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平成29年1月日録

1月2日 月曜日

 曇りのち晴れ。

 実家に新年の挨拶に行く。ここのところ1週間に1回は行っているので、あらたまる必要はないのだが、一応けじめということで挨拶に行く。
 弟家族と合流し、食事をして別れる。
 眼が鬱陶しくてならない。それに多少風邪気味だ。


1月3日 火曜日

 晴れ。

 5年連用日記が今年で最後になる。この日記のいいところは、同じ時期何をしていたかわかることで、例年正月三が日には、ブックオフに行って本を買ってきている。ブックオフが正月のセールをやっているからだ。
 もう本はできる限り買わないことにしているのだが、セールをやっているので買ってしまう。今日は佐伯一麦さんの文庫本2冊と単行本を1冊購入。


1月4日 水曜日

 晴れ。

 今日から仕事始めが多いようで、眼医者も今日から始まったので、早々に行く。予想通り結膜炎とのこと。目薬を2本もらう。これで眼の鬱陶しさがなくなるだろう。後は風邪を早く治すことだ。お陰で新年早々なかなか本が読めないでいるが、やっと幸田文さんの『きもの』を読み終える。


1月5日 木曜日

 晴れ。北風が強い一日。

 結局年末から引きずっている結膜炎と風邪で、やはり年末に借りた本すべて読み切れず返却期限が来てしまう。読み切れなかった本のうち2冊を再延長し、1冊は予約者がいるので再延長出来ず、未読のまま返却することになってしまった。明日返す。


1月6日 金曜日

 晴れ。

 眼はだいぶ良くなってきた。風邪も治りつつある感じがする。

d0331556_18574658.png 川本三郎さんの『東京の空の下、今日も町歩き』 (講談社2003/11発売)を読み終える。
 先日読んだ本よりこの本の方が読んでいて楽しかった。それはやはり川本さん自身がそこへ足を運び、感じたことが書かれているからだ。


 町の散策者としては、現在の風景のうしろに、消え去った近過去を見ている。変化の激しい東京では、町の散策者は、見えない風景を見ようとする幻視者になる。


 同じ町を語るにしても、様々な資料だけから語ることより、こうしてじかにそこに行き、知っている歴史の残影を見ようとする方が、読む側としては楽しい。リアルさが違う。
 一日町を歩いて疲れ、居酒屋でビールを飲むのが“お決まりのパターン”なのだが、それがものすごく美味しそうに感じられる。
 ただこの本で訪ねた町々は東京の西側が多く、東側に住む人間としては、もうちょっとこちら側も歩いてよ、という気分であった。
 でもここのところ川本さんの本を読んできて、暖かくなったら、川本さんのような町歩きをしたいな、と思っている。気になる場所が数カ所あって、よく調べて町歩きをしようか、と考えている。今見ることが出来る風景から、気になる“ちょっと昔”を見てみたくなったのである。


1月9日 月曜日

 雨のち晴。

 山口瞳さんの『旦那の意見』を読み終える。

1月21日 土曜日

 晴れ。

 矢口進也さんの『漱石全集物語』を読み終える。

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 シャコバサボテンの花が咲き始めた。今回は剪定もうまくいったので、見栄えがいい。
 シンビジュームのつぼみも大きくふくらみはじめた。
 水仙が芽を出し始めている。
 梅の小さな蕾らしきものがいっぱい出来ているが、これ全部花が咲くのかな?とにかく梅は初めてなので、ちょっと見守っている。


1月25日 水曜日

 晴れ。

 F航空へチケットを買いに赤坂見附まで父と出掛ける。
 
 幸田文さんの『雀の手帖』を読み終える。
 今回も図書館で借りた本は期限内で読み切れそうもなさそうだ。


1月26日 木曜日

 晴れ。

 「死亡届・死亡診断書記載事項証明書」を発行してもらうために区役所へ行く。世の中にはいろいろな証明書があるものだ。


1月27日 金曜日

 晴れ。

 F大使館へ行く。「死に当てられる」に書いた通り、彼女の遺骨を生まれ故郷に帰すためだ。彼女は日本で死んで、荼毘に付せられたが、故国で死亡届なるものを提出していないため、彼女はまだ生きていることになっている。その手続きに行った。
 日本で死んで、火葬されたことの証明書を整え、父の友人と一緒に大使館で手続きをする。届出はすべて英語で書かなければならないため、父の友人にお願いしたのだ。
 2時間ほど待たされた。何でも提出した証明書の翻訳をするため時間がかかったらしい。後は届出が出たことの証明書が送られてきて、それと彼女の遺骨を持って帰れることになる。
 今回思い知ったのが、人ひとり生きているという事実とは別に、その人が生きているということを示した沢山の紙があるということだ。当然亡くなれば、その多くの紙に修正やその事実を記載しなければならない。現実と紙の中の生死がごっちゃまぜになってくる。下手をすれば紙の中だけで、人の生死が決定されてしまうのではないか、と思ってしまう。
 さすがにこの2週間動き回って疲れた。これで私のすべきことは一段落する。
 図書館で借りた本が2冊読み切れなかったので延長手続きをし、2冊は明日返却しに行こうと思う。帰りに実家に寄り、父から預かったお金の残りを返し行くつもりだ。


1月28日 土曜日

 晴れ。

 借りていた本のうち読み切れなかった本2冊を貸し出し延長をし、読んだ2冊を返却する。そして予約していた神吉拓郎さんの本を借りてくる。読み切れなかった本よりこちらが読みたいので、こちらから手にする。
 この時期一番居心地の良い部屋、仏間の障子を開け、暖かな光をいっぱいに浴びて借りてきた本を読み始める。
 万年筆のインクがなくなっていたので、補充し、溜まっていた新聞をスクラップブックに貼り付けたり、いつもしている日常の一部をしてみる。これで何となくこれでやっと元の生活に戻れそうな感じがする。

シンビジュームの花が咲いた。何年ぶりだろうか。やっと咲いてくれた、という感じだ。

1月29日 日曜日

 曇り。

 『神吉拓郎傑作選』の2「食と暮らし編」を読む。このシリーズ短篇集とエッセイの2巻に別れていて、神吉さんの本の本を読むのは初めてなので、まずはエッセイから読んでみた。


1月31日 火曜日

 晴れ。

d0331556_18592514.jpg 続いて『神吉拓郎傑作選』の1「珠玉の短編」を読む。

 とにかくこの1月は本が読めなかった。一度ペースが乱れると、なかなか次の本に手が付けにくくなり、スムースに本の中に入り込めない。こんな時この神吉拓郎さんのエッセイ、そしてこの短篇集は有難かった。
 とくにこの短篇集はそれぞれが適度に短く、読みやすい。それでいて数編はう~んとうならせるものもあって、本に夢中になれた。今回は単に短編を味わうことにした。


 「厭だなあ。抜け殻みたいになっちゃって。そんなにへとへとになるほど働いているのかなあ・・・・・」

 「別に働いたから疲れたわけじゃない。生きている疲れさ」
 半分は本音であった。

 「そうかもしれねえ・・・・・」
 主人は首を振って、同感といった顔をした。

 「・・・・・あたしも生きるのに手一杯だもんね」(鮨)



 こんな会話が出てくると、思わずページをめくる手が止まる。

by office_kmoto | 2017-01-31 19:02 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

更級 源蔵 著 『北海道・草原の歴史から』

 この本は沢木耕太郎さんのエッセイを読んで知った。ちょっと古い本だが、いくつか面白いことが書かれていた。
 この本のあとがきにこの本のコンセプトが書かれる。
 北海道の内陸が新しく開拓されて百年の歳月が流れ、開拓功労者はそれなりに名を残しているが、この厳しい自然環境で誰一人この地に一滴の汗も血も流すことなく、また中央に戻っていき、この地に骨を埋めていない。しかしその人たちだけがこの広い北の大地を開拓した功労者ではない。名もない多くの開拓者や開拓失敗者もいた。そうした人々であった父母の話を聞き、採話したのがこの本である。
 故郷を離れるのはやむを得ない事情、食うに困る理由から、この北海道という寒冷地に本州から家族でやってきた。あるいは逃亡の末ここに逃げてきた。そうしたさまざまな理由でこの地を開拓してきた先人たちの苦労を聞き、書き残している。人が寄りつかない過酷な自然の中で生活ぶりが語られる。この地だからこそ成立する話ばかりであった。


 要するに北海道の開拓地では昔の地主も小作も同じスタートラインにつき、力ある強いものが先になるという非情な世界であった。


 戦前までは北海道の各地に旅をすると、岩手屋とか加賀屋、越中屋、宮城屋、または陸奥館などと国の名のついた旅館が多かった。それも日本海岸には本州の日本海岸の国の名がついた宿が多く、太平洋岸には東北地方の太平洋岸の国の名が多かった。大体東北六県と北陸にかけての国名ばかりで、関東地方から西の国名のつく宿はほとんどなかった。雪の多い北国の人たちが率先してこの土地に乗り込んで、生活の根をおろしたからであるが、旅人たちもこの地方の人が多く、故郷の地名を見てなつかしくなり、国の言葉で国の話がしたくてつい草鞋を脱ぐといったもので、旅館の名が客を呼んでいたのである。しかし戦後はほとんど国の名のついた旅館が姿を消してしまった。もう出身地を恋しがる一世がほとんどこの土地の土になり、二世、三世にとっては父や母の故郷は異国のように遠い存在となり、この土地が地球の上で唯一の故郷になったからで、国の名はもう客を呼ぶ力がなくなり、また経営者もかわったからである。そうした本州と絶縁した北海道生まれの人間を、北海道では道産子というほろにがい言葉で呼んでいる。
 元来道産子というと古く南部から漁場の駄送用の消耗品として移入した南部馬が、漁場が終ると無人の島に不要品として捨てられて、雪の中の笹や海岸の昆布を食べながら冬の風雪に耐えて生き抜き、春になって自由に近親繁殖して次第に退化し野生化した道産馬のことをいった。それが次第に人間世界にまで拡大解釈して、荒い開拓地で生き残った開拓者の子孫にまで移行したのであった。それはどこか退化した道産馬と一脈通ずるからでもある。


 開拓地にとって邪魔物の立木は、冬の寒さから生命を護るものであることを、この人たちは知らなかったのであり、移民世話所は農業技術の指導だけをし、生活指導を忘れていたのである。


 そんなわけで北海道で原野というと、「人家のない広い平地」などという生やさしいものではなく、痩せて不毛で雪どけや雨水がすぐ沼になり、或いは薄い表土の下はすぐ砕けた骨のような火山灰の堆積している、日本農業の近寄れない広い平地と受けとっている。


 殖民地の中心に市街予定地が計画的につくられたところは、南何条西何丁目とか、東何条北何丁目というように碁盤割に区画しているのが特徴であり、その市街予定地からはずれたところが番外地である。


 北海道の奥地には、前歴の知れない人の話がよくあった。


 北海道というところは、逃亡者にとって最も選び易い道だったのだろう。


 淋しい原野の生活では、そういうどこの誰とも知れない人とも、気が合えば家族のような親しさで、身を寄せあって暮らしていたのであった。


 第二次世界大戦までは多かれ少なかれ北海道の奥地は、オトと呼ばれ、名前も前歴も定かでない浮浪者たちの吹き寄せられるところであった。それらの人々の気兼ねなく生きられる場があったからである。


 本州からいろんな人々がこの地にやってきたからこそ北海道の「言葉」に特徴が出て来る。同郷の人以外に話をする場合、標準語が使われるという。しかも感情を表した言葉でなく、単に目的を伝える手段として標準語が使われた。


 北海道にはまだ特別な方言が生れず、標準語に近い言葉で話しあっていたからである。よく言えば直訳的で実用的であるが、それだけに陰影が乏しく面白味のない欠点が指摘される。要するに教科書のように機械的で、生活の温かさがにじんでいないのである。


 なぜか?


 封建社会では意識的に他領の者と言葉をちがえ、お互いの内懐を覗かれない排他的な社会を構成していた。


 読んでいて、なるほど、と思った。過酷な自然の中で生きていかなければならないから、仲間とまとまってからだをすり寄せて生きてきた。だから同郷意識、家族意識がそこにはあるのだろう。良いとか悪いとかいう話でなく、そうしないと生きていけない過酷な自然環境だということだ。
 しかし彼らがそれぞれ開拓民として北海道で生活しているうちに、同じ故郷を持つ同士は会話が通ずても、他領の人々とは話が通じないことが出て来る。だから自然に共通語の必要が出てきて標準語がその役目を負い、必然的に標準語の持つ特性である“面白味の少ない”ことになってしまったという。


更級 源蔵 著 『北海道・草原の歴史から』 新潮社(1975/08発売)


by office_kmoto | 2017-01-29 06:13 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

死に当てられる

 駅のホームで父と待ち合わせた。私の方が早く着いてしまったので、たぶんこちらの階段から上ってくるだろうと思い、その階段を登りきったところで待っていると、父が一歩一歩階段を上がってくるのが見える。父は足元だけを見ているので、私の姿を見ていない。半分ほど上がりきったところで、歩みを止め、上を見上げる。私と目が合うと、照れ笑いか、目元が笑っていた。
 階段を昇ってくる父親を見ていると、歳をとったなあ、と思う。憔悴しているといっていいのかもしれない。仕方がない。二人目の妻を亡くしたばかりだから。私と父はその人の始末をしていた。
 私はこれまでここでこの人を「知人」として書いてきた。まさしく“知っている人”ということでそう言ってきた。そう書くしかなかった。自分と同じ歳の彼女を母親と呼ぶのも変だし、まして外国籍の女性なので、どう接していいのかわからなかった。しかし彼女は優しい人で控えめな人であることはわかっていたし、会えば話もした。
 その彼女が膵臓癌であることがわかり、がんセンターへ父と一緒に通院していた。私はこれまでがそうであったように、父とは「付かず離れず」の関係でいるつもりでいたが、今の父は私の母が亡くなった頃の父ではなかった。あの頃のように何でもテキパキとやっていた父ではなかった。明らかに困っていた。そんな姿を見てしまうと放っておくことが出来なくなってしまう。気がつけば父を助けていた。それは必然的に彼女を助けることになる。それはそれで一向に構わなかった。彼女は私たちに助けられていると感謝していたが、私は単に父が困っていたから助けただけであった。
 以来これまで以上に実家に行くし、築地のがんセンターにも何度も通った。彼女が10日に亡くなってからは、「後始末」に奔走することになった。
 彼女が亡くなってその遺骨の置き場所に困ることなった。彼女の遺骨を一族の墓に入れることは出来なかった。それに生前故国に帰りたがっていた。まだ元気なときに帰れば良かったのだが、彼女自身治療に専念したがっていたので、延び延びになっていた。やっと一度帰ろうと思ったときは、もう痛みがひどく、モルヒネでそれを誤魔化していた時期であった。それでも帰させてやりたいから、モルヒネの海外持ち出し許可を取ったり、飛行機のチケットを取ったり、あちこち出かけて行ったが、最終的には帰れなかった。
 だから遺骨は家族の元に返すのが一番いいだろうと、今度はその遺骨の持ち出しに東奔西走している。

 父は喪主の挨拶で「これからはみんなに迷惑を掛けないよう生きていきます」と言っていたが、そう言わせるのは、結局彼女との結婚生活がそうだったから、そのように言わせたように思えた。
 確かに父が歳をとって結婚したため、生活に必要な細々ことが手に負えなくなって、手助けをしたし、まして外国籍の女性との結婚のため、厄介事が多くあった。二人の間に女の子が生まれ、娘が成長するにあたり、父では時代の流れについて行けないところが出てくれば、相談されもした。
 そして彼女が病気になり、今日まで忙しく動かされれば、もう迷惑を掛けたくない、と思うのは、父の性格からして当然のように思えたが、何を今さらという気持でもあったあった。ただそれを聞いたとき、どこか寂しい気持ちがしたのも事実であった。
 彼女のことが一段落しても「付かず離れず」で父と接していくつもりだが、父親の性格を考えて、陰ながら支えていくしかない、と考えている。

 この2か月葬式が続いた。叔父が「こういうことは続くものだ」と言っていたのが、その通りになってしまった。二回の骨揚げを経験し、毎日「死」を記した書類を集め、書き込んでいるため、どこか「死」に当てられた感じがする。出掛けて家に帰ってくると、やたら眠くて仕方がない。家ではゴロゴロしている。
 今月は完全に自分のペースが壊れてしまっている。今月は諦めるしかない。彼女の「後始末」は明日で何とか目処が付きそうなので、来月から元の生活に戻りたい。


by office_kmoto | 2017-01-26 18:14 | 余滴 | Trackback | Comments(0)

1月20日 金曜日

 雨時々雪。

 今日は大寒。その通りかなり寒い一日だった。
 菓子折を買いに日本橋のデパートへ行く。地下鉄から降りて地上に出たとき、一瞬、どこへ出たのかわからなくなる。
 結婚する前妻とよく歩いた街とはまるっきり面影が変わってしまっている。左右を見わたし、高島屋が見えたので、それで自分の位置を確認した。
 地上出たところにうさぎやが見えたので、菓子折はどら焼きにすることにした。店の前に立つと、どら焼きが売り切れて、次の焼き上がりの時間がぶら下がっている。その時間までだとかなり間が空いてしまうので諦めようと思ったら、店員が店から出て来て、店を開ける。「買えますか?」と聞けば「大丈夫」と言うので、どら焼きが数多く入っているものを買う。ついでに我が家用に3つ購入。ここのどら焼きは好きなのだ。
 約束の時間までまだ時間があったので、雪がちらつく中、丸善に向かう。
 なんだかんだと言っても大きな書店はいいなあ、と思う。その点数の多さはやはり魅力的だ。知らない新刊が沢山並び、数点読みたいな、と思える本がそこにある。
 ここで本を買うと荷物になるし、本は増やしたくないし、ということで、読みたい本の書名、出版社など覚える。スマホで写真に撮ってしまえば簡単なのだが、下手に写真など撮ったら、「デジタル万引」に間違えられるから仕方がない。


 ここ2週間ほど、あちこちと振り回され、行ったり来たりして、忙しい日々を過ごすことになってしまった。お陰で自分の生活のペースは完全に崩れる。結構自分の生活のペースを頑なに守ってきたつもりなのだが、案外簡単に崩れるものだ。しかも一度崩れたペースはなかなか元には戻せない。いろいろなことを引きずってしまう。
 でもこうしてたくさんの本を見ていると、読まなければならない本がたくさんあり、うかうかしていられなくなる。
 生活を元に戻すのは大変なだが、好きな本を読みたいので、明日から少しずつ元に戻していきたい。

 日録は9日まではこれまでのペースで書いていた。その後のことを思い出し、書いてみたが、やめた。それで9日から20日以降に一気に飛ぶこととなる。その間本も読んでいないので、これで行くことにする。


by office_kmoto | 2017-01-21 06:55 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

相場 英雄 著 『共震』

d0331556_1641612.png 物語は東日本大震災から二年が経った4月に、宮城県東松島市の仮設住宅で、県庁の震災復興企画部の特命課長の早坂順也が毒殺された。
 大和新聞東北支局の遊軍記者宮沢賢一郎と警視庁のキャリア田名部昭治は、早坂が追っていた人物がいたことを突き止める。


 「海の近くにあった町や村の役場は、建物ごとやられたところが少なくありません」

 「住民票はもちろん、戸籍や住基データも根こそぎ流された自治体は大変な思いをして住民の情報を構築せざるを得ませんでした。だが、それを逆手に取った連中がいるというのです」

 「石巻の周辺は漁港や工業湾が大小含めてたくさんあります」

 「全壊した地域に全く無関係の人物が役所に出向いて避難所に入る。元々港湾関係の仕事に従事していた、そのときに被災したと偽って罹災証明をもらえば・・・・・」

 「その通りです。まったく世も末ですが、義捐金支給を悪用した詐欺行為があったとの証言はたしかにありました」

 「罹災証明をもらえば、一世帯当たり五〇万円でしたか?」

 「住居の半壊や全壊、それに家族に犠牲者が出たかどうかなどケースバイケースですが、百万円近い義捐金を受け取れる場合もありました」


 その避難所を舞台にした義捐金詐欺に俳優の三村尚樹が主催するNPO法人リブート・ハウスが手を染めていたことがわかってくる。リブート・ハウスはリーマン・ショック後世界的な不況下で起こった派遣切りにあった労働者を助けたり、東日本大震災では率先して被災者の雇用先の確保などで動いていた。しかし役所に住民のデータがないことをいいことにして、派遣切りにあった労働者を被災地に送り込んで、被災者と偽って義捐金を受け取らせ、その金を抜いていた。
 早坂はそれを突き止め、三村に事実を突きつけ殺されたのであった。

 この本は「みちのく麵食い記者」というシリーズの一巻なのだそうだ。ミステリーとしては面白いのだが、著者の震災への思い入れ、特に震災直後に被災地で見た光景をどうしても書きたいという気持が先に立ってしまい、平行して話が進む分、ミステリーの臨場感が薄れてしまっている。
 シリーズものとしては震災は避けて通れないものだろうが、だからといってこのやり方は失敗のような気がする。
 ところで、震災直後、宮沢のいる編集局のホワイトボードに東北各県の死者、行方不明者の数が記載されていた。そして実際宮沢が現地に行ってみて、


 東京で事務的にカウントしていた数字が、一瞬のうちに生身の人間の生き死にに直結する現実なのだと思い知らされる。無機質な数字の背後には、壮絶な事態に直面し、日常をあっという間に奪われた人たちがいる。


 と実感する。
 この本を読んでいて、もう震災の被災状況に辟易している自分があった。私は震災の直接の被害者ではない。帰宅困難者として震災を体験しただけだ。でもあの震災は自分の中で一生忘れられないこととして記憶の残っているし、忘れてはいけないとも思っている。だから、震災関係の本は読んできた方だと思う。でも数多く読んできた本はいつの間にかこのホワイトボードになってしまっていた。
 震災の状況を知りたいと思い読んできた本がいつの間にかその実体を無機質なものにしてしまったのではないか。そんなことを思い始めている。まずいな、とは思うが今のところどうしようもない。


相場 英雄 著 『共震』 小学館(2013/07発売)
by office_kmoto | 2017-01-09 16:42 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

沢木 耕太郎 著 『象が空を 1982~1992』

d0331556_1804118.jpg あるいは、私たちが日常的に行っている「ノンフィクションを書く」という行為も、本来は極めて古臭くフィクショナルなものとして印象されるストーリーを、いくつかの固有名詞、いくつかの数値で、危うくリアリティーを繋ぐ留めつつ述べていこうとする、虚実に上の綱渡りのような行為なのかもしれないという気がしてきた。(やがて終わる休暇の前に)


 と書いて先のノンフィクション集であったガルシア・マルケスの文章をあげる。像が空を飛んでいると言ったって誰も信じないが、「4,257頭の象が空を飛んでいる」と書かれていれば、「なに?」と立ち止まってしまう可能性がある。フィクションでも細かな数値を羅列すればノンフィクションにも見えてしまうところがあるということだ。
 そしてこのエッセイ集の題名も『像が空を』になっている。

 とにかくこのエッセイ集も雑文集なので、様々な文章がある。なのでここに書き出すのも脈絡なく書き出してみる。

 バスについて書いた文章は“なるほど、その通りだ”と思う。


 まず、バスに乗って無目的に街中をうろつきまわる。一日か二日そうしたあとで、今度は目的の場所を決めて乗ってみる。路線を間違えたら、最初に乗ったところまで引き返せばいいし、うっかり目的の場所を乗り過ごしても、そこで降りて反対側を走るバスに乗ればいいのだ。気を長く持てば、これほど快適な乗り物はない。街の風景と人の生活がじっくり眺められるのだから。(かげろうのような地図)


 こうして並べてみると、私はバスの中で老人ばかり眺めているらしい。バスが走り、バスが停まる。(振り向けば老人)


 私もよくバスを使うようになった。いやバスで目的地に行きたい方だ。バスから眺める外の風景が好きだ。これまで日中に都バスに乗ることもほとんどなかったから、都バスの利用者には確かに老人が多いことも知った。そして大きな病院前のバス停でぞろぞろ降りていく。

 沢木さんの著作で『一瞬の夏』というのがある。その主人公はその後どうしているかと訊ねられることが何度もあったという。「未だ成らざる書物」の中で、自分でも『一瞬の夏』の続編を要求している部分があるという。しかしその続編に着手しない、と書いている。納得出来る決着が自身についていないからだという。
 もしかしたら今日最終回を迎えた朝日新聞に掲載されている『春に散る』はその決着がついた作品ではないか、と何となく思った。作品はノンフィクションではなくフィクションであるが、主人公の年老いたボクサーの広岡仁はどこかで自分の人生にケリをつけると言っていたはずだ。


 人生における綻びが収拾のつかない段階に陥ったことを悟った時、無意識のうちに人生の敗者復活戦を夢見るようになる。(自己の再生という幻想)


 この文章がものすごくいい。思わず“うまいな”と思った。


 「三枚の写真」に次のような文章がある。


 私にとって、ことあるごとに読み返すことのできる本というのが多くあるわけではないが、ロバート・キャパの『ちょっとピンぼけ』はその数少ない例外的な一冊である。もしこれを少年時代に読んでいれば、あるいは報道写真家を志していたかもしれない。


 沢木さんがキャパの写真で「崩れ落ちる兵士」、「ノルマンディー上陸作戦」「ドイツの協力者」の三枚あげる。
 ここで沢木さんはキャパの写真も「いま」という時代を切り取り、永遠を望まないジャーナリストであったのではないか、と書く。


 だが、キャパの写真における意外な平明さは、単に技巧の有無によるものばかりではない。彼は本質的に写真家ではなくジャーナリストであったのだ。ジャーナリストとは、「いま」という時代に深く爪痕を残すため、永遠を望まない人種のことである。キャパもまた一分、一秒のスクープに身を削ったが、そこで撮られた写真は「いま」という時代にこそ大きな意味を持つのであり、「作品」となって後世にまで残ることを主たる目的とすべきでない、ということをよく理解していたにちがいないのだ。


 しかしキャパの写真は「作品」となってしまった。歴史の表現者となってしまった。



 「一点を求めるために」という山口瞳さんの評論が面白かった。私はまだ山口さんの紀行文は読んでいないので何とも言えないが、読むとき参考にしたい。


沢木 耕太郎 著 『象が空を 1982~1992』 文藝春秋(1993/10発売)
by office_kmoto | 2017-01-07 18:02 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

沢木 耕太郎 著 『路上の視野 - 1972~1982』

d0331556_14101260.jpg 長らく読まずに本棚に置いてあった本であった。正直なところ意を決して読んでみようと手にした。
 この本は沢木さんの仕事であるジャーナリズムとは何か。そこからノンフィクションとは何かを考え、そしてその取材の余話。さらに沢木さんが書いた書評に、日々の雑感などの組み合わせてある。
 まずはノンフィクションのあり方についての沢木さんの考えである。

 素材とテーマをジャーナリズムの要請に従って決定していく限りにおいては、問題は「取材」をいかにするかという技術に関わるものではない。技術は努力によって錬磨し身につけることが可能だ。しかし、ひとりの独立した書き手として、可能な限り外的な要因に左右されない立場を維持しようとするなら、彼は何を「取材」するかを自分自身で決定しなくてはならない。その時、最も大事なことは「取材」そのものではなく、「取材以前」ということになる。そして、この「取材以前」こそ、教えるに教えられず、学ぶに学べない部分なのだ。何を「取材」するか。それこそがある意味で彼の個性であり、存在そのものの表現でもあるからだ。(取材以前)


 ノンフィクションによる肖像とは、無数の点で背景を塗りつぶすことによってその姿を浮かびあがらせようする絵に、どこか似ているような気がする。塗りこめる点が多ければ多いほど姿態は鮮明になる。だが、そのような方法で果たして人物を捉え、その核心を射抜くことができるのか、という疑問は常に残る。なぜなら、その方法は、接線と覚しき直線のみで円を描こうという虚しい努力に似ているからだ。無限に円に近くなっていくようだが、ついに真の円になりえない。(略)
 もし円を描きたいのなら、「接線と覚しき直線」などを引く前に、円の中心を定めればいいという考えがあることを、私も知っている。それこそ、まさに核心を射抜くことではないか、と。しかし、いったい誰が円の中心を定められるというのであろう。自分とはまったく異なった人格である対象の人物の、これがあなたの核心であるはずだと断じる傲慢さは、少なくとも私には許されていないように思えてならない。
 それが許されるとすれば、「神」をおいて他にはいない。(肖像を刻む)


 ノンフィクション・ライターが作り上げるノンフィクションの一篇とは、子供がビーズ玉で首飾りのようなものだという気がする。テーブルの上に散らばっている数多くのビーズ玉。赤、青、緑、白、黄・・・・・・とさまざまな色をしたそのビーズ玉の中から、糸を通した針で気に入ったいくつかを掬い上げ、ひとつの首飾りを作っていく。ノンフィクション・ライターもそれと同じく、現実という大海にばらまかれているビーズ玉のような無数の事実の断片から、いくつかの断片を選んで掬っていく。それぞれのノンフィクション・ライターは、それぞれの経験から、さまざまな糸の通し方をする。だが、たとえどのような通し方をしたにしても、無数の中からいくつかを選ばねばならないという事態に変わりはない。そうである以上、彼がどのような色のビーズ玉を、どのような配列にするかで、その首飾りはまったく異なるものに仕上がることになる。ノンフィクション・ライターの個性によって内容が変化していく。そうであるなら、彼が描く一篇を、事実そのものが描かれたものだといいつづけることは不可能ということになる。ここにノンフィクションといえども、一種のフィクションにすぎない、という考え方の基盤がある。(事実という仮説)


 長々と引用した。これを読むとノンフィクションといえども、それを紡ぎ出したのはライターであり、数ある事実からより選び、ライターが必要と思った事実を、それこそビーズ玉に糸を通すように作り上げる。ライターはそのことで事実に、あるいは人物に最も迫ったものと確信して作り上げているのだろうけど、それはライター自身の個性から紡ぎ上げられたものだから、いくら数多くの事実を羅列しても、その個性から逃れることは出来ない。ライターがあってのノンフィクションだからである。だから沢木さんは「ノンフィクションといえども、一種のフィクションにすぎない」のではないか、というのだ。
 私は大学時代歴史をかじっていたことがある。根本的な問題として“歴史とは何か”というのが、たとえば概論の最初にくる。そして歴史家が書いた“歴史”はその歴史家その人の考え、個性から逃れられないし、歴史家が立っている時代の要請の影響を絶対に受けてしまうということである。ノンフィクションもこれと同じで、どうしてもライターの意識に間違いなく左右される。そういうことなのである。
 特に人物、あるいは人物に関わる事実に、間違いない記述、絶対はありえないことを沢木さんは言っている。そうだろうな、と思う。
 だったらノンフィクションはどうあるべきかなのか。それこそ多くのシーンを積み上げ、それに出来るだけ近いアプローチをするしかない。それぞれのシーンを丁寧に描く。そのことで読者に信じてもらうのだ。


 ガルシア・マルケスに≪たとえば、象が空を飛んでいるといっても、ひとは信じてくれないだろう。しかし四二五七頭の象が空を飛んでいるいえば、信じてもらえるかもしれない≫という言葉があるが、まさにその細部の力を逆手にとる荒わざをやってのけたのだ。(再び、ニュージャーナリズムについて)


 ところで、ルポライターが書いたルポ、ジャーナリストが書いた記事は時が経てばどうしても古びる。沢木さんがデビューの頃はニュージャーナリズムなんて言われていたけれど、今ではニュージャーナリズムということも言われないし、言葉自体風化しているのと同じだ。それは仕方がない。沢木さんはそのことをジャーナリストと芸術家の違いとして次のように言っている。これは瞠目すべき意見である。


 だが、古びること、しかも急速に古びることは、ジャーナリストにとって決して恥ずべきことではない。むしろ、その中にこそジャーナリストの栄光があるといってもよい。なぜなら、ジャーナリストに矜恃に似た断念があるとすれば、それは「いま」に深い傷痕を残すために永遠を目ざさない、という点にあるからだ。「芸術」家には、永遠を獲得するために、まずそこから古びてしまう俗なる部分をそぎおとしたい、という衝動がどこかに潜んでいる。
 ジャーナリストによる肖像は、ほとんどが、一本の接線にしかならず、作品として自立することもない。その無数の集積は必ず時代の接線になりうるのだ、ということをどこかでジャーナリストは信じている。(肖像を刻む)


 沢木さんの書評は細かい。考察が深い。だから難しく、よくわからないことが多かった。けれど私がこれまで読んできて、忘れていた本のことなど書かれていたりすると(これが結構あった)、そんな時は、“そうそう、そうだった”と思い出話をするかのような懐かしさがあった。
 考えて見ると私が高校時代から、本を読むことを覚え、現在までどれだけの数の本を読んできたのかわからないが、忘れてしまっていることの方が圧倒的に多いんだな、と思った。確かに読んだという記憶はあるのだが、内容は、たとえば沢木さんの書評に触発されて思い出すしかないように、記憶の奥の奥にしまい込まれて、ほとんどが風化している。
 沢木さんの日々の雑感で気になる文章を書き出す。


 私にとって東京の元旦とは、空が青く澄み、大気が冷たく乾き、明るく、しかし弱い陽射しの中で、道には人影もない、という条件がすべて満たされた一日としてある。(冷たく、明るい元旦)


 これよくわかるなあ。故郷に帰る場所を持たない東京人にとって正月は正にこれだ。


 私には、日記の持続と深く関わっているのは「執する心」とでもいうべきものの存在ではないか、と思われる。日記の書き手を持続させているのは、何物かへの執着である。逆にいえば、執する心がある限り、日記もまた持続するのだということになる。(日記による銃後)


 昔日記を書いていたことがある。今もこうしてブログでつまらぬことを書いているが、昔のような深い心情みたいなものは書かない。書きたくないというのが本音だ。けれどこうしてつまらぬことでも書き綴っているのは、私の中にどこか“執する心”があるから書き綴ることが出来ているのかもしれない。
 最も面白かったのは名刺の話だ。
 沢木さんがルポライターとしてルポを初めて書くときに、自分の身分を立場を示すために名刺を作るとき、知り合ったイラストレーターの黒田征太郎さんに名刺を作ってもらったときの話である。


 「どんな名刺が好きですか」

 「何を書き入れますか」

 「あなたは何をしようとしているんです」

 これからぼくはルポルタージュを書こうとしている。そのために名刺が必要なのだ。とすれば、ぼくの名刺にはルポライターとでも書き込むべきなのだろうか。だが、ぼくはルポライターとして一枚の原稿だって書いていないのだ。ルポライターとは書けないし・・・・・。ぼくがそう呟くと、K氏は少し強い調子でいった。
 「いや、そうじゃない。名刺にルポライターと書けば、あなたはもうルポライターなんですよ。イラストレーターと書けばイラストレーターだ。誰だってどんな者にもなれるんです。だが、そのあとのことはわからない」
 誰だって何者にでもなれる、というK氏の言葉は新鮮だった。そうだ、誰でも、どんな者にもなれる。ルポライターだの、カメラマンだの、デザイナーだのいっても、名刺の横にそう刷り込めば誰にだってなれるほどのものなのだ。問題は、恐らくそのあとなのだ。なったあとで、なりつづけるという点にこそ困難はあるにちがいないのだ・・・・・。(ささやかな発端)


 いわゆる「肩書き」の話である。なるほど、と思った。ふと自分が持って来た名刺のことを書きたくなった。
 私が初めて自分の名刺を持ったのは、書店時代、アルバイトから社員になってからで、その時の肩書きが「雑誌担当」だった。名刺を持つことなど考えたこともなかったので、自分の名刺が出来上がった時はうれしくてあっちこっちに配っていた。確かに名刺に職種や肩書きが書かれれば、それになった気分になる。
 以来肩書きは、「書籍仕入担当」、「副店長」、「店長」と偉そうな肩書きを背負ってきた。一時は自分の役職がここまで上がって来たという喜びに浸っていた。それなりに上昇志向は持っていた。「店長」という肩書きを書いた名刺を渡せば相手の対応も違う。確かに私はなったのであるが、なり続けることは出来なかった。その肩書きに見合う自分であるかどうか疑問に思うようになっていったのである。
 当たり前のことをやって来ただけだし、しなければならなかったことをしてきたまでのことで、それ以上のことは何もしていない。それにたかだか中小企業が経営する小さな書店である。偉そうな肩書きが鬱陶しくなっていく。そんなものはどうでもいいという気分であった。
 現場で最後に付いた名刺の肩書きが「店長代理」であった。「店長」から「店長代理」と言ってみれば降格みたいだけど、実はそうではない。会社で一番大きな店の店長をやれと会社から言われていたのを断って、同僚にやってもらい、自分は「店長代理」におさまった。本当はそれさえも嫌だった。ただ店としての体面もあるので「店長代理」と付けた名刺を持たされた。
 私が驕っていたのかもしれない。けれど私如きを店長にするしかないほど、会社が行き詰まり、人材不足だったことだけは、間違いなかった。それがわかってしまった。
 現場を離れたときにまた名刺が変わり、肩書きが必要となった。経営者は「本部部長」にしろと言ったが、私は聞かず、肩書きなしの名刺で最後まで通した。そんな偉そうな人間になりたいとは思わなかった。
 私は現場から上がってきた。売ってなんぼのものという現場にいただけに、いくらそれが仕事とはいえ、自分が売上にいっさい関与しない仕事に就いているのだという事実は、そんな偉そうな肩書きを名乗れるわけがないと思わせた。ただの穀潰しだと思っていた。だから何もなりたくなかった。そんな仕事に肩書きなどいらない、と思い続けていた。
 私は名刺に不信感を持つようになってからは、必要最低限しか人に名刺を渡さなくなる。それでも仕事を辞めるとき、取引相手、あるいはどこかでもらった名刺はかなりの枚数になっていた。名刺は交換するものである。だから私の名刺もそれだけ配ったことになる。それを思ったとき、空恐ろしい感じになったものだ。

 名刺でもうひとつ思い出したことがある。私の名刺は片面だけであった。裏面は何もない。昔は支店名やその住所などが刷ってあったが、あることから止めた。
 本屋時代、日販の強羅にあった保養所で研修会があって、それに参加させられたことがあった。その時嫌々参加したので、ノートを忘れた。メモを書くものがない。その時一緒に来てくれた日販の担当者が名刺の裏に書き込むといいと言ってくれた。
 担当者は名刺の裏側は白紙がいい。何かを書き込むことができる。あるいは名刺を交換したとき、その日時、経緯など書き込めるから、とも言い、なるほどと思って以来私の名刺は同僚のとは違い、役職もなければ、裏面も何もない名刺とした。
 名刺の裏面にたとえば自分の会社の支店名や、自分の資格や他の役職など書いてあるのが多いが、何かそれって、無理して“盛っている”感じが否めない。
 自分の顔写真を載せてあるのもあるが、それを見ると、その“グイグイ感”にイラだってしまう。

 今は昔の名刺一枚も持っていない。幾枚か残っていた自分の名刺も交換した名刺と一緒にシュレッダーにかけてしまった。

 つまらぬ話になってしまった。私が名刺を持っていた期間はおよそ30年ぐらいだったろう。つまり私のこれまでの人生で半分近くは自分の名刺が私を表すものであったということだ。しかしもう名刺を持たない生活が3年経っている。もちろんこれからも持つ予定はない。


沢木 耕太郎 著 『路上の視野 - 1972~1982』 文藝春秋(1982/06発売)
by office_kmoto | 2017-01-04 14:23 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

1月1日 日曜日

 晴れ。

 天気もよく、風もほとんどないし、穏やかなお正月。

 あけましておめでとうございます。

 ここのところ天気がよいと、仏間の障子を開けて、外の日差しの入る窓際で本を読む。ただ暮れの大掃除で汚れた手で目を触ってしまったのだろうか。右眼が充血して目やにがやたら出る。かゆみもあるし、少しかすむ。
 やれやれ、年末年始で眼医者もやっていないし、まいった。幸い今日は昨日に比べ楽にはなっているが、あまり眼を酷使しないように、本を読むのもほどほどにする。

 昔の仲の良かった同僚からも年賀状が届く。勤めていた会社は名前だけ残っているけれど、実体はまるっきり変わってしまっているので、そんな昔の同僚達から届く年賀状はうれしいものだ。
 税理士のMさんからも新年の挨拶のメールをもらう。Mさんも今は東京を離れ、宇都宮に住まいを移し、仕事をされているという。東京にもほとんど行かず、仕事も以前と比べ減らして、のんびりと活動されているという。何だかそれがうれしかった。

 今年も本を読んで暮らすことは間違いないのだけれど、じっくりと本を味わいたいな、と思っている。だからいい本に出会えればうれしいな、とも思う。
by office_kmoto | 2017-01-01 17:57 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

言葉拾い、残夢整理、あれこれ


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