<   2016年 11月 ( 12 )   > この月の画像一覧

中薗 英助 著 『北京原人追跡』

d0331556_06193307.png まずは思い出すこと。
 私のいた高校には世界史の先生が二人おられた。一人は通常の世界史の授業を受け持ち、学年主任でもあった。もう一人は受験対策の授業を受け持っていた。私はどういうわけかこの先生に気に入られ、マンツーマンで世界史の指導を受けた。論文形式の問題を出され、その答えを添削してもらっていた。添削されて帰って来た回答は真っ赤になってかえってきた。
 一方この学年主任には悪さばかりして、しょっちゅう怒られ眼を付けられていたけれど、それでもこの先生の授業はバカなことばかり言って面白く、真面目に受講していた。当然生徒には人気があった。
 その学年主任が授業で北京原人が発見されて、そのうちどこかに消えて、見つからないというエピソードを紹介した。骨が見つからないのは、当時の中国人は古い骨を擂りつぶして漢方薬にしちゃった可能性をもある。なにせ50万年以上も前の骨である。古さから言えば絶品であるから、効き目抜群、と言って我々を笑わせた。
 そんなつまらぬことを覚えているものだから、この書名に惹かれたのである。
 

 中国学界で現人類と類人猿とをつなぐ「中間人類」とされた北京原人の頭骨化石が、北京の南西約五十キロの周口店遺跡で、龍骨山と称される石灰岩の小山から発見されたのは、一九二九年十二月二日のことである。
 発見者は、北京大学理学部地質学科を卒業して中国地質調査所所員となった二十五歳の白面の研究者裴文中(ペイウエンチュン)である。

 

 米ロックフェラー財団が北京に開設した北京協和医科大学(中国名は北京協和医学院)内の、解剖学科研究室の金庫にあくまでも厳重に保管されていた「北京人類」、すなわち「北京原人」の頭骨化石が、真珠湾攻撃による太平洋戦争勃発とともに忽然と消え失せるという事件が起こった。

 ペキン・レディと呼ばれる「北京原人」の頭骨化石は、発見されて十二年間のみ地上に姿を現しただけであった。その後の行方が一切わかっていない。だから北京原人を題材としたミステリーがいくつも書かれる。
 この本は北京原人がどこへ行ってしまったのか、その経緯と“在り場所”を著者が新資料などを駆使して解明するのかと思えば、そうではなく、ミステリーとして書かれた北京原人の謎を単に考察しているのに過ぎなかった。すなわち作り話の検証なのである。正直がっかりした。まあそれだけ北京原人の行方の資料がない、ということなのだろう。
 さて我が学年主任の与太話であるが、これがまんざら与太話として片づけられない話がここにある。
 著者は実際動物の化石が最も強力な強壮剤として売られているのを見たことがあると書く。


 動物の化石骨を中国では龍骨と呼び、最も強力な強壮剤、万能薬として珍重する。筆者自身も、北京の大柵欄児(ターシャラル)という浅草風の下町繁華街にある同仁薬局のうす暗い棚で、その種のラベルを見た記憶がある。


 周口店にあった石灰岩の一発掘場が、龍骨山として知られるようになるには、長い長い歴史があった。
 龍骨と脊椎動物、とくに哺乳類の化石である。農民は動物の頭骨を見つけると、まず歯を叩き落す。これが龍歯でいちばんよい値で売れる。次に運びやすいように頭骨を叩きわって麻袋に入れる。
 それを漢方薬材の買付センターへ持って行く。周口店に近いところでは、約百キロ南の祁州(チージョウ 現河北省安国県)に古くからのセンターがあった。そのセンターから北京その他の薬種屋へ送られるという寸法である。
 中国に太古の人類化石があることが分ったのは、それら龍骨、龍歯のためである。


 とにかく動物の化石を漢方薬にする習慣?のお陰で周口店に人類の骨があることが分かったのである。
 北京原人が消失した戦後でも、周口店で再発掘が行われた時も同じようで、作業員が出土した化石を所定の箱に収めない。北京市内の薬種商が数名入り込んでいて、化石を買い取っていく。漢方風邪薬の龍角散は化石の粉末が最高級品とされたという。だから北京原人の頭骨化石が漢方薬の材料とされたという話もありうるかもしれない。

 ところでこの本で面白いなと思ったのは、当時、中央アジア高原の或る特定地域が人類が分散する共同の中心地と見られていたということである。現在は人類の「アフリカ起源説」が定説となっているが、当時は人類の起源の中心は中央アジアと考えられていたというのである。だから周口店の発見は人類の起源が中央アジアだという仮説を支持する有力な証拠となったようだ。


中薗 英助 著 『北京原人追跡』 新潮社(2002/02発売)


by office_kmoto | 2016-11-26 06:21 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

ラフカディオ・ハーン その2

 さて、前回はハーンの出自から、ハーンの考え方がどうハーンの作品にどう影響してきたかをみてきた。ここからはハーンが松江に赴任してからを考えてみる。


 ハーンは出雲に来て変わった。それまでは野望に満ちたさすらいの記者だったが、来日して松江に居住し、日本文化の神髄を知るに至り、日本定住を決意した。弱い人間の魂を救済する仏教、大自然と共生する神道、この神仏共存の世界が、以後ハーンの作家生活のバックボーンとなった。(芦原 伸 著『へるん先生の汽車旅行―小泉八雲、旅に暮らす』)


 『怪談』の誕生は、この松江時代の採話活動なしには考えられないと思います。(100分de名著「日本の面影」)


 私はやはり、日本体験の原点である松江と出雲の存在が大きかったと考えています。古代の神々たちの聖地であり、人々の暮らしの隅々にまで信仰が生きていた出雲は、「ゴーストリーなもの」と交信する八雲にとって、理想的な土地でした。また、彼が日本的な美しいものや日本人の誠実な心といった、美質に触れることができたのも、松江でした。(100分de名著「日本の面影」)


 ハーンは言う。


 神道の神髄は、書物の中にあるのでもなければ、儀式や戒律の中にあるものでもない。むしろ国民の心の中に生きているのであり、未来永劫滅びることも、古びることもない、最高の信仰心の表れなのである。
 風変わりな迷信や、素朴な神話や、奇怪な呪術のずっと根底に、民族の魂ともいえる強力な精神がこんこんと脈打っているのである。日本人の本能も活力も直感も、それと共にあるのである。(『新編 日本の面影』杵築-日本最古の神社)


 なしにろ日本人の美意識も、芸術の才も、剛勇の熱さも、忠誠の厚さも、信仰の感情も、すべてがその魂の中に代々受け継がれ、はてには無意識の本能の域にまで至っているのである。(『新編 日本の面影』杵築-日本最古の神社)


 ここには日本人のDNAに刻み込まれている遺伝子的記憶として連綿として伝わってきたものを記述している。

 ハーンは日本語の会話は片言しか出来ず、きちんとした読み書きは終生できなかった。しかし彼の周りには研究を手伝ってくれる人がいた。たとえば横浜で出会った青年僧の真鍋晃がそうで、ハーンに横浜・鎌倉から松江まで道中付き添った。真鍋はハーンのために英語の資料を収集し、行く先々で通訳を務めた。
 そして松江ではハーンの妻となった小泉節子が協力者となった。
 ここでハーンの妻となった小泉節子のことに触れる。
 ハーンは異常なほど寒がりで、松江の冬はかなり辛かった。病気でもするとますます心細くなる。しかも男一人では家事もままならない。そこで出て来るのが小泉節子である。
 節子は1868年(慶応4年)2月の松江藩の上級武士の家に生まれた。この年は激動の年でこの9月に年号も明治と改められる。松江は徳川家にゆかりが深く、新政府にひたすら恭順の意を示すことで急場をしのいだものの、新政府が次々と繰り出す政策は武士階級にとって、苛酷なものとなった。藩主はいったん知事となったが、士族はどんどん没落していく。
節子は親戚筋あたる稲垣家養女となったが、小泉家も稲垣家も没落の憂き目にあう。
 節子、18歳の時稲垣家は婿養子を迎えた。これは節子にとって結婚であるが、10歳年上の婿は稲垣家が自分の稼ぎを当てにしている状況に厭気が差し、1年も経たずに姿をくらましてしまう。
 22歳のとき節子は婿縁組を解消し、さらに稲垣家を離れて小泉家に復籍する。これも家族を救済する手段だったのだろう。そんな経済的に厳しいとき、ハーンのところに行ってみないか、という話が舞い込んでくる。報酬は悪くない。しかし20代の女が男一人暮らす家に住み込みで入るということ、しかも相手は日本人ではない。覚悟のいることだった。それでも切羽詰まった生活には変えられない。
 そして節子とハーンの同居が始まった。ハーンは優しく忠実に仕えてくれる節子をすばらしい人と思いはじめ、結婚に到る。
d0331556_06022627.jpg  ハーンとの思い出を綴った小泉節子の『思ひ出の記』がある。そこにはハーンとの日常が語られる。


 学校から帰ると直に日本服に着換へ、座蒲団に坐りて煙草を吸ひました。食事は日本料理で、日本人のやうに箸で喰べて居ました。何事も日本風を好みまして、萬事日本風に日本風にと近づいて参りました。西洋風は嫌ひでした。西洋風となるとさも賤しんだやうに「日本に、こんなに美しい心があります、なぜ、西洋の真似をしますか」と云ふ調子でした。これは面白い、美しいとなると、もう夢中になるのでございます。


 自分があの通り眼が悪かつたものですから、眼は大層大切に致しまして、長男の生まれる時でも「よい眼をもつてこの世に来て下さい」と云つて大心配でした。眼の悪い人にひどく同情致しました。宅の書生さんが書物や新聞を下に置いて俯して読んで居ましても、直ぐ「手に持つて御読みなさい」と申しました。


 ヘルンは一国(片意地気性)な気性で困った事がございました。


 <伯耆下市の盆踊りが警察から差し止められたのを聞いたとき>「駄目の警察です、日本の古い、面白い習慣をこわします。皆ヤソのためです。日本のものこわして西洋のもの、真似するばかりです」と云って大不平でした。


 ヘルンの好きなものをくりかへして、列べて申しますと、西、夕焼、夏、海、游泳、芭蕉、杉、淋しい墓地、蟲、怪談、浦島、蓬莱などでございました。場所では、マルティニークと松江、美保の関、日御崎、それから焼津、喰物や嗜好品ではビフテキとプラムプーデン、と煙草。嫌ひなものは、うそつき、弱いもの苛め、フロックコートや白いシヤツ、ニユヨーク、その外色々ありました。先づ書斎で浴衣を着て、静かに蟬の声を聞いて居ることなど、楽しみの一つでございました。


 節子はハーンの著述の協力者であったと書いた。節子はハーンに日本の昔話を聞かせる時の話しが面白い。


 私が昔話をヘルンに致します時には、いつも始めにその話しの筋をザツト申します。面白いとなると、その筋を書いて置きます。それから委しく話せと申します。それから幾度となく話させます。私が本を見ながら話しますと「本を見る、いけません。たゞあなたの話し、あなたの言葉、あなたの考えでなければ、いけません」と申します故、自分のものにして仕舞って居なければなりませんから、夢にまで見るやうになつて参りました。


 ハーンは話をあくまでも語る人その人から、その人の言葉、その人の考えから聞いた。それはたぶん話が伝わることを大事にしたのではないか。昔話というのはそうして残ったものだからだろう。そしてハーンはそんな残された話を再生していった。


 妻に繰り返し語ってもらった原話からインスピレーションを得て、物語を再創造・再構成する八雲。八雲の再話文学は、八雲の幻想的な想像力と節子の語り部としても巧みさの結晶として誕生したものといえるでしょう。(100分de名著「日本の面影」)


 八雲は、日本の古ぼけて埋もれてしまった滑稽無稽な伝説や仏教説話からうずたかいほこりを丁寧に払いおとし、その原石ともいうべき鉱脈を探り当て、磨きあげ、そこに新たな言葉の生命を吹き込みました。八雲は語り部としての才能は、この再話文学というジャンルでいかんなく発揮されたといえます。(100分de名著「日本の面影」)


 再話とは、すでに存在している古典の原典を元にしつつ、自分なりの文体で語り直した文芸作品のことをいいます。(100分de名著)


 「どう言ったらよいのかしら。表現の方法は、優秀なジャーナリストの出身だけあって、簡潔で、合理的で、リアリズムだったと思うんです。でも、心はロマンチックなものに憧れていたわ。幻想とか、耽美とか、想像の世界とか、そういうものが好きだったから」(阿刀田高著『怪談』)


 最後に芦原伸さんの『へるん先生の汽車旅行―小泉八雲、旅に暮らす』から知ったことを書き足す。

 占領統治したGHQのマッカーサーは側近ボナー・フェラーズ准将に天皇が真珠湾攻撃などの命令を直接下したかどうか、調査させた。フェラーズは限られた10日間で重要人物の調査したが、その証言は得られなかった。フェラーズは「天皇に関する覚書」を作成し、天皇を戦犯として東京裁判にかけるべきだとする国際世論に反対し、天皇を象徴天皇として置き、戦後の復旧に活用すべきだと主張する。マッカーサーはフェラーズの意見を受け入れ、天皇と面会する。マッカーサーと天皇が並ぶ写真が有名だが、その時の写真だそうだ。
 フェラーズは親日家で、ハーンの作品を耽読し、戦前小泉セツにも面会しているし、長男一雄の誕生日には万年筆を贈るほど二人と親しい付き合いがあった。
 フェラーズはハーンの書いた「神日本-解明への一試論」読み、日本人にとって天皇の存在の特殊性を理解していた。だから大袈裟に言えば、ハーンの言葉が天皇救い、戦後の日本の発展に力を貸したことになると、著者は書いている。
 さらに著者はハーンは元祖バックパッカーではなかったか。バックパッカーだからこそ、異文化に関してえつらん闖入者でなく、生活者として日本文化に接し、分け隔てなく素直に身を投じることができた。もしハーンは“お雇い外国人”として来日していれば、日本人に心を開くこともなく、日本人の心の機微を知りこともなく、数々の名作は生まれなかっただろうとも書いている。


阿刀田 高 著 『怪談』 幻冬舎(1998/11発売)


芦原 伸 著 『へるん先生の汽車旅行―小泉八雲、旅に暮らす』 集英社インターナショナル(2014/02発売)


「100分de名著 小泉八雲日本の面影 池田雅之」 日本放送協会/NHK出版 (2015/06発売)NHKテレビテキスト〈2015年7月〉


ラフカディオ・ハーン 著 /池田 雅之 訳 『新編 日本の面影』 角川学芸出版(2000/09発売)角川ソフィア文庫


ラフカディオ・ハーン 著 /池田 雅之 訳 『新編 日本の面影〈2〉』 KADOKAWA(2015/06発売)角川ソフィア文庫


小泉 節子 著 / 一条 裕子 絵 『思ひ出の記』 ヒヨコ舎(2003/10発売)


ラフカディオ・ハーン 著 / 池田 雅之 編訳 『新編 日本の怪談』 角川学芸出版(2005/07発売) 角川ソフィア文庫


ラフカディオ・ハーン 著 /田代 三千稔 訳 『怪談・奇談』 角川書店(1993/06発売) 角川文庫


by office_kmoto | 2016-11-23 06:09 | 人を思う | Trackback | Comments(0)

ラフカディオ・ハーン その1

d0331556_06134703.jpg 阿刀田高さんの『怪談』を読んでいると、とうもしっくりこないところがあった。
 もともと阿刀田さんが描く男と女の関係はうまいと感じることが少なく、堅苦しく、不自然さを感じていた。今回も同様であった。その上に朝倉恒一と日枝洋子が小泉八雲の足跡を巡るうちに自分たちの祖先を感じるという話が素直に入ってこなかった。
 ところが今回ハーンの『怪談・奇談』と『新編日本の怪談』を読んで、改めてこの本を読み返してみると、これはハーンの作品の“匂い”を感じさせるものがあることがわかる。出だしなどまるでハーンが語る物語のようだ。そこからかなりハーンの作品を意識されて書かれているのではないかと思うようになった。
 今までハーンの作品を読まずに阿刀田さんの本だけを読んでいたので、その奥にあるものがわからなかったのだ。やはり関係する本を読んでおけば、その内容の奥底までわかってくるものである。それに恒一と洋子の会話の中で出て来るハーンの作品が、「ああ、あれか」とすぐわかり、二人が言いたいこともよくわかった。


 『怪談』に収められた作品には、人間の恐怖心をたんに煽るものではなく、何か人間の根源にある存在の悲しみや孤独感、畏怖心や愛しさの情感に訴えかけるところがあります。(100分de名著「日本の面影」)


 確かに『怪談』は怖いというよりは愛情を感じる。復讐はその愛情に対しての裏切りから始まるのだ。

 小泉八雲ことラフカディオ・ハーンのことに知りたいと思っていた。それに出雲は昔から興味があった。これから書くことは、そんな興味から読んだ本で、知り得たこと書きたい。
 まずはハーンはどういう人だったのか。
 ハーンは、1850年、アイルランドの陸軍軍医、チャールズ・ブッシュ・ハーンを父に、ギリシア人の母ローザ・カシマチの間にギリシアのレフカス島で生まれた。島の名前にちなんで、パトリキオ・レフカディオス・ハーンと命名された。
 その後父チャールズはカリブ海のインド諸島に赴任し、ハーンは母ローザと共にアイルランドのダブリンに移る。ハーン3歳の時父親は帰還するが、その時には父チャールズの妻に対する愛情は冷めていた。母ローザもギリシアとは言葉も宗教も気候もまるで違う北国のアイルランドの生活習慣に馴染めず、ハーンをダブリンに置いたままギリシアに帰ってしまう。以後ハーンは二度と母親と会わなかった。
 父チャールズは昔の恋人と再婚し、ハーンをダブリンに残してインドへ赴任し、そこで病死する。こうしてハーンは幼年期から天涯孤独の人生を歩むこととなる。
 ハーンはダブリン住む大叔母サラ・ブレナンに引き取られ、1863年、13歳でカトリック神学校、ウショー・カレッジに入学。
 16歳の時、ウショー・カレッジのプレイグランドでジャイアント・ストライド(回旋塔)という遊具の綱で左眼を強打し、失明する。
 ちなみに現存するハーンのポートレートのほとんどが右半分しか写っていないのが多いのも、この時の失明が影響しているようである。
 19歳の時、大叔母サラ・ブレナンは遺産をだまし取られ破産したため、職を求めて単身アメリカへ渡る。アメリカでは様々な職業に就いたが、新聞記者で生計を立てられるようになる。
 日本行きのきっかけになったのは、1885年、ハーン35歳の時ニューオリンズ万国産業綿花百年記念博覧会の会場で日本政府派遣の事務官、服部一三と親交を結んだことと、イギリスの言語学者バジル・ホール・チェンバレンが英訳した『古事記』に感銘を受けたことによる。


d0331556_06282966.jpg ここに一枚の絵がある。
 1990年(明治23年)4月4日、ハーン40歳の時、横浜港に降り立つ。同行者は画家のC・D・ウェルドン。ニューヨークに拠点を持つ<ハーパー・マンスリー>誌の記者として日本についての見聞を記し、ウェルドンがそれに絵を添えて送ることになっていた。
 この後ろ姿の男がハーンである。同行者のウェルドンが描いた。どこか不安を感じさせる後ろ姿であるが、実はわくわくしていた。ハーンの『日本の面影』の「東洋の第一日目」に次のようにある。


 まるでなにもかも、小さな妖精の国のようだ。人も物もみんな小さく、風変わりで神秘的である。


 横浜に着いた翌日には帝国大学で教鞭を執っていたチェンバレンに日本での仕事の斡旋をしてもらうため手紙を書いている。
 一緒に同行したウェルドンより自分の契約条件が悪いことを不満に思って、ハーパー・アンド・ブラザーズ社の雑誌の特派員の契約を解除してしまったのだ。
 そしてチェンバレンの仲介で、島根県尋常中学校、同師範学校(現在の島根県立松江北高等学校、島根大学教育学部)の英語教師として赴任する。
 そして松江を1891年11月に離れ、熊本、神戸、と移り、最後は帝国大学の講師の職を得て東京に落ち着く。1904年9月に亡くなるまで14年間、ハーンは日本を離れなかった。

 ここからいろいろなことがわかってくる。
 まずはハーンの出自である。アイルランドとギリシアの血を引くハーンは、子供の頃に乳母からアイルランドの民話や民謡を聞かされたり、生き別れた母とつながるギリシア文明に強い憧れを抱いたりした。
 アイルランドもギリシアも古くは多神教の世界で、ハーンは、あらゆる自然に神々が宿る日本の神道に、抵抗なく共鳴できる素地があった。
 阿刀田高さんの『怪談』でも恒一と洋子は、ハーンの生い立ちにある「母から聞いた物語」、「ケルトの民話」、「ギリシア神話」、「カトリックの中にあるまがまがしい邪悪な悪魔の物語」は後のハーンの作品に大きな影響を残していたと想像する。
 さらにハーンの怪談にある「むじな」の<のっぺらぼう>には、「存在すべきものがそこにない」というハーンの内なる不安、つまり母が傍にいないという、<対象喪失>のトラウマを象徴しているものと考えられるという。


d0331556_06153602.jpg 「あるべきもの(目や鼻や口)が顔にない、いるべき人(母)が傍にいない」という喪失感と恐怖が、彼の文学の根底に流れているのです。(100分de名著「日本の面影」)


 「雪女」や「青柳ものがたり」も同じで、


 思いを寄せる美しい女性(実は精霊)が突如消失するという恐怖感は、生母の突如の失踪という、八雲の痛ましい幼年期の体験とからみあい、彼の作品で反復される基調となっている。八雲の文学は対象喪失の文学といわれるゆえんです。(100分de名著「日本の面影」)


 さらに左眼を失明したこと(右眼も強度の近視)により、音に対する敏感さをハーンは持った。実際『日本の面影』を読んでいると、生活の中に起こる音の記述が多いことに気づく。


 八雲の作品には「耳の文芸」といわれるほど聴覚でとらえたものの記述が多く、『日本の面影』においてもその特徴は顕著です。(100分de名著「日本の面影」)


 100分de名著には面白い考え方が書かれている。
 「見る」という行為は、自分を主体とするが、「聞く」という行為は、自分以外の人や物が主体となり、彼らが声や音を発する環境に自分の身を添わせ、そこに没入するということになる。だからこそ、ハーンは日本から感じ取れたことが他の西洋人と違いがたくさんあったというのである。
 なるほどそうかもしれない。

 とにかくハーンは日本に来た。ハーンの著作に、1890年4月の来日から教師生活を送った松江を1891年11月に松江を離れるまでの1年7か月にわたる濃密な日本体験が綴られている『日本の面影』がある。


d0331556_06170127.jpg


d0331556_06222027.jpg ただハーンは明治政府のお抱え外国人ではなかった。芦原伸さんの『へるん先生の汽車旅行―小泉八雲、旅に暮らす』に次のようにある。


 このとき、ラフカディオ・ハーンは四〇歳の一介のルポライターにすぎない。
 ハーンといえば松江の英語教師で、明治新政府の“お雇い外国人”というのが今でも一般的な理解だろう。しかし、ハーンは政府から招聘された正式の“お雇い外国人”ではなかった。日本の珍聞奇談を原稿にして売ろうとしてやってきた。“押しかけ外人”であり、むしろ“経済難民”に近い立場だった。


 彼の来日目的は、記事を書いてアメリカの出版社に売ること。“賞金稼ぎ”ならぬ“原稿稼ぎ”であった。


 池田雅之さん編訳の『新編 日本の怪談』のあとがきには次のようにある。


 少し極端にいいますと、ハーンの一生は怪談話を拾い集めるハンティングと記録(創作)の旅だったといってもよいかと思います。


 「根っからのボヘミアンだったでしょ。一つのところに長くいられないわ」


 これは阿刀田さんの『怪談』で日枝洋子が言った言葉であるが、この間のハーンの経歴を見ていると、そうとも言える。ただこの間にハーンに起こったが、彼が書いた日本の出来事、採取した話に大きな影響を与える。
 『日本の面影』にあるのは、日本の本当の良さというものは庶民の中にあり、当時西洋化を急いだ明治政府に対し、キリスト教と西洋文明批判をする。そのハーンの姿勢は、幼い頃厳格なカトリック神学校での生活に疑問を持っていたことから始まる。
 世界は唯一絶対神だけではないことは、父の出生がアイルランド、母がギリシアという多神教の世界が何らかの形でハーンに影響を及ぼしていると考えられる。だから八百万神がいる日本はハーンにとって魅力的な国に映った違いない。


 日本人の生活の類いまれなる魅力は、世界のほかの国では見られないものであり、また日本の西洋化された知識階級の中に見つけられるものでもない。どこの国でもそうであるように、その国の美徳を代表している庶民の中にこそ、その魅力は存在するのである。その魅力は、喜ばしい昔ながらの慣習、絵のようなあでやかな着物、仏壇や神棚、さらには美しく心温まる先祖崇拝を今もなお守っている大衆の中にこそ、見出すことができる。 (『新編 日本の面影』はじめに)


 『日本の面影』には、ここ百二十年ほどで日本が失ってきたものが克明に書き留められています。それは、近代化の波に飲み込まれる直前の、慎ましくも誠実な生活ぶり、美しい自然、暮らしの中に生きる信仰心などです。(100分de名著「日本の面影」)


 さまざまな文化を経験してきた八雲は、異文化に対してやわらかく相対的な、独特の視線を持っていました。「上から目線」ではなく、むしろローアングルの視点で、いろいろなものを丹念に見、聞き、それらに共鳴したのです。(100分de名著「日本の面影」)


 ハーンの記述した風景を書き出してみる。


 旧暦の七月十三、十四、十五日にあたるお盆の三日間は、いつでもこのように海が荒れると言われる。そして、十六日に精霊舟を流してしまうと、もう誰も海には入らないのだ。舟を雇うこともできず、漁師はみな家にいる。というのも十六日の海は、死者が海を越えて黄泉の国へと帰ってゆく、その道と化すからだ。そのため、その日の海は「仏海」と呼ばれている。それに七月十六日の夜は、海が静かだろうと荒れていようと、広い海へ滑り出ていく死者のほのかな光で、海面がちらちらきらめくという。また、遠い都会の喧噪のような聴きわけがたい死者のつぶやく声が聞こえてくるという。(『新編 日本の面影』日本海に沿って)


 今日は過去のどれだけの代償の上にあるのか、それを示す不吉な証人であるこの無数の墓石の群れは、何百年もの長きにわたってそこに立っているため、浜から吹き上げる砂で元の形もわからなくなるほどすり減り、刻まれた文字もすっかり消えてしまっている。こうして今私たちが通り抜けている所は、大地が誕生したときから、この風の吹きすさぶ浜に暮らしてきた人々が、ことごとく埋葬されている墓地の中にあるかのようだ。(『新編 日本の面影』日本海に沿って)


 ねんごろな母親の祈りの姿を見ているうちに、私は私自身の生命の神秘のうちにひそむ、何かおぼろげな蠢くものを感じた。それは、遠い先祖の記憶、二千年も昔に忘れられていたような感動が甦ったかのように、曖昧だが名伏しがたい親しみのある何かであった。その感情は、太古の世界について私の茫漠とした知識と妙に混ざり合っているように思われたが、私の家の神々もまた、愛する死者たちであった。古代ローマの家庭の守護神、ラレースが投げかけた影のように、この家の仏間には、霊妙な美しさが漂っていた。(『新編 日本の面影〈2〉盆市)


 日本人の生活には、いかなるプライバシーも存在していない。西洋的な意味におけるプライバシーは、日本人の間にはないのである。他人と自分との生活を分かつものがあるとすれば、紙一枚の壁があるだけである。扉の代わりに左右に開く襖があるだけで、人々は日中は鍵も錠もかけたりしない。
 天気はよければ、家の正面も側面も開け放たれており、家の内部は広く外気や光線や人の眼にさらされている。金持ちさえ、日中は家の表門を閉ざしたりしない。一般の民家でも、部屋に入る前にノックする者などいない。障子や襖しかないのだから、ノックのしようもない。ノックをしようとすれば、たちまち襖の紙は破けてしまうだろう。
 この紙の壁と陽の光の世界では、仲間のうち男女はお互い気を使ったり、恥かしがったりすることもない。どんなささいな行いでも、一応は公のものとされてしまう。個人的な習慣や性癖(もしあるとするならの話だが)、欠点や好悪や愛情などは、たちまちみんなの知るところとなる。個人の悪徳も美徳も、隠しようがない。そういったものを隠すべき場所は、絶対にないのである。
 日本ではこうした状況が、大昔から今日に至るまで連綿と続いてきたのである。少なくとも何百万人もの人々は、人に見られないで生活するなんて考えられないことであった。日本人の生活が快適に楽しく続けられているのは、生活に関わるあらゆる事柄が、地域社会の人々の眼に開かれているからである。ということは、日本には西洋にはありえないような、例外的な道徳的条件が備っていることを意味する。
 日本人の性格に潜んでいる驚くべき魅力とは、庶民の無垢な善良さ、生まれながらの礼儀正しさである。こうした日本人の特性は、批判や嘲笑、皮肉や当てこすりとは無縁なものであることを経験上知っている人たちだけが、この事実をよく理解している。
 ここでは、仲間を貶めておいて、自分の立場をよくしようとする魂胆をもった輩はいない。自分自身を実際より偉く見せようとする者もいない。そんなことをしたところで、日本の地域社会ではまったく無駄なことになるだけだ。ここでは、誰しも隠しだてしたり、自分をごまかしたりすることはできない。またわざとらしく気取って振る舞ってみたところで、ちょっと頭がおかしくなったのではないか、訝しがられるだけである。(『新編 日本の面影〈2〉伯耆から隠岐へ)


 1890年8月28日、松江に赴任する道中、ハーンは鳥取県の上市(うわいち)に投宿する。そしてその夜盆踊りを見学し、惹きつけられた。


 では、盆踊りの何がそれほど八雲を惹きつけたのでしょうか。盆踊りとは、亡くなった人の霊を呼び、その霊とともに踊り手が踊るものです。そうすることで死者と生者が交わり、交流する。あるいは、死者と生者のあいだに何か霊的な照応が起こるといってよいでしょう。八雲は盆踊りを見ているうちに、それを体験したわけです。(100分de名著「日本の面影」)


 ハーンは言う。


 そもそも、人間の感情とはいったい何であろうか。それは私にもわからないが、それが、私の人生よりもずっと古い何かであることは感じる。感情とは、どこかの場所や時を特定するものではなく、この宇宙の太陽の下で、生きとし生けるもの万物の喜びや悲しみに共振するものではないだろうか。(『新編 日本の面影』盆踊り)


 人間の感情とは場所や時に関係なく、そして日本人でなくても、あるものを見たとき万物に共振するものではないか。ハーンは日本を旅しながら、日本人の中に深く入って、その魂の示すものを感じていく。


 八雲は生者と死者との霊的な交流である盆踊りに強く感情を動かされました。そこで、私は、この生者と死者のあいだにあるもの、「霊的なもの(ゴーストリー)」とは何かを理解することが、彼の文学を読み解く一つの鍵になると考えています。(100分de名著「日本の面影」)


 八雲の文学は、彼の魂とあらゆる存在物(超自然的なもの、自然や動植物、人間など)の内に宿る「霊的なもの」との響き合い、その照応によって生まれたものといえるでしょう。(100分de名著「日本の面影」)


 それはDNAに刻まれた遺伝的記憶として連綿として伝わってきたもので、自分の記憶の中に、自分が体験したはずのないことが含まれている。たとえば二歳までしかいなかったギリシアの島々の風景など鮮やかに脳裡に浮かぶ。
 精神世界の出来事までも形質の遺伝と同じように、記憶も遺伝する。親から子へ、子から孫へと遺伝する。ハーンはハーバード・スペンサーの影響を受け、先祖のおびただしい経験が記憶となって個人の中に再現される、と考えていた。
 この考えが阿刀田高さんの『怪談』にも使われている。恒一と洋子がハーンを巡る旅をしているうちに、自分たちの祖先を巡る旅でもあったのではないかと思い始めたことは、決して無理のないことだったんだということである。それはハーンが旅を続け、日本人の魂(100分de名著の解説者はそれをゴーストリーと言う)に触れ、そこに自身にも共振するものを感じたものと同じである。それは庶民の生活の中で培われてきたものであり、それが遺伝子的記憶として我々の心の奥底に残されていったものである。ハーンの残した作品にはそうした遺伝子的記憶が書き残されているため、ハーンを巡る旅をした恒一と洋子は、それらを感じることで自分たちの祖先の心にもさかのぼっていったのである。


 この一年間、多くの時間を費やして小泉八雲の生涯をたどり続けてきた。この数日は日枝洋子の出自にたっぷりと思いを馳せた。小泉八雲は霊魂の存在を信じ、先祖のおびただしい経験が記憶となって個人の中に再現されると、考える人であった。洋子もまた同じように思案して自分の中に語り部の記憶を感ずる人であったらしい。(阿刀田高著『怪談』)


 -血の中の記憶-
 それがつきづきしい。
 父の記憶。ここで暮らした先祖の記憶。それが恒一の中に伝承されているのではないのか。洋子と一緒に小泉八雲を捜した一年は、自分の中に流れる記憶を知る旅路であったのかもしれない。(阿刀田高著『怪談』)


(書誌に関しては次回に掲載)


by office_kmoto | 2016-11-21 11:22 | 人を思う | Trackback | Comments(0)

南木 佳士 著 『先生のあさがお』 再読

d0331556_06450935.jpg やっぱりいいなあ、と思う。こういうモノローグみたいな文章は、いつの間にか心に浸みてくる。自分にも似たような思いや屈託があるから、妙に感じ入ってしまう。
 いろいろ思いだすこともあって、そんな思い出したことが、懐かしくもあり、今でも苦々しいところあって、それはそれで楽しい。
 収録されている「熊出没注意」は何度も読んでいるが、CCRは懐かしい。CCRといってももう知らないだろうなあ。
 吉田拓郎のことも書いてあったし、開高健のこともよく南木さんは書いている。好みが自分と似ているとともに世代的に同じなのだ。南木さんの書く文章に私が惹かれるのも当然かも知れない。


 祭りのあとの寂しさは、必ずだれかが引き受けなければならない。


 こんなフレーズにじんとくる。拓郎の「祭りのあとの寂しさは・・・・」という歌を思い出す。
 今日はこの本の書名になっている「先生のあさがお」について書きたい。もともとこれが読みたくてこの本を求めた。話とはちょっとずれてしまうけど、まあ、いい。
 話は顔見知りと思われるが、はっきりと誰と特定できない女性から、先生が育てていたという朝顔の種をもらう。


 先生のあさがおと聞いたとき、あさがおが好きだった先生はもう四年も前に亡くなっている。


 とにかくもらった朝顔の種を蒔いた。その後発芽するまで過保護といえるほどの管理をする。


 種をまき終えたポットを入れた発泡スチロールの箱は陽が高くなると妻が軒下に出し、夕方は玄関内に取り込んでくれた。寝る前にそれを風呂場に運び、出勤前に玄関に移動させるのはこちらの役目だった。

 なんだか大事にしすぎてるんじゃないかなあ。たかがあさがおなのに。


 その朝顔がなかなか発芽しない。ポットの土の中を指で探ってみるが、種の感触がない。ポット逆さにして土をばらまいてみても種の痕跡すらない。


 溶けちゃったんだよ。水に浸していたから。


 これ、笑っちゃった。
 大事に蒔いた種が余ってしまったので、半ば捨てるように外の畑に蒔いた種の方が育ち、花を咲かせるのはおかしかった。
 その畑に蒔いて花が咲いた朝顔で花見をしている人たちがいるのだが、朝顔で花見をするって、どうもぴんとこない。

 わが家の朝顔もとっくに終わった。この朝顔は孫が喜ぶと思って入谷の朝顔市で買ったもので、もう3年目となる。
 今年は紫の花が多かった。今まで種がなればかまわず取ってきた。今年は好きなピンクや赤の花を咲かせたものを特別に分けて取ったので、来年はこの種を中心に蒔いてみようと思っている。


南木 佳士 著 『先生のあさがお』 文藝春秋(2010/08発売)


by office_kmoto | 2016-11-19 06:47 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

平成28年11月日録(上旬)

11月2日 水曜日

 曇り。

 北康利さんの『西郷隆盛―命もいらず名もいらず』を読み終える。


11月4日 金曜日

 晴れ。

 今、図書館で借りている本があり、全部読んだことは読んだのだが、書きたいことがあるので返却出来ないまま(返却期限まだあるので問題はないが)、追加でまた中央図書館へ行って本を借りてきたしまった。

 川又一英さんの『ヒゲのウヰスキー誕生す』を読み終える。


11月5日 土曜日

 曇りのち晴れ。

 孫の運動会を見に行く。
 今どきの保育園はビルなどにテナントみたいな形で入っていて、自前で子供たちが走り回れるような場所を持たないのが多いようだ。
 孫の保育園もそのようで、今日の運動会は廃校になっている中学校の体育館を借りて行われた。
 初めて廃校になった学校というのに足を踏み入れた。生徒の数が減って統廃合されたのだろうか。
 校舎はいくらか古ぼけているものの一見使えないことはないのではないかと思える。もしかしたら耐震強度の問題はあるのかもしれないが。
 いずれにしても外から全く人気の感じさせない校舎、かつてあっただろう笑い声や歌声が今はなく、その分静まりかえって、もったいないというより、無気味であった。
 そのまま孫たちがいる体育館の方へ足を向けた。
 孫もそうだけれど、小さな子供たちが一所懸命走って、踊っているのを見ると思わず拍手をしたくなる。年長さんたちはさすがもうすぐ小学生なんだと思わせるほど、走りも踊りも力強いものを感じさせる。
 例によって、孫の姿をカメラで追っていた。


11月6日 日曜日

 晴れ。

 昨日孫の運動会に出かけ、例によってなかなか寝付けず、寝不足で、一日家にいる。機能を撮った写真をプリントアウトし、アルバムに貼る。

 竹鶴政孝さんの自伝『ウイスキーと私』を読み終える。


11月7日 月曜日

 晴れ。

 立冬。一日肌寒かった。


11月8日 火曜日

 曇り。

 山口瞳さんの『なんじゃもんじゃ』を読み終える。


11月9日 水曜日

曇りのち晴れ。

 木枯らし一号が吹く。

 山口瞳さんの『酔いどれ紀行』を読み終える。


11月10日 木曜日

 くもり。

 山口瞳さんの『同行百歳』を読み終える。

 調子づいて図書館で六冊も本を借りてしまったので、二週間でこれを読み切るのはきついなと思っていたが、返却期限前に全部読んでしまった。案外読めるものである。
 それで7月に予約していた本の順番がやっと回ってきたようで、借りられることになったので、本を返し、また二冊借りてくる。


11月11日 金曜日

 雨。

 稲垣えみ子さんの『魂の退社―会社を辞めるということ。』を読み終える。


11月12日 土曜日


 曇りのち晴れ。

 読みたい本が区内の図書館に蔵書していない。図書館にないのだから諦めるしかないと思っていた。しかしお隣の江東区の図書館にはあることがネットでわかった。しかも江東区の図書館は江戸川区民でも利用出来ることも知った。
 それでサイクリングがてら、東大島駅前にある図書館に行って、利用登録する。今日は利用登録することが目的だったのだが、棚をザッと眺めていると、佐伯一麦さんエッセイがあった。このエッセイも江戸川区内の図書館にはなかったし、読みたいと思っていたので、すぐ借りてきた。

 在職中から個人的に使っていたノートがある。そのノートはメモとして使っていたり、その時思ったことを書いていたりしていた。
 仕事を辞めてからは、このブログの下書きなど使うようになった。
 そのノートを使い切った。ページをめくってみると、まあよくいろいろなことが書いてある。そのほとんどが思い付きだが、読んでいると、「ああ、こんなことを考えていたんだ」と思ったりした。ちょうど会社を辞める時期と重なるので、書いてある生々しい。
 新しいノートは手元にあった未使用のノートを使うことにした。

 川本三郎さんの『東京暮らし』を読み終える。


11月13日 日曜日

 晴れ。小春日和。

 さっそく江東区の図書館をネットで利用出来るよう設定を行う。その上で探していた本を四冊ネット予約する。


11月14日 月曜日

 曇り。夕方より雨。

 佐伯一麦さんの『蜘蛛の巣アンテナ』を読み終える。


11月15日 火曜日

 曇り。

 図書館の本を順番待ちしている本はいつも最低1冊はある。それは新聞に載っていた新刊や話題の本なので、順番が回ってくるのに時間がかかる。それはそれで構わない。いつか順番が回ってくる。それを待っていればいい。もしすぐ読みたいと思う本なら、本屋へ行って買う。
 今回借りた本の中に予約待ちがある本がある。
 借りた本を読み終えたら出来るだけ早く返却する。どんな本でもあくまでも借りているのだから、早く返すべきと思っている。まして待っている人がいるなら余計だ。
 というわけで読んだ本の内容をパソコンで打ち込んで、今日でも返そうと思っていた。ところがここのところ、読んだ本の内容など打ち込むのが億劫になって溜まっていたのだ。それを今日まとめてやっていたら、午後になってしまった。今日返却しようと思っていたが、申し訳ないが明日にすることにした。
 半日パソコンに向かっていたら、肩が凝ってしまった。ここのところ肩凝りがある。今まで一日中デスクワークをしても肩凝りなど感じたことがなかった人なのだが、ここしばらく肩や首筋が凝っているのを感じるようになった。これも歳のせいなのだろうか。あんまり根を詰めるとこうなるので、適当に切り上げるようにするようになった。


by office_kmoto | 2016-11-17 05:30 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

永井 龍男 著 『石版東京圖繪』

 日曜日の朝、セミの鳴き声を聞きながら、庭にある朝顔がいっぱい咲いているのを眺めていると、“ああ、夏だなあ”と思う。
 面白いもので、何の花が咲いていても、その時庭を眺めていると、その時々の季節を感じることができる。
 せわしい人生を過ごしていれば、こういうことを感じることは多分出来なかったと思う。こんな一時を持てて自分は幸せだなあ、と思う。
 人から見ればつまらぬことかもしれないが、そのつまらぬことがつまらぬことではないと知ったのも、やはりリタイアしてからだ。
 本にしてもそうだ。本を読んで何かを必死に読み取ろうとガツガツしていて、本を本当の意味で味わう余裕などなかった。何か必死に読み取ろうとするのは、単にそこにある“情報”でしかなかった。
 今は話の流れに身をまかせる如く、その雰囲気をやっと楽しめるようになった。これもリタイアのお陰だろう。
d0331556_14445306.jpg そんな時にこの本を読んだ。この本は以前読んだ常盤新平さんのエッセイで知った。常盤さんのお気に入りで、常盤さんは人に奨める本として、この本を何人もの人にプレゼントした書いてあったはずだ。
 確かにこの本は郷愁を誘う。
 この本は大工の息子関由太郎の子供の頃から、すなわち明治後期から大正を経て昭和の終戦までを描いたものである。
 由太郎の住むのは神田猿楽町の庶民の暮らしぶり、風俗、特に子供たちの遊びなど生き生きと描かれている。


 私はこの小説で、明治の末頃から大正の初めにかけて育った、数人の子供達を、成人まで描き上げたいと念願しているが、どれもかんかち団子の臼を取り囲んで、出来上がりを待ちかねているような、あるいはまた、面白おかしい杵さばきに興じながら、実はそれを買って食べる小遣すら持たない、裏店住いの子供達ばかりである。


 かんかち団子とは、


 片方に小振りな杵と臼を、片方に幾重ねかの小引出しを、それを天びんで肩にかついで、子供の集まりそうな横丁横丁へとまわってきた。
 小引出しには、細かくちぎった餅と、黒蜜、それにあんこやきなこなぞ順序よく入れてあって、道端に臼を据えると、その餅をつきはじめる。餅をつく合間に、調子をとって杵で臼の縁をたたき、かんかち、かんかちと音を聞かすところから、そのままの名前がついたのだろう。



 常盤新平さんの解説のよると、この本は、


 永井龍男は「かねて大正年間の東京の下町と、そこに住む職人気質を書いてみたいと思っていた」と全集(第八巻)の「あとがき」に書きとめている。『石版東京図絵』は永井さん六十三歳の作品だ。(『石版東京図絵』を読む)


 とある。


 東京の町々には、抜け裏がいたるところにあった。
 どこそこのそばやについて曲って、横丁に突き当たってから路地を右に折れると、御成街道の生薬屋の角に出るというような近道のほかに、ごみ箱がならんでやっと人一人通れるとか、日の目を見ない長屋のひあわいを、身を横にして抜けると、思わぬ近さで通りに出られるとかの抜け道がどこにもあった。


 “ひあわい”とは廂間で立て込んだ家と家のひさしとひさしの間、日の当たらぬ場所のことで、永井さんはこの“ひあわい”のような死語となった言葉の美しさとともに過ぎ去った時代を蘇らせていると常盤さんは言う。
 そんな路地裏で幼い兄弟の面倒を見ながら子供たちは「ふっちょ」と呼ばれていた駄菓子屋の前でべえ独楽をやっている。メンコ、石けりという遊びもある。
 私の子供頃もまだそんな抜け道が残っていて、わざわざそんな狭いところを通ってははしゃいでいたし、べえ独楽メンコ、石けりもやった。
 由太郎たちの遊びの範囲は招魂祭をやっている靖国神社、神田明神、湯島天神、御茶ノ水、上野池之端、日比谷公園までととにかく行動範囲が広い。皇居の濠で釣りもする。

 由太郎と同じ界隈に住む父親が印刷所の校正係をしている順造がいる。順造の家の暮らし向きは大変苦しい。父親が肺を病み、陽気の変わり目には寝込むこともある。順造はその父親の薬を薬局に取りに行く。しかし順造は自転車に轢かれたため、母親が「困ったねえ、父さんの薬を取りに行く者がいなくって」と順造の湿布を取り替えながら言う。
d0331556_14452550.jpg 永井龍男さんの『東京の横丁』を読むと、永井さんの子供の頃の家のことが書かれている。永井さんは東京市神田という町中で明治37年に生まれた。


 私の父は、錦町のある印刷所へ、校正係りとして通勤していた。当時五十何歳かであった。猿楽町の横丁の家から、十分余の道を徒歩で通っていたが、すでにその頃から普通の健康体ではなく、道々歩行を止めて一息入れる姿が私の眼の中残っている。
 長兄は十一一二歳の頃、小学校を中退して印刷工場の徒弟となり、次兄は小学校を卒業後、個人経営の株式と米穀の通信社に入社、住み込み社員として働いていた。長姉のみは家事を手伝い、家はその頃各所に見られた素人下宿を営むという風に、極めて貧しい生活であった上。父は間もなく印刷所を退職して病臥生活に入り、二人の兄の給料と、間貸しの収入によって賄われるという窮迫した状態に立ち到った。(白昼の大音響)


 家が苦しいのをよく知っている順造は学校で使う帳面が一杯になったり、上草履が切れてしまっても、そのことを母親に言いだせなかった。
 永井さんも『東京の横丁』で次のように書く。


 たぶん、二年生に進んで間もなくの頃からであろう。毎月学校で渡される月謝袋を、家に帰って母に提示することがその度に辛く思われてきた。その当時の小学校の月謝は二十銭と記憶しているが、月謝だけではなく、学校で履く草履や雑記帳を新調しなければならなくなると、母のけわしい表情がまともに見られなくて、二三日月謝袋をカバンに仕舞ったままにしたこともあった。(小学校入学)


 当時小学校を卒業すると、上の学校にいく一部の者を除いて、大半は年季奉公に出る。女子でも行儀見習いのため女中奉公に出た。順造も病気寝込んでしまっている父親の代わりに家計を助けるために、小学校を途中で辞め、父親の知り合いの印刷所の使い走りに出る。母親に「あたしを助けてお呉れでないか」と言われ同意したのであった。
 『東京の横丁』では、


 当時の小学校でも、進学志望の生徒は家庭と連絡をとり放課後居残って試験準備をしたものだから、自分にその資格のないことは自ずと分っていた。憔悴した父の顔を見ずに、小僧奉公に行くと私は力んで答えた。答えながら、三日置きに淡路町の薬局へ父の薬を取りに行く役は、これから誰がするのかと思った。


 しかし永井さんは兄たちのお陰で高等小学校へ入学し、父親の薬を取りに行く役はそのまま続いた。
 『東京の横丁』には永井さんの親戚がお中元と自分への贈り物を持って来たときのことが書かれる。


 中元の季節に、わが家に珍しく来客があった。父方の裕福な親戚の一人で、家の方にも、特に私にも別に贈り物があった。
(略)
 客を送り出す母と姉の戻ってくるのを待って、紙箱を振ってみせ、これは組み合せの文房具に違いないと、得意満面で紐を解こうとした。母が、矢庭にそれを押し止めて、「お待ち」ときつい声をかけてきた。母は続けて云った。要約すると、父がいろいろ世話になっていた人があって、そこの中元に組み合わせ文房具は好適だから、母に預けよ、お前には代りに好きな物を買ってやると云うのであった。平素私は、家の中で我を張らなかった。張っても、それが通るとは思わなかったからだが、その時は夢中だった。母と姉二人に反抗して力で争った。気がつくと、大声を上げた姉が片手をかばって突っ伏していた。私は、ペン軸をその時まで握っていたので、姉の手先を深く刺してしまった。(読書の習慣)


 『石版東京圖繪』では順造を轢いてしまった洋服屋の主人がその後の順造を心配して訪ねてきて、文房具の詰め合わせを置いていった。


 「あ、組み合わせの文房具!」

 夢中で伸ばそうとする手を母親が振り払って、
 「ねえ、お前さん。加屋さんとこの男の子は、幾つだったかしら」

 賀屋さんというのは、順造の父の勤め先で、幅を利かせている上役であった。

 「・・・・・賀屋さんとこの?」
 「順造より、たしか一つ下ぐらいでしたね」
 「だから、それがどうしたというのだ」

 「いいえね、どうせ、お歳暮がてら、顔を出さなきゃならないと思っていたところなんだけれど」

 「これ、ちょうど好いじゃありませんか」

 「かあちゃん、それ、よそへ上げちゃうの?」

 「あした、朝のうちに行って来ようと思うけど、どうです?」

 「それ、あたいにくれたんじゃないか」
 と、順造が耐えこらえ呟いた。

 「順造、ここへ来い」
 と、父の声がかかってきた。
 「ちょっと、ここへお出で」
 母もそう云ったが、順造は返事をしなかった。返事をすると、とたんに泣いてしまいそうであった。
 「おいでって云われたら、なぜ素直に来ないの?順造」

 「順造、来られないのかい?」

 「おれはなあ、正月過ぎまで起きられそうもない。そこで、賀屋さんに頼んでこなくちゃならないんだが」
 「これは、あの人がお前にくれたには違いないけど、お父っつぁんのことを頼みに行くのにちょうどいい品物なんだよ。お前には、なんでも好きなものを別に買ってやるから、それでいいだろう?」
 「そうしてくれるか、順造」
 「お父っつぁんが云っているのに、お前返事が出来ないのかい」
 「・・・・・・はい」
 入った時と同じように、順造は足音もなく敷居をまたぐと、学校のカバンの上にシャツと股引をのせ、仁之助に並んだ床へ頭ごともぐり込んだ。
 一度に涙がこみ上げてきたが、声を立ててはならない。蒲団の中で、涙は頬のひびに染みた。


 こうして比較して読んでみると、順造は永井さんであったことがわかる。しかし常盤新平さんは順造を永井さんの十五歳年上の長兄に順造を見ていたのではないか、としている。しかし『東京の横丁』を読んでいると順造はやはり永井さん自身と言っていいように思える。特に“組み合わせの文房具”は永井さんの子供の頃と同じだ。
 順造のことを長々と書いてしまった。ひとえに順造が永井さん自身だと思ったからだ。しかし『石版東京圖繪』の主人公は由太郎である。
 由太郎も小学校を卒業して年季奉公に出た。奉公先はお茶の水橋を渡って神田明神と湯島天神の高台の谷間に当たる、本郷新花町の棟梁のところであった。
 ここに親方のおかみさんの姪でゆみという娘がいた。生家は深川不動の境内にある土産物屋とか掛け茶屋ということだった。親方子供がなかったのでこのゆみを溺愛していた。そのゆみを由太郎に、ということで、由太郎の父親に話を持っていく。由太郎もその気だった。
 しかしゆみの実母が亡くなると、ゆみは姉にそそのかされて由太郎との結婚をご破算にして芸者になってしまう。この時由太郎は小田原の長谷川のところへ修行に出ていた。長谷川からゆみの話を聞いた。


 由太郎は、はかない夢を見たような気がした。多勢の女の中から、急におゆみの姿だけが、心をいっぱいにふさいできた。眼頭が引きつるように痛く、涙があふれてきた。
 夢ではなかった。親方は確かにそう云った。頭に酒が残り、足取りが心もとなかった。



 ここから由太郎の人生は少しずつ狂い始める。気もそぞろになり仕事で失敗をし長谷川から叱られる。由太郎より三つ四つ年上の仲間から長谷川のところから出ようと唆される。
 そんな時関東大震災が起こり東京の由太郎が暮らしていた下町はそのほとんどが灰燼と化した。その時由太郎は大阪にいた。


 酒色におぼれて、大阪まで流れて行った由太郎に、貯えはもとよりなに一つ金目の物はなかった。大工道具を売り、僅かな金を七とこ借りして、大阪を発った。行けるところまで行って、後はどうにでもなれという気持ちであった。度胸だけは身に着いていた。
 小田原を抜け出してから、二度目の九月だから、家を後にして足かけ五年の歳月を経ていた。
 矢も盾もなく、十日がかりで、品川へたどり着いた。
 ぐれるだけぐれて、世の中裏側のことは、一通り知らぬことなしの男になっていたが、神田の焼跡に近づくにつれ、由太郎の足は鈍ってきた。


 母や父はどうしているだろう、と心配し、焼け跡に「至急連絡先 神田鎌倉河岸篠原商会」という立て看板があった。篠原は卯太郎の姓である。卯太郎は由太郎が年季奉公の仕事先で知り合った建具屋の小僧であった。
 行ってみるとそこに卯太郎がいた。卯太郎は由太郎に一緒に仕事をしないか、と誘う。震災復興で大工の仕事はたくさんある。由太郎は両親に会いたかったが、修業先を飛び出した由太郎を父親は許していなかった。ただ卯太郎の仲介で母親とは会うことができた。
 あるとき神楽坂の奥にある古びた仕舞た屋に連れて行かれる。そこで老婆から女を紹介される。おゆみに似ていた。女は千加という。由太郎は千加を連れ出す。
 その頃由太郎の父親が仕事先で倒れた。実は父親は由太郎が帰ってくるのを待っていたと母親から聞かされる。


 由太郎は母親と暮らすことになり、翌年の春にお千加を正式に家に入れた。籍のことなどで、いろいろ面倒な交渉はあったが、お千加は気立てのよい女で、姑とも折り合いよく、一家は明るかった。
 そのお千加が、めっきり弱くなったのは流産をしてからだというが、もともと腺病質だったのであろう、胸を病んで半年余り床に就き、最後は咽喉にきて、短い一生を終ってしまった。

 由太郎は鎌倉の現場に弟子と二人でいた。由太郎は棟梁となっていた。


 「ああ、いい匂いだ」
 「・・・・・なにが」
 「お茶よ、大工さんの」
 「そうかい、一杯御馳走するか」
 「ううん、呑みたくはないけど、毎朝いい匂いだわ」
 「おじさんは、酒をやらないから、お茶だけは、割にぜえたくだ」
 「あら、大工さんお酒呑まないの?」
 「あんな、毒なものはな」


 由太郎と母屋の女中との会話である。由太郎はこのくらい“枯れて”きた。
 事業に失敗した卯太郎とも再会した。


 「逢ってみりゃあ、なんのことはない、きのう別れたばかりの顔じゃないか」


 由太郎五十四歳、卯之吉五十三歳であった。


 「お前、お千加さんが死んでから、ずっと一人暮しか」
 「まあ、そういうところだ」
 「まあと、いうのは・・・・・・」
 「あれからぐれて、正体ないようなもんだった。立ち直ったつもりでも、目先がちらついて、当座は自分が信用ならなかったが、どうやらもう大丈夫だ。頼朝公と隣組でも、一向ひけは取らない。おとなしいもんだ」
 「お千加さんの病気も、いまなら手もなく癒せるところだが、しかし、お前はよく尽くした」
 「おゆみの話を聞いたばかりだが、お千加にめぐり会うために、おゆみという女がおれを動かしたと、この頃そう考えている」
 「咽喉が癒ったら、焚きたてのご飯で、鰹の刺身が食べたいと、そう云ったこともあったなあ」
 「・・・・遠い、昔話だ」
 「詰まらねえことを云い出して、悪かった」
 「なあに、お千加の話をしてもらうのは、いい供養だ。何年にも、あいつの名を口に出したことはないんだから」
「由、また一しょに仕事をやろうぜ」


 しかし由太郎はやんわりと断る。


 「仕事は荒れる。その日暮らしで、われながら情けなかった。やっと性根を取り戻したのが、四十過ぎてからだ。性根を取り戻したからといって、腕がすぐ云うことを聞くもんじゃねえ、苦労したぜ。どうやら、落ち着いて体が使える。これからが、やっと一人前の大工だ。そう思っている」
 「一人前の大工だから、おれと仕事は御免だと云うのか」
 「まあ、そう云うな」と由太郎は笑顔で、「たかの知れた、たたき大工の一生だ。取り立てて云うほどことは、なに一つありはしなかったが、まあ身分相応に、落ち着くところへ落ち着きそうだから、これからはじっくりと仕事をさせてくれということだ」


 「そうさ。身分相応に、それでもいろいろ事はあったもんだった」

 「しかしなあ、生きているということは、どっち道そんなものかも知れねえぜ」


 振り返って、由太郎は自分の小屋を眺めた。
 そして、人生というものは、あんなちっぽけな、吹けば飛ぶような仮の住まいの中にも、寄せてくるものなのかと思った。
 「人生か・・・・・」
 顔にも肩にも、夜露を浴びて、由太郎はたたずんでいたが、
 「へん、救世軍みたいなことを、云うんじゃねえや」
 と底声ながらはっきりと言い放ち、やがて柄杓の水をごくごく呑んだ。


 ここがいい。自分の人生を振り返るがらじゃないこと自覚し、昔遊んだ神田の救世軍を持ち出し、今さらながら自分の人生を語ることを照れる。いろいろあったがやっと由太郎はいい意味の大工になっていた。
 確かにこの本は常盤さんが言うようにいい本であった。しかも本の装丁もきれいだし、中には川上澄生さんの版画が数枚ある。この本は確か早稲田の古本屋さんで500円で買った。それにしてもこの本は本自体も中味も500円以上の価値があった。
 最後に永井さんの『東京の横丁』で関東大震災のとき、火事から皇居に逃げた光景が書かれていた。それを書き加えたい。


 近衛の兵隊が隊伍を組み、手に手に常緑樹の大枝を握り振りに振って消化に当る。堀の上も火の粉が舞い、われらの衣服は互いに注意し合わないと、たちまちきな臭く焦げてくる。火勢が風を呼ぶらしく、夕立のように火の粉が降りしきると、もう避難者に堪える気力はなく、皇居へ通じる大門を目がけて殺到する。その門を背に隊伍の兵士は剣を突き鉄砲を構え、一列横隊に威嚇の姿勢を示した。(関東大震災)


 『石版東京圖繪』ではこの震災で「下町気質とか、下町風と呼ばれた風俗も、この時以来東京から消滅した」と書いている。だから永井さんはその後鎌倉へ住居を移した。『東京の横丁』では次のようにある。


 鎌倉に移転した。震災後、自分の東京はもうどこにもないという感じがいつも頭から離れなかったが、その気になったのは今日出海君の手引きに依る。(結婚・鎌倉へ移転)


 永井さんにとって東京の下町、神田は子供の頃遊んだ町であり、そこで暮らす大人や子供が今や郷愁となっていたのかも知れない。『石版東京圖繪』は話とは別にその当時の人々の暮らしぶりや、職人たちの話など織り交ぜていて、それが何の違和感もなく話に溶けこんでいる。


永井 龍男 著 『石版東京圖繪』 中央公論社(1967/12発売)

永井 龍男 著 『東京の横丁』 講談社(1991/01発売)

『石版東京図絵』を読む(常盤 新平 著『東京の片隅』幻戯書房 2013/11発売に収録)

by office_kmoto | 2016-11-15 14:53 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

自転車で図書館

 今日はここ二日ほどと比べると温かい。日差しが当たると暖かく感じられた。だから日中部屋の暖房を止めても大丈夫かな、と思って止めてみたが、しばらくすると寒くなってくる。
 いくら外が暖かくても、なんだかんだと言ってももう11月の半ばである。寒くて当然である。しばらくしてまた暖房のスイッチを入れる。


 平松洋子さんのエッセイを読んでいたら、川本三郎さんの『東京暮らし』という本を読んでいると書いてあった。それは単に今読んでいる最中ということで、本の内容には触れていなかった。
 でも、その本のタイトルに惹かれてしまった。ちょっと読んでみたい、と思ったのである。
 こんな時図書館が有難い。最近の図書館はネットワークはうまく機能していて、区内の図書館にある本の検索が簡単にできる。ちゃちゃっと、パソコンで検索してみると、“窓口”として利用している近所の図書館に在庫があることがわかる。
 ちょうど借りていた本を読み終えたし、以前予約していた本の順番が来たということで、メールで連絡がきていたから、それと一緒に借りてこようと、自転車に乗る。


 図書館が有難いのはこうして読んでみたいと思った本がすぐ読めることだ。たとえばこの川本さんの本は2008年に出版されている。この本が読みたいと思って、駅前の本屋に行ってもまず在庫はない。(自宅の近くにあった本屋はない。以前あったのだが、だいぶ前になくなった)
 言っておくけど、そんな昔の本が置けるほどこの本屋にスペースがあるわけでもないことぐらいわかっている。それに売れるかどうかわからないものを本棚に置いておけないくらいのこともわかっている。だから自分が読みたい本がない、と言ってその書店を責めるつもりはない。
 8年前の本だから取り寄せは出来そうだが、仮に出版社にあっても、ここに届くまでには時間がかかる。店頭でもネットでも注文出来るが、手間が面倒である。それに一番重要なことはこの本が購入するほどいい本かどうかという問題がある(いい本であった)。それでなくても本棚がいっぱいで正直な話、本を買うのを控えているくらいなのだ。
 そんな状況だから、図書館は有難いのである。自宅の本が増えない。古い本でもわりと早く読める。読んだあとがっかりしても、痛手がない。読んでいい本なら、その本を今度自分の手元に置いておきたいと思うから、古本屋で探す楽しみもある。
 そんなわけで図書館を重宝している。


 近所にある図書館をわざわざ“窓口”と書いているのは、ここで本を借り、返すという手続きをするだけの図書館になっているからだ。
 たまたま今回読みたい本がこの図書館の書架にあったが、ない方が多い。これも仕方がない。それほど大きな図書館ではないからだ。
 でも昔は違った。何でもこの図書館は区内で二番目に古い図書館らしく、今年開館65周年を迎えたらしい。それを記念して小冊子が置いてあり、1冊もらってきて知った。
 昔というのは私が中学のころのことを言っている。高校受験の勉強をここでやったことがある。夏や冬など冷暖房が完備されているから、ここで勉強していたことがある。この時は、この図書館には多くの書架があり、書庫も行き来でき、確か地下にもあったと記憶する。勉強に疲れ、書庫を歩き回ったが、建物は古臭く、書庫もうす暗い。本の数で圧倒されていた記憶がある。
 のちにフーコーの『薔薇の名前』に出て来る中世の修道院の書庫のイメージは、こんな感じなのかな、と頭の中で妙な結びつきをした。
 当時でさえそれだけ古臭い建物だったから、老朽化のため建て替えられ現在に至っている。建て替えられて、蔵書の数は減ったようだ。実際棚の数は昔にはるかに及ばない。席の数も比べものにならないほど減った。
 詳しいことは知らないが、区内の図書館は中央図書館を基幹としているようで、ここを中心にしてネットワークでつなげ、区民のリクエストに応えているようだ。だから図書館の規模を大きくする必要もないのだろう。その方が効率的、経済的だ。仮に近所の図書館に本がなくても2~3日で届けてくれる。だから“窓口”と言っている。もし多くの本を実際手にしたければ、中央図書館に行く。
 それでも江戸川区内の全図書館にない本がある。これも仕方のないことだと思うが、読んでみたい気持ちは、その本がないだけに余計につのる。今までは諦めていた。ほとんどが古い本だから、いずれ古本屋を歩いた時、見つかれば買って読もうと思って、いくつかリストにして持っていた。
 
 インターネットと図書館が効率よくつながったことは、何も江戸川区だけのことではない。ふと隣の江東区の図書館どうなんだろう、と思いホームページにアクセスしてみる。江戸川区と同じように区内の全図書館の蔵書の検索が出来る。それで江戸川区内の図書館になかった本を検索してみると、ヒットする。
 ここまでは、「そうか江東区の図書館にはあるんだ」と半ばうらやましく思ったが、そのホームページを詳しく見ていると、江東区民でなくても、江戸川区民でも利用出来ると書いてある。貸し出しも利用登録すれば出来るとある。これはいいじゃないか。
 我が家は川を一つ越えれば江東区である。江東区といっても広いが、我が家にいちばん近くにある江東区の図書館はどこかと調べてみると、川を越えたすぐに図書館がある。だったらこの図書館を“窓口”にして江東区の図書館の本を借りることができる。
 さっそく自転車に乗って行ってみる。最初は迷ったので時間がかかったが、帰りに時間を計ったら、片道25分であった。江戸川区の中央図書館に行くのに、我が家からだいたい20分くらいだから、それほど大差ない。
 そこで利用登録をした。
 この図書館は団地かマンションか知らないけれど、とにかくその一階にある。古そうだ。それでも蔵書は多い。
 利用登録を終えると係の人から図書館の利用の仕方を教えてくれる。ここは毎週月曜日が休館で、開館時間も平日は午後8時まで。祭日・休日は午後5時までだ。
 今は何でも夜型になっているから、遅くまで図書館が開いている。休みも毎週でなく月に1回と江戸川区ではなっている。利用者が利用しやすくという配慮なのだろうが、そこまでする必要があるのかと思うところもある。もっとも遅い時間しか図書館に行けないという人もいるだろうから、それはそれで有難いと思うべきなのだろう。ここは頑なに昔のまま(江戸川区は昔そうだった)でいるのはちょっと微笑ましかった。
 昨日は最初だから、ここの図書館の棚をざっとしか見ていないが、さっそく読んでいない佐伯一麦さんのエッセイを見つけた。この本は江戸川区内にはなかった。今日はこの本を1冊借りてくる。いずれ江戸川区内の図書館には蔵書していない本をネットで予約して、借りるつもりだ。これも有難い。
 これからは江戸川区、江東区の全図書館の本が利用出来ることになった。うれしくなって、帰りの自転車をこいだ。自転車を買った効用がここにも生きた。


by office_kmoto | 2016-11-13 07:33 | 余滴 | Trackback | Comments(0)

山口 瞳 著 『「男性自身」1963‐1980 最後から二冊目の巻』、『これで最後の巻―「男性自身」1980‐1986』

d0331556_06131620.jpg


 この二冊本は未収録の「男性自身」を集めた本である。この2冊の解説とも言うべき、中野朗さんの「極私的『男性自身』解題」に次のようにある。


 山口瞳は生前、といっても没後すぐ刊行された『江分利満氏の優雅なサヨナラ』を含めて八十冊の著作を残した。そのうち「男性自身」シリーズは二十七冊である。毎年、一冊ずつ前年の連載がまとめられた。年数と冊数があわないのは、日記シリーズの巻に複数年分が収録されたからである。(「男性自身」は31年9か月1614回連載されている)毎年それを読むのが楽しみだった。そのころは連載されたすべて単行本に収録されていると思っていた。わたしも「男性自身」が読めなくなって気落ちした一人である。山口瞳の未読の作品を探すために書誌を編むことになったのだが、そのとき単行本に収録されていない「男性自身」が七十七篇あることに気がついた。

 私も本編のシリーズには週刊誌に掲載された全てが収録されているものと思っていた。なのでこの二冊は正直驚きなのである。世の中には暇人というか、奇特な人もいるので、こうして未収録作品が読める。
 この中野さんの解説によると、このコラムの題名を考えたのは、当時新潮社のドンと言われた斉藤十一だそうだ。そして山口さんはこの題名が気に入らなかったらしい。確かに山口さんの性格からして「男性自身」とは別なことを思い起こさせるところもあるので、気に入らなかったのではないかと思われる。しかし新潮社のドンが決めたことである。そのまま山口さんは直木賞を受賞した1963年12月から連載が始まった。
 斉藤は連載が低調なら即中止する、豪腕・辛辣な編集者だったので、山口さんがこの連載コラムを引き受けたのはかなりプレッシャーだったろうという。
 中野さんはこの「男性自身」を三期に区分けして考えられるという。しかもほぼ十年単位で変化したのではないかと書いている。その三期とは「江分利満氏の時代」、「『国立物語』の時代」、そして「ドキュメンタリーの時代」と区分する。
 「江分利満氏の時代」とは直木賞受賞作品を含む「江分利満氏」シリーズの延長として、「『国立物語』の時代」とは国立で暮らすところから、国立に住む人々、芸術家、あるいは飲食業で働く人々の交流を描く。中野さんはこの時期になると「男性自身」が週刊新潮の柱となっていって、斉藤十一の呪縛からも解放された時期という。たぶんこの時期の頃が一番面白い。そしてのびのび書いているように思われる。
 最期は「ドキュメンタリーの時代」」とは「一人の人間がどう死んでいくか記録していこう」とした。だから日記風に記述か変わった。

 さてこの未収録七十七篇だが、週刊誌掲載第一発から未収録コラムだったという。しかし二冊読んでみて、これらが単行本に収録に漏れたのは、例えばやたらとプロ野球の話が多いところをみると、話が重複してたり、野球の話ばかりじゃマズイということで漏れた可能性があるようにみえる。
 それでもなるほど、と思えるものもある。いくつか引っ張り出してみよう。


 私は酒場は職場の延長だと考えている。酒場がすなわち仕事場ではないが密接に関係していると思う。従って油断がならない。喧嘩がおこりやすい。道場にも似ている。大切にしなければいけない。(若者よ)


 まあこう言うのも仕方がない。飲んでいて、仕事の話にならないことなどないことぐらい経験則からわかっている。周りからよく聞こえてくるのは会社の話をしている人の声だ。


 私にかぎらず、散歩をしている人の心がユッタリとしているとはきまっていない。どうも、誰もが沈鬱という表情をしているように思われる。
 変なときに変なことを思いだして、立ちどまったり、あるいは逆に駈けだしようなような気持ちになることがある。(冷汗が出る)

 散歩というものも楽じゃない。完全に放心して道を歩くことなどできるもんじゃない。次から次へと厭なことばかり思いだされてくる。(冷汗が出る)


 そうなのだ。


 ウツ病なるのは、必ずしも失意のときではないそうだ。サラリーマンであると、同期の人を追い抜いて課長になったりするときが危いのだという。自分は果して課長に価する実力があるのだろうかと考えだすのがいけない。また、周囲から敵視されるのを、ことさら増大して考えるようになる。(ウツの時)


 老人性のウツ病というのは、時代から取り残されている感じになることだと思う。あるいは、もう役に立たないという感じなのではなかろうか。(ウツの時)


 これもよくわかる。


 収録に漏れたプロ野球の話で面白かったのは、「評論家とか解説者とかは、がいして言うならば、監督・コーチで失敗した人たちである。新監督に派手に動かれて成功されたんじゃあ、彼等の立つ瀬がないのである(今年のプロ野球)」という文章。


 確かにそうだな、と思う。
 
 この二冊には柳原良平さんのイラストがない。シリーズとは違うから仕方がないのかもしれないが、ちょっと寂しい。


山口 瞳 著 『「男性自身」1963‐1980 最後から二冊目の巻』 河出書房新社(2004/11発売)


山口 瞳 著 『これで最後の巻―「男性自身」1980‐1986』 河出書房新社(2005/01発売)

by office_kmoto | 2016-11-10 06:20 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

Coyote〈No.55(Spring2015)〉特集・旅する二人―キャパとゲルダ 沢木耕太郎追走

d0331556_17014521.jpg この雑誌の特集にある沢木さんの文章は先に読んだ『キャパへの追走』の初出だろうと思われる。だから今回は『キャパへの追走』の付け足したい部分を書いておく。たぶん『キャパへの追走』にはきっとあった記述だったと思うが、私が省いた分わかりにくいところを補完してみたい。

 まず、さきにキャパの撮った写真が例外的で、特別な存在になったことを書いた。しかしその理由を書かなかった。ではキャパの写真がそのような存在になった理由とはなんだろうか。それを沢木さんは「旅するキャパ」に次のように書いている。


 たぶん、それは「物語」だったと私は思う。キャパには「キャパ」という波瀾万丈の「物語」が存在した。キャパが生きた「キャパという物語」に照らされて、キャパの撮った写真そのものの輝きがさらに増すという構造があるように思えるのだ。ある意味で、キャパの写真はキャパという人生と不可分のものだと言える。


 そしてその「物語」はキャパにとって戦場と不可分で成り立っていた。沢木さんは言う。


 戦争下の写真は、たとえそれが戦場ではなくとも、撮り手と対象の心の動きが共振したようなヒリヒリした緊張感がみなぎっているが、戦後の「平時」を撮った写真にはキャパが撮ったということを除いてしまうと果たして歴史に残り得る写真かどうかは疑問な写真が少なくない。


 確かにロバート・キャパの写真は素朴だから力強い。しかし、戦場を離れた彼の写真には素朴さだけが際立つことになる。キャパの写真における戦争の不在は、結果として「物語」の消失をもたらし、同じ子供を撮った写真でも、戦火の下の子供を撮ったものと比べると、極めて平凡なものにしてしまうことになった。ところが、ヴェトナムではふたたび輝きを取り戻しているのだ。


 そして最後の沢木さんは次の文章でこの「旅するキャパ」の章を終える。


 キャパの悲劇。それは四十歳で早逝してしまったということより、嫌悪してやまなかった戦争の下でしかよりよく生きられなかったこと、そしてそこにしか「傑作」を撮れなかったということの中にあったと、私には思われてならない。


 ゲルダ・タローについての加える部分は次の文章である。


 それにしても、写真で見るゲルダは美しい。身長五フィート一インチというから百五十センチより少し高いくらいだが、容貌の美しさは並の映画スターなど及びもつかなかったのではないか。
 しかし、美しいのはゲルダだけではない。のちにイギリスで知り合うことになるピンキーことエーレン・ジャスティンも、パリで知り合うイングリッド・バーグマンも、キャパの恋人となる女性はみな飛び抜けて美しい。キャパが美人を好んだのか美人がキャパを好んだのか・・・・・もちろん、どちらがどちらと言えるはずもないのだが。
 ただ、こうは言えるように思う。彼女たちは、キャパの、いまを楽しみ、人を楽しませる明るいところに惹かれたのだろうが、それだけでなく、故郷を離れた者に独特の昏さがその明るさに微妙な陰影を与えていたところにも惹かれたのだろう、と。さらにキャパが戦場を駈けるカメラマンとなってからは、いつ死ぬかもわからないという危険性がその恋愛を特別なものにしていった可能性がある。(旅するキャパ)


 確かにゲルダは残っている写真から見ると美しい。


d0331556_17035971.jpg



 ゲルダは、このスペイン戦争のわずか半年足らずの期間に、みるみる写真の腕を上げていく。
 私はそのゲルダについて『キャパの十字架』の中で、次のよう述べた。≪(ゲルダが本格的に写真を撮りはじめるのは)≫一九三七年二月のマドリード空襲から、七月のブルネテ攻防までだが、そのわずか半年足らずの期間にカメラマンとして急速に腕を上げていったことがわかる。技術的には拙いところが散見されるが、少しずつ撮る対象の核心に迫る方法を体得していった様子がうかがえるのだ。ゲルダはもしかしたら、キャパ以上に、戦争の中心、戦闘の真っ只中にあるものを凝視することに成功しつつあったのかもしれないと思わせる作品もある。(旅するゲルダ)


 さて「崩れ落ちる兵士」の疑問点の追加。この雑誌に掲載されている講演集「幻の丘を求めて」にある。


 しかも、この兵士が撃たれているとしたら、体のどこに銃弾が撃ち込まれているのかがわからない。敵もこの兵士が手にしているのと同じスパニッシュモーゼルという高性能のライフルを持っていたと思われますが、もしそれから発射された銃弾が一発どこかにあたっていたら、体に必ず痕が残る。たとえそれが写真であっても写るはずなんです。スパニッシュモーゼルの弾頭は直径七ミリですが、それがめり込むか貫通するかしたら、体のどこかになんらかの痕ができないはずがない。


 沢木さんはあの「崩れ落ちる兵士」の写真はゲルダが撮ったのではないか、としている。だとすればキャパはゲルダの撮った写真を自分のものとしてしまった。しかもそのゲルダは死んでしまっている。それについて文句を言いようのない。そのことがキャパの“十字架”となってしまった。それについてキャパの心情を思い測る。


 だけどそれってとても辛いことだったと思うんです。なぜなら、撃たれて死んでなんかいない兵士の写真で、しかも、もしかしたら自分で撮ってもいなかったかもしれない写真で有名になってしまった。それは生きていく上においてそうとう辛いことだったと、僕は思うんです。
 それによってキャパは、僕のキャパに対する人間理解の仕方でいえば、たぶん、この「崩れ落ちる兵士」以上の戦場写真を撮らなければいけないと思っただろうし、撮りたいと願ったと思うんです。



 しかしスペインの戦場ではそれ以上の写真は撮れず、第二次大戦のノルマンディー上陸作戦であの写真でキャパは救われた。


Coyote〈No.55(Spring2015)〉特集・旅する二人―キャパとゲルダ 沢木耕太郎追走 スイッチ・パブリッシング(2015/03発売)

by office_kmoto | 2016-11-07 17:08 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

万年筆3

 朝日新聞のReライフに「万年筆はじめます」という特集があった。ここでは万年筆の使い方など伝授してくれているが、私が気になったのは、購入時に店で試し書きをした方がいいというアドバイスだ。その際、「万年筆を選ぶ際は、店員と相談すると良い」とも書いてあった。私が今使っている万年筆も店員さんと話をして決めた。
 考えてみると万年筆はショーケースに入っている。それは万年筆が高級筆記具になるからだろうが、そのためにこれはと思う万年筆をケースから出してもらい、インクを付けて試し書きをさせてくれる。その時書き心地など店員さんと話ながら、数本試し書きをした。そして今使っている万年筆にした。これは良かったと思っている。書き心地が最高である。
 ところで万年筆にはインクの問題がある。今はカートリッジを使っているが、インクが瓶に入っているものを使いたいな、と思った。それは意味があるわけじゃない。その方がいかにも万年筆を使っているという感じがするからだ。要は格好の問題である。気取っている。
 それともう一つ理由がある。今使っているインクの色が気に入っているのである。プラチナのブルーブラックである。それまで使っていたモンブランの極太ペン(これも単に作家が愛用している人が多いと聞いて買った)はモンブランのブラックが入っている。これに気に入っているプラチナのブルーブラックに入れ替えて使おうと思ったのだ。別にモンブランの万年筆だからモンブランのインクを使わなければならない、という理由はないかと思ったのだ。
 モンブランの万年筆はインクが吸引式のものなので、必然的にボトルインクが必要になる。それでAmazonで買ったものを入れてみた。すると色のせいだけでなく、書いた文字がそれほど太くない。それまでインクが出すぎる感じがあって、やたら文字が太くなる。いくらペン先が太いといってもこれだと書いたあとびちゃびちゃになってしまっう。それが今ひとつ気に入らなかった。今回インクを変えてみると、今使っている万年筆と同じ太さだ。たぶんモンブランのインクは水分が多いのだろう。

 これはいい!

 ということでこのインクを使うことにした。今使っている万年筆もインクを吸引するコンバーターを付ければ使えるから、両方ともこのボトルインクが使える。
 ところで両方ともインクを吸引式にしてしまうと、インクが切れた時が問題なる。すなわちそれが外で使っているときにインクがなくなって困るだろうな、と不安になった。しかし万年筆は外に持ち出すものじゃないという、本に書いてあった。山口瞳さんの『金曜日の夜』に次のようにあった。


 つい最近のことなのだけれど、中野重治さんに「きみ、万年筆を持って出てはいけない」と言われた。「仕事場があるなら、そこへも一本置いておいて、そとへ持って出てはいかない」
 私は驚いた。そんなに簡単な、ごく当り前のことに、ずっと長いあいだ気づかずにいたのである。
 万年筆を武士における刀とするならば、私の戦場は書斎と仕事場に限られているのであって、それ以外のところへ携行する意味は無いのである。
 やっと使い馴れた万年筆を紛失したり、床に落してペン先を駄目にしてしまうということが、六回も七回もあった。持っていなければ、そんなことにならない。これは自明の理というものである。(ハンケチ、ハナカミ)


 そうだよな。家にいる時だけ使えばいいだけのことである。私は作家でもなんでもないけど、今の私は外に出て筆記用具を使う機会も少なくなったのだから、そんな心配をする必要がない。何も外まで気取って万年筆を使う必要もないし、変に嫌味っぽくなるのも困る。密かな楽しみとして万年筆を使いたい。これからはモンブランの万年筆も使っていこうと思っている。


by office_kmoto | 2016-11-05 06:00 | 余滴 | Trackback | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


by office_kmoto
プロフィールを見る
画像一覧
通知を受け取る