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ユースホステル

 9月26日の朝日新聞の「Reライフ」に、“もう一度ユースホステル”という特集があった。ユースホステルと聞いてちょっと懐かしくなった。
 私がユースホステルの会員になったのは確か高校二年の頃だったと思う。当時通常の授業時間にクラブというか、仲間内みたいなサークル活動が組まれ、旅行部なるものに加わっていた。
 高校時代は真面目な生徒でなかったので、こういうサークル活動は大の苦手であったが、授業じゃ仕方がないので、一番ラクそうな旅行部に籍を置いていた。
 確か男二名、女二名が組になって旅行プランを立てるというものだったと思う。ところが私と友人が組んだ(組まされた)女の子ががちがちの真面目な高校生だったので、プランだけでは済まなくなり、実際に旅行してみようという話になり、彼女たちに引きずられるように旅行をした。
 その時利用したのが、国鉄の周遊券とユースホステルだった。ユースホステルを利用するには会員登録しないといけないので、当時有楽町のそごうにあった受付で会員登録したはずだ。
 最初に行ったのは東北で、十和田湖から青森へ向かい、帰りは田沢湖に寄ったと記憶する。
 プランは女の子たちががちがちに立てていたが、そんなことに従う私たちではなかった。バスの移動のときは、ヒッチハイクをした。当時東北の人たちは親切で、結構道端で手を上げると車が止まってくれた。
 

 部屋の消灯は午後10時、夕食後宿泊者が全員集まり歌やゲームをする。


 私たちが泊まったYHはキャンプファイアーだった。ゲームあったかもしれない。そしてお決まりのうざったいフォークダンスも付いていた。こういうのは大嫌いなので本当は参加したくなかったのだが、ここも真面目な高校生である女の子に引きずられて、そこにいることとなった。
 ただ今でもよく覚えているのが、夜空がきれいであったことだ。星が夜空にものすごい数がきらめいていて、こんなに星の数をいっぺんで見たのは初めてであった。
 確かに消灯も10時だった。こんな時間に寝られるわけがなく、同室のヒッチハイカーたちと暗い部屋で馬鹿話をしていた。
 翌朝は6時になるとベッドの真上にあるスピーカーから音楽が流れ、叩き起こされた。あまりの音響に驚きみんなでスピーカーに枕を叩きつけた。あのスピーカーはその後音がしなくなったから壊れたかもしれない。
 だいたいこういう真面目で規則正しい生活は今も昔も馴染まない。だから今シニア層のYHの利用が増えていると聞いても、YHに泊まりたいとは思わない。ただ今は会員数、YHそのものも減少しているため、こういう堅苦しいシステムのところは減少しているらしい。消灯時間もゲームないところ増えているという。
 そりゃそうだような。いくらシニア層が増えているといっても、いくら私が還暦なったからといっても、老人クラブに入っている訳じゃないのだから、キャンプファイアーやフォークダンスなど出来るわけがない。

 私たちは真面目な女子たちに引っぱられ、この後もう一回、確か奥日光へ行ったと記憶する。


by office_kmoto | 2016-09-29 19:43 | 余滴 | Comments(0)

山口 瞳 著 『還暦老人ボケ日記』

d0331556_06093543.jpg この本は以前読んでいる。男性自身シリーズの日記を先に読みたいと思ったのだろう。でもこれだけを単品読んでも、これまでの経緯などがよくわからないから、もしかしたらこのシリーズの面白味を充分味わえなかったかもしれない。

 内容に関しての感想は以前書いたのとは別なことを書いてみたい。
 まずは昭和61年11月28日の日記から。


 僕は、人様に何か差し上げるのが好きだが、それ以上に貰いものは大好きだ。


 それはそれでしょう。でも山口さんは友人や仲間に差し上げるものを本当に相手のことを考えていることが内容からもわかる。

 昭和62年1月1日の日記から。


 なんだか様子がいつもと違う。今日が元日だという気がしない。例年なら、それなりの緊張感とか一種の清々しさといったものがあったのだが・・・・・。正月なんか早く終って普段の生活に戻りたいと思うこと頻り。これは、たぶん、還暦を期して連載以外の仕事を断ってしまったせいだと思う。正月の骨休めとかノンビリした感じとかというのは、力一杯ギリギリの仕事をしてきた人に与えられるものだ。


 私ももう仕事をしなくなって3年以上になる。いわゆる世間様が休日を楽しみにしているようなことはなくなった。“毎日が日曜日”なのだから当然である。だから毎日メリハリのある時間の過ごし方を自分に課している。そして山口さんの言う通り、正月に限らず、普段の休みというのは「力一杯ギリギリの仕事をしてきた人に与えられるものだ」と思っている。

 2月21日の日記から。


 府中競馬場。プラス一万七千五百円。終って繁寿司。歳を取るとコースが決まってしまう。競馬は僕と妻の健康のためやっているが、妻を炊事から解放させる意味もある。


 山口さんは仕事を止めて、競馬に限らず、高校野球の地区予選に出かけて行ったり、あるいは国立にある寿司屋や呑み屋、あるいは喫茶店などで地域の仲間と楽しく交流している姿が描かれる。プラス一万七千五百円とは、その日の競馬の結果。この日はプラスになっているけれど、やはりマイナスの方が多いようだ。

 6月22日の日記から。


 僕の子供の頃、お邸町は麹町と麻布、目黒や代官山は二流だと思っていた。渋谷池袋は場末、新宿は宿場で馬糞が落ちていると思っていた。田園調布は郊外で成城は田舎町である。近頃評判の広尾はゴミゴミした汚い所だった。


 時代は変わるもんだということか。新宿は馬糞が落ちていた、というのは田辺茂一さんも言っていた。
 この本には見開きでエッセイもある。そのエッセイの中で「祖国愛」というのがある。そこに、


 甲子園の高校野球大会が開かれるのは、いかにも時期が悪い。どうしたって八月六日ヒロシマ八月九日のナガサキ、八月十五日の終戦記念日のほうへ頭が行ってしまう。そうして私の頭のなかに、愛校心→郷土愛→祖国愛という図式が浮かんできて、とうてい平静な気持ではいられなくなる。私はまだ「君が代」が歌えない。


 山口さんは高校野球の開会式に立ち上がって「君が代」を歌うことはしない。主義とか主張とか言うのではない。からだが動かないという。
 山口さんは、戦死した友人の顔が浮かび上がってとても「君が代」を歌えないという自分と同年代友人のことを例に出し、「君が代」が歌えない理由を言っている。でも山口さんは荘重な国歌斉唱はいいものだと思っている。けれどこのいいものを奪ったのは誰なのか、と思うという。

 11月25日の日記から。


 僕は多くの人が有り難がるほどに豆腐が好きではない。粗食を心がけているので、もっと豆腐好きになれるといいのだが・・・・・。大の豆腐好きの友人がいる。彼も血圧が高くて減塩している。だから羨ましく思っているのだが、「しかし、ね、きみ、豆腐って奴は湯豆腐でもヒヤヤッコでも、どうしたって醤油を使うことになる」と言って嘆く。これには笑った。


 これを読んで私の大先輩を思い出す。夏の暑い盛り、飲んだことがあるのだが、冷や奴が出たときに、醤油を大量にかけた。自分でも豆腐が醤油に浮かぶくらいかけないと気が済まないと言う人であった。
 私は今も昔も豆腐が大好きで、豆腐料理屋に行くと嬉しくなる。これも昔の話で、何となく以前書いたような気がするが、また思い出したので書く。
 大学時代本屋でアルバイトをしていた頃、店の先輩に新橋にある豆腐の美味しい店に連れて行ったもらったことがある。豆腐を使ったいくつかの料理と日本酒がものすごく美味しかった。中でも豆腐を使った春巻きは絶品だった。日本酒は「真純」という銘柄。これもものすごくうまかった。辛口のお酒がこんなに美味しいと初めて知った。
 そのお店はその後新橋から大塚へ移ったのだが、大塚に移った当初先輩達と訪ねたことがある。ただ惜しいことにお店の名前を忘れてしまった。そしてその先輩達とも今は付き合いがまったくなく、会うことが出来ずにいる。

 まだこの日記シリーズは数冊あるので楽しみだ。


山口 瞳 著 『還暦老人ボケ日記』 男性自身シリーズ 23 新潮社(1989/07発売)


by office_kmoto | 2016-09-29 06:12 | 本を思う | Comments(0)

ストライクゾーン

 眼鏡をかけて本を読んでいると、かすむことがある。老眼が進んだかな、と思い、眼鏡を作り直すことにした。
 妻が眼鏡市場で眼鏡を作っているので、そこへ行って、そこで新しい眼鏡を作った。
 検眼している時に、店員が面白いことを教えてくれた。私は老眼が進んでぼやけることが多くなったと思っていたら違うそうだ。というのも今度の眼鏡は今までより度数を落としてあるというのだ。
 私は今基本的に眼鏡を使うときは本を読むときだ。その時、眼から本までの距離が長いので、今までの眼鏡ではピントが位置的に合わないという。今までの眼鏡はもっと近くのものが見えるようになっているらしい。つまり彼女が言うには“ストライクゾーン”が近い眼鏡で遠く見ていたので、見づらくなっているというのである。
 私は今本を読むときほとんど座椅子に坐って読む。あるいは他でも椅子に坐って読むときが多い。その時本を持ち上げてはいない。だいたいが膝に置いた感じで読んでいる。
 ところが今の眼鏡は仕事をしていた時に作った眼鏡である。ほとんどがデスクワークである。つまり眼と机の距離が短い。しかも細かい数字を追う仕事だったので、それ仕様に作っていた。つまり用途がまったく違う。
 店員の話を聞いて、それに気づいた。なるほど、と店員の言うことに妙に納得してしまったのである。いろいろ質問すると的確に答えてくれた。

 実はここに来る前に地元のK眼鏡に行っていた。けれど他の客の対応で一杯一杯でちっともこちらに来ない。話さえ聞いてもらえなかった。それで仕方がないので、今の眼鏡を買ったI店に行ってみたが、眼鏡を見せて欲しいと言ったら、知らぬ間に無視された。今で言う「塩対応」である。眼鏡を買う客として見てくれなかったようだ。なんかお高く止まった感じがして、嫌な気持ちになった。
 それに今の眼鏡は、こっちが注文をつけなかったものだから、必要以上に高いフレームを押しつけられた感じがあった。店員の言いなりで買うことになってしまったのものである。
 元々眼鏡なんて見ればいいと思っている人なので、ぼられた感じがあった。だから悔しいので友人などに眼鏡の話をするときは、「これはイチロー仕様の眼鏡なんだ」と自慢した。
 いずれにせよここではあまり眼鏡を作りたいとは思っていなかったから、それが出ちゃったかなとは思う。もちろん分相応のものがあればここで作ってもいいとは思っていた。

 確かに今の眼鏡はいい眼鏡で、フレームが耳に掛からないので、長時間掛けていても耳が痛くない。でも今度の眼鏡も似たような仕様である。しかも眼鏡の値段はこれまでの半額である。
 眼鏡市場は安いとは聞いていた。でも安けりゃいいというものでもない。ちょっと馬鹿にしていたところが正直あったが、でも今日の“ストライクゾーン”という言葉が気に入ってしまった。こんな使い方をする言葉なのかよくわからないけれど、言っていることはよくわかった。妻に言わせるとメンテナンスもちゃんとやってくれるという。だったら問題はない。出来上がりが楽しみだ。


by office_kmoto | 2016-09-27 19:18 | 余滴 | Comments(0)

色川 武大 著 『離婚』

d0331556_05481328.jpg 次に色川武大さんの「離婚」を読んでみた。なかなか面白い小説だ。この本は四篇の短篇からなるが、まずは羽鳥誠一と会津すみ子が結婚から離婚までの経緯が語られ、次の「四人」で離婚してから誠一とすみ子のその後の生活模様が語られる。さらに「妻の嫁入り」ですみ子に好きな人が出来て、それを応援する元夫の誠一の姿が描かれる。
 この連作は、フリーライターの羽鳥誠一とすみ子が六年間の結婚生活にとりあえず終止符を打つところから始まる。もともとすみ子には妻というより妾になりたいという願望があって、妻、主婦、女房という感覚が欠如したところがある。
 この小説を読んだ色川孝子さんが怒ったというのは、こうした一方的な“男の都合”でしか女を見ていないところがあったからだろう。「離婚」、「四人」、「妻の嫁入り」も同じ視線で元女房を見ている。


 ぼくは、自分にとって役立つような女を配偶者に求めていました。いうならば、ぼくの建前に沿う女です。結婚するのはそのためで、それ以外に配偶者など必要でないのです。そうして女もそうでした。自分の建前に沿う男を求めていました。そうならお互いさまで、そこに何の不思議がありましょう。
 お互い自分の建前に固執して二人三脚はうまくいきませんでした。当然、別離のときを迎えて、それだけの話であるはずです。(妻の嫁入り)


 しかしそうとはいえ、いくら誠一が望んでいるすみ子との生活がうまくいかないからら別れても、自分の気持ちを簡単に建前だけで割り切れないでいる。
 誠一はすみ子に赤坂のマンションを与え、すみ子が働くまでの間生活費を渡す。これで清々したと思う一方、すみ子への気持ちが断ち切れない。


 が、しかし、がらんどうの室内に座っていると、腹立たしいことに、彼女の笑顔、彼女の胸乳、彼女のくびれた腹やむっちりした尻のあたりがしきりに浮かんでくるのでした。今、別れたばかりだからな、当分は、頭に残るのは仕方がない。
 ぼくはいそいで、好意を抱いているあちこちの知り合いの顔を想い浮かべました。不思議なことに、どんなことがあってももうごめんだと思っている彼女の顔が消えないのです。六年間だからな、とぼくは思いました。残像もあるだろうさ、しかしすぐ忘れていくだろう。(離婚)


 ぼくはそのまま自分の部屋に帰りましたが、慣れたはずのがらんどうに戻ってみると、ひとしお彼女のことが頭に浮かぶのです。別れた女房というものが男心をそそるものだという話はきいたことがないけれど、しかし彼女の無茶な物言いや、身勝手で烈しい動きや、傷ついたときの寒々しい表情などがなつかしく思われるのです。(離婚)


 別居してから、ぼくが部屋の鍵を忘れて外出してしまって、合鍵を持っている彼女の新居を訪ねたことがありますが、がらんどうのぼくのところと対照的に、ピカピカのマンションで、家具に埋まり暖かそうな部屋に居る彼女を、これは虚構に近い暮らし方と思いながら、ほっと安らいだおぼえがあります。そのときぼく以上に安らいで、ぼくに優しいしてくれた彼女を見て、いつもこんなふうに虚構の世界においといてやればよかったと思いました。それと、彼女の無責任さや、恣意や、手前勝手を放置したのでは、ぼく自身がたまらないと思う感情は、別筋なものです。(四人)


 誠一はすみ子のマンションへ行ったり来たりする。すみ子も時々誠一の部屋に来て洗濯をしていく。そうこうしている内に自分たち関係を結婚とは別に見出す。お互いの愛を結婚という形に縛られないで確認できることがわかってくる。


 「阿呆だな、俺も」
 ぼくたちはずいぶん久しぶり抱き合いました。以前とちがい、彼女は主人側の余裕のせいで充分リラックスしており、ぼくはぼくで、新しい女をはじめて抱くときのように昂奮しました。
 「よかったわね。あんたとセックスが合うなんて思わなかったけれど」
 「何度もくりかえせば、まだだれるだろう」
 「でも、どう、あたし、まだ魅力ある」
 「-だろうな、俺には」
 「よかった。自信が戻ってきたわ。ねえ、また、よりを戻さない」
 「おそろしいことをいうな。それだけは金輪際いやだ」
 「結婚じゃないわよ。こういう関係」
 「うむ-」
 まことに阿呆なことですが、ぼくはときどき彼女のマンションを訪れて泊っていくようになりました。そうして心の中で、離婚をしたあと同棲するというのも悪くないかもしれぬ、と考えていました。すくなくともぼくたちはぴったり合った関係かもしれないと思いました。(離婚)


 ぼくたちはいったいどういう関係なのか。お互い離れがたいが、ただ責任をとったり拘束されたりすることが嫌なので、おたがいの勝手ないいぶんを活かすためには、離婚して同棲するというのがきわめて自然な道筋ではありますまいか。


 そうなんです。実際、二度三度、ぼくは女房の部屋に行って、充分に情緒的な夜をすごしていました。目茶苦茶といえばそのとおりですが、一緒に暮すには障害になった彼女のマイナス要素が、もう少し責任のない立場になってみると、そっくりそのまま、風変りな可愛い女の子、という要素に早変わりするのです。(四人)


 ではなんで、別れたあと、ぼくは追っかけていったのでしょう。彼女が戻ってきたとき、拒めば拒めたのに、けっして長くは続かない関係と思いながらずるずると同棲してしまったのは何故でしょう。
 身体でいえば、古女房の馴染んだ身体の、馴染み加減のところに捨てがたいものを感じていたようです。気配でいうなら、彼女の何気ない声音、動き方、息の匂い、そんななんでもない部分すべてとたち切れてしまうのが辛いのです。それらは建前と関係ありません。ぼくは臆病で、容易なことでは他人と深く関わろうとしない男です。ぼくと元女房は、建前以外の海の底のような部分で断ちがたいつながりができていたといえましょう。(妻の嫁入り)


 自分たちの気持ちに正直であれば、なにも結婚という形を取らなくてもいい。
 こういう男と女の関係を見ていると、それが現実問題として出来るかどうかを考えなければ、自分たちの気持ちに正直である分、むしろ二人の関係が純粋に昇華されていくのを感じてしまう。誠一もすみ子も自然にお互いのところ戻っていく姿は微笑ましい。


色川 武大 著 『離婚』 文藝春秋(1983/05発売) 文春文庫


by office_kmoto | 2016-09-26 05:50 | 本を思う | Comments(0)

色川 武大 著 『ばれてもともと』

d0331556_06044902.jpg 色川孝子さんのエッセイ中で、色川武大さんの直木賞受賞について感想を求められて、孝子さんは「わたしが貰ったんじゃありません」と答えたと書いてあった。
 エッセイではなぜそんな言葉を言ったのかを何も言っていなかったと思う。それを色川武大さんの「『離婚』」と直木賞」で、何故、孝子さんがそんな言い草になったのかを書いている。


 女房にいわせると、小説の中の自分のもののいいかたが似ている、いやそっくりだという。あたしをあんなにひどく書いて、陰険だ、ひとでなしだ。


 と孝子さんは言ったらしい。色川武大さんにすれば、確かに孝子さんのディテールを使わせてもらったけれど、実物より魅力的に書いた。それよりも「結婚の資格、乃至は市民の資格を喪失しているくせに離れがたい男女を材料に、愛の原型みたいなものを探ってみるつもりだった」というのがこの小説のテーマをだったと言っている。
 でも孝子さんを見た人は、ああこれがあの彼女か、と納得する向きがあって、そのたびに孝子さんを刺激したようだ。それでもその嵐が過ぎたと思ったら、その作品が直木賞を受賞したことで孝子さんをさらに刺激して不機嫌になったらしい。その上で先の台詞になったらしい。

 私に中で色川武大でも阿佐田哲也でもいいのだが、とにかく色川さんは博奕、酒、女など、破天荒な生き方をしてきた人だと思ってきた。実際そのようであったらしいが、とにかく普通の人とは違う生き方をしてきて、ある意味でたらめな生き方をして、生き方だけでなく考え方もでたらめなんじゃないのか、と勘違いしていたところがあった。
 しかしとんでもない勘違いを私はしていた。いくつか色川さんのエッセイを読んでみると、博奕から得た、自らの人生訓は必死である分考えさせられるものがあったし、それよりもものすごく勉強家であり、読書家であることが窺い知ることできる。自ら卑下してそんなことを見せないところがあるけれど、その書かれているものを読んでいると、この人はとんでもない人だと思うようになった。


 他の生き方に眼もくれず小説一本筋で来ている人たちは、必ず一本筋で来ているだけの力を持っています。彼等と同じ競争をしたら負けます。私はそのことを思い知り、また思い知ろうと思っています。(青島幸男さんへ)


 博奕という生きるか死ぬかの勝負の世界で生き抜いてきただけに、色川さんが得た人生訓はその言葉に重みがある。そこに教養が加わっているのだから、さらに重みを増す。考えさせられる。言っていることがすごく真っ当なのだ。むしろ当たり前のことが我々は見えていなかったことを思い知る。


 私もほぼ同じように、自分の要点だけを気合いでしのいできた。私たちのようなタイプに共通なのは、かすめとって生きている以上、ばれてもともとだが、これが身のほどなどということは考えない。(ばれてもともと)


 日本は四季というものが小ぢまんりとあって、箱庭のような風情を楽しむことができるが、外地の空を飛ぶと、自然というものが人間の都合に合わせてくれてるんじゃないということがしみじみわかる。(エジプトの水)


 どうも無責任なようだが、近年、私は、人間はすくなくとも、三代四代、そのくらいの長い時間をかけて造りあげるものだ、という気がしてならない。生まれてしまってから、矯正できるようなことは、たいしたことではないので、根本はもう矯正できない。だから何代もの血の貯金、運の貯金が大切なことのように思う。
 さらにいえば、人間には、貯蓄型の人生を送る人と、消費型の人生を送る人とあって、自分の努力がそのまま報いられない一生を送っても、それが運の貯蓄となるようだ。多くの人は運を貯蓄していって、どこかで消費型の男が現れて花を咲かせる。わりの合わないけれども、我我は三代か五代後の子孫のために、こつこつ運を貯めこむことになるか。(血の貯金、運の貯金)


 もともと日本人はものごとを全体を反映した細部に敏感で、細部によって全体を感じることができるほどの能力を備えていたが、明治以来の資本主義体制の悪流によって、分業システムを生じ、細分化する文明と同じく果てしもなく細分化する知識を詰めこまれ、生活のテンポの速さとあいまって、全体をみる目を奪い去られてしまった。(若い人への遺言の書)


 我我地球上の人間というものは、もうすこしどこか不潔なところがあるものである。表面はシャキッと見せていても、どこか油っぽく、ちぐはぐに濁っている。仕事をすればするほど垢が溜まる。(和田誠は宇宙人)


 ところで「節制しても五十歩百歩」というエッセイに次のようにあった。


 人は健康のために生きているわけじゃない。生きるために健康でありたいだけだ。私はすでに五十八歳。幸運に恵まれて、不節制男としては過分なほど生き永らえている。自然に、元気で、長生きするならどこまでも生きたいが、無理に技を矯めてまでして長生きしなくてよろしい。


 健康を保つために節制をするという考え方は、若い人のためのもので、中年をすぎてから、あわてて好きな酒や煙草をやめたりしている人を見ると、この人はいったい何を考えているのかと思う。健康を保てば死なないというのではない。五年か十年、先に伸びるだけだ。片づくものが片づかないというだけなのである。


 この二つの文章を読んで、いつも通っている病院で処方された薬をもらう薬局で薬剤師が言った言葉を思い出した。
 私の症状が一向に改善されず、むしろ悪くなったりしているのが、処方されている薬からわかるのだろう。私と話しているうちに彼はに「こんなに努力されているのに・・・・」ともらしたのだ。つまり彼には私のことが、健康に日々注意しているし、ちゃんと病院にも通い、薬を飲んでいる、それを努力していると映ったのだろう。もちろんそれは薬剤師としてのサービストークだとはわかっているが、努力というのはおかしいな、と思ったのである。私は基本的にこの色川さんの考え方を支持する方で、この歳に健康のための努力ってどんな意味があるのか、と思っている。むしろ不自然とも考えている。私が毎日薬を飲んでいるのは、半ば精神的なところがあるが、少なくとも薬を飲んでいれば少しは楽になれる。薬を飲めば眠ることが出来る。それだけなのである。
 

色川 武大 著 『ばれてもともと』 文藝春秋(1989/12発売)


by office_kmoto | 2016-09-22 06:07 | 本を思う | Comments(0)

山口 瞳 著 『梔子(くちなし)の花』

d0331556_15194623.jpg この本も短編小説集である。
 「侘助」という短篇が気になった。

 峰岸は学生時代から続けているスクラップ・ブックが厖大な量となっていた。もちろんきちんと分類されている。同期だった河村は新聞社時代、峰岸のスクラップを使わせてもらって仕事をしたので、このスクラップにだいぶ助けられた。
 その峰岸がおかしくなったという。河村は峰岸がおかしくなったのは、マイクロフィルムが開発され資料室が整備されたので、峰岸のスクラップ・ブックを必要とする人がいなくなったからではないか、と推察する。峰岸のスクラップ・ブックが役に立たなくなったことによって、峰岸はおかしくなったのだ。
 これを読んで新聞の文化欄にあった大宅壮一文庫が赤字続きで経営が厳しくなっているというのを思い出す。
 大宅壮一文庫とは雑誌の図書館として知られている。ライターなど昔は結構利用されていたが、今はインターネットなどの普及により利用者が激減しているというのである。
 これと同じだな、と思ったのである。今はパソコンで検索すれば、すぐそこで必要なデータが閲覧出来る。だから峰岸のスクラップブックも必要なくなってくる。
 そしてなにより必要とされていると感じるから、やっていることに意味が持てた。人のやることって何か意味が見いだせないと、無駄になる。
 確かに峰岸のように、一見趣味的なスクラップ・ブックの作製でも何らかの形で他人に役立つ、と思えるから、せっせとスクラップをしても張り合いがある。それがある種のモチベーションとなっていたところがあったのではないか。それが必要ともされないとなると、堪えるだろうな、と思ってしまう。
 自分では人に役立っていると思っていても、そうではなかった、というのは、案外きつい。そしてそういうことって人生に多々ある。いつの間にか独りよがりになっていることに気づいたとき、大声をあげて叫びたくなる。
 こうしていつまでも昔ながらの仕事をしている人は職を、生きがいを失っていく。効率化、経費の削減などと言って、技術の進歩を歓迎する風潮は、一方でこつこつとやって来た人たちを排除していく。
 養老孟司さんは『バカの壁』のなかで、共同体の崩壊を言い、リストラはよほどのことがなければやってはいけないことだと言う。


 昨今は不況のせいで、どこの企業でもリストラが行われている。しかし、本当の共同体ならば、リストラということは許されないはずなのです。リストラは共同体からの排除になるのですから、よほどのことがないとやってはいけないことだった。
 本来の共同体ならば、ワークシェアリングというのが正しいやり方であって、リストラは昔で言うところの「村八分」だから、それを平気でやり始めているあたりからも、企業という共同体がいかに壊れているのか、ということがわかる。



 私は“肩をたたかれた側”の人間だから、これ以上言えば恨み言になる。結局そういうことなんじゃないのかな、といった程度で養老さんの言葉を引用した。

 スクラップ・ブックの話から言えば、実は私もそれをやっている。新聞記事の切り抜きである。昔使って途中で止めていたスクラップ・ブックがあったので、それを使っている。気になる、あるいは興味のある記事をスクラップしている。これはまったくの個人的な興味だけでそうしている。
 永井龍男さんみたいに、新聞の切り抜きから、面白い文章が書けるわけではないが、ときたまこのように参考程度に使うことがある。


山口 瞳 著 『梔子(くちなし)の花』 男性自身シリーズ 22 新潮社(1987/05発売)

by office_kmoto | 2016-09-18 15:21 | 本を思う | Comments(0)

平成28年9月日録(上旬)

9月2日 金曜日

 晴のち曇り。

 北康利さんの『佐治敬三と開高健 最強のふたり』を読み終える。かなり面白かった。

9月4日 日曜日

 曇り時々雨。

 雑誌『東京人』のバックナンバーを読む。(2016年4月号)「吉原」特集である。書いてあることはこれといって面白くなかったが、当時の浮世絵や写真などは興味深く眺めた。

 こうして家にいると、雑誌や画集など眺める時間が持てるので、本棚にある古い雑誌や画集など読んでみたいし、眺めてみたいと思っている。
 今日は杉山寧さんの画集を眺める。「穹」と題されたエジプトスフィンクスを描いた絵と「水」と題されたやはりエジプトで、女性が頭に水瓶を乗せて歩いている姿の絵が好きだ。いずれもバックの青、それも濃い青に惹きつけられる。どこか吸いこまれてしまうそうな気持ちになる背景なのだ。


9月5日 月曜日

 晴れ。

9月になっても残暑が厳しい。陽射しも強いが、台風が変な具合で来ているものだから蒸し暑くてたまらない。からだにこたえる。
 妻の病院に一日がかり。異常なしとのこと。
 待ち時間が長い。ふとこれから歳をどんどんとっていくと、このように病院でも待ち時間が増えていくんだろうな、と思ってしまう。
 昨日まで読んでいた開高健さん全集でも持ってくればよかったのだが忘れた。そう言えば読んでいた作品はKindleにダウンロードした中にあるかもしれないと思い、スマホにあるアプリでKindleを開いてみると、同じ開高さんの全集を途中までダウンロードしたものがある。さらに中を覗くと、今朝まで読んでいた作品があったので、それを開き読み始めた。
 Kindleでも開高さんの全集がある。それを一時ダウンロードしていたのだ。途中で止めた。それは本として全集を持っていること。そしていつの間にか電子書籍として作品を読むより本として作品を読む方が自分には合っていると感じ始め、以来Kindleを使わなくなったことによる。
 しかしお陰で病院での長い待ち時間をうっちゃれた。ただやっぱりスマホで本を読むのは疲れる。そろそろ限界かな、と思っていたところで、妻の名前が呼ばれた。


9月7日 水曜日

 曇り時々雨。

 開高健全集を2冊取り出し、1冊は読み、もう1冊は次に読む本として控えた。いずれも1冊500ページ以上もある。
 先に読んだ沢木耕太郎さんのエッセイも同じページ数があったが、それに比べるとこの全集は厚みが薄い。それだけこの全集は紙の質が薄いのだろう。しかし重みはしっかりとある。しかも全集特有の堅牢な装丁がさらに重みを増している。
 確かに全集21冊は本棚に収まると、その存在感がある。

 今日還暦を迎えた。私の60年という年月は重いのか軽いのか、自分でもとりとめもなく、ただそんな年数が経ったということを「還暦」という言葉で聞いて感じるだけだ。


9月8日 木曜日

 曇り時々雨。しかも雨は急に大降りとなる。

 『開高健全集』の第7巻をやっと読み終える。


9月9日 金曜日

曇り時々晴。

 開高健さんの重い小説を読んだせいで、それに当たられた感じで、次の本を読む気になれないでいた。こういう読んだ後後々尾を引く小説を考えてみればここしばらく読んでいなかったから余計に堪える。

 朝顔の種を取って、鉢植えを処分する。今年は花の色別に種をきちんと分けて取った。今年はやたら紫の花が多かったので、来年は花の色が赤をメインにして植えたいと思っている。


9月13日 火曜日

 雨。

 とにかく天気が悪くて鬱陶しい。秋雨前線が停滞している、台風が来る、と天気が落ち着かない。
 そんな中、妻がタンスを整理して出てきた今となっては不要となった書類、私の給与明細など処分する紙類が大量に渡された。何とか処分せよ、ということだ。
 妻は何でも取っておく性格なので、整理すると大量のゴミが出る。給与明細は結婚してから会社を辞めるまで全部あるそうだ。
 それを雨の中、軒下で少しずつ燃やした。
 給与明細は薄給なので、こんな湿り気の中でも、よく燃えた。


9月15日 木曜日

 曇り。

 シャコバサボテンの芽摘みをする。冬に花を咲かせるために、若い葉を取るのだ。
 こんなこと今までやったことがなかったが、今年はちゃんとテキストを見ながら育てて来た。今月の作業としてこの芽摘みがあり、その通りにした。

 明日孫の保育園で敬老参観日がある。要はじいちゃんばあちゃんに孫の成長を見せてやろうと保育園の粋な計らいだ。
 我々ものこのこと出かける予定である。で、我々はビデオカメラを持っていないので、自分のデジタル一眼を持っていくことになる。これでビデオ撮影もしちゃおう、という
魂胆なのだ。しかしそのやり方を忘れている。なのでここでもマニュアルを引っ張りだし、一応予習しておく。

by office_kmoto | 2016-09-16 06:23 | 日々を思う | Comments(0)

山口 瞳 著 『私の根本思想』

d0331556_17295059.jpg 今回は戦争を体験した人の心境を多く語っている。その中で「ある戦中派」というエッセイはもの悲しくていいなあ、と感じた。
 大体にして山口さんのこのエッセイは“人を偲ぶ”ことにいい味を出す。読んでいる人間にはその人とは全く関係もないのだけれど、読んでいて“ああ、この人こんな人だったんだなあ”と思わせてくれる。生前のとある姿、一場面、あるいは呟いた言葉など思い浮かばせて、その人は「こんな人だった」とイメージさせる。
 もちろんそれがすべてではない。だけど人の付き合いなんて、いくら深く付きあっていても、その人にとってみればある一点で接しているだけのことである。そして自分もその一点で接しているわけだから、これでいいのではないか。そもそも亡くなった人を思い偲ぶということだけでも、その人のことを愛しんでいるのではないか。たとえ悪態を描いても、結局今となれば愛すべき・・・・、となる。そんなもんじゃないか。それが山口さんの文章に表れている。だから山口さんの追悼文は好きだ。


 自分にとっての最大のお祭りで、自分が主役なのに参加できないのが葬儀だと言ったのは向田邦子である。(寺山修司)


 これは向田邦子さんが言った言葉だそうだが、まさに追悼された当の本人はそれを聞くことができない。


 要慎深いところがあるのに、外出の際に何かを忘れる。それは自分でも不思議に思っている。脳のなかに欠落した部分があるのではないか。腕時計を忘れる。筆記用具を忘れる。そうして、そんなものは、忘れてたところでどうということはないのだが、何か落ちつかない。(忘れ物)


 仕事を辞めてからカバンを持たなくなった。今にしてみると当時のカバンは便利であった、と思う。いつも持ち歩いていたから、必要な物は大体入っている。だから出かけるときは、それにいくつか追加して持ち歩けば忘れものはない。(もっとも不要な物もあるけど)
 ところが仕事を辞めてカバンを持たなくなってから、出かけるとなると、その時必要な物を思い浮かべてカバンに入れるなり、ポケットに入れるなどする。この時忘れ物が必ず起こる。出先で“しまった!”と思うことが度々ある。
 もちろんそれらがなければないで、何とかしてしてしまうのだが、やはり失敗したな、といつも思う。それも出かける度に繰り返してしまう。


 人から、よく、偏見の持主と言われた。生島治郎さんに、あなたの文章は「偏見の美学」だと評され、司馬遼太郎さんには「命がけの癖論家」だと言われた。(わが偏見の数々)


 まったくそうだと思う。この「命がけ・・・」がまさに山口瞳の真骨頂だと思う。堅物、頑固者、と言われても、いつも自分の意見や考えに真剣である。だから山口さんの文章は面白い。


山口 瞳 著 『私の根本思想』 男性自身シリーズ 21 新潮社(1986/09発売)

by office_kmoto | 2016-09-15 17:41 | 本を思う | Comments(0)

佐伯 一麦 著 『無事の日』  再読

d0331556_21280285.jpg 一つの情景が描かれている。作家である茂崎が、作家代表団として中国に行ったとき、ホテルで蚊の羽音のような振動音が聞こえてくる。茂崎は部屋にある配電盤を開けて、その振動音を止めた。茂崎は作家になる前には電気工をやっていたのだ。その時思うのである。


 俺は中国に来てまでも電気工をやってやがる。


 この心境よくわかる。

 今もよく本屋に行く。あるいは図書館に行く。その時棚の本が明らかに違う場所に入っているとき、その配列を直してしまう。ときには棚がきつきつで本が取り出せない時などあると、本をずらして取りやすいようにすることもある。
 すべて本屋をやって来た習性である。何も人の本屋でそんなことをすることもあるまい、と思うのだが、ついついやってしまうことがある。その時、まさに茂崎と同じことを思う。


 この小説は普段の日常が、これまであった厄災や、そしてこれから襲いかかってくるかもしれない厄災に不安になりつつも、その日が何となく「無事」に終わってくれる有様を描く。
 人は生きているだけで様々な厄介事、災難、病気、事故、事件に見舞われる。それらが降りかかって来た場合もあるだろうが、自分で招いてしまったものある。


 それまで、自分は好機ばかり掴もうと前へ前へと進んできたけれど、それで災厄を招いてしまうこともあると思い知った。


 確かに来し方を思うと、その繰り返しだ。つつましい生活もそれによって変わらざる得ないところがある。「立場の違いなど、容易に入れ替わってしまうものだ」と思う。
 でも基本、大きく変えることなどそうそう出来るものではなく、何となくそれをうっちゃって生きていくしかない。意識しようがしまいと関係なく、落としどころを見つけて、日々を過ごしていく。


 さっぱりと取り壊し建て直せばよいものを、最小限の補修を加えては、必要に応じて建て増しを繰り返していくのが自分たちの暮らしだった。その都度、繋ぎ目繋ぎ目に、時間を滑らせたまま。


 まさに私も似たような生き方をしてきた。この通りである。


佐伯 一麦 著 『無事の日』 集英社(2001/07発売)

by office_kmoto | 2016-09-12 21:33 | 本を思う | Comments(0)

ロバート・キャパ 著 『ちょっとピンぼけ』と 『フォトグラフス―ロバート・キャパ写真集』

d0331556_17354717.jpg 沢木さんのキャパに関する本を読んで、実際キャパが書いた文章を読んでみたくなった。
 その本の冒頭にスタインベックが寄せた文章がある。そこでスタインベックはこう言っている。


 キャパは対象について、どのように見て、どのように為すべきか、をよく知っていた。 例えば、戦争そのものを写すことは不可能であることを、彼は知っていた。
 何故ならば、戦争が激情の、果てしない拡がりであるから-。
 然し、彼はその外にあるものを撮って、その激情を表現する。
 一人の子供の顔の中に、あの民衆全体の恐怖を、彼は示した。
 彼のカメラは、そのとき、激情を捉え、且つ、展げたのだ。


 キャパの写真集を見てみると、戦場の状況より、そこにいた兵士や民衆たち一人ひとり顔の方が圧倒的に印象的である。男や女、子供の顔に、戦争の悲惨さを感じることができる。そしてそんな「激情」の中においても人間としてやさしさ、尊厳を見せてくれる。

 戦闘から帰ってくる飛行機の着陸装置が壊れてしまって、胴体着陸をした場面で、キャパはその飛行機の中を撮った。乗員は怪我をしてうめき声を上げている者もいれば、声さえ上げない者もいた。パイロットはそんなキャパの行動を見て言う。


  -写真屋!どんな気持ちでとれるんだ!
 私はカメラを閉じた。そしてさよならをいわないで、ロンドンに向かって出発した。

 ロンドン行の列車のなかで、鞄には首尾よく撮影したフィルムがつまっていたが、私は自分を嫌悪し、この職業を憎んだ。だいたい、この種の写真は葬儀屋の仕事だ。私は葬儀屋になりたくもない。


 -従軍記者は、兵隊よりふんだんに酒や女にありつけるし、もっと金になって、自由があるのさ。しかし、ゲームのどたん場になると、自分の立場は自分で選ばなければならない。逃亡して帰っても、そのため射殺されることもないってのが従軍記者の宿命というものさ。奴は自分でどっちに賭けるか、この馬かあの馬かと賭けることも、最後のどたん場で自分の手で命を張って、賭け金をごっそりポケットにしまう事もできるんだ-。


 沢木さんは『キャパへの追走』でキャパの言葉を引用している。


 ≪いつだって、ただ傍観し、人の苦痛を記録することしかできないのはつらいことだった≫


 そして沢木さんは次のように思うのであるが、確かに人の死これだけ多く見てきたをキャパ自身、それれをどう処理出来たのだろう、と思う。


 キャパは戦場だけでなく、実に多くの死を撮り続けてきた。キャパは、そのことを、自身の内部でどのように処理していたのだろう・・・・・。


d0331556_17375080.jpg 写真集を見ている。なんだろう、この身近さ。そしてこの静かに迫り来る感じは・・・・。
 キャパの弟であるコーネル・キャパは次のようにこの写真集の冒頭で書いている。


 彼は人間が生み出した厄災である戦争を報道することを自らの仕事としてきた。


 彼が目撃した数十年間にわたる「時代の陣痛」は悲惨なものだったが、彼に力を与えたのはユーモアとアイロニーのセンスであり、自身の勇気を大したものではないとみなす姿勢だった。これらのものは、その人間の、その写真家の、その使命感の、基本的な元素のようなものだった。


 沢木さんもこの写真集に文章を寄せてて、その中でこのように書いている。


 撮って、伝える。その時、撮る方法に過剰さがなく、伝えようとする方向に複雑さがなければ、撮られた写真は平明にならざるを得ない。キャパの写真にはそういった平明さがあった。あらゆる映像は写真家の恣意によって現実を切り取ったものにすぎないはずなのに、そこではあるがままのものがあるがままに撮られて眼の前に存在しているかのようだった。


 キャパの戦場写真は戦闘場面は少ないという。それでも戦闘場面以外の兵士の顔、戦争に巻きこまれてしまった民衆、戦争を煽る人物、戦争協力者の写真等で、戦争を周りから語っていることがわかる。
 実際写真を見てみる。
 「崩れ落ちる兵士」を大判の写真で見てみると、確かにこれは撃たれたというよりは、滑ったという風に見える。
 この写真は沢木さんはキャパの恋人ゲルダが撮ったのではないか、と推察しているが、そのゲルダがキャパから離れていった経緯を『キャパへの追走』で次のように書いている。


 キャパがアンドレ・フリードマンからロバート・キャパになるのとほとんど同時に、ゲルタ・ポポリレがゲルダ・タローというアーティスト・ネームを手に入れて使うようになる。ロバート・キャパはあくまでもアンドレ・フリードマンひとりのものだった。だからこそ、ゲルダは自分が撮った写真をキャパの作品として発表されることに我慢できず、自分の写真に自信を持つようになるにつれてゲルダというクレジットを手に入れることを望むようになるのだ。


 そしてこの写真はキャパが十字架を背負ってしまったことは『キャパの十字架』で語っていたが、『キャパへの追走』でも次のように言っている。


 そう、もしかしたらキャパは「勇気あふれる滅びの道」を歩みつづけていたのかもしれない。
 なぜ?それはやはり、「崩れ落ちる兵士」に関して、確信犯的に嘘をつくことを引き受けてしまったとき、十字架を背負ってしまったからではないのか。



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 「空襲警報」は市民の生活に戦争が身近に迫っているのを感じさせる一枚だと思う。


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 パリ解放の写真である「勝利に沸くパリ市民」はドイツから解放されたパリ市民の喜びが写真から感じることができる。 キャパもこの時、


 私のカメラのファインダーのなかの数千の顔、顔、顔はだんだんぼやけていって、そのファインダーは私の涙で濡れ放題になった。(ちょっとピンぼけ)


 しかしドイツ兵は完全にパリからいなくなったわけではなくて、まだスナイパーがいた。そのドイツスナイパーが撃った一撃に怯えるパリ市民の写真はリアルだ。
 そのドイツ協力者の女性たちが頭を刈られ、さらし者にされる写真がある。


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 この写真から『キャパへの追走』で沢木さんは、戦争を報じるフォト・ジャーナリズムの転換期を示す写真になったことを語る。


 (この写真は)いったい正義はどちらにあるのかという、鋭い問題がこの一枚の中に込められている。「義」があるのは町の住人なのか、それとも引き回される母子の側なのか。撮る者もどちらの側に立っていいのかがわからなくなりそうな局面だ。しかし、どちらかに立たざるを得ない。写真を撮るとはそういうことであるからだ。キャパは、たぶん町の住民の側に立って撮っている。少なくとも、この母子とその両親の側ではない。しかしキャパのカメラは、結果として、この三代の親子の悲劇を写し取ってしまった。


 しかし、私には、この地点から、戦争を報じるフォト・ジャーナリストの戦後が始まったと思われてならない。たとえば、これ以降の東西冷戦も、朝鮮戦争もヴェトナム戦争を含めて、政治的に対立する者のどちらに「義」があるのかということが、不分明になる。キャパにとって、スペイン内戦は共和国側に正義があり、第二次大戦のヨーロッパではナチスが悪だった。それが明確だったので、どの視点から撮るべきかがはっきりしていた。だが、第二次大戦以後、多くのフォト・ジャーナリストにとって、どちらの側に立って写真を撮っていいのかわかりにくくなっていく。少なくとも「ノルマンディー上陸作戦」のときのキャパのように、「義」があると信じられる側に身を置き、その一歩一歩が、希望への一歩となるような「至福の戦争」には、もうふたたび巡り会うことはなかったのだ。


 戦争以外のポートレート、ヘミングウェイ、ピカソの表情も印象的だ。そして何よりもイングリッド・バーグマンの写真は本当に美しい。


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 イングリッド・バーグマンはキャパとの結婚を望んでいたという。しかしキャパは彼女との結婚に踏み切れなかった理由を沢木さんは次のように推察している。


 さらに、キャパがどうしてイングリッド・バーグマンとの結婚に踏み切れなかった理由のひとつが、この父と母との最後まで融和できなかった不幸な結婚生活にもあったのではないかという気がしてきた。遊び人だった父の気質によく似たものが自分にもあると感じていたキャパは、ひとりの女性と終生添い遂げるということにほとんど自信を持てなかったのだろう、と。やはり、キャパは、ゲルダが死んだからこそ、安心して彼女への永遠の愛を口にしつづけることができたのかもしれない。(キャパへの追走)


ロバート・キャパ 著 /川添 浩史・井上 清一 訳 『ちょっとピンぼけ(新版)』ダヴィッド社(1980/05発売)


ロバート・キャパ 著 /沢木 耕太郎 訳 『フォトグラフス―ロバート・キャパ写真集』文藝春秋(1988/06発売)
by office_kmoto | 2016-09-09 18:04 | 本を思う | Comments(0)

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