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川本 三郎 著 『いまも、君を想う』

d0331556_06040579.jpg この本は平成20年に57歳で亡くなった川本さんの奥さんの追悼記だ。
 夫婦二人の生活が苦しいときもあったけれど、思い返してみれば楽しかったことが多く書かれている。そしてその分失ったものが大きかったことを身に沁みて感じられることが、切々と書かれる。


 葬儀無用論があるのは知っている。しかし人間の暮らしには、日常生活とは別の時間が流れる「儀式」が必要だと思う。
 葬儀はその儀式のなかでもっとも厳粛なもので、ひとは儀式のなかに身をおくことで死者を想い、そしていずれは自分にも必ずやってくる死について考えることが出来る。日常生活と、死という非日常を儀式によってきちんと分ける。「形式ばる」と言うが、死という圧倒的な不条理を前に「形式」は必要だと思う。悲しみという生まの感情を形式によって一度冷却する。



 昔母の三回忌の法要を行ったとき、住職が言った言葉を思い出す、法要とは死者のためにあるのではなく、今生きている者のためにある、と言った。今生きているものが普段忙しい生活の中で、この時ばかりは死者のことを想える一時を持つ重要性は、その人が大切な人だっただけに、大切な時間なのだと思う。
 基本的に私は自分の葬式など必要ないと思っている。けれどその人を想っている人がいるなら話は別かもしれない。確かに葬儀は日常と非日常を分けるための、儀式であり、そのことによって、人は区切りを付けられる。形式を馬鹿にするもんじゃないのかもしれない。連綿と続いてきたものは、必要だったから続いてきたのだ。


 吉田秋生という漫画家が描いた「海街diary 1 蝉時雨のやむ頃 」という作品があるそうだ。その登場人物の中の長女が、「死んでゆく人と向き合うのはとてもエネルギーがいること」と言うらしい。
 この「死んでゆく人と向き合うのはとてもエネルギーがいること」という言葉がこの本を読んでいるとひしひしと感じられる。先にこの本を単に追悼記と言ってしまったけれど、著者はこの本を書くにあたりものすごいエネルギーを使ったのだろう。その消耗したエネルギー分、その人は著者にとってかけがえのない人だったことを証明する。


 ひとはふつう、いろいろなことをやり残したまま逝ってしまう。身辺整理をしたうえで逝ける人はごく少数だろう。仕事にせよ、家のなかのことにせよ、しかけたままで終わってゆく。


 出来れば自分の身辺整理はやり残しておきたくはない、とは思っている。そのことはいつも頭の中にある。


川本 三郎 著 『いまも、君を想う』 新潮社(2010/05発売)


by office_kmoto | 2017-04-28 06:05 | 本を思う | Comments(0)

川本 三郎 著 『きのふの東京、けふの東京』

d0331556_05370246.jpg こういう東京散策本は楽しい。町の歴史とか生い立ちとなど、その町を、駅を知っているだけに興味が湧く。また忘れていたことなど書かれると、「そうだった!」と思い出したりする。それも懐かしく、楽しい。興味のあったものを単に書き出してみる。


 有楽町には、あまり知られていないが、実は奇跡のような事実がある。
 有楽町駅の駅舎である。手直しはされているものの基本は明治四十三年(一九一〇)に開設された時のまま。



 確かに有楽町の駅は古めかしい。駅を出ても、うす暗く、その先が華やかだけに余計にこの間が古めかしい。


 小岩は江戸時代から昭和のはじめまで和傘づくりで知られたという。


 小岩は地元であるが、そこが和傘の産地だったとは知らなかった。


 JR総武線の新小岩駅は、隣の小岩駅が明治三十二年(一八九九)開設なのに昭和三年(一九二八)と新しい。貨物線の駅が併設されている。貨物輸送の拠点駅。


 新小岩の歴史は「新小岩」というくらいだから小岩よりは新しいんだろうな、ということくらい思っていたがそれがいつ出来た駅なのか、今回初めて知った。


 このあたりはまだ昭和五十年代までは金魚の養殖地として知られた。川に挟まれ池が多かったためだろう。最近は数が激減したが、一之江駅から西に十分ほど歩いたところに佐々木養魚場という江戸時代からの店が健在。ただ金魚は茨城県の常総市で育てているという。


 確かに子供の頃はこの辺りは養殖池が多くあった。今はほとんど埋め立てられてしまって、養殖池はわずかしかない。かつて養殖池がたくさんあったから(今も多少ある)まさか金魚を茨城県から持って来ているとは知らなかった。


 日記『断腸亭日乗』を読むと永井荷風は昭和十一年(一九三六)四月十六日にこのあたりを歩き妙見島を眺めている。


 そう言えば先に読んだ川本さんの本には、『墨東綺談』の挿絵を描いた木村荘八も私の地元に来ていたと書かれていた。


 上野駅は、いまでは新幹線が東京駅に通じたために、その雰囲気が薄くなったが、基本的に終着駅である。


 そして上野駅で特筆すべきは、現在のキオスク、つまり鉄道弘済会の売店。昭和七年(一九三二)に、現在の駅舎が出来た時に営業を開始している。鉄道員は事故が多い。事故で負傷した人や亡くなった人の家族を助けるために売店の売り上げを資金にしようと設立された。


 なるほどキオスクはそういう経緯で設立されたんだ。


 総武本線の錦糸町の開設は明治二十七年(一八九四)。当初は「本所」の名だった。総武本線の前身である私鉄の総武鉄道は、まず佐倉-市川、および市川-本所が開通。次いで十年後の明治三十七年には、本所から両国橋(現在の両国)まで延長され、東京と千葉が鉄道で結ばれていった。


 盛り場としてにぎやかになるのは、阪急・東宝グループの総帥、昭和の大事業家、小林一三が、昭和十二年に錦糸町に江東楽天地を作ってからだろう。車両工場の跡地に、江東劇場が開設されたのを皮切りに娯楽街が作られた。
 よく知られているように、小林一三は、昭和のはじめ、日比谷に東京宝塚劇場をはじえ日比谷映画劇場、日本劇場(これは既存のものを買収)など作り、日比谷界隈を「アミューズメント・センター」と名付け、娯楽街として開発していったが(これによって、それまでの盛り場だった浅草が地盤沈下してゆく)、その「アミューズメント・センター」の下町版として、江東楽天地が作られた。


 神田日活館は、ビヤ・レストラン、ランチョンの並び、靖国通りから少し奥まったところにあった。現在タキイ・ビルが建つ。ちょうど日本文芸社の前。


 これは昔取引先の問屋にいたOさんから聞いたことがあった。


 この(両国)駅は現在では総武線のひとつとしてしか意識されていないが、もともと房総半島へ向かう総武線のターミナル駅だった。



 子供の頃夏休み千葉の海へ行った時はここから出発した。今も総武線からホームが見える。あの夏の頃の華やかさは今はない。


 新橋駅のにぎわいと共にやがて駅周辺に花柳界が作られてゆく。江戸の随一の花柳界は荷風が敬愛した成島柳北が『柳橋新誌』で描いた、両国橋の袂の柳橋だった。明治維新のあと、旧幕びいきの柳橋は新しい権力者となった薩長を「田舎侍」と嫌った。
 その結果、薩長は新しい遊び場所を必要とした。そこで生まれたのが新橋の花柳界。現在の銀座八丁目あたりに数多く芸者置屋が作られていった。


 旧幕びいきの柳橋は江戸時代以来の商家の旦那を客とする。対して新橋は新政府の権力者客とする。そのため「御前の新橋、旦那の柳橋」といわれ、明治が深まるにつれ、柳橋がすたれ、新橋が栄えてゆく。


 最初の新橋駅は前述のように現在の駅より東にあった。明治四十二年(一九〇九)に山手線の開通と共に現在の場所に駅が出来た。当時の駅名は烏森。


 これは知っていた。


川本 三郎 著 『きのふの東京、けふの東京』平凡社(2009/11発売)


by office_kmoto | 2017-04-25 05:41 | 本を思う | Comments(0)

佐伯 一麦 著 『蜘蛛の巣アンテナ』

d0331556_05473218.jpg 「屋根の上の蜘蛛の巣みたいなゴチャゴチャを見ると、こっぱ恥かしくて頭がガンガンしてくる」とおふくろがよくこぼしたものだった。
 それでも私は、そんな嘲笑の視線や溜め息にもめげず、雨が降ろうと雪が降ろうと、毎日のように屋根にのぼり続けた。


 おふくろが「屋根の上の蜘蛛の巣みたいなゴチャゴチャ」と呼ぶそれは、銅線やら竹竿やらを使って、無線少年だった私が試作、れっきとしたアンテナの数々だった。新聞配達をしていた私は、その給料のほとんどをアンテナ製作、改良のためつぎ込んだ。


 たぶんハム無線だろうか。微弱な信号をこのアンテナで捕らえていたんだろう。そのアンテナ群をにたとえて“蜘蛛の巣アンテナ”と読んでいた。しかしその“蜘蛛の巣アンテナ”のように風のそよぎ揺れる樹木、川の流れ、心の震えをキャッチしてさぐる。

 この本は佐伯さんの初めてのエッセイだそうだ。三部構成になっており、“蜘蛛の巣アンテナ”の前後は手紙の私信の形をとってつづっている。最初の「書簡集」は作家論や作品論となっている。ちょっと読みづらく、堅苦しい。いかにも初めてのエッセイ集だから気取った感じしないでもない。
 「蜘蛛の巣アンテナ」とやはり手紙の形をとって日常の報告をしている「山麓より」の方が読みやすい。


 それに、雨に日は、万年筆で原稿用紙に文字を書くのがしっくりとくる。晴れの日よりもインクの色がいくらか薄めで、文字も柔らかに書ける気がする。インクの乾きは遅いのも、連想を行きつ戻りつさせながら、じっくりと思いを籠めた小文を綴るのにちょうどいい。(梅雨の愉しみ)


 どうしても万年筆について書かれた文章に反応してしてしまう。


 その印象的な空の色を見たのは、午後九時過ぎ、まだほの明るい空の下で散策を愉しんでいるアベックたちに混じって埠頭を歩いていたときだった。群青色をしたオスロフィヨルドの上の空が突然赤く燃え立った。
 それは、まさに、血か内臓のような朱の色が激しくうねる空の下、フィヨルドに張りだしたかに見える手摺のある道を背景に、頭髪がない一人の人物が左右の手で頭の両脇をしっかり押さえ、目も口もいっぱい開いているムンクの代表的な絵『叫び』に描かれた、ノルウェーの自然の空の色であった。(北欧紀行3「ムンクの赤」)



 あの絵の背景の赤は実際見ることができる赤だったんだ。
 「書簡集」は「東京にいるK君」という呼びかけから始まる。その中で佐伯さんがよく蛇を見かける話が書かれる。その日は道端で見かけた。


 帰ってから妻に言うと、見に行きたい、という。たしかに蛇ってやつは、恐しもの見たさの気持ちを誘うところがあるようだ。


 我が家の庭にも年に1回ほど蛇を見かける。隣が寺の雑木林みたいに鬱蒼と木が茂っているので、蛇がいてもおかしくない。その蛇が庭に遠征にくるのだろう。それをたとえば家のフェンスに絡みついているのを見ると、やだなあ、と思いつつも気になるものである。ついついちょっかいを出したくなる。竹箒を反対にもって、蛇を突っついたり、絡ませて、隣へどいていただく。

 この本でもそうだったけれど、こうした作家の書いたエッセイには著者が読んだ本の一こまを使って風景や人物などを形容する。それがなんとなくわかるようなわからないようなとき、その作品を読んでみたくなる。それはその作品のワンフレーズなのだろうけど、わざわざここで引っ張り出してくるのだから、何かあるような気がするのだ。そしてこうした思いをしたとき、紹介された作家の作品を手にする。こうして自分の読書の範囲が広くなってきた。逆を言えばまとまりがなくなった。
 今回もこのエッセイ集にあったまだ読んだことのない作家さんの作品を読んでみたくなった。


佐伯 一麦 著 『蜘蛛の巣アンテナ』 講談社(1998/03発売)

by office_kmoto | 2017-04-21 05:49 | 本を思う | Comments(0)

川本 三郎 著 『東京暮らし』

d0331556_05524950.jpg 著者の名前はたびたび見かけたことがあったが、本は初めて読む。どんなことを書いているのか興味津々で読んでみたが、味わいのある文章を書かれる。同感出来ることが多く書かれている。これは好きになりそうな予感がする。


 読書ノートを作っている。もう三十年以上になるから二十冊近くなる。といっても読んだ本の内容を詳細に書き込んだものではない。印象に残った文章をいくつか書き溜めているだけ。一種の引用である。(引用の楽しさ)

 引用する文章を自分の手で原稿用紙に書き移してゆく。確かに煩雑かもしれないが、ある瞬間、その作家や評論家の言霊のようなものが書き写すことによって、こちらに感じられる時がある。引用してもっとも楽しい瞬間である。(引用の楽しさ)


 自分も引用をよくする。よくするというより引用が主の文章である。これは著者と同じで読んで印象に残った文章を書きとめる一環なのである。だからそうなる。いわば読書ノートなのである。そこに思ったことを書き加える。なぜその文章が気になったのかを書く。それが楽しい。


 花に目がゆくようになったのは五十歳の頃からだろうか。若いうちは自分のことにかまけていて花を楽しむ余裕はなかった。六十歳を過ぎてからはいよいよ花が好きになる。
 花が気になりだすとその名前が知りたくなる。(亡き人への祈りをこめて)



 和田町(南房総市)の花作りが軌道にのったひとつのきっかけは大正十二年(一九二三)の関東大震災だったという。震災で亡くなった人の慰霊のために美しい花が求められた。
 花は祈りのあらわれである。(亡き人への祈りをこめて)



 花はせわしい時には目に留めることが少ないような気がする。心に、あるいは時間に余裕があるとき、またはこのように祈りに求められる。


 しかし、新刊ばかり読むと次第に疲れてしまう。とくに六十歳を過ぎると十代や二十代の人が書いた小説を読むのはつらくなる。(小さな古書店)


 これも同じで、この歳になると若い世代の文章は取っつきにくい。どこかこの世代の気持ちをわかろうとする無理が自分の中に生じてしまう。ストレートに感情移入ができないのだ。これは仕方がない。
 著者は評論などもやっているから、毎日新刊に目を通さなければならないから、確かにきついだろうなと思う。

 どうやら著者の書く文章は世代的に同感出来るところがあるようで、これはまた読みたい作家が増えた。楽しみである。
 最後に読んでいて急に思い出し、驚いたことを書く。


 ビール一本でいい気分になる。さっきからおじさんが携帯電話をしている。さかんに「自分は」「自分は」といっている。しかし、どうも使い方に違和感がある。あとで大阪の友人に聞いたら、大阪では「自分」は「あなた」のことだった。(大阪の商店街で)


 この文章を読んだとき、「あっ」と思った。母がそうであった。私に話しかけるとき、「自分は(どうなの)?」と言っていた。「あなたはどう思うか?」ということだった。母は大阪生まれであった。ものすごく懐かしい言葉の響きである。


川本 三郎 著 『東京暮らし』 潮出版社(2008/02発売)


by office_kmoto | 2017-04-19 05:55 | 本を思う | Comments(0)

稲垣 えみ子 著 『魂の退社―会社を辞めるということ。』

d0331556_08022359.jpg この本を読んでみると、会社と個人の関係を考えてしまう。その上で我が身に降りかかったことをあらためて思い出したりした。
 著者は朝日新聞の記者であった。稼いだ金でバンバン服を買って、それこそ着ない服だらけになっても買い続けていた。読んでいるとそれは仕事のストレス解消みたいなところがありそうだが、とにかく稼いだお金で欲しいものを買い続ける生活をしていた。


 この時追い求めていた「ハッピー」は全部、お金があるからできることばかり。で、もっとお金あれば、さらにもっとハッピーになれることばかりです。だからどれだけお金があっても結局は満たされない。まだ足りない、もっと欲しいという悪循環。


 しかし人生の転換期を間近に控えて不安になる。


 欲望は努力のモチベーションであり、その結果得たものは享受して当たり前であり、さらにどれだけ享受しても上には上があり、もっともっと上を目指したい、目指さなければいけないと思っていたのです。
 会社においても、暮らしにおいても。
 今にして思えば、それは降りようにも降りられない列車でした。というか、降りようなんて考えたこともなかったのです。なんで降りなきゃいけないのか。こんなにキラキラした生活をしているのに。しかも何とかなっているのに。しかしよくよく思い返してみれば、その列車に乗り続けている自分に、そこはかとない不安のようなものを感じていた。



 なぜなら、大きい幸せは小さな幸せを見えなくするからだ。知らず知らずのうちに、大きい幸せじゃなければ幸せを感じられない身体になってしまう。
 仕事も同じである。高い給料、恵まれた立場に慣れきってしまうと、そこから離れることがどんどん難しくなる。そればかりか「もっともっと」と要求し、さらに恐ろしいのは、その境遇が少しでも損なわれることに恐怖と不安に人生を支配されかねない。



 毎月給料が振り込まれることに慣れてしまうと、知らず知らずのうちに、まずお金を稼がなければ何も始められないかのように思い込み始める。そして、高給をもらっている人間がエラいかのようにも思い始める。
 だから会社で働いていると、どうしても「もっと給料をよこせ」という感覚になる。

 

 著者が人生の折り返し地点を前にして、このままではいけない。何とかしないといけない、と思い始めるが、日々の忙しさもあって、そうそう自分を変える、「自己改造計画」など出来ないでいた。
 そんな時大阪版デスクから、香川県の高松総局デスクに異動を命じられる。
 高松の総局デスクは一人しかいないので、朝から晩まで会社に拘束された。遊ぶ時間も外食する時間もなかった。だからお金を使う機会がなかった。


 要するにですね、私はまず物理的に、そして非情にネガティブな理由で、それまでの「金満生活による幸福の追求」を諦めざるをえなかったのであった。
 これは・・・・・いや、確かに「お金を使わないライフスタイル」ではある。
 しかしハッピーかと言われると、とてもそうとは言えない。ただ地味で、パッとしない田舎暮らしだ。
 これじゃあいかん!



 ただ農産物の直売所には通い詰めた。そして農産物直売所に通ううちにそこで楽しみを覚えた。直売所で両手いっぱい買っても1000円に満たないのだ。その安さ、洋服を買うの劣らぬ楽しさをそこで味わえるのであった。
 そうこうしているうちにモノやお金に対する考え方が変わっていく。そして、あることに気がつく。


 だが直売所の魅力は「安い」ことだけではなかったのである。
 私が魅せられたのは、直売所には「ないもの」がたくさんあることだった。スーパーでは、どんな季節でも一通りの野菜はいつだって揃っている。だが直売所で野菜を買うようになると、野菜というのはある季節にならないとまったく収穫できないのだということが否が応でもわかるようになる。



 いつでも満たされていることは、モノのない時代にはすごく贅沢なことだったのだと思う。しかし、いつでも何でもある現代において、もう「ある」ことを贅沢だと思う人はほとんどいないんじゃないか。
 むしろ「ない」ことの方がずっと贅沢だったのだ。
 つまり直売所は私にとって、お金がなくても楽しめる場所であったばかりか、「ない」ことの方が「ある」ことよりむしろ豊かなんじゃないかという、それまでまったく考えたこともない発想の転換を迫る場所となったのだ。



 こうして香川県で暮らして行くうちに、お金を使わなくてもハッピーなライフスタイルが確立出来るのではないかと考え始めるし、実際期せずして実践していた。


 ただお金があればハッピーでリッチ、なければ不安で不幸。それまでずっとそんなふうにしか考えていなかったのだが、どうも、お金ってそんな単純なもんじゃない。
 自分だけがお金を溜め込んでわがまま放題に使うことがハッピーなんだろうか。いやきっとそうじゃない。お金は、欲を出さなければ自然に自分のところに集まってくるのだ。で、問題はそれをどう使うのか。その使い方によって、ただ「好きなものを買う」というレベル以上の、もっと面白いこと、もっとすごいことが手に入るんじゃないのか。



 しかし私は高松において「もらう分だけ使う」生活から徐々に離れていった。それは決して将来のために我慢をしたわけじゃなくて、それで十分に楽しかったから、いやむしろその方が楽しいんじゃないかと思い始めてから。その結果、期せずして「もらうお金」と「使うお金」が切り離された。そうなると、何より気楽な独身だし、やりようによっては、いつか会社を辞めるということも選択肢としてありうるのではないかと考えたのだと思うのである。


 これまで自分の欲望を満たすためにお金が必要で、そのお金を稼ぐ場所として会社があった。そして厄介なことにその欲望には切りがないところがあって、そのため会社と縁が切れない。なぜならその欲望を満たすためにはどんどんお金を稼がなければならないからだ。それが降りられない列車に乗っているのと同じということなのである。
 そして得てきた高額な給料が会社における自分の地位や立場を象徴することも意味しているように勘違いする。もちろん仕事の質や責任に応じて支払われているのだろうが、ときに高い給料をもらっていることが傲慢なプライドを身にまとうことにもなっていく。
 ところが著者は高松でお金を使わない生活、直売所で「ない」ものがあることを知った時、お金に縛られない生活もあるのではないか、と思い始める。お金に縛られないということは、無理に会社にいる必要もないことになる。
 新聞社というところは頻繁に転勤がつきものらしく、たまたま転勤が話題になる。そんな話をしているうちに、仲間からそれは寂しい。だったら会社を辞めて高松に住んでは」と言われる。しかしふとそれもアリかもと思えるようになってきた。

 ところで会社というところはいつまでも気持ちよく働いて、高額な給料を得られることが続くわけではない。「評価」がつきまとう。著者は会社は自分をどう評価しているか、いつも気になった。だから会社は自分にとって「怖い存在」だった。


 修業時代を経て中年期にさしかかった社員は、会社による「選別」の対象になってきます。昨日までの仲間が、あるいは後輩が、今日から上司になることも当たり前に起こってくる。かつて部下として教えたり叱責したりした相手が、今度は自分の原稿を直したり企画にダメ出しをしたりするわけです。そのことに心の底から平然と耐えていくことができなければ日々の仕事が成り立たない。せっかく手に入れた記者としての自立も絵に描いた餅になってしまいます。
 そして私には、それに平然と耐えられる自信がありませんでした。
 結果、かつては私を辛抱強く守り育ててくれた「会社」というものが、歳を重ねるにつれ、いつ自分を傷つけるかもわからない恐ろしい存在に思えてきたのです。そしてその「心の戦い」はこの先10年以上、ますます苛烈さを増しながら続くに違いない。その恐ろしさに私はいつまで耐え続けなければならないのだろうか。そして会社に負けた時、自分はいったいどうなるのだろうか・・・・・。



 さらに、


 会社でも中堅の年齢になってくると、身近な先輩が定年退職していくことも多くなる。なかなか苦労が多いようにお見受けした。お金のこともあるが、それ以上に「何のために生きていくのか」という目標を失う苦しさは、はたから見る以上のものがあるように思うのだ。それは我が身を振り返るとよくわかるのである。組織の中で競争に次ぐ競争を繰り広げ、勝てばその分地位や報酬も得られるという「よくできたゲーム」を何十年も繰り返してきた身には、悠々自適の生活などというのは意外なほど魅力のないものに違いない。
 それを思うと「会社員」→「定年後」というのは、あまりにも乱暴なギアチェンジのように思えてくるのだった。
 定年というのは、あくまでも会社が時間で区切った物理的な時期にすぎない。



 お金に対する考え方が変わってきたとき、会社に対する考え方も変わってきた。どういうことかというと、評価によって会社は「怖い存在」にもなり、恐れも感じていたのが、そうでもなくなった。あるいは会社の都合で定年で放り出されてしまう「怖い存在」であったのが、それもそうではなくなった。


 そして今になって振り返ると、思えばこの頃から、ほんのわずかずつではありますが、私と会社の関係が揺れ動き始めたのでした。
 一言で表現すると、会社というものがだんだん「怖い存在」ではなくなっていった。



 お金がなくても楽しいこと、むしろお金がない方が楽しいことも世の中にはあるのだと気づき始めると、それまで当たり前のように考えてきた「給料を目いっぱい使って贅沢をしよう」などという考えは、自然とどこかへ飛んでいく。そんなことは眼中になくなっていく。
 すると給料をいくらもらえるかということに関心が薄くなっていく。
 そうなると次第に、会社に支配されているという感覚、会社に嫌われないようにしなければという感覚が、明らかに薄くなり始めたのです。



 給料をいくらもらえるかということに無関心になると、自分の評価が気にならなくなってきます。「評価=お金」なんですから。で、そんな小さなことよりも、つまり人から上司からどう見られているかということよりも、やるべきこと、やりたいことをやろうというふうになっていく。どう評価されようがかまいませんよ、もし何だったらクビにしてくださって結構。


 で、そうなってみると、ふとこんな考えが頭をよぎり始めたのです。
 「仕事」=「会社」じゃないはずだ。
 「会社」=「人生」でもないはずだ。
 いつだって会社を辞められる、ではなく、本当に会社を辞める。



 このようにお金の依存から、それほど依存しなくても生きていけるのではないかという意識変化が、会社をいつでも辞められるということになってくる。もちろん無理して会社を辞める必要などどこにもないが、会社に縛られていることで、見失っていたいたものに気づいたとき、その世界を見たくなる。そこで暮らしたくなる。それは会社勤め以上の魅力的な世界で、人間的な世界であり、自然でありえる姿だと認識したとき、著者は会社を辞めた。


 つまり何かをなくすと、そこには何もなくなるんじゃなくて、別の世界が立ち現れる。それは、元々そこにあったんだけれども、何かがあることによって見えなかった、あるいは見ようとしてこなかった世界です。で、この世界がなかなかすごい。


 なんだ、私が生きていくのに必要なものって、驚くほど「ちょっと」しかないじゃん。


 「なくてもやっていける」ことを知ると、そういう自分を作ることが本当の自由だったんじゃないか。



 高松での生活が無意識のうちに著者を変えた。
 ところで実際、著者が会社を辞めてみて改めて知った現実がある。たとえば無職だと部屋を借りることが難しくなる。あるいはクレジットカードが作れなくなる。いずれも支払いの担保がなくなるからだ。これらは会社に勤めていて給料を毎月もらっている、ということを担保にして成り立っている。


 なるほどそういうことだったのか。世の中は「会社」で回っているのだ。会社に勤めてさえいれば一人前の社会人。なぜなら、会社はきちんと毎月一定の給料を払ってくれる。家賃の取りっぱぐれの可能性は大幅に低くなる。だから不動産市場がうまく回り続けるのです。


 日本社会は、会社という装置を通じて信用を担保することで多くのことが成り立っていたのである。ああそして私は、そのサークルの外に能天気に飛び出してしまったのだ。


 言っていることがよくわかる。それは実際に会社を離れてみて痛切に感じることだった。それはなにも不動産屋やカード会社だけではない。世の中のシステムに参加するには会社員であることが担保になっていることが多い。会社員であることが国も含めて社会が担保し、信用し、それで社会が回っていることを思い知ったものである。


 いろいろあるが、要するに、年金、健保が会社の保護下を離れて国の傘下に移行。これがむきだしの個人として国と向き合うことになる。


 税金や保険料を納めるのは国民の義務であるが、それがいかに手間のかかることかは、会社を離れてみるとよくわかった。だから会社がそれらを給料から天引して納めてくれていたことは、有難いことなんだ、と思ったものである。
 一方で有無を言わせず天引きされてしまうから、「税金を納付した」、あるいは「保険料を支払った」という意識が薄くなる。
 会社を辞めると自ら申告して、銀行に行って税金を納める。保険料を支払う。これこそリアルに「納める」「支払う」を実感する。このように実際“身銭を切った”から、払った税金がどう使われるのか。保険料がどう年金に反映するのか、気になるようになった。


稲垣 えみ子 著 『魂の退社―会社を辞めるということ。』 東洋経済新報社(2016/06発売)


by office_kmoto | 2017-04-17 18:01 | 本を思う | Comments(0)

平成29年4月日録(上旬)

4月1日 土曜日

 雨。

 今読んでいる神吉拓郎さんの本に次のようにあった。


 春の暖かさをさんざん待ちわびて、もう堪え性がなくなった身には、この、あと戻りというのが、どうも辛い。
 「なんとか、早く決着をつけて下さいな」と、お願いしたいのだが、相手が陽気では、暖簾に腕押しもいいところである。一進一退する春の気配を案じて、こちらも一喜一憂、なんとも落ち着かない日々が続く。(「室町の梅」『東京気儘地図』に収録)


 今年は一喜一憂どころじゃない。今日から4月なのに、もういい加減にして欲しいというくらい、寒かった。
 神吉拓郎さんの本を読みたいと思って借りた。その本が出版されたのが1981年とあるから、46年前の本である。図書館の人も「古い本なので」といって申し訳なさそうに貸し出していた。実際本の背が潰れているので、ページが開きにくくなってしまっている。まあ読めればいいので問題ないのだが、この「読めればいい」というのが今日の朝日新聞のbe between 読者とつくるというコラムに「あなたは古本派ですか?」というのにあった。アンケートで「はい」が32%。「いいえ」が68%となっている。私は古本派なので、「このいいえ」の人はちょっとどいてもらって、「はい」の人のその理由に興味がある。
 古本を買う理由の一番は「安い」ということ。次に「気軽に買える」。「たくさん読みたい」。そして「読めればいい」となっている。
 私の場合、この記事を書いた記者の「私事」に近い。


 私事ですが、ここ数年、古本を買う頻度が増えました。取材資料として探す本は、絶版が多いという事情もありますが、比較的近年に出た本でも、「きれいな古本」を安く買えるようになったからです。


 私は取材ではないが、読みたい本が絶版が多いからである。そして気がつけば蔵書の3分の1は古本が占めていると思う。これはこのアンケートに答えた人の15%になるそうだ。「数えるほど」または「全くない」が7割を占めるそうだから、変わり者かもしれない。


4月3日 月曜日

 晴れ。夕方雷雨。

 シマホに行き、ダイニングテーブルを買う。そしていつもの通り珈琲館でランチとホットケーキを食べる。好きでホットケーキを食べてきたけれど、そろそろ飽きてきた。もういい。


4月4日 火曜日

 晴れ。

 やっと暖かく春らしくなってきた。つつじが花の赤い色を見せはじめている。千重オオムラサキも薄い紫色の花芽を見せている。

d0331556_12053614.jpg 池波正太郎さんの『江戸前通の歳時記』(集英社2017/03発売 集英社文庫)を読む。この本はこれまでのエッセイの寄せ集めで、アンソロジーである。

 私は、ためておいた小遣いで[東京市区分地図]というのを本屋から買って来た。たぶん、五十銭ほどだったろう。一円はしなかったとおぼえている。
 余談になるが、この地図を買ってから、私は大きなたのしみが増えた。東京という都市が、これほどに大きく、変化に富んでいるものと知らなかったので、小遣いをためては市電に乗って、たとえば麹町のあたりから皇居周辺を歩きまわるとか、九段の靖国神社へ行くとか、神田の本屋街へ出かけるとか……それが映画見物と共に、何よりのたのしみになった。私は、いそがしくなった。そのためか、小学校五、六年のとき成績が落ちてしまったほどだ。(深川の二店)



 私は最近商店街で無料で配っているイラストマップをもらってきて、それを家でよく見ている。そして確かに東京は面白いところだと思う。これを元にこの春、特に下町を歩いて見てみたいと思うようになっている。いくつかピックアップしているのだが……。

 あとこれは以前どこかで書いたかもしれないが、懐かしい味が書かれている。


 私どもの小学生のころは、小遣いをもらうと、甘いものよりも、肉屋のポテト・フライを買い、キャベツと共に食べるのを何よりも楽しみにしたものだった。([五月]鰹とキャベツ)


 子供のころの私は、かなり偏食だったが、他の子供が嫌がるトマトだけは大好きだったのも、浦和で食べ慣れていた所為だろう。

 祖母にことわり、台所から一つトマトをランドセルへ入れ、昼食のときに塩をつけて食べる。
 「よく、そんなものが食えるね」
 と、同級の生徒たちがいった。
 彼らは、ほとんど、トマトが嫌いだったようである。
 トマト独特の、あの匂いを嫌がったのだろうが、いまのトマトには、いくら、あの匂いをもとめても消えてしまっている。([八月]トマトと氷水)



 今でもスーパーでポテトフライを見かけると買い求めてしまうが、美味しくない。
 小学校五年か六年のころ学習塾へ通っていた。帰りが夜六、七時頃になることがある。その時帰り道にある肉屋さんで売っていたポテト・フライとかハムカツなど揚げたてにソースがかかったのをほおばった。その味がいまだ忘れられない。おそらく何度か思い出しているうちに、記憶がどんどん上書きされ、私にとって忘れられない味になってしまったのだろうが、それでもやっぱりあの時のポテト・フライは美味しかった。特に寒い冬の帰り道など最高だった。今みたいに健康志向の油なんて使わず、ラードで揚げたあの味は、思い出すだけでももう一度食べたいな、と思う。
 トマトに関しては、高校三年のとき果物屋でアルバイトをしたとき、隣の八百屋のオヤジに気に入られ、氷で冷やしたトマトを何度も食べさせてもらった。これも今のトマトみたいに糖度がどうこうなんてしゃらくさいことは言わせない、あの独特の青臭さ満点のトマトである。でもあれ塩をかけて食べると本当に美味しかった。


 神吉拓郎さんの『東京気侭地図』 (文藝春秋1971/12発売)も続けて読み終える。
 考えてみれば、私は週刊誌に連載されていたエッセイやコラム集を読むのが好きだ。そこにはその時の風潮が描かれていたり、読めば、その当時の雰囲気が味わえるのが好きなのかもしれない。
 でも誰でもいいから、最初のエッセイやコラム集を読んでみると、いずれも固い。この人も最初はこんな堅苦しい文章を書いていたんだ、と思ったりする。多分書く方も力んでいるのだろう。
 しかし回を重ねていくと、だんだん力が抜けて、味が出て来る。面白くなる。リズムも出てくる。
 この本もあとがきを読むとこの本は神吉さんの最初の本だと書いてある。やはり週刊誌に連載していたものをまとめたらしい。そして読んでいるとやはり最初は固い感じが拭えない。しかし読み進めているうちにテンポが良くなってきて、ジョークの一つも出てくるようになっていく。こうなると面白くなってくる。


 便所はいろいろなものを生む。本来のものをはじめ、アイディア、妄想、回想、困ったことに子供を生んじゃう女もいる。
 (天は人の上に人をつくらず)
 と喝破したのは福沢諭吉。それをもじって、
 (天は人の上に人を乗せて、人をつくる)
 とやった落書史上の名作はやはり便所の壁に書いてあった。(らくがき)



 こう書かれると思わず笑ってしまう。


4月5日 水曜日

 晴れ。

 ネットで東京のお花見ランキングで一番という目黒川へ行ってみた。


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 この写真を見ると、確かにいい場所に見えるけれど、ただここは写真を撮る場合いいロケーションだというだけで、実際は川沿いをただ人並みに押されつつ歩かされている感じが拭えず、どうってことなかった。
 それで新宿三丁目に戻るので、そこで降りて新宿御苑へ行ってみた。


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 ここはお花見スポット第二位となっているが、目黒川よりはるかにこちらの方が良かった。広くてゆっくり桜を身近に見ることが出来る。

 今日の夕食は簡単に済まそうということで、伊勢丹の食品売場で弁当を買うことにした。神田志乃多寿司の店が出ていて、久しぶりにここのおいなりさんとかんぴょう巻きが食べたくなり、太巻きと一緒になったものを買った。


4月6日 木曜日

 晴れ。

 やっとスギ花粉も下火になり、安心して外に出られる季節となる。南風が吹いた関係か、かなり暖かい。
 今日はシンビジュームとシャコバサボテンの植え替えをやった。庭を見ると梅はとうに終わり、水仙も終わっていた。そしてつつじの赤い蕾が今にも開きそうな感じになっている。春もみじも赤い葉を伸ばしている。これからが我が家の庭は花がいくつも咲く。
 チューリップも蕾が見え始めたし、アマリリスも葉を出し始めた。まさしく春を感じる。


4月8日 土曜日

 雨。

 フレデリック・フォーサイスの『アウトサイダー―陰謀の中の人生』を読み終える。


4月10日 月曜日

 曇り。

 雨模様が三日続いたので、たとえ曇りでもうれしい。
 いつものように朝散歩に出て、庭の掃除、草木の手入れをして午前中が終わる。これだけでもからだを動かしていると、調子がいいことがわかる。気分が良い。
 千重オオムラサキが一輪咲いていた。チューリップも一鉢咲いている。その鉢を2階の出窓に置く。
 そのチューリップの花の色が妻が気に入ったようで、スマホで位置を変えながら何枚も写真を撮っていた。その写真の一枚をLINEで送ってもらう。


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d0331556_12100061.jpg 午後から佐伯一麦さんの『渡良瀬』(岩波書店2013/12発売)を読み直す。


 「いくら親会社が、時短だ完全週休二日制だって格好のいいことを言ってもよ、作る製品の数が減らなきゃ、その皺寄せはどうせ俺たち下請けに来るってわけだんべよ。しかもこっちは安い給料で働かせてよ、隣なんか残業三十時間分、やってもやらなくてもはじめから基本給に加えられるって話さ、だったら工員たちもなるべく定時内に仕事を終わらせようって気になるだろう。ところがうちは、基本給が安いから残業手当をあてにしなくちゃやっていけねえべ、だから若い連中たちなんか三時まで煙草ばかりふかしてちんたらしているだけじゃねえか。やれ残業だ休日出勤だってやってるんだけどよ、結局能率悪いことをやってるんだよ、うちは」


 「なあに、要するに世間には、休みの日にはちゃんと仕事を休める人間と休めない人間がいるだけの話でよ、ここにいる俺たちは皆同じ同じ」


 これらは主人公の拓也の同僚の愚痴である。
 最近働き方の改革を政府主導で進めている。ニュースでは通勤電車が坐って行ける車輌が次々と導入されていると流れていた。インタビューを受けた人はこれは良いですねと答えている。
 プレミアムフライデーなんかもアメリカの真似をして騒いでいる。
 だけどこの電車に乗れる人間はごく限られた人たちだろう。そしてプレミアムフライデーを満喫できる人間だって同じだ。そしてそのあおりを受けた人が多くいるはずだ。 この車輌を走らせることは、ダイヤに無理が生じるだろう。ということはただでさえ満員電車が余計に混むことになるのではないか。
 働き方の改革など言っても、その恩恵を受けられる人間は多分ごく限られた人たちで、彼らが休んでいる間、働かなければならない人がいるのだ。それもその分の皺寄せで。しかも安い給料で。
 ヤマト運輸の便利な宅配を享受している我々がいる一方で、その便利さを提供するために無理な働き方を強いられる人たちがいる。佐川急便のあんちゃんが不在者の荷物にあたっていたのが動画として流れ問題となったけれど、あれだって気持ちはよくわかる。むしろそれを動画にとって公開した人間はどんな気持ちでそれを公開したのか、そっちの方が知りたい。正義面して、不正を許さないという気分だったのではないか。あんちゃんがあのような行動をどうして取ったのか、それこそ忖度などしなかっただろうな、と思ったりする。

 一部の人間が便利さや楽しみを享受していている。それを下支えしている人たちが無理を強いられている。社会のシステムを下支えしている人たちのことを彼らはどこまで理解しているか。私はこれまでずっとこのような立場にいた人間だったので、気持ちとして拓也の同僚達が漏らす言葉にいたく同感する。
 彼らが休暇を楽しみ、宅配されるのが当たり前と思い、ゆったりとした電車で通勤するのは結構だ。それができる立場の人間だから。けれどそれを自慢げに、それこそ満面に笑みをうかべて、うれしそうに語る姿がいやらし。彼らからすればひがみ根性と言われかねないとしても、彼らの姿は決して美しくない。むしろ醜い。そうした生活を享受するなら黙ってやれ!と伊集院静さんみたいに言いたくなるのである。そうした自慢げな表情が我々を刺激する。卑屈にさせる。愚痴の一つもいいたくなってしまうのである。でないとやっていられないからだ。

 さて物語は微に入り細を穿つ。素人が知らない配電盤の配線模様を説明してくれる。もちろんよくわからない。けれどそこには職人技があるんだろうな、とは思う。そこには職人の「手」が描かれている。
 ところでこの本のカバー図版にアルブレヒト・デューラーの「祈りの手」が使われている。この絵には逸話がある。貧しい家に生まれたハンスがディーラーが交替で絵の勉強をすることにする。デューラーが絵を学んでいる間ハンスが働いてその資金を稼ぐ。そしてその次にハンスが絵を学ぶ。
 しかし先に絵を勉強していたデューラーは、絵の奥深さに触れ、なかなか勉強が終わらない。ハンスはデューラーに思う存分勉強してと言い、鉄工所のハンマーを打ち続ける。
 数年後デューラーはハンスと再会し、その手を見て泣いた。ハンスの手は長年ハンマーを打ち続けていたのでごつごつした手になって絵筆が握れなくなってしまっていたのだ。デューラーはハンスの手を見て苦しんだ。一方ハンスもデューラーが自分の手を見て苦しんでいることを知っていて、これ以上苦しまないようにと祈っていた。その祈りの手がこの絵である。
 なるほどこの「祈りの手」はこの小説に出て来る職人たちを表現していたのだ。

 佐伯さんの小説はこのようにあらゆることが細かい。それは拓也の周りにいる人たちにも及ぶ。そうしてその細かさは読んでいる者に彼らを身近に感じさせる。いつの間にか自分が彼らの近くにいるような気分になってくる。これは佐伯さんの小説を読む度に思うことだ。


4月12日水曜日

 晴れのち曇り。

 小玉武さんの『「係長」山口瞳の処世術』を読み終える。



4月13日 木曜日

 晴れ。

 赤い花のつつじが咲き始めた。

 次に読む本がなかなか決められなくてイライラしていた。もちろん読む本はたくさんあるのだから、次から次へと引っ張り出してくればいいのだが、取りだした本を数ページ読んでみると、どうも先に進めない。気分が合わないのである。それで違う本を取り出してくるのだが、これも違う。そうこうしているうちに頭痛もしてきて、本を探すのが億劫になってくる。
 図書館で予約していた本が、ネットで確認してみると、順番が「1」となっている。ということは今借りている人の次が自分なのか、それとも「もう一人」いるということなのか、その辺りのことはよくわからないけれど、いずれにしても近々順番が回ってくるということだけは間違いなさそうだ。
 図書館の本は2週間という貸し出し期限があるから借りた本をすぐ読まなければならない。だから今読もうとしている本は長編やシリーズを読んでしまうと、それを途中で止めなければならなくなってくる。そんなことを考えているとますます本が見つからなくなってくる。
 だいたい私は読む本をある程度まとめて本棚から取りだしておき、手元に置いておく。その方があれこれ悩まなくて済むからだ。手元に置いてある本が今回途切れてしまったのだ。だからこういう事態に陥ってしまった。そこに図書館で予約した本が近々順番が回ってくることもあって、余計に厄介なことになってしまった。
 結局村上春樹さんの短篇集にすることにした。この本は本としては読んでいない。ただ中身の短編は読んでいる。どういうことかというと、この本はアメリカで出版された村上さんの短編の英訳本なのだの日本版なのだ。そのオリジナルはすでに発表され本になっている。それを同じ装丁でオリジナルテキストを使って日本で発売したものなのだ。
 でも今の気分には村上さんの短編がいいかもしれない。今度はスムーズにページが進む。丁度我が家でも油の切れたネジを巻いたような鳴き声を発する鳥の声を最近よく聞く。あれをねじまき鳥とはうまいこと言ったものだ。


4月14日 金曜日

 晴れ。

 生前母が大切にしていた実家のシャコバサボテンの養生のため持ってくる。この鉢はもう30年ものだ。
 昨年は花を付けたけれど、その後葉が赤く変色し、しおれてしまっている。植え替えなどやっていないため、根腐れを起こしているのだろう。
 とりあえず鉢から抜き出し、根をきれいにし、ダメな葉を全部切り取り、植え替えた。果たして再生するかどうかわからないが、やるべきことはやってみたので、後は見守るだけで、できれば元気になって欲しい。


4月15日 土曜日

 晴れのち曇り。

 赤いつつじと千重オオムラサキの花がかなり開き始めた。


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赤い方はほぼ満開。千重オオムラサキは今年は花が少ないかもしれない。昨年だいぶ枝を切ってしまったので、その影響かもしれない。でも今年も二つとも咲いてくれたという感じだ。
 チューリップもきれいに花が咲き、君子蘭も花芽がだいぶ大きくなってきた。


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 アマリリスも新しい葉が出てきている。さつきももちろん花芽を持っている。これから我が家のには豪華になる。

by office_kmoto | 2017-04-16 12:23 | 日々を思う | Comments(0)

山口 瞳 著 『同行百歳』

d0331556_07484343.jpg この本は11の短篇からなる。そのほとんどが山口さんの生い立ちに関する自伝、あるいは身の上話である。だからこの本を読めば山口さんがこれまでどう生きてきたのかがわかる仕組みになっている。
 「同行百歳」は山口さんが会社を辞める頃の話が書かれ、「学校」では山口さんの学歴が書かれ、「住居論」では山口さんがどこでそう暮らしていたかがわかってくる。
 山口さんは複雑な家庭環境で生きてきた。父親の浮き沈みの激しい生き方に翻弄されて生きてきた。だからこそ、そこから生まれたであろう、山口さんの生き様、考え方、感じ方などがわかってくる。
 もともとこの人、頑固、偏屈というより、どこか変わっている。よく山口さんを礼儀作法の大家みたいにみているところがあるが、私は違うと思っている。確かに作法としてそうした方がいいだろうし、人付き合いがうまく行くだろうが、もともと山口さんが言うところの人との付き合い方は、山口さんがたえず持っている“不安”から発している。今、目の前にいる人とうまくやっていかないと、自分の生活がダメになる。あるいは今の心地良い気持ちを失いたくないために、無理な演出や振るまいをする。そうすることで自分を守ってきた。多分そういうことなんだろうと思っている。だから山口さんのサービス精神は時に異常と言うくらいなのだ。
 それらすべてが山口さんが生きてきた浮き沈みの激しい人生から発している。父親の景気のいいときの暮らしぶりは、一時のものであった。父親の事業が破綻すれば、借金取りのヤクザに怯える生活がそこにあった。父親の姿をいつも見ていたから、正月の書き初めに「人間万事金之世之中」と書くくらいなのだ。
 だから山口さんは「安定」を求めた。それが山口さんの生き方の基本だった。だからそれを失わないために、息せき駈けて生きてきた。ここで立ち止まったら、ここまで築き上げてきた生活が失われる。あるいは良好な人間関係が失われる。そういう不安にたえず悩まされていた。


 私だけが悪い時代を知りすぎているのである。(人間万事)


 今年の秋、私は満年齢で五十歳になる。女房は四十九歳である。いま、数え齢で私と女房の年齢を合計すると、ちょうど百歳になる。私が十九歳でサラリーマンになったのは、その年に女房を知ったからだ。そのあとは、ただただ、びくびくして暮してきた。冷や汗の連続だった。(同行百歳)


 この短篇集では「足」が好きだ。


 体のなかで、気持の悪い部分は、足である。


 と人の足について自分は気持ち悪い、グロテスクだと思って来た。しかし、


 湯河原から帰ることになっている日の朝、風呂から出て、偶然、私は、投げだしている自分の足首を見た。日に五回も温泉に入っていたのだから、とても自分の足には見えないくらいにきれいになっている。きれいな足だなと思った。どういうものか、それは醜悪にもグロテスクにも気持の悪いものにも見えなかった。それが不思議であり、そのことが妙に新鮮なことに思われた。
 この足で五十年間歩いてきたと思った。この足は、暴力団に襲われたあの家の畳も知っているし、軍隊生活も知っている。
 この足は、五十年間にわたって私の全体重を支えてきたのであるから、少しぐらいグロテスクであっても仕方がないし、また、それが当然の形であるように思われた。


 この感じなんかいいなあ、と思った。


山口 瞳 著 『同行百歳』 講談社(1979/07発売)


by office_kmoto | 2017-04-12 07:50 | 本を思う | Comments(0)

山口 瞳 著 『酔いどれ紀行』

d0331556_05545288.jpg 続いてやはり図書館で借りたこの本を読んでみる。この本は確かに私は持っていたはずだと、借りて本を手にしたとき思ったのだが、いくら探しても見つからない。山口さんの本はまとめて本棚にあるので、売るわけがないのだが、どこかにまぎれてしまい、売ってしまったのだろう。

 この本も山口さんとドスト氏の二人のスケッチ旅行である。今回は妻から逃亡という大袈裟な意図もない。どちらかと言えば先に読んだ『迷惑旅行』に近い。『迷惑旅行』は文字通り二人が旅をすれば、周りに迷惑をかけつつ旅しているというのを感じていたが、今回は旅先で様々な人たちと、とにかく酒を飲んでいる。まさしく『酔いどれ紀行』である。
 浦安の旅?これを旅というにはちょっとと思うがまあ、浦安にスケッチに出かける。浦安に出かけて行くのは、山口さんが山本周五郎を尊敬しているからである。


 以前、私が競馬に狂っていたころ、中山競馬場へ行くときは、主に地下鉄東西線をりようしていて、葛西、浦安、行徳のあたりを通るたびに「ああいいなあ・・・・」と思ったものである。自動車で行くときは、木場のあたりも、いいな、と思った。何がいいかと言うと、このへんを絵に描いたらいいなと思った。

 (略)

 じゃあ、どこがいいかというと、べか舟のあるところがいい。工場があって、その工場の高い塀が延々と続いていて、道に埃が舞いあがっているところがいい。古い工場と古い塀と人の通らない道。その突堤で一人で釣をする少年。曲がりくねった旧街道・・・・・ああ、私には。もう書けない。私は、こういうところに住みたいと願ったものである。この町には匂いがあるはずである。山本周五郎とは関係なく。


 これはディズニーランドが出来る前のことである。本にはディズニーランドが工事中と書いてあったが、私は山口さんが言わんとすることがよくわかる。むしろ懐かしいくらいだ。私が知っている浦安はまさしくここに書かれた風景であった。

 さて、ここのところ山口さんの紀行文、というか、珍道中を読んできた。
 これまで読んできて、山口さんの“サービス精神”は文章の隅々まで行き渡っている感じだ。とにかく読者を飽きさせないために、いろいろ笑わせてくれる。ちょっとしたことなのだが、思わずクスリ、としてしまう。あるいは笑いをこらえられなくなる。こうした文章を書くのは大変だろうな、と思ってしまう。ウケを狙っても、笑いを取れるわけじゃないだろうが、その時時で笑いを取れると思ったら、すかさず書いてしまう。話の流れでそれがうまく笑いを誘ってくれるのでうれしい。やっぱりうまいな、と思う。 ただその笑いは世代共通とはいかないだろうな、とは思う。同世代、あるいは同じ時期を過ごした人でなければ笑えないかもしれない。それだけ世俗的でもあるのだ。だから私は楽しく読むのだけれど。


山口 瞳 著 『酔いどれ紀行』 新潮社(1981/09発売)


by office_kmoto | 2017-04-10 05:56 | 本を思う | Comments(0)

山口 瞳 著 『なんじゃもんじゃ』

d0331556_09363845.jpg まずこの本の内容に関係ないことを書く。
 この本は図書館で借りた。昭和47年2月の第3版となっている。(初版は昭和46年3月である)ということは、この本は出版されて44年経っていることになる。
 写真はこの本をスキャンしたもので、見てもらえればわかると思うが、この本に貼り付けてある「経年による劣化あり」、「染みあり」のラベルその通りの状態である。44年の間図書館で借りられ、読まれ、そして返却されれば、さすがにこうなるだろうな、という見本みたいな本である。
 さすがにこれだけ年数が経って、しかもくたびれているので、この本は通常の棚に収まっていない。図書館の閉架書庫にあった。言って取りだしてもらったのである。
 表紙を開くと、日付つきのゴム印が二つ押してある。一つは日比谷図書館で、もう一つが多摩図書館のものである。日付は日比谷図書館が「1972.7.25」となっており、多摩図書館の方が「1987.9.1」となっている。日比谷図書館のゴム印の上には赤い判で「消」という文字が押されている。
 これから想像するに、この本は最初日比谷図書館で購入され、棚にあった。しかしどういう理由かわからないが、都落ちして、多摩図書館に移され、そして流れ流れて江戸川区の図書館の閉架書庫に余生を送ることになった。まあ、そんなところだろう。そして静かに余生を送っていたのに、私という借り手のために起こされたわけだ。
 1冊の図書館の古い本からそんなことを思いはせるのも、一興ではないかと思う。

 さてこの本のことである。タイトルの「なんじゃもんじゃ」はどうやらドスト氏が山から採ってきた木のことのようである。


 私の家は、ビックリハウスと渾名される奇妙な建物であって、玄関に花壇がある。この花壇は一日中、日の当たることがないにである。

(略)

 「山から採ってきたんです。五日市の山の奥まで行ってきたんです。なんじゃもんじゃというのは黒文字のことです。爪楊枝をつくる木です。いい匂いがします。日かげでも成長します。このへんでは黒文字のことを、なんじゃもんじゃというのです」


 この紀行文は関保寿さんことドストエフスキーと山口さんが、妻から逃げる旅である。逃げると言っても、「どうやって妻をごまかし、どうやって逃げるか。どうやって妻と一緒でない日をつくるか」なのである。


 ここで誤解のないようにつけ加えておく。妻というのは世間である。「世間の良識」である。妻の発言は、常に絶対に正しいのである。私たちが反逆をくわだてるのは、このような正しさである。私たちが妻から逃げるのは世間から逃れるためである。


 妻は「世間」であるから妻の言うことは正しい。夫の方はどうやってもかなわない。そういう鬱陶しさから一日でも逃げることが出来れば、というので、二人でスケッチの旅に出るのである。

 その逃避行の旅で武田信玄の隠し湯と言われている甲州の下部温泉での話は笑った。温泉は混浴である。湯に浸かりたいので女中に女性が風呂に入っていないか見てくれと頼む。


 女中がもどってきた。
 「見てきました。いまなら、だいじょうぶです。ヤットウのお婆さんが二人はいっているだけです」
 「・・・・・・」
 「早く、早く」
 「ヤットウってなんだね」
 「やっと生きているというお婆さんですよ」

 (略)

 そのうちに、さらに怖しいことが起った。
 婆さん連が、立ちあがって押し寄せてきたのである。私たちは頸まで漬かっている。むこうは立っている。湯はフトモモの高さまでである。するとどうなるか。
 怒れる獅子の鬣の如くあり、竜の髭あり、姫菖蒲あり、最新式金属製亀の子束子のごとくあり、カイゼル髭あり、無数の×点をイタズラ書きしたる如くあり、もし一人前餅焼網があったとしたらそいつを貼りつけたようなのあり、巌となりて苔のむしたるあり、火焔太鼓の模様あり、菩薩の光背あり、真実一路の頭あり、千差万別、ジャリジャリ、ヤワヤワ、サヤサヤと迫ってくる。
 「ナニ、おそれることあるものか。もとはといえば己の在所ではあるまいか」
 私は、耐えていたが、やがて、一声。
 「助けて呉れェ!」


 そしてさらにオチがある。道端に野木瓜(あけび)が墜ちていたのでドスト氏が採ってきてあげるという。山口さんは危ないからと止めるが、ドスト氏は野木瓜を取りに行く。その時山口さんの言う。


 「私は、もう笑み割れた野木瓜の実は結構です。その形は、温泉でたくさん見すぎてしまいました」


 さて、山口さんたちは津和野にある鴎外の生誕の地を訪ねる。山口さんが鴎外の遺書に痺れたことが書かれている。


 少年の頃、私は、鴎外の遺書を読んでしまった。これがいけなかった。


 鴎外の遺書のことは昔聞いたことがある。調べてみると次のようである。


余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ
一切秘密無ク交際シタル友ハ
賀古鶴所君ナリ コヽニ死ニ
臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事
件ナリ 奈何ナル官憲威力ト
雖 此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス
余ハ石見人 森 林太郎トシテ
死セント欲ス 宮内省陸軍皆
縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間
アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス
森 林太郎トシテ死セントス
墓ハ 森 林太郎墓ノ外一
字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ
依託シ宮内省陸軍ノ榮典
ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ 手續ハ
ソレゾレアルベシ コレ唯一ノ友人ニ云
ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許
サス  大正十一年七月六日
        森 林太郎 言(拇印)
        賀古 鶴所 書

  森 林太郎
      男     於莵

    友人
      総代   賀古鶴所
            以上


 この遺書を山口さんは読んで考えたのであった。


鴎外が「テヤンデエ」と尻をまくったように思われた。そうして、鴎外における立身出世も親孝行も、このような虚無思想に裏打ちされていることを知ったのである。ザマアミロと思った。
 私の育った時代と環境がいけなかったのかもしれない。官権威力が私に死を迫っていたのであった。これから死ぬんだから放っといておくれという考えは、戦中戦後を通じて、いまにいたるまで私を支配するようになる。
 これが私を駄目にした。


 (略)

 鴎外が私を縛った。
 生きるとは何か。死とは何か。しょせん、石見の人森林太郎として死せんと欲すに尽きるのではないか。軍医総監も大文豪も、車夫場丁もドン百姓も同じではないか。



 錦を着て故郷に帰るということを嫌悪するとまでいかなくても、逡巡の気持が働いたと思う。死期を覚った鴎外は、帝室博物館長として、上野の坂をよぼよぼと歩くほうが己に似つかわしいと思ったのではないか。私が鴎外にいかれてしまうのは、そういうところである。


 私が鴎外の遺書に聞き覚えがあるのも、山口さんが言うのところに共感したからだと思う。いくら立身出世しても、最後は森鴎外ではなく、単に石見の森林太郎として普通の人間として死ぬことを望んだ。そこに出世のむなしさを感じたのではないか、と思ったのである。もっともこの言い分は“キザな奴”というそしりは免れないとも思うが。


山口 瞳 著 『なんじゃもんじゃ』 文藝春秋(1971/03発売)


by office_kmoto | 2017-04-07 09:39 | 本を思う | Comments(0)

竹鶴政孝という人

 ニッカの創業者竹鶴政孝とはNHKの朝の連続ドラマ「マッサン」である。竹鶴政孝の自伝『ウイスキーと私』によれば、


d0331556_06463162.jpg 明治二十七年(一八九四)年六月二十日、私は広島県竹原町(現在竹原市)のつくり酒屋の三男として生まれた。
 家業を継ぐため大阪高等工業(現在の大阪大学)の醸造科に入り、ウイスキーに興味をもってから、ただ一筋にウイスキーづくりだけに生きてきた。
 その意味では一行の履歴でかたづく男である。(ウイスキーと私)



 竹鶴という名は珍しい。同じ本によれば、


 “竹鶴”は私の姓であるとともに“竹鶴”という名の酒を私の家から出していた。酒の名前とその蔵元の名前が同じというのは、数多い全国の酒屋の中で“竹鶴”ただ一つであった。祖母の話によると、明治維新で姓を受けるとき役場が酒の名に気づかないで本名にしてしまったからだそうである。(ウイスキーと私)


 竹鶴政孝は明治27年に生まれた。大阪高等工業学校(後の旧制大阪工業大学、現在の大阪大学工学部)の醸造科にて学び、卒業を間近に控えた時、摂津酒精醸造所の常務岩井喜一郎を頼り、社長の阿部喜兵衛と会い、洋酒造りの道に進みたい旨を伝える。政孝は卒業を待たずに摂津酒精醸造所に入社する。


 卒業前のことだから今でいう青田買いであるが、私のは“押しかけ青田売り”であった。(ウイスキーと私)


 その後政孝の仕事ぶりが認められ、社長の阿部から本場のウイスキー造りを学んでこいと、スコットランドに渡ることになる。留学費は会社が出してくれた。当時日本の景気がよかった。


 当時の好況ぶりは、世界大戦のおかげで大変なもので、輸出はどんどんふえ、輸入は殆どふえなかったから、日本のもうけはすばらしかった。歩が金になるいわゆる、“成り金時代”であった。
 そのため洋酒はよく売れた。特に大正七(一九一八)年から九(一九二〇)年にかけては、摂津酒造の黄金時代であった。スコットランドでの私の留学費と、日本に残った永井君たちの賞与の額が、ほぼ同じになったほどの好景気で、今の人には信じられない時代であった。(ウイスキーと私)



 しかし当時日本では本場の洋酒は高級品で、輸入量は微々たるものだった。しかし国産洋酒がすぐ登場するが、それは「模造洋酒」で中性アルコールに砂糖と香料を混ぜたものであった。すなわち“まがい物”、イミテーションであった。阿部は“まがい物”でない、本物のウイスキーを日本で作りたい、そのために勉強してこい、というのであった。
 1918年(大正7年)阿部社長、岩井常務以下摂津酒精醸造所の全社員、政孝の両親、寿屋の鳥井信治郎、山為硝子の山本為三郎(実業家。現アサヒビール社長)に見送られ、スコットランドへ赴いた。
 スコットランドではウイスキーの蒸留所の見学、実習とウイスキー造りの研究の邁進した。スコットランド滞在中には、 ジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と1920年結婚する。同年11月リタを連れて帰国。
 政孝は当然摂津酒精醸造所でウイスキー造りをするつもりでいたが、数カ月、半年過ぎても、社長の阿部は本格的なウイスキー造りが出来なかった。第一次世界大戦後の不況が長引きウイスキー造りをする資金的余裕が会社にはなかった。しかも不況は長引く。


 第一次大戦の軍需景気で未曾有の好況とアルコール・ブームを迎えた酒造業界に大正十(一九二一)年から十二(一九二三)年にかけて大きな反動が押し寄せ、同業者の倒産が続出する有様であった。(ウイスキーと私)


 政孝は相変わらず模造ウイスキー造りに明け暮れていた。


 重役会議でも阿部社長は
 「竹鶴君が苦労して勉強してきたのだから、なんとかやらせてみたい」
 と助け船だされたが、ウイスキーのような貯蔵に年数がかかり、そのうえ、ものになるかどうかもわからない道楽事業は、会社の財政面からも、すべきではないと全重役から反対されてしまった。(ウイスキーと私)



 政孝はこれ以上模造ウイスキーを調合するのに堪えきれず、摂津酒精醸造所を退職する。
 そんな時寿屋の鳥井信治郎は、赤玉ポートワインの売上が好調で次の一手を本格的なウイスキーの製造と販売を考え始めていて、竹鶴政孝を招き入れる。


 私が寿屋に入る条件として、ウイスキーづくりを全部まかせる、必要な金は用意する、十年間働く、年俸四千円という約束が二人の間にできた。(ウイスキーと私)


 政孝はウイスキー製造工場をその製造に適した地として、京都の郊外である山崎に作る。しかし巨費の設備投資をしても、ウイスキーは蒸留してもすぐ商品にならない。“寝かせ”なければならない。工場を建てて四年、鳥井はさすがに製品を待てなくなった。資金繰り的にも苦しくなってきている。これ以上待つことが出来ないと言われ、出来た原酒とアルコールブレンドして<白札サントリー>として発売する。しかしこれは売れなかった。鳥井はウイスキー事業を維持するためにビール製造に手を出し、政孝にビール工場長を兼任させる。しかしビールもうまく行かなかった。政孝は本社から指示を受け、横浜にある工場の拡張工事の陣頭指揮を執った。すべてウイスキー製造のためと思いつつ。しかしその工場は売却された。それが会社の戦略とはいえ、工場長の政孝に相談もなく売り払われたことが淋しかった。
 信治郎はやはり経営者であり、政孝は職人だった。自分が一介の技術者にすぎないことを感じ、独立を考え、1934年(昭和9年)寿屋を退社する。
 そしてついに政孝は北海道余市郡余市町でウイスキー製造を開始する。資本を集め、大日本果汁株式会社を設立した。ウイスキーが出来上がるには年数がかかる。その間、リンゴジュースを作ってしのごうとしたが、政孝の本物にこだわる職人肌が禍し、混濁が見られ売れず、返品の山となっていく。一方ウイスキーは蒸留していくが、そこに寝かせが入るので、すぐ商品とならない。会社は瞬く間に資金難になる。


d0331556_06473542.jpg こうしてのんびり釣糸を垂れ、リタの朗らかな声を聴いていると、工場経営の苦労も忘れてしまいそうだ。摂津酒造時代の自分だったら、こんな情況でとてものんびり釣などしていられなかっただろう。
 -俺も変わったな。
 竹鶴は奔流に揺れる浮きをみつめながら思った。焦っても仕方がないことだ。ウイスキー原酒が樽のなかで、四年、五年の歳月を眠ってようやく一人前になることを思えば、一年や二年の歳月で一喜一憂しても始まらない。
 なによりも、これから造ろうとしているのは、自分のウイスキーなのだ。独立したいからこそ、青年時代から追い求めてきた理想のウイスキーを造り上げる機会を掴んだ。この喜びにくらべれば、工場経営の苦労など・・・・・・。(ヒゲのウヰスキー誕生す)



 工場の貯蔵庫では原酒が四年目に入った。出来は悪くはないが、もう少し寝かせたい。しかし第二次世界大戦が拡大するのは必至の状況になっていた。価格統制と配給の時代を迎え、今ウイスキーを発売しないと永久に機会を逸してしまう。


 迷い抜いた末、竹鶴は発売に踏み切ることを決意した。
 若い原酒群であったが、竹鶴は慎重に混合を繰り返し、アルコールとブレンドした。ピートの香りをきかせた原酒をたっぷり使い、スコッチと同様、重厚な気品をたたえたウイスキーに仕上げたのである。
 初めて世に送り出す製品を竹鶴は「大日本果汁」を略して「日果」、すなわち<ニッカウヰスキー>と命名した。ラベル文字は<Rare Old NIKKA WHISKY>。(ヒゲのウヰスキー誕生す)



 戦後五年を迎えた昭和二四年、終戦直の混乱を覆った物資不足もインフレもようやく沈静の兆しが見え始めた。


 当時、ウイスキー市場の八割近くは三級ウイスキーで占められていた。現在の二級に相当する三級ウイスキーは、税法上<原酒が五パーセント以下、0パーセントまで入っているもの>と規定されていた。0パーセント、つまりウイスキーの原酒が一滴も入っていなくとも、税金さえ納めればウイスキーとして堂々と適用した。
 経済の復興期とはいえ、ウイスキーはまだ高嶺の花である。現在の特級に当る一級ウイスキーなど、一般庶民の手に届くものではなかった。戦中戦後、軍納や配給ウイスキーでその味に親しんだ者も少なくなかったが、ウイスキーの魅力自体もまだ薄い。自由競争になって、三級ウイスキーは市場を席巻したものも、安い酒であったからにほかならない。じじつ大部分の三級ウイスキーは、アルコールに色と香りをつけたただの粗悪な模造ウイスキーにすぎなかった。
 自由競争の時代に入っても、大日本果汁は以前と変わらぬ一級ウイスキー<ニッカウヰスキー>しか発売していなかった。価格は一本千三百五十円。三級ウイスキーが三百円の時代であった。(ヒゲのウヰスキー誕生す)


 これでは赤字が続くわけである。経営悪化をたどる大日本果汁は、三級ウイスキーを出すしかなくなっていく。資本を出してくれている加賀正太郎は経営を一切政孝に任せていたが、さすがに口を出さずにいられなくなる。政孝はウイスキー職人としてアルコールで薄める模造品を出すには良心が許さなかったが、これ以上どうしようもない。規定いっぱいの五パーセントまで原酒入れて三級ウイスキーを出す。


 全従業員を工場に集めて、いままで本格ウイスキーに命をかけた自分がブレンダーとしての良心に反して、三級ウイスキーをつくらざるをえなくなった苦哀をぶちまけたのは昭和二十五(一九五〇)年の春であった。(ウイスキーと私)


 昭和二十八年、酒税法が改正され、従来の一級から三級までの級分けは、特級、第一級、第二級と呼称が改まったが、第二級が市場の九割近くを占め、第二級の原酒混和率は相変わらず<五パーセント以下、〇パーセントまで>であった。
 社名をニッカウヰスキー株式会社と改めても、先行投資が増えつづけ赤字経営であった。加賀は株主を代表して経営に口を出し、もっと値を下げろと言う。
 そのうち大株主の加賀は、朝日麦酒社長山本為三郎に後事を託し株を売却してしまう。
 昭和三十年代の洋酒ブームも三十四、五年になると陰りが見え、ブームを支えていた二級ウイスキーの伸び悩みが激しかった。消費者は生活に余裕が出来はじめる頃で、高品質のものを求めるようになっていたのである。そこで業界は原酒混和率の引き上げ要望し認められた酒税法が改正された。
 山本は政孝に一つの提案をする。それはニッカでグレイン・ウイスキーの製造をしろというものだった。


 ウイスキーがスコットランドの地酒から世界に通用する酒となったのは、ブレンディド・ウイスキーの誕生を待ってからである。スコットランドでは、大麦を単式蒸留器で蒸留した個性豊かなモルト・ウイスキーと、穀類を連続式蒸留機で蒸留したグレイン・ウイスキーとをブレンドする。ところが日本では、モルト・ウイスキーに薯や糖蜜を精製した中性アルコールをブレンドしているのが現状であった。
 ブレンディド・ウイスキーの香りや味を造るのはモルト・ウイスキーである。が、その個性を生かし、飲みやすくしたのはグレイン・ウイスキーだ。もし、日本でも中性アルコールに代って、スコットランド同様に穀類から蒸留するグレイン・ウイスキーを使えるようになれば・・・・・。(ヒゲのウヰスキー誕生す)



 設備には莫大なお金がかかる。しかし山本はやってみろというのであった。


 兵庫県西宮に念願のグレイン・ウイスキー工場を建設し、カフェ式連続蒸留機のバルブをみずからの手で開けた瞬間、竹鶴の脳裡をかすめたは遠い半世紀の昔、スコットランドの工場で深夜、蒸留主任の老人から手ずから教わった記憶であった。よもやあの老人は生きてはいまい。スコットランドへ遣ってくれた摂津酒造の阿部喜兵衛、山崎工場を任せてくれた寿屋の鳥井信治郎、余市に初めて竹鶴の城を築かせてくれた加賀正太郎、数億円の出資でカフェ式連続蒸留機導入を実現してくれた山本為三郎・・・・・。恩人はみな世を去っている。こうして先人を思い出すたびに、竹鶴はウイスキー一筋に生き、グレイン・ウイスキーまで造れるようになった僥倖を痛いほど感じるのだった。それにくらべたら、企業間の争いなど、所詮コップの中の嵐のようなものではないか
 生きることは、なんと愉しいことだろう。(ヒゲのウヰスキー誕生す)



 私はこれまでサントリーの創業者や佐治啓治の評伝などいくつか読んできた。開高健や山口瞳が書いた社史なども読んできた。しかし、竹鶴政孝と鳥井信治郎の関係がいずれも書かれていなかったと思う。あるいは書かれていたのかもしれないが、詳しく竹鶴政孝に言及した文章は記憶に残っていない。それで川又一英さんの『ヒゲのウヰスキー誕生す』を読み、竹鶴政孝自身が書いた自伝『ウイスキーと私』を読んでみた。これら二冊の本を読んでサントリーとニッカとの関係がよくわかった。


川又 一英 著 『ヒゲのウヰスキー誕生す』新潮社(1982/11発売)

竹鶴 政孝 著 『ウイスキーと私』 NHK出版(2014/08発売)

by office_kmoto | 2017-04-05 06:52 | 人を思う | Comments(0)

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