という時に、やりやすいですから」と正直に思ったことを話すと、「あっ、それも、そうだね」と意外に納得する人が多かった。“思い出の再生装置”。そんな機能をお墓や埋葬に関するあれこれは、僕たちの中でひっそりと、じっくり担ってきたのかもしれない。死者のために「墓をつくり、飾る。そして祈る」。考えてみたら、それは想像以上に繊細な行為だ。「人間が人間たる場所」の大切なひとつだと思う。


 たぶん、いいのだ。仏教に自分の思いや、気持ちを対話させても、いいのだ。いや、勝手な僕の感情を吐露するならば、そうしたほうが「宗教」は“いいもの”になりやすいと思う。
 宗教は「もともとあるもの」ではない。人間が、一切の生きるものたちが、より生きやすく、“しあわせ”を得るために試行錯誤を重ねてきた方法論のひとつの過程でもある。だから僕は、これからも慎重に耳を澄ませながら、時に直感的に、自分自身と宗教を素直な心で対話させてみたい。


 仏教は「うれしい」ためにあるものだと僕は思うから、しかめっ面でいることよりも、できるならば笑顔であることを目的としたい。


 「宗教の中の信仰」という、とてつもなく大きな命題を前にして、初心の坊さんである僕が、はっきりと言えることはとても少ないけれど、少なくとも僕自身は、「信仰」というものを、「自分の中にしっかりと流れる旋律のような物語に触れようとする。そしてその続きを綴ろうとすること」でもあると思っているのだ。


 「宗教は、自身の中にある旋律のような物語と出会う場所」
 そんな直感を含んだ寒色を、僕はうまく伝えることができない。しかし宗教のそんな素敵な側面を、すこしずつでも誰かに語りかけることができればいいな、と思うし、それを一番聞きたがっているのは、じつは自分自身なのかもしれない。


 宗教には、さまざまな意味をひっくるめた「思想」や「アイデア」、「祈り」「世界観」などを“長期保存”することができるという、保存装置のような性格があるのかなと思うことがある。僕は、これを宗教のもっている「いい面」のひとつだと考えている。


 これらの言葉を引き出してみると、なるほどそうかもしれないと同感できる。それはやはり著者がとことん謙虚であるから、知らぬ間に引き込まれていく。人は何においても謙虚で、一心に考えついた言葉には耳を傾ける。
 一方でというか、だからこうして自分の中で仏教という信仰が拠り所となっている著者をうらやましくも思えてくる。こうして仏教や今の自分に何が出来、出来ないかを考え、さらに人として何かを考えていったとき、次の言葉はさらに傾聴に値する。


 僕たちのあらゆる行為を「人間だけがすること」「動物全般がすること」に分けて考えると、いろいろな意味で社会や個人が“不調”の時というのは、そのバランスが偏っている時が多いのかもしれない。おそらく「人間固有」に振れすぎても、人間は動物なのでどこか居心地が悪いし、「動物」の成分が強くなりすぎても、人間は動物界の中でかなり固有な存在なので、バランスが悪くなってしまうように思った。


 そのバランスをとることを「ととのえる」と著者は言っているが、それは「仏教の話をこえて意味のあることだ」と思っていると書いている。一心に仏教に帰依し、考え出てきた言葉の一つのように思える。


 最後に坊さんが集まった野球チームがあって、その名前が「ナム(南無)・スターズ」という。その試合の開会式の大会代表挨拶があるのだが、その代表が欠席のことが伝えられる。


 「みなさん、こんにちは。今日、代表は欠席でございます。お葬式です」


 大笑いしてしまった。


白川 密成 著 『ボクは坊さん。』 ミシマ社(2010/02発売)
by office_kmoto | 2016-01-17 06:20 | 本を思う | Comments(0)

平成28年1月日録(上旬)

1月1日 金曜日 元旦

 はれ。

 あけましておめでとうございます。

 朝7時ちょっと前にテレビをつけると、どこの局でも富士山からの初日の出を映し出している。それだけ今年は関東地方は良い天気の元旦を迎えられたということだ。
 妻はテレビで映し出されている富士山からの初日の出をスマホで写真に撮っている。お手軽でいい。何でもこれを待ち受けにすると縁起がいいらしい。

 8時頃年賀状が届く。1年に1回しか連絡のやりとりをしない友人の近況を知ることができるが、年に1回しかやりとりしないものだから、こちらが出した年賀状と変に食い違ってしまう。確かに昨年と同じということは一概に言えないわけで、まして私たちの年齢は変化の激しい世代だから、状況が変わっている場合多い。
 まだ会社に在籍していると勝手に思っていても、辞められたと書かれると、ああ、そうなんだ、と思ってしまう。
 もう一人の同僚に出した年賀状が返送されてきた。住所が違っているらしい。住所が変わったことは知らされていないかった。せっかく出したのに、という気持があって、改めて書き直す気がなくなってしまった。今年は勘弁してもらおう。もしかしたらこれで年賀状だけの関係が切れるかもしれないけど、それも仕方がない。

 小さなノートを一冊買った。今までは手帳を持っていたが、日々のスケジュールはそれほどないので、むしろ好きなときに好きなことを書き込める方がいい。ちょっとしたメモ的なこともここに書き込めればと思っている。いつも手元に置いておこう。

 朝と昼はのんびりと過ごす。夜からは読もうと思っていた本を読み始める。佐伯一麦さんの以前読んだ本だ。楽しみに今日まで取っておいたので、ゆっくり読もうと思う。

 我が家のおせちは元旦の夕食としている。大晦日夜遅くまで起きているので、朝起きるのが昼頃になってしまうことが多かったからだ。
 1年に1回のお雑煮が美味しい。例年お餅を2個食べるのだが、ビールも飲んでいるし、おせち料理もほどほどにある。仮歯の問題もあるし、昔みたいにそれほど食べられなくなっていることもある。妻に言われ、今年はそうしたのだが、それで良かったようだ。食べすぎずに済んだ。

 5年連用日記はまた一番最初に戻った。ここには読んだ本、買った本など記入していたが、今年はこれまでの年と違って冊数を気にせずのんびりと本を読もうと思っている。
 ここにどんな本の名前が記されるかそれも楽しみだ。


1月2日 土曜日

 はれ。

 娘夫婦と孫が来る。
 昼食を一緒にしてから、私の実家に行く。孫は実家で飼っている犬が好きで、ここへ来る度に犬を追いかけている。
 しばらくすると弟家族もやってくる。甥っ子の彼女も加わって、大賑わいとなる。孫は甥っ子に遊んでもらい、大はしゃぎであった。


1月3日 日曜日

 はれ。

 今年の正月はかなり暖かい。というか、この冬がとにかく暖かい。冬が寒くないのは有り難いが、どこかおかしい、という気持ちがつきまとう。
 午前中新中川の土手に出て、孫と凧揚げをする。凧揚げをするというよりは、孫の場合、凧を持って走るという感じになってしまう。まあ土手は広いので、走るには障害物もないからちょうどいい。もう一つ先の橋まで走り倒していた。一緒に付き合って走っている私の方が息が上がってしまう。


1月4日 月曜日

 はれ。今日も暖かい。

 世間では今日が仕事始めということで、それをニュースで映し出していた。新年の挨拶など見ていると、ああ、こういうことをやっていたな、と思う。銀行へ挨拶に行けば、振り袖を着ている女性行員がいる。無理!と思って思わず目をそむけてしまうが、付き合いだから仕方がない。これが嫌で嫌で、仕方がなかったものだ。
 普段ノーネクタイで仕事をしていたから、この時だけネクタイを締めて新年の挨拶するのも窮屈だった。

 昨年甥っ子の結婚式に出席したが、新婦側のカメラマンが撮った写真を見る。最近はインターネットのサーバーに写真をアップして、見たい人はログインしてどこでも見ることが出来るから便利である。
 面白いもので、新婦側が用意したカメラマンなので、新婦がいい顔をしているけれど、新郎は眼をつぶっていたり、違う方向を向いている写真が多かった。あくまでも新婦中心であることがわかる。これが私だと新郎中心になるのと同じである。できる限り偏らないようにカメラをあちこちに向けたが、どうしてそうなってしまう。だからそれは仕方がない。
 料理などの静止画像はきれいに撮っているのに人物写真はぶれていたりする。おそらくプロのカメラマンではなかろうと思われる。接写された写真を見ると、カメラの性能かレンズはいいようで、私同様趣味人が撮った写真とわかる。
 しかしもう甥っ子の結婚式は“お腹いっぱい”である。私は長く関わるのも鬱陶しいから、撮った写真のデータを甥っ子にすべて渡してしまった。あとは勝手にやってということである。
 ところが義理の妹によると、まだ式のビデオがあるらしい。やれやれ、この攻撃はしばらく続くかもしれない。


1月5日 火曜日

 はれ。

 年末予約しておいた歯医者へ行く。そしていつも行っている胃腸科の病院も近くにあるので、薬もなくなることだし、ついでに行って薬をもらう。ここのところ調子がいいので、ひとつ弱い薬に戻してもらう。
 正月明けで病院で待たされると思い、読みかけの佐伯一麦さんの重たい大きな本をカバンにつめて持って来たが、以外に空いており、すぐ名前を呼ばれ、読む暇がなかった。

 正月に来た孫たちの写真をプリントアウトして、アルバムに貼る。


1月6日 水曜日

 くもり。

 父親の大腸内視鏡検査に付き添う。どうやらここの病院は今日から始まったようで、病院に入ったとたん待っている人の多さに驚いてしまう。しかもそのほとんどが年寄りである。こういう地域の病院というのは、地元の老人のための病院となっていることがよくわかる。しかしこういう光景は初めて見たので、圧倒される。
 私のように付き添っている人も、その妻や夫であったり、子供であってもそれなりの年齢がいっている。若い人が病院関係者だけというのも異様といえば異様であった。
 幸い父親の検査は問題なく終わった。

 佐伯一麦さんの『鉄塔家族』を読み終える。正月早々大作を読んだ充実感がある。


1月10日 日曜日

 はれ。

 Outlookの閲覧ウインドウが表示されなくなってしまった。設定して再起動しても同じであった。どうしてこうなったのかわからないままそのままにしておいたが、メールの開封が面倒であった。一度クリックしてメールを別のウィンドウで開かないと、開封されないのだ。面倒臭くさくて仕方がない。
 おかしいと思いつつよくよく眺めているとOutlookがセーフモードで起動している。これが何なのかよくわからないのでネットで調べてみると、どうやら先月勝手に行っているwindows updateが原因らしい。結局Outlookの更新プログラムを削除することで問題が解決した。
 windows updateって、プログラムに問題があるからマイクロソフトが更新するものなのだろうと思っていたが、このように余計なことをしてしまうこともある。まったくやめてほしいよな。

 山口瞳さん『男性自身』を読み終える。


1月12日 火曜日

 くもり時々雨/雪

 今日は寒い一日であった。明け方雪が降り、東京では初雪を観測したそうである。明るくなってからもみぞれ交じり雨が降った。

 ところでこの日録しばらく休もうと思っている。というのも新しい年を迎えて、このブログで何か新しいことをやりたいと思い、新しいカテゴリーを作った。それを「動詞が表題の随想」とする。
 これは開高健さんの『白いページ』を真似した。動詞は文字通り動きがある。だから現在進行形で物事が書けるのではないか、と思ったのである。
 時々思いつくことがあって、それをできる限りこの日録に入れてきたが、どうしても無理が生じる。例えばそこに思い出話を加えると、長くなってしまう。日録が日録でなくなってしまう。それに日録は日記と同じところがあるので、読まされる側も、鬱陶しいんじゃないか、と思い始めた。そこでこれを休んで、この新しいカテゴリーを始めてみることにした。ちょっとした実験である。どうなることやら・・・・。
 とりあえずこの1月上旬は書いているので、これで休止としたい。

 山口瞳さんの『ポケットの穴』を読み終える。


1月13日 水曜日

 はれ。東京で初氷がはったという。

 予約していた歯医者に午前中行く。差し歯の台座を作り、隣の歯の虫歯を治療してもらう。約2時間ほどほぼ口を開けたままだったので、治療が終わって、いささか疲れたしまった。しかも虫歯の治療のため、麻酔を打たれているので、しばらく上唇がしびれていた。

 今日から区の図書館が始まった。何でも年末からシステムの更新のため2週間ほど休館であった。なので年末に借りた本を返すのと、予約してあった本を3冊借りてくる。
 午後はこれらの本から1冊読んで過ごす。


1月14日 木曜日

 はれ。

 田口幹人さんの『まちの本屋―知を編み、血を継ぎ、地を耕す』を読み終える。


1月15日 金曜日

 はれ。

 この日録はとりあえず、今日で一休みすることにする。明日から違うカテゴリーで書きたい。しかし書きたいことはたくさんあって、それをどうまとめようか、あれこれ迷う。珍しく書きたくて仕方がなかった。しかしこういうときはそのまま書きすすめると、まとまりがつかなくなることがよくわかっているので、少し頭を冷やす必要がある。
 まずいつものように散歩に出かける。図書館まで歩く。一昨日に本を3冊借りているのだが、もう1冊予約している本が届いたという連絡をもらったのでそれを借りるのと、他に1冊読みたい本が出て来たので、合わせて借りてくる。
 せっかく図書館に行ったので、今月の文藝春秋に司馬遼太郎さんの未発表原稿『「竜馬がゆく」がうまれるまで』が掲載されているのでそれを読んでくる。
 この原稿は毎日新聞の社内報に掲載されていたもので、『竜馬がゆく』がどういう経緯で書かれるのようになったのか、その一端が書かれている。毎日新聞の社長が司馬さんに破格の原稿料で書くようにと言う。司馬さんはその原稿料に驚き、減額をしてくれるように頼んでいるが、社長は会社は予定通り原稿料を払う。半分はどぶに捨てたかったらどぶに捨てればいい、とさえ言い切るところはすごいな、と思ってしまった。この頃のやりとりというのは太っ腹で豪快である。今じゃこんなことを言える社長もいないだろうな、と思われた。
 散歩から帰ってから、昨日読んだ本のことを書いた。その後他のことも書こうと思っていたが、今朝起きたツアーバスの事故ニュースをあちこちのテレビ局のニュースを見ていたら夕方になってしまい、書けなくなってしまった。いかんな・・・・。
 それにしてもどうしてこうしたバス事故が起こるのだろうか?何かがどこかで狂っているのではないか。
by office_kmoto | 2016-01-15 18:56 | 日々を思う | Comments(0)

色川 孝子 著 『宿六・色川武大』

d0331556_17335429.jpg 色川孝子さんは色川武大さんの夫人であり、色川武大さんとは16歳も年の離れた従兄同士であった。だから子供の頃から色川武大さんのことをよく知っている。


 当時はなかなかの二枚目で、目は切れ長、まつげは長く、痩せ気味で、精悍なムードを漂わせていました。きっと、女性にももてたに違いありません。
 いつも神妙な顔をして、異様な雰囲気を漂わせ、簡単に人を寄せ付けない独特の個性をもっていた印象があります。とくに目の表情は豊かで、暖かさ、厳しさ、鋭さ、そして寂しさを感じました。


 そんな孝子さんが久しぶりに色川さんに再会したときの変わりように驚く。そのとき孝子さんは結婚が決まっていたが、色川さんに再会したときに「この男は、二、三年で死ぬに違いない。それまでの間でも、そばにいてあげよう」と自分の結婚を破談にして色川さんと暮らし始める。


 私は、冒険心に満ちあふれていた女性だったかもしれません。親の反対を押し切って、それも籍を入れないという条件で、目白のマンションに部屋を借り、彼と暮らすことになったのです。


 色川武大さんはナルコレプシーという奇病であることは有名な話で、その病気の影響で肥満となってしまっていた。


 色川は一日に五、六回は食事をするのです。ナルコレプシーという奇病は、突如、眠りこんだり起きたりで睡眠が断続的になってしまうので、一日三食のリズムも不規則になり、起きている間じゅう、空腹感にさいなまれているらしいのです。
 ともあれ、一日六食、料理を作るのは並大抵のことではありません。


 なるほどこれなら色川武大さんが肥満になってしまうのは当然であった。しかも一食のうち、外食となれば、普通その分減らすことになるが、色川さんの場合、ただ回数が増えるだけあったという。とにかく食欲が無限であった。


 「カレーライスっていうのは、不思議に月に一度は食いたくなるものだなあ」
 私も、同感です。しかし、彼は大皿にカレーだけがわずかでも残ったならばライスを追加し、かと言ってライスが残ったならばカレーをお皿へと。この繰り返しが永久に続くのでした。そばにいる私だって涎が垂れるほどカレーが食べたいのですが、
 「ライスがあまっているから、カレーを入れてくれ」
 「ライスがあまっちゃったよ。ライスをもう少しくれ」
 と、数分ごとに命令され、立ったり座ったりで大忙し。カレーとライスがうまい具合に一致しないかぎりは、終止符が打たれないのです。たちまちのうちに、大皿にして四杯は平らげてしまうのでした。


 歯が痛くなっても、一日六回の食事を欠かさなかったという。
 しかし孝子さんも変わった人だ。決まっていた結婚話を破棄してまで色川武大さんがそう長く生きられないだろうから一緒にいてやろうとする。だから色川さんとの波瀾万丈な生活の中でも、色川が死んだら自分には別な生活が待っていると思ったりする。事実色川さんが胆石の手術の後、胆管閉塞になってしまい、医者から絶望的な宣告を受けたとき、


 私もやっと色川の最期を看とってあげられる、これで安心してお嫁さんに行ける、など考えていたものでした。オペに入る前に、言葉に出さずとも、心の中で彼に別れを告げ、病室に戻って涙を流したのです。


 ゴキブリの話も面白い。


 そんなある日、女が家に住んでいないせいか(さすがに色川さんとの生活に嫌気がさし、別居を決意する)、台所には、色川のような肥満体のゴキブリが住みつき、二、三匹、ノソノソと這っているではありませんか。私と出くわしたが最後、ゴキブリは覚悟をしなければならないのです。彼が人にお金をあげることが趣味ならば、私だって趣味があるのです。何を隠そう、ゴキブリを殺すことなのでした。ゴキブリと出会った瞬間に、眼の悪い私が急に視力がよくなり、普通の人と同じように見えるような感覚になるのです。(孝子さんの視力は左眼が0.01、右眼はほとんど視力が計れないほどの弱視)


 伊集院静さんから生きた伊勢エビが送られてきた時、伊勢エビを殺すことが出来ず色川に頼んだとき、色川さんは、


 「君はゴキブリを殺す趣味のくせに、なんでエビが殺せないんだ」
 「だって、エビは首をへし折るときにキッキッと鳴くんですもの。かわいそうよ。きっと痛いにきまってるわよ。その点、ゴキブリは声ひとつ出さないから、痛くないのよ、きっと」


 さらに、色川武大さんが直木賞を受賞したときに、お祝いの電話に、

 「直木賞、おめでとうございます」
 「私がいただいたわけではありませんので」

 と答えたり、とにかく孝子さんも変わっている。
 しかし色川武大さんとの生活は大変だったろうと思う。ナルコレプシーという病気のため生命保険にも入れず、銀行からもお金は借りられないし、博奕や趣味に、さらにいろんな人にお金をあげてしまう。このあたりの色川さんの生き様は伊集院静さんの『いねむり先生』に詳しく書いてある。
 さらに色川さんの引っ越し癖は有名な話で、なかなか一つのところに落ちついていられない。それでも孝子さんは「私としては、せっかくここまで突っ張り人生をとおしてきた以上、途中で断念するわけにもいかないのです」と書く。なんだかんだと言っても色川自身も二人は一心同体という気分だったろうと思っていたという。


 私たちの場合は同志愛であり、戦友愛であったのではないでしょうか。かたやナルコレプシーという奇病の持ち主、かたや強度の近眼、お互い身体障害者同士の助け合い運動のような含みもあったのです。そして、いとこ同士という原点が心の奥底に秘められ、これが二十年という長い歳月を支え、戦いを持続できた理由のほとんどと言っても過言ではないのです。


 孝子さんも突っ張りながらも生き抜いてきた。そして夫である色川武大さんも病気もそうだけれど、それ以外にも生きることに苦しんできたことを孝子さんはよく知っていた人であった。だから二人はやっていけたのである。


 しかも、自虐的な男だっただけに、辛く、苦しい人生ではなかったろうかとも思います。世間では無頼派というイメージが濃く、無理してそのイメージに合わせた、ふりをし続け、お芝居をしていたかのような気配が感じられるのでした。


色川 孝子 著 『宿六・色川武大』 文藝春秋(1990/04発売)
by office_kmoto | 2016-01-13 17:35 | 本を思う | Comments(0)

佐伯 一麦 著 『鉄塔家族』 再読

d0331556_5475415.jpg この正月読もうと取っておいた本がこの本である。この本も今度は自分の本として読もうと思っていたのである。だから元旦から今日まで一週間かけてじっくり読んでみた。そして年の初めに読んで良かったと思った。
 話は例の集合住宅で作家の斎木鮮と草木染めの奈穂夫婦と近所に暮らす人びとがおりなす話しと、近くに建てられていくテレビ塔の模様が描かれる。言ってみれば、横に斎木夫妻との人々のつながりを、そして縦に鉄塔が出来上がっていく模様を立体的に描いているといっていいかもしれない。
 人は高い建物があると立ち止まって上を見ないだろうか。ここでも鉄塔が段々出来上がって、高く伸びていく姿を人々は見あげて眺めている。


 バスがやってきて目の前を通り過ぎ、終点で停まった。乗客達は、バスを降りると、決まって鉄塔の伸び具合を見遣るようにした。運転手も降りて煙草を一服しながら、鉄塔を仰ぎ見た。


 人々にはその鉄塔が生活の一風景となって、どこにいても、その鉄塔のことを思いだし、ときにはそれが見えなくても鉄塔のある方面を向く。斎木が病院に入院して窓から外を眺めているときも鉄塔のことを思い出す。
 ただ人は窓から外を眺めるとき、そこに何が見えているかは、あまり関係のないこともある。何となく窓辺に立って外を眺めたくなるときもある。私も毎日、何度も家の窓から外を眺めるが、別に目的があって眺めている訳じゃない。無意識に外を眺めたくなるのである。


 斎木はハッとした。窓を見るたびに、この病室からは見えることのない鉄塔に思いを馳せていた自分のことのように、小野田さんの後ろ姿が目に映った。実際に何が見えているかとは別に、窓辺へ立つ心というものはあるものだ、と斎木はいつか工事中に見た老婆の姿も蘇らせながら得心した。


 人にはそれぞれ他人に言えない事情があり、それを抱えながら生きている。ただその鉄塔の周りで暮らしている人々がそこに深くは関わらないけれども、接点として、思いを寄せるところが、この話のいいところではないか、と思う。


 へえ、と奈穂は、どんな仕事にでもその仕事をした者でなければわからない苦労があるもんだ、と感心して聞いた。


 再読すると、以前気がつかなかったことが気づくことが多い。あたらな発見がある。私はそこに書かれている言葉や文章が自分の気持ちに引っかかることが多ければ、その本はいい本だと思っているので、今回も多くの登場人物たちが語る言葉、思いをしみじみ味わった。


 南から北への列車による移動は、居ながらにして、定点観測の時間を逆回しにするようなものかもしれない。


 今の心境は、北へ流されるというよりも、この街へ来る気楽さの方が強いかも知れなかった。まあまあよく頑張ってきたんじゃないか、と納得する思いもあった。


 まさに「北帰行」がよく合う心境だ。黒崎さんが感じた「まあまあよく頑張ってきたんじゃないか」という思いは、ふと自分をふり返るとき思うことがある。ある程度歳をいった人じゃないとそういう思いになれない気がするし、言えない言葉だと思う。そこには屈託感もあるけれど、総じて見ればそういうことだ、と思える生き方であって欲しい。

 この小説では、ここで暮らしているという生活感がある。必然的に若い人たちより年配者、年寄りの“視線”になっている。そんな“視線”から発せられる言葉が身近に思えるのは、今の自分もそこにいるからだと思うし、それなりの年齢になっているからだろう。特に自分のからだとの付き合い方、あるいは何らかの病気を抱えていることが多い年齢だから得心してしまう。


 病院では病人は当たり前だが、街中で健康そうに暮らしていると見える人たちの中にも、こうやって病いを宥めながら生きている者は多いんだな、と今さらながら当たり前のことを知らされた気がした。


 外来の待ち合わせ所を通りかかると、やはり入院を待っているらしく大きなバックの荷物を持った夫婦連れが何組もいた。年寄りは、傍目からはどちらが病人かわからなかった。
 「入院するときって、みんな夫婦で来るんだ」
 奈穂が、改めて気が付いたように斎木に囁いた。


 このような風景はやはり病院に行くことが多くならなければ感じられないことだと思う。確かに人は病気と折り合いをつけながら生きていると思うことが多くなった。
 それなりの病院に行けば年配の夫婦連れが多い。最後は結局夫と妻のどちらかがお互いの面倒を見ることになる。それだけに夫婦という絆は強いし、頼りになる。そんなことを思うようにもなった。


 越してきたばかりの頃は、医師に勧められている散歩に、この石段を訪れるのが日課だった。当初のうちは、朝食前の早朝に一と汗掻いてくるようにしていたが、その時間には、色とりどりのトレーニングウェアを着て、腕をことさら大きく振って一心に早足で石段を上り下りしている年配者たちの姿が目立った。石段を昇り切ったところにある東屋で、ラジオ体操をしているグループもあった。顔が合えばいかにも同好の士へと向けたような、快活な朝の挨拶をかけられ、その度に斎木はぎこちなく応じた。自分にも同じ魂胆がひそんでいるのには違いないが、あまりにも剥き出しの健康志向には、気恥ずかしさが伴う気がした。
 それで、斎木は通勤や通学の人影が消える頃合いを見計らって散歩するようになった。


 このことは以前書いたような気がする。私も同じであった。毎日散歩に出かけるが、あからさまな健康志向には、さすがにまだついて行けない。そういえば嵐山光三郎さんが東京散歩した本を以前読んだが、そこには、東京は老人が思いのほか多い、と書いてあったのを思い出す。自由業の嵐山さんが散歩する時間帯には、現役バリバリの若者は会社で仕事をしているだろうから、日中、街をブラブラしていれば必然的にそうなる。


 生きていくためには、努力が必要なのだな、と斎木は一念発起して、スイミングスクールの入口のドアを押した。


 この小説も佐伯さんの特色である草木、鳥など、自然や生き物の姿季節ごとに描かれる。その季節でなければ見ることも聞くこともできない自然が話の中でちりばめられている。そしていつもそこに出てくる草木や鳥の名前が、私はいかに知らないかを毎度感じてしまう。今回はそうした草木の名前など出てきたら、スマホで検索して調べてみて、「こんな感じかあ」と何とか見当を付けた。散歩のときでも気をつけながら探してみたいと思っている。やっぱり現物を見ないと、なかなか覚えられない。


 「やっぱり、生の自然と物の名前の両方とが結びついてはじめて、鳥の名前でも植物の名前でも、知っているってことになるんじゃないかなあ」


 地域のみんなが集まる“文芸喫茶”みたいな喫茶店『衆』がある。この喫茶店には既刊の文芸誌が並んでいる。マスター主催の俳句会を開いたり、近くにある野草園に鳥の声を聞きに行ったりする。そこのマスターが言う。


 -僕はね、東京での新聞配達員やバーテン時代に、人にさんざん殴られてきたんです。でもね、僕には文学があったから、仕返しせずに見返してやることができた。もちろん、僕は、小説を書いたりしているわけじゃない。だけど、毎月毎月出ている全ての文芸誌を本気で読むことで、僕は読者として文学をやっていると信じているんです。


 このマスタースタンスが好きだ。
 私は文学など大それたことは考えないが、“文楽”をやっていたいな、と思っている。文芸作品の接し方はいろいろあっていいはずだ。
 最後に。もしかしたらこれもどこかで書いたかも知れないが、手話通訳って大変なんだ、と知らされた。


 最初、市民センター主催の講座に、井戸さんも参加したとき、奈穂の話の通訳をする手話通訳が二時間で三人も付いた。手話通訳は終始手指を動かさなければならないので、肘などへの負担がきつく、連続して通訳できるのは三十分ほどが限界だという。それで、交替しながら行うということだったが、見ているとそれも当然と思われた。


佐伯 一麦 著 『鉄塔家族』 日本経済新聞出版社(2004/06発売)
by office_kmoto | 2016-01-09 05:49 | 本を思う | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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