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波多野 聖 著 『本屋稼業』

d0331556_6275171.jpg この本は紀伊國屋書店の創業者田辺茂一と、佐野眞一さんが『だれが「本」を殺すのか』の中で“閣下”とよいしょする松原治との二人三脚で紀伊國屋書店を発展させてきた物語である。

 まず茂一は明治38(1905)年2月12日、市電の終点、新宿駅の前にある薪炭問屋、紀伊國屋の長男として生まれた。
 当時薪炭が家庭燃料として生活を支える時代で、新宿駅周辺には数十軒、大小の薪炭商が集まっていた。中でも紀伊國屋は軒を連ねる大店で、主は代々、大地所持ちとして新宿の有力者に遇されて来た。
 その歴史をさらに見ていくと、初代は屋号の通り紀州徳川家に仕えた足軽で、江戸に出てきて住みついた。五代目になって牛込で乾物商を営み、六代目の茂一の祖父が新宿に出て材木商を始めた。
 茂一の父鉄太郎は商家の常として尋常小学校の途中で奉公に出され小僧として働いた。それが神田の薪炭商だった縁で父の代で商売替えをしたのだ。
 ところで今の秋葉原の東口、ヨドバシカメラのあるにあたり、昔は船だまりであったらしい。そこから神田川に向かって運河があり(今は公園になっている)、鉄道で運ばれた荷物を船に載せてその運河を通って神田川に出たという。その運河のある近辺に薪炭問屋がいくつもあったと聞いたことがある。なので茂一の父が神田の薪炭商で奉公に出たのはもしかしたらこの辺りだったのではないか、と思った。
 とにかく茂一は子ども時から恵まれた境遇だった。
 大正4(1915)年の御大典(大正天皇の即位式と大嘗祭の2つの儀礼のこと)の日、茂一は父親に連れられて日本橋に来た。その時赤い煉瓦造りの建物に茂一は釘付けになる。丸善である。中に入ると茂一がこれまで味わったことのない、上質の、ひんやりした、凜とした空気が流れている。洋書の棚を見て「こんなところが世の中にあるのか」と、十歳の少年茂一は蕩けるような気分になった。
 以後茂一は本屋になりたいと思う。この時受けた衝撃から、父親に本屋をやる、と言って動き出す。


 「欲しいものは欲しい。欲しいものは手に入れる」


 子供の頃からわがまま放題に育てられてきた茂一は親戚筋から、銀座にあった近藤書店に奉公に出るが、店での接客の様子を見て、仕事がわかったと言って半日で奉公を打ち切ってしまう。
 店は薪炭問屋の紀伊國屋の薪置き場の薪を取り払って、売り場面積15坪、一階が書籍売場、2階のすべてをギャラリーにした。丸善での衝撃がこのような造りとしたのだった。


 本屋もそうだが茂一は景色が欲しいのだ。


 店主茂一の他、番頭、女子店員が二人、小僧一人の計5名でスタートした。昭和2(1927)年1月22日、茂一21歳のときであった。当時、全集時代であって、どんどん本が売れた。
 しかし空襲で店も何もかも焼けてしまい、やる気の出ない生活を送っていた。本屋はもうやらないと決めていたが、それ以外に何をやるかまったく頭に浮かんで来なかった。ただ女遊びに明け暮れていた。
 店の焼け跡の整理をしている時、戦地から帰還した元店員から店の再開を望まれ、紀伊國屋書店の再興に立ち上がる。再興には溜息が出たが、「これからもやりたいことやる。欲しいものは欲しい、でいく」と妙な自信を持っていた。
 バラックで再開した紀伊國屋書店であったが、人々は読み物に飢えていて、大繁盛する。

 一方松原治のことである。
 松原治は大正6(1917)年10月、千葉の市川で生まれた。父、平治は陸軍士官学校を出た職業軍人で、東京の砲兵連隊に勤務していた時、松原は生を受けた。兄が幼くして亡くなっていたので戸籍上は長男とされて育った。
 松原は小学校から中学校そして高校と大阪で過ごし、東京帝国大学法学部を受験し合格する。松原がいた法科学生の親睦会には、鳩山威一郎、曽山克巳、中嶋晴雄らがいる。同級には中曽根康弘もいた。
 卒業後、先輩で、後に講談社社長になる野間省一から声を掛けられ満鉄に入社する。この時野間は満鉄に勤務していた。松原はそして大陸に渡る。入社二年後、招集され、陸軍経理学校を首席卒業する。その後中国各地を転戦し、糧秣課長として、兵員や物資の輸送、補給を作戦指揮する。終戦後兵隊を日本へ帰還させる任務を終え、佐世保へ帰ってくる。
 復員後、東京に出て、大学の先輩である戦時金融公庫にいた亀井玆建の紹介で大蔵省の子会社の日本塩業に取締役営業部長として入社する。しかし日本塩業も最初のうちは景気がよかったが、そのうちじり貧になる。会社の存続問題まで来ていた。松原は再び亀井に相談する。


 「どうだい?本屋で働いてみる気はないかね?」

 「どう考えても日本塩業には将来はない。ここで仕事を思い切って変えたらどうだろう?実は僕は今、紀伊國屋書店の非常勤監査役を務めているのだが・・・・・ここの社長の経営が危なっかしくって見ていられない。ひどい言い方に聞こえるかもしれないが、よくこれまで倒産しなかったものだと感心するくらいなんだ。だから君のようなしっかりした人に入って貰えたら有難いんだよ」


 ここで松原と茂一は出会うのである。茂一は松原に言う。


 「ボクはやりたいことをやって来た。やりたいようにやって来た。二十一歳で本屋を始めて二十三年・・・・ずっと、そうだった」

 「ボクは経済も経営も分からないし、分かろうとも思わない。女性を通じて社会を理解する。それがボクのライフワークなんだよ」

 「では書店は、紀伊國屋書店は田辺社長にとって何なのですか?」

 「松原さん。ボクは本屋が好きなんだ。本屋という景色が・・・・・」

 「景色・・・・・ですか?」

 「そう、本屋の景色。十歳の時に見た丸善の洋書の棚の景色。そして紀伊國屋書店の景色。それが僕の好きなものなんだ」


 こうして茂一と松原の奇妙な二人三脚で紀伊國屋書店が動き始めた。仕事は昼は松原、夜は茂一と分担してやっていく。店は松原が仕切る。茂一は文壇や出版社との付き合いや冠婚葬祭など対外的なことをすべて受け持った。
 松原は紀伊國屋に来てから様々な問題を解決していき、本店改装、洋書販売の成功、支店の拡大、と発展していく。
 各地に支店が出来ると茂一はきれいどころを引き連れていく。それを松原は「社長はブランドなんだ。紀伊國屋書店という文化のブランド。歩くブランド・・・・・この価値は計り知れない」と思うのであった。

 松原は洋書の営業販売が好調で人を採用したいと茂一に提案したとき、茂一は次のよう言う。


 「人はたくさん採っておいた方が良いよ。僕は昔から、そうして来た。男も女も関係なく良いと思った人材は採っておく。必ず人というものは役に立つ。本屋というのは本の数だけ人が要る。そう思ってやった方が良いよ」


 このような豊富な人材がいるのも、人件費にうるさく言わずに優秀な人間たちを余らせるくらい雇って来たからで、それは利いている、と松原は思っていた。そんな優秀な人材の一人である店舗販売責任者の毛利四郎という人がいる。この人の言う言葉がいい。


 「本は売るんじゃない。お客さまの心に届けるんだ。その気持ちを持って本に接すると本の方で応えてくれる。『私は一冊しか売れませんけど、必ずその人を幸せにしますよ』『私は多くの人を喜ばせることが出来ますよ』とかね。だから、どんな本であってもおろそかに扱ってはいけないんだ」


 それにしても昔だったから出来たのかもしれないが、創業者はそうした社員のために、たとえ会社が危機的な状況になったとしても、文字通り“人材”として人を大切に守っていく。『海賊と呼ばれた男』のモデルであった出光興産の社長なんかもそう描かれていた。そうして守られた社員たちはこのように後に大きな花を咲かせる。

 しかし好きなことを好きなようにやるためには、茂一は尋常でない気配りをしていた。その疲れを知った作家梶山季之は、茂一に社長を辞めたらどうですか、と話しかけると、


 「そうだな・・・・それもいいかもしれないね」


 こうして茂一は松原に社長を譲って話は終わる。

 この本が角川春樹事務所から出版されているのは角川書店創業者である角川源義と茂一との関係があるからなのか、と思ったりする。角川源義は自ら自転車に積めるだけ文庫を積んで紀伊國屋書店に納めていた。茂一もそんな角川を楽しみにして待っていた。そして二人は将棋をさしながら営業会議を楽しんでいる風景が描かれている。

 それにしても惜しいな、と思うのはこの本には参考文献がないことである。


波多野 聖 著 『本屋稼業』 角川春樹事務所(2016/02発売)
by office_kmoto | 2016-06-29 06:30 | 本を思う | Comments(0)

清泉 亮 著 『吉原まんだら―色街の女帝が駆け抜けた戦後』

d0331556_537377.jpg まだ全巻読み終えていないのだが、矢田挿雲の『江戸から東京へ』を読んで、吉原の歴史に興味を持ったことは以前書いた。その延長で福田利子さんの『吉原はこんな所でございました―廓の女たちの昭和史』を読んで、この本のことをブログに載せている。それいつを載せたか忘れたが、だいぶ前のことだ。でも今でも私のブログアクセスランキングでいつも上位にこの本がきているようだ。
 この福田さんの本は自ら生きた昭和の吉原のことを歴史的に語っていた。それに較べてこの本は同じ昭和の吉原でもその裏事情を詳しく追っている。しかも吉原で女帝と呼ばれた高麗きちと帝王と呼ばれた鈴木正雄から話を聞いて、さらに著者がフーテンと称して(きちにそう呼ばれ、そのまま称している)自らが調べ上げた吉原の歴史や裏事情をこの二人に話し、さらに内容を濃くしている。

 まず高麗きちからである。


 そんなおきちのことを、現代遊郭ともいえる吉原の名物経営者として知らぬ者はない。卒寿を超えた今でも、ボケの片鱗さえ見せることなく、辺り一帯を睥睨するがごとく、時に車のなかからねめつけて往来する様に、町内の古い家は恭しく笑顔を向ける。ソープランドの呼び込みの黒服らも、路上におきちの姿を認めるや、走り寄って来て、車の乗り降りから荷物運びまでとことん気を遣って見せるのだ。
 おきちにはおよそ、介護ヘルパーのデイサービスだのは無用だった。力仕事らしきものが必要となれば、路上で呼び込みに立つ黒服らが率先しておきちの手まねきに応じて走り寄るのだ。


 おきちは昭和26年12月26日に吉原にやって来た。

 
 深川で夫の吉郎が営む金物屋を手伝っていたおきちは、吉郎から突然、こう告げられた。
 「おいっ、吉原買ったぞ。吉原に行くぞ」
 きょとんとするおきちをよそに、吉郎はさっさと支度しろと促す。


 吉郎は、博奕の形にその家をもらったのである。以来おきちは、当時でいうトルコ風呂からキャバレーまで、ありとあらゆる、それこそ水商売と呼ばれるすべてをこの吉原で手がけてきた。
 一方鈴木正雄である。東京大空襲で焼け出され、上野駅地下を浮浪児さながらに彷徨った末に輪タク屋を始め「輪タク屋のマー坊」から叩き上げ、女郎屋「あけぼの二号店」を開く。のち、輪タク屋時代から出入りしていた老舗遊郭「角海老」を買い取る。Wikipedia
よれば、ソープランド32軒や宝石店やボクシングジム、不動産会社、バスタオル洗濯会社などを擁し、「ソープの帝王」と呼ばれている。

 「女郎屋のオヤジ」と「便所掃除のおっさん」と言って憚らない鈴木だが、鈴木は旧首相官邸に出入りし官房長官より外国からの賓客をもてなすための依頼を受けていたこともある。
 海外では、日本の「ゲイシャ」遊びは江戸時代以来伝統として知られている。日本を訪れる海外政府の大臣や外交団はやはり「ゲイシャ」遊びを欲する。夜の遊びとなれば、最後は男女同衾の宴が求められる。そこで鈴木は自身が経営する店、あるいは女性を手配した。それを鈴木は「夜の外交」と呼ぶ。
 そんな二人から聞く話である。吉原で繰り広げられる男と女の話は面白くないわけがない。ただ私はそれよりも戦後吉原の地で起こった変化が興味深かった。
 フーテンが吉原界隈の土地台帳を見てみると、面白ことが浮かび上がってくる。


 終戦直後には、大蔵省への物納による収用の流れができる。同時に、相続もある。おそらく、終戦によって先の見えないなかで、手放す流れが一度できたのだろう。
 また、相続人で多いのは、浅草界隈よりも、神奈川県の鎌倉や文京区西方を含め、吉原外の人間だ。いわゆる屋敷町などの古い場所に所有者がいるのだ。
 これは、吉原で名を成した者たちが、外に家を構えていたということだけでなく、吉原という土地が、戦前から資産運用の対象になっていたという想像にも結び付く。遊郭跡の土地は、賃貸の地代も悪くないだろう。
 割高な地代を払ってでも、吉原で営業したい者はいるのだ。
 吉原の土地は決して、地場の者の所有ではなかったのである。彼らが戦後、相続し、そして、手放す時期がくる。
 昭和30年前後の売春防止法施行がいよいよ迫ってきた時期から、33年についに法律が成立して吉原の灯が消えたと言われた、34、35年にかけて、土地の売買が盛んになる。
 戦前、投資の一環で親が持っていた土地を相続した、屋敷町の投資家2世たちが、いよいよ土地を手放し始めたのだ。なかには建物を所有しているものもいたので、正確には、土地、建物が一斉に売りに出始めた、ともいえよう。
 おきちがこの町にやって来て、初めての店となる「太夫」を始めたのも、売春防止法が取り沙汰されている最中の昭和26年のことであり、輪タク屋のマー坊が角海老を買ったのも昭和35年のこと。
 戦前の投資家から相続した2代目たちが、赤線の灯が消えるとともに一斉に手放し、そこで戦前から続く、吉原における土地の所有の流れは一度断絶したことになる。
 その後、赤線廃止を乗り越え、再び、トルコ風呂という流れができたとき、銀行や信金など市中の金融機関の後ろ盾を持った「通り向こうから靴屋だ下足屋だが流れ込んできた」(ひさご通りの古老の弁)のだ。


 初期の頃は、赤線廃止となって、経営陣の代謝が行われるのに乗じて、地元の信金をはじめ、銀行が積極的に斡旋していた。
 「くいっ、くいっは、手形など信用商売ではなく、どこまでも現金商売です。ツケがきかないことは、取りっぱぐれがないことを意味しますから。当時、預金獲得が銀行にとって至上命令となっていた預金至上主義の時代だったので、彼らは、赤線が廃止になって吉原のなかの土地に商機が訪れたのに目をつけたんでしょうね。いろんなところの業者が、トルコ風呂に乗り出してきたんですよ。銀行をバックにつけてね」
 戦前からそこで育った化粧品屋さんの片桐さんは、背景を解説してみせた。
 「遊郭経営は、明治大正の頃と違うとはいえ、やっぱり多少は高嶺の花だったんですよ。だから、赤線がダメになって店が売りに出たというところに、新たな活路が開けたから、買い時とばかりに銀行が融資して流れこんで来たんですよ」
 今でこそ、水商売、自営業に対して銀行の融資は厳しいが、当時、預金を現金をと、本店から号令一下、支店長の厳命に押されて預金獲得に飛び出していた元気のいい銀行マンたちにとって、現金が枯渇することのないトルコ風呂は、決して見逃すことのできない商売だった。


 そこに、「風呂」という発想を見せたのが、東京温泉であったのだろう。
 だが、特殊飲食店業から個室付浴場業へののれんを替えるには、決定的に設備が異なった。 飲食店は、あくまでも女性と部屋があれば済んだのだが、浴場業では風呂を用意しなくてはいけない。さらに、スチームバスが必要になる。建物の設備に大きく手を加えなければならなかった。
 むしろ、売春防止法の施行によって違法になること以上に、転業するための莫大な経済的負担に、経営者らは頭を悩ますことになる。
 「ボイラー設備だけで、当時で500万はかかったんだよ」
 そう言っておきちは掌を広げた。
 昭和30年代はじめの500万円である。
 このとき、2つの流れが生まれた。
 担保を持つ経営者と持たない経営者である。
 おきちをはじめ、赤線廃業をまたぎ、トルコ風呂経営者に向かえた者は、風呂への設備投資が可能な者であった。
 それだけ現金を抱えている者はまだよかったが、それにしても、ビルそのものを建て直さなければ済まないほどの改築の費用は莫大である。
 手元の現金だけではもたない。そのとき、土地を担保に銀行が入ってくるのだ。土地を所有していなかった経営者らはこのとき、苦しくなり、カフェーを手放すおとになる。
 その繁栄は、前述のとおり、積極的な銀行融資に支えられていたのだ。


 ちなみに特殊飲食店とは、昭和21年(1946)に公娼(こうしょう)制度が廃止されてから同32年に売春防止法が施行されるまで、売春婦を置いていた飲食店、特飲店のことをいう。
 さらにトルコ風呂なる名称を日本に初めてもたらしたとされる東京温泉とは、銀座に昭和26年(1951)4月に登場したサウナにダンスホール、キャバレーなど擁した4階建ての一大歓楽ビルのことである。


 このように売春防止法によって「吉原の灯が消えた」とまで言われた場所に、個室浴場という設備投資資金を流し込んだのが、市中の金融機関だった。


 これは、裏を返せば、それだけ、元が取れる「うまみのあるビジネス」であることを、利潤計算のプロ中のプロである銀行が、しっかりとお墨付きを与えたことを意味してもいた。


 ということは、


 銀行によって保証された高い収益力に目をつけた暴力団が、最低限の競争規模を取り戻したこの業種に、経営の手を伸ばさないはずはなかった。


 こうしてみると、当時は銀行が吉原を変えたことがよくわかる。今は道義的にこうした業種に銀行が融資するわけにはいかなっているだろうが、似たようなことをは今も行われているのだろう。そこに儲けがあるとわかれば、ハイエナのように群がってくる輩が出てきて、街を変えてしまう。吉原という剥き出しの欲望があからさまに現れる街だから、そこに群がる人々も露骨である。
 いずれにせよ、吉原の変遷に銀行が大きく絡んでいることは面白かった。


清泉 亮 著 『吉原まんだら―色街の女帝が駆け抜けた戦後』 徳間書店(2015/03発売)
by office_kmoto | 2016-06-24 05:42 | 本を思う | Comments(0)

山口 瞳 著 『人生仮免許』

d0331556_5563486.jpg この本に暮らしの手帖を創業した花森安治さんの追悼文がある。そこに、


 暮らしの手帖社というのは変わった会社であって、ボスである花森さんが、何から何までやってしまうので、そういう人が亡くなるということが考えられなかったのである。
 (略)
 花森さんがいなくなったらどうなるのだろうか。後継者はいるのだろうか。いったい、ひとつの会社を、一人の人間の色彩でもって塗り潰してしまっていいものかどうか。花森さんが病気になったら、従業員はどうなるのか。その場合、花森さんに責任はないのか・・・・。


 つまり「暮らしの手帖」は花森安治自身であり、花森安治があって、雑誌「暮らしの手帖」が成り立っていた。だから花森安治が亡くなれば、「暮らしの手帖」という雑誌の存在がなくなってしまう。山口さんはそれでいいのか、と言っている。
 これは前回の『巨人ファン善人説』のなかにある「出版業のこと」と矛盾している。そこでは文化の担い手であるような仕事をしていたら「一代でもって終ったとしても仕方のないような性質の仕事」と言っていた。
 まあ考えて見れば花森安治さんの仕事がそういうものだったということを言いたかったのだろう。むしろ「出版業のこと」で言っていることの方が出版社が持つべき気概だと思っている。


 それで私は三割方は如何わしいと言うのであるが、同時に、三割方は高貴な職業であると思っている。つまり、文化である。この高貴ということの説明もむずかしい。
 『新潮社八十年小史』を読んで、初代佐藤義亮が一人雑誌や書物を発行してゆくあたりで実に感動した。これは金儲けだけでは出来ない仕事である。文化の担い手である。このことは岩波茂雄でも同じだった。一人でやってきたのである。それは文化であるのだから、佐藤義亮、岩波茂雄一代でもって終ったとしても仕方のないような性質の仕事だった。だから株式を公開して、これを広く民主的に運営するといったような企業ではないのである。変な言い方をすれば、会社を潰してしまってもいいような情熱でもって仕事を支えてきたのであり、彼等は結果的に金儲けのほうも上手だった。(出版業のこと)


 こんな文章を引いたのは、新潮社の社長が今、本が売れないのは、図書館が新刊の貸し出しをしているからで、図書館に新刊の貸し出しを1年間猶予してくれと言っていることに少々疑問を持っていたからである。つまり図書館が公共の貸本屋をやっているから、新刊が売れないのだと言うのである。確かに図書館は無料で新刊の貸し出しをやっている。けれど私はそれは言いがかりというものではないかと思っていた。

 いつだったか朝日新聞の文化・文芸欄で、貸し出し猶予「主張に矛盾」とあった。それによると、データサンプルから図書館を利用している人はそこの人口からすれば少なく、新刊貸し出し数も総貸し出し数からすると少ないことがわかった。で、図書館を利用しないその理由は、「読みたい本は自分で買うから」というのが1位だった。
 これである。本を買って読みたいという人は、その本を買って読んでみたい、と思わせる本を求めている。そこには面白い、あるいは感動した、とかいうものを求めている。つまり自分の本棚に置いておきたいほどの本を求めているのである。
 今、本が売れないというのは、そういう本が出版されていない、という出版社側の事情であり、図書館の新刊貸し出しのせいではない、と思うのである。
 出版されるのは、消耗品に近い、昔で言う“パルプ小説”の類いばかりで、読んでも“何だかなあ”と思うことばかりの本ばかり作っているからこういうことになる。そんな本ばかりつかまされるから、本を買うのにより慎重になる。ましてアベノミックスなんて言っても、どこまでそれが効果があるのかわからない景気である。今やそれさえも雲行きが怪しくなってきているから余計にこれから先、たとえ図書館での新刊貸し出しを1年猶予したからといって、本が売れるなんていうことはあるまい。むしろ全国にどれだけ図書館があるのか知らないけれど、その図書館が新刊を買ってくれている数は馬鹿にならないんじゃないか、とさえ言いたくなる。
 で、そんなつまらぬ本を買わされた読者はその本をブックオフにすぐ売りとばす。そして新刊に近い本がそこで買われる。そうなればさらに出版社に利益など出るわけがない。
 そしてブックオフだって、そんな一時的に話題になった本ばかり集まり、時期が過ぎれば不良在庫になる本ばかり棚に並んでいる。このままだといずれ売上低迷は避けられまい。それが証拠に、本だけではやっていけないと思っているのだろう。最近は使わなくなった携帯や家電の買い取りをやり始めている。

 私は出版なんて「水もの」だと思う。当たるか当たらないか、最終的に出してみないとわからない部分が圧倒的だと思う。そういう不安定さがいつもつきまとう。だから山口さんが言うように「如何わしい商売」なのだ。
 一方で創業当時にあった心意気とでもいうような文化の担い手になるべくものを出版しているかといえば、「否」であろう。文化の担い手であろうと、自分たち一代で終ったとしても仕方のないような性質の仕事をしているのか、そんな情熱が伝わってくるような出版物を出しているのか。(だから私は今の出版業界の人間が自分たちを「文化の担い手」みたいな言い方をするのが気にくわない)
 創業者の気概を忘れて、本が売れないのは図書館のせいだというのはおかしいだろうと言いたくなる。
 図書館を利用しないは、「読みたい本は自分で買うから」というのが1位であるなら、読みたい本があれば、売れるということであり、そうでないということは読者が手元に置いて読みたい本が出版されていないことである。
 花森安治さんが山口さんに言った言葉が書かれている。


 「きみ、本屋へお客さんが来るだろう。そのひとが、ふところへ手を突っこんで、ガマグチを取りだして、パチンとフタをあけてだね、銭をだして物を買うっていうのは、大変なことなんだよ」


 そういうことだと思う。


山口 瞳 著 『人生仮免許』 男性自身シリーズ 14 新潮社(1978/12発売)
by office_kmoto | 2016-06-21 05:58 | 本を思う | Comments(0)

佐伯 一麦 著 『草の輝き』 再読

d0331556_6105572.jpg ここのところエッセイとかノンフィクションばかり読んでいるので小説が読みたくなり、佐伯一麦さん本を引っ張り出し読み始めた。昔読んで気に入った本を改めて読み直すのはいいものである。安心して読んでいられる。
 感想は最初に読んだとき書いている。ここでは違うことを書く。
 この本の題名はワーズワースの『幼年時代を追想して不死を知る頃』の一部から引用しているらしい。


今日、五月のよろこびを
全心に感ずるものよ、
かつて輝やかしかりしもの、
今やわが眼より永えに消えうせたりとも、
はた、草には光輝、花には栄光ある
時代を取り返すこと能わずとても何かせん。
われらは悲しまず、寧ろ、
後に残れるものに力を見出さん。


 草木染は植物たちの持っている色を借りて染め上げるものだ。その植物の力をこの詩に見出している。
 背高泡立草という雑草がある。おそらくどこでも生えているし、見ることができる。この花を使って草木染めをすると、鮮やかな黄色に染まるらしい。


 「えっ、これがせいたかあわだち草で染めた布なんですか」
 と、柊子は思わず訊ねていた。
 「そうだよ、あの悪名高き花からこんなに鮮やかないい黄色が採れるなんて、面白いでしょ」
 草木染の先生は、そう言って笑みを浮かべた。


 それ以来、柊子は、東京に戻って仕事をしているときも、通勤の電車から線路際に生えているせいたかあわだち草がよく目に飛び込んでくるようになった。もちろんこれまでも、帰化植物で他の植物を根絶やしにして花粉が喘息など引き起こすという悪名高き名前は知っていたし、実際に見かけることは多かった。だが、それはただ眺めていたということに過ぎなかった、と柊子は思う。
 山形へ旅してからは、せいたかあわだち草を見るたびに、その草花で染めたという布の、胸騒ぎを覚えるほど鮮やかな黄色がまぶたによみがえった。
 

 柊子に師匠は大場キミさんがモデルになっている。たまたま見ていた司馬遼太郎さんの「街道をゆく」DVDで、司馬さんも大場さんの染物の黄色があの雑草のせいたかあわだち草だと知って驚いていた、ということを以前書いた。空き地のどこでも生えている雑草が、どんな色を発するのか、とにかく興味がある。だから同じことを書いた。あの雑草でどんな黄色が染まるのか、実物を見たいものだ。

 
佐伯 一麦 著 『草の輝き』 集英社(2004/10発売)
by office_kmoto | 2016-06-18 06:13 | 本を思う | Comments(0)

平成28年6月日録(上旬)

6月2日 木曜日

 晴れ。

 山口瞳さんの『私本歳時記』を読み終える。


6月3日 金曜日

 晴れ。

 ここのところ庭いじりに忙しい。サツキの花が終わり剪定をやっている。我が家には4本のサツキがあるのだが、そのうち1本は遅咲きで、今咲いている。なので、この木はまだ剪定できないが、他の3本は花も終わり、剪定が出来るようになった。それでせっせと枝切りをやっている。
 剪定にはちゃんとした方法があるようだが、そんなのいちいち気にしていたら時間ばかりかかってしまうので、私の場合、枝が重なっている部分を切ってしまう。要するに葉全体にうまく陽があたるようにしている。そうすると結構切れる。剪定が終わったサツキを見てみるとさっぱりした感じになる。
 あんまりごちゃごちゃしているのが好きでないので、これでいいんじゃないか、と満足する。
 朝顔も支柱を立てないといけないと思いつつ、サツキに時間がかかってしまいなかなかできない。シクラメンも種から芽を出し、少しずつ植え替えているのだが、これもまだ全部植え替えが終わっていない。
 我ながら結構マメだな、と思う。私は今忙しいのである。

 沢木耕太郎さんの『キャパの十字架』を読み終える。


6月6日 月曜日

 曇り。

 沢木耕太郎さんの『キャパへの追走』を読み終える。
 この2冊の沢木さんによるキャパの本を読んでいて、そういえばキャパの写真集を持っていたはずだと思い出すが、本棚をざっと眺めていても見つからない。やや、売りとばしちゃったかな、と思ったが、よく見てみると大きな本に隠れて見えなかっただけだった。良かった、あって・・・・。
 この本を買ったのは出版されてすぐだったはずだ。初版が1988年となっている。ということは28年近く経っていることになる。今キャパの自伝を読んでいるので、この後ゆっくりと眺めたい。
 それはそうとこの写真集今だと本体価格4,000円となっている。私が買ったのが2,800円だから、約1.4倍以上値段が上がっている。それだけ本が高くなったということなのか、それとも当時の価値が今に換算すると1.4倍と考えればいいのか微妙なところだが、4,000円には驚いてしまった。

 昨日から昔ねんざした足が痛み始める。この時期特有の痛みなのかもしれないが、昨日今日とシップをして、一日中家にいる。

 そうそう、昨日関東地方は梅雨に入ったそうで、平年より3日早いそうだ。

 都知事の会見を見る。この人本当に「下品な顔」になっている。


6月7日 火曜日

 曇り。昨日からどんよりした日が続く。

 ロバート・キャパの『ちょっとピンぼけ(新版)』を読み終え、その後『フォトグラフス―ロバート・キャパ写真集』をじっくり眺める。


6月9日 木曜日

 雨のち曇り。

 ここのところ足首に痛みを感じたり、雨だったり、今日みたいに腰が痛み出したりしているので、数日間散歩に出かけていない。
 せいぜい庭の手入れをするだけの日々が続いている。サツキの剪定をしたり、種から育ってきたシクラメンがだいぶ大きくなってきたので、選定のして植え替えをした。
 庭に片隅にクローバーみたいな雑草が、小さな花をさせているのがある。雑草だから摘み取ってしまえばいいのだろうけど、小さいながら花を咲かせているのでそのままにしておいた。


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 なんという雑草なんだろうと思い、ネットで「クローバーみたいでピンクの花を咲かせるもの」と入力して検索すると、ムラサキカタバミというらしいことがわかる。もちろん雑草である。だからこれは根こそぎ抜かないといけないとも書いてあるのもあった。私の場合それほど気になるわけでもないし、じゃまになるところに自生していないからそのままにしておく。

 沢木耕太郎さんのキャパについて書いた本を読んで、そしてキャパの写真集を見て、録画してあったイングリッド・バーグマンの「カサブランカ」を見た。やっぱりこの人本当にきれいな人だ。モノクロ画面でもその美しさが映える。

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 当時はモノクロだし、映画のセットもちゃっちいから、映画の善し悪しは、出演している俳優、女優で決まってしまうところが大きいような気がした。だからこの映画はひとえにイングリッド・バーグマンの美しさで名画になったのではないか。
 警察署長のルノーがイングリッド・バーグマンが演じるイルザのことを「カサブランカが迎えた最高の美女ですよ」というのは本当にそうだ。
 イングリッド・バーグマンはキャパと結婚したかったらしいが、キャパの方が躊躇したという。こんな美女に惚れられているのにバカじゃないか、と思ってしまう。

 午前中は雨も午後にはやんだが、今ひとつ天気がはっきりしない。『趣味の園芸:作業12か月』のサツキを読んで、今月することを確認する。肥料をあげなければいけない。花が終わった後にあげる肥料のことを“礼肥(れいごえ)”というのだとを知る。花を咲かせてくれたお礼にということだろうか。明日は久々に天気になるという。礼肥をサツキにあげよう。出来れば消毒もしておこうか、と思う。


6月10日 金曜日

 晴れ。久しぶりに晴れたが暑かった。東京地方の今日の最高気温28.8度だったという。

 昨日やろうと思っていたサツキの消毒を行う。本当は肥料もやりたかったのだが、時間がなくなったのと、疲れてしまったので明日にまわす。
 消毒だけならそれほど時間はかからない。その後庭の草取り、不要な苔を取り除くなどして、気がつけば帽子に汗がにじんでいた。
 庭に這いつくばるときは、この時期、蚊取り線香が必需品となる。これがないとヤブ蚊に刺され、後でひどいことになる。蚊に刺されたらムヒである。これもこの時期必需品だ。
 ところで金鳥の蚊取り線香はすごいと感心している。去年はトップバリューの蚊取り線香を使っていたのだが、これあまり効き目がなかった。いやまったく効かなかった。焚いても頻繁に蚊に刺された。しかし今年は蚊取り線香のブランドである金鳥の蚊取り線香を使うようになって、さすが「日本の夏、金鳥」だと感心している。効き目が断然違う。蚊が寄りつかない。やっぱりまがい物は駄目ですな。

 庭の整地をやってきたことは何度も書いた。それで終わったと思っていたが、昨日みたいに雨が降っている庭を眺めると、水たまりが出来ているところがまだある。確かめていると、確かに窪んでいる。これが気になって仕方がない。どうっていうことないと思えば思えるのだろうけど、ここまで整地にこだわり、土をホームセンターまで買いに走り、「これでよし!」と終えたつもりだっただけに、いつまでも気になるのである。
 結局今日もホームセンターまで自転車を走らせ、14リットル入りの赤土を二袋買ってきた。明日そこを整地する予定。やる以上完璧を期したい。

 ということで午後は疲れてしまい、汗もかいたし、暑くもなったので、扇風機を出した。
 ここのところ午後になると、仏間の畳に寝そべって本を読んでいる。晴れている時は窓を大きく開けて(もちろん網戸はしてある)、外の空気を入れている。
 畳のひんやりした感じも気持ちいい。私はあまり冷房が好きじゃないので、こうしてひんやりした畳に寝転び、外の風と扇風機から来る風で涼をとれるこの時期が最高に好きである。思わず「日本っていいなあ」と言いたくなってしまう。
 あまりに気持ちよくなり、ついうとうとしてしまう。

 山口瞳さんの『私の根本思想』を読み終える。


6月11日 土曜日

 晴れ。

 庭の窪みが気になるので、土を入れてまた整地する。
 サツキに礼肥を施す。
 朝顔の摘心をする。
 インパチェンスを植え替える。
 庭、玄関先を掃く。

 と朝から庭に出てこんなことをやっていたら、午前中一杯かかってしまった。なにも慌ててやることもないのだが、気になるとついついやってしまう。
 庭に関してやるべきことはやったので、これ以上大がかりことはしなくて済むと思う。
 観音竹の花が咲きそうだ。これ20年から30年に一度花が咲く、と去年花が咲いたとき調べて知ったが、今年も花を付けている。どういうことだ?まさしく狂い咲きか?
 
 山口瞳さんの『梔子(くちなし)の花』を読み終える。


6月13日 月曜日

 一日中雨であった。そのため色川武大さんの『ばれてもともと』を手にして読み終える。

 結構雨が降ったが、関東の水瓶地域には雨はそれほど降らなかったらしい。水不足が心配されている。


6月15日 水曜日

 曇り。

 やっと舛添東京都知事辞める。この人の話のロジックは一般の人とは根本的に違う。世間ではおかしく思えるところが、この人の中では道理が通っている。確かに問題はないし、違法性もないのかもしれないが、だからそれでいいということにはならない。けじめがつかないところに不信感があることがわかっていない。線引きが曖昧なところを、この人はなんでも政治資金でくくってしまったが、普通、人はそれを自腹でする。自腹ですることで、醜さから逃れられる。
 それとこの人はやはりマスコミの人だった。テレビという虚像の中で丁々発止、ひたすら言葉を尽くすことで自己の存在をアピールしてきた。受けのいいことばかり言ってきた。そうすることで生きのびてきた人のように思われる。しかしその実像が世間の目の晒されると、今度は自分がそれまで言ってきた言葉にしっぺ返しされてしまった。
 実像が一端破綻すると、いくら言葉を発しても、言い訳がましく写ることをわかっていない。言葉を発することがこれまでやって来たこの人のやり方だったから、そうせざる得なかったのだろう。そして自分が人を批判するテクニックは持っていても、自分が批判されることに慣れていない。だから不必要な言葉が出てくる。これがまた自分に降りかかってくる。こうなるとこういう人はダメだ。

 色川武大さんの『離婚』を読み終える。
by office_kmoto | 2016-06-16 06:52 | 本を思う | Comments(0)

山口 瞳 著 『巨人ファン善人説』

d0331556_5292830.jpg
 しかし、私は、耄碌というのは、必ずしも、ボケてしまって、世の中のことがわからなくなってくることではないと思っている。
 そうではなくて、むしろ、反対に、いろいろなことがわかってきて、それで怖くなってきて、従って、行動が消極的になることではないかと思っている。
 また、妙に、完全主義を目ざすようになる。この消極的と完全主義がぶつかるから困ったことになる。動きがつかなくなってしまう。(二十二歳)


 これは言えているかもしれない、と思う。とにかく臆病になる一方、妙にこだわりたくなることが多くなってくる。だから歳をとると何かと動きが取れなくなる。身に沁みてそう感じているこの頃だ。


 私は、この人生というやつは、その人の一生から考えてみると、案外辻褄が合っているのではないかと思うようになってきた。(亭主関白)


 これはどうだろうか。私にはなかなかこうは思えないところが今はある。本当に辻褄が合っているものかわからない。いろいろ屈託を抱えているものだから、これに関しては疑問符付きだ。そう思えればいいとは思うが。


 TVニュースを見ていて不思議に思うのは、どうしてあんなに四角四面で、新聞と同じように、一面に政治欄、その裏に社説、ついで経済問題、社会問題といった組み方をするのかということである。

 (略)
 
 このごろは、ローカル・ニュースに力をいれるようになったのは有難い。対岸の火事ばかりでは面白くない。そもそも、ニュースというものは、半分は、隣近所の出来事を知らせてくれるものだと思っている。その意味で、NHKの「関東ネット・ワーク」という番組を楽しみにして見ている。(TV番組から)


 これは私がいつも実感していることだ。全国ニュースももちろん見る。新聞でも読む。けれど、私の好きなのは、以前も書いたが、NHK「首都圏ニュース845」である。
 番組の長さもちょうどいい。出来れば土日もやって欲しいくらいだ。
 最近はここでやっている天気予報が趣向を凝らしていて面白い。


山口 瞳 著 『巨人ファン善人説』 男性自身シリーズ 13 新潮社(1977/08発売)
by office_kmoto | 2016-06-15 05:31 | 本を思う | Comments(0)

半藤 一利 著 『B面昭和史 1926‐1945』

d0331556_5431448.jpg 半藤さんの著作には『昭和史』、『昭和史 戦後篇』がある。いずれもこの本のように分厚い本だが、これらは歴史的事実、流れを追ってきたものである。これを「A面」とするならば、今回の本は「B面」と断るように、政治や軍部の視点ではなく民衆の視点で、昭和の初めから終戦までを描いている。

 いわゆる昭和の歴史を追っていくと、昭和の初めから終戦までの昭和20年までは日本は戦争に明け暮れた時代であった。そうなっていく理由は半藤さん先の著作に書かれている。
 それでは戦争に追い込まれた民衆の姿というものはどういうものだったのか。そしてなぜ日本国民は戦争を選択したのか。それを追ったのがこの本である。読んでいくと知らぬ間に国民は政府や軍部の言うがままにそれを受け入れ肯定していく様がわかる。そして恐ろしいのはそれがひしひしと迫ってくるのだけれども、その流れが徐々に浸透していくものだから変化に気づかない。その変化が日常生活の中に何の違和感もなく取り込まれていく。

 いまからすれば、雪だるま式に危機をふくらませ破綻したプロセスは急激に、かとみえるが、はじめは決して単線的ではなく、静かにひたひたと、いつの間にか、といった眼にみえない形で変わっていった。政治・外交・経済のみならず、われわれの日常の生活様式のこまごまにはじまって価値観といった精神の部分に至るまで、それはわからぬままに変わっていた。その時代を生きるとはそういうものではないかと思う。決して流されているつもりはなくて、いつか流されていた。


 そもそも歴史という非情にして皮肉な時の流れというものは、決してその時代に生きる民草によくわかるように素顔をそのままに見せてくれるようなことはしない。いつの世でもそうである。何か起きそうな気配すら感ぜぬまま民草は、悠々閑々と時代の風にふかれてのんびりと、あるいはときに大きく揺れ動くだけで、そういうものなのである。


 それはそれ以前からの軍部や政府の情報操作による巧みな宣伝があり煽動があったのであるが、それにうまうまと乗せられたというよりも、むしろ国民のなかに年月をかけてそれをやすやすと受け入れる素地がありすぎるほど養成されていた、といったほうがいいか。


 ではそれをやすやすと受け入れてしまう素地とは何か。それを半藤さんは次のように書く。


 人間には生まれながらにして楽観的な気分が備えられているのではないか、と思えてくる。何か前途に暗い不吉なものを感じ警告されていても、「当分は大丈夫」と思い込む。楽しくていいニュースは積極的にとりこむが、悪いニュースにはあまり関心を払わない。注意を向けない、というよりも消極的にうけとめやがてこれを拒否する。どうやら人間の脳の働きは未来を明るく想像したときにもっとも活潑化するようなのである。
 そして同じように考える仲間に出会うと、たがいに同調し合い、それが集団化する。するとその外側にいたものまでが、集団からの無言の圧力をうけ、反撥するよりそれに合わせようとする。そのほうが生きるために楽であるからである。揚句は、無意識のうちにそれまで自分のもつ価値観を変化させ、集団の意見と同調し一体化してしまう。


 さらに戦争が不当に儲かるという変な知識を国民が持ってしまった。


 ここでちょっと嫌なことをかくが、戦前の日本人はたしかに戦争とは利益をもたらすものと考えていた。そういっていいと思う。日清戦争では賠償金二億両(いまに直せば約四億円?)を得た。日露戦争は賠償金ゼロであったが、満州にたいする厖大な権益を獲得した。第一次世界大戦では南方の島々を委任統治地にして、南方進出の拠点を得たし、戦争需要に乗じて製造業と海運業は莫大な利益を得た。と、そうした歴史的事実を追ってみると、よくいわれるような、娘を身売りさせなければならなかった、そうした貧困と窮乏とが戦争へと突き進んだ原因だ、という説に首を傾げたくなってくるのではないか。


 ここで、


 世の空気に濃厚な危機感というものが醸成されはじめる。戦争が突如として日常生活の中に押し入ってきた。


 歴史とはつくづくと知らぬ間にある部分が極大化するものと思わせられる。しかもそうした水面下で起こっているおっかない変化に、民草の多くは気づかない。急激な国粋化が表面化するのは、すでに積もり積もって飽和しきったあとになる。そのときには止めることはとてもむつかしくなっている。


 そして戦争状態に日本がなって、抜き差しならぬ状態になっていることに気づき始める。戦争遂行のために上からのきびしい統制が次から次へと発せられ、日常生活の細かい部分まで干渉されることとなる。必勝の信念こそ高かったけれど、どことなく戦争指導者を信頼できなくなっていく。
 生活が窮屈になってきて初めて「これはおかしい」と悲鳴を上げても、その時はもう遅い。まさしく、


 国民とは、ほんとうにいつの時代でも、真の情報に接することのできないあわれな存在、ということ。それが歴史の恐ろしさというものではないかと思う。


 あとがきにあるが、


 過去の戦争は決して指導者だけでやったものではなく、わたしたち民草がその気になったのです。総力戦の掛け声に率先して乗ったのです。


 まさしくこの本は戦争責任を一部の指導者に責任を押しつけてしまう傾向があるけれど、政治に無関心であった国民にも十分責任があると言っている。まさしくその通りなのだ。たとえ情報が下まで降りてこない、あるいは統制されていたとはいえ、そういう社会、国にしてしまったところに問題がある。流されやすい国民性はいまでも如何としがたいところがあるのではないか。
 幸い今はその情報が昔より遙かに知り得る。もちろん隠されていることもあろう。けれど、開かれた部分から「おかしい」と思うことはどんどん声を出していかないと、国民の信託を受けたと勝手に拡大解釈する政治家が多い現在、昔の二の轍を踏みかねない。日本はこうした苦い経験を持っているのだから、それを大切にしないといけない。また日本人の特性というべき流されやすい気質もあることだから注意しなければいけない。そんなことを考えた。


半藤 一利 著 『B面昭和史 1926‐1945』 平凡社(2016/02発売)
by office_kmoto | 2016-06-12 05:48 | 本を思う | Comments(0)

山口 瞳 著 『元日の客』

d0331556_8102752.jpg ここまで読んできたこのシリーズに故人の追悼文がいくつかあったが、今回は梶山季之、きだみのる、檀一雄の追悼文が加わる。山口さんが書かれる故人の追悼文はジンとくるものがある。
 故人と以前付き合いのあった頃など、普段普通の生活をしていて、ふと故人を思い出し、また感慨にふけってしまう。特に梶山季之の死による梶山ショックが長く続いたようで、何回か梶山季之と思い出話が綴られている。
 自ら歳をとれば失っていく親や友人がいやが上にも出てくる。その時故人を思うのと同時に自らが歳をとったことを実感される。いずれにせよ、このシリーズは老人の日常だから、ある意味身につまされる。


 それはともかく、齢を取るということの悲しさと忌々しさは、生きてゆくための道具がふえるということである。(老人のこと)


 私は年頭所感は、もうアヤマチは許されないという一事に尽きる。失策をおかして、それを反省材料にするという年齢ではなくなっていることを感ずる。失敗は取りかえしのつかない失敗になる。それを思うと、むやみに悲しくなる。まことに厳しい年齢になったものだと思わないわけにはいかない。(元日の客)


 本の書名になっている「元日の客」に、いくつか気になる文章がある。


 酒はラグビーにおける「魔法の薬罐」のようなものだ。常人にもどるのである。(いや、そう思うのは錯覚なのだろうが)とにかく、元気になって活潑になる。俺はまだ充分に戦えるという気分になる。(元日の客)


 最近ラグビーがまたブームになっているけれど、そういえばラグビーを見なくなった。昔明治が強かった頃はよく見ていた。愚直まで正面突破を試みる明治と、華麗なパス回しをして選手がグランドに全体に広がっていく早稲田の試合を楽しんでいたものだ。
 その時怪我をした選手に救護班が大きな薬罐をもってグランドに出てきて、選手に薬罐からの水を掛けている光景をよく見た。
 今はそんなことやっているのを余り見ないような気がする。すぐスプレーみたいなものをふりかけている。
 もっとも昔みたいにラグビーを見ていないのでわからないが、確かあの薬罐は「魔法の薬罐」であった。薬罐から水を掛けられると選手は復活する。


 正論というのは、それが急所であるのだから、相手を傷つけてしまう。どうも、酒を飲んでカラムというのは、そういうことであるらしい。(元日の客)


 この文章は以前書いたような気がする。言っていることはそういうことで、そうであるから正論には逃げ道がなく、相手に突き刺さる。酒を飲んでいれば、言われればウダウダ言い訳めいたことを言ってダメージを少なくしようとする。それを相手はさらに言葉の攻撃を行う。これがカラムだ。酒の席のことだから、簡単に水に流せればいいのだが、翌日“後遺症”がくる。言った方も正論をかざしたことの気恥ずかしさに悩まされるし、言われた方は正論だけにこたえる。


 私は、一年三百六十五日のほかに酒を飲む日というのがあって、禁酒は実行していますが、今日は酒を飲む日ですから頂くことにします。(元日の客)


 これがよくわからない。山口さんはここで酒も競馬も野球も将棋も止めると宣言している。しかし酒は相変わらず飲んでいる。一年にうち酒を飲んでいい日があるでは禁酒にはならないと思うけれど。どういうことなのだろうか?
 最後の鶯の話。これは笑った。


 鶯というのは相当にうるさい鳥である。雀の比ではない。しかも、その鳴き方が、なにか稽古事をしているようなところがある。三流の花街の見番の二階に飛びこんでしまったような感じがする。
 「おや、あんた、そこが違うのよ」
 「そうかしら。駄目? ホーホケキョ、ケキョ、ケキョ」
 「そのねえ、ケキョんところよ」
 「ケキョ、ケキョ・・・・・・」
 「あんた勘がわるいのよ。そこは二上りでしょ」
 「ホー、ホケキョ、ケキョッ」
 「じれったいわねえ。・・・・・・ねえ、よく聞いてよ、ホー、ホケキョ、ケキョ、ケキョ、ケキョ・・・・」(四十雀)



 確かに鶯の鳴き声は稽古事をしている感じがある。なかなかうまく鳴けず、何度も練習しているようにくり返し鳴く。何度かやっていてやっとうまく鳴けた、というイメージはよくわかる。
 今年、私は一度だけこのように練習みたいな鳴き声を聞いたが、鶯の本格的な鳴き声を聞かなかった。


山口 瞳 著 『元日の客』 男性自身シリーズ 12 新潮社(1976/12発売)
by office_kmoto | 2016-06-09 08:14 | 本を思う | Comments(0)

相場 英雄 著 『震える牛』

d0331556_5464065.jpg 田川信一のいる捜査一課継続捜査班は、迷宮入り濃厚な未解決事件を扱う。捜査一課長の宮田から『中野駅前居酒屋強盗殺人事件』のファイルを渡される。
 事件は2年前JR中野駅北口の中野ブロードウェイの中間付近、居酒屋やパチンコホールが密集する全国チェーンの居酒屋「倉田や」で起きた。全身黒ずくめで目出し帽を被り、「マニー、マニー」と叫んだ中肉中背の男がレジを襲い、売上金を奪い、鋭利な刃物で店員を襲い、レジ近くの席にいた客の首を次々に刺し、殺害した。
 ファイルには殺されたのは獣医師の赤間裕也と産廃処理業者の西野守。当初犯人は不良外国人と目安を付けて捜査されたが、事件は解決していない。

 田川の操作方法は一風変わっている。徹底的な地取りを行い、そこで得た情報、疑問点をどんどん手帳に書き込んでいく。
 宮田は田川に再捜査の指示をしたとき、背広の内ポケットに入る黒革の手帳を差し入れる。もらった手帳を今回の捜査に使う。
 まず事件現場で犯人がナイフを「逆手持ち」していたことを確認する。もちろんこのことは手帳にキーワードして書き込まれた。
 犯人がベンツで逃げたと目撃者を見つけ、運転していたのが女であることの情報を得る。もちろん「ベンツ」も手帳に書き込まれる。
 殺された西野は暴力団の構成員であり、母親から西野から「モツ煮を食べるな」、「箱根の豪勢な宿」に連れて行くと言っていたことを聞く。これも手帳に書き込まれた。
 殺されたもう一人の赤間の妹から、赤間が殺されたあと、赤間の部屋に空き巣に入られ、パソコンを二台盗まれたことを知る。さらに東京に恋人がいることも判明する。その恋人から赤間が手帳を忘れて行くほど急いでいたことも知り得た。
 目撃されたベンツは車種から持ち主を探し出すと、六本木の高級クラブのママである安部早苗であることがわかる。早苗の交友関係をたぐっていくと、スーパーを中心にショッピングセンターを作り、全国展開するオックスマートのCEO柏木友久の息子信友の名前が出てくる。信友が早苗に与えた車であったが、すでにスクラップにされていた。犯人が殺害時浴びた返り血の痕跡を消すためであった。
 そもそもベンツで逃走する犯人が売上金を奪取するわけがない。この事件は単純な不良外国人により強盗殺人事件ではなく、中野に西野守と赤間裕也をおびき寄せ殺すのが目的で、売上金奪取は偽装であることがわかってくる。
 ではなぜ西野と赤間は殺害されなければならなかったのか。西野と赤間の通話履歴から一軒の会員制の焼き肉店が繋がった。この焼き肉店で西野は牛の産地をしつこく聞いていた。一方赤間は仕入れた肉を見せてくれと迫っていた。
 この焼き肉店は増淵という牧場から一頭買いの仕入をしていた。赤間はこの増淵牧場に足繁く通っていたことを田川は調べていた。そしてこの焼き肉店の共同オーナーとして柏木信友も加わっていることもわかってくる。オックスマートは増淵牧場の肉を目玉商品として仕入れていた。
 さらに西野が産廃業者とのし上がってきた背景には加工に適さない牛の肉を裏で処理してきたことがわかってくる。
 ここから増淵牧場の牛に何らかの問題が生じ、それを赤間が見抜き、西野が処分したという構図が見えてくる。増淵牧場で“震える牛”が見つかったのである。BSEである。
 そして牛の処分のを依頼した信友は西野に強請られることとなった。赤間は事実の公表を迫った。
 中野居酒屋強盗殺人事件の真の動機BSEの存在を隠すため、二人を同時に消し去ることであった。西野がBSEの牛を処分したことで母親に「モツ煮を食べるな」と言わせ、強請ったお金で「箱根の豪勢な宿」に連れて行くつもりだった。犯人のナイフの「逆手持ち」は信友が食肉部門に以前いたことがあり、肉を解体するときナイフを「逆手持ち」する。
 こうして手帳は背広の形が崩れるほどどんどんふくらんでいったが、得た情報や疑問点が整理され繋がるとき、事件が解決していく。

 私は高校時代、中野ブロードウェイがまだオタクの聖地になる遙か前に、地下にあった果物屋でアルバイトしたことがある。だから中野ブロードウェイへ行く道であるアーケード(中野サンモール商店街)をよく歩いていた。
 また娘や義理の妹が網膜剥離になって手術をすると聞いて、新井薬師にお守りをもらいに行ったこともある。西武鉄道新宿線の駅から新井薬師までの参道が昔あった商店街の趣を残していて懐かしく感じたものだった。
 この本では事件が中野ブロードウェイの中間付近で起こったこと。田川が新井薬師に住んでいることなど、その街の描写に親近感を持ちながら読んだが、話も面白かった。


相場 英雄 著 『震える牛』 小学館(2012/02発売)
by office_kmoto | 2016-06-06 05:47 | 本を思う | Comments(0)

南木 佳士 著 『猫の領分―南木佳士自選エッセイ集』  再読

d0331556_4565126.jpg  手元に南木さんの本を置きたい、と思っていることは何度も書いた。それでもなかなか単行本は手に入らず、手元にある本は10冊も満たない程度だ。その中でこのエッセイ集も欲しいと思っていた1冊である。
 読んでいると南木さんが確固とした自分であろうとする姿が感じられる。そこには自然に振るまい、自分に素直になることを、村に住む人、病院に訪れる年老いた患者さんに当てられながら生きていく。


 世間は総論を教えてくれたのだが、各論は自ら学ぶしかなかったのだ。(夏休み)


 そこは変にかさ上げされ、奇形に変容した過去の自分を顧みて、歳を経て穏やかになっていくことを望む。もちろんいつでもそうあるわけじゃないが、できる限りそうありたいと望む姿が心地よい。
 多分私もそうであるから共感できるのではないか、と思っている。


 生きのびることは絶え間なく変容し続けること。ここ数年、このテーマにとらわれて小説を書いている。(壇上にて)


 ここのところ昔のことを思い出すことが多くなった。それも断片的に。それは歳をとったことによる老化現象かもしれないけれど、忘れていたことがふと頭に浮かぶ。


 記憶の海の底に沈んでいたはずの小石が、ある日ぽっかりと海面に浮かんでくることがある。季節、時間に関係なく、俗世の波に波長を合わせて揺れる海面に、石は確かに浮いてくる。(骨折の少年)


 この場合小石が記憶だ。ただ海面に浮かんだ記憶は妙に苦々しい。思い出してうれしくなるようなものが少ないのは何故なのだろうか。それだけ嘘くさく、強いられた生活の中の生き様だったからだろうか。忘れていたから何とか生きられてきた気もしないではない。


 生きるために忘れるのか、忘れるために生きるのか。(骨折の少年)


 いろいろ思い出す。思い出して断片をノートに書き出している。そうしないともう記憶にも登らなくなってしまいそうで、それはそれで惜しい。
 ノートに思い出した断片を書いているうちに、確かにそれを肉付けしたくなる。そんなことをしていたら、「都合のよい改編して、第一版の面影は跡形もなくなる」かもしれないが、それでも思い出した断片を書いてみたい衝動に駆られる。


 小説を書くということは、脳の底から浮かび上がる一言半句を捕まえ、それを土台にして言葉の城を築いていくものだから、浮かび上がるものがなければ確固たる作品は書けない。(言葉の手帖)


 その点小説家は小説を書けるだけいい。そんな才能のない私はただ思い出した断片を持て余している。それは間違いなく今の自分を形作り、苦しめ、変容させた一因であることは確信しているが、どう処理していいのかわからずにいる。

 ところで南木さんも三島由紀夫のことを書いている。以前山口瞳さんも三島由紀夫のことを書いていたのでそれを書いた。南木さんの推察も面白い。


 小説家なんて原稿用紙の上で生きたつもりになる変な人種なのだが、ひとつだけ肌身にしみているのは、長篇小説に結末にこだわると途中に無理がくる、という実感だ。天才三島由紀夫は最後の一行が決まってから小説を書き出していたそうだが、そういう筋書きの人生はやはりどこかに少しずつ歪みが蓄積されてきて、あるところで物語に破綻をきたし、急いで終わらせる必要に迫られたのではないか、と構成力に欠ける非才は、それなりに平凡な推測をする。(保育園に行きたい)


 そして南木さんの愛読書の一つ、丘沢晴也さんの『マンネリズムのすすめ』にある注釈を引く。


 十数年前から、私は、初対面の相手の、腕の筋肉のスジとか、肌の色つやをこっそり観察するようになった。相手がどれくらい運動しているのか、気になるのだ。文章を読むときも、似たようなことをしている。私のささやかな経験によると、「肉体」や「身体」という漢語を口にする人は、たいてい、日頃あまり運動していない。コンスタントにからだを動かしている人なら、「からだ」と言う。例外は三島由紀夫。けっこうハードな運動をしていたのに、「肉体」を連発していた。だから、あんなに異様な死を選んだのだろう。(正直なからだ)


 面白い見方があるものである。


南木 佳士 著 『猫の領分―南木佳士自選エッセイ集』 幻戯書房(2012/10発売)
by office_kmoto | 2016-06-03 04:59 | 本を思う | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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