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増田 みず子 著 『わたしの東京物語』

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 この本のあとがきに、「隅田川のことを、いつか、心ゆくまで書いてみたいと思っていた」と書いている。

 隅田川はわたしにとって、生まれ故郷のようなものだ。東京で生まれ育ったというよりも。隅田川のそばで生まれ育ったという方がわたしの感覚にぴったり合う。
 水が汚いのはあまり気にならない。汚れすぎて悪臭が漂っていたりするとさすがに悲しくなるが、汚れているのはありのままの姿なのだから、かまわない。

 皮肉なことに、わたしが隅田川を見ながら育った昭和三十年代から四十年代にかけての隅田川は、隅田川史上、もっとも汚れがひどかった時期に重なっている。

 バケツに水をすくいとると、何度も雑巾をゆすいだ水みたいにまっ黒だった。白秋がコレラだマラリヤだと罵った場所よりはるかに上流だったけれど、水に触ると手が腐るといわれ、隅田川に飛び込めば間違いなく死ねる、といわれた。まるで毒の川みたいないわれようだった。

 実際昭和30年代の後半には隅田川から発生するメタンガスや硫化水素で、中学校の金属のドアノブが黒くさびたというし、著者が通っていた中学校では、隅田川に面した側の窓は、風向きによっては夏でも窓を閉めておくしかなく、教室はムシブロであったという。下手に窓を開けておくとたちまち気分が悪くなり、保健室が満員になったらしい。
 隅田川が汚れていく歴史をこの本で書かれている。

 明治時代に入ってからは、維新によって社会制度がかわったのだから、沿岸風景も変わらないわけにはいかない。富国強兵という政府の方針のもとに、隅田川の岸沿いには各種の工場が次々に建てられていった。いくつかの文学作品は昔の隅田川でなくなったという嘆きと不満のこもった文章が顔を見せはじめるようになる。工場ができれば水も汚れてくる。工場は大量の地下水を使い、川に排水する。船の往来も激しくなる。工場ができれば風景が変わるだけではなく必然的に水も汚れるのである。

 川本三郎さんの『東京抒情』には工場地帯となった隅田川沿いの下町は空襲でやられたことが書かれている。

 山の手の特色が坂にあるとすれば、下町の特色は川にある。隅田川を中心に、多数の堀割が作られ、川が道路の役割を果した。水の道を船が走った。「水の東京」である。水運の便がいいので下町は、山の手が住宅地として発展するのと対照的に、工場地帯として発展してゆく。そのため戦時中、米軍に狙われた。(残影をさがして)

 そんなどぶ川みたいな隅田川を著者は故郷のようなものだと書くが、その水の黒さや動きの鈍さが自分自身のようなものに思えたらしい。さらに思春期になる頃、隅田川に高いコンクリートの堤防が築かれた。まるで自分の心を隠すようにも思えたと書く。
 隅田川がどぶ川みたいになってしまったのも、人間の業の深さと関わりがある。この本にはいかに人間が自分勝手に自然を破壊してきたか、を書いた文章があり、興味深い。

 現代の人間にとって快感となるような自然とは、そこにたまたま遊びにいってぶらぶらと歩きながら呑気な気分になれるか、あるいは遠くから眺めて美しく見える場所のようだ。人間が近づけないほどの厳しい自然であれば、人間はどうにかしてそれを征服して侵入したりよじ登ろうとしたり、そのような意欲を出させる場所になるらしい。
 人間は、自然に勝ちたいと思い、勝ってこそ人間の誇りが満足するというような存在であるらしい。
 人間という生き物が存続するために、その自然を利用するのは当然である。しかしその利用の程度というもにたいして人間はひどく鈍感で、自分たちがどこまで楽で豊になればいいのかという限界がない。自分のものになりそうならどこまでもその利権を追いかけて、とめどなく豊かになろうとする。
 それですぐ使いつくしてしまって、あとがなくなったから、ほかの人は自然を利用するのを自粛すべきだという発想に飛び移る。自分が利用しているうちは夢中で、あとのことを考えているひまがない。暮らしていかなければならないのは自分だけでなく、無数にそのような人間がいるのだから、次々に残った部分が使いつくされていくのは、人間にとっては自然の姿なのである。
 自然というのは放っておくと荒れたままになりやすい。手入れする義務のない遠くで暮らす人間にとっては関係がないが、その近くで生活しなければならない人間や、その土地を所有している人間にとってはそれでは困るわけで、何とか利用したいと考える。遠くから遊びに行ったりその自然の景色を眺めていたい人間にとっては、自然のなかで暮らさなければならない人たちのことは関係ない。どちらにしても自分の都合である。自然にとっての都合などという発想を、人間はしたことがないのではないだろうか。

 人間が生き物として異常なのは、必要というものの観念が異常なのである。

 ところで、「型」という遊びを知っているだろうか。手元に2001年2月19日の朝日新聞の切り抜きがある。足立区千住大川町の千住公園で「あそびまつり」というのが開かれ、「型屋」の前に大勢の子供が詰め寄ったとある。記事には、

 昭和三十年代に少年たちを熱中させた遊び「型屋」が、平成の世によみがえった。型屋遊びの「三種の神器」は、素焼きの「型」と粘土色粉。型抜きした粘土に様々な色付け、「型屋のおじさん」に評価されながら、手先の器用さや色彩感覚を競う「芸術」だった。昭和四十年代に入るとおじさんが姿を現さなくなり、「型屋文化」も廃れたという。

 そしてこの本にはさらに詳しく書かれている。

 型という遊びをやったりした。業者が公園に来ていて、子供たち相手に商売をする。粘土の固まりと、様々な形を抜いた凹型の素焼き板と色粉を売っている。その遊びをわたしたちは型といっていた。
 小さいのは五センチ角くらい、大きいのになると二十センチ角くらいはあったのだろうか。大小様々あり、またそこにくり抜かれている絵や文様も単純なのから複雑なのまでいろいろだった。概して小さいのは単純で大きいのになるほど複雑で凝った絵柄になっていた。動物の形が多かったように思うが、昔話の主人公やまんがの主人公、武者絵のようなものから女の子向けにはお姫様の絵などもあったかと思う。
 子供はそれを小遣いに応じて買う。もちろん大きくて複雑なのは高い。色粉も単色で売っており、金粉銀粉は高い。
 よく練りこんだ粘土を型に入れて、よく押さえてなじませ、型から抜く。そこに色の粉で採(彩?)色する。粉の種類も量もたっぷり使うとなかなか素晴らしいレリーフができあがる。
 作品は業者のところへ持っていって見せる。業者はその出来を判定して、厚紙を切ったものに得点の数字をゴム印で押したものをくれる。その点数を集めると、適当な型と取り替えてくれる。できた作品はまたつぶして次の作品に使う。よくできた作品は業者預かっておいて見本としてみんなに見せていたような記憶もある。
 そういう遊びが昭和三十二、三年頃を中心に流行っていた。単純な遊びではあるが、自分の作品が評価されて点数に換算され、その点数をためればもっといい型が手に入る、というところが魅力だったのだろう。子供たちはずいぶん夢中になって、その小さな公園に通いつめた。

 わざわざこんなに長く引用したのが、子供頃公園で型(私たちは型屋と言わず型と言った)をやったことがある。まさにこの記述通りで、とにかく懐かしい。ここでは昭和32、3年頃流行ったというが、私は昭和31年生まれだから、これをやったとすれば昭和30年代後半から40年代初頭となる。まさに著者は「型屋文化」がなくなる寸前にこれに接したことになる。
 面白いもので、私より一回り以上年上の人たちが、子供の頃の遊びや光景を思い出話として書くのを読むと、私も同じ遊びをしていたし、同じ光景を目にしていた。つまりそうしたちょっと昔にあった遊びや風物詩は私が子供の頃辛うじて残っていたようである。だからこういうのって、とにかく懐かしいし、同じ遊びや光景を共有出来るのがうれしい。

増田 みず子 著 『わたしの東京物語』 丸善出版(1995/05発売) 丸善ブックス


by office_kmoto | 2017-05-29 06:23 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

岩阪 恵子 著 『掘るひと』

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 岩阪さんの本は始めて読んだ。9篇の短篇からなる。
 ここに描かれる主人公たちは中年の女性だ。主婦であったり、離婚経験者だ。彼女らにあるのは女性としても諦めとでも言えばいいのだろうか。それは例えば夫、子ども、母親、父親、あるいは兄弟姉妹に対しての諦めである。
 それぞれ彼女たちは容貌も住む環境も違うのだけれど、読んでいてみんな同じように見えてくる。

 彼らの年齢と屈託した顔つき、身のこなしから、そんなふうに想像してみることができる。俊三や夏子と同じ年ごろの夫婦の場合、見知らぬ相手なのに、どのカップルも似たり寄ったりに見えるのどうしてだろう。時間によって刻まれる容赦のないものが、その中味はおのおの異なっているとはいえ、一様に彼らをくすませ、くたびれさせているからかもしれない。夏子は自分自身を見るように、中年の夫婦連れの女のほうを眺めた。(ねこめし)

 彼女たちが似たような夫婦を眺めると、妻であろう女性のありようがなんとなく想像がついてしまう。なぜなら、

 当然ながら、歳月はおたがいを公平に老いさせていったのだ。(指輪)

 変わり映えのしない日常を繰り返していくうちに年月は流れ、自らも歳をとる。それにつれ、どうにもならないことに諦めることを身につけていく。たぶんそれがみんな同じで、こればかりはどうしようもないのだろう。
 ここのところ、“過ぎ去ってしまった時間”について敏感になっているところがある。別に女性でなくても男でも、妙な屈託として、過ぎ去ったしまった時間、月日、年月が惜しく思えてくるとこがある。今さらこんなことを思ってどうしようもない、落ち込むだけなのはよくわかっているが、本などを読んでいて年月、年齢の実感を語る文章を読むとついつい立ち止まってしまう。

岩阪 恵子 著 『掘るひと』 講談社(2006/01発売)


by office_kmoto | 2017-05-26 18:47 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

高二の時

 川本三郎さんの本を読んで、八重洲にあったポルノ映画館に初めて入ったのが、高校二年の時だと書いた。それがどうして東京駅だったのか、どうもその記憶がおかしいと思い始めた。
 高二の時ポルノ映画館に入ったことは間違いない。きっと歳を一歳さば読んで、入ったのだろう。いや聞かれたそうすることにしていたのだが、聞かれなかった記憶がある。高二の時の私たちの格好はおかしかった。リーゼントに角度のあるめがねを掛けていた友人、私同様肩まで髪を伸ばしていた友人、どう見てもまともな高校生には思えない格好であった。
 問題はその時私服であったはずだが、そうなると狭山湖湖畔でのマラソン大会が雨で中止になったから、東京駅で解散となり、その流れでポルノ映画館に入れるか、ということである。つまりこうした体育会系行事だと、きっとジャージ姿であったのではないか。少なくとも私服ということはないはずだ。となればいくら我々が高校生に見えないといっても、学生であることはバレバレになる。
 そうなるとマラソン大会が流会になったというのがおかしくなる。さらに狭山湖湖畔へ行くはずだったのに、雨で中止なって東京駅で解散というのも路線的におかしい。これはマラソン大会と他の行事とごっちゃになって作り変えられたしまった記憶ではないか、と思えてくる。

 ということであれこれ考えていたら、いろいろなことを思い出した。特に高校二年の時というのは、もっともおかしな、そして馬鹿げたことをしていた時であった。
 中学校はしつけにうるさい学校で、厳しかった。しょっちゅう殴られていた。学校の教師全員が暴力教師だったので、何かにつけうるさく言われ、殴られた。それが出来て間もない、煩わしい伝統などなく、ゆるい校則の新設高校に入ると、その自由さに弾けてしまう。それでもまだ入学したて頃は戸惑いもあって、それほどでもなかったが、さすが二年ともなれば、それが当たり前となり、増長する。やりたい放題だった。坊主頭が長髪になり、遅刻、早退、授業をふけて、校門を乗り越えて、喫茶店に入ったり、近くのボーリング場でボーリングをしたり、早弁、酒、タバコ、カンニング、などなど……。
 女の子をあれこれ品定めし、つまらん妄想を語り合い、中には避妊用具を持ち歩いている奴もいて、それを見ては大笑いしていた。
 たまたま私たちのいた教室から女子更衣室が見え、窓にカーテンは掛かっているのだが、なぜかその時カーテンは開きっぱなしだったので、上半身下着姿の女の子が曇りガラスから透けて見えた。そうなると男どもはいっせいに窓ぎわに集まり、騒ぎ立てる。何度かそんな眼福にあずかったことがあった。
 確かこれも高校二年の時だったと思うが友人と銀座で映画を見て、帰りが暗くなっていたので、友人がこれから日比谷公園へ行ってアベックを覗き見しに行こうというので、行ったことがある。
 少し奥に入るとベンチでアベックが奮闘中であり、我々はドキドキしてそれを後ろから、それも間近で見ていた。驚いたのは我々の後ろにも男どもいて、奮闘中のアベックを見ていたのにはぎょっとした。
 まあ、かわいいものといえばかわいいものかもしれないが、確かにあの時は面白かった。しょっちゅう問題を起こし担任を困らせた。その担任も大学を卒業してすぐ数学の教師になった人だから、我々は甘く見ていて、友達感覚で接していた。だから問題を起こした時出てくるのは、学年主任だったが、毎度のことなので、「またお前らか」といった感じで、呆れるだけであった。学校も時代もおおらかであった。
 でも高校を卒業後、学校推薦で入った大学を辞めてしまったとき、その担任に相談したし、確か自宅まで伺った記憶がある。学校推薦で入った大学を辞めてしまったのだから、その担任には後処理でかなり迷惑をかけたのではないか、と思う。
 学校の教師には思い入れなどまったくないが、今思えば、あの先生はいい先生であった。どうしておられるだろうか?
 本をよく読むようになったのも、高校二年の時だった。それこそ一日中本を読んでいた。授業中でさえ、教科書を立てて文庫本を隠し読んでいた。唯一まともに授業を聞いていたのは、現代国語と世界史の授業であった。その先生たちの授業は、その授業内容より、余談が面白く、いろいろ目を開かせてくれるものだった。
 先日都バスに乗っていたら、都立○○高校前とアナウンスがある。私がいた高校である。そうかここから裏門に入れるのか、と当時の高校の位置を確認し、懐かしかった。思わず降りて、行ってみたくなった。


by office_kmoto | 2017-05-24 06:07 | 余滴 | Trackback | Comments(0)

川本 三郎 著 『東京つれづれ草』 『東京おもひで草』 『東京抒情』

 古本を買って一番がっかりするのは、本に書き込みがあるのを発見したときである。得てしてこれはいい本を安い値段で買ったと思って、いい気分になった時にそういうことが起こる。大体値段が安いということは何か理由があるわけで、そうそう状態のいい本が安く買えるわけがないのである。
 それがわかっているのに同じことを繰り返し、家に帰って本の中身見て、がっかりする。書き込みが嫌な理由は、元の持ち主の考えがその書き込みでわかってしまうこと。そしてその書き込みの方が気になってしまうことである。
 図書館の本でも、ページが折られたり、破られたり、線を引いたり、書き込みをしたり、どうしてこんなことをするのかなあ、といつも思う。平気でこんなことが出来る神経がわからない。
 今回借りた川本さんの本には書き込みがあった。ただ今回の書き込みはこれまでのとはちょっと違う。
 まずこの本、恐ろしいぐらい誤植が多く、それだけでも珍しいのだが、今回の書き込みは親切?にもそれを直してくれているのである。
 さらに川本さんが店の紹介をしているところでは、その店の名前を知らせたくないからアルファベット一文字を店名にしているところを、わざわざ正式な店名を入れてくれているのである。
 言ってみれば“お節介”な書き込みなのである。読んでいるうちに書き込みをした人物の意図がわかって笑ってしまった。

d0331556_11161169.jpg さて、『東京つれづれ草』のことである。


 この荒川は、実は以前、荒川放水路と呼ばれていたことでもわかるように人工の川である。隅田川の洪水をなくすために作られた一種のバイパスである。大正時代に十年以上の歳月をかけて作られた。その人工の川が、それから五十年以上たっていまや自然の川そのものに見える。川べりには芦が茂っている。人工のものが時間がたつにつれて自然に変わっていく。これは都市の驚きのひとつである。(都市のなかの緑


 川本さんは以前、今の正式な呼び名である「荒川」はやはり「荒川放水路」の方がいいと書いていて、自分もそう習ったから、そっちの呼び名の方が親しみがある、と書いた。でも今は自然の川と言ってもおかしくないくらい、一種の風格を帯びている。やはり年月がそうさせたのだろう。
 その川に架かる葛西橋の話である。小針美男さんの画文集に昭和35年当時の葛西橋が老朽化のため波打っている模様が描かれている。これを見て驚いたのだが、まさかそれは木橋じゃないだろうと書いたが、どうやらこれは木橋だったらしい。


 東京オリンピックの前までは橋もまだ木造のものが残っていた。一九五五年(昭和三十年)につくられた久松静児監督「渡り鳥いつ帰る」には、荒川(当時は荒川放水路と呼んでいた)に架かる堀切橋と葛西橋の二つ長大橋が出てくるが、どちらもまだ木橋である。(オリンピック前の東京)


 これには驚いた。

 ところで、川本さんは、かつてあった昭和の風物や風景を古い日本映画から見出す。映画には俳優や女優たちが演じるストーリーだけでなく、背景としてその当時のものが映し出される。ここから今はなくなってしまったあの時代の見ることが出来るのだ。映画はその当時を映し出しているから、風景もその当時のものが現れる。そこから川本さんは忘れていて、あるいは忘れられた昭和を書いてゆく。それも古い映画を楽しむひとつの方法なんだ、と思った。
 そんな映画であるが、かつて東京の町のあちこちにあった映画館が急速になくなっていくのは70年代に入ってからで、残った映画館も経営が悪化して、フィルム代の安いピンク映画を上映するようになっていく。それを支えたのがその頃急激に増えた受験生と東京オリンピックのための出稼ぎ労働者であった。


 そんなわけで、七〇年代に“映画鑑賞旅行”の仕事をしたときは、場末のピンク映画館ばかり歩くことになった。東京駅の八重洲口にあったヤエススター座、ヤエスシネマ、ヤエス松竹(東京の玄関口にピンク映画館が三館もあったのだからすごい!)。(場末の映画館が隠れ家だったころ)


 たぶん八重洲のこの三つのピンク映画館の一つに入ったことがある。高校のときであった。狭山湖湖畔でマラソン大会があった。確か二年の時だったと思うが、その日が雨で、急遽中止となり、東京駅で解散となった。
 その時悪友たちと八重洲口を歩き回り、日活ロマンポルノを上映していた映画館につるんで入ったのだ。
 ところが場内は平日だというのに、結構席が埋まっていて、我々が座れた席は一番前の席で、見上げるように三本立てのポルノを見ていた。何が悲しいって、ポルノを見上げるように見なければならなかったことで、ポルノ映画を見るのは後にも先にもこの時だけだった。
 八重洲にピンク映画館があったというこの記述で、この時のことを思い出した。


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『東京おもひで草』では川本さんの「東京論」が盛んになった理由が面白い。


 東京論は、いわば知の世界の狭い垣根を取り払ってしまったのである。「東京」という新しいキーワードが見つかったことで、それまで無縁に思われていた建築家と文学者が同じ世界の住人になった。歴史家と町歩きの好きなエッセイストが同じ世界の住人になった。(東京本のあれこれ)


 そう、こと東京に関してはさまざまな分野の人が東京を語る。まさに「東京」という共通のキーワードを得たことで、東京を語れるようになった。
 いろんな分野の人が「東京」を語れるということは、東京がそれだけ奥行きが広いという明かしではないか。
 ではなぜ東京をさまざまな分野の人が語れるほど奥行きが深いのか。それはやはり“変化”ではないかと思う。それも大がかりに、そして急激に、そして日々変化をし続けることを求められている町だからではないか、と思う。


 関東大震災と東京大空襲という二度の大きな災禍を経験している。多数の死者を出したし、生活や風景がこれによって大きく変わってしまった。世界の大都市のなかで近代に入って二度も大きな惨劇を経験した都市はほかにはないだろう。(ノスタルジー都市 東京)


 関東大震災は大がかりに江戸を消失させた。東京大空襲も東京を焼け野原にした。そこからの復興はそれまでにない街と変化させていく。さらに加えれば東京オリンピックによる大改造がさらに加わり、ここ最近では地上げのよる町の消失、都市再開発が日々行われている街である。
 そうした町だからこそ、


 東京は変化の激しい町だ。昨日まであった建物が今日はもうない。変化がめまぐるしい。だからノスタルジーが普通以上に意味を持ってくる。
 変化があまりに急激なので、若い人でも昔話ができてしまう。二〇代や三〇代の東京人がまるで古老のように“昔の東京は・・・・・”と語ることができる。奈良や京都ではおそらくこんなことはないだろう。変化の激しい東京だけの特色である。みんなが昔話ができる。(東京本のあれこれ)


 数百年も前の歴史的建造物に対しては畏怖の念は抱いても、「懐かしい」という内密的な思いは起こらない。日常の生活感覚からかけ離れ過ぎている。「懐かしい」というノスタルジーは、数百年も前の大過去に対しての感情ではなく、せいぜい祖父母の時代、ついこのあいだの近過去に対しての独特の感情である。“ああ、そういえばお祖父ちゃんの家はこんな瓦屋根の家だったなあ”“お祖母ちゃんはよく障子の張り替えをやっていたなあ”とつい昨日のことを思い出すときにひとは「懐かしい」と思う。(ノスタルジー都市 東京)


 なるほど、たえず街が変化していると、そう年を取っていない若い世代でも自分たちの子供の頃が「懐かしい」と思えるのだ。映画や本や、あるいは写真でも少し前に「描かれた風景」など見て、読んで懐かしめる。それだけちょっと前あったものが、すぐなくなってしまうのが東京という町なのだろう。これは奈良や京都などの歴史的建造物だとそうはいかない。このように多くの世代が懐かしさを語れるから、東京論はさらに盛んになっていく。
 そんな東京の町の特色のひとつとして、川本さんは東京は歩ける町と書く。歩けるから町が繁栄した、と書く。


 東京は実は「歩ける町」である。
 東京の魅力はここにある。これが東京の活力を生み出している。日本はいま地方に行けば行くほど車社会化している。車がないと生活できない。逆に東京では車がなくても暮らしていける。
 地方都市では車ばかり走り、通りを歩いている人が少ない。店に入る人はいるのだが町にはない。店舗でも増えるのは自動車道路沿いのロードサイド・ショップや大きな駐車場を備えた郊外型ショッピング・センター(SC)。昔ながらの駅前商店街は、車社会から取り残されさびれていくいっぽう。パチンコ屋や本屋に行くのまで車を利用するから、国道沿いの田んぼのなかにSF映画の宇宙船のようなキンピカのパチンコ屋が並ぶ不思議な光景が現れる。一軒一軒の店は栄えても町は衰退する。
 東京はこれと反対だ。いたるところに歩ける町がある。その意味では時代に逆行している。車社会化していない。(新宿さまがわり)


 町を作るのは、歩く人である、といったのは以上の歴史を踏まえている。
 一般に、町は家と逆比例の関係にある。家が立派だと町は栄えない。家が狭いと町は栄える。浅草という町が栄えたのは、町家はどこも個人の家が狭く、町の公共空間を使わざるを得なかったからである。下町に銭湯が多いことを考えればわかる。
 今日、東京が世界に類のない大都市として発展しているのは、実は個人の家がウサギ小屋だからである。家に客間などないから町の喫茶店を使う。町のレストランで客をもてなす。さらに家は都心から遠く離れたところにあるからサラリーマンは新宿や池袋で途中下車して一杯やる。東京の住宅事情の悪さが、皮肉なことに東京の町を活気づかせている。町と家は逆比例の関係にあるとはこのことをいう。(新宿さまがわり)



 家と町の関係が逆比例である限り、また東京の住宅事情が変わらない限り、東京の町はこれからも繰り返し変貌をとげながら発展していくことは間違いない。この巨大都市の面白さはその変貌のプロセスそのものにある。(新宿さまがわり)


 東京も車が多い。しかし一方で東京は公共交通機関が発達している。都内どこへ行くにも“足”がある。それが特徴とも言える。
 家の大きさと町の繁栄が反比例するというのは面白い。確かにそうかもしれない。特に住宅事情が悪い下町の商店街が繁栄するのは、ここに書かれるように家が小さく狭いから、家の一部として町を利用される。さらに主婦も働いていたから、家事、特に夕食を作る時間がないとなれば、商店街のお総菜屋さんが流行るのも納得出来る。そうして町は栄えてきた。
 しかし最近はこの“川本理論”も通用しなくなっている。
 たとえば実際我が家の近くにあった商店街も、昔あったお店がなくなり、肉屋や八百屋などない。本屋でさえ、駅前まで行かないとならない。だからといって、個々の家屋が立派になったからかというと、そうではない。相変わらず狭い土地に目いっぱい家屋を建てている。ウサギ小屋に毛が生えた程度しか変わっていない。なのに商店街が廃れている。結局チェーン展開しているスーパーや大型スーパーがちょっと先に出来るとみんなそこへ行く。そこは小洒落ていて、すべてここでこと足りるし、効率がいいからだ。ライフスタイルの変化からそうなっている気がする。


d0331556_11195609.jpg 『東京抒情』の表紙絵は昔の銀座だろうか。懐かしいのはデパートに上にアドバルーンが上がっていることである。


 昭和の銀座の空にはよくアドバルーンが浮かんでいて銀座の風物詩になっていた。(ノスタルジー都市 東京)


 しかし、そのころから高い建物が増え、それにさえぎられて確認するのが難しくなり、やがて、広告媒体としての役割を終えていったという。(ノスタルジー都市 東京)


 さて。
 これまでわりと昔に書かれた川本さんの本を読んできた。今回は最近のエッセイである。だからこれまでの川本さんの考え方を補完するような文章が多かった。
 たとえば、東京の町は変化が激しいから若い人でもノスタルジーにかられることが多い。それは奈良や京都ででは起こりえないだろうと書かれていた。それを端的にまとめた文章がある。


 そうしたつねに変貌している都市では、ついこのあいだまであったもの、失われたものに対する愛着、ノスタルジーの感情は強まる。京都のような古都とはそこが違う。長い歴史に対する意識より、小さな暮しへのノスタルジーが大事になる。「歴史」より「記憶」である。(ノスタルジー都市 東京)


 さらにそのノスタルジーには“痛み”もあることを書き忘れていない。


 ノスタルジーとは、実際にあった過去を懐かしむだけでなく、あるべき過去の姿を愛しむことでもある。当然、そこには大事なものを失った痛みがある。ノスタルジーとは、言わば、愛しさと痛みの感情だと言えよう。(あとがき)


 町のあり方についても、家事情だけでは説明出来なくなっているので、次のように書く。


 東京は大都市といえ、よく見れば小さな町の集まりで作られている。
 とくに東京は世界にも類がない鉄道網が整備されている都市で、その鉄道の駅ごとに小さな町があり、それがいくつも数珠つながりになって東京を作り出している。(変わる東京、あの町でもまた)


 鉄道の駅があり、駅を中心に個人商店の多い商店街がある。東京の町はいわば基本の形であり、車社会が進行してしまった地方都市にない東京の特色である。こういう町が大都市、東京を底辺で支えている。(変わる東京、あの町でもまた)


 東京は西へと発展している。それは、


 大正十二年の関東大震災によって市中が大きな被害を受けたことで。被害の少なかった西への人口の移動が始まった。
 その結果、昭和のはじめには、現在の世田谷区、杉並区、目黒区などが誕生した。
 戦後、さらに東京は西へ発展してゆく。
 一九九一年に、東京都庁の庁舎が、丸の内から西の新宿へ移転したことが、東京の町の西へ拡大をよくあらわしている。(ノスタルジー都市 東京)



 それは文士と呼ばれる人たちも同じであった。だから、中央沿線は古本屋が多いのもその文士が関係しているという。


 現在、中央沿線は古本屋が多いので知られる。高円寺の都丸書店、大石書店、阿佐ヶ谷の千章堂書店、荻窪の竹中書店、吉祥寺の外口書店、三鷹の山岡書店と、いい古本店がたくさんある。同じ杉並区内を走る井の頭線の沿線に見るべき古本屋がほとんどないのと対照的である。古本屋が多いのは、いうまでもなくここが文士村だったからである。(東京は西へ移動する『東京おもひで草』に収録)


 とにかく、川本さんの本は懐かしい東京の顔、その歴史をよく調べておられる。だから読む方も、懐かしさとともに、ほお、そうだったのか、と初めて知らされることが多く、驚きつつ読んだ。こういう本は楽しい。


川本 三郎 著 『東京つれづれ草』 三省堂(1995/12発売)


川本 三郎 著 『東京おもひで草』 三省堂(1997/09発売)


川本 三郎 著 『東京抒情』 春秋社(2015/12発売)

by office_kmoto | 2017-05-22 11:28 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

桜木 紫乃 著 『ホテルローヤル』

d0331556_06193166.jpg 話はホテルローヤルをめぐる、現在から過去に遡って進む連作短編である。
 まずは現在営業をやめ廃墟となったホテルでの話、「シャッターチャンス」から始まる。そしてホテルローヤルの社長が亡くなった話「本日開店」があり、そのホテルを引き継いだ娘が営業を止めるときの話が「えっち屋」である。そしてホテルローヤルが営業開始とそのホテルの名前の由来が語られる、「ギフト」となる。その間ホテルローヤルを利用する客の話として、「バブルバス」と、ホテルの従業員の話「星を見ていた」が間に加わる。
 「せんせぇ」だけがホテルは出てこない。ただ何となく教師と教え子がこのホテルを使うんじゃないかという予感はさせる。
 さて「シャッターチャンス」である。
  貴史は地元パルプ会社のアイスホッケーの選手であったが、怪我をして引退。そして次の会社も上司とそりが合わず辞めてしまう。
 そんな貴史の要望で、加賀屋美幸は、廃墟となったホテルローヤルでヌード写真を撮られる。美幸が貴史に惹かれた理由は、


 貴史との会話に挟み込まれる挫折、負け犬、希望、夢という単語は美幸が思い描いていた未来-普通の一生を送ることができれば御の字という-の細い芯を揺さぶった。ドラマチックなひととときを持つ男のそばにいるだけで、自分も彼のドラマの一部になれる気がした。


 からであった。
 美幸がどんなポーズとっていいかわからない。貴史はバッグから投稿雑誌を取り出す。


 「俺ってガキのころからずっとスケート以外の趣味ってなかったからさ。この雑誌を見たとき、ものすげぇ衝撃を受けちゃって。なんかこう、血がたぎるっていうのかな、ようするに久々の感動だったわけ」

 「やっと見つけた目標なんだ。ここからまたスタートなんだ。もう挫折したくないんだ。あの雑誌、プロも注目していて才能があるやつはすぐに声がかかると聞いた。俺、もう1回夢をみたいんだ。撮らせてくれよ、頼むよ」

 また「挫折」という決め台詞を使う。美幸は“この男はまだ、言っているほど過去に傷を負っていないのではないか”と思う。
 だいたい投稿雑誌に恋人のヌード写真を載せる人間に才能云々を言う方が甘いから、美幸も思うことは真っ当であった。

 「本日開店」の設楽幹子は歓楽寺の大黒であった。寺は夫の父親であった初代住職が亡くなり、檀家の高齢化も進み、寺の経営が難しくなっていった。そんな中、檀家の総代から寄付の名目で老人たちの相手を務めることなる。幹子は結婚する前は介護助手だったからその行為は介護と変わらぬ行為に思えた。檀家からはお布施として三万円を受けとる。それを本尊の足元に置く。
 檀家の総代も代が替わり、総代の代表となった佐野敏夫は「まいったなぁ」と言いながら先代が始めた幹子と(寄付)行為を引き継ぐ。佐野は幹子をラブホテルではなく、ビジネスホテルに誘う。幹子はビジネスホテルを選んだ佐野を好ましく思う一方、いつもと同じ肌色の下着を着けてきたことが気になり始める。
 その日、佐野との行為は今までの老人たちの要求通りにやってきた“奉仕”とは違う快楽だ。「普通の女のように」抱かれた。これは大黒の仕事ではない、と隣で眠る夫の鼾聞きながら思うのであった。
 佐野はお布施を接待費として計上するので、相手が変わることがあると言い、幹子は毎月違う快楽が訪れる期待、不安が胸によぎる。
 檀家の青山文治の割り当ての日、幹子はホテルローヤルの社長、田中大吉が亡くなり、今際の際に「本日開店」と言って息が切れたと聞く。その田中の遺骨を元女房が受けとらないので、青山が預かった。それを幹子の寺で供養してくれと頼まれる。
 一ヵ月が経ち、また佐野の順番がやってくる。今回もビジネスホテルであった。幹子は格安衣料店でかった黒いブラジャーとショーツを着けていた。
 佐野から受けとった「お布施」の封筒はご本尊のかかとにおかれたままだった。他の檀家からの封筒は翌日消えているのだが、佐野からのものだけはひと月経っても残っていた。夫は佐野が幹子にもたらした快楽に気づいていたのだった。でもこれからもこうして生きていくしかない幹子も「本日開店」であった。
 「えっち屋」ではホテルローヤルを引き継いだ雅代の話である。
 雅代の父、田中大吉はそれまでの家族と仕事を捨てて、身籠もった愛人と始めた商売がホテルローヤルというラブホテルだった。
 父と母は雅代が物心がつくころには用がある以外は話さなくなっており、雅代が高校卒業の翌日、母は家を出て行った。元愛人が愛人を作って家を出て行ったのであった。そして雅代がホテルの管理を任される。
 ところがホテルで心中事件が起こり、客足がばったり途絶える。結局廃業するしかなくなり、ホテルで扱っていたアダルトグッズやAVビデオをエッチ屋と呼ばれる宮川に引き取ってもらう。
 今日はホテルの最終日。雅代は宮川を誘い、残ったアダルトグッズで遊ぼうと言う。それも心中事件があった部屋で。

「やり方を忘れちゃうくらい久しぶりなんだ。悪いけど」と雅代は言う。雅代はTシャツを脱ぎ、ブラジャーを外し、ジーンズも脱ぐ。へそまで隠れる肌色のショーツは残した。
 雅代はどれから使うかと訊ねられ、宮川は一番売れ筋のアダルトグッズである「ご褒美」を手に取った。雅代に宮川のからだが覆ったが、宮川は動きを止めた。


 「奥さんのこと、考えたでしょう」


 宮川は妻が初めての女だったことを告げる。


 「それって、理由になるのかぁ」
 雅代は体を曲げて笑った。彼の妻がとんでもなく幸せな女に思えて、息が苦しくなる。どんどん乾いてゆく。どんどん軽くなる。そして最後は何も残らない。残さない。
 「わたしも宮川さんのこと好きになりそう」
 「ありがとうございます。ご期待に添えず、申し訳ありませんでした」
 「安心して。期待どおりでした」
 だいじょうぶ、ちゃんと出ていける。すっきりと乾ききった胸奥に、心地よい風が吹き始めた。そよそよと明日に向かって吹く、九月の風だ。


 大切に思えるものは、明日の自分でしかなくなった。

 「バブルバス」では父親の法事に頼んでいた住職は現れなかった。寺に電話してみると手違いがあったことがわかる。恵は用意してあった五千円が入ったのし袋をバッグにしまう。車に乗ってしばらくすると「ホテルローヤル」と書かれた看板が見えた。


 「お父さん、ちょっと待って」

 「あそこ、入ろう」

 「冗談はやめてくれよ」



 恵たちの住む貸しアパートは子供たちと舅で占領され、夫の真一と恵の部屋はなかった。のし袋に入っている五千円は5日分の食費になる。息子と娘に新しい服を買ってやることもできる。舅に内緒で家族でセットメニューを頼める。1か月分の電気代にもなる。それでも引き下がれない。


 「いっぺん、思いきり声を出せるところでやりたいの」


 ホテルのバブルバスに入るのは沖縄に新婚旅行以来だった。泡の中に体を沈めていると、お金がなくても幸せだと錯覚できたあのころの自分がひどく哀れに思え、泣いてしまう。

 欲望の綱引きは、喉が渇き声もかすれたころに、唐突に終わった。


 「なんだ、俺寝ちゃったのか」
 「うん、すごく気持ち良さそうに寝てた」
 「こんなところで真っ昼間から熟睡するなんて、金がもったいないなあ」
 「熟睡してたんだ」
 「今どこにいるのか何時間眠っていたのか、さっぱりわからないよ」
 「お前、もう風呂に入ったのか」
 「うん。泡はなくなっちゃたけど。汗、流しておいでよ」


 明るい場所で夫の裸を見るのも悪くなかった。ふたりとも等しく年を重ねていることがわかる。それはそれで、幸福なことに違いなかった。


 舅が亡くなって真一と恵の寝室になった。年が暮れようとする日、恵は真一に、
スーパーでパートしようと思うと伝える。月に五万円くらいになりそうだ。

 「五千円でも自由になったら、わたしまたお父さんをホテルに誘う」
 あの泡のような二時間が、ここ数年でいちばんの思い出になっていた。
 真一は忘年会の疲れもあって寝息をたてていた。恵はそっと、夫の冷たい手を握った。


 「星を見ていた」ではホテルローヤルで掃除婦として働くミコの話だ。ミコは中学を卒業してからずっと朝から晩まで働きづめだった。三十五歳のミコを、女にしたのは正太郎だった。その正太郎も四十までは船に乗っていたが、漁船員同士の喧嘩が元で右脚の腱を痛めて船を下り、以来ここ十年どこにも働きに出ていない。二人の間には三人の子どもがいたがみんな家を出た。音沙汰があるのは左官職人に弟子入りした次男だけだった。


 「三日に一回だよ、ミコちゃん。何をやっているのか知らないけど、金がなきゃ毎回ホテルでなんかできないよ。三日に一回、真っ昼間に赤まむし飲んでシーツ汚して。誰だか知らないけど、羨ましい生活だ。わたしもたまには掃除をしなくていい部屋で思いっ切りセックスしたいもんだ」と同僚の和歌子が言う。

 「三日に一回って、多いのかい」
 「大いに決まってるじゃん。この汚しかた見なよ、立派な変態だよ」
  細い目を一杯に開いて言う和歌子に、そうかそうかと笑って応えた。そんな会話のあと、ミコは毎日毎晩下着の中のものを大きくして妻の帰りを待っている正太郎の姿を思いだし、腋から冷たい汗を流したのだった。



 ある日、ホテルに次男から手紙が届き、中に三万円が入っていた。手紙には少ないけど自由に使ってくれと書かれていた。
 ミコは母の教えをひたすら守って生きてきた。子供たちと疎遠になっても、母が「人と人はいっときこじれても、いつか必ず解れてゆくもんだ」と教わったから、子供たちの仲を心配していなかった。
 「いいかミコ、おとうが股をまさぐったら、なにも言わず脚開け。それさえあればなんぼでもうまくいくのが夫婦ってもんだから」という教えを守ってきたから正太郎と仲良く暮らせるのだと思っていた。
 ところがミコの次男坊は実は暴力団員で死体遺棄事件で逮捕のニュースがテレビで流れた。それでも和歌子も女主人のるり子も優しかった。


 「朝はちょとびっくりしたけど、ミコちゃんにはなんの罪のないことだから。今日はごめんね。明日はまた笑いながら仕事をしようね」

 「うちはこういうことで辞めてくれって言うような職場じゃないし。安心していいよ。明日もちゃんときてよね」

 帰り道、いつもと違う山道を歩いた。どこかでゆっくりと休みたい。はじめて一人になりたいと思った。寒さで手が痺れ、うとうとし始めたとき、正太郎の声が聞こえた。


 「ミコ、あんなところでお前、なにしていた」

 「星をみてた-」
 正太郎は「そうか」と言って痛めた右脚をかばいながらミコを背負い坂を下っていく。ミコもひと揺れごとに眠りに吸いこまれてゆく。なだらかな下り坂を転ばぬように歩む正太郎も、昨日より少し優しくなっている。

「ギフト」はホテルローヤルの創業時の話である。田中大吉は愛人のるり子を連れて、ホテルが建つ場所で言う。


 「るり子、すげぇだろうこの景色。ここにラブホテルなんか建てちゃったら、みんな列を作って遊びにくると思わねぇか。俺よぉ、いつかでっかい会社の社長になって、お前に楽させてやりたいって思ってんの。どうだ、俺が一発で惚れた景色、見てくれよ」


 しかし大吉は妻に逃げられる。義父からも足蹴りにされた。でもるり子は子どもが出来たというのに、女房と別れとも言わない。大吉はるり子の欲のなさに泣けてきた。


 「お前、なにか欲しいもんはないか」
 「なぁんも。とうちゃんは?」
 「俺は、なにもかも欲しいさ。商売も、お前も、金も、みんなみんな欲しい。欲しいもんだらけで頭がいっぱいだ」
 「あたしは、そういうとうちゃんがいればいい」



 大吉はつわりで苦しんでいるるり子のためにみかんを買おうと青果店に駆け込む。しかし時期的にみかんは町の青果店にはない。デパートにはあると聞く。三つのみかんが箱に入って六千円とある。大吉は値段に息を飲むが、それを買う。「安産祈願」というのしを付けてもらう。みかんにはシールが貼ってある。そこには「ローヤル」とあった。

 「よし、これでいくか」

 「るり子、お前ラブホテルの女将にならないか」

 「ちゃんと籍を入れて、俺の女房になるってことだ。腹の子が本当に女の子だったら、そりゃあ箱入りで大事に育ててやらなきゃならんだろう」
 「籍入れるって、あたしおとうちゃんと結婚できるの?」


 るり子は大粒の涙を流す。

 「なんだよ、おまえ。結婚したいならしたいって言えばよかったんだ、最初から」
 大吉は次から次へと流れる涙に向かって、包装紙の文字を指さした。
 「ホテルローヤル。どうだ。なんか格調高いだろう。エンペラーよりシャトーより、ずっと格好好いいと思わないか」



 いずれの話も普段普通の生活をしている女たちが「ホテルローヤル」でめぐる日常を描くが、時にそんな女たちが、ふと「非日常」を求める時の話である。それが普段の生活の中で急に思うことなので、日常を引きずることもある。たとえば下着の色などで。
 でもいずれの女たちもささやかな幸せを求め、そこに「ホテルローヤル」があった。


桜木 紫乃 著 『ホテルローヤル』 集英社(2013/01発売)

by office_kmoto | 2017-05-18 06:26 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

平成29年5月日録(上旬)

5月1日 月曜日

 晴れ。

 図書館で2冊本を借りてくる。


5月2日 火曜日

 晴れ。

 小玉武さんの『開高健―生きた、書いた、ぶつかった!』を読み終える。


5月3日 水曜日

 晴れ。

 孫たちが来る。今日は我ら夫婦、義理の妹、そして娘夫婦で、孫の誕生日パーティーを行う。一歳の時からずっとこのメンバーでやって来た。プレゼントをもらうとき、ケーキのろうそくを吹き消すとき、孫は本当にうれしそうな顔をする。この顔見たさに毎年誕生日パーティーをやっている。
 今年で六歳。来年は小学校1年生になる。本当に早いものだ。


5月4日 木曜日

 晴れ。

 娘夫婦と孫を連れて私の実家に行く。孫はここいるトイプードルが好きで、いつも一緒に遊んでいる。
 夕方、娘夫婦と孫は帰っていく。
 そうそう、今年も例年通り、孫と一緒に朝顔の種を植える。今年は妻と義理の妹も手伝ってくれた。


5月5日 金曜日

 晴れ。

 角井亮一さんの『アマゾンと物流大戦争』を読み終える。


5月6日 土曜日

 晴れ。

 郵便受けに夕刊が入っていて、おもわず「あれ?今日は夕刊があるんだ」と思った。ゴールデンウィークで休みが続いているので、今日も休みと思っていたのだ。よくよく考えてみれば、今日は単なる土曜日なのだ、と夕刊を手にして知る。
 今年のゴールデンウィークは天候に恵まれ、晴れの日が続いた。何でも今日までの日照時間は記録なんだそうだ。
 気候がちょうどいい。暑くもなく、寒くもなく、窓を開けると心地よい風が入ってくるので、ついついうとうとしてしまう。今朝はよく寝たと思っていたのだが、まだ寝足りないらしい。

d0331556_06281857.jpg 東海林さだおさんの『ガン入院オロオロ日記』 (文藝春秋2017/03発売)を読む。
 あのショージ君ががんになったんだ、と思った。これは読まなければなるまいと思い手にした。
 東海林さだおさんのエッセイを読むのは本当に久しぶりである。
 ショージ君の病名は「肝細胞ガン」だそうだ。ガンとわかって手術と40日間の病院生活を例の調子で書いている。


 都内のT病院を紹介してもらって検査をすすめていくと、担当医が、
 「がんですね」
 と、特に声をひそめたりすることなく、ふつうの声で言う。
 どうやら今はそういう時代になってきているらしい。
 そう言われてぼくは何と答えればいいのだろう。
 「それは困ります」
 と、咄嗟に声が出かかった。
 だが、この問題は「困る」「困らない」の問題ではないのだ。
 相手は、
 「そうですか」
 以外の言葉期待しているわけではない。



 まさしく今は簡単にがんという病名を医者は口にするようだ。

 「よくないッ」

 「チクショー」

 「~ではないか」


 といったショージ君節は健在で、久しぶりに読むもんだから、懐かしくもあった。
 「初詣はおねだりである」は面白かった。


 このように神社関係では「効く」ということを「御利益」という言葉に翻訳していて、それぞれの神社の御利益が一つだけ、というのはまずない。
 大抵の神社は御利益の間口を広げている。
 先述の銭洗弁天は金運関係だが、序でかどうかわからないが「学業成就」「開運」も受けつけている。
 これだって考えようによっては、金運によってお金が入ってくれば、私立大学の高額な入学料も授業料もたやすく払えることになるし、これを「開運」と称しても文句をつける人はいまい。
 このように殆どの神社が「序でもの」に手を出しているのに、単品もの一筋という神社もある。



 まあ世の中こんなものだろう、というところではないか。
 「そうだ、蕎麦を食いに行こう」の「そうだ」は例の「そうだ、京都、行こう」のパクリである。でもこの「そうだ」というのは、


 前後の思考に関係なく、突然思いつき、しかもそれが素晴らしい発想だった場合思わずヒザを大きく打つ。
 いいな、この感じ。
 出し抜け、というところがいい。
 前後の見境いがないところがいい。
 何しろ出し抜けで見境いがないのだから、思いつくものは何だっていい。



 ということで「そうだ、蕎麦を食いに行こう」となる。でもこのキャッチコピー、私も好きである。まさにショージ君が言う通りだ。
 それで本格的な蕎麦を食べに行くのだが、味覚に自信がない。


 ぼくは蕎麦にはわりとうるさいほうだが、と書きたいところなのだが、本当のことを言うと、蕎麦は蕎麦でも立ち食い蕎麦のほうにうるさい。


 まったくね。わかるだけに、笑ってしまう。


5月8日 月曜日

 晴れ。

 今日も整形に行く。首の痛みはまだある。どうやら首を牽引するリハビリをした方がいいらしい。痛み止めなど2週間分出してもらう。なんだかからだがガタガタになってきたような気がしてならない。

 さつきの白い花が2輪咲いていた。

コーフェンノン/フレディエ の『貞操帯の文化史』を読み終える。


5月9日 火曜日

 曇り。

 ゆいの森あらかわにある吉村昭記念文学館へ行く。楽しみにしていた都電の荒川線に乗る。帰りは神保町へより、古本を買う。

 川本三郎さんの『私の東京町歩き』を読む。


5月11日 木曜日

 晴れ。

 川本三郎さんの『東京万華鏡』を読む。


5月13日 土曜日

 雨。

 今日は一日中雨であった。だいたい雨の日は外に出ない。だから今日は本を読んで、その本のことをパソコンに書き込む。
 昨日の天気予報で、今日は一日雨だと聞いていたから、昨日花が咲いたアマリリスを一階の出窓に置いた。一年に一回しか花が咲かないのに、その花が雨でダメになるのはもったいないからだ。


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 今年はよく庭に草木が花がきれいに咲くと翌日雨、というのが多い。ウメの時もそうだったし、つつじの時もそうだった。昨年はさつきがきれいに咲き誇ったなあ、と思っていた翌日に雨に降られた。花は開花したすぐならなんとか雨に持ちこたえるけれど、やはり雨に打たれた分弱るのも早いような気がする。

 川本三郎さんの『青いお皿の特別料理』を読み終える。

by office_kmoto | 2017-05-16 06:39 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

小針 美男 著 『東京文学画帖』 『東京つれづれ画帖』

 小針さんの画文集は『東京文学画帖』だけ持っていた。もともと読んできた川本三郎さんの本の中で紹介されていて、これらの本とは別に、川本さんのまえがきを書かれ、小針さんの絵と文章が載っている本もある。ただこの本の絵はどうも『東京文学画帖』、『東京つれづれ画帖』に載っている絵がほとんどのようなので、こちら2冊を読んでみた。
 楽しい本である。
 昭和30年代から40年の主に下町のスケッチがここに描かれる。ペンの黒い線で描かれる風景は、モノトーンだけに、それだけで古めかしく、時代を感じさせる。我々は昔の東京各所を知らないから、まず小針さんの絵を見て、昔はこんな感じだったんだ、とちょっとした驚きを持って絵を眺めていた。
 町中の絵は通りすがりの人物も描かれる。面白いのは周りの風景や建物などは繊細に描かれるのだが、人物たちはわりと単調に描かれているように思えた。
 そんな下町文学散歩となると永井荷風の作品があちこちで引用される。東京の下町の昔を語るには荷風が欠かせない。


d0331556_06215942.jpg 荷風の文学は麻薬だと評する人がいるが、まさに、ある種の人達にとっては麻薬に等しい魅力を持つといえよう。(「今戸橋暮景」『東京文学画帖』に収録)


 その昔日の東京ではどんな風だったのか、この2冊の本はいろいろと教えてくれる。いくつか書き出してみたい。
 まずは玉の井から。


 同級生のWが銭湯の浴槽の湯が目に入ったのが原因で風眼になり、失明しそうになる事件があった。玉の井界隈の銭湯は遊郭の女や淋病患者も入るので大変不衛生だった。淋病というのは小便をする震動でも激痛があるそうだが、風呂の中で放尿すると痛みもなく甚だ気持ちがいいので、湯につかりながら放尿する患者も中にはいたらしい。その頃の年寄りは、そんな汚い浴槽の中で入れ歯を外して洗い、うがいまでしていたが、よく病気にならないもんだと感心した。その頃、私の家は不潔で不衛生だというので内湯にした。その上、玉の井の商店街には金玉屋と万古屋という下駄屋と瀬戸物屋が隣り合わせに並んでいて、一寸はなれた所にチンチンという名のカフェがあった。玉の井とは、そんな町だった。(「玉の井駅」『東京文学画帖』に収録)


 大体玉の井という地名は俗称であって正式なものではない。まだ東向島が寺町といった頃のずっと昔、寺島の代官が溺愛した妾の名前が玉の井といったことから、その名が残ったものだというから、もともと、艶っぽいことに緑のある土地なのである。その上、一寸地面を掘ると水ががぽがぽ出てくる低湿地帯で非情に水っぽい土地なのである。(「玉の井遊郭」『東京文学画帖』に収録)


 玉の井は今は東向島となっている。昔我が家の風呂をシステムバスにするとき、タカラのショウルームへ行ったことがある。(今は近くにショールームが出来た)場所は東向島だった。駅を降りて、ここが昔の玉の井だと始めて知った。先日も、孫の運動会でこの駅を降りたが、町を散歩する余裕はなかったので、いずれこの辺りをゆっくり歩いてみたいと思っている。
 今になればここに何があるというわけじゃないだろうけど、ただここが昔荷風が通っていた玉の井だったというそれだけでここに行ってみたいと思うのである。


d0331556_06240689.jpg 少年時代から見慣れた荒川放水路の風景というと、自分の生まれ育った四ッ木橋とか堀切橋辺の風景がすぐ浮かんでくるのだが、その放水路も、この葛西橋までくると、東京湾に河口が近いせいか、にわかに川幅が広がり、茫茫としたのどかな大河の風格に変わってしまう。何となく雰囲気にも空気に汐の香りが混っているような気がして、海が近いということを感じさせる。
 葛西橋を見ていると、いささか老朽化しているためか、大分橋桁の起伏が激しく、横の方から見るとまるで大蛇がのたうっているような感じに見える。(「旧葛西橋」『東京つれづれ画帖』に収録)



 この文章に添えられている絵は昭和35年となっていて、まさか木橋じゃないと思うが、確かに波打っている。大丈夫なのかという気さえしてくる。いずれにしても昔の葛西橋こんな感じだったんだ、とちょっと驚いている。
 今は荒川と言うがちょっと前までは荒川放水路と言っていた。やはり荒川放水路がいい。
 ところで、葛西橋まで行かなくても新大橋でも海が近いということを感じることができる。先日自転車でこの橋を渡ったのだが、その橋の長いことを感じ、川幅が広く、視界が大きいことで、海が近いと感じることができた。

 「神田川雪景」では昭和44年3月4日の雪の日に、聖橋から秋葉原方面を望んだ風景が描かれる。


 かねて私は雪の日のお茶の水近辺の神田川沿いの雪景を頭の中で描いていて、大雪の降る日を待ちわびていたところだった。(「神田川雪景」『東京つれづれ画帖』に収録)


 なるほどあそこは雪の日はいいロケーションになるだろうと思われる。この絵からもそれを感じることが出来るし、2冊の小針さんの画文集のなかでこの絵がいちばん好きだ。
 ところで一つ不可解な絵がある。それは 『東京文学画帖』にある「お茶の水界隈」である。遠くにニコライ堂があり、その前にたぶん聖橋だろう橋が描かれる。その下を電車が走っていて、その横に川か堀が描かれる。その川が神田川なら、今見ることが出来る風景と逆なのである。「昭和34年9月9日 都電本郷元町電停前からお茶の水を見る」と説明がある。どの辺なのだろうか。そこならこの絵のような風景が見られるのだろうか。

 小針さんは繁華街などでスケッチしているとよくポン引きに声を掛けられ閉口している。しかもしつこい男どもに。(もっともポン引きはしつこいに決まっているのだが)


 スケッチを始めて二十数年間、ただの一度も可愛い女性に話しかけられたということがない。艶っぽい話などまるでないのだから、スケッチという仕事は坊主の修行のようなものだ。(「『峠』のある路地」『東京つれづれ画帖』に収録)


 といった具合に愚痴っているのが面白い。
 よく行く錦糸町の昔は興味深い。


 そんな錦糸町駅前のバスターミナルの辺りは明治の頃、本所茅場町といい歌人の伊藤左千夫がここで牛乳搾取業をはじめている。年譜によると明治二十二年四月から大正元年三月まで、この地で牛飼いをしながら文学活動をし、代表作『野菊の墓』もここで執筆した。(「江東楽天地(一)」『東京つれづれ画帖』に収録)


 その記念碑を先日錦糸町のバスターミナル近くにある公衆トイレの前で見つけた。そこには確かに伊藤左千夫が牧場を経営していたことが書かれていた。


 「君は昭和二十年三月十日の東京大空襲でお袋さんを亡くして本当にお気の毒だと思うが、僕はあの頃警防団員として錦糸町界隈で焼死した死体の取りかたづけをしていてね、それはひどいもんだったよ。丁度今の錦糸公園のところに大きな穴を掘ってさ、関東の何とか組というやくざ者は焼トタンに死体を乗っけると、反動をつけて穴の中に放り投げるのさ。そうすると頭蓋骨がもろくなっているとみえて、下の死体の固いところにぶつかると中から脳漿がバアーッと飛び散ってさ、それは凄惨なものだったよ。私はあまりのひどさに彼らに、あなた達いくら何でももう少し仏様を丁寧にあつかってやりませんか、と言ってやったよ。とにかく三千体からの死体の山だったからね、それはかわいそうなものでしたよ」と老画伯は当時を思い出してやり切れないといった顔をした。(「江東楽天地(二)」『東京つれづれ画帖』に収録)


 この話はどこかで読んだことがある。
 とにかく東京というところは変化が激しい。小針さんは関東大震災、東京大空襲で昔の面影を失ったと書いているが、そこに東京オリンピックによる再開発も加わり、昔日の風景はどんどん失っていった。東京には川や運河、堀が多くあったが、関東大震災で出た瓦礫の処分のためにそれらが埋められたいったと聞く。


 大震災で倒れ、焼かれ、戦争で破壊され、焼きつくされた東京で、奇跡のように焼亡倒壊をまぬがれ、明治という時代をそのまま残している数少ない一画が、この本郷菊坂の路地である。昭和も半世紀を閲した今日では、さすが老朽振りが目につき、近い将来まったくその様相を一変するものと思われる。(「本郷菊坂の路地」『東京文学画帖』に収録)


 特に東京というところのいかにすべての面において、つまり風俗、建築をはじめとして、食べる物、装飾品に至るまで、外国文化の吸収同化が激しいかということをつくづくと思い知らされたのであった。それはまた日本人の特技といっていい程の才能であるかもしれない。(「新宿駅西口旧飲み屋街」『東京つれづれ画帖』に収録)


 小針さんは関東大震災や東京大空襲で破壊を免れ、昔日の面影を残しているもであっても、徐々になくなっていく光景は物寂しさをそれとなく臭わせてはいる。きっとこれらは小針さんがスケッチをしているとき感じていたことなのだろう。
 もちろん昔の姿がいいと言い切るつもりはない。ただ昔の風景を懐かしく感じるのはそれだけ歳をとったこともあるし、そこには人の心を安らがせるものが確かにあったように思えるからではないか、と思ったりする。


小針 美男 著 『東京文学画帖』 創林社(千代田区)(1978/10発売)


小針 美男 著 『東京つれづれ画帖』 創林社(千代田区)(1986/05発売)

by office_kmoto | 2017-05-14 06:29 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

吉村昭記念文学館と都電と古本

 3月に荒川区にゆいの森あらかわがオープンした。そこに吉村昭記念文学館が新たに移設され、それを見てみたいと思っていた。場所を調べてみると、都電荒川線の荒川二丁目近くと知る。これはいい。一度荒川線に乗ってみたいと思っていたので、まず地下鉄千代田線の町屋まで行って、そこから都電荒川線に乗ろうと計画する。
 出かけるのは久しぶりである。地下鉄では昔のように持って来た本を読む。地下鉄は外の景色がないので、外に目を奪われることもなく本がよく読める。
 小川町で乗換、町屋まで行く。町屋で荒川線にのるのだが、すぐ乗らなかった。カメラを持ってきたので、都電と沿線の風景を撮りたかった。今沿線にはバラの植え込みがきれいに咲いている。なかなかいい風景だ。都電も昔のようなダサい車体ではなく、お洒落でかわいい感じになっている。ちょっとした“鉄ちゃん”になってしまった。


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 町屋から二つ目が荒川二丁目だ。降りてみて、ゆいの森あらかわがどこにあるのか輪からなかった。近くに大きな建物があるので、これかなと思うと、それは三河島水再生センターであった。反対車線に真新しい建物が見えるので、たぶんこれがそうだろうと察しをつけ、踏切で線路を渡る。線路をまたぐなんてしたことがないので、なんかうれしくなってくる。


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 館内は建物が出来たばかりだから、きれいだ。そして広い。落ち着いた雰囲気である。トイレの表示もおしゃれである。


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 ここは図書館とホールなど兼ねている総合施設になっているようだ。吉村昭記念文学館は二階にあり、エスカレーターで上がり、中を見学する。吉村さんの生原稿、資料ノート、本など展示されている。
 そして吉村さんが亡くなるまで使われた書斎が再現されている。吉村さんのエッセイに次のようにある。


 旅先での泊まりは二泊を限度としている。その程度滞在すれば、仕事が確実に終わるからだが、帰心矢のごとくで帰宅したい気持ちがおさえきれぬからでもある。
 と言っても、私が帰りたいのは家庭というわけではなく書斎で、書斎に入って机の前に坐りたいのである。
 書斎は六畳ほどの広さで、窓ぎわに二メートル六〇センチの長さの机がつくりつけられている。異例の長さの机にしたのは、資料を多く載せるためだが、フィクションの短編小説を書く時は、それらの資料をすべて取りのぞくので長い机の空間がすがすがしく、気持ちがひきしまる。
 三十年以上も使っている回転椅子に座って机に向かうと、気分が安まる。煩わしいことがあっても、それらは跡かたもなく拭い去られて、落ち着いた気持ちになる。
 書斎の四方の壁には天井まで伸びた書棚があって、書籍が隙間なく並び、床の上にまであふれ出ている。それらにかこまれて、机の上に置かれた資料を読み、原稿用紙に万年筆で文字を刻みつけるように書く。(「書斎」『わたしの流儀』に収録)



 まさしくこのように再現されている。書かれているように本当に落ち着く。天井まである書棚には各県の県史など隙間なく並んでいる。これらは参考図書になっているのだろう。
 展示されている生原稿には几帳面な細かい字で文字が書かれていて、「刻みつける」ように書かれたものだった。一度展示内を全部見てから、もう一度この書斎に入ってしまった。
 いくつかパンフレットをもらう。それにゆいの森あらかわのキャラクターなのだろうか。その絵が入った文庫のカバーが二種類あったので、記念にもらってくる。
 その後図書館を見学してみる。まだ木の匂いがする館内はゆったりと広く、ここならゆっくりと本が読めそうだ。
 広いテラスには椅子もあって、飲食も可能となっていて、食事をしている人もいる。それを見ていてお腹が空いたので、館内にあるカフェでBLTのセットを注文する。平日なので昼時でも空いていた。
 その後また都電に乗って町屋まで戻るのだが、都電には二停留所しか乗れないので、もう少し乗りたいので沿線沿いを先に歩いて、荒川区役所のとろまで行ってみる。区役所前は広い公園になっていて、釣り堀もある。釣り人が魚を釣り上げては放していた。園内もバラがきれいに咲いている。


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 都電の停留所で路線図を見てみると、早稲田方面へ向かう路線で、新庚申塚というところで都営三田線の西巣鴨と接続していることがわかる。この後神保町で古本屋でも歩こうかと思っていたので、三田線なら一本で神保町へいけるから、そこまで行くことにした。そこまで行けば飛鳥山も通るし、その少しの区間都電が一般道を走る区間だと知っているので、その風景も見られる。
 都電の中は結構年寄りが多かった。運転席からはハンドルというのかレバーというのか、それを動かす音がせわしく聞こえてくる。そして発車する前になる「チンチン」と鳴る。車内、外の風景を眺めながら、ワクワクしながら乗っていた。今日は出てきてよかったなあ、と思う。
 その後神保町で古本屋を歩く。いつも行く三省堂の裏に古書かんたむに行く。ここはいつもは通路に廃棄寸前の本が並んでいる。棚なんか整理などせずに、無造作に本を詰め込んだ感じなのだが、なんだかきれいに整理されている。おっ、ちょっとは整理する気になったんだ、と思った。でもここへいつも来るのは、結構掘り出し物があるからだ。今日は吉村昭さんの古い本を1冊見つける。値段は100円。
 棚から本を探すのは結構得意な方だと思っている。昔本屋で働いていたので本を探す訓練がされているのだ。棚を上から横へ眺めていくのだけれど、今日はそれが思うように行かない。見あげると首が痛いのである。ここのところ悩まされている痛みである。この首の痛みのため、長時間本を読むのを妻から制限されているのである。そしてこんなところでもその弊害が出て来るとは思わなかった。

 いつものように岩本町まで歩き、途中ブックオフに寄り、探していた池波正太郎さんの文庫本があったので、それを1冊買い、家に帰る。

 今度の土日に神田祭があるようで、それぞれの店の前には、提灯をぶら下げるための飾り付が用意されている。それを見て、あのオヤジどうしただろうか、なんて思った。
 オヤジとは私がいた会社の元経営者である。昔、町会長などやったものだから、祭りに寄付が大変なのだ。一度に30万も出す。ただし半分は会社持ちとした。それでいて寄付した者の名前が貼り出される掲示板には、個人の名前は堂々と書かれるが、会社の名前は一切ない。つまりこの掲示板は高額な寄付者が先頭に名前と金額が書かれるので、それを見た人間は経営者個人がポンと30万出し、威勢のいい感じに見えるようになっている。そんなもんだから寄付を集めに来る町会の人間も、寄付欲しさにほくほくしながらやってくる。
 一度会社の名前がないのはおかしいと言ったことがあるが、そのまま無視された。会社は身売りされたので、経営者は祭りの寄付をどうしているのだろうか、と思ったのである。30万自腹で払っているのだろうか。それとももうここには住んでいないし、会社も経営していないということで、得意のとぼけをかましているのだろうか?
 私はこのことがあるので神田祭にはいい印象がない。

by office_kmoto | 2017-05-10 10:47 | 余滴 | Trackback | Comments(0)

川本 三郎 著 『そして、人生はつづく』『ひとり居の記』『あのエッセイこの随筆』

 『そして、人生はつづく』と『ひとり居の記』は雑誌「東京人」に掲載されていた日付のない日記である。そして『あのエッセイこの随筆』は「週刊小説」という週刊誌?(よく知らない)のコラムである。

 本を読むとき、驚いたこと、気になる文章、あるいは考え込まされる文章があると、そこに付箋を貼る。そしてそれをここに書き付ける。ところが今回は違った。川本さんが紹介する本のところに付箋を付けるのが多かのと、それ以外文中に面白そうな本を紹介してくれる。これがやばい。読みたい本がますます増えてしまう。とりあえず、気になる本の書名をノートに書く。いずれ図書館で借りてこようと思っている。
 その図書館だけれど、川本さんは自宅の近くにある杉並区の図書館の対応にかなり怒っている。
 ことの発端は、本を返しに行って、そこで新しい本を借りようとして、うっかり一冊、返し忘れた本があった。そうしたら、予約が入っていない本でも、ただちに未返却者として、新しい本が借りられなくなったらしい。
 それがよほど頭にきたようで、なんども書かれている。
 それで川本さんは都内の図書館の対応はどうなのだろう、と調べている。うっかりミスにはほとんどが寛大なのだが、23区内では杉並区と江東区が厳罰主義で臨んでいるらしい。
 江東区の図書館も厳罰主義で臨むらしいことが書いてあったのでちょっと驚いた。今回、川本さんの本を含め6冊も江東区の図書館で借りてきている。
 その時1冊の本がページが破れ、セロテープで補修されていて、さらに何ページも折れがあった。そこで貸し出すときに本がそんな状態であることを書いた紙をくれ、返却するときにその紙を挟んで返してくれと言われた。こうしてくれれば返却するとき、つまらぬ濡れ衣を着せられることもないわけだ。
 ページを折るのを“ドッグイヤー”というが、私が本に付箋を貼るのと同じ理由でページを折る。あるいは栞代わりに。図書館で借りてくる本はこれをよく見かける。どうしてみんなの本なのにこんなことをするんだろうと思うことが度々だ。
 ページを破るのも、故意じゃなく、不可抗力で破ってしまった場合もあるだろうが、やはり出来る限りそうあってはならない、と思う。補修にセロテープを貼るのも問題だ。セロテープでの補修は簡単にできるが、セロテープはすぐ劣化する。そうすると変色したり、テープがバリバリになったりして厄介なのである。

d0331556_06280119.jpg 話が横にそれた。その図書館の歴史が『あのエッセイこの随筆』に書かれている。


 日本での近代的な図書館は明治五年に新政府が作った書籍館が最初という。湯島の聖堂のなかにあった。明治十三年には東京図書館と改称、その後、上野に移り、帝国図書館となった。


 さらに昔図書館で本を探す場合、作家別のカード棚があった、と書かれる。そうそう。カード式になっていて、そこに書誌が記載されていた。懐かしい。川本さんも「図書館にこれがなくなったのは寂しい」と書いている。


 さて読んだ川本さんの本である。川本さんは本は小説、エッセイ、童話、漫画、絵画、映画、散歩、さらに旅と鉄道といった具合に縦横無尽に語ってくれる。


 朝の楽しみに「電車散歩」がある。
 電車に乗って遠出をする。電車のなかで本を読む。「読書散歩」でもある。電車のなかの読書はとてもはかどる。書評の仕事で早く読まなければならない本がある時は、それを持って電車に乗る。(『そして、人生はつづく』)


 遠くまで出かけることはない。丹念に歩けば、身近かなところに忘れられた懐しい風景や見たこともない不思議な異空間が残っている。(『ひとり居の記』)


 五十代の頃房総半島が好きなり、「中年房総族」と称し、南房総をよく旅をした。(『ひとり居の記』)


 川本さんはローカル線が好きで、関東近郊のローカル線を乗りに行く。そして車窓から風景を眺めるの楽しんでいる。仕事で遠くへ出かける時なども新幹線に乗るものの、帰りは途中で乗換え、ローカル線を乗って遠回りして帰ってくる。新幹線に乗るときは本を読む。ローカル線は風景を楽しむ。時には途中下車して町中を歩く。


 『そして、人生はつづく』では、原武史さんの『震災と鉄道』という本から在来線を犠牲にする新幹線作りを批判していることを引用する。


 「新幹線が通れば、並行して走る在来線の必要は下がります。それでも在来線の途中駅の人たちは存続を望むと思いますが、過疎地であれば新幹線と在来線の両立は難しいでしょう」
 新幹線が通ることになる大きな町が新幹線の誘致に賛成すれば、それ以外の町が反対しても「故郷の発展を望まないのか」という大義名分の前に反対の声は消されてしまう。
 その結果、新幹線ができるとかえって地方の過疎化が進んでしまう。


 川本さんの本は引用が多いと自分でも書かれているが、それが楽しい。まして自分も本の引用を長くするので、こういうのは大歓迎である。そしてそこから知らなかったことを教えてくれる。


 開高健がよく色紙などに書く「明日、世界が終わるにしても今日、私はリンゴの木を植える」はルーマニアの作家ゲオルギューの言葉であることも知った。(『そして、人生はつづく』)
 

d0331556_06294664.jpg 集団就職は昭和三十年代のはじめ、東京世田谷区の商店街が人手不足を解消するため、地方の職業安定所と連携して中卒者を集団採用したのがはじまりという。(『ひとり居の記』 )


 いわき市の山里ではいまイノシシが増えて困っている。猟師に猟を頼むのだが、断れてしまう。
 というのは、イノシシは放射能に汚染されている。猟をしてもイノシシを食べることはできない。無駄な殺生になってしまう。猟師は生きものの命をもらって生きている、という考えをいまも強く持っている。(『ひとり居の記』 )


 ビデオの普及によってこういう、“新発見”が生まれるのだが、「シェーン」では冒頭、アラン・ラッドが馬に乗って少年のほうに近づいてくる場面で、よく見ると遠くの道を車が一台走っているのが、ビデオ画面でもはっきりとわかる。(『あのエッセイこの随筆』)


 たとえばモネの「日傘をさす女」。白い雲が浮かぶ夏の空の下、花咲く丘に白い夏ドレスを着た女性が日傘をさして立っている。
 この絵をよく見ると、傘の芯棒がない。手に持っているところはちゃんと描かれている。ところがその先の傘の中心につながるところがない。
 なぜなのか。省略とは違う。モネは描き忘れたのだと赤瀬川原平さんはいう。なぜなのか。モネは光を描くのに夢中だったから、芯棒のことなど忘れてしまったのだ。(『あのエッセイこの随筆』)


 西部劇の映画に自動車が走っているのが見ることが出来るなんて、驚きだけど、面白い。またモネの「日傘をさす女」の話、思わず画集を見てしまった。
 そして深く同感することも書かれている。


 以前は荒川放水路と呼ばれていたが、河川法の改正によって昭和四十年(一九六五)に荒川が正式名になった。私などの世代には、昔の荒川放水路のほうがいいのだが。(『ひとり居の記』)


 美術館に出かける。絵を見たあと、まだ、感動の余韻が冷めないうちに、ポストカードを買う。これは美術展に出かける楽しみのひとつである。複製とはいえ、名画をわずか百円ほどで“所有”できる。(『あのエッセイこの随筆』)


 散歩をしているとキンモクセイの香りがあちこちでするようになった。毎年、この濃厚な芳香に接すると、秋が次第に深まってきたなと思う。もっとも、最近の子どもたちは、この香りがトイレの消臭剤と似ているので、トイレの匂いがするというそうだが。(『あのエッセイこの随筆』)


 我が家の近くには新中川が流れている。中川放水路として覚えていたので、今はそういう名称になっていることはつい最近知ったくらいだ。そして川本さん同様、新中川より中川放水路がいい。
 美術館へ絵を見に行くと、気に入った絵や、絵画展の目玉の絵などのポストカードをいつも買う。それが楽しみでもある。川本さんのようにポストカードをはがきとして使うことはないが、それを飾り、味わっている。
 そういえば最近を絵を見に行ってないなあ。
 キンモクセイの香りはある日突然感じる。だからこの香りがしてくると、秋をすぐさま感じさせる。
 結構好きな香りであるが、確かにトイレの芳香剤に使われちゃったものだから、キンモクセイの香りは子供たちにとってトイレの匂いとなるのかもしれない。そう考えるとキンモクセイの香りをトイレの匂い消しに使うのは考えものである。

d0331556_06353033.jpg 『そして、人生はつづく』に東日本大震災が起こる。だからこの本には震災後のことが何度も書かれる。あとがきには次のようにある。


 悲劇の大きさを知れば知るほど日々の「平安」が大事に思えてくる。物書きである私にとっては、一人で暮らすことに平安を見出してゆくことになろうか。頭のなかにはともかく、暮しのなかには修羅を持ちこまないこと。静かな生活を心がけること。
 そうやって家内亡きあとの日々をやり過ごしてきたように思う。


 川本さんは2008年に奥様を亡くしている。妻を失い生活が荒れてきていると自覚したとき、自ら御飯を炊き、仏壇に御飯を供える。


 眠るのが好きだから、布団はまめに干すようにしている。
 朝起きて、おひさまが出ていると何はともあれ布団を干す。雨に降られると困るので新聞やテレビの天気予報はよく見る。テレビの予報で「今日は布団の取り込みを忘れても大丈夫です」といってくれたりするとうれしくなる。
 冬、ほかほかの布団にもぐり込む時のうれしさといったらない。布団にくるまって漫画を読んでいるうちにいつのまにか眠っている。(『そして、人生はつづく』)


 こういう些細な日常のあり方が、アクセントとなり、句読点にもなる。それが日々の平安を生む。それでも寂しくなったら旅に出る。


 一人暮らしになってから、夜、家にいるのがわびしく、以前にも増して旅に出るようになった。不思議なもので一人旅をしていると、風景のなかに身体が溶け込んでゆくためだろうか、寂しさをさほど感じない。移動は身体にいいのだろう。(『そして、人生はつづく』)


 最後に言葉について書かれた一文。


 人が使っている言葉でも、自分は使わない。文体とは、そういう「使わない言葉」を持つことから始まるといっていい。「嫌いな言葉」がある人は、それだけでもう文体を持っているといえる。(『あのエッセイこの随筆』)


 人が使っている言葉でも自分は使わない言葉がある。たとえば意識して使わないようしているのは「一生懸命」である。これを使うときは「一所懸命」と書く。詳しいことは覚えていないのだが、高校時代、現代国語の教師から正しいのは「一所懸命」だと教えられた。それを守っているのではない。「一生」というのが嫌いなのだ。そこには人生ずっと頑張っていなければならないニュアンスを感じてしまう。そして「一所」はそこで頑張っているという感じが好きで、何となく頑固そうなイメージが好きなのだ。

 朝日新聞(2017年4月26日掲載)の「時代のしるし」に川本さんの『マイ・バック・ページ』で描かれた60年代を振り返り、インタビューに答えている。その最後に、


 いま、活字の世界でも名のある書き手が随分すさんだ書き方をするなど他者への言葉遣いがとげとげしくなっている。一方政治家がとんでもないことを言っても、内閣支持率は高いままです。このままみんなあきらめて、社会への理想主義は失われて行くばかりなのでしょうか。


 川本さんが政治のことを語るのは珍しいが、確かに無神経な言葉を吐く輩が多い。政治家でもそうだし、オンラインゲームのコマーシャルでも、女性が「ぶっ込む」などと言ったりする。聞いていて腹が立ってくる。言葉は、人を貶めるし、使い方によっては醜くもなることをわかっていない。


川本 三郎 著 『そして、人生はつづく』 平凡社(2013/01発売)


川本 三郎 著 『ひとり居の記』 平凡社(2015/12発売)


川本 三郎 著 『あのエッセイこの随筆』 実業之日本社(2001/10発売)


by office_kmoto | 2017-05-08 06:44 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

川又 一英 著 『われら生涯の決意 - 大主教ニコライと山下りん』

d0331556_06181203.jpg この本はニコライと山下りんの評伝である。

 ニコライこと、イオアン・ドミートリヴィチ・カサートキンが生まれたのはスモレンスク県ベリョフキ郡ベリョーザ村といった。モスクワから西におよそ三百キロ、その名のとおり白樺(ベリョーザ)の林に囲まれた小さな村である。
 父ドミートリーは村の司祭を輔けて奉事を執り行うかたわら、鍬を手にして家族を養わなければならなかった。五歳の時に母を亡くしたイオアンは、神学小学校以来、寄宿舎生活を送った。
 イオアンはある日、ゴロヴニンの『日本幽囚記』を手にした。そこに書かれている日本人の姿を読んで、日本へ伝道に出てみたい、と思うようになった。


 日本の民はいまだ真実の神を知らず眠りつづけている。ゴロヴニンは日本最大の宗教である仏教について<多くの日本人は、日本の僧侶について、いろいろ悪声を放っていた。>と報告している。既成の宗教に飽き足らぬ善良なる民は、ハリストスの教えを待ちこがれているのではあるまいか。


 日本への伝導を考えていたイオアンは日本の箱館に置かれた領事館付属聖堂勤務の司祭を募る布告書を見る。


 間もなく、四人の候補者のなかからイオアンが選ばれ、聖務会院に推薦された。聖務会院の最終決定を経て剪髪式を受けた修道士になったのは、六月三十日のことである。修道名のニコライとはギリシャ語の「勝利(ニカ)」「人々(ラオス)」、すなわち勝利者を意味した。


 いまようやく、ニコライの使命が始まろうとしている。身分こそ領事館付主任司祭だが、機会があれば日本人に伝道を試みるつもりである。その決意はニコラエフスクで識ったインノケンティ主教によってますます強まっていた。


 (インノケンティ主教は言う。)いちばん大事なことは、聖書や祈祷書を伝道地の言葉に翻訳すること。そうしてはじめて正教はその土地に根を下ろすことができます。


 そしてニコライは1861年に箱館のロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任した。


 箱館の名は、十五世紀半ば、室町期に築かれた河野政道の館が箱型をしていたことに由来する。のちに明治二年、蝦夷が北海道と改められると同時に、箱館から函館と改名されるが、当時河野氏の館跡には、箱館奉行所が置かれていた。


 ニコライはインノケンティ主教の教えをそのまま日本で行おうとしていた。


 日本に造るのはロシアの教会ではない。神の真理に目覚めた日本人が日本人のために運営する教会であるべきだ。自分の役割は、その産婆役にすぎぬ。教えが日本列島の津々浦々に弘まったあかつきには、日本の司祭が聖堂をつかさどり、主教も日本人司祭のなかから選ばれる・・・・・・。


 こうしてまだキリスト教が禁止されていたなか、伝道活動をし、沢辺琢磨など信徒を少しずつ増やしていく。
 明治2年ニコライはいったん帰国する。日本に来て8年の歳月が流れていた。日本に正教を弘めるために、ニコライはロシアにおいて日本伝道会社の設立を請願し、1870年に日本ロシア正教伝道会社の設立が許可され、ニコライは掌院に昇叙され、伝道会社首長に任命される。掌院とは司祭の上位、主教に次ぐ聖職名である。
 明治5年1月、ロシア公使館が東京に開設されることになったため、ニコライは横浜に向かう。そして築地の鉄砲洲(現明石町)の外国人居留地の一角で正教の講義が始められた。同年2月26日、第二回目の講義のとき、銀座方面で黒煙が吹き流されているのが見えた。この火事で築地西本願寺、築地ホテル、そしてニコライの講義所も灰燼に帰してしまった。


 銀座大火の恐ろしさはニコライの心に深く焼きついている。築こうとする伝導所には、いずれ聖堂を建てるつもりだ。神の教えが未来永劫変わらぬように、神の家である聖堂は盤石のように鞏固でなければならない。けっして瞬時に焼け落ちる脆弱な存在であってはならないのだ。
 選ばれたのは駿河台東紅梅町六番地にある旧宇都宮藩戸田邸であった。江戸時代は火消屋敷が建ち、高台にあって南に皇居と銀座方面、北に神田川をへだてて湯島方面を一望できた。二千三百坪の敷地内に古い屋敷と数棟の長屋があるのも都合がよかった。建物、土地併せて一千四百円であった。
 明治五年九月、ニコライは駿河台に移った。当時は外国人の内地雑居が認められなかったため、一度買った土地を政府がふたたび買い上げ、この年置かれたロシア公使館付付属地の形で貸与されることになった。


 ニコライが上京した明治5年、同じく東京をめざす一人の娘がいた。浅黒い顔、骨太の頑強な身体つき、肩には膨らんだ風呂敷包みがあった。常陸国、現茨城県の笠間に住む下級武士の娘山下りんである。


 りんは家族の反対を押しきって出奔、上京しようとしていた。いまだ満で十五歳。幼さの残る表情に固く結ばれた唇が印象的だ。
 絵を学びたい。東京に出て師につき、絵の道に進みたい。


 結局このときは、家に連れ戻される。翌年、母や兄などを説得し、再び上京。浮世絵師や日本画家のところに弟子として住み込み、伝統的な日本画を学び始める。しかし一日の大部分は女中奉公で暮れた。
 それに当時絵師として名の知れた師匠が、もう絵では食えず、団扇絵を描いて糊口をしのいでいて、もう日本画の時代ではないと考えたりんは洋画に師を求めた。
 そんな時、明治8年、工部卿伊藤博文は新たに美術学校を工学寮に付属させて設立しようとしていた。りんは月謝を納めるあてもなかったのだが、旧藩主が月謝を出してくれることになり、工部美術学校に入学する。そしてイタリアの画家の指導を受けた。それは日本にないものであった。入学後一年半を経過した後の試験で、りんは女子の最上位であった。


 りんの数少ない友の一人に、山室政子がいる。信州の貧乏士族の娘で、十七歳で上京し、貧苦にあえぎながら工部美術学校に通っていた。似たような境遇にあった二人は、なにかと気が合った。山室はフォンタネージ(工部美術学校で指導していたイタリアの画家。りんはこの画家に強い影響を受けた)が去ると同時に学校を離れ、やがて同郷の男と石版印刷を始めることになる。りんは信徒であった山室に誘われ、いつか駿河台のニコライ神父のもとを訪れるようになった。


 勧められるままに洗礼を受けることになった時も、なんら躊躇を感じなかった。洗礼名はイリーナである。
 一方ニコライは明治12年二度目の帰国をする。ニコライを聖務会院から主教に叙聖するという電報がロシアから届く。帰国に当たりニコライは新たに大聖堂建立の許可と援助を求めるつもりであった。


 大聖堂建立とならんで、ニコライにはもう一つの計画があった。聖像画家の育成である。これは伝統のない日本では難しい。ロシアに留学させ、専門の教師の下で学ばせる必要があった。
 イコンと呼ばれる聖像画は、東方正教会の信仰に欠かせない。同じ宗教画でも、聖書などに主題を求めて画家が自由に解釈を下して描く西の教会の聖画とはちがう。東方正教会では彫像などの偶像表現をいっさい認めず、救世主、生神女(マリア)、天使、諸聖人、聖書中の説話などを一定の規範にのっとって描く聖像画だけが、祈りの対象とされる。いずれも伝統的な描法を踏襲し、写実を超えて信仰の像を追求したものである。


 伝道がすすみ、各地に聖堂が建てられる。そしてその聖堂に掲げる聖像画も、感性がするどく繊細なところがある日本人の手になるものがいいと、ニコライは考えた。
 この考えから、ニコライは日本人をロシアに留学させ、イコンの勉強をさせる手配をこの帰国で整えてくる。ニコライは最初その留学に山室政子と考えていたが、山室は結婚のためロシアに行けなくなり、工部美術学校の成績一位のりんにロシアに留学をしないかと打診する。
 りんは洋画が現地で学べるということで留学を決める。
 明治13年12月12日、りんはペテルブルグに着く。りんはノボデーヴィツチ女子修道院(正式名称は聖ペテルブルグ復活女子修道院)で聖像画を学ぶことになっていた。
 その日から形が決まった方法で聖画像を学んだ。しかしりんの思うように描くことが出来なかった。りんの不満は次第につのっていく。一方で、りんはエルミタージュ行ってみたい。そこにある絵を見ていたい、と思っていた。
 エルミタージュに行くことの許可が出た日、りんはそこにある絵は聖画像のような定まった型では描けないものを感じ、工部美術学校のフォンタネージが教えてくれた光と影のなかに生きた人間を描かなければならないと思い始め、何度もエルミタージュに通い、模写を続ける。しかし修道院側はそれを認めようとしなかった。そのうちエルミタージュ行くことを禁止される。そしてりんはまた形式ばった聖画像を描く毎日を過ごすことなるが、不満はつのる一方であった。


 ・・・・・これが絵なのであろうか。一人前の絵描きの取り組むべき絵であろうか。決りどおりに寸分たがわぬ構図と色彩が求められ、時には何人かの尼僧が共同で一枚の画面を描きあげる。この聖画像(イコン)と呼ばれるものはいったい何なのか。
 自分はとてつもない思い違いをしていたのではないか。
 ふと、こんな疑問が浮かぶ。自分は西洋の絵を学ぶつもりでロシアにやってきた。聖画像も西洋画の一つにすぎないと思ったからだ。ところが、修道院では聖画像のほかは絵と認めないのではなかろうか。


 好きな絵を好きなように描きたい。


 -イリーナ。エルミタージュには聖画像の手本になるものはありません。手本なら、この修道院の聖堂にあります。
 どうしてです、エルミタージュにもイタリアやスペインなどの立派な宗教画があるではありませんか。そう反論しようとしたりんの心を読みとったかのように、アポローニャ尼はつづけた。
 -エルミタージュにも、宗教の絵はあります。西の教会のものです。それらは美しい絵だという人もいますが、美しさは見かけだけです。宗教に名を借り、画家が自分の技量を誇るために描いたものです。イリーナ、聖画像は美術館に飾るために描くものではありません。


 りんは悩み続け、体調をおかしくしていたが、それでも言われるまま聖画像を学び続けた。そのうち、


 こうした絵もまたあってもよいものかもしれぬ。薄闇に溶け入ろうとする御像を見上げながら、りんは考えた。美術館で鑑賞される絵があるように、信徒たちから涙と祈りを引き出す絵があってもよいのかもしれぬ。美はさまざまだ。


 りんは、もはや聖画像をたんなるおばけ絵と見ていない自分に気づいた。
 りんは明治16年帰国する。


 長い旅のあいだ、ニコライの心から離れなかったのは、大聖堂建立の夢であった。函館から上京した明治五年にはわずかに指で数えるほどであった信徒が、七年のあいだに六千を越すまでになっていた。


 正教の信仰はたんなる聖書の知識からは生まれない。聖堂という神に家で、奉神礼を通じて聖書の言葉を身体で理解することに始まる。司祭の朗読に耳を傾け、聖画像に蝋燭をささげて祈るなかで信仰がはぐくまれる。しかも、正教会の奉神礼は聖職者のみが執り行うのではなく、信徒もともに参加するところに意味がある。西の教会(カトリック)とちがって聖堂に椅子を置かず、全員が立ったままで祈禱を行うのは、そのためだ。
 正しい信仰を植えつけるためには、奉神礼の場にふさわしい聖堂が必要である。


 ニコライの大聖堂建立計画はロシアの聖務会院によって許可され、ロシアの寄付によって明治17年3月に工事は着工された。
 りんは帰国してからは駿河台の正教会に住むことになった。ニコライはりんに新しい聖堂にロシアの聖画像でなく、できればりんの手になるもので飾りたい意向を示す。それだけでなく、日本の各地にある教会にも飾りたいと言う。
 りんは、


 日本人には伝統的な聖画像にみられる峻厳で硬質な表現はなじめない。ひとくちに聖像画といっても、ビザンティンとロシアのものは同一ではない。同じロシア人でも、ペセホノフ先生は西洋絵画の表現効果を採り入れて描いている。ならば、日本には日本人にふさわしい聖画像があっていいのではないか。構図や色彩の決りを守りさえすれば、もっと自由な描き方が許されのではないか。
 りんの描き上げる聖画像は、ニコライの祝福を経て本会から各地教会に送られた。


 信徒は増えていったが、ニコライは一方で日本の正教会がロシアから独立していくために定期的な献金を求めていく。しかしいつの間にか信徒の数は減っていく。その最大の原因は日露関係の悪化であった。日露両国の武力衝突はもはや時間の問題となっていた。ニコライは日本に残ることを決意し、次のように言う。


 -このことは忘れることのないように。もし明日にでも宣戦の大詔が出たら、あなたがたは日本の勝利を祈り、戦いに勝ったならば感謝の祈禱を献じなさい。これはあなたがた日本国民として必ず務むべき祈禱です。
 エルサレムのために涙を流した主イイスス・ハリストスは我々に国を愛する心を教えている。同時に国の長たる皇帝に忠誠を尽すことも。それは教会が国家に隷属しているからではない。人間の身体にたとえれば、教会は心で国家は肉体である。教会と国家は互いに補い合ってはじめて生きてゆける。・・・・・戦いは敵を憎むが故ではない。同じハリストスの信仰に結ばれた日露の信徒は、国籍や人種を超えて天の父の子にしてお互い兄弟である。しかし、両国の和平はすでに断ち切られた。一日も早く主神が断ち切られた平和を回復されるよう祈りながらも、正教徒は自分の属する国家のために祈り、働かなければならない。
 -私は今日まで公祈禱を行ってきましたが、明日からは聖堂に立ちません。あなたがたが心配されるように、迫害を恐れてのためではありません。一人のロシア人として、自分の祖国が占領されるよう祈ることはできないからです。もし、平生の公祈禱のごとく日本の皇帝陛下に祈りをささげれば、自国の皇帝陛下に不忠をなすのみならず、日本の皇帝陛下に対しても偽りをなすことになりましょう。さればとて自国皇帝の勝利を祈れば、あなたがた日本人に対してははなはだ無礼なことになる。・・・・・これからはどうか、あなたがた日本人だけで公祈禱を行ってください。


 日露戦争中ニコライの呼びかけでロシア人捕虜のため慰問袋送付、送金など教会を上げて取り組んだ。そのため戦争終了後、明治39年に日本政府から紋章付銀製花瓶一対が下賜された。また従来露国公使館付付属地となっていた駿河台本会敷地をニコライ並びにその後継者に貸し付けられることも決まった。
 晩年ニコライは日本語訳の新約聖書の翻訳に努めるが、明治45年(大正元年)2月16日午後7時臨終祈禱が朗されるなか、息を引き取った。この年の7月には明治天皇が崩御し、明治の時代は終わった。
 りんはニコライの死を同じくして、白内障を患い、悪化していった。そのためりんが描く聖画像の絵は澄明な色彩に代わって混濁が目立つようになる。
 大正12年9月1日関東大震災が起こり、東京はたちまち焦熱地獄と化した。駿河台の大聖堂は地震にも火事にも耐えたが、高い鐘楼が熱風に煽られ弾けて割れ、円屋根の上に倒れかかった。焰は一挙に聖堂内を駆け巡り、土台の煉瓦壁を残して焼け落ちた。もちろんりんが作製に関わった聖画像も焼け落ちた。聖堂は6年後再建される。
 りんは故郷の笠間に引き籠もり教会から送られるわずかな年金と貯金で静かに暮らしていた。昭和14年82歳の生涯を閉じた。


 私が知っている日本におけるキリスト教の布教とは、例えば貿易という経済活動の一環として布教が行われた。布教活動も信徒の獲得競争みたいなところがあった。もちろん信仰と経済活動と別物であろうが、あくまでもヨーロッパ側の思惑が主にあったと思える。
 だがニコライの考え方は違った。ギリシア正教会がロシアで広まり、ロシア正教となったように、同じように日本で日本独自の正教になることを考えていた。


 ハリストス正教会が真にこの国に根を下ろすためには、ロシアの教会を移入するだけではいけない。ギリシャ正教がロシアに伝わりロシアの正教となったように、ロシア正教は日本に入れば日本の正教となる。日本人の司祭により日本の言葉で福音が伝えられ、日本語の祈祷と聖歌のなかで、日本人の手で描かれた聖像画に祈りを捧げる。その日の到来こそ、ニコライが来朝以来いだきつづけた夢であった。


 私は山下りんのことは司馬遼太郎さんの『街道をゆく』で知った。司馬さんはりんが絵を描きたいという一心で上京したことについて次のように言う。


 りんの例をみるにつけても、芸術上の-とくに音楽・絵画という純粋芸術の場合-才能とは病名のことではないかと思ったりする。とりわけ大いなる才能が宿る場合、宿主の魂を高貴にする一方、宿主をたえずつき動かして尋常ならざる人生を送らせてしまう。(街道をゆく33「野バラの教会」)


 司馬さんは奥州白河の旧城下の愛宕町界隈を散歩しているとき、小さな教会を見つける。白河基督(ハリストス)正教会聖堂であった。そこに山下りんのイコンを見て、ロシアにおけるイコンとはどんな存在であり、そして山下りんのイコンがそれとどう違うのかを語っている。


 言いわすれたが、イコンは板絵である。板のまわりだけをのこしてなかを浅く彫り窪ませ、そこに麻の布を貼り、麻の上に石膏粉とニカワをまぜたものをぬって画布とする。その上にテンペラ絵具で聖像を描く。
 その描き方はきわめて平面的で、人物も当然ながらルネサンス風の表情をもっていない。(同「山下りん」)


 ごく一般的に、絵というものは、文章とは別趣の情報をひとにつたえるものである。宗教画の場合、描き手の個性が自由に展開されれば、受けとめ手である信者は、絵の中の個性の部分まで聖性としてうけとってしまうかもしれず、“危険な”ものになってしまう。
 ロシア正教ではおそらくそういう“危険”をよく知っていて、聖性のみを表現するために、描き手を法則でしばり、無個性を強いたのであろう。その結果、余分な肉が削ぎとられ、肢体の動きも、そよ風のなかのしだれ柳のようになり、山下りんのいう“オバケ”になったのに相違ない。(同「山下りん」)


 ロシアの修道院がりんに自由に絵を描かせなかった理由がここにある。
しかしここで山下りんのイコンを見た司馬さんは「形式からまったくはなれた一個の宗教的な油彩画としかおもえない」と感想を述べる。たぶんここまでに至るまでのりんの心の葛藤が司馬さんにそう思わせたのではないかと思う。


川又 一英 著 『われら生涯の決意 - 大主教ニコライと山下りん』 新潮社(1981/03発売)

司馬 遼太郎著 『街道をゆく』33 朝日新聞社(1989/11発売)


by office_kmoto | 2017-05-05 20:37 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

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