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永井 龍男著『わが女房教育』

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 この本は「わが女房教育」と復習「わが女房教育」、そして課外読本の3部に別れる。「わが女房教育」は何でも昔永井さんが書いた文章の復刻らしい。

 娘二人が、次ぎ次に嫁いで行ったのは、もう七年前のことである。
 その下に子はないので、以来妻と二人暮らしになった。いまでも時折り、淋しくはないか、淋しいだろうと訊かれるのは、われわれが老けて傍目にそう見えるのだろうが、本人たちはそれほどのことはい。(淋しくはないか)

 読んでいて、永井さん夫婦は近くにいつもいる感じだ。きっと昔はこういう感じだったのだろう。そこには夫が妻に対する優しさがある。思いやりがある。普段感じていないけれど、ふとそばに妻がいることを感じる。居てくれることでさびしさがまぎれる、という。
 永井さんは愛妻家なのだ。正直、見習わないといけないな、と思ったりする。

 僕らのように、ごく普通の俸給生活者もあれば、共稼ぎの家庭もあり、世の中の夫婦生活の様式は種々様々だ。もちろん男女同権に文句はないし、僕のわがままな点は、常々すまないと思っているが、われわれはお互いに、君という妻を、僕という夫を選んだのだ。急ごしらえの物差しで、うかつにお互いを計らないようにしたいものだ。(ものさし)

 つまり、夫婦の作法とは、それぞれの御夫婦独自のものを、日々の生活の中に作り上げるべきで、こうでなければならないとか、ああしなければならないという、外からの定めはないと思っています。(夫婦の作法)

 それでも夫は妻にこうあって欲しい、という男の側のわがまま見えて微笑ましい。

 一しょに外出する時は、奥さまの方が、三十分前に、すっかり支度を調えていただきとうございます。御夫婦で機嫌よく、門口を出られる秘訣です。(秘訣)

 生活の中でちょっと不思議というのが書かれている。

 あの眼覚時計は、三年前に買って、二度修繕に出して、それ切り動かずいるんだが、まったく不思議な気がするんだ。必ずといってよい程、日本の家庭には、こんな風に動かない眼覚時計があるんだよ。(時計)

 そうなのだ。我が家にも動かない、あるいは壊れているのか、遅れたり進んだりする時計がある。捨ててしまえばいいのだが、なぜか捨てられない。たいがいそんな時計は何かの記念にもらった時計だったりする。

 カレンダーといえば、昨年の歳末には驚いたね。いったい何種類のカレンダーを、もらったことだろう。
 八百屋に肉屋、薬屋と、みんないい合わせたように、大小さまざまなカレンダーをくれたものだ。銀行、会社と数え上げると、大した無駄だね。知恵がなさすぎる。
 中元の時も、お粗末なうちわがはんらんしたが、多分また今年も、これだけはほかに利用の途のないカレンダーが、方々の家を迷惑させるに違いない。(カレンダー)

 会社勤めのとき、メーカーや取引先からたくさんのカレンダーをもらう。本当にこんなにあってどうするんだ、というくらいに。結局いいものだけを取って、後は捨てることになる。
 私が毎月通っている病院も薬のメーカーなどから次々とカレンダーが来るようで、1月になると、待合室にカレンダーをダンボールに詰め込んで、「ご自由にどうぞ」とあった。
 うちわも同様で、冷暖房完備が当たり前の時代に、それほどうちわなど必要ないのだが、それでも何枚ものうちわがたまった。

 「焼きむすび」は確かに自分で焼いた方が美味しい。今は冷凍ものが氾濫し、それが当たり前になっている。手間がかかることを考えれば致し方がないのかもしれない。安い居酒屋チェーン店などで焼きおにぎりを注文すれば、出てくるものは明らかに冷凍物と分かる。
 昔はご飯が余ると、それをおむすびにして、金網で焼いた。母がよくそうしていた。醤油や味噌を付けると、その香ばしさはたまらない。
 先日娘が自分の娘に「おじいちゃんの焼きおにぎりは美味しかったんだよ」と言い、そうか分かっていたか、と思ったものだが、孫に焼きおにぎりを作ってやりたくても、今は金網さえない。

 課外読本では、夫婦間の注意事項だけでなく、一般的な真理を言っている。

 クリスマスも、もう日本人の生活に解け込んでいる。人間がたのしさをわけ合おうとして集る行事ならば、いまさら宗教的に詮索して、とやかく云うことはあるまい。(柊と水仙)

 人生のうえの「とりこぼし」は、その人の若さを証明するもので、「とりこぼし」にない若い時代なぞというものはありえない。
 「とりこぼし」をおそれて、あまりまわり道をするようなところに、若さのあろうわけがないし、またいかに自省し用心深くあるつもりでも、おのずと行為に「我」の出てくるのが、若い時代である。
 われわれは、みなそのような道を通過してきた。
 だから、ふり返るごとに、あとに続く若い人たちのいま通っている道をのありさまがわかる。
 そこでつい、もう少し用心深くとか、「我」をころしてとか、注意を与えたくてならなくなる。(少し弱くなるとき)

 自分というたった一人の読者に対して、嘘をつかぬこと、それが日記をつける辛さの根本ではあるまいか、私はそんなふうに反省している。(新日記)

 帽子一つ、着物一揃えにせよ、自分のものにするまでには手間がかかる。まして教養ということになれば、鼻の先きにぶら下げた知識や趣味性などは、その人の言葉を、品性を、安っぽくするだけにしか役だ立たないこともある。(「美しい話し言葉」ということ)

永井 龍男著『わが女房教育』 講談社(1984/05発売)


by office_kmoto | 2017-07-29 06:52 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

南木 佳士 著 『神かくし』

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 また南木さんの本を読み返してみた。この本は「神かくし」「濃霧」「火映」「廃屋」「底石を探す」の5篇の短編からなる。
 「神かくし」がいい。
 朝久しぶりに気分良く目覚めた。玄関に出ると、患者である老姉妹が歩いてくる。かつて自分たちの持山だった山に入り、キノコうどんを作ろうとこれから向かうところであった。
 気分が良かったこともあって、老姉妹に息を切らしながらついていく。老姉妹の姉はかつて危篤状態で病院に搬送され、もう何も治療しないことにしたのだが、若い医師が、まだ息があることで、治療を始め、回復した。
 その姉は退院してまた外来に見えたとき、

 「なにもせずに看取ろうしたんです。吉川君が助けたんです。だから、田村さん、吉川君の外来に行った方がいいですよ」

 こう言うのは、何も治療しなかったことの後ろめたさがあってこう言った。

 「またその話かい。くどいねえ、あんたも。いいかい、その吉川っていう先生がわたしを助けようとしたとき、あんたは黙認したんでしょう。わたしの首を絞めたわけじゃないんでしょう。だったらそれでいいじゃない。そういう流れが自然に生まれたとき、その流れをあえて止めようとしなかったっていうのはあんたの決断でしょうが。決断ていうのはさあ、あたりをきょろきょろ見まわして、ちまちまと状況判断することじゃなくて、そういう流れの全部を、そういう流れなかに身を置いて引き受けるってことだとわたしは思うよ。ちゃんと決めたくせに、自分だけ悪者ぶるのはよくないよ。ガキっぽいよ。……なんて、診てくれる先生に言っているんだからどうしようもないのはこっちの方か。あっはっはっ」

 こういう言い方が出来る人はなかなかすばらしい。こんなにはっきりと物を言われてしまうと、反論も出来ない。「あんたもくどいね」というのはいい。
 その姉がキノコの場所を示しそれを取ると、それが毒キノコであった。妹がそれを責めると、彼女は言う。

 「採る感触を味わってもらいたかったんだよ。わたしも毒キノコだって分かっていたけどさ、あとで教えてやればいいやって思ってたんだよ。あんたほどワルじゃないよ、わたしは。あっはっはっ」

 「あんたほどワルじゃない」なんて言われちゃえば、何も言えまい。
 「濃霧」は自分を育ててくれた祖母の親戚関係を知る話だ。叔父の叙勲のお祝いに出席したおり、祖母の腹違いの弟から話を聞く。その時大叔父は「おめえは本を書いてるだが」と詰問され、思う。

 本を書く、正確にいえば本気で虚構を書くという行為には常にうしろめたさがつきまとうものと自覚しているから、この老人にような見ず知らずの生活者と書くことについて話す気になれない。

 ここで昔、大学の名誉教授の肩書きを持つ老病理学部長との会話が描かれる。
 「先生はなぜ医学部に進まれたんですか」と尋ねると、本当は数学科に進みたかったと言う。「後悔しておられないんですか」と聞けば、

 「起きてしまった出来事はそれをそっくり身にまとうしかありません。そうやってみんなとんでもない老人になってゆくんです」

 と答える。

 「火映」は亡くなった高校時代の同級生が残した小説の話であった。小説自体大したことがない。ただ彼の生原稿が亡くなった人間の高揚や息づかいを感じさせ、その肉筆が迫ってきた。

 なあ、山内、おまえ、なんで小説なんか書いたんだよ。送られてきたのが理解不能な専門用語にあふれた医学論文だったら、こんな不眠に悩まされなかったはずなのに。なあ、山内、なんでだよう。

 亡くなった友人の書き残した生原稿を読むのはこたえるだろうなあ、と思う。
 その小説はどうっていうことはない。なんでこんなものを書いたのか、わからなかった。

 「廃屋」は今は廃屋となっている実家の話だ。そこにこんな文章がある。

 人間五十年というのは寿命のことばかりではなく、己の過去を夢まぼろしと認識できるようになるまで少なく五十年はかかる、との意味なのではないか。

 先の老病理学部長の言葉、そしてこの文章にしても、こう人生を悟りきった語り口は、単に諦めとして片づけられないところがある。そこには、こうとしか生きられなかったのだという感慨があるような気がする。戻ることもやり直すことも出来ない。ただそれを肯定するしかない年齢にしか言えない言葉のように思えてならない。誰だって好きでそうなったわけじゃない。そこにはいくつか軌道修正され、受けとめて生きてきた人の重みがそこにはある。
 今さら夢とか希望とか持ち出されても困惑してしまうし、それを己と同様の年代の人が大声で言うことに胡散臭さを感じてしまう矮小さがなくはないが、そこには自虐的にならざるを得ないほど、苦労や数多くの諦念があるからそうなる。それが悲しくて仕方がない。
 さらにそこに家族、親戚、友人知人の死を聞かされることの多くなる年齢であることも思い知らされ、余計にこれまでの人生、残されている時間など考えてしまうのである。自分がそういう年齢になっているものだから、それがものすごく心に浸みる。

南木 佳士 著 『神かくし』 文藝春秋(2002/04発売)


by office_kmoto | 2017-07-27 05:24 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

前田 豊 著 『玉の井という街があった』

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 ウィキペディアでよると次のようにある。

 玉の井(たまのい)は、戦前から1958年(昭和33年)の売春防止法施行まで、旧東京市向島区寺島町(現在の東京都墨田区東向島五丁目、東向島六丁目、墨田三丁目)に存在した私娼街である。永井荷風の小説『濹東綺譚』、滝田ゆうの漫画『寺島町奇譚』の舞台として知られる。

 先日孫が行っている保育園の生活発表会が、曳舟駅近くの小学校の体育館を借りて行われ、見に行った。駅から学校まで少し距離があり、迷ってしまう。途中「鳩の街」という看板が掲げられた商店街あった。ああ、ここがあの「鳩の街」なのかと思った。
 私は今イラストマップが好きで、目にすると頂いてくる。曳舟駅に京成電鉄が出している「隅田川七福神めぐり」というのがあったのでそれを頂いてきた。そこには玉の井、そして鳩の街の位置も記載されていて、なるほどここが玉の井、鳩の街があったところなのか、位置関係を確認した。

 この地域が新しい私娼街として出発したのは、大正12年(1923)の関東大震災で焼け出された浅草十二階下の銘酒屋群が、大量にここへ移住した結果である。が、実際はこの定説よりももう少し早く、大正7,8年頃、浅草観音裏の道路拡張工事(現在の言問通り)で、追い立てを食らった五、六軒の銘酒屋が、大正道路といわれる白鬚橋から寺島村へ通じる新道の道路ぎわで、商売をはじめたのが呼び水になったようである。

 中でももっとも強力なのが、十二階下の千束町二丁目一帯から、五区の観音裏、六区の大勝館裏にかけて集結した、銘酒屋とよばれる浅草公園の私娼窟である。ここには、全盛時九百軒の娼家が密集し、千七百人の私娼群がいた。
 浅草観音堂を中心とする地域一帯は、江戸時代から奥山の名でよばれ、見世物場としても有名であったが、観音堂の周辺が七区割に分けられ、完全な娯楽場になると同時に、吉原に近い千束町などに自然発生したものが、この銘酒屋であるといわれる。
 銘酒屋という業種がいつごろ発生したかはつまびらかでないが、大正三年刊行の「浅草区誌」によると、浅草界隈の銘酒屋は明治三十年(一八九七)に一二六軒、その後多少の変動があって、大正元年(一九一二)には四五九軒を数えるに至っている。業容は居酒屋の形態をとってはいるものの、実質上酒を売る店は一軒もなく、白首といわれる酌婦が店に出て遊客をひっぱり、気がるに売淫交渉を行った。白首というのはごてごてと首筋にだけ白粉を塗るのでその名が生まれ、以後ほとんど私娼の代名詞になった。

 ところで十二階のことだが、(略)場所は浅草六区の北端、現在の東映劇場(閉館)あたりに当たる。本来の名称は凌雲閣といい、十二階は通称で、楼閣料は大人六銭、軍陣子供半額。構造は十階までが八角形の総レンガ造りで、十一、十二階は木造であった。八階までエレベーターが通じ、三階には当時としては斬新な音楽休憩所(料金二銭)があり、九階には新聞従覧所、十階にはまた休憩所(茶代必要)そして十一階、十二階には見料一銭の望遠鏡は備え付けられていた。 
 なにしろその眺望は、富士、筑波を左右に望み、秩父連山、房総の諸山、東は鴻の台、天気晴朗の日は西は箱根より、北は日光まで望めるといった、関東平野を一望におさめる景観を謳い文句にしていた。
 このような珍しい建築物であるから、見物人は連日ひきもきらず。押すな押すなの行列をつくった。抜け目のないその方の業者がこれに眼をつけぬ筈はない。十二階の帰りには是非こっちの山へ登ってくれというわけでもあるまいが、ぎっしりと銘酒屋群がその周辺に蝟集し、人間ひとりやっと通れるくらいの通路から、酌婦が通行人の袖を引いたのである。
 だが折角の名物十二階も、翌明治二十四年五月、建造後わずか半年で、構造上の不備による危険を理由に、エレベーターの取りこわしを命じられ、目玉商品を失ってしまった。自前の十二階まで踏破するのは、物見高い老人子供の足では、簡単にできるわざではなかった。
 その揚句、持主の福原庄七と電気会社との間に訴訟問題が生じ、客足は次第に減る一方。盛んなのは「下」のほうばかりだった。
 そして創業二十年、関東の大震火災で建物も崩壊し、周辺の銘酒屋と共に灰燼に帰して、こんどは恨みっこなしに「上下」揃ってこの土地から消え失せたわけである。

 「玉の井」娼家群の歴史は浅い。すでに述べたように、大正十二年、浅草観音附近よりの大量移入以降、昭和二十年(一九四五)三月十日の空襲で焼失するまで、たかだか二十数年の生命しかなかったといっても誤りではなかろう。

 実際、玉の井というのはふしぎな街だった。汚なくて、臭くて、みすぼらしい、およそ美というもののないこの場所に、外部からの遊客は独特の魅力を感じたのだ。
 ドブと便所と消毒液の匂い、一年中蚊が至るところでわんわんと唸り生じ、冬は冬で寒風が多角度に吹きすさび、ろくに方向を見定めることもできない。
 この、うらぶれた貧しい場所へ、毎日毎夜、何千何万という人間が、雨の日も風の日も、悪臭をおかしてやってきたのも、言うなれば、玉の井という街の持つ貧しさそのものに、大きな魅力を感じたからに他ならなかったからであろう。ここには吉原など公娼街ではぜったいに得られぬ青春の詩があった。形式張らない安直さが、資力のない若者や遊客に何よりもよろこばれた。

 何しろ娼婦の数は多く、一時期三千人に達したこともある。
 昭和十二、三年ごろになると日支事変も本格化し、出陣の前夜、この地に最後の歌をかたむける歓送の青年団旗などが、娼家の店口に立てかけてあるのをよく見かけたものだ。
 この小窓へ坐る女を業界では「出方」といい、昭和三、四年頃から組合の規定で「出方」は一軒に二人以上置かぬ規約になったが、実際は女中、養女、手伝い等の名目で、予備娼婦を置く家もあった。なかには経営者の細君や妾など、通称「かあさん」が、「主人(あるじ)出方」の形式で客を取る家もあり、「通い出方」と称する世帯持ちの女もいた。
 (東武電車)雷門-玉の井は片道六銭で、夜間は乗客の八〇%が玉の井駅で下車してしまい、あとはほとんど空車同然だったといわれる。

  しかし昭和20年(1945)3月10日の空襲で玉の井は全焼した。ここから鳩の街が生まれる経過が語られる。

 罹災した娼婦たちは一時縁故をたよって四散し、帰農する者、工場労働者になる者もあったが、何しろ空襲時に約四八七軒(一説では五五五軒)一二〇〇人もいた娼婦たちが、いずれも同じ家庭環境を持つばかりとはいえなかった。中には実家や親戚に帰っても住居や食料等の問題で、歓迎されない者もある。
 いきおい食い扶持を稼ぐためには、身に馴れた一番てっとり早い仕事につくより方法がなかった。
 亀有、亀戸、立石、お膝元の玉の井の被罹災をまぬがれた非娼家街の一部である。大正道路(いろは通り)の北側、現在の墨田三、四丁目あたりの非罹災地だ。なかでももっとも多くの罹災娼婦を吸収したのが、のちに「鳩の街」と呼ばれるようになった寺島一丁目の一画である。
 ここは元玉の井私娼街から南へ一キロぐらいしか離れていなかったし、ほとんど罹災をまぬがれた住宅街で、疎開による空家が多く、焼け出された玉の井業者連にとっては垂涎千丈にも達する地域だったのである。

 だれがつけたのかPigeon Street というしゃれた名称が、そのまま時流にあい、人気につながったのも原因の一つだが、ここには吉原や新宿などと異なった伝統も背景もない、新興歓楽地としてのイキのよさが、長い戦争の疲弊から解放された多くの男達に、なによりも強い刺激と魅力をあたえた。

 鳩の街の女は旧玉の井の女と較べてはるかに身なりがよかった。
 それは玉の井が工場街のうらぶれた場所にあるのに反して、附近に向島三業地や数多くの名所旧蹟を擁し、向島という土地自体が江戸時代から一流の場所に位する関係もあったが、原因の多くは、ここで働く女の稼ぎ高と境遇が、物を言ったと解釈したほうが適当かもしれない。
 玉の井時代の女は親のために身を沈める貧困者の娘が多かったが、鳩の街の女は一般家庭の子女が多く、教育があった。売春生活に対する意識も相違して、妙に卑屈にならず、論理的解釈をする者も大いにいたようだ。

 要するに儲かったから女たちは来たのである。
 その後玉の井、鳩の街が消滅していった経過を語ると次のようになる。
 終戦を迎えると、「女体ベッド作戦」と称する、進駐軍の兵士から一般婦女子の貞操を守るための、職業女による防波堤の施設の設置が官民で考えられた。
 終戦後二週間足らずでR・A・A(特殊慰安施設協会 Recreation・And・Amusement・Association)の名の元に全国売春業者首脳部、料理飲食業組合幹部、その他、関係官庁役員等で、皇居前広場に設立宣言式が行われた。
 ところがそれから1カ月も立たぬうちに、各慰安所の一斉検診が行われ、翌21年3月10日にR・A・Aの全施設に対して進駐軍が「オフ・リミット」(立入禁止)の黄色い看板を掲げた。さらに翌22年1月15日には、それまで女によろしく頼むと低姿勢一点張りの政府や役人が手のひらを返して「婦女に売淫させた者等の処罰に関する勅令」を出す。
 昭和24年5月31日には東京都は「売春取締条例」を制定し、これが全国に広がる。昭和27年(1952)講和条約の発効と同時に日本は独立国になり、「日本の恥部」を廃するという婦人議員たちによって同30年に売春防止法が国会に上程された。この時は否決されたものの、同31年5月21日は可決された。そして売春防止法実施の33年3月31日を最後に玉の井の灯が消えていく。

前田 豊 著 『玉の井という街があった』 筑摩書房(2015/07発売) ちくま文庫


by office_kmoto | 2017-07-24 05:48 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

吉行 淳之介/山口 瞳 著 『老イテマスマス耄碌』

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 対談集を読むのは久しぶりだ。まして対談の名手と言われる山口さんと吉行さんである。この二人の対談が面白くないわけがない。
 読んでいて、山口さんの「男性自身」の裏話みたいなことがわかって面白かった。

 吉行 「男性自身」を読むと、なんだかんだ言っているけど、言ってるわりにはずいぶん食うし、よく動いているね。

 これは吉行さんの言うとおりだ。

山口 あなたは全然いかないね。階段がつらいから?

吉行 階段もだけど、チャックをおろすのが面倒でね。

山口 むかしは何度もおろしたくせに(笑)。

吉行 これが老いたということよ。あなたは、警戒していることってある?僕はまず、階段を慎重に昇り降りする。

山口 だけど、まだ階段はいいんだってね。ある種の警戒心が働くから。このぐらいの段差がいけないんだ。

吉行 料亭の座敷の入口とかね。

山口 そう、あれでかえって大怪我する。

 山口さんは前立腺肥大だから、トイレによく行く。それに対して吉行さんはトイレに行かない。それがどうして?というところから始まる会話だ。吉行さんが昔よく女性のところへ通ったことを山口さんが茶化している。
 で、段差の話になるのだが、これね、山口さんの言う通りで、最近妙につまずくことがある。自分ではちゃんと足を上げているつもりでも上がっていないんでなあ、これが。やんなっちゃうし、情けない。

山口 前にね、「入れ歯の十徳」というのを書いたことがあるんです。まず、胃カメラね。僕、どうしても出来なかったんだけど、入れ歯をはずしてやると、とっても楽です。

吉行 僕は、三度やったら、なんか好きになっちゃってね。

山口 じゃ、吉村(昭)さんと同じだ。あの人、大好きなんですよ、胃カメラが。

 これは大笑いした。吉村さんはエッセイで胃カメラを飲むことなどなんてことない、と書いていたし、まめに胃カメラの検査を受けている。胃カメラの歴史も書いているし。

山口 僕は、慶応の神経内科ですけどね。待合室で新潮社の重役さんと一緒になるです。僕らがかかっているのは、日本で五本の指に入る名医なんですが、ここへ来て、「もう治りましたから、来月から来なくていい」と言われた人は、一人もいないとその重役は言うのよ。その点、歯医者は「もう、今日でおしまいです」っていうのがある(笑)。

吉行 歯医者は生還率が高い(笑)。

 これも大笑いした。確かに歯医者以外「これでおしまい」って言わないようなあ。

吉行 和光に行って、スリッパを買って、届けてもらおうと思ったんだ。熨斗紙ついていてね、上に何か書けって言うんだよ。それで「洪水見舞」と書いたら笑い出しちゃってね、店の女の子が。

山口 雄大ですね。中国の洪水みたいだ(笑)。うちの水害を洪水と言ったのはサントリーの会長の佐治敬三とアニさんの二人だけ。やっぱりスケールが大きい。

 山口さんの自宅が大雨で浸水した後の話だ。「男性自身」にも佐治敬三さんからの見舞も「洪水見舞」と書かれていて、さすがサントリーの佐治さんだとスケールが大きい、と書いていたが、同じことを吉行さんもやっていたんだ、と思って笑ってしまった。

山口 自然に集まるんですよ。出版社に勤めていた頃は、同じ会社に、田舎から出てきて下宿している人がいる。そういう人を招いて、元日にお茶漬けの会をやってたんです。

吉行 それが始まり?

山口 ええ。そのうち、近所の左官とか大工とか、植木屋とか水道屋とかも来るようになりましてね。編集者でも比較的近所に住んでいる人とか、故郷に帰らないという人に、よかったらいらっしゃいと言ってたんです。それがだんだん大きくなってね。仕事を全然していない出版社なのに、ひょいっと見ると、そこに編集者が五人もいたりする(笑)。

 これは毎年山口さんのお宅で多くの人を呼んで新年会が開かれる。年末にはその準備で市場に買い出しに行く。そのことが毎年「男性自身」に書かれている。その新年会の起源が書かれている。

吉行 淳之介/山口 瞳 著 『老イテマスマス耄碌』 新潮社(1993/06発売)

by office_kmoto | 2017-07-22 05:50 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

稲泉 連 著 『「本をつくる」という仕事』

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 著者には東日本大震災で被災した書店の復旧を取材した『復興の書店』という本がある。その本では、被災地の人から地震の翌日から書店の再開を求められ、その声に励まされきた書店員の話や、書店員も被災した読者になんとかして本を手渡そうとする姿が描かれていた。
 そんな光景を見た著者は「『本』というものに対する見方が、自分のなかで確かに変化した」と感じた。そんな多くの人が求める「本」のことをもっと知りたくなる。ものとしての本が作られる間にどれだけの人が関わっているのか知りたくなったという。この本はそうしたものとしての本に関わる職業の人を訪ね、話を聞く。
 話は本の内容とは順番が狂うが、まずは本の土台である紙の話から始める。著者は青森県八戸市にある三菱製紙工場を訪ねる。その巨大な設備を見て、

 それにしてもこうして製紙工場の大きな設備群を一望していると、一冊の本というものが大量生産の重厚長大なシステムのなかから、一滴ずつ搾り出される雫のような、紛れもない工業製品であることを実感する。

 紙は木材チップからつくったパルプを抄き、水分を抜いて繊維を薄い一枚の板に変えた素朴な素材だ。
 だが、ひとたび何かが印刷されると、紙には多様な価値が生み出され、製本されれば一冊の本へと変わる。書くことが本に命を吹き込もうとする行為だとすれば、紙はその命を生むための土台だ。

 そして次に書きたいのは、新潮社で校正・校閲人生を40年勤めてきた人の話である。ちなみに校正と校閲の違いをはじめて知ったのでその違いを記す。

 校正・校閲とは、著者の書いた原稿を印刷された「ゲラ刷り」と読み比べ、誤りを正す作業のことを指す。厳密にはゲラ刷りが原稿通りになっているかをチェックするのが校正、内容の事実確認や正誤を含めて調べ、全体の矛盾などを洗い出すのが校閲、ということになろうか。

 そしてこの校正・校閲は、

 まさしく彼らは一冊の本の価値を支えている陰の立役者であり、普段は読者が意識しない出版文化のインフラのような存在なのだと思う。

 と著者は書く。
 ところでこうした校正・校閲は今は外部に任せるところが多くなっているらしいが、新潮社は自社の出版物全てを新潮社の校閲部がみるという伝統がある。
 それは新潮社の創業者・佐藤義亮が印刷所出身で自ら朱筆をとって校正を長くやってきた人だったので、それが新潮社の伝統となった、という。
 次に本の装幀者の話になるのだが、本の装幀がどんな意味を持つのか。著者は次のように言う。

 ブックデザイナーが装幀した本は、最終的に書店に並べられる。その集合体である平台や棚の風景は、一つの「時代の空気」をつくり出すことになるからだ。

 なるほどそうかもしれない。
 そして次に活字の話を書く。ここでは大日本印刷を訪ねている。大日本印刷には創業以来の「秀英体」という書体がある。この秀英体の話が面白かった。
 1876(明治9)年に創業された大日本印刷は秀英舎という社名だった。「秀英体」はその名の通り「秀英舎の活字」という意味で、明朝、角ゴシック、丸ゴシックなどのラインナップの総称である。これは大日本印刷の原点でありDNAと言っていい。
 当時日本の活字書体には東京築地活版製造所が開発した「築地体」があった。秀英体は「築地体」の流れを汲むいわば直系の書体で、築地体と秀英体は「和文活字の二大潮流」と呼ばれている。
 その活字の書体は職人が一文字ずつ手で彫っていた。彼らは木に彫った字で型をとり、それをもとに固めたものが活字となった。
 明治時代につくられた秀英体は、活字にインクを付けて紙に押し付ける活版印刷が前提になっており、活字に紙を押し付ければ、その圧力の分インクが滲んで文字が太くなる。そのため職人たちはそのことを計算して活字を作っていた。しかし今や印刷はデジタル化されたため、インクの滲みを考慮して職人が作った活字では字は細くなる、中にはかすれてしまうものがある。なので「改刻」という作業が必要となってくる。それは単に職人が作った活字を太くすればいいというものでもない。それだけではバランスが崩れる。そのためこの書体を一字一字取り上げ、修復して生まれ変わらせようと始まったのが「改刻」という作業である。

 ……つねに改刻され、使われ続けることでしか、書体は生きることができない……。

 新しい書体をつくる際の手順は次のようなものだ。
 二万三〇〇〇字に及ぶ文字のなかから、まず全ての基本として試作される漢字がある。それが左記の一二字である。

 国東愛永袋霊酬今力鷹三鬱

 例えば書道の世界に「永字八法」という言葉があるように、「永」の字には点、横画、縦画、ハネ、左払い、右払い……といった漢字の基本パーツが含まれている。他の字も同じように書体を作製する際の基本形となる字だという。

 大日本印刷では秀英体は大日本印刷のDNAであることから、会社をあげてこの作業が行われた。「秀英体開発室」の伊藤正樹さん次のように言う。

 「ニュースを伝えるアナウンサーの声が重要であるように、書体は声なんですね。そこには明るい声もあれば、威厳のある声もある」

 次は印刷であろうか。著者はFUPという名の活版印刷工房を訪ねる。そこでは詩集や歌集などの本、あるいは「端物」と呼ばれる名刺、広告チラシなど求められればあらゆる印刷を活版で請け負っている小さな印刷会社である。
 著者はこの工房で、

 「本づくり」の現場にはいつもこのどこか懐かしいような、インクと機械油の入り混じった手工業の香りが漂っている。

 と書く。これよくわかる。以前書いたと思うけれど私も活版で名刺や挨拶状など印刷している小さな印刷屋さんに出入りしていた。まさしくそこは「インクと機械油の入り混じった手工業の香りが漂っていた」。それは本当に懐かしい。どうしてそう感じるのかな、と思ったらこのFUPという活版印刷工房の店主渓山丈介さんが次のように言うのを読んでなるほど、と合点がいったのである。

 「大規模なオフセットの設備を以前に見ていた僕は、一方でこうも感じたんですよ。本というものはこんなハンコや木(インテルには木製と金属のものがある)を組み合わせて、ペタッと押すだけで出来ちゃうものであるんだ、って。それは誰にでもわかる単純な仕組みなんですから」

 出入りしていた印刷屋は私に印刷の原点というものを直に見させてくれる場所だった。印刷の基本をここで見ることが出来ると思っていた。
 今は効率的にしかも大量生産するから大がかりになっているだけのことで、印刷の仕組みは当時のあの印刷屋にあると思えたのである。だからいつまでも印刷機の動く模様を見ていた。
 ちなみにインテルとは組版の行間に詰めるものことらしい。

 「要するに、とにかく物質的な「手ごたえ」のあった世界だと僕は思うんです。印刷業ではその「手ごたえ」が効率化によって邪魔なものだったので、どうにかしてなくそうとして努力を重ねてきた。いま、いよいよその世界が消えようとしてみれば今度は寂しいという話になって、活版で印刷物を刷りたいという人が現れ始めるのですから、世の中は変なものですよね」

 原点というのは忘れがたいものだ。そしてそれが手作業の趣があるから余計だ。「味」というのだろうか活版印刷にはそれがある。
 そして最後に製本所のことを書く。著者はかれこれ100年近い歴史を持つ老舗の製本所である松岳社(青木製本所)を訪ねる。四代目の社長は昔の製本職人について次のように言う。

 「要するに製本の技術というのは、そういう仕事だったということです。職人が腕一本であちこちの工場を渡り歩いて、一日に何千部できるといった技能が評価された。そのなかで会社を立ち上げる人もいた」

 同社の戦争にまつわる逸話が面白い。
 青木兄弟製本所の製本技術が高く評価され、昭和天皇の研究論文を製本した。戦争中、多くの工場では機材を軍へ提供することを求められ、砲弾か何かにされてしまった。でも一度でも天皇陛下の出版物を製本し、宮内庁御用達の看板が与えられた会社の機材を砲弾にするわけにはいかない。
 宮内庁御用達の看板がないため戦争中大きな印刷所では危機にさらされたこともあり、中には看板を持っている会社と合併して、機械の提供を免れたという話もあるという。
 同社は飯田橋に工場を移し、最初に請け負った仕事が『岩波理化学辞典』でそれが後に『広辞苑』の製本受注に結びついたという。
 社長の言葉は、本というものがどういうものか知ることが出来る。


 「少部数でも誰かにとって特別な一冊、その人にとって他に代えがたい一冊をつくろうとしたとき、製本の技術が失われてしまっていたら、本をめぐる大切な世界がなくなってしまう。そこにはまだまだ奥が深くて、人の心に訴えかける何かがあると僕は信じたいんです」

 これから電子書籍の普及はますます広がっていくだろうと思われるけど、本は決してなくならないし、本という媒体が大切にされる理由もここにあるように思われた。

稲泉 連 著 『「本をつくる」という仕事』 筑摩書房(2017/01発売)


by office_kmoto | 2017-07-19 06:01 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

平成29年7月日録(上旬)

7月1日 土曜日

 雨のち曇り。

 清水義範さんの『夫婦で行く意外とおいしいイギリス』を読む。


7月2日 日曜日

 曇り時々晴。


 久々に雨が上がった。なので出来なかったさつきの消毒をする。玄関先、庭の掃除をする。
 図書館でマイケル・サンデルのハーバード公開講義のDVD借りて、見ていた。明日からしばらく中央図書館が休館になるので、あわててその2巻目以降を借りてくる。

 東京都議会議員選挙がある。午後八時になると選挙結果が発表になる。どうやら自民党が歴史的敗北になりそうだ。ここのところ自民党が国政で好き勝手なことをやってきたので、少しお灸を据えるほうがいい。
 あまり政治的なことは書きたくなのだが、安倍首相、政治家以前にちょっとこの人、人間的におかしい、と思えるところがある。
 私は自分の立場で後ろ指を指されそうなことがある場合、意識してそれを避ける。たとえば自分の立場でどうにでもなることがあって、それを関係者や友人にやってもらい、彼らの利益になると思われそうになることは避ける。立場を利用した、と後ろ指を指されないようにするためだ。たとえ、その利益を受ける人が素晴らしい人であっても、自分の関係者、友人だったら、横にどいてもらう。普通そうじゃないだろうか。公平性を担保するためには。それにつまらぬ疑いをもたれることはしてはならない。
 ところがこの人は違っている。友人に学校認可をしている。偶然かもしれないが、そこは立場をわきまえないとならなかったんじゃないか、と思っている。
 夫人にしてもそうである。名誉なんとかになるというのも、本来ならシビアにならないといけない。必ず誰かが地位のある人を利用しようとするからだ。そのあたりがこの二人には脇が甘い気がしてならない。


7月4日 火曜日

 曇り。夜より台風が来る。

 今日夜から台風が台風が来るというので、庭と玄関先の掃除をした。ここのところ暑くなってきたので、シクラメンを北側の涼しい場所に移し、空いた場所に他のプランターを移したら、なんと片手ぐらいの大きさのガマガエルがからだを地面に埋めているのを見つける。目だけが動く。「えっ、なんだこれ?」と少々後ずさりする。ガマガエルとわかると、まいったなあ、なんでこんなところにいるんだ、と思う。時期的にどう考えても冬眠から起きてきたというやつではない。そうならかなりの寝坊助だ。それに地面は先日、土を新たに盛ったところで、その時はなにもなかった。地面が柔らかいところだったからそこにもぐり込んだのだろうが、それにしてもこんなところに隠れているのがわからなかった。いったいどこから来たんだろう。来るとすれば隣の雑木林から来たのだろうが、それにしてもそこに水などない。あるのは二百メートルぐらいいったところに親水公園があるが、そこからだろう。そうだとすればかなりの遠出だ。のしのしと歩いてきたのだろうか。ちょっと散歩してみようという距離じゃないと思うけど。
 以前ヘビがいたことがあったが、ヘビやカエルは苦手である。申し訳ないが、ガマさまには、隣の雑木林にお引き取り願った。後から親水公園に戻してやるのがよかったかなあ、と思ったが、さすがそこまで親切にはなれなかった。

 夕方から首の牽引へ行く。ついでに入らなくなった文庫10冊ほどと、つまらなかった単行本をブックオフに売る。いずれも古い本なので、お金にはならないだろうと思っていたら170円だった。まあブックオフなら妥当な値付けだろう。もともと処分のつもりだったから、それでよい。
 家に帰って自分の本棚を眺めながら、ここにある本のほとんどはブックオフでは価値のない古本だなあ、と思う。古すぎて需要がない本ばかりが棚に並んでいる。

 川上未映子/村上 春樹さんの『みみずくは黄昏に飛びたつ―川上未映子訊く/村上春樹語る』を読む。いろいろな意味でこの本は愉快であった。


7月5日 水曜日

 曇り。

 司馬遼太郎さんの『花神』〈1〉を読む。司馬さんの長編を読むのは久しぶりだ。
 以前からこの本は読みたいと思っていた。たまたま神田の古本屋で4冊ひとくくりで400円で売っていたのを買った。買って来て驚いたのだが、紐でくくられていたけれども、1冊、1冊はとてもきれいだ。しかもいずれも一度も読まれた形跡がない。
 その本が読まれたか読まれていないかはすぐわかる。まず本の地に読まれたものであれば、必ずスピンの跡が黒く残る。それにそのスピンの状態、挟まれている位置でも読まれた本かどうかわかる。まあ古本だから前の持主がその本を読んでいるのは当然で、それを気にするつもりはない。けれどその持主が一度も読まずに本を手放すこともままある。買った本を必ず読めるとは限らない。
 今回のこの本はスピンの跡もないし、スピン自体発売された当時のままその位置に挟まっていた。しかも発売されて45年間も同じ位置に挟まっていたから、くっきりとその跡がページに残っていた。その上売上スリップ、それと新潮社の新刊案内まで挟まっていた。
 こうなるとあれこれ推察したくなる。この本の前の持主はどんな人だったのだろうと。古本に関してこういう推察が好きである。特に今回スリップが入っていることだ。今だったら、アマゾンなどで本を買えば、スリップが付いたまま送られてくるけれど、45年前にはまだネットで本を買うということはなかっただろうから、通常本屋で買ったものであろう。となれば本屋ではその本が買われた時、必ずスリップを抜くはずだ。当時はスリップの扱いはそういうものであった。報償券にもなったし、注文書にもなる。売り上げ管理にも必要であった。
 それがそのまま挟まれたままになっている。ということはこの本は“書タレ”になって長いことどこかの本屋で棚にあったものかもしれない。あるいは4冊ごそっと万引きされたものかもしれない。
 古本は読む前からこういう楽しみを私に与えてくれる。いずれにせよ、45年前に発売されて、今やっとこの本は読まれるということになる。スピンを最初のページに挟み直すとき、その年数に厳粛な気持ちになってしまった。
 

7月7日 金曜日

 晴れ。

 司馬遼太郎さんの『花神』〈2〉を読む。やっぱり司馬さんの小説は面白い。ついつい夢中になる。本当はガンガン先に読み進めたいのだが、長時間本を読んでいると首が痛くなってくる。結局首の痛みで中断することことになってしまった。また明日である。

 昨日気がついたのだが、百日紅の花が咲いていた。我が家の庭で夏に唯一咲くのがこれだ。
 実家から養生のために持って来ているシャコバサボテンが元気よく新しい葉を出してきている。そろそろ実家に返してもいいかもしれない。


7月9日 日曜日

 晴れ。

 司馬遼太郎さんの『花神』〈3〉を読む。


7月10日 月曜日

 晴れ。

 司馬遼太郎さんの『花神』〈4〉を読む。


7月11日 火曜日

 晴れ。

 ここのところ暑い日が続く。今年初めてセミの鳴き声を聞く。まだおぼつかない感じで鳴いていて、そしてすぐ鳴き止む。
 そう言えば今年はよくとんぼを見かける。庭のさつきにクロアゲハととんぼが飛び回っている。


7月13日 木曜日

 晴れ。

 お盆なので、実家に行く。シャコバサボテンも返した。
 母の仏壇に花を供え、線香をあげる。それと今年亡くなった継母にも花を供える。彼女は仏壇はない。ただ居間のテーブルに写真とプリザーブドフラワーがいつもある。父は毎朝コーヒーとパンを供え、一緒に朝食を取っている。母の写真も一緒に置いてあった。


7月14日 金曜日

 晴れ。

 整形へ首の牽引へ行く。今は一週間に一回、牽引に行くことにしている。痛み止めもなくなってきたので、処方箋も出してもらう。

 吉村昭さんの『ふぉん・しいほるとの娘』〈上〉を読む。

 2016年3月「100de名著」で司馬遼太郎スペシャルをやった。この時取り上げられた司馬さんの本は『国盗り物語』、『花神』『「明治」という国家』、『この国のかたち』の4冊であった。そのうち『花神』と『この国のかたち』はまだ読んでいなかった。それで『この国のかたち』を読んだのは去年。そこからこの「100de名著」を使って読後の感想を書きたいと思っていたが、なかなかまとめることが出来ずに、今回『花神』を読み終えたので、きちんとまとめてみようと思っている。しかしこれが結構面倒なのである。
 実を言うと本を読んでその感想なり、考えたことなどまとめることが出来ずにそのままになっているものが数点ある。これらもいずれきちんとまとめて書きたいとは思っているのだが、それを考えるだけで面倒になり、しかも他の本を読む方に気持ちがいってしまっているので、なかなか先に進まないでいる。とにかく書くことは手間が掛かり、それを考えながら書くだけで一日が終わってしまう。結構労力がいる。


7月15日 土曜日

 晴れ。

 さつきの消毒をする。


by office_kmoto | 2017-07-16 06:40 | 日々を思う | Trackback | Comments(0)

佐伯 一麦 著『マイシーズンズ』

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 草木染の染色家である早紀は次に作りたい作品を、川の中の小石や葉っぱを染めで表現し、その水の流れを透き通って見える感じにしたい、と友人夫婦である陶芸家に話す。それを聞いた友人夫婦はそんな似たようなイメージを美術館の展覧会見たことがあると言う。さっそく早紀はその展覧会で展示された作品のことを調べ、ノルウェーのテキスタイルデザイナーであるビヨルグ・アブラハムセンと知る。
 早紀はビヨルグ・アブラハムセンに作品の情報を知りたいと手紙を書く。しかしその手紙は夫のヘルゲの手紙と一緒に戻ってきた。手紙にはビヨルグが1992年2月に亡くなったことが書かれていた。ただ手紙には、

 私は改めて、もう一度、あなたの用件を聞きたいと思う。そして、もし彼女の専門的な仕事について知りたいことがあるなら、私に手伝えることがあれば幸いである。

 と書かれていた。
 <僕>と早紀はノルウェーに向かい、ビヨルグの夫であるヘルゲと会う。そしてビヨルグの作品の「サマー・ウィンド」を見る。
 ところでテキスタイルデザイナーとは、服飾またはインテリア(乗物の内装を含む)用途のテキスタイル=ファブリック(布地・織物)をデザインするデザイナーのこと。 染織全般においての専門家とされ、染織家とも呼ばれる。 糸選び、配色、図柄、加工方法、質感等、加工前の素材布において「織り」と「染め」の幅広い範囲に及ぶ意匠を行う。 (ウィキペディア)
 テキスタイル(textile)とは織物、布地のことである。
 そしてビヨルグ・アブラハムセンの作風は次のように文中で説明される。

 あなたが世界で初めて創始したトランスペアレント・エンブロイダリーという技法は、寒冷紗という。日本では造花や人形衣装などに用いられる素材をベースに、綿の代わりに絹を使用した、より光沢のあるシルクオーガンジーなどの薄手の透けて見える布をアプリケして刺繍するものですね。そうして、窓の前に掛けたり、透過する壁として空間の中に仕切りとして使い鑑賞する、まさに「布のステンドグラス」というにふさわしい作品です。

 男である私にはこの手の作品は想像しにくいところがある。本文の途中にビヨルグ・アブラハムセンの作品の写真があるのだが、色具合はわかるものの、イメージがしにくい。まあ、この説明のようなものだということだ。つまり薄い布から自然光を採り入れて、作品のイメージがそれによって様々な様相を呈するらしい。だから<僕>は季節で変わるだろう「サマー・ウィンド」を見てみたい、と思うようになる。そしてそのことをビヨルグ宛ての手紙の形で書こうとする。

 費用をどうやって調達するのか目算も立たず、無謀なことは承知の上で、なんとしてでも、最低、春、夏、秋、そして冬、の四回はノルウェーを訪れて、あなたの作品と、それに色濃い影響を与えているらしい自然に触れてみよう、と決心しました。そしてその末に、単なる旅行に終わらせずに、折々の経験を心に留めるために、
 「そうだ、そのことを、あなた宛てて手紙を書こう。そしていつか、それを自分の仕事として物語にまとめよう」
 と思い付きました。
 もう死んでしまっているあなたに手紙を書くなんて、馬鹿げているだろうか?

 佐伯さんが書く、小説家である夫と草木染作家の妻の話は、その主人公たちの名前を変えるが、ひとつながりである。おそらく彼らは佐伯さん夫婦のことなのだろう。そして妻の草木染作家がノルウェーに留学し、夫がそれに付き添う。
 今回はビヨルグ・アブラハムセンの作品つながりで、ノルウェーのテキスタイルを教えている人と出会うことで物語が続く。
 ところでこの「サマー・ウィンド」の鮮やかな色はムンクの叫びにある背景の色とよく似ていると思った。実際にノルウェーの空はあんな色をするときがあるらしい。

佐伯 一麦 著『マイシーズンズ』 幻冬舎(2001/04発売)


by office_kmoto | 2017-07-15 06:00 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

佐伯 一麦著 『空にみずうみ』

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 この本は先に読んだ『還れぬ家』の続編となる。それを読んだものだからまた読みたくなった。
 『還れぬ家』では東日本大震災が起こって、その模様を描いて終わるが、この本は「あの日」から4年経った早瀬光二と柚子のその後が描かれる。
 4年経っても、さりげなく描かれる日常の中でも、あれから4年経ったことが行間から浮かび上がるが、それはいまだに人々の中に大きな“しこり”としてある。4年経ってもまだ、という思いがしてくる。それは声を大きく出して訴えるよりも、描かれる早瀬と柚子の日常がさりげないものだけに、読んでいる者にしみじみと考えさせられる。

 ここのところ(今年の2月のこと)天気がいいので、仏間の障子を大きく開けて、太陽の光をいっぱい部屋に取り込んで、そこで本を読んでいる。窓からは隣の雑木林が見え、狭い庭も眺められる。
 早瀬と柚子たちが感じる自分たちの周りにある自然が描かれるとき、自分も本を置いて外を眺めてしまう。なんとなく彼らの草木や動植物を見る目がそんなことをさせる。
 まだ春にはもう少し時間がかかりそうだけれど、それでも確かに春を予感させる気配が雑木林にも庭にも見てとれ、なんかゆったりとした時間を感じながらこの本を読んだ。

 彼らの庭にもクロアゲハが飛んでくるところがある。彼らはそのクロアゲハは亡くなった早瀬の父親のように思える。そんなところを読むと、わが庭にもつつじやさつきが咲く頃、よくクロアゲハが飛んでくる。つつじとさつきは亡くなった義父が残していったものだから、我が家に来るクロアゲハも義父なのかもしれない、と思った。いつもつつじやさつきが咲く頃飛んでくる。
 食べ物の話もよく出てくる。それぞれの食べ物には季節感がある。懐かしい思い出がある。亡くなった人が作ってくれた美味しい食べ物など思い出し、もうあの味は味わえないんだ、と思う早瀬の気持ちが、ふと自分にもそんな食べ物があることを思い出せる。母の作ったものすごく塩辛い塩昆布、甘辛いいなり寿司、残ったご飯を焼きおにぎりしてくれたあの香ばしい醤油の匂いなど、もう一度食べたくても食べられない。

 図書館でこの本を借りた時気づかなかったのだが、この本の表紙のカバーはこの物語に出て来る生き物たちであった。佐伯さんの本の装丁も好きで、何冊か並んだ本棚をいつも眺めてしまう。
 そう言えばここにある蛇の話も面白かった。
 早瀬の庭に蛇が出た。“ニョロQ”と名づけられたが、早瀬は蛇が苦手だ。しかし庭にじっとしている蛇は気になる、という話である。これよくわかる。
 我が家の庭にも1年に一回は蛇が出る。隣が雑木林なのでそこから来たものと思われるが、私も苦手なので、早くお帰りになるのを待っている。でも気になって仕方がなく、ヘビの行き先を眺めていた。蛇はどこか人を気にさせるところがある。

 それと書き忘れたことがある。この小説には「怒り」がほとんどないことである。怒りがないことはそれだけ読んでいる方も、心穏やかに読めるものなのだ、と知る。
 怒りは時に生きる原動力にもなるだろうが、一方で間違いなく傷を残す。怒りを原動力して生きている物語は今はとても疲れる。そして残った傷を癒やそうとする物語はなんとか受け容れられるが、やはり読んだ後、受容した分、妙な高揚感や「よく頑張った」感があとでのしかかってくる。それが尾を引き、時に息苦しいことにもなる。だからこれらの負担を感じさせない、さりげない日常描写は素直に同化でき、まるで自分も早瀬や柚子たちのそばで暮らしているような気持ちになれる。

 佐伯 一麦著 『空にみずうみ』中央公論新社 (2015/09発売)


by office_kmoto | 2017-07-12 05:41 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

上原 善広 著 『発掘狂騒史―「岩宿」から「神の手」まで』

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 この本はあの旧石器捏造の藤村新一がどうして出てきたか、その経緯を岩宿遺跡発見の相沢忠洋から解き明かしている。
 以前藤村新一の捏造事件そのものを取材した毎日新聞社が書いた本を読んでいる。確かそこには藤村がどのように捏造事件を起こし、それを曝いた過程が書かれていた。この本はその藤村を生むことになってしまった日本の考古学界の土壌からそれを解きあかしている。
 まずは日本に旧石器時代があったことを証明した岩宿遺蹟を発見した相沢忠洋から物語は始まる。
 1949年(昭和24年)7月、群馬県笠懸村稲荷山切通の坂を、復員服を着た若い男一人、自転車で上がっていた。坂を上り終えた辺りで、男は自転車を止め崖面を見つめた。そこで男は尖った石斧を見つける。いわゆる「槍先形尖頭器」と後年呼ばれるものである。男は相沢忠洋という。
 この石器が出た地層は関東ローム層と呼ばれる。主に富士山の噴火によって積もった火山灰である。この頃の日本は火山活動が活発で、関東ローム層には他にも鹿児島県桜島一帯で起こった姶良大噴火により噴き上げられた火山灰も含まれている。これら一連噴火によって、約一万年以上前の日本列島は、関東以西にかけて一面火山灰に覆われ、寒冷化が進み、草木も生えず、動物も人も生きていけない「死の世界」だったと考えられていた。だから当時発掘調査で関東ローム層が出てくると「ここからは何も出てこないから」といって埋め戻されていた。
 そんな「死の世界」といわれていた関東ローム層から相沢は旧石器時代の石器を見つけたのである。
 相沢はその見つけた石器を明治大学の学生でありながら新進気鋭の考古学研究者として知られていた芹沢長介に見せる。
 当時の明治大学には登呂遺跡調査主任になっていた杉原荘介助教授がいて、芹沢は相沢とともにその石器を杉原に見せる。そして杉原主導で世紀の発掘が始まったのである。

 「出たぞー、石器が出たぞッ」
 皆が驚いて杉原の元に集まってきた。
 杉原の手には青っぽい石器が握られていた。楕円形のハンドアックス(握斧)と呼ばれているもので、手のひらよりも一回り小さい。木の柄に縛りつけて使う縄文時代の石斧ではなく、手に持って振りおろして使う、より原始的な形をした石斧である。

 しかしこの発見が世紀の発見であるかどうかは、もっと大規模な発掘を待たなければならない。杉原が握斧を発見したからといってそれはすぐ日本に旧石器時代があったという証明にはならないのである。

 岩宿遺跡をさらに発掘しなければならないのはもちろん、さらに他の地域の同じ年代の地層からも、同じような石器が出てくる必要があった。
 これは数理や科学などと同じで、たとえばある学者が一つの発見をしたとき、世界中の研究機関で“追試”が行われる。そこで同じ結果が出て、初めてその発見が本物であることが証明され、発見者は称賛される。つまり岩宿以外からも旧石器が発見されなければ、旧石器時代の存在を完全に証明したことにならないのである。

 これは問題となったSTAP細胞の存在の有無でも同じであった。STAP細胞が他の科学者が作れないかったから、その存在が否定された。
 岩宿で発見された旧石器時代の石器は他の地域でも見つけられ、日本に旧石器時代があることを考古学界は認めざるを得なくなる。
 しかしここで「この発見は相澤忠洋のものなのか、それとも杉原荘介のものなのか」という問題が起こる。学界では岩宿遺跡の石器発見は相沢忠洋ではなく、杉原荘介となっていた。何故なら相沢にはその学問的権威がなく、単なる「地元アマチュア考古学者」だったからで、その石器を学術的に証明したのは杉原であった。しかも杉原の論文には相澤のことを単なる「斡旋者」としか書かれていない。
 相澤は杉原が岩宿の発見を自分のものにしようとしているとして杉原の批判を始めることとなる。杉原だけでなく明治大学も目の敵にした。
 また相沢から石器の話を最初に持ちかけられたのは芹沢も明大講師となっていたが、杉原を批判的に見ていた。もともと杉原と芹沢と水と油で、性格もまったく違うタイプであった。

 やはり「岩宿の発見」を盗られたと思ったのは相澤ではなく、芹沢の方だったと考えるのは妥当であろう。相澤の持ち込んだ石器を「これは新しい発見だ」と初めて認めたのは、何より芹沢だったからだ。

 こうして芹沢と杉原の確執が強まり、芹沢は明治大学を去り、東北大学に移る。そして芹沢は、

 芹沢は、明大を去る前から、すでに新しい研究テーマに取り組んでいた。
 芹沢は約三万年前に当たる「岩宿の発見」から、さらに数万年前遡る、日本考古学の究極のテーマである「前期旧石器」の存在に焦点を当てる。前期旧石器時代の存在を証明することを、芹沢はこの東北、仙台から始めようと考えていた。

 前期旧石器とは、もはやホモ・サピエンスの文化ではなく、原人の文化となる。日本人だけでなく人類全体のルーツに繋がる壮大なテーマであった。著者は芹沢が目指したのはもはや「神の領域」に入った考え方だと書く。
 東北大に移った芹沢は明大の杉原の対抗姿勢を強め、このテーマのために門下生、アマチュア考古学研究者を次々と登用しながら猛烈な発掘調査を始めていく。このことから藤村新一を生んでしまう土壌が準備されることなり、あの捏造騒動の幕をあげることになっていく。
 ところで考古学には独特の特色がある。

 考古学という学問の特色は、このように学歴のない者や、違う仕事につきながら考古学に関わっている在野の研究者が多いことだ。
 一つの分野を専門とするには、最低でも大学を出ているのが条件だが、考古学は発掘作業をともなうため、民間の協力を要請することが多い。また戦中には皇国史観のために研究が進まなかったことから、戦後になって爆発的な人気を呼んだ比較的新しい分野の学問が、考古学であった。大学に通って考古学を専攻できなかった学究心旺盛だが貧しい少年たちは、自分でスコップを持って発掘に参加していった。

 こうした「学究心旺盛だが貧しい少年たち」を考古学ボーイと呼ぶ。

 当時、空襲で焼け野原になった東京では、基礎工事をするたびに土器片や石器が出土していた。それらは土砂と共に捨てられるか、一部好事家の収集物になるしかなかった。現在では「盗掘」として法律で罰せられるが、当時はそのような考え自体がないため掘り放題で、農家でも開墾するたびに、あちこちから土器や石器が出土していた。
 だから自分一人で掘る分には、いや掘らなくても、畑や工事現場を注意深く監察していれば土器片や石器を採集することができた。もう少し本格的に見つけたいと思ったら、スコップ一つあるだけで金もかからない。その探究心ある少年たちは、日本各地で土器片を発掘していき、少年たちは後に「考古学ボーイ」と呼ばれるようになる。

 芹沢も戦前までは考古学ボーイの一人であった。そして彼らにとって相澤忠洋はまさに羨望の的であった。なにせ行商をしながら日本に旧石器時代があったことを証明したのだから。事実藤村新一は相澤の言動をそのままコピーの如く真似をする。
 著者は考古学という学問は「博打」的要素が強く、その分学問的裏地の少ないアマチュアが参加しやすい、と書く。

 それにしても、そもそも考古学の発見自体は、しょせん「博打」じみたものなのかもしれない。
 まず見当をつけてある地点を発掘することから始まるのだが、古代人ならここで暮らすのではないかという地形、風土から導き出した推測、そして実際の発掘によって裏付けられた経験則が重要となる。しかし、そうはいっても、どのみちそれが「勘」に頼ったものであることには違いない。
 作家松本清張は、直良信夫を描いた「石の骨」にこう記している。
 -いわば偶然の累積を基礎に学問をすすめていく考古学をすすめていく考古学者は、常に賭をしているようなものだ。偶然を拾いそこねた連中は、相手の賭の勝をなかなか承引しようとしないのだ-(「石の骨」『或る「小倉日記」伝』新潮文庫)

 学問的裏地のないということは、逆に学者にとって利用しやすい。彼らの発見を、学者という立場を利用しながら自分のものに出来る。杉原が相澤の発見を利用したことでそのことがわかる。芹沢はアマチュア考古学研究者を次々と持ち上げたことは確かだが、一方で自分の立場が変わってくれば、同じように彼らを利用し、それを自分のものとしてしまった。それを「搾取」と言ったりする。
 さて、杉原から離れ、東北大に移った芹沢は前期旧石器の石器らしきものを発見した。「らしき」と書いたのは、それが自然礫なのか人工物なのか見分けがつかないところがあるからだ。
 後期旧石器時代の石器の特徴は繊細で高度な技術が必要とされる。このような石器を作れるのは現代人と同じ容量の脳を持つ、ホモ・サピエンスしかあり得ない。ところが前期旧石器になると、石器を作ったのが原人レベルなので、そこまで器用でない。石材を選ぶ知能もない。だから旧石器時代と思われる石器がそれが石器なのか、自然礫なのか見分けにくいのだ。見る者によってそれが石器にもなり、自然礫にもなる。この曖昧さが捏造を生む。
 「層位は形式に優先する」と言った芹沢は石器らしきものが出土する地層から、その石器が前期旧石器時代のものだ、と決めていく。地層が前期旧石器時代であれば、そこに石器があれば、前期旧石器とされた。ここに目をつけたのが藤村新一であった。藤村は前日に前期旧石器時代の地層に自分持って来た石器を埋め込み、翌日さもそこに埋まっていたかのように発掘していった。
 しかし藤村は調子に乗った。何度もこれを繰り返す。一時は「神の手」などと称されたが、藤村が来れば必ず石器が見つかるのはおかしい、と疑いが出てきて、それが捏造だと曝かれたのであった。
 結局考古学界は学者と学閥の意地の張り合いと、彼らがアマチュア考古学研究者を自分に都合のいいような利用するという構図の中で、自己顕示欲の強い藤村新一という人間が出てきた、かき回されたことになる。

 藤村は捏造発覚から一年後、精神科に入院中二〇〇一年(平成一三年)一二月、罪の意識から右手の人差し指と中指を、自ら切断している。

上原 善広 著 『発掘狂騒史―「岩宿」から「神の手」まで』 新潮社(2017/02発売)新潮文庫


by office_kmoto | 2017-07-09 18:19 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

佐伯 一麦 著『還れぬ家』

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これも以前図書館で借りて読んでいる。今度は自分の本で読んでみる。
 光二は10代で家を出て、結婚、離婚とし、そして柚子と再婚する。二人は光二の実家のある宮城県のマンションで暮らし始める。

 私が、少し不便さに目をつぶってでもこの山に住んでいるのは、そうした子供の頃のよい記憶がある土地だということが大きかった、十八歳のときに飛び出した故郷に、やむなく三十を過ぎてから戻ることなり、その風景とはどうにか和解できるようになったが、人との和解はまだ難しい、と私は思っていた。

 実家は姉も兄も家を出ており、それ以後兄弟たちは実家にはあまり寄りつかなかった。

 ともかく、あの家には、子供たちは誰も還ろうとしない。

 そんな光二と柚子が実家の近くで暮らしている時、光二の父親が認知症と診断された。光二たちは嫌が上でも父親と父親を介護する母親と関わらなければならなくなっていく。その介護の日常がこと細かに描かれると同時に、寄りつかなかった実家に上がることで、子供頃のことをいろいろ思い出す。それもこの物語に細かく書かれていく。
 父親の記憶がなくなっていく一方、心配で実家に帰る光二は逆に子供の頃を思い出す奇妙な逆転現象がここに描かれるのである。
 とにかく介護の模様は細かい。父親が飲む薬の名前など正確に書くことで、その逃げようのない現実をさらにリアルに描く。たぶん佐伯さんの父親のことを書いているのだろうが、私小説はここまで書かないとならないのか、とさえ思ってしまう。
 面白いのは佐伯さんの分身である作家である光二が物語の中で、父の認知症そして介護のことを書こうとなっていることである。
 そんな父親の介護に明け暮れる家族の日常を描く中で、父親の病状の記述が追いつく前に、東日本大震災が起こる。ここで時間のズレが生じる。どうしても震災のことを先に書きたいために、時間のズレを調整する必要が出てきて、震災が起こったとき父親はもう死んでいることになってしまうのである。
 結局光二たちが還れなかった家は、父親も還れなかった。
 物語は「早瀬光二の手記」で終わるのだが、そこに次のようなことが書かれる。

 家に還れない個人的な思いをずっと綴ってきた私にとって、外からの力(震災のこと)によって家へ戻ることが有無を言わさず不可能になった者たちの姿を前にすると、我が身のことだけにかまけてきたように自省させられるものがありました。

 佐伯さんはどうしても震災の模様も描かなければならない、として時間の調整をした。そのことは“諸刃の剣”であったのではないか、と思われる。
 つまりこれまで微細わたりに自分が実家に帰れない心情を、そして家の事情を綴ってきた。それこそ全ページのほとんど使って。しかし東日本大震災のことをここに描いてしまうと、被害にあって家に還れない人たちをどうしても描かなければならない。そのことは必然的にこの物語のバランスを崩してしまう。重さが違い過ぎる。だから「早瀬光二の手記」でこのように書くことで辛うじて持ちこたえることが出来たような気がする。それでなんとか物語を破綻させずに済んだ。そう思えてならない。

 佐伯 一麦 著『還れぬ家』(新潮社 2015/11発売) 新潮文庫


by office_kmoto | 2017-07-07 05:38 | 本を思う | Trackback | Comments(0)

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